2017年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

近代洋画・もうひとつの正統 原田直次郎展

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会期:2016/04/08~2016/05/15

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

最近、日本近代美術の原点を回顧する企画展が相次いでいる。東京国立博物館の「黒田清輝」展をはじめ、千葉市美術館では「吉田博」展、そしてこの「原田直次郎」展。吉田博はやや世代が若いとはいえ──原田直次郎(1863-1899)、黒田清輝(1866-1924)、吉田博(1876-1950)──、いずれも明治から大正にかけて日本社会のなかに近代美術を定位させることに精力を注いだ画家である。
原田直次郎は夭逝の画家である。わずか36歳で亡くなったため、現存する作品も決して多くない。本展は、高橋由一の画塾「天絵学舎」への入門から、ドイツ・ミュンヘンへの留学を経て、帰国後に結成した明治美術会、そして直次郎の代表作《騎龍観音》(1890)まで、短いが濃厚な画業の全容を、直次郎以外の周辺作家による作品も含めた、およそ200点の作品や資料によって紹介したもの。ドイツ留学時代から親交を深めてきた森鴎外が、直次郎没後に東京美術学校で1日限りで催した回顧展以来(1909年11月28日)、じつに107年ぶりの回顧展だという。
明治の近代美術を理解するうえで重要な参照軸となるのが、美術家や美術団体をめぐる敵対関係である。よく知られているように、黒田清輝はパリのラファエル・コランのもとで学び、帰国後の1896年に白馬会を結成、同年、東京美術学校に新設された西洋画科の教授に着任した。黒田に代表される「新派」が日本近代美術の正統として制度化されたのに対し、原田直次郎が創立にかかわった明治美術会は「旧派」とされた。本展のサブタイトルである「もうひとつの正統」には、そのような緊張関係が暗示されている。
しかし原田直次郎にとっての敵対性は、黒田清輝より、むしろ岡倉天心やアーネスト・フェノロサに向けられていたようだ。なぜなら、1887年、直次郎が帰国した当時の日本は、急速に押し進められた欧化主義の反動から国粋主義の気運が広がり、西洋絵画は冷遇されていたからだ。事実、その1887年、天心やフェノロサは東京美術学校の開校にあたって西洋画科を設置しなかった。ドイツで学んだ西洋絵画を日本で展開しようとしたとき、直次郎はこのような逆境に直面したのである。
とはいえ、その逆境とは天心やフェノロサとの制度的な正統性をめぐる権力闘争に由来しているだけではない。それは、近代をめぐる日本と西洋との本質的かつ構造的な問題に根ざしていた。
「一八八七(明治二十)年十一月十九日、上野の華族会館で開かれた龍池会例会において、原田は講話を行った。その内容を文字に起こした『絵画改良論』によれば、原田はフェノロサや岡倉天心が唱えるような、西洋絵画の長所を日本の伝統絵画へ取り入れて折衷するという考えを、真っ向から批判している。西洋絵画を本格的に学んだ原田にとって、フェノロサと天心の主張は浅はかに感じられただろう」(吉岡知子「原田直次郎 その三十六年をたどる」『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』青幻舎、p.14)。
西洋美術の長所だけを日本美術に取り入れる折衷主義。これが、岡倉天心がプロデュースした「日本画」を指していることは間違いない。こうして直次郎は天心=フェノロサ的な折衷主義を切り捨て、返す刀で西洋絵画の真髄を突くのである。ドイツ留学時代に描かれた《靴屋の親爺》(1886)は、深い陰影表現による劇的な効果を誇っている点で、その真髄を視覚化してみせた傑作と言えるだろう。
ところが、どれほど西洋美術の技術や規範を内面化したとしても、それを日本の社会のなかに定着させるには、まったく別の問題が生じる。近代化の渦中にある土着的な「日本」で、いかにして近代的な「美術」を普及するのか。それにふさわしい絵画とはどんなものか。どのような絵画であれば、日本人としてのアイデンティティを担保しうるのか。原田直次郎が直面した逆境とは、まさしくこの根深いがゆえに本質的な問題だった。例えば黒田清輝は、この問題に対するひとつの回答として、西洋絵画で言われる「コンポジション」の形式を踏襲しながら、日本人モデルの肉体を理想的に描いた裸体画《智・感・情》(1897)を世に問うた。一方、原田直次郎が彼なりの回答としたのが《騎龍観音》(1890)である。
龍の上で屹立する観音像。それを西洋絵画の技術によって描いたこの大作は、1890年、第三回内国勧業博覧会に出品された。それが直次郎にとっての「回答」であると考えられるのは、博覧会に先立つ1888年、直次郎はドイツ留学中に私淑していたガブリエル・フォン・マックスに宛てた手紙で、「真に日本の様式の絵画」を描くことを切望する心情を吐露しているからだ。《靴屋の親爺》が画題の面でも技法の面でも西洋美術の規範に沿っていたのとは対照的に、《騎龍観音》は西洋絵画の技法を活かしながら日本の土着的な画題を採用したのである。言い換えれば、そのような「折衷」に近代社会にふさわしい「真に日本の様式の絵画」を見出したわけだ。あれほど天心=フェノロサ的な折衷主義を批判していたことを思えば、《騎龍観音》に見られる西洋と東洋の接合は皮肉としか言いようがない。
だが、よくよく考えて見れば、近代を自発的に産んだわけでもない日本で、近代の産物である西洋美術を志すという矛盾を抱えた近代洋画の画家たちは、いかなる画風が正統であれ、おのずとそのような異種混合的な接合を余儀なくされていたのではなかったか。前近代に立ち返るという退路を絶たれ、いやがおうにも近代を受け入れざるをえなくなったとき、折衷や接合が隘路であることを知りつつも、目前の道を歩んでいくほかない。《騎龍観音》の、あの一見すると大味で、ある種のキッチュな佇まいは、近代美術ないしは近代洋画が内側に抱える、そのような哀しさの現われなのだろう。

2016/04/17(日)(福住廉)

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双六でたどる戦中・戦後

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会期:2016/03/19~2016/05/08

昭和館[東京都]

双六から戦中と戦後の歴史を振り返った企画展。双六は江戸時代には正月を楽しむ遊びとして親しまれていたが、明治以後、印刷技術の発達に伴い雑誌の付録として定番化すると、庶民の暮らしの隅々にまで浸透した。ある一定の定型をもとにしながらさまざまな意匠を凝らす遊戯。そこには同時代の社会情勢や時事的な風俗、政治的なイデオロギーなどが、ふんだんに取り込まれているため、双六の表象には社会や歴史のダイナミズムが如実に表わされていることになる。この展覧会は、昭和館が所蔵する130点の双六によって、戦中から戦後にかけての歴史的変遷を振り返ったものだ。
注目したのは、やはり戦中の双六である。戦後の双六が人気キャラクターによって未来社会や科学技術の発展を謳う、いかにも平和主義的なイデオロギーが反映されているのに対し、戦中のそれは露骨に軍国主義的なイデオロギーによって貫かれているからだ。前者に安穏としていられる時代はもはや過ぎ去り、後者へと足を踏み入れかねないキナ臭さを感じる昨今、戦中の表象文化から学ぶことは多いはずだ。
例えば本展の最後に展示されていた《双六式国史早わかり》(1931)は、178個のコマを螺旋状に組み立てた大きな双六で、円の中心のフリダシから右回りに外縁を進んでいく構成。中心の出発点に天照大神が描かれているように、双六の時間性と国史のそれを重ねながら体験することが求められている。だが恐ろしいのは、そのゴール。そこにはただ一言、「国民の覚悟」と書かれているのだ。1931年と言えば満州事変を契機に日本の軍部が暴走し始めた時代であるから、早くも庶民の大衆文化にまで軍国主義的なイデオロギーが行き届いていたことがわかる。
だが、軍国主義的なイデオロギーとは必ずしも強権的な暴力性によって庶民に強制されるわけではない。そのことを如実に物語っていたのが、横山隆一による《翼賛一家》である。1940年、大政翼賛会宣伝部の監修により朝日新聞社から発行されたこの双六は、大和家という一家のキャラクターの人生の軌跡をなぞったもの。国民学校を卒業したのち、八百屋や本屋、大工、サラリーマンといったさまざまな職能を経ながら、勤労奉仕、防空演習、国民服、回覧板、産業報国、枢軸一体、日満支一体といった戦時体制へと突き進んでいく。その先にあるのは「忠霊塔」であり「富士山万歳」であるから、当時の国民は戦争で死ぬこと、すなわち「英霊」となることが期待されていたわけだ。つまり庶民にとって親しみのある漫画的表象が、このような恐るべき既定路線を自然に受容させる、ある種の「イデオロギー装置」(ルイ・アルチュセール)として機能しているのである。
双六のもっとも大きな特徴は、それが直線的な時間性によって成立している点にある。どれほど進路が曲がりくねっていたとしても、あるいはどれほどそれを行きつ戻りつしたとしても、出発点と到達点を結ぶ時間の流れはあらかじめ決められている。逆に言えば、未知の時間に逸脱する可能性は最初から封印されているのだ。双六が、このような運命論的な受容性を日本人の国民性に畳み込んできたことは想像に難くない。だが戦前回帰の気配が漂い始めた昨今、私たちが想像力を差し向けなければならないのは、直線的な時間性を撹乱し、新たな時間の流れを切り開くことである。既存の価値観を根底から覆すことのできる現代アートのアクチュアリティーは、おそらくここにある。

2016/04/14(木)(福住廉)

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細密工芸の華 根付と提げ物

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会期:2016/04/02~2016/07/03

たばこと塩の博物館[東京都]

根付とは、印籠や煙草入れ、巾着を帯から提げるための留め具。おもに木や象牙を材料にしながら動物や神獣、霊獣、植物、妖怪などを主題に造形された。提げ物の先端に取りつけるため、大きすぎず小さすぎず、手のひらに収まるサイズのものが多い。とりわけ江戸時代の文化文政(1804-1830)の頃に全盛を迎えたが、その後は和装や提げ物の衰退に伴い徐々に庶民の日常生活から姿を消していった。
本展は、約370点の根付を中心に、印籠や煙草入れなどの提げ物、関連資料などを一挙に展示したもの。同館がかつて企画した「小林礫斎 手のひらの中の美~技を極めた繊巧美術~」展(2010-2011)ほどの衝撃は見受けられなかったにせよ、それでも繊細で巧みな技術と、それによって醸し出されるある種の情緒、あるいは初見の人を驚かせる機知など、いわゆる明治工芸に通底する特質を存分に堪能できる展観である。
おびただしい数の根付を通覧して気づかされるのは、その周縁性。根付は現在では美術品ないしは工芸品として評価されているが、本来的には実用品である。いや、より正確に言えば、実用性と装飾性を同時に兼ね備えた両義的な特質こそ、根付本来の価値と言えよう。おそらく、そうした両義性が美術でもなく工芸でもなく、しかし美術にも工芸にもなりうるような、微妙な立ち位置に根付を追いやったのだろう。根付とは、言ってみれば、ジャンルとジャンルの狭間にあって、双方をつなぎ合わせる「のりしろ」なのだ。
しかし、だからといって、根付は二次的で副次的な造形物にすぎないわけではない。そのように見させてしまうとすれば、それは「絵画」や「彫刻」といった近代的なジャンルの内側に視線があるからにほかならない。だが本展の会場を埋め尽くした大量の根付は、そうした近代的色眼鏡による偏った見方を一掃してしまう。印籠に蒔絵や螺鈿など漆芸の技術がふんだんに取り込まれているように、根付はある種の総合芸術であることが理解できるからだ。それは制作の行程が長いばかりか、材料も技法も多岐にわたっており、その豊かな多様性が素材や技法によって細かく分類される近代的な美術工芸の論理には馴染まないのである。
思えば、近代日本は西洋に由来する「美術」を盛んに輸入した一方、江戸に由来する明治工芸を気前よく輸出してしまった。「美術」を手に入れた代わりに、私たちはいったい何を失ったのか。根付の醍醐味が「手に持って愛でることで(根付が)優品に育っていく。愛でる側は幸福感や癒しを得て愛着が湧いてくる」(駒田牧子『根付 NETSUKE』角川ソフィア文庫、2015、p.64)ことにあるとすれば、今後の私たちが取り戻すべきなのは、そのような造形と人とのあいだの親密な距離感ではなかろうか。

2016/04/03(日)(福住廉)

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没後100年 宮川香山

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会期:2016/02/24~2016/04/17

サントリー美術館[東京都]

宮川香山(1842-1916)は江戸末期に生まれ、明治から大正にかけて活躍した陶芸家。陶器の表面に写実的な浮彫を装飾する「高浮彫」(たかうきぼり)という技法によって国内外から高く評価された。本展は、没後100年を記念して香山芸術の全容を紹介したもの。陶器や磁器など、併せて150点が展示された。
「高浮彫」の醍醐味は何より大胆かつ緻密な造形性である。花瓶の表面を蟹が這う《高取釉高浮彫蟹花瓶》(1916)や花瓶の外周を囲んだ桜の樹に鳩がとまる《高浮彫桜ニ群鳩大花瓶》(19世紀後期)など、思わず息を呑む造形ばかり。割れや縮みの恐れがあるにもかかわらず、いったいどうやって焼き締めたのか謎が深まるのである。
「描く」のではなく「焼く」こと。少なくとも陶器に関して、香山は動植物のイメージを器の表面に描くのではなく、器とそれらを一体化させた造形として焼くことで、その装飾世界を追究した。いや、より正確に言えば、香山の真骨頂は器と装飾の主従関係を転倒させるところにあった。
通常、焼き物の装飾は器というフォルムを彩るために施されており、いわばフォルムに従属している。だが宮川香山による造形物はいずれも装飾でありながら、それらは時として器のフォルムから大きく逸脱し、場合によってはフォルムを破壊することさえある。《高浮彫親子熊花瓶》(19世紀後期)は紅葉や枯れ草を描いた花瓶だが、表面の真ん中が大きく裂けており、その中に冬眠の準備に勤しむ親子の熊がいる。香山は器のフォルムをあえて破ることで、山中の穴蔵を表現してみせたのである。ここにおいて装飾は、もはや器という主人から解放され、むしろ器を従える主人の風格さえ漂っている。
そのもっとも典型的な現われが、《高浮彫長命茸採取大花瓶》(19世紀後期)である。断崖絶壁に生えた茸を命綱を頼りにしながら採集する光景を主題にしているが、その断崖絶壁の迫力を増したいがゆえに、極端に縦長の花瓶が選ばれているように思えてならない。おそらく香山にとって器という支持体は装飾的世界を根底から支える前提条件でありながら、表現を極限化させていくにしたがい、やがて装飾的世界を構成する一部に反転していったのではあるまいか。今日の私たちにとって宮川香山から学ぶべきものは、再現不可能とも言われる明治の超絶技巧に舌を巻くことだけではない。それは、器と装飾という二元論を結果的に止揚してしまうほど強力な表現の欲動にほかならない。

2016/03/24(木)(福住廉)

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アート・アーカイヴ資料展XIII「東京ビエンナーレ’70再び」

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会期:2016/02/22~2016/03/25

慶應義塾大学アート・スペース[東京都]

中原佑介(1931-2011)は、京都大学の湯川秀樹のもとで理論物理学を学んでいたが、在学中の1955年、評論「創造のための批評」が『美術批評』誌の評論募集で一席に選出されたことを契機に上京、本格的に美術評論家としての活動を始めた。その出発点からちょうど15年後の1970年、中原は東京都美術館を会場に「第10回日本国際美術展 人間と物質」展を企画した。近年大きな注目を集めているこの伝説的な展覧会の全容を、残された資料や関係者へのインタビューなどをとおして解明した調査研究の成果を発表したのが、本展である。
会場に展示されたのは、したがって「人間と物質」展に出品された作品そのものではなく、それらの作品を設置する作業を記録した写真や会場内の空間を再現した縮小模型、そして展覧会の図録など、おびただしい資料群。調査研究の焦点が、とりわけ誰の作品がどこに設置されていたのかという点を正確に把握する側面に当てられていたせいか、縮小模型と記録写真を併せて見ると、未見の展覧会を垣間見るかのようなイリュージョンを楽しむことができた。会場で配布された50頁に及ぶ小冊子も、資料的価値が高い。
注目したのは、この展覧会のチラシに掲載された短い言葉。なぜなら、それらはこの伝説的な展覧会の核心をみごとに凝縮しているように考えられるからだ。中原自身によるのか、あるいは事務局によるのか、次のような一文がある。
「出来合いの作品を並べる時代は過ぎました。世界美術の先端をゆく参加作家のうち3分の2が東京にやってきて、ロープをまき、布を敷きつめ、灰を盛り上げ、水を汲む。この大いなるナンセンスは、美術よりも音楽よりも文学よりもはるかにおおらかで、しかもそれらすべてを包み込んだ今日の芸術といっていいでしょう」。
事実、クリストは1階の彫刻室の全体を175枚の塗装用布で梱包し、ライナー・ルッテンベルクは灰を盛り上げた2つの山を250本の細い鋼鉄の棒でつないだ。重要なのは、中原がそのようなナンセンスを今日の芸術として、言い換えれば、最先端の現代美術として位置づけている点である。が、それだけではない。そのチラシには以下のような一文が続く。
「書物を読む人捨てた人、テレビを見る人飽きた人は、ためらわずに上野に行ってみてください。美術がこれほど身近に感じられることに、驚かずにはいられないでしょう」。
意外なことに、中原にとってナンセンスは美術に縁のない庶民でもリアリティーを感じることができるような類の美術だった。こうした企画者の見方が、鑑賞者の見方と必ずしも照応していなかったことは、今日よく知られている。本展では特に触れられていなかったが、「人間と物質」展の開催当時の評判は必ずしも芳しいものではなかった。中原はその批判的な言説をみずから分析している(『中原佑介批評選集第五巻「人間と物質」展の射程』現代企画室+BankART出版、2011)。「この新しい美術家たちが現実に対して鋭い発言を投げかけようと意図しながら、あまりにも観念的な世界に自ら閉じこもり、観衆にむしろ背を向けた姿勢を示しているのではないか」(小川正隆)、「身動きできずに、立ち尽くした。極北化願望のここまでの徹底。徹底の果ての、あやうく狂気。これほど、玩具製造精神に似て、しかもこれほどそれに遠いものがあるであろうか」(宗左近)、「彼らの意識にあるのは連帯なのであろうが、その秘儀的なジェスチュアからはおおらかな精神の広場を望むべくもない」(野村太郎)などなど。このような言説を手がかりにすれば、中原の希望的観測はおおむね外れたと言ってよい。
だが、そのような結果は火を見るより明らかだったはずだ。考えたいのは、なぜ中原は対話不在という謗りを免れないことがわかりきっていたナンセンスを、あえて庶民のリアリティーと直結させたプレゼンテーションを企てたのかという点にある。仮にそれが方便だったとしても、中原の真意はどこにあったのだろうか。
ひとつには、ラディカリズムを極限化させた60年代の反芸術への反省があったのかもしれない。それは、日常的な事物や廃物を素材として利用した点では庶民のリアリティーと共振したと言えるが、とりわけ反芸術パフォーマンスのハプニングや儀式は、生身の肉体を大々的に露出させたがゆえに隘路に陥り、ほどなくして自滅せざるをえなかった。もしかしたら中原は、そのようなラディカリズムの重心をあえて物質に傾けることで、それを転位させようとしたのではなかったか。
「人間と物質」展が、反芸術に代表される60年代の美術ともの派に代表される70年代の美術の結節点として考えられることは疑いない。だが、そこでいったいどのような価値観の転換があったのか、その内実については依然としてわからないことが多い。必要なのは、「人間」と「物質」のあいだの「精神」を解明することである。

2016/03/22(火)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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