2021年04月15日号
次回5月17日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

VOCA展2021 現代美術の展望—新しい平面の作家たち—

会期:2021/03/12~2021/03/30

上野の森美術館[東京都]

昨年の「VOCA展」はコロナ騒ぎのまっただなかに開かれ、最後の数日は閉館を余儀なくされ、直後に最初の緊急事態宣言が出された。今年は2度目の緊急事態宣言の最中に始まり、会期中に解除された。10年前は震災直後に初日を迎えたものの、翌日からしばらく閉館したという。弥生は厄月か? 来年はどうなっているやら。

そんな厄災もどこ吹く風、展覧会はおもしろかった。なにがおもしろいかって、まず表現メディアが多彩なこと。いちおう「平面」に限定しているが、油彩、日本画、写真に加え、ヴィデオ映像や壁面インスタレーションも珍しくなくなった。VOCA賞を受賞した尾花賢一の《上野山コスモロジー》も壁面インスタレーションというべき作品。さまざまな大きさのキャンバスの木枠や額縁を組み合わせ、その上に紙にインクで描いたマンガチックな絵を載せている。その絵は、ロダンの《考える人》や高村光雲の《老猿》などの美術品だったり、「モナリザ展」に詰めかける群衆だったり、寝場所を追われたホームレスだったり、落書きだらけの交通標識だったり、路上のゴミを漁るカラスだったり、いずれもいまこの作品が置かれている「上野」に関係する事象ばかり。形式と内容と場所が一致した稀有な例といえるだろう。

ほかに、半透明の布に祖父母や母の画像をプリントして重ねた鄭梨愛や、ブルーシートの下半分に10万3千個のBB弾を縫いつけた長田綾美の作品も目を引いた。作品の意味や内容はさておき、どちらも物理的に柔らかい布なのでタブローのように壁にかけられず、カーテンみたいに吊るしている。カーテンとしての絵画、あるいは絵画としてのカーテン。これは屏風絵や襖絵にも通じる発想で、美術を家具や建材として見直す視点を与えてくれる。襖絵といえば、岡本秀の《複数の真理とその二次的な利用》は、襖と画中画と遠近法を巧みに掛け合わせて位相空間を現出させている。また、支持体に透明アクリル板を使った者が2人いて、武田竜真はパースがついたような変形アクリル板に古典的な花柄を描き、薬師川千晴はアクリル板の両面にやはり花柄のようなタッチの絵具を載せている。透明板は両面使えるため絵画の可能性を広げてくれるかもしれない。でもなんでアクリル板に油彩なのか。アクリル板ならアクリル絵具のほうがふさわしいし、油彩なら不便でもガラス板を使うべきではないか、と思ってしまう。

真っ当(?)な絵画にも見るべき作品は多い。薄塗りの今井麗の《SUMMIT》は一見さわやかでじつは不気味な印象を残し、逆に絵具を何センチも盛り上げた水戸部七絵の2点はそれだけでうっとうしいほど存在感を発揮する。設楽陸、永畑智大、弓指寛治の3人はいずれもゴテゴテとにぎやかに画面を埋め、時代や世相を反映させて見応えがある。もう1人、ジンバブウェ生まれの吉國元の《来者たち》は、紙に色鉛筆で描いた33点セットだけど、不思議な求心力を備えていて注目した。

2021/3/30(火)(村田真)

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西條茜「胎内茶会」

会期:2021/03/23~2021/03/31

京都市営地下鉄醍醐車庫[京都府]

元小学校をリノベーションした京都芸術センターでは、建物内にある茶室を活かし、美術作家、舞台芸術や伝統芸能のパフォーマー、研究者、建築家などが席主をつとめてもてなす「明倫茶会」を2000年より継続的に開催している。コロナ禍で開催ができないなか、芸術家支援事業の一環として、オンラインで参加する「光冠茶会(ころなちゃかい)」が2月~3月に開催された。参加者には、席主が選んだお茶とお菓子が事前に届き、各会場からのライブ配信を視聴しながらそれらを味わうというものだ。本評で取り上げるのは、そのうちのひとつ、陶芸家の西條茜による「胎内茶会」。ただし、オンライン茶会ではなく、配信会場である京都市営地下鉄の醍醐車庫で開催された個展のほうを取り上げる。

受付で検温や消毒を済ませ、コンクリートに囲まれた薄暗く狭い階段を降りていく。降りた先に広がるのは、地下の広大な空間だ。そこに配された西條の陶芸作品は、多彩な釉薬が重ねられた艶やかな表面と、ラッパ状の口や穴をいくつも持つ有機的な多孔体や管構造をしており、奇妙な金管楽器や原始的生物、人体の臓器のようにも見える。その展示空間に、鈍い金属音の残響が響き、巨大な空洞を満たしていく。この音はオンライン茶会でのパフォーマンスの記録映像から流れており、パフォーマーたちが西條の作品に実際に息を吹き込んで、楽器のように音を鳴らしている。それは、楽器の演奏であると同時に、文字通り呼気を吹き込んで生命を与える行為であり、作品を抱きかかえるように、あるいは作品の中に身を埋めるようにして息を吹き込むパフォーマーたちは、硬いはずの作品と境界が溶け合って一体化しているようにも見えてくる。



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]


都市の地下に穿たれた巨大な空洞である地下車庫の空間、内部が空洞である陶磁器、呼気が音となって排出される管楽器、人体もまた口から始まって肛門へと至る消化器官が体内を貫く一本の管である。そうした何重もの入れ子構造や転換の作用が体験の強度を支える本展において、鑑賞者は自身の身体への反省的な意識へと導かれる。そこに、「オンライン企画の付随物」ではなく、本展がリアルの場において開催・公開されたことの意義がある。

同時に、「生でパフォーマンスを体験したかった」と強く感じられた。たとえば、複数の穴や開口部を持つ作品では、どこから息を吹き込むのか、あるいは1人で息を吹き込む場合と2人以上で行なう場合では、音が違うのか。どのくらい音程的な変化が付けられるのか。作品の配置とポリフォニーの形成は、どのような関係を結びうるのか。造形と聴覚体験を組み合わせた「パフォーマンス作品」としての発展可能性も感じられる個展だった。

西條茜:https://akane-saijo.jimdofree.com

2021/03/30(火)(高嶋慈)

佐藤可士和展

会期:2021/02/03~2021/05/10

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

言うまでもなく、デザインの展覧会は、基本的に一品モノではないため、アートに比べると、どうしても強度が落ちる。だが、そこでしか体験できない何か、すなわち複製できない体験をつくりだせば、必ずしもそうはならない。「佐藤可士和展」は、そうした仕掛けを周到に用意している。例えば、国立新美術館の天井高のある展示室は、アートでもなかなか使いたおすのは難しい。だが、さすがに街中での広告を展開してきただけあって、巨大な壁面にあわせたレイアウトによって展示を行ない、遠くからの視認性も抜群である。縮小・拡大可能なデザインだからこそ、逆に会場の大きさを生かした展示になっていた。また展示が終わった後、関連グッズを販売するショップのエリアも、リアルなインテリア・デザインを試みている。ちなみに、ほぼすべての展示は撮影可となっており、それをうながすような場も計算され、来場者があちこちで記念写真を撮っていた。これらはSNSなどで拡散され、さらに来場者を呼び込むはずだから、アートディレクターとして自分の展覧会をどのように広告するかも考えられている。


「佐藤可士和展」より。企業ロゴのコーナー


佐藤可士和が手掛けたポスターのコーナー


《カップヌードルミュージアム 横浜》のコーナー


セブンイレブンのリブランディングプロジェクトに関する商品展開

SMAPのCD、国立新美術館、T-POINT、楽天などのロゴ、ポスターのグラフィックデザイン、カップヌードルや今治タオルのブランディング、コンビニの商品パッケージのデザイン、ユニクロのショップ展開から、《ふじようちえん》や団地再生のプロジェクトまで、活動は多岐にわたり、改めてわれわれの日常の様々な場面で、佐藤がプロデュースするデザインに出会っていたことを思い知る。したがって、これはデザインが重要であることを社会に認知してもらうことに貢献する展覧会だろう。個人的に興味をもったのは、まとめて見ると、モダニズム、コラージュ、ミニマリズム、ポップアートなど、近現代美術の手法の流用が多いことだ。展示のラストでは、美術館ということで佐藤のアート作品、「LINE」と「FLOW」のシリーズも紹介されていた。これは建築家の展覧会がしばしばそうなるように、セルフ・プロデュースのデザイン展だろう。もっとも、美術館だからこそ、学芸員のキュレーションにより、アートがどのようにデザインに導入されたかを分析するような内容も見たかった。


ショップにもなっている、ユニクロのグラフィックTシャツブランド「UT」の国立新美術館バージョン


リニューアルプロジェクトを佐藤がプロデュースした《ふじようちえん》の模型とAR画面


佐藤可士和のアートワーク「FLOW」シリーズより

公式サイト: https://kashiwasato2020.com/

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佐藤可士和展|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年02月15日号)

2021/03/29(月)(五十嵐太郎)

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キリコ「school goods」

会期:2021/03/06~2021/04/09

ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]

ニートになった元夫との日々、祖母の介護、妊娠など、家族や家庭内での私的な経験や自身が抱いた葛藤を見つめ、家族という関係性や親密圏におけるコミュニケーションについて、写真や映像というメディアが持つ距離を介在させて主題化してきたキリコ。前作《mother capture》では、「窓辺の室内で授乳中の女性」を背面から撮影した映像から切り出したキャプチャ画面を写真作品として提示。「母子の親密な身体的コミュニケーション」から、親密さの核となる慈愛に満ちた表情や眼差しを覆い隠し、「母子像」「窓辺の女性像」という女性表象を後ろ姿として反転させる。それは、(不妊治療中である自身が抱く)疎外感と憧憬という複雑で私的な感情とともに、聖母子をはじめとする絵画史上の女性表象への批評性や、孤独さの強調、家庭領域への隔離、授乳スペースの整備など社会的サポートの不十分さといった問いを投げかける。

出産を経て発表された本展「school goods」では、自身の娘が通う幼稚園から「おけいこバッグ」「上履きを入れる巾着袋」などさまざまな「手作りの布小物」を通園用に用意するように指示されたことに対する違和感や疑問が制作の動機となっている。台座に整然と並べられているのは、作家自身が娘のために手作りしたものと同じ型でつくった、手さげバッグ、巾着袋、小物ケース、タオル、スモック、布団カバーなどだ。ただしそれらは、「愛情を込めた手作りの証」である動物やお花のアップリケ、刺繍やリボンなどの装飾、ネームタグがなく、カラフルな色や柄の布の代わりにただの白い布地でつくられている。また、「印象化石」と題された作品群では、1980年代から2010年代までの手芸雑誌をお手本にして手さげバッグや巾着袋をつくり、石膏で型取りしたものを黒縁の標本箱に収めている。約40年前からほとんど変わらない「手作りの布小物」が、「化石」すなわち時間が凍結された太古の遺物として提示される。その「変わらない形」は、時間が止まったかのように「変わらない社会構造」そのものの象徴でもある。戦後以降の主婦向け雑誌や手芸雑誌の誌面をコラージュし、「集合的な声」として可視化する作品は、「個人の問題」ではなく、社会全体が構造的にそうなっていることを示す。



会場風景




会場風景


ここでまず問われているのは、「時間と手間をかけた手作りこそ愛情の証であり、母親(妻)の当然の義務である」とする社会に浸透した価値観である(「通園グッズ」に限らず、「料理」「お弁当」も同様だ)。キリコの作品は、手作りの布小物からアップリケや刺繍といった一切の装飾を剥ぎ取り、無機質な白い物体として還元することで、「愛情」「母性」を自然なものとして自明視する社会的なジェンダー規範に疑問を突きつける。ここで想起されるのは、キッチンやリビングの家電製品や家具、ベッドを無機質な金属でつくり替え、作業音のノイズが響く「工場」「作業現場」として提示するモナ・ハトゥムのインスタレーション《Homebound》である。家庭内で女性たちが従事する家事や育児、ケアを「愛情」「母性」といった美辞麗句で覆って本質を隠すのではなく、それらを徹底して剥ぎ取ることで、再生産労働を「労働」として捉えるよう、見る者は促される。

また、各年代の手芸雑誌の図版をコラージュした作品と並置されることで、「白」という色が持つもうひとつの意味が浮かび上がる。コラージュ作品では、誌面から切り取られた手さげや巾着の写真が、青や水色、黄色、ピンクや赤といった色のグラデーションで並べられている。時代は変わっても、「男の子向け」のデザインは青や水色の布にクルマ、ロケット、恐竜、サッカーボールなどのモチーフが配され、「女の子向け」のデザインはピンクや赤の布にウサギやネコ、花、リボンなどのモチーフが配されている。装飾を欠いた「真っ白の布小物」は、母親の家庭内労働に加え、子ども時代から身の回りの品々を通してすでに醸成されるジェンダー規定を批評的に漂白する。

さらに興味深いのが、「mother’s murmur」と題された作品群だ。同様に白地で縫われた布小物をよく見ると、「わたしのじかんはどこ?」「ひとりでゆっくりたべたい」「My body is for my daughter」といった言葉が白い糸で刺繍されている。その心の声は、じつは蓄光の糸で刺繍されており、光の当たる明るい場所では布の表面にほぼ同化して見えにくいが、「陰」「暗闇」の中でのみぼんやりと浮かび上がる。そこでは、「白」という色が、「作者」が不在の手工芸の領域を「無名」の匿名的な母親たちが担ってきたことを示すとともに、「光」という要素によって、家事や育児、ケアといった「シャドウワーク」について示唆する。表には見えにくい「シャドウワーク」を担う母親の呟きに、文字通り「光を当てる」ことで、その声はかき消されてしまう。光の当たらない陰や暗闇の中でしか、そのかすかな声は聞こえない。だが、声は確かにそこに存在しているのだ。

なお本展は、東京の「Roonee 247 fine arts」での巡回が6月22日(火)〜7月4日(日)に予定されている。



会場風景


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キリコ展「mother capture」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年03月15日号)

2021/03/26(金)(高嶋慈)

モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて

会期:2021/03/23~2021/06/06

SOMPO美術館[東京都]

ピート・モンドリアンといえば、かの有名な「コンポジション」シリーズの作品が思い浮かぶ。くっきりとした黒い線に赤、青、黄の三原色で格子状に構成された、あの幾何学的抽象画だ。制作から1世紀経った現在においても、このシリーズ作品はバランス感覚に優れていて、究極の抽象画であると改めて実感する。しかし当然ながら、これらは一朝一夕で制作されたものではない。この境地に至るまでに、モンドリアンは実にさまざまな紆余曲折を経てきた。本展はその変遷に触れられる貴重な機会であった。

19世紀末、オランダ中部に生まれたモンドリアンは、アムステルダムでハーグ派に影響を受けた風景画を描くことから出発する。最初期は写実主義に基づく田園や河畔風景などを描くのだが、ハーグ派の特徴であるくすんだ色合いのせいか、色彩が単一的に映り、すでに抽象画の萌芽も感じさせた。まもなくモンドリアンは神智学に傾倒し、神秘的な直観によって魂を進化させようとする精神論により、抽象画へと向かっていく。この頃、点描による風景画を多く残した。また1911年にアムステルダムで開催されたキュビスムの展覧会に衝撃を受けたモンドリアンは、パリに移住する。その後、再びオランダに戻り、第一次世界大戦を挟んで、テオ・ファン・ドゥースブルフと出会った。このあたりから線と色面による抽象的コンポジションの制作を始める。つまり「コンポジション」の発想には、キュビスムが少なからず影響していたというわけだ。

ピート・モンドリアン《砂丘Ⅲ》1909 油彩、厚紙 29.5×39cm デン・ハーグ美術館[Photo: Kunstmuseum Den Haag]

そして1917年にドゥースブルフらと「デ・ステイル」を結成して雑誌を創刊し、「新造形主義」を提唱して、絵画のみならずデザイン領域にまでその影響を与えていく。私が知っているモンドリアンはこのあたりだ。本展では同じく「デ・ステイル」に参加した、ヘリット・トーマス・リートフェルトの「ジグザグ・チェア」や「アームチェア(赤と青の椅子)」など名作家具の展示やシュレーダー邸の映像紹介があり、インテリア好きも満足する内容となっていた。風景画と抽象的コンポジションとでは作風がずいぶんかけ離れているようにも見えるが、しかし経緯を追って見ていくと自然と納得がいく。まるで写真の解像度を落としていくように表層を徐々に解体させていき、最後にもっとも伝えたい骨格や真髄のみを描いたように見えるからだ。エッセンスしかないからこそ、モダンデザインにも応用が効いたのだろう。

ピート・モンドリアン《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》 1921 油彩、カンヴァス 59.5×59.5cm デン・ハーグ美術館[Photo: Kunstmuseum Den Haag]

展示風景 SOMPO美術館


公式サイト:https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2020/mondrian/
※日時指定入場制
※画像の無断転載を禁じます

2021/03/22(月)(杉江あこ)

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