2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

MOTサテライト 2017春 往来往来

会期:2017/02/11~2017/03/20

清澄白河エリア各所(MOTスペース、MOTスポットほか)[東京都]

清澄白河のMOTサテライト「往来往来」のおかげで、このエリアをゆっくり歩きまわったが、基本的に寺と墓が多いのだけど、いつの間にかおしゃれなお店がだいぶ増えている。mi-ri meterは、その現在を観察し、さまざまな住民のインタビュー映像を見せる。ほかに毛利悠子の見えない力を可視化する作品群、松江泰治によるマンションや木場などの周辺風景を撮影したウルトラ・フラットな写真と映像、ひがしちかのかわいい傘屋、飯山由貴+remoによる土地の記憶/記録のメディア化などが印象に残る。

写真:左上=mi-ri meter 右上=毛利悠子 左中=松江泰治 右中=ひがしちか 左下=飯山由貴+remo

2017/03/12(日)(五十嵐太郎)

美しければ美しいほど The more beautiful it becomes

会期:2017/02/07~2017/04/09

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

新進気鋭のインディペンデント・キュレーター、居原田遙による沖縄の「声」をテーマとした企画展。展示の中心は居原田と同じく沖縄県出身の嘉手苅志朗と埼玉県出身の川田淳の映像作品で、あわせて丸木位里・俊による《沖縄戦の図》を所蔵する佐喜眞美術館の館長、佐喜眞道夫が同作について解説した音声と、居原田と協力者の木村奈緒が沖縄の基地問題をめぐるさまざまな報道を検証したパネルも展示された。
会場には、じつにさまざまな「声」が反響していた。佐喜眞館長による語りは、とりわけ沖縄戦の実態を知らない若い世代や本土の人間の耳を傾けさせるには十分な迫力を伴っており、各種の報道を検証したパネルにしても、大手のマスメディアが伝えていない、しかしネット上には確かに残されている現場の生々しい状況が克明に浮き彫りになっている。そのなかには知っていると思っていたが、知らなかった情報も少なくない。音であれ文字であれ、沖縄からの、あるいは沖縄についての「声」を真摯に聴くことが求められているのである。
とはいえ、この企画展の骨子は沖縄と本土の非対称的な関係性を告発することにあるわけではない。本土の人間が沖縄の問題から目を背けていることは否定できない事実だとしても、その不誠実極まりない鈍感さを弾劾する沖縄本質主義と本展は一定の距離を保っている。なぜなら、本展における「声」とは、沖縄から本土に向けられた声というより、むしろ沖縄と本土の双方に通底しているはずの人間の想像力に強く訴えかける「声」だからだ。佐喜眞館長による語りを耳にしながらも、私たちはここで《沖縄戦の図》を目にすることはない。それゆえ不在の絵画に思いを馳せることを余儀なくされるのである。
嘉手苅の作品《interlude》は、沖縄在住のジャズシンガー、与世山澄子の顔だけをクローズアップで映したもの。自衛隊の基地の周囲を走行する車の中で、ジューン・クリスティによる同名曲を口ずさんでいるが、口元はフレームから外されているので、私たちの視線は彼女の鋭い眼光に注がれることになる。その顔を時折染めるオレンジ色は、基地に設置された外灯だろう。そこはかつて米軍基地だったというから、もしかしたら彼女が脳裏に浮かべているのは、戦後はアメリカに占領され、返還後は本土に支配されている沖縄の二重苦の歴史なのかもしれない。
嘉手苅の《interlude》が私たちの想像力を過去の歴史に誘っているとすれば、川田の新作《生き残る》は、より直接的に、私たちをそれに対峙させている。あわせて上映された川田の前作《終わらない過去》と同じく、《生き残る》もまた、ある種の語りを聴かせる映像だ。話しているのは、あの戦争で中国大陸に従軍し、後に沖縄でアメリカ兵と闘った元日本軍の兵士。絞り出すような声で語られる虐殺の経験や集団レイプの目撃談、同じ日本軍への呪詛などが、私たちの耳を切り裂きながら心底に暗い影を落とす。
だが、ここで私たちが覚える恐怖は、決して彼の証言の内容だけに由来しているだけではない。隣室に展示されている丸木夫妻の《南京虐殺の図》をおのずと連想してしまうことも小さくないだろう。けれども、それ以上に大きな要因は、《生き残る》が《終わらない過去》と同様に音声と映像を基本的には照応させていない点にある。《生き残る》が映し出しているのは、ほとんどが赤ん坊。寝返りを打ったり泣きわめいたり、赤ん坊の無邪気な身ぶりは、恐るべき戦争の記憶を物語る語り口と著しく対照的である。だが、赤ん坊であれ戦争の証言であれ、映像と音声が完全に照応していたら、私たちの想像力はそれほど刺激されることはなかったにちがいない。むしろ双方に大きな乖離があるからこそ、私たちの想像力はその間隙を縫うように躍動しながら映像と言葉の彼岸に向かうのである。
感覚の分断と再構成。あるいは視覚と聴覚の切断と想像力による再統合。嘉手苅と川田に共通する手法があるとすれば、それはおそらくこのように要約することができる。だが、それはアーティストの個人的で内在的な方法論というより、むしろ沖縄と本土の非対称性という外在的な条件から必然的に導き出された技術知ではなかったか。というのも、統合された感覚を自明視する思考のありようこそ、沖縄と本土の非対称的な関係性を疑うことなく再生産する身ぶりと通底しているように考えられるからだ。
通常、私たちが美術や映像を鑑賞するとき、視覚的な情報と聴覚的な情報を分解しながら受容することはほとんどない。例えばキュビスムにしても、どちらかと言えば分解というより再構成のほうに力点が置かれていたし、日本におけるキュビスムは、先ごろ埼玉県立近代美術館で催された同名の企画展が明示していたように、おおむね「様式」として消費することに終始したと言ってよい。
だが嘉手苅と川田は、その切断をおそらくは戦略的に試みることによって、私たちの感覚や認識に大きな裂け目を切り開くことをねらっている。いや、より直截に言い換えるならば、私たちの認識の前提や存在の条件をあえて攪乱することで、私たちの想像力を強引に起動させようとしているのではなかったか。なぜなら沖縄と本土の非対称的な関係性に想像力を誘導するには、そのようなある種の暴力性が必要不可欠であることを彼らは熟知しているからである。世界に解き放たれた想像力は、新たな統合を求めてさまよい続け、何かしらの結節点に意味を見出そうと、もがくほかない。
そのことをもっとも端的に示しているのが、《生き残る》のラストシーンである。沖縄で無残に犬死にしていった仲間たちを悔恨の涙とともに振り返る痛切な「声」は、私たちの耳では受け止めることができないほど、重い。だが、そのとき画面に映し出されているのは、床に転がった赤ん坊の顔。透明度の高い黒い眼球でこちらを見つめている。それが私たちの視線と交わったとき、その悲痛な「声」は、まるで受肉したかのような生々しさを伴って、私たちの心の底を勢いよく突き抜けていくのだ。それは過去と未来が同時に顕現した奇跡的な一瞬である。

2017/03/10(金)(福住廉)

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ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流

会期:2017/02/18~2017/03/05

アーツ千代田3331メインギャラリー[東京都]

ソーシャリー・エンゲイジド・アート。訳せば「社会的につながる芸術」ですかね。長いんで「SEA」と略す。これまで「コミュニケーションアート」「関係性の美学」「アート・アクティヴィズム」「地域アート」などと呼ばれてきた、社会とかかわるアートの総称だ(でもそれぞれ少しずつ守備範囲が異なる)。出品はペドロ・レイエス、西尾美也、アイ・ウェイウェイ、スザンヌ・レイシー、丹羽良徳ら。社会とかかわるアートだから、成果物(作品)はあまり重視されず、おのずとこうした展覧会は資料展か記録展にならざるをえない。それはそれで貴重なものだが、そもそもこうしたギャラリーに収まるアートへの反動として生まれた側面もあるので、展覧会として見せるのはどうなんだろうという疑問もある。そのことも含めて、問題提起としては価値ある企画だ。

2017/03/05(日)(村田真)

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みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──

会期:2017/03/02~2017/03/04

フラッグスタジオ[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出/振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催されたドキュメンタリー映画祭。東日本大震災以降の東北に暮らす人々の「語り」に耳を傾けながら、記録し続ける映画監督、映像作家たちの作品計4本が上映された。上映作品は、『波のした、土のうえ』(監督:小森はるか+瀬尾夏美)、『ちかくてとおい』(監督:大久保愉伊)、『なみのこえ 気仙沼編』(監督:酒井耕、濱口竜介)、『うたうひと』(監督:酒井耕、濱口竜介)。
4作品はいずれも、「語ること」の位相がもうひとつの主題である。『なみのこえ 気仙沼編』と『うたうひと』については、同じく関連プログラムとして開催された「東北記録映画三部作」上映会のレビューで触れたのでここでは詳述しないが、カメラワークのトリッキーな仕掛けにより、「語り手」と擬似的に対面する「聞き手」へと鑑賞者を転移させる装置としてはたらく。また、大久保愉伊の『ちかくてとおい』は、かさ上げ工事で土に埋もれてしまう故郷、岩手県大槌町の姿を、震災後に生まれた姪へ向けて映像と言葉で伝えようとする作品。監督自身から姪へ、という個別的で親密な関係性の上に成り立つあり方は、『なみのこえ』の「語り手」と「聞き手」の関係性(夫婦や親子、友人など)とも共通する。
一方、小森はるか+瀬尾夏美の『波のした、土のうえ』では、被写体となる陸前高田の住民へのインタビューを元に、瀬尾が一人称で書き起こした物語を、もう一度本人が訂正や書き換えを行ない、本人の声で朗読する。その声と町の風景を重ねるように、小森が映像を編集した作品だ。物語としての書き起こしと、本人の声による朗読。それは一種の共同作業であり、「声を一方的に簒奪しない」という倫理的側面を合わせ持つ。また、語った言葉そのままでない距離の介在は、自身の経験や感情を客観化する過程であり、生々しさが和らぐ分、「共有できなさ」の心理的な溝が縮まると同時に、プロのナレーターのように矯正していない発話に残る訛りやイントネーションは、他者性を音声的に刻印する。
最後に、本映画祭の「みちのくがたり」というタイトルの含みについて。4作品はいずれも、みちのく(東北)についての語りであると同時に、「ドキュメンタリー」における「語りのあり方」の新たな発明の必要性、語ることとその記録との関係をどう更新するか、という問いの地平を開いていた。

関連レビュー

酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/03/04(土)(高嶋慈)

試写『Don't Blink ロバート・フランクの写した時代』

ロバート・フランクって写真史のなかの人だと思ったら、まだ生きていたんですね。娘と息子を若くして亡くしたが、本人は90歳を過ぎても健在だという。1924年スイスに生まれ、第二次大戦後に渡米。1959年に出した写真集『The Americans』で注目を集めたが、映画にも手を染める。この映画ではさまざまな時代のロバートが入れ替わり登場するが、そんなフィルムが残っていたのは彼自身が映画を撮っていたからだろう。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやローリング・ストーンズらの音楽も懐かしい。

2017/03/03(金)(村田真)

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