artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

『冬の夜ひとりの従業員が』

会期:2018/02/12~2018/02/15

若葉町ウォーフ[神奈川県]

私はこの作品を東南アジアの友人と見た。彼らとは英語で話すのだが、英語が上手くない私はしばしば疎外感を感じることになる。だが、一方で私が彼らに強い親しみを覚えているのも、彼らとお互いに母国語ではない英語で話しているからだと思うのだ。

『冬の夜ひとりの従業員が』は台湾のアーティスト3組による三つの作品からなる。会場1階で上演された再拒劇団『定例監査の協奏』はキーボード、コーヒーメーカー、バネ、釘などが設置された大きなテーブルを楽器として使ったサウンドパフォーマンス。スーツを着込んだビジネスマンめいたパフォーマーたちが机を囲み、無表情のままオフィスワークのように「演奏」する様は非人間的だ。その耐えがたさはときに暴力となって噴出するが、作り手のアイロニカルな視線はパフォーマンスをどこかユーモラスなものにもしている。

[Photo: Ash Lin]

2階のスタジオで上演されたのはサウンドデザイナー蔣韜(チアン・タオ)とオブジェクトシアターアーティスト曾彥婷(ツェ・ヤンティン、カッパ)による『ナイトウォーク:何故?』。影絵と音によって夜の街の風景が立ち上がり、気付けばそれは幻想的なものへとスライドしている。やがて光と音が消えると彼らは窓を開け外を眺める。ノスタルジーと孤独のアンビバレントは若葉町という現実に接続され、そこに滞在する異国のアーティストである彼ら自身に回帰する。

[Photo: Ash Lin]

3階は宿泊施設。黄鼎云(コウ・ディンユン)『緘黙』の観客はそこに並ぶ二段ベッドのひとつに一人ずつ、あるいは男性二人で入り、カーテン越しにフロアの音を聞く。就寝準備の音は男性同士の愛の囁き、性行為の音へと移り変わり、観客は密かに聞き耳を立て続ける。見知らぬ者同士の一夜の関係。

[Photo: Ash Lin]

三つのパフォーマンスの示す疎外感と親密さは、海外からやってきた住人が多く住む若葉町という街が抱えるものでもあるだろう。二つの感情は相反するものではなく、ときに共犯関係を結んで魔法をかける。疎外感を共有する親密さ。そのとき、孤独は少しだけ温かい。


公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=ifonawintersnightanemployee

2018/02/15(山﨑健太)

藤原ちから(BricolaQ)『演劇クエスト・横濱パサージュ編』

会期:2018/02/10~2018/02/18

横浜市中区[神奈川県]

『演劇クエスト』の参加者は、「冒険の書」と呼ばれるガイドブックを手に街を歩く。ガイドブックといってもそこに載っているのは観光名所などではなく、物語の断片だ。ゲームブックというものを知っているだろうか? 文中に分岐がいくつも埋め込まれていて、読者は自身の選択が生み出す無数の物語を楽しむという趣向の本だ。『演劇クエスト』の参加者もまた、現実の街を舞台に自ら行動を選択しつつ、物語に導かれ歩みを進める。

「横濱パサージュ編」には11の物語が含まれている。所要時間は1本につき20分から90分。JR桜木町駅観光案内所や象の鼻テラスなどで「冒険の書」をピックアップしたら、まずは物語の始点のひとつに向かおう。たとえば山下公園・氷川丸。そこから見知らぬ街の表情に触れる旅が始まる。

[撮影:山﨑健太]

読者に「あなた」と呼びかける『演劇クエスト』の語り手は控えめな存在だ。私の知らない街の歴史を語り(例えばあなたは山下公園が何でできているか知っているだろうか?)、見知らぬ場所へと導いてくれることもあるが、その声はときにあまりに慎ましく、私はしばしば道に迷ってしまう。声はすべてを語らない。

見知らぬ街のよそよそしさと、寄り添う声の親密さ。導く声と、さまよう余白。すぐそばに佇む過去と、無関係に通り過ぎる現在。『演劇クエスト』のよくできた不親切設計は予定調和の「冒険」を用意するのではなく、ささやかなれど未知なるものへと、あるいは忘れていた思い出へと私の目を開く。

潮の香りと波音のする横浜は冒険を始めるにはうってつけの街だ。城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山。『演劇クエスト』はいくつもの街を旅してきた。そしておそらくこれからも。私はまだひとつの街の、たった二つの物語を辿ったに過ぎない。ここにはまだ九つの物語が残っている。街にはさらに無数のそれが。あなたの知らない物語に思いを馳せること。Then, you could be a stranger anywhere.


[撮影:山﨑健太]


公式サイト:
https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=engeki-quest
https://www.facebook.com/engekiquest/
http://bricolaq.com/

2018/02/15(山﨑健太)

TPAM2018 ク・ジャヘ × シアター、ディフィニトリー『BankART Studio NYK kawamata Hall』

会期:2018/02/13~2018/02/14

BankART Studio NYK kawamata Hall[神奈川県]

木製パレットを組み上げて壁と天井を覆い尽くした川俣正のインスタレーションで内部空間を構成された、kawamata Hall。カラフルなスーツケースを引いた一人の女優が登場する。毒舌と自嘲、激しいシャウトと乾いたユーモアが入り混じる一人芝居が始まる。飼っていた猫の話、ソウルでの度重なる引っ越し、格安物件での貧乏生活、翻訳のバイトの掛け持ち、また太ったこと、恋人との別れといった私生活が赤裸々に語られる。また本作は、再演の度にその上演場所の名をタイトルに冠しており、「今回のkawamata Hallバージョンのために台詞を覚え直さないといけない」など「演出家への愚痴」や「作品制作の内部事情」がメタ的に吐露される。「世界中どこのフェスティバルにも喜んで行きます」とメールアドレスをアピールするしたたかな商魂。一方で、韓国演劇業界における男尊女卑への批判や、客入れの誘導や照明操作も自ら行なって「舞台芸術の現場を支える労働」そのものを舞台に上げて可視化するなど、「舞台芸術」に対するメタ的な言及が幾重にもなされていく。


[撮影:前澤秀登]

「韓国の劇評で『言いたい放題祭り』と言われた」と自ら明かすように、自虐的な笑い混じりに内輪ネタを語る中に、「韓国演劇業界における女性」「レズビアン」といった二重、三重のマイノリティ、「舞台芸術をとりまく労働条件」「グローバルなフェスティバルという巡業サーキット」といった問題が浮かび上がる。「スーツケース」は「巡業サーキット」への示唆であるとともに、彼女自身の「居場所の無さ」の象徴でもある。こうした問題は日本とも通底するが、シリアスさを吹き飛ばすようなパフォーマンスのパワフルさが救いか。また、セクシュアリティ、家族の離婚、宗教といった個人的な生についての語りは、その切実さとともに、「演劇作品」と「ドキュメンタリズム」の境界についての問いも喚起する。

会場のkawamata Hallは、「物質の集積」という点で圧迫感があり、しかし同時に重力を無視して上昇していくような解放感も感じられる不思議な空間だ。そうした圧迫感と無重力的な宙吊り感の狭間、端正な乱雑さとでもいうべき空間性とも相性の良い公演だった。


[撮影:前澤秀登]

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/

2018/02/13(火)(高嶋慈)

TPAM2018 チョイ・カファイ『存在の耐えられない暗黒(ワーク・イン・プログレス)』

会期:2018/02/12~2018/02/13

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

「イタコの口寄せで土方巽の霊を呼び出し、新作への参加を依頼した」という触れ込みのチョイ・カファイ作品。恐山の光景、イタコを介した「土方の霊」へのインタビュー映像が流れた後、モーション・キャプチャーの装置を全身に付けたダンサー、捩子ぴじんが登場。イタコ役の女性が般若心経を唱え、捩子が腰を軽く揺動させながら動き始めると、背後のスクリーンに「土方の3Dアバター」が出現する。年齢のカウントとともに、『禁色』『土方巽と日本人 肉体の叛乱』『疱瘡譚』などの代表作が断片的に「再現」されていく。ゲスト出演の麿赤兒との「共演」を挟み、ラストでは、2018年に「90歳」(!)になった土方のアバターを、ボカロが歌う多幸感溢れるテクノポップの般若心経にのせて踊らせてしまう。

ここで想起するのは、テクノロジーを駆使し、映像/生身の身体との同期や憑依の(不)可能性を扱ったカファイの『Notion: Dance Fiction』との比較である。この作品は、土方やピナ・バウシュといった歴史的なダンサーや振付家の映像記録の身体の動きをデータ化し、「筋肉を動かす電気信号」に変換し、電極を付けた生身のダンサーの身体に「移植」することでダンスの動きを「再現」させ、伝説的ダンサーの身体との融合の夢を描くというものだった。ここでは真偽や科学的根拠の正当性よりも、オリジナル/コピーの関係、振付に従うダンサーの主体性や自己同一性、機械的な因果律に支配された身体観、ダンスと映像アーカイブ、歴史的文脈の受容と解体についてこそが問題化されている。『Notion: Dance Fiction』では、映像から抽出された(とする)「電気信号」がダンサーの身体に憑依する一方、今作では、生身のダンサーの動きから3Dアバターへと変換された運動がスクリーンの中に生起する。ベクトルは逆で、「科学的根拠」か「スピリチュアルな霊的世界」かの違いはあるが、ともに映像的身体の亡霊性を扱っている。


[撮影:前澤秀登]

そう考えると、終盤にボカロ曲が使用された理由も納得がいく。ボカロも「生身の身体を持たない」存在であり、「ダンス」は生身の固有の身体を離れても存在可能なのかという問いが浮上する。物理的制約や肉体的衰えの影響を受けない3Dアバターを自由自在に踊らせれば、新たな「ダンス」の地平が切り開かれたと言えるのか?

また、「イタコの口寄せによる新作依頼」という仕掛けは、「ジャクソン・ポロックの霊に新作のアクション・ペインティングを描かせた」太田祐司を想起させる。「ポロックの霊」による新作絵画と同様、「土方の霊」による新作は果たして「土方作品」と言えるのか? ダンス作品をめぐる「署名」や「真正性」の問題も提起される。

カファイの手つきは両義的だ。東北、イタコ、民間信仰といったエキゾチシズムの諸要素を(外部からの視線として)投入し、「キッチュなまがいもの」として「土方の暗黒舞踏」を再構成/解体するようでいて、舞踏出身の「捩子ぴじん」というダンサーを通してその身体的ルーツを遡行的に探ろうとするからだ(ダンサー固有の身体を介して、身体化された個人的記憶の探求とともに、ダンスの歴史的文脈へと逆照射しようとする姿勢は、『Notion: Dance Fiction』や『ソフトマシーン:スルジット&リアント』においても共通する)。ただ、この過去の2作品と比べると、本作は切れ味の鋭さに欠け、最後はエンタテインメント的な祝祭感でごまかした感が否めない。「ワーク・イン・プログレス」と銘打たれているので、今後の深化に期待したい。


[撮影:前澤秀登]

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/

関連レビュー

チョイ・カファイ「ソフトマシーン:スルジット&リアント」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/02/12(月)(高嶋慈)

TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』

会期:2018/02/12~2018/02/13

KAAT神奈川芸術劇場 ホール[神奈川県]

梅田哲也が劇場のテクニカルチームに「インターン」として潜入して制作した、というのがタイトルの由来。本作は、「舞台上に見るべきものは何もない」という表象批判・劇場批判をリテラルに遂行しつつも、劇場の物理的機構そのものを用いて圧倒的な感覚的体験の強度をつくり出した。

観客はまず、本来は「見えない」ところに吊られてあるはずの多数の照明装置が下ろされた舞台を目にすることになる。裏方スタッフたちによって、移動式の一階席の椅子が舞台裏に運ばれ、エレベーターに乗せられ、運び去られていく。あちこちに設置されたスピーカーの出力チェックが行なわれ、劇場空間が音響的な遠近感をもって体験される。ゆっくりと上げ下げされる照明装置。階段状にせり上がる客席の床。そうした物理的機構の「運動」と裏方の現場作業を見た後、観客は二階座席に誘導され、舞台の前列に並んだオーケストラを見下ろすことになる。チューニングがいつしか即興的な演奏へと変わる。照明装置が一段ずつ上昇し、焚かれたスモークにまばゆい光が当たり、機械の森の幻影のように直交する光と影が移ろう。オーケストラピットはゆっくりと下降し、楽器隊は見えなくなるが演奏は続く。無人で空っぽになった舞台空間上を、照明装置の投げかける光と影、そして音響が満たしていく。上方に吊られた反響版が下降を始め、ゆっくりと角度を変えながら夜のとばりが下りるように客席と舞台の間を遮っていく。囁き声、そして呼吸のような音。再び反響版が上がると、舞台上には椅子や機材がきちんと並べられ、「いつも通り」裏方スタッフたちがテキパキと行き交っていた。


[© Rody Shimazaki]

まず、通常は不可視である舞台上の構造をむき出しにし、「非日常」のイリュージョンを出現させる舞台の「日常」の光景を見せる。そして、劇場機構を駆使した、光と音による圧倒的な「非日常性」を体験させた後、空っぽだった舞台上には再び機材や裏方が姿を見せ、「日常」へと回帰する。本作の構造はこのように記述できるだろう。それは非日常と日常が何度も反転しながら入れ替わる交替劇であり、光から闇へ、生から死へ、そして夜と死を潜り抜けて再び生へと回帰するドラマでもある。単なる表象批判や劇場批判を超えて、崇高感すら漂う感覚体験へと反転・昇華させた点が鮮やかであり、そこに本作の意義はある。


[© Rody Shimazaki]

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/

2018/02/12(月)(高嶋慈)