artscapeレビュー

2018年01月15日号のレビュー/プレビュー

北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃

会期:2017/10/21~2018/01/28

国立西洋美術館[東京都]

2018年はパリで日本の文化を紹介するジャポニスムの展覧会やイベントが目白押しだが、上野の美術館においてその前哨戦と言うべき企画展が続く。「北斎とジャポニスム」展は、19世紀末から20世紀初頭の西洋において北斎の浮世絵がいかに受容されたかについて、当時の研究書、絵画、工芸から丁寧に辿る。おそらく学芸員が頭をひねりながら、細かく調べた類似例を数多く紹介しており、興味深い内容だった。ただし、はっきりとした北斎の絵や構図の引用、彼からの影響と言えるもの、少し似てはいるけどあまり関係ないのでは? といった異なるレベルの事例が混在しているのが気になった。したがって、すべて北斎やジャポニスムだけに起因させるには無理も感じられた。それにしても改めて驚かされるのは、北斎の作品のバリエーションの豊かなことである。なるほど、これだけひとりで多くのパターンを提示していれば、類似例も探しやすいかもしれない。

もうひとつの企画は、前の月に訪れた東京都美術館の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」である。これはパリで浮世絵と出会い、大きな影響を受けたゴッホの作品を辿るものだ。さらに当時のジャポニスムの様相や、彼の死後に人気が高まり、日本におけるゴッホの紹介の経緯のほか、日本人によるゴッホの聖地巡礼の記録を紹介していたことが興味深い。とりわけ、現地の芳名帳、訪問した人物の書簡、その際の写真やフィルムなどを掘り起こした展示には、調査研究の成果がうかがえる。なお、ゴッホが精神に問題を抱え、晩年に病院で描いた樹木や植物の絵は個人的には面白い作品だが、これらもジャポニスムの文脈で括ることは疑問だった。逆に言えば、こうした企画では、北斎を含む日本の美術とヨーロッパの作品の違いも、あえてきちんと指摘しておかないと、一般の観衆にとっては、なんでもジャポニスムの自己肯定に回収されかねないという危惧も残った。

2017/12/14(木)(五十嵐太郎)

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東北大学五十嵐研究室ゼミ合宿+原発被災地リサーチ

[福島県]

12月16日と17日の両日、五十嵐研のゼミ合宿を兼ねて、原発事故によって避難指示の対象となった被災地のリサーチを実施した。まず最初に常磐線の木戸駅に近い、楢葉町の住宅と連結する小料理屋「結のはじまり」にてヒアリングを行なう。ここを営むのが、福島の阿部直人の建築事務所から転職した古谷かおりである。また、ならはみらいの西崎芽衣は、京都で社会学を学び、卒業してすぐにここに移住し、空き屋バンクなどの事業を動かしている。続いて、緑川英樹が手がける《木戸の交民家》を見学した。築70年ほどの古民家を再生・活用する活動で、地域コミュニティの交流や米づくりなどにも挑戦している。いずれも3.11がなければ、このエリアと関係なかった若い人が参入し、新しい街づくりにかかわっているのは頼もしい。駅の周囲は入母屋の住宅が並び、個性的な街並みの景観がある。ただ、駅前は急ごしらえの安普請のホテルがもうすぐオープンする予定だった。

川内村では、2016年にオープンした村内唯一のCafe Amazonを訪れた。これが東京ならば、なんの違和感もないが、周りにはお店らしいお店がほとんどなく、つぶれたガソリンスタンドの向かいにぽつんとカフェがある。そこで、なぜこの場所にタイのチェーン店の日本第1号店のカフェができたのか、マネージャーに話をうかがう。東日本大震災のあと、コドモエナジー社が復興支援で、川内村に工場をつくったことがきっかけらしい。また焼き肉店をリノベーションした店舗が、隈研吾風のルーバー改修だなと思ったら、やはり福島の木材利用で両者の関係があることも判明した(正確には内外装は隈事務所ではないが)。なお、ここの女性マネージャーも、タイで20年ほど暮らしてから、いきなり川内村にやってきたという。そしてカフェの存在が、タイと日本の文化交流にも貢献しているようだ。やはり、3.11が縁となって、外部から新しい風が入っているのは興味深い。

2017/12/16(土)・17(日)(五十嵐太郎)

ディアスポラ・ナウ!~故郷(ワタン)をめぐる現代美術

会期:2017/11/10~2018/01/08

岐阜県美術館[岐阜県]

展覧会タイトルの「ディアスポラ」(政治情勢、紛争、天災などにより故郷を追われて離散し、新たな土地に居住する民族的共同体)に「ナウ!」が付加され、「故郷」という語をアラビア語の「ワタン」と読ませていることが意味するように、本展の企図は「中東の紛争地域出身の中堅~若手作家の紹介」及び「政治的課題のアートを介した提示」にある。「アートによる商品化や搾取」を批判することは容易いが、脱政治化という政治が常態化した日本にあって、一地方美術館でこうした先鋭的な企画が開催されたことは評価したい。 出品作家は、日本のアートユニットであるキュンチョメ以外の5名は全て、シリア、パレスチナ、モロッコなど中東出身。アクラム・アル=ハラビは、シリアの現状を報道する凄惨な写真を元に、写されたものを「目」「頬」「手」「心臓」「血」など英語とアラビア語の単語に置き換え、コンクリート・ポエトリーのように美しい星座的配置に移し換えるとともに、イメージの消費に対する批判を提示する。東エルサレム出身でパレスチナ人の父を持つラリッサ・サンスールは、歴史修正主義による「証拠発見」を逆手に取り、「民族の歴史」を主張するため、炭素年代測定を操作した「皿=証拠品」を地中に埋める物語を、個人史を織り交ぜて映像化。神話的な光景に聖書やSF映画から借用したイメージを散りばめることで、フィクションとしての歴史=物語を露呈させる。また、2017年のヴェネチア・ビエンナーレにて「亡命館」を企画したムニール・ファトゥミは、波間を漂う船や港湾の映像の前に、ゴムタイヤ、衣服、救命胴着が散乱したようなインスタレーションを展示した。


左奥:ムニール・ファトゥミ《風はどこから吹いてくる?》(2002-) 右手前:ムニール・ファトゥミ《失われた春》(2011)


一方で、本展には問題がない訳ではない。「ディアスポラ」という主題を日本で扱うとき、「ニュースの中の出来事」として安全圏に身を置いたまま享受できる危機や悲惨さは俎上に載せられても、東アジア地域における植民地支配の歴史や「在日」の問題は、盲目的に看過されているのではないか。本展では、「中東の紛争や難民問題」という事象の「遠さ」(物理的/心理的な距離という二重の「遠さ」)を克服するために、キュンチョメが展示の最後に召喚されている。《ウソをつくった話》は、福島の帰宅困難者である高齢者たちとともに、Photoshopの画面上で、画像の中の通行止めのバリケードを「消去」していく過程を映した映像作品。《ここで作る新しい顔》は、日本在住の難民に個展会場に常駐してもらい、来場者とペアで「福笑い」をする様子を記録した映像作品である。いずれも、国内に現実に存在する「(帰宅)難民」とともに、「当事者との共同作業」を行なう点で共通する。


キュンチョメ《ここで作る新しい顔》(2016)


《ここで作る新しい顔》において、「福笑い」をするための「黒い目隠し」は、多義的な意味を担う装置となる。それは個人情報の「保護」であるとともに、「不審者」の暗示であり、「存在の抹消」である。難民たちは、固有性の発露としての「顔貌」を半ば奪われつつも、モニター越しに鑑賞者に対峙する。だが、難民たち一人ひとりを目隠しの正面像として収めたモニターが、ガラスケースの向こう側に設置されていることに注意しよう。「『彼ら』との間を確実に隔て、安全に隔離する透明な壁」の出現。それは、表象のコントロールと管理を行なう展示という近代的制度、美術館という場の政治性をはからずも露呈させてしまっており、この透明な「壁」の見えにくさこそが真に問われるべきではないか。

2017/12/17(日)(高嶋慈)

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TOP Collection アジェのインスピレーション ひきつがれる精神

会期:2017/12/02~2018/01/28

東京都写真美術館[東京都]

ウジェーヌ・アジェ(1857~1927)は不思議な写真家である。1890年代からパリとその周辺を大判カメラで隈なく撮影し、プリントして安い値段で売りさばくのを仕事にしていた彼は、生前はほとんど無名だった。だが、当時マン・レイの助手を務めていたベレニス・アボットが、アジェの死後に遺族と交渉して、そのネガとプリントの一部をアメリカに持ち帰り、精力的に彼の作品を紹介したことで一躍「近代写真の先駆者」として注目を集めるようになる。以後、その評価はさらに高まり、多くの展覧会が開催され、写真集が刊行されて、世界中の写真家たちに影響を与えるようになった。今回の展示は、東京都写真美術館が所蔵するアジェのヴィンテージ・プリント約40点、ベレニス・アボットがプリントしたポートフォリオ20点を中心にして、「アジェのインスピレーション」がどのように引き継がれてきたのかを検証するという、とても興味深い企画だった。
ジャン=ルイ・アンリ・ル・セック、シャルル・マルヴィルらの先駆者、同時代のアルフレッド・スティーグリッツの作品に加えて、アジェに有形無形の影響を受けたベレニス・アボット、ウォーカー・エヴァンズ、リー・フリードランダー、荒木経惟、森山大道、深瀬昌久、清野賀子の写真が並ぶ。アボットやエヴァンズやフリードランダーは当然というべきだが、荒木、森山、深瀬、清野といった日本の写真家たちの作品が、アジェの写真と共存して、それほど違和感なく目に馴染んでくるのがやや意外だった。それぞれの作風は相当にかけ離れているにもかかわらず、アジェを消失点として見直すと、鮮やかなパースペクティブが浮かび上がってくるのだ。それは逆にいえば、アジェの写真のなかにその後の写真家たちの表現の可能性が、すでに組み込まれていたということでもある。特に都市を撮影する時のアプローチにおいて、あらゆる事物を等価に位置づけていくアジェの方法論は、いまなお有効性を保っているのではないだろうか。

2017/12/20(飯沢耕太郎)

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無垢と経験の写真 日本の新進作家 vol. 14

会期:2017/12/02~2018/01/28

東京都写真美術館[東京都]

毎年開催されている東京都写真美術館の「日本の新進作家」のシリーズも14回目を迎えた。この「新進作家」という枠組みはいささか微妙で、すでにかなり知名度がある写真家が選出されることもあり、テーマ設定とフィットしない場合も多々あった。だが、今回は新鮮でバランスのとれた、かなりいいラインナップになった。「無垢と経験」というやや大きな間口のテーマにしたことが逆にうまくいったのではないだろうか。
吉野英理香、金山貴宏、片山真理、鈴木のぞみ、武田慎平という出品作家の顔ぶれを見ると、その作品の幅はかなり大きい。独特のリズム感を感じさせる日常スナップを撮影する吉野英理香と、義肢と共に生きるセルフポートレートと自作のオブジェとを組み合わせてインスタレーションした片山真理の作品は、ほとんど正反対のベクトルを備えているといってよい。統合失調症を発症した母親を撮り続ける金山貴宏、窓、鏡などに映し出される何気ない眺めを定着する鈴木のぞみ、東北・関東地方の汚染土壌に印画紙を埋めて、放射線の痕跡をトレースした武田慎平の作品も、まったくバラバラな方向を向いている。だが、現代社会のさまざまな「経験」の深み、奥行き、距離感を、それぞれが写真という媒体の特性を活かして表現しようとする、その切実さがきちんと伝わってきた。
ただ、このような独立した個展の集合のような展示の場合、写真作品相互の関係のあり方にはもう少し気配りが必要だったのではないだろうか。互いに干渉しあって、展示効果が相殺されてしまっているところもあった。

2017/12/20(飯沢耕太郎)

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2018年01月15日号の
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