2017年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

没後50年 ”日本のルソー” 横井弘三の世界展

twitterでつぶやく

会期:2016/04/17~2016/06/05

練馬区立美術館[東京都]

横井弘三(1889-1965)の回顧展。長野県飯田市に生まれ、上京した後、独学で絵を学び、二科展に出品して第1回の樗牛賞を受賞して将来が期待されるも、関東大震災以後は二科展をはじめとする既成画壇と決別し、長野市に移住してからも素人画家として数多くの絵画を制作した。本展は、そうした横井の長い画業を200点あまりの作品と資料によって辿ったもの。横井については信州新町美術館がすでに数多くの作品を所蔵しているが、本展は時系列を軸に展示を構成することで、より体系的かつ網羅的にその画業を俯瞰した。
「日本のルソー」というフレーズが示しているように、横井弘三の絵画は素朴派として位置づけられることが多い。事実、石井柏亭はその画風の特徴を「素人画の稚拙さを保っている」点に見出していた。また、より厳密にその絵画を分析するならば、類型的な描写を反復させながら画面の隅々まで絵の具で執拗に埋め尽くした点は、いわゆるナイーヴ・アートの特徴と通底している。来るべき東京オリンピックを前に、ある種の「危険分子」が周到に排除されつつあるアウトサイダー・アートやアール・ブリュットと同じように、本展は明らかに横井作品の「人を微笑ませるのびやかな」(本展図録、p.5)純粋性を強調していたのである。
しかし横井弘三には、素朴派とは到底言い難い、別の一面もあった。本展ではわずかに言及されているだけだったが、それは既成団体と正面から格闘する、ある種のアクティヴィストとしての横井という一面である。1926年、関東大震災からの帝都復興を記念して、上野に東京府美術館が開館したが、その開館記念として催された「聖徳太子奉賛記念展」(5月1日〜6月10日)は、既成画壇の重鎮ばかりを優遇し、とりわけ洋画部門に限っては一般公募をせず、新人作家を締め出していた(ちなみに西洋画部門に出品したのは、古賀春江や神原泰である)。横井はこれに大いに激怒した。
「聖徳太子を奉讃する総合展を開くなれば、規定をつくる前に委員と目したものを全部集めて、皆の意見をきき、それを総合して規定をつくるべきが至當である。所が奉賛會は老朽の顧問なるものを僅か集め、それらの連中によつて、勝手キマゝの不都合横暴千萬の規定をこさへた。(中略)『但西洋畫に限り一般公募せず』なる最も非民衆的の塀をつくつて、有名作畫家のみが、いゝ氣持ちになつて、東京府美術館の、一番乗りの占領をし面白がらうとするのである」(横井弘三「大花火を打さ上げろ」『マヴォ』1925年7月号)。
つまり、横井はあくまでも民主的であるべきだと主張したのである。そのため、横井は奉賛展の旧態依然とした封建的なあり方に強く抗議する一方で、民主的な展覧会を自ら企画する。それが、奉賛展とほぼ同じ時期に(5月1日〜10日)、同じく上野の東京自治会館で催した「第一回理想大展覧会」である。これは、ある種のアンデパンダン展で、「日本畫、洋畫のへだてなく、新派舊派の別もなく、文字、彫塑、ダダ、構成作等、又、新案日用生活品から、發明品構築物、其他、各出品者が、創造したあらゆる、造型を出陳する、抱擁力」(横井弘三「理想・展覧会・規約」)を誇っていた。
日本におけるアンデパンダン展といえば、1919年の黒耀会によるものが嚆矢として知られているし、理想展の直前には、画家の中原實が画廊九段で催した「首都美術展覧会」(1924)や「無選首都展」(1925)などがすでにあった。だが、理想展がそれらのアンデパンダン展と一線を画していたのは、横井の主張に見受けられるように、あらゆる人々の、あらゆる造型を受け入れ、実際に展示する、その間口の圧倒的な広さにある。事実、理想展にはじつに106名が参加したが、その内訳は村山知義や岡田龍夫らマヴォの面々をはじめ、会社員、看板屋、画学生、百姓、高等遊民、労働者、小学生、コック、官吏、青物問屋、職工、写真業、乞食、僧侶、煙草屋、デットアラメ宗宗主など、怪しげな者も含む、文字どおり多種多様な人々だった。決して大きくはない空間のいたるところに展示された333点の出品作も、絵画をはじめ、詩、看板、小学生の自由画、漫画、はたまた手相による運命鑑定、バケツを叩きながらの美術の革命歌の合唱、吃又の芝居、さまざまなダダ的パフォーマンス、さらには「『リングパイプ』と名づけた金属製の新案指輪煙草ハサミだのこれ亦新案特許を得てゐる室内遊戯具『コロコロ』を大型な野外運動具に拵え直したもの」、「中には『犬小屋』藝術をほこる男もあればアメリカ帰りの富山直子夫人が創作的な『お料理』を出さうと言う騒ぎ」(『読売新聞』1926年3月23日朝刊3頁)。つまり現在はもちろん、当時の基準からしても、到底「美術」とは考えられないような、文字どおりあらゆる造型や行為が披露されたのである。初日の5月1日はメーデーであったことから、日比谷公園から上野公園に流れてきたおびただしい労働者たちが会場に押し寄せたことも、理想展の混沌とした魅力を倍増させたようだ。
「人を喰つた美術の革命展」(『読売新聞』1926年5月6日朝刊2頁)、「葉櫻の上野に珍奇な對照 五色のうづまく奉賛展 人を喰つた理想展」(『やまと新聞』1926年5月2日朝刊2頁)。当時の新聞記事を見ると、横井のねらいどおり、理想展は奉賛展に対するアンチテーゼとして報じられていたことがよくわかる。むろん、その挑戦は美術の体制を転覆するほどの革命的な力を発揮したとは言い難い。けれども敵対勢力を言論上で批判するだけでなく、それらとの接触領域を、一時的とはいえ、現実的に出現させた点は、大いに評価されるべきである。なぜなら、あの「読売アンデパンダン展」ですら、あるいはその後の「アンデパンダン’64展」ですら、過激な表現行為を繰り出したことは事実だとしても、これほど直接的な敵対関係に基づいてはいなかったからだ。60年代のアンデパンダン展は、既成画壇と敵対しながらも、それとの接触領域ではなく、むしろそれと隔絶した自律的領域を構築した。対照的に、20年代のアンデパンダン展を組織した横井は、例えば数人の仲間たちとともに隣接する東京府美術館にわざわざ出向き、その前で理想展の目録をどんどん配布して叱られたという(横井弘三「理想郷の理想展祭り」『美の國』1926年6月号)。横井は東京府美術館という権威的な空間の傍らに、まことに民主的な美術の理想郷を建設しただけでなく、その理想郷を権威的な美術館と接触させることで、そこにある種の生々しい生命感を生んだのだ。
アート・アクティヴィストとしての横井弘三。これは、あくまでもナイーヴ・アートとしての横井に焦点を当てることに終止した本展からは見えにくいが、しかし、横井にとってはもっとも本質的な、すなわちもっとも魂が躍動した、まことに芸術的な経験だったにちがいない。既存のオーソドックスな展示構成に呪縛されるあまり、このような横井弘三の真骨頂を大々的に取り上げることができない公立美術館には、いったいどんな接触領域が有効なのだろうか。

2016/06/03(金)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00034634.json s 10124713

あゝ新宿 スペクタクルとしての都市

twitterでつぶやく

会期:2016/05/28~2016/08/07

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館[東京都]

おもに60年代の新宿の芸術文化を振り返った企画展。演劇をはじめ美術、映画、文学、建築、テレビ、雑誌などから当時の熱気を浮き彫りにしている。フェンスやトタンなどを組み合わせた動線に沿って、写真やポスター、映像などの資料群が展示された。
展示で強調されていたのは、空間と人の密接な関係性。当時の新宿には、大島渚、唐十郎、寺山修司、土方巽、三島由紀夫、山下洋輔、横尾忠則ら、多士済々の芸術家が行き交っていたが、彼らの活動は新宿の中の特定の場所と結びついていた。紀伊國屋書店やアートシアター新宿文化、蠍座、風月堂、DIG、新宿ピットイン、花園神社、そして新宿西口広場。新宿の熱源に引き寄せられた若者たちは、そうしたトポスを転々と渡り歩きながら、さまざまな芸術文化を目撃し、あるいは体験することで、結果的に新宿の発熱に加担していたのであろう。
今日、そのような発熱の循環を担保するトポスは見失われている。それらが新宿にないわけではないが、それぞれのジャンルは自立しており、かつてのように、さまざまなジャンルを越境するエネルギーは、もはや望むべくもない。それは、いったいなぜなのか。
学生運動やベトナム反戦運動の高まりに手を焼いた警察当局が、新宿西口広場の意味性を「広場」から「通路」に強引に読み替えることで、実質的に集会を禁止したことは、よく知られている。すなわち、ここは「通路」であるから人が滞留することは許されない。よって、速やかに移動せよ、というわけだ。熱源の坩堝としての新宿は、かくして分断され、拡散され、霧消してしまったのだ。
しかし、空間と人の関係性を希薄化したのは、警察権力による工作だけに由来するわけではあるまい。当時、芥正彦をはじめ唐十郎、寺山修司らは街頭演劇を盛んに仕掛けていたが、それらの記録写真を見ると、そこで印象的なのは、その突発的な路上パフォーマンスを取り囲む、おびただしい野次馬たちである。彼らは訝しさと好奇心が入り混じった視線で、ある程度の距離感を保ちながら、不意に遭遇したパフォーマンスを目撃している。むろん、彼らは劇場の観客のように指定された座席で静かに演目を見守る鑑賞者の身ぶりとは程遠い。だが、距離を隔てながらも、そのパフォーマンスを目撃しているという点で、彼らは街頭演劇の「鑑賞者」となっていたのではないか。寺山修司の言い方を借りて言い換えれば、人はあらかじめ鑑賞者であるわけではなく、未知の表現文化に遭遇することで、鑑賞者と「なる」のである。
今日の都市文化に熱を感じられない理由のひとつは、私たち自身が鑑賞者に「なる」努力を放棄してしまっていることにある。本展で取り上げられていたような若者文化が、いまや正統な文化史として歴史化されていることを念頭に置けば、今後の私たちが取り組まなければならないのは、かつての新宿文化をノスタルジックに崇めることでは、断じてない。それは、現在の新宿で繰り広げられている、有象無象の表現文化を目撃する鑑賞者となることである(本展とは直接的に関係するわけではないが、リアルタイムの事例を挙げるとすれば、バケツをドラムに、塩ビ管をディジュリドゥにしながら新宿の路上などで演奏しているバケツドラマーMASAを見よ!)。歴史が生まれるのは、そこからだ。

2016/05/30(月)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00035411.json s 10124712

ライアン・マッギンレー BODY LOUD!

twitterでつぶやく

会期:2016/04/16~2016/07/10

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

写真家のライアン・マッギンレー(1977-)の個展。日本の美術館では初めての個展で、初期作から最新作まで、およそ50点の作品が展示された。
広大な大自然の中のヌード。マッギンレーの作品の醍醐味は、牧歌的で平和的な自然環境のなかで精神を解放したように自由を謳歌する若者たちの、のびやかな感性を味わえる点にある。寓話的といえば寓話的だが、隠された意味を解読しようとしても、あまり意味はない。それより何より、鮮やかな色彩で映し出された自然と肉体の美しさのほうが際立っているからだ。主体的な解釈を要求する批評の水準は後景に退き、世界をあるがままに受容する受動性が前景化しているのである。
そのような性質の写真が現代写真の一角を占める、ひとつの主要な傾向であることは否定しない。しかし展覧会の全体を振り返ったとき、いささか物足りない印象を覚えたことも否定できない事実である。それは、ひとつには展示された作品が思いのほか少なかったことに由来するのだろう。だが、その一方で、もしかしたらそのような欠乏感こそが、マッギンレーの写真の本質の現われとも言えるのではないか。
例えば、たびたび比較の対象として言及されるヴォルフガング・ティルマンスの写真の真骨頂は、そのインスタレーションにおける絶妙な空間配置にある。2004年に同館で催されたティルマンスの個展がいまなお鮮烈な印象を残しているように、大小さまざまな写真を有機的に配置することで、平面でありながら独特の立体感を醸し出し、一つひとつは断片でありながら、総体的には奥行きのあるひとつの世界を出現させるのだ。写真集とはまったく異なる、展覧会という空間表現に長けた写真家であるとも言えよう。
それに対してマッギンレーの写真インスタレーションは徹底して平面的である。500枚のポートレイトを構成した《イヤーブック》の場合、30メートルの壁面を埋め尽くした500人のヌード像はたしかに壮観ではあるが、単調といえば単調で、ティルマンスのような美しいリズム感は望むべくもない。こう言ってよければ、まるでモニター上のサムネイルをわざわざ拡大したかのように見えるので、鑑賞の視線が耐えられず、たちまち飽きてしまうのだ。事実、マッギンレーの写真は、写真集は別として、少なくとも展覧会よりスマートフォンやタブレットで鑑賞するほうが、ふさわしいように思う。
しかし、ここにあるのは写真とメディアの形式的な関係性という問題だけではない。写真をいかなるメディアで鑑賞者に届けるかという問題は、必然的に、写真と現実の関係性をどのように考えるかという根本的な問題に結びついているからだ。ティルマンスがインスタレーションという形式を採用したのは、おそらく、そうすることで現実社会のなかに写真を介入させるためだった。写真の内容ではなく形式によって現実社会と接合していると言ってもいい。一方、マッギンレーは同じ形式によりながらも、あくまでも写真を平面のなかに限定したのは、インスタレーションの技術が未熟だからではなく、むしろ彼は写真を現実社会から切り離された自律的な世界として考えているからではないか。ティルマンスが写真によって現実に接近しているとすれば、マッギンレーは逆に現実から遠ざかっている。あの、反イリュージョンとも言いうる、じつに平面的な写真は、現実社会との隔たりを示す記号であり、だからこそ鑑賞者はマッギンレーが写し出した牧歌的で神秘的な世界を思う存分堪能できるのである。
マッギンレーの写真に覚える欠乏感を埋めるものがあるとすれば、それはむしろ絵画なのかもしれない。なぜなら、それは写真でありながら、同時に、徹底して平面であることを自己言及的に表明する点において20世紀以降の現代絵画と近接しており、自然の中のヌードを写し出している点において、裸体画の伝統に位置づけることができるからだ。マッギンレーは、実はカメラによって絵画を描いているのではないか。

2016/05/20(金)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00034639.json s 10124711

人造乙女美術館

twitterでつぶやく

会期:2016/04/26~2016/05/22

ヴァニラ画廊[東京都]


ラブドールの展覧会。同画廊は、この分野の最大手であるオリエント工業が制作したラブドールの展覧会を4回催してきたが、今回は美術史家の山下裕二を監修に迎え、日本画とラブドールのコラボレーションを実現させた。日本画家の池永康晟による《如雨露》に描かれた女性をモチーフにした作品をはじめ、7体のラブドールが展示された。
注目したのは、やはり立体造形の技術的な完成度。頭と首を接合するうなじに不必要な線が入っていたり、着物がいかにも安っぽかったり、いくつかの難点が見受けられたにせよ、それでも人体の忠実な再現性という点では、いまやラブドールの右に出る造形はないのではないか。そのことをもっとも実感するのが、肌の質感である。これまでの展覧会と同様に、すべてではないにせよ、来場者は展示されたラブドールを部分的に触ることができた。
その質感を正確に形容することは難しい。むろん人肌そのものとは言えないが、だからといって機械的な無機物というわけでもない。ただ、その独特の質感は、ラブドールを性的な愛玩具という機能を超越する何ものかにさせているように思えてならない。今日のラブドールは、ある種の立体造形として正当に評価されるべきではないか。
しかしラブドールへの偏見は根強い。同展で来場者に配布されたパンフレットに掲載されたオリエント工業の造形師やメイクアップアーティストへのインタビューには、ラブドールがそのような日陰者的な扱いを受けていたことが記されているし、何より彼らの顔写真で顔が伏せられていることからも、その穿った見方が依然として持続していることを如実に物語っている。
ただ立体造形としてのラブドールの評価を妨げているのは、社会的な視線だけではない。ラブドールの造形そのものの内側にも、その要因は折り畳まれている。例えば、顔面や身体のプロポーションの面で、少なくともオリエント工業のラブドールには、ある一定の偏りがあることは否定できない。ロリータフェイスと豊満なボディの組み合わせは、ラブドールに求められる機能を満たすうえでの必要条件なのかもしれないが、これが定型的なイメージをもたらしていることもまた事実だ。顔の印象を大きく左右するメイクにしても、どういうわけかみな同じようなメイクに見える。ようするに、ラブラドールにはほとんど多様性が認められないのである。
人間の生活や身体と密着した造形。近代美術が見失ってしまった造形のありようを、ラブドールが実現していることは疑いない。その可能性を育むには、ラブドールの定型を打ち砕く、造形的な挑戦が必要ではなかろうか。

2016/05/13(金)(福住廉)

生誕140年 吉田博展

twitterでつぶやく

会期:2016/04/09~2016/05/22

千葉市美術館[千葉県]

原田直次郎の敵対性が岡倉天心とアーネスト・フェノロサに照準を合わせていたとすれば、吉田博のそれは明確に黒田清輝に向けられていた。吉田博が黒田清輝を殴りつけたという逸話がまことしやかに語り継がれているのも、ことの真偽はともかく、そのような双方の敵対関係を如実に物語っている。あの中庸というよりむしろ凡庸な油彩画とは裏腹に、いやだからこそと言うべきか、東京美術学校西洋画科の教授にして帝国美術院の院長、さらには貴族院議員などを歴任した絶大な権力者に一撃を喰らわせるほど骨のある画家となれば、いやがおうにも期待が高まるではないか。
本展は、明治から大正、昭和にかけて一貫して風景を描いてきた吉田博の画業の全容を、およそ270点の作品や資料によって解き明かしたもの。小山正太郎が主宰した京都の画塾「不同舎」で洋画を学び、上京した後自費で渡米して水彩画の展覧会を成功させ、帰国後は凋落していた明治美術会を改組して「太平洋画会」を結成、さらに二度も欧米に渡り、晩年は木版画に転じたが、この長い画業のあいだ一貫して山岳や田園の風景を描き続けた。
例えば《東照宮、日光》(1899)。縦1メートルにも及ぶ大きな画面に日光東照宮の陽明門を描いた初期の水彩画だが、堅実な構図と緻密で克明な線描、だからといって描き込みすぎない抑揚のある筆致など、絶妙な均衡が保たれた傑作である。吉田博の不同舎時代を知る洋画家の三宅克己は「当時一般の水彩画と云えば、鉛筆画の淡彩と云った極めてあつさりしたものであつたが、吉田画伯の水彩画は、濃淡の色調も油絵式に絵に深みあり、運筆の妙技などに余り多く重きを置かず、只管明暗の表現に努めたものであつた」(田中淳「吉田博・吉田ふじをの水彩画(1)」『現代の眼』No.466、1993.9、p.6)と評価している。
そのような高い水準の水彩画を踏まえて、なお強く思い知らされたのは、吉田博が画題と画材の関係性を非常に強く意識していたのではないかという点である。彼がアメリカでいち早く成功を収めた水彩画で言えば、日本の農村を主題にした《朝霧》(1901-03)や《霧の農家》(1903)は湿潤な空気感を、同じく農村の雪景色を主題にした《篭坂》(1894-99)や《雪かき》(1902)は清冽な空気感を、それぞれ巧みに描き分けている。一転して《フロリダの熱帯植物園》(1906)や《ポンシデレオン旅館の中庭》(1906)では、同じく水彩画で熱帯特有の明るく乾いた空気感を再現しているから、吉田博は水溶性の画材の特性を最大限に活かしながら風土の多様性を描いてみせたのである。
では油彩画ではどうか。彼は盛んに日本アルプスに足を運んでいたが、野営を繰り返しながら描いた山岳画の大半は油彩画であった。それは急峻な山岳の稜線や険しい岩壁を描くには、おそらく水彩画より油彩画のほうが有効であると考えたからではなかったか。粘り気のあるメディウムによって描き出されているからこそ、見る者の脳裏にそのダイナミックなイメージが深く焼きつけられるのである。
画題にふさわしい画材を活用すること。あるいは画材に適した画題を選び取ること。吉田博の真髄は、おそらくこの点にある。だが木版画に関しては、その真髄が十分に発揮されなかったように思われる。それが従来の木版画には望めなかった繊細な光線や微妙な色彩のグラデーションを取り込んでいることは疑いない。けれども、細かい線によって分割された色面の世界が、国内外の景勝地の風土と照応しているようには到底思えない。画題と画材を有機的に統合するというより、むしろ特定の画材にさまざまな画題を無理やり押し込めたような強引さを感じざるをえないのである。
吉田博が木版画に挑戦したのは、1923年、3回目の渡米の際、現地の市場で幕末の粗悪な浮世絵が高値で取引されている現状を目の当たりにしたことに由来しているという。「外国人に見せても恥ずかしくない、新しい時代にふさわしい日本人ならではの新しい木版画を自らの手で作らねばならない、と強く思うようになったのである」(安永幸一「近代風景画の巨匠 吉田博─その生涯と芸術」『生誕140年吉田博』展図録、p.13)。幕末の浮世絵が粗悪かどうかはともかく、吉田博の視線が「日本人ならではの新しい木版画」に注がれたことは興味深い。なぜなら、ここには黒田清輝や原田直次郎が格闘した、西洋的な近代化と土着的な日本の相克という構造的な問題が根ざしているからだ。吉田博は近代日本にふさわしい近代版画を、おそらく黒田清輝や原田直次郎以上に、欧米の視線を肌で感じ取りながら、希求していた(なにしろ吉田博が初めて渡米した際、デトロイト美術館で催した展覧会での売上は、当時の小学校教諭のほぼ13年分に相当したという。このように海外での成功を独力で勝ち取ったという自負があったからこそ、吉田博は国家による厚遇を得ながら美術の制度化の過程に自らを投じていた黒田に憤激していたのだろう)。
さて吉田博の独自性は、その近代版画の活路を、例えば恩地孝四郎のように抽象性をもとにした創作版画ではなく、あくまでも線描に基づいた具象性に見出した点である。明瞭な線によって対象の輪郭をとらえ、色彩の微妙なグラデーションによって彩ること。吉田博の木版画は、現在の視点から見ると、その平面性も手伝って、アニメーションのセル画のように見えなくもない。だが、重要なのは吉田博が日本という土着的な世界で近代の版画を志したとき、手がかりとしたのが「線」だったという事実である。振り返ってみれば、水彩画はもちろん、色面を重視する油彩画にしても、輪郭線を強調していることが多い。どれだけ欧米で見聞を広めたとしても、つまりどれだけ新たな風景を目撃したとしても、そしてどれだけ油彩画や水彩画といった西洋絵画の技術を身につけたとしても、吉田博は線だけは決して手放さなかった。あるいは、手放すことができなかったとも言えなくもないが、いずれにせよ肝心なのは、吉田博は線によって「近代」に対峙したのである。
原田直次郎は近代日本の活路を土着日本と近代西洋の縫合に見出した。これに対して吉田博はそれを土着日本のなかに通底する線に求めた。それは、一見するとある種のアナクロニズムではあるが、そのアナクロニズムを貫いた水彩画や木版画が欧米で高く評価されたことを念頭に置けば、それをたんなる時代錯誤の方法論として切って捨てることはできなくなるはずだ。言ってみれば、吉田博は、近代化という不可逆的な歴史の流れに巻き込まれながらも、絵画や版画を手がけるときは、つねに後ろを向いていたのだ。その、一見すると退行的な身ぶりにこそ、ことのほか重要な意味がある。

2016/04/22(金)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00034604.json s 10123705

▲ページの先頭へ

福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

文字の大きさ