2017年09月15日号
次回10月2日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

キュンチョメ個展「暗闇でこんにちは」

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会期:2016/08/27~2016/09/24

駒込倉庫 Komagome SOKO[東京都]

キュンチョメの新作展。2階建ての倉庫をリノベーションした会場の1階のフロアをすべて使用して展示を構成した。出品された作品の大半は、トーキョーワンダーサイト本郷で催された「リターン・トゥ」(2016年4月16日~5月29日)などですでに発表されたものだったが、それでも質の面でも量の面でも充実した展観だった。
《ここで作る新しい顔》は、《新しい顔》をバージョンアップしたもの。後者は、はるか遠い場所から逃れてきた難民と新しい場所で、福笑いのように新しい顔をつくる映像作品だが、前者は実際に東京に在住する難民を会場に常駐させ、来場者とともに目隠しをしながら新しい顔をつくるライブ・パフォーマンス作品である。来場者は、おのずと生々しいリアリティーとともに難民問題に直面することを余儀なくされるのである。
なかでもひときわ強い印象を残したのが、新作の映像作品《星達は夜明けを目指す》(2016)。暗闇のなか星座のような明かりが見えるが、それらが小さく揺れ動きながらだんだん近づいて来ると、7人の男女が二人三脚の状態で横一列になってこちらに進んでいることがわかる。彼らはロンドンで暮らす移民や難民で、口にそれぞれライトを咥えている。言葉を発することがないまま、目前の明かりを頼りに足並みをそろえて前進する姿。むろん彼らの逃避行をそのまま再現したものではないにせよ、その脱出と流浪の軌跡を象徴的に示したパフォーマンスと言えるだろう。
以上の3つの作品はいずれも移民問題を主題にしているが、ここに通底しているのは向こうからこちらにやってくるというイメージである。《星達は夜明けを目指す》は言うまでもないが、《新しい顔》にしても《ここで作る新しい顔》にしても、いずれも難民問題が決して遠い向こうの国の出来事だけではなく、まさしくこの国とも無縁ではないことを端的に示している。難民は向こうからやってくるものなのだ。
だが、このイメージは実はキュンチョメのこれまでの作品には見られない新たな局面を示しているようにも思う。なぜなら、彼らの秀逸な作品はいずれも、こちらから向こうに出かけていくイメージが強かったからだ。福島の問題にせよ富士の樹海における自殺問題にせよ、彼らは生々しいリアリティーのありかを求めて率先して各地に出かけてゆき、そこで何かしらの作品を表現してきた。むろん以上の3作品も海外へのレジデンスが基盤となっていることに違いはない。けれども、そのようにして制作された作品だとしても、そこにこれまでとは正反対のイメージが立ち現われていることの意味は決して小さくないはずだ。
それは、おそらくこちらとあちらの双方向的なコミュニケーションなどを指しているわけではない。そうではなく、むしろこちらが待ち構えることの意味を彼らが重視していることの現われではないか。待ち構えるからこそ、向こうからやってくるものに遭遇し、それらを受け入れることができる。《星達は夜明けを目指す》で彼らがカメラを通過する瞬間のぞくぞくした感覚こそ、待ち構える態度の醍醐味である。

2016/09/15(木)(福住廉)

あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術

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会期:2016/07/29~2016/09/11

京都国立近代美術館[京都府]

アンフォルメルとは、フランス人の美術評論家、ミシェル・タピエ(1909-1987)が構想した美的概念で、明確な輪郭を持たない形態や色面のなかで、作者自身による身体行為の痕跡や素材の生々しい物質感を前面化させた絵画や彫刻などを指している。日本には1950年代後半に導入され、岡本太郎や今井俊満が携わった「世界・今日の美術展」(日本橋高島屋、1956)を大きな契機として、爆発的に流行した。本展は、いわゆる「アンフォルメル旋風」が、油画や彫刻はもちろん、日本画、陶芸、生け花といった各種の芸術諸ジャンルに及んだ軌跡を検証したもの。九州派など一部の作品が展示されていなかったものの、それでも約100点に及ぶ作品が立ち並んだ展観は見応えがあった。
具体、九州派、そして反芸術──。戦後美術史の主脈を構成する運動や様式の出発点のひとつにアンフォルメルがあったことは、よく知られている。だが本展は、そのような主脈に位置づけられる荒川修作や工藤哲巳、高松次郎、田中敦子、中西夏之といった美術家だけでなく、麻生三郎、斎藤義重、末松正樹、鶴岡政男、難波田龍起、宮脇愛子、向井修二、村井正誠といった多様な美術家による作品も併せて展示することで、それが特定の運動体や表現形式にとどまらないほど大きな衝撃だったことを示していた。それは、まさしく日本の戦後美術全体を煽り立てた「旋風」だったのである。
本展の醍醐味は、その余波を克明に跡づけただけでなく、その前史として書との親和性を明快に打ち出した点にある。余白をあえて残した画面のなかに躍動感あふれる線の運動性を展開すること。確かに井上有一や森田子龍らの豪胆な書のあとで、白髪一雄や嶋本昭三、あるいは篠原有司男の《ボクシング・ペインティング》などを見ると、双方のあいだの強い連続性を痛感せざるをえない。線の強弱や色彩の有無は別として、いずれも激しい身体行為の痕跡を伺わせるからだ。「熱い抽象」あるいは「激情の対決」という言葉に示されているように、その荒々しいマチエールに作家の内発的な情感を見出すことも容易い。
企画者によれば、ミシェル・タピエはアンフォルメルを「あらゆる思想や形態の可能性をはらんだ混沌とした未分化な状態」として考えていたという(本展図録、p.6)。それゆえ、それは通常「非定形」ないし「不定形」と訳されることが多いが、そのようなタピエの狙いを踏まえるならば、むしろ「未定形」という言葉がふさわしい。そのような、ある種の原始性への志向性がアンフォルメルに内蔵されていることは、例えばジャン・デビュッフェが傍証となるに違いない。よく知られているように、タピエはデビュッフェをアンフォルメルの重要な美術家として評価したが、当のデビュッフェ自身はむしろアール・ブリュットを提唱し、タピエと異なるかたちで、西洋近代的な芸術概念とは「別の芸術」を構想したのだった。
しかし、その一方で改めて思い知らされたのは、「アンフォルメル」として括られたさまざまな作品の多くが、とりわけ絵画に限って言えば、明確な絵画意識によって構成されているという厳然たる事実である。ジョルジュ・マチューの《無題》(1957)は暗い背景に赤と白と黄と黒の線を勢いよくほとばしらせた絵画だが、それらの線がスピード感あふれる運動性を感じさせることは事実だとしても、画面のなかに配置された線の重層性は非常に調和されており、絵画としての美しさが保たれていることは否定できない。横山操の《塔》にしても、縦長の画面を貫く黒く太い線がきわめて暴力的な印象を与えつつも、それがかえって画面全体の統一感を担保している。その他の作品についても、作家の内発的な激情を看取できないわけではないが、それ以上に伝わってくるのは、見た目の激しさとは裏腹に、画面を精緻に構築する冷静な美意識である。つまり「別の芸術」と言えども、アンフォルメルは既存の芸術概念を根底から塗り替えたわけではなく、「別の芸術」という新たな意匠にすぎなかったのではないかという思いを禁じえない。
むろんアンフォルメルを戦後美術史を構成する重要な契機として歴史化するのであれば、それもよかろう。けれどもアンフォルメルの可能性の中心は、そのような歴史観を補強する点にではなく、むしろ根本から転覆しうる点にあったのではないか。結果的にその再生産に寄与することになったとしても、初発の動機には歴史を粉砕するほどの批評性が内蔵されていたに違いない。であれば本展に必要だったのは、例えば街中に描きつけられているグラフィティをアンフォルメルの今日的な展開として位置づけるような視点ではなかろうか。グラフィティには、かねてから線の運動性を重視する美意識が働いているし、昨今のグラフィティはスプレーやステンシルといった従来の画材や技法に加えて、粘着性の塗料や半立体の造形に挑戦しながらマチエールの前面化に取り組んでいるからだ。アンフォルメルは「あの時」に終わったわけではない。それはいまや、既存の「美術」を超えて、路上や巷にあふれ出ているのである。

2016/09/10(土)(福住廉)

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大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで

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会期:2016/07/05~2016/08/28

江戸東京博物館[東京都]

妖怪についての展覧会。過去最大級とも言われる128点の作品が一挙に展示された。副題に示されているように、縄文時代の土偶から地獄絵、絵巻物、浮世絵、そして妖怪ウォッチまで、妖怪表現のルーツを体系的に見せた展観である。国宝の《辟邪絵神虫》をはじめ、重要文化財の《百鬼夜行絵巻》、《土蜘蛛草紙絵巻》など、見どころも多い(大阪のあべのハルカス美術館で11月6日まで開催)。
土蜘蛛、骸骨、天狗──。妖怪とは「日本人が古くから抱いてきた、異界への恐れや不安感、また“身近なもの”を慈しむ心が造形化されたもの」である。つまり、どれだけ異形だったとしても、そこには現世とは異なる世界への両義的な感情が託されているわけだ。事実、極端にデフォルメされた妖怪たちのイメージを見ていると、確かに恐ろしい形相に違いはないが、なかには間抜けでユーモラスな印象を残すものも多い。非人間的なイメージでありながら、きわめて人間的な佇まいを感じさせるのだ。おそらく妖怪とは、人間の情動を歪なかたちで写し出した鏡像だったのではないか。
そのようなかたちで人間を表出させる文化装置は、明治以降、急速に社会の前面から撤退してゆく。科学技術とともに人間中心主義的な世界観が大々的に輸入された反面、妖怪は「非科学的」という烙印とともに姿を消していったのである。だが妖怪たちは完全に死滅したわけではなかった。よく知られているように、(本展には含まれていなかったが)漫画家の水木しげるは有象無象の妖怪たちが棲む世界をマンガのなかに構築したが、その手かがりとしたのが本展にも出品されていた烏山石燕である。私たちが今日知る妖怪の典型的なイメージは、烏山石燕による《画図百鬼夜行》などに着想を得た水木しげるのマンガに由来していると言っていいだろう。
しかし、だからこそ本展における《妖怪ウォッチ》に大きな違和感を覚えたことは否定できない事実である。それは、端的に烏山石燕から水木しげるへ受け継がれた系譜とは、まったく無関係に展示されていたからだ。《妖怪ウォッチ》が悪いわけではないが、「大妖怪展」という大風呂敷を広げたのであれば、妖怪のイメージ史に《妖怪ウォッチ》がどのように位置づけられるのかという視点が必要不可欠だったのではないか。例えば先ごろ國學院大學博物館で催された「アイドル展」も、展示の大半は偶像資料だったにもかかわらず、展示の冒頭で現在のアイドルを紹介していたが、その接合の厳密性については、あまりにも配慮が足りなかったと言わざるをえない。言うまでもなく、客寄せ効果を期待できる大衆迎合主義という謗りを免れるには、厳密で精緻な学術性が展示に担保されていなければならない。

2016/08/26(金)(福住廉)

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鴻池朋子展「根源的暴力vol.2 あたらしいほね」

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会期:2016/07/09~2016/08/28

群馬県立近代美術館[群馬県]

この夏、中国は重慶に長期間滞在した。重慶市は北京や上海と並ぶ直轄市のひとつで、中国内陸部における重要な経済拠点である。長江と嘉陵江が合流する盆地は起伏が激しく、急な斜面におびただしい超高層ビルが立ち並んでいるため、東京以上に立体的で重層的な都市風景が広がっている。街中には仰々しい高級外車と簡素な三輪自動車がめまぐるしく行き交っており、貧富の差が歴然としている感は否めない。けれどもその一方で、まるまるとした腹を出した中年男性が煙草を吹かしながら路上を堂々と闊歩したり、大勢の高齢者たちが夜な夜な広場で大音量の音楽にあわせてみんなで踊ったり、重慶の街には人の熱気というよりむしろ生きることの肯定感が強烈に立ちこめていた。言い換えれば、社会主義国であるにもかかわらず、彼らは自由に生きており、その生き様が幸福に満ちあふれているように見えたのだ。それは帰国した後、管理と自主規制が常態化した息苦しい東京から振り返ったとき、ありありと浮き彫りになった偽ざる実感である。いったいどちらが資本主義国でどちらが社会主義国なのか、しばらく考えあぐねてしまったほどだ。
とりわけ印象深かったのが、車道における歩行者の横断である。車道はあくまでも自動車の専有道路として認識されている日本とは対照的に、重慶では歩行者が車道を平気で横断する。むろん横断歩道や信号が機能していないわけではないが、それらとはまったく無関係に、まるで空いている場所を埋めるかのように、歩行者が自動車の往来を見計らいながら自由に車道を横切って行くのだ。しかも、それは一部の無法者による逸脱行為などではなく、老いも若きも、あらゆる人々が普通にそうしているのであり、さらに言えば、歩行者のみならずドライバーにも共有されている、社会一般の暗黙の了解であるようだ。
文化的な習慣の相違と言えば、そうなのかもしれない。だが、あえて深読みすれば、ここには土地をめぐる認識の根本的な相違、つまりは世界観の大きなちがいが現われているような気がしてならない。国家の体制がどうあれ、人はみな土地の上でものを考えながら日々の日常を生きている以上、思想と土地は分かちがたく結びつけられていると考えられるからだ。
周知のように、中国は社会主義国であるから土地の私有は認められていない。所有権は国が持ち、国民には使用権が与えられるにすぎない。日本でしばしば問題化されるジェントリフィケーションによる強制退去がほとんど問題にならないほど、中国では人の退去や移動、あるいは共同体の解体と再構築が頻繁に行なわれているのだ。事実、重慶の街を歩いてみても、古い街並みを丸ごと高層住宅街につくり変えている工事現場をいくつも目撃した。
それゆえ郷土愛にしても、ないわけではないが、その質は日本のそれとはかなり異なっているようだ。中国人の友人によれば、日本のように先祖代々受け継がれてきた土地を守るという使命感は、中国ではほとんど見受けられないという。先祖が暮らしていた土地と同じ場所で生きている人はきわめて稀だからだ。つまり土地に対して、よく言えば執着心がなく、悪く言えば責任感がない。言い換えれば、私の所有物ではないが、同時に、あなたの所有物でもない。そのような割り切った土地への意識が、おそらく車道を自由に歩行する身ぶりにつながっているのではないか。すなわち車道といえども、車のものではないし、私のものでもない。しかしだからこそ、空いていれば、そこは誰であれ公平に使用しうるのだと。
むろん、これは想像的な推察にすぎない。中国人の当事者からは異論が出るかもしれない。だが重慶の街並みで感じた快適で自由な雰囲気は、このような土地意識の反映ではなかろうか。歩道や広場、電車といった公共空間で中国の人々は誰もが他者への無関心を貫いている。いや、「無関心を貫く」というより、そもそも「関心がない」と言うべきか。たとえ私のような外国人が紛れていたとしても、基本的には無視されるし、一瞥されることはあっても、それ以上は何もない。個々人がそれぞれの自由を勝手に追究しているのだ。むろん国家権力による統制がないわけではないが、少なくとも市井の人々の水準で言えば、その放っておかれる雰囲気がたまらなく心地よいのだ。こうした、いわば社会主義国における徹底した個人主義は、自由社会を謳いながらも、その実たえず周囲の人々の言動に眼を光らせている日本の不自由な公共空間のありようとは、きわめて対照的だった。土地や公共空間の意味が、ことほど左様に異なることを、まざまざと実感したのである。
鴻池朋子による本展は、昨年、神奈川県民ホールギャラリーで催された展覧会の巡回展である。だが基本的な構成は踏襲しながらも、最近制作された新作もあわせて含まれているため、たんなる巡回展というより、むしろ制作しながら生きている鴻池朋子の同時代的な時間性をそのまま凝縮した現在進行形の展覧会と言うべきかもしれない。事実、全長24メートルにも及ぶ大作《皮緞帳》は新たに加筆されたうえで展示され、前回の展示には含まれていなかった版画作品なども新たに展示された。「もはやおなじものではいられない」という鴻池自身の言葉を体現したような展観であった。
この言葉には、はたしてどんな意味が含まれているのか。「全国の美術館を渡り歩きながら庶民とはかけ離れた「現代美術」を再生産するアーティストのありようが打ち棄てられているのか。あるいは、震災によって決定的な断絶を経験したにもかかわらず、その裂け目を直視することから逃避し続けている私たち自身の自己保身が撃たれているのか。いずれにせよ、この世界を構成する生命体が有機的に接合したイメージを全身で体感すればするほど、ある種の大きな切断面が心の奥底に広がるのである」。前回の「根源的暴力」展について、こう書いた。基本的な評価は変わらない。根源的暴力とは、来場者をその切断面や裂け目に直面させることを意味していると解釈する点も同じだ。けれども牛皮を縫合したポンチョの作品だけは、印象がかなり異なっていた。
前回、彼らは会場の一角にうずくまるようにして設置されていた。いずれも中身が黒いマネキンであるため、その空虚を埋める新たな身体──すなわち、「あたらしいほね」──が要請されているように見えた。「もはやおなじではいられない」のだとすれば、ではどんな身体がふさわしいのか。来場者の想像力はポンチョに収める身体のありようをめぐってどこまでも広がったのである。しかし今回の展覧会では、彼らは会場の中にも設置されていたが、大半は会場入口前のロビーにまとめて展示されていた。注目したいのは、ひな壇状に立ち並んでいたせいか、彼らを見上げると、私のもとから立ち去っていくように見えたことだ。私たちが追いつくのを待っているのかもしれないが、みな背を向けているため、いまにもこの場から飛び立ってしまうかのようだ。この違いは決して小さくない。
去りゆく彼らと残される私たち──。その非対称性を思い知ったとき、急激に浮上してきたのが土地だった。むろん美術館であるから土地そのものが剥き出しになっているわけではない。けれどもいまにも飛翔せんばかりのポンチョたちを見上げていると、逆説的に、自分たちが依って立つ土地のありかに思いを巡らせることになったのだ。向こう側の世界に消え去ってしまうかのような彼らのイメージが、こちら側の世界で生きる私たちの足元を逆照したと言ってもいい。「もはやおなじものではいられない」のだとすれば、「あたらしいほね」が必要だろう。だがそのとき、土地はどんな土地がふさわしいのか。私たちはどんな土地に立つことができるのだろう。自由や幸福はどんな土地で育まれるのだろう。どんな土地で生きていけばよいのだろう。

2016/08/17(水)(福住廉)

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羽永光利アーカイブ展

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会期:2016/07/23~2016/08/20

AOYAMA|MEGURO[東京都]

写真家・羽永光利(1933-1999)の写真アーカイヴを見せる展覧会。前衛芸術、舞踏、演劇、世相というテーマに整理された約400点の写真が一挙に展示された。会場の白い壁面を埋め尽くすかのように並べられたモノクロ写真の大半は、戦後美術史の現場を物語る貴重な写真ばかりで、たいへん見応えがあった。
平田実であれ酒井啓之であれ、美術の現場を記録する写真家には「時代の目撃者」という常套句が用いられることが多い。だが、とりわけ60~70年代に撮影された羽永の写真を見ていると、目撃者というより「共犯者」という言葉のほうがふさわしい気がしてならない。よく知られているように、ハイレッド・センターの《ドロッピング・イベント》(池坊会館屋上、1964年10月10日)の写真は、あらかじめ待機していた羽永が確信的に撮影したものだ。また今日、反芸術パフォーマンスとして歴史化されている、ダダカンこと糸井貫二の《殺すな》(1970)やGUNの《雪のイメージを変えるイベント》(1970年2月11日、15日)の記録写真も羽永が撮影したものである。それらの作品の作者がパフォーマンスを実行したアーティストであることは疑いないにしても、本来的にはその場かぎりで消え去ってしまう身体行為を写真として定着させた写真家の働きを過小評価すべきではない。事実、羽永によって撮影された糸井とGUNのパフォーマンス写真は、いずれも雑誌のグラビアに掲載されることで、その決定的なイメージを大衆に届けることに大いに貢献したのである。今日誰もが思い浮かべることができる、そのようなパフォーマンスのイメージは、羽永の視線と手に由来しているのだ。
翻って今日、はたして「共犯者」としての写真家はありうるだろうか。戦後美術の現場を記録した羽永の写真群を見ているうちに気づかされるのは、それらと今日における写真家の位置性と役割との偏差である。かつての写真家は、アーティストとして自立していないわけではなかったにせよ、美術家の作品を記録する役割を負わされていた。やや極端な言い方だが、写真家は美術家に従属していたと言ってもいい。だが今日の写真家は、「フォトグラファー」という呼称が定着しているように、アーティストとしての評価を高め、美術家の作品を記録する役割から相対的に解放されつつある。それは、端的に言えば、美術家自身が写真を撮影する役割を担うようになったからだろうが、より根本的には、写真そのものの性質が変容してしまったからではなかろうか。今日の写真は、とりわけデジタル技術の普及以降、大量に撮影することが可能となった反面、一回性の強度が失われ、「カメラ」に写真と動画の撮影機能があらかじめ組み込まれているように、相対的には映像との境界が曖昧になりつつある。パフォーマンスの現場を記録するという点で言えば、写真より映像のほうがふさわしいのかもしれないが、視覚的イメージの強度という点で言えば、羽永が盛んに撮影していた60~70年代に比べると、今日の写真は著しく脆弱になっていると言わざるをえない。羽永のような決定的なイメージを見せる写真家も、あるいはまた、そのような決定的なイメージに足る肉体表現を見せるパフォーマーも、今日のアートシーンのなかから見出すことは難しいからだ。
本展で発表された羽永の写真の背後に垣間見えたのは、写真による記録という表現行為に揺るぎない価値が与えられていた時代である。逆に言えば、そのように価値が機能していたからこそ、反芸術パフォーマンスはあれほどまでに強力な肉体表現を繰り返すことができたのだろう。今後、私たちはある種の信頼関係に基づく共犯関係を取り戻すことはできるのだろうか。

2016/08/17(水)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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