artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ほそくて、ふくらんだ柱の群れ ─空間、絵画、テキスタイルを再結合する
会期:2023/09/19~2023/09/29
オカムラ ガーデンコートショールーム[東京都]
昨年までオカムラ・デザインスペースRで展示を企画していた建築史家の川向正人の役割を、今年から筆者が担当することになり、会場も原っぱをイメージした「OPEN FIELD」という名前に刷新した。そして建築家の中村竜治、テキスタイル・デザイナーの安東陽子、アーティストの花房紗也香の3名に声がけし、異なる分野のコラボレーションによって新しい空間をつくることを依頼した。
「ほそくて、ふくらんだ柱の群れ」展示風景
花房は画家なので、当初は壁やカーテンが入る、ピクチャレスクなインテリア・ランドスケープが出現することを想定していたが、中村は三者を密接に結びつける柱の形式を提案し、予想を超えるチャレンジングな企画となった。すなわち、天井と柱身をつないで構造を安定させるテキスタイル製の柱頭と、自律性が強い絵画の平面性を解体するように柱身に巻き付いた絵は、それぞれ安東と花房にとって、初めて試みる表現である。通常、建築にとってテキスタイルは装飾的な役割を果たすが、ここでは摩擦力によって柱が倒れないように作用し、構造の要となる柱頭に変容した。
テキスタイル製の柱頭
また花房は、個人的な出産体験を踏まえ、半透明な筒状の絵画を構想した。今回は2枚の絵を描き、それぞれを5分割して筒にプリントしている。ゆえに、具象的なイメージではなく、抽象的な作品にしたという。もともと花房の作品は、絵の中に複数のレイヤーを重ねた室内が描かれることが多いが、今回は彼女の絵が断片化しながら室内に散りばめられ、柱の森をさまよううちにイメージが統合されるような鑑賞体験がもたらされた。
トークの準備中
ところで、中村によるエンタシスのある多柱の空間は、ギリシアや法隆寺など、古代の建築にも認められる。高さに対する柱間のプロポーションだけでいえばエジプトの神殿に近いが(神殿の柱は異様に太い)、一方で細い柱の整然としたグリッドの配置は、近代のユニバーサル・スペースとも似ていよう。だが、モダニズムに柱頭やエンタシスは存在しない。絵画が統合された建築は、前近代的でもある。そして手づくりのかわいらしい(おいしそうでもある)テキスタイルの柱頭は、職人が制作したロマネスクの柱頭を思い出させる。かくして「ほそくて、ふくらんだ柱の群れ」は、これまでになかった現代的なデザインと、クラシックな感覚を併せもつインスタレーションとなった。
中村による什器と、安東・花房の作品集
手前はオカムラの社内コンペで選ばれた麻生菜摘による什器。柱を切断し、積み木のように組み立てる
廊下からの風景
ほそくて、ふくらんだ柱の群れ ─空間、絵画、テキスタイルを再結合する:https://www.okamura.co.jp/corporate/special_site/event/openfield23/
2023/09/19(火)(五十嵐太郎)
横尾忠則 寒山百得展
会期:2023/09/12~2023/12/03
東京国立博物館 表慶館[東京都]
東博というと日本の古美術のイメージが強いが、忘れたころに現代美術もやる。5年前の「マルセル・デュシャンと日本」は記憶に新しいが(デュシャンはもはや古典かも)、表慶館では20年ほど前に東京国立近代美術館の企画で「美術館を読み解く:表慶館と現代の美術」を開いたこともある。前者は日本美術とのつながりを示し、後者は建築空間に触発された作品を展示するという点で、どちらも純粋な現代美術展というより、東博および古美術との関係を強調するものだった。今回もなんで横尾忠則が東博で? と思ったが、「寒山拾得」をモチーフにした作品だと知って納得。
寒山拾得は奇行で知られる中国の超俗的なふたりの僧のこと。伝統的に寒山は巻物、拾得は箒を持ち、どちらもボロを身にまとい、妖しい笑みを浮かべた姿で描かれる。横尾はこの寒山拾得を自由に解釈し、徹底的に解体し再構築してみせた。巻物をトイレットペーパーに置き換え、箒の代わりに電気掃除機を持たせるのは序の口。便器に座らせたり、箒にまたがって空を飛ばしたり、大谷翔平やドン・キホーテを登場させたり、マネの《草上の昼食》や久隅守景の《納涼図屏風》を引用したり、やりたい放題。古今東西、現実と虚構を超えた世界が展開しているのだ。その数102点、これを85歳から約1年半で描き上げたというから驚く。
画家は年老いてくると自分のスタイルを繰り返したり(自己模倣ともいえる)、筆づかいや色づかいが奔放になったり(成熟とも衰退ともいえる)するものだ。ティツィアーノしかり、モネしかり、ピカソしかり。ところが横尾はもともと自分のスタイルがあったというより、既存の図像やスタイルを寄せ集めて独自の世界観を築き上げるスタイルだった。だから1980年代初めに画家としてデビューしてからも、当時流行していた新表現主義をベースに、美術史のさまざまな様式を引用・模倣しながら(タダノリ?)横尾ワールドを展開してきた。今回は表現主義風あり印象派風ありシュルレアリスム風あり抽象風あり水墨画風まであって、まったくスタイルというものに執着しない。むしろそれが横尾スタイルというものだろう。
ただ最近は身体的な衰えが明らかで、筆づかいも色づかいも奔放を超えて荒っぽく、もはやグズグズといっていいような作品もある。だが、だれもこれを批判することはできないだろう。なぜならこれらはもはや従来の絵画の価値観から逸脱し、いわば治外法権のアウトサイダーアートの領域に踏み込んでいるからだ。アウトサイダーアートというのは目指してできるものではないが、横尾は明晰な意識を持ってアウトサイドに踏み出しているように見える。いや、ここはやっぱり寒山拾得の境地に達したというべきか。
展示風景[筆者撮影]
公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/kanzanhyakutoku/
2023/09/11(月)(村田真)
アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~
会期:2023/07/08~2023/09/10
浜松市美術館[静岡県]
浜松市美術館を訪れ、今年の8月に亡くなったアニメ背景美術の巨匠の展覧会、「新・山本二三」展の最終日に駆け込みで入った。1969年以降、彼は『サザエさん』(1969-)、『一休さん』(1975-82)、『未来少年コナン』(1978)から、『天空の城ラピュタ』(1986)、『火垂るの墓』(1988)、『天気の子』(2019)まで、数多くの作品を手がけ、ゲームの美術や絵本の挿絵も描いている。ジブリの宮崎駿のような有名性はないが、おそらく、ほとんどの日本人は知らない間に山本の絵に慣れ親しんでいるはずだ。また実際、会場では親子連れが目立ったが、親も子も楽しめる内容だろう。今回のタイトルに「新」と付いているのは、2011年に神戸市立博物館で始まった「日本のアニメーション美術の創造者 山本二三」展がその後も全国で巡回していたからだ。2014年に筆者は静岡市美術館で鑑賞し、映画館で大きく伸ばしても耐えられるよう、小さな絵に細部を緻密に描く手技に感心させられた。新旧両方の展示のカタログを比較すると、131ページから231ページに増えており、単純にボリュームからも内容が充実したことが確認できる。なお、前回の展示では、最初の会場であった神戸を舞台とすることから『火垂るの墓』を詳しく取り上げており、担当学芸員の岡泰正の論考は今回のカタログに再録された。
山本はもともとカメラマンに憧れ、絵を描くことが好きだったが、それでは食っていけないということで、夜学の大垣工業高校定時制建築科を卒業後、働きながら、アニメーションの専門学校に入ったという。彼が図面やパースの技術を学んだ経験は、キャラではなく空間を表現する背景美術の仕事に生かされており、今回の展示では高校時代の設計課題も紹介されていた。なるほど、しっかりと建築の室内外を描いている理由として納得が行く。展示全体を通していくつかのテーマが設定されており、第1章「冒険の舞台」(『ルパン三世 PART2』[1977-80]など)、第2章「そこにある暮らし」(『じゃりん子チエ』[1981-83]など)と続く。第3章「雲の記憶」(『時をかける少女』[2006]など)と第4章「森の生命」(『もののけ姫』[1997]など)では、「二三雲」と呼ばれる独特な雲の表情や、作品の世界観を決定する森や自然に注目する。そして第5章「忘れがたき故郷」では、2010年から2021年にかけて全100点を完成させたライフワークである、生まれ育った五島列島の風景画シリーズを取り上げる。なお、浜松市美術館では、特別に浜松城を描いたドローイングも出品されていた。
アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/artmuse/tenrankai/nizou.html
関連レビュー
「架空の都市の創りかた」(「アニメ背景美術に描かれた都市」展オープニングフォーラム)|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年07月01日号)
山本二三展|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2014年09月15日号)
2023/09/08(金)(五十嵐太郎)
杉本博司 火遊び
会期:2023/09/05~2023/10/27
ギャラリー小柳[東京都]
コロナ禍でしばらく留守にしていたニューヨークのスタジオに戻ると、大量の印画紙が期限切れになっていることに気づいた、と杉本はいう。印画紙は期限が過ぎると劣化し、微妙なトーンが飛んでしまう。そこで杉本写真の売りのひとつである美しいグレーゾーンを諦め、明暗のコントラストの強い写真表現を試みることにした。それが印画紙に直接描く「書」だ。最初は暗室のなかで現像液を筆につけて印画紙に字を書き、一瞬光を当てると、文字が黒く浮かび上がってくる。次に定着液を筆につけて書いてみると、黒地に白い文字が現われてきた。暗室は文字どおり暗闇なのですべては手探りで進めなければならない……。杉本自身によるコメントを読むと、作品に至るまでの過程が手に取るようにわかり、説得力がある。
杉本が書に選んだ文字は「火」。なぜ「火」なのか、写真なら「光」ではないのか。とも思うが、あらためて比べてみると「火」と「光」はよく似ている。それもそのはず、「光」という字は「火」を「人」が上に掲げているかたちなのだ。もともと「火」は象形文字だし、「光」より絵画的でもあるから、書くとしたら「火」だろう。あるいはひょっとしたら「火遊び」というタイトルから先に思いついたのかもしれない。齢を重ねてからの火遊び、手遊び。最近はホックニーにしろ横尾忠則にしろ、超老芸術家の火遊びが盛んだし。
作品は大小合わせて14点。火以外にも「炎」や「灰」もあるが、いずれも力強い筆致で、撥ねや擦れや飛沫を強調するかのように運筆している。人が両手両足を広げて踊っているような火の字もあり、かつて抽象表現主義と張り合おうとした前衛書を思い出す。それにしても真っ暗闇のなか手探りでよく書けたもんだ。おそらく失敗した印画紙はこの何倍、何十倍もあるに違いない。帰りにエレベーターに乗ろうとして振り返ったら、入り口の脇に朱で「火気厳禁」の手書き文字が目に入った。あれ? こんなの前からあったっけ。
公式サイト:https://www.gallerykoyanagi.com/jp/exhibitions/
2023/09/07(木)(村田真)
SeMA NANJI RESIDENCY Open Studio 2023
会期:2023/09/05
SeMA NANJI RESIDENCY[韓国、ソウル]
韓国のソウルにある巨大複合施設「Coex」で同時開催されたアートフェア「Frieze Seoul」と「키아프 서울(Kiaf SEOUL)」に合わせて、ソウルの中心部と金浦空港の間に位置するナンジでオープンスタジオが開催された。その会場である「SeMA NANJI RESIDENCY」はソウル市立北ソウル美術館(SeMA)が運営するレジデンス施設であり、そこに韓国出身の作家たちは数カ月にわたり滞在している。当日は約20組のアーティストが自身の制作スペースで展示を行なっていた。
日本やベトナム、そして韓国国内で戦争にまつわる土地をランニングし続ける映像作品《Invisible Factories》(2021)のキム・ジェミニ(Gemini Kim)。自身のパフォーマンスの記録映像を編集し作品化するオム・ジウン(Jieun Uhm)。自然科学における動植物の標本や朝鮮戦争開戦日(6.25)のための彫像といった事物の保存にまつわる行為を映像とインスタレーションで展開するシン・ジュンキュン(Jungkyun Shin)といった、映像を技法の中心に据えた作家の多さが印象的だった。
イエスル・キムのオープンスタジオの様子(一部)
とりわけ今回紹介したいのはイエスル・キム(Yesul Kim)だ。イエスルは幼少期からにナム・ジュン・パイクに憧れヴィデオ・アートを志し、映像インスタレーションを精力的に発表してきた作家である。スタジオで主に展示されていたのは、親同士の憎しみの連鎖を子供が引き受けつつそれをロボコン対戦(プログラミング教育)で決着をつけるという《鉄甲神斬 Fragger/Ironclad Fragger》(2023)と、彼女の幼少期の美術の授業時間や両親に「アートって何?」と尋ねた実体験をもとに歌詞がつくられた合唱曲《Art Class》(2021)だ。
イエスル・キム《鉄甲神斬 Fragger/Ironclad Fragger》(2023)
彼女は「子供は親や教育の影響を純粋に受け止めるがゆえに、きわめてイデオロギー的な存在だ」という。幼い頃から、親に「アートって何?」と尋ねたときに返ってくる「絵画のこと?」「お父さんに聞いて」「お母さんに聞いて」といった返答の要領の得なさに疑問を持っていた。初等教育で「美術」とされていることとイエスルが興味をもった「美術」には大きな乖離があったのだ。《Art Class》は終始コミカルで、視聴しながら思わず体が揺れてしまう。そこでは誰もが体験しえた図画工作のドローイングや美術館への遠足といった時間から「現代美術」へとブリッジし、最後には「アーティストになる!」と言ったイエスルに親が「なんてことだ!」と将来への不安を胸に絶叫する、という歌詞で幕を閉じる。彼女は幼いながらに自身の「美術」の道と作品像を両親よりも具体的に見定めていたわけだが、両親の「美術への不安」はきわめて現実に即したものであったことが別の作品で強く浮かび上がってくることになる。
Verse 1 edited version, Single channel video, 4K
イエスル・キム《Art Class》(2021)。英語字幕版ではないがYoutubeで一部視聴が可能だ
それは2015年の《Artist survival》という冊子での配布型の作品だ(PDFはここからDL可能)。冊子は美術従事者(主には作家だろう)に向けたYES/NOの積み重ねでタイプを分類するブックになっている。「あなたの作品はレディメイド?」「ベルリンで教育を受けたことがある?」「助成金を獲得してる?」「あなたは韓国現代美術作家としてのどのような立ち位置を占めているのか?」と現代美術における「新規性」やキャリアパスが「王道かどうか」を皮肉めきながら、しかし冷笑とは違って、官僚的な側面を多分にもつ現代美術の在り方をどうしたものかと肩を落としながらも笑い飛ばすように、状況を突きつけてくる作品になっている。そしてそれは、イエスルの両親が絶叫したように、アーティストとして生きる困難がこれでもかと具体的に書かれた自伝的な作品ともいえるだろう。
イエスルには配布型で観賞者によるプレイを前提とした冊子状の作品がいくつかあり、その冊子と映像(インスタレーション)を複合的に使うことで、いつでもどこでも自身の表現を観賞者に伝えることが可能だ。目下、アーティスト・イン・レジデンス(AIR)という、旅を前提とした奨学制度は現代美術と深く結びついている。AIRが土台のひとつである現代美術の在り方があとどれくらい続くかは未知数だが、その世界的な回遊性が同時代を担保する要因なのだとしたら、彼女の作品とそのポータビリティは、社会にとって美術とは何か、いまの社会とはどのような仕組みをもつかを照射する、現代美術性だといえると思った。
2023/09/05(火)(きりとりめでる)