2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

リニューアル記念コレクション展 ボイスオーバー 回って遊ぶ声

会期:2021/09/18~2021/11/14

滋賀県立美術館[滋賀県]

今年6月にリニューアルオープンした滋賀県立美術館。リニューアル記念展「Soft Territory かかわりのあわい」では滋賀にゆかりのある若手作家12名がすべて新作で参加し、「同時代の創造の場所としての美術館」像を提示した。同時開催されたコレクション展に続き、リニューアル記念展の第3弾となる本展では、日本画、郷土美術、現代美術、アール・ブリュットの4分野からなるコレクションの名品100点以上を、ジャンルや年代の慣習的な壁を取り払って展示。思いがけない邂逅が展示室に出現する。例えば、「日々つくる」のテーマの下で、河原温の「デイト・ペインティング」と、アール・ブリュットの作家の澤田真一による、全身にトゲを生やしたトーテムポールのような陶作品が併置される。祈りや崇高さの形象をテーマにした一室では、禁欲的な色彩構成で宗教的な境地を感じさせるアド・ラインハートとマーク・ロスコの抽象絵画を経由して、鎌倉時代の不動明王像を白髪一雄の燃え盛る炎や火球の炸裂のような絵画が取り囲む。


会場風景[撮影:来田猛]


さらに本展では、田村友一郎、中尾美園、建築家ユニットのドットアーキテクツという3組のゲストアーティストが参加し、それぞれの視点からコレクションに新たな光を当てた。田村は、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンの連作《マリリン》と《電気椅子》をつなぐ相関関係を読み込み、拡張的に連想の輪を広げていく映像インスタレーションを構成。《マリリン》の引用画像が、サスペンス映画『ナイアガラ』のスチル写真だとされることを起点に、ナイアガラの滝を利用した水力発電による電気が、ウォーホルの《電気椅子》にも送電されていた可能性へとつなげていく。「CG合成」によるナイアガラの滝を背景に、2人の人物の会話体をとるこの映像では、「サスペンス」「ナイアガラの滝」「水力発電」「滝がもたらす死(電気椅子、サスペンスの山場)」「消失」「視線と主体」といったキーワードをめぐる会話が繰り広げられ、鏡合わせのように互いの「本名」と「芸名」が反転する2人の話者の自/他の境界も曖昧に消失していく。サスペンスの仕業である「消失」は《電気椅子》と《マリリン》にも起こっており、初期の《電気椅子》ではドアの上にあった「SILENCE」というサインが後の作品では消え失せ、同じく初期の《マリリン》の金色の背景も後に姿を消したという。そして会話体の字幕が流れる映像では、「語りの声」も滝の音などの「BGM」もすべて「消失」し、沈黙が支配する。



会場風景[撮影:田村友一郎]


一方、中尾美園は、「消失した作品」の再現模写というかたちでコレクションに向き合う。中尾は保存修復の仕事に携わりつつ、日本画材を用いた精緻な「写し」によって、高齢の女性たちの遺品や生活のなかの慣習など「失われゆくもの」を記録し、紙の上に物質的強度として留める作品を制作してきた。本展では、美術館設立に関わりのある日本画家、小倉遊亀のリサーチを進めるなかで、1969年にホテル火災により焼失した《裸婦》(1954)という作品に着目した。日記体による小倉の著書に倣い、絵巻仕立ての「再現日記」では、生前のままに残された小倉の画室を訪問調査し、《裸婦》の下絵の発見、残された画材や画筆の観察などが詳細に記録される。また、美術館所蔵の同時期の小倉作品数点を実見し、金属箔の上に顔料を塗り重ねる背景処理、顔料比の推察、顔と胴体の肌色の濃度の比較、輪郭線からはみ出す肌色のおおらかな印象、たらし込みや胡粉の盛り上げなど、技法やディテールの詳細な観察メモも記される。「小倉がどう描いたか」の分析と追体験のなかに、描くことの喜びの共有が伝わってくる。また、中尾が「絵描き」ならではの視点で観察した小倉作品は、本展の前半でも展示されており、もう一度展示室に戻ってディテールをじっくり再確認したくなる。展示室内部でまさに「回遊」が発生するのだ。



会場風景[撮影:来田猛]



会場風景[撮影:来田猛]


また、完成した《裸婦》の再現模写の裏側には、小倉自身の言葉や《裸婦》の発表歴などの資料とともに、「火災を報じる新聞記事」の「模写」(!)が貼られている。作品の焼失をのちに知ったショックと、コレクターの無断の転売を非難する小倉の言葉からは、「保存し後世に残す」美術館の役割が改めて浮上する。

そして、「美術館の活動や機能」に光を当てるのが、ドットアーキテクツ。リニューアル前の4年間の休館中のアウトリーチ的活動を、地下に菌糸を伸ばす「キノコ」の生態になぞらえた資料展示を行なった。県内各所で若手作家を紹介し、リニューアル展の前哨戦となった「アートスポットプロジェクト」、子どもたちへの教育普及活動、他館への作品貸出といったさまざまな活動は、地下に張り巡らされた菌糸が地上に姿を現わした「キノコ」なのだ。

作品どうしの見えない相関関係を「消失と沈黙」によって逆説的に浮かび上がらせる田村、作品自体の「消失」を「記憶の継承や保存」へとつなげる中尾、美術館の機能を生き生きとした生態的ネットワークとして可視化するドットアーキテクツ。それぞれの視点がバトンを渡すようにつながり、コレクションとも呼応する充実した展示だった。



会場風景[撮影:来田猛]


関連レビュー

Soft Territory かかわりのあわい|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年07月15日号)
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中尾美園「紅白のハギレ」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年05月15日号)
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2021/09/26(日)(高嶋慈)

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木村華子「 [   ] goes to Gray」

会期:2021/09/17~2021/10/17

河岸ホテル[京都府]

「消えている」のに「現われている」。「何も表明しない」という表明。そうした存在論的矛盾がありえるだろうか。

木村華子の写真作品「SIGN FOR [    ]」は、「街中で発見した、何も書かれていない白紙のビルボード」を被写体にした写真の上に、青いネオンライトを取り付けたシリーズである。青白いネオンの光は、「広告」という目的や存在意義を失ってもなお屹立し続ける白い立方体を照らし出す。それは経済不況という時代の指標であると同時に、あらゆるものを「有用性」「生産性」で価値判断し、「白か黒か」「右か左か」といった両極的な選択を突きつける社会に対して、そこから逸脱する領域をセレブレーションするようでもある。



会場風景


一方、木村の作品は、美術史的な視点から読み込むことも可能だ。「余計なものが写り込まない青空をバックに撮影する」という同一条件で、消費資本主義の衰退を徴候的に示すモニュメントを撮り集める姿勢は、ドイツ各地に残る産業遺構を均質フォーマットで記録したベッヒャー夫妻を想起させる。また、「公共空間に置かれたビルボード」という点では、例えば「私の欲望から私を守って」といったメッセージを掲げ、欲望を作り出す広告装置を通して消費資本主義それ自体を批判したバーバラ・クルーガーがいる。フェリックス・ゴンザレス=トレスは、誰かが眠った跡を残す空っぽのダブルベッドの写真をビルボードに掲げ、エイズや性的マイノリティへの偏見に対して静かに訴えた。

だが、「白紙状態」に眼差しを向けるよう照らし出す木村作品は、そうした「批判や抵抗のメッセージ」が消去されたディストピア的イメージをも思わせる。それは、「声を上げること」を封殺し、塗り潰す抑圧的な社会の象徴でもある。と同時に、その「白紙」は、これから書き込まれるべきメッセージを待ち受ける希望的余白でもある。

社会の衰退の徴候であり、「ただ存在すること」の肯定であり、声の抑圧の象徴であると同時に、なおもメッセージを掲げることへの想像を止めないこと。そうした何重もの豊かな意味をはらんだ「空白」が見る者に迫ってくる。



会場風景



会場風景


2021/09/26(日)(高嶋慈)

山形のムカサリ絵馬

会期:2021/09/18~2021/12/12

天童織田の里歴史館[山形県]

山形においてムカサリ絵馬めぐりを行なう。ムカサリ絵馬とは、子供を失った親が、実現しなかった結婚式の絵を奉納する山形の風習であり、明治期から昭和にかけて興隆したものだ。靖国神社の遊就館では、特攻など、戦争で亡くなった息子のために制作された花嫁人形が数多く展示されているが、その絵画バージョンといえる。なお、花嫁人形は青森にある風習らしい。ともあれ、男女の結婚という制度を重視しているという点において、近代的な発想だろう。


永昌寺と久昌寺では、いずれも本堂の一角に掲げられていた。そして黒鳥観音と小松沢観音は、三方の内壁すべてをぎっしりと覆いつくす圧巻の風景だった。巡礼のお札も大量に貼られていたが、特に後者は天井面にもムカサリ絵馬が掲げられている。若松寺の絵馬堂には過去のものが収蔵・展示されている。


《黒鳥観音》



《小松沢観音》



《高松観音》



《若松寺》


地元の絵師によって描かれた絵の構図や内容は、ある程度様式化されているが、ひとつひとつの絵に子供を失った親の強い想いが託され、未来の花嫁/花婿が想像で加えられている。アーティストが表現として描く絵やインスタレーションではない。だが、結果的に絵とは何かを鋭く問いかける空間だった。

かつては戦没した子供のためのムカサリ絵馬が多かったが、いまも継続している場所はほとんどないようだ。若松寺は現在も受け付けており、関東や沖縄など、全国から奉納されている。また令和にもその数は増えている(時代を反映し、同性のカップルも確認できた)。ここでは下手でもいいから、家族が自ら絵を描くことを推奨しているという。もっとも、どうしても無理な場合、やはり絵師にお願いしているようだ。


ここから、天童織田の里歴史館の企画展に貸し出し中のムカサリ絵馬が2点あると知り、足を運ぶ。役所を復元した資料館の2階では、「天童の人々と信仰」展が開催されており、観音信仰、キリスト教の布教とともに、ムカサリ絵馬を紹介していた。そして東北芸術工科大学では、青山夢によるムカサリ絵馬に着想を得た絵画のシリーズと巨大なインスタレーションのプロジェクトを見学する。すなわち、現代美術にも影響を与えているのだ。


《天童織田の里歴史館》


天童の人々と信仰

会期:2021年9月18日(土)~12月12日(金)
会場:天童織田の里歴史館
(山形県天童市五日町2丁目4-8)

2021/09/24(金)(五十嵐太郎)

リャン・インフェイ「傷痕の下」

会期:2021/09/18~2021/10/17

SferaExhibition[京都府]

写真は、「出来事の真正な記録」としてのドキュメンタリーではなく、「イメージの捏造」によって、いかに告発の力を持ちうるのか。

昨年のKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の公募企画でグランプリを受賞した、中国のフォトジャーナリスト、リャン・インフェイ。今年は同写真祭の公式プログラムに参加し、より練り上げられた展示を見せている。

リャンの「傷痕の下」は、性暴力を生き延びたサバイバーへのインタビューを元にした写真作品。教師や上司、業界の有力者など年齢も社会的立場も上位の男性から性被害を受けた時の恐怖、不快感、憎悪、屈辱感、誰にも言えない抑圧、長年苦しめるトラウマが、悪夢のようなイメージとして再構築される。首筋をなめる舌はナメクジに置換され、助けを呼べず硬直した身体は、ベッドに横たえられ、空中で口をパクパクさせる魚で表現される。女性たちの顔は隠され、身体は断片化され、「固有の顔貌と尊厳の剥奪」を示す。また、「人形」への置換は、抵抗や告発の言葉を発さず、意のままに扱える「所有物」とみなす加害者の視線の暴力性を可視化する。



リャン・インフェイ《Beneath the scars PartII, 4》(2018)


展示会場は、半透明の壁で仕切られた個室的なスペースに分割され、両義的な連想を誘う。それは性暴力の起こった密室であると同時に、プライバシーの安全が保障された、カウンセリングのための守られた空間でもある。



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]


だが、いずれにせよ「外部からの遮断」「隠されるべきもの」という構造を外へと開くのが、「性被害について語る音声」の演劇的かつ秀逸な仕掛けだ。被害者の肉声ではなく、インタビューを再構成したテクストを朗読する声が写真とともに聴こえてくる。その声が複数性を持つことに留意したい。女性の声だけでなく、男性が読む声も混ざることは、「女性対男性」という単純な二項対立の図式を撹乱し、分断や敵対ではなく、体験の共有を志向する。同時にその仕掛けは、「性暴力の被害者は女性」という思い込みを解除し、「(性自認も含め)男性も被害者になりうる」ことを示す。性暴力は「一方のジェンダーに関する問題」ではなく、「あらゆるジェンダーにとっての問題」であることを音響的に示すのだ。

加えて、朗読する声には、年代差や関西弁のイントネーションなど、さまざまな差異が含まれる。少女や若い女性の声、中年女性の声といった年代差には、「10代、20代に受けた傷を後年になって語れるようになった」時間の経過を示す意図ももちろんある。だがより重要なのは、「被害者の代弁」を特定のひとりに集約させず、声を一方的に領有しない倫理的態度である。バトンを手渡すようにさまざまな声によって紡がれていく語りは、あるひとつの固有の体験と苦痛について語りつつ、その背後に無数の声が潜在することを可視化していく。

「出来事の決定的瞬間に立ち会えない」写真の事後性という宿命の克服に加え、写真と語りの力によって「体験を想像的に分かち合うこと」へと回路を開く、秀逸な展示だった。


KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2021/09/19(日)(高嶋慈)

石巻《マルホンまきあーとテラス》、アニメージュとジブリ展、《みやぎ東日本大震災津波伝承館》

会期:2021/06/19~2021/09/12

マルホンまきあーとテラス[宮城県]

今年、石巻にオープンした藤本壮介の設計による《マルホンまきあーとテラス》を訪れた。大小の家型が並ぶ、印象的なシルエットの内部に、博物館や大小のホールを備えた複合施設であり、実物は想像していたよりも大きい。とりわけ、壮観なのは、諸室の手前にどーんと展開する、街のストリートのような共有空間である。そのスケール感は、ヨーロッパの現代建築をほうふつさせるだろう。一方で什器、サイン、照明など、小さいスケールの遊びが共存しているのも興味深い。これは被災地における復興建築だが、新しいタイプの公共空間を提示している。



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》


同館における博物館のエリアはまだ整備中だったが、「アニメージュとジブリ展」の企画展は、平日にもかかわらず、さすがの大盛況だった。その内容は、1978年に徳間書店が創刊した月間の専門雑誌の内容を軸としながら、アニメの歴史をたどるものだが、「宇宙戦艦ヤマト」(劇場版、1977)でブームに火がつき、「機動戦士ガンダム」(1979年放映開始)を通じて、作品の内容だけでなく、制作者の側にも注目するようになり、やがて若手を発掘して、宮崎駿の連載「風の谷のナウシカ」や押井守のビデオアニメ「天使のたまご」(1985)、あるいは文庫など、メディアミックスによって独自の作品を世に送るまでを扱う。日本の現代建築が雑誌に育てられたように、日本におけるアニメの進化にとっても「アニメージュ」が重要な役割を果たしたことがうかがえる。もちろん、工夫を凝らした付録、表紙、関連するイベントなど、SNSがない時代におけるアニメのコミュニティやコミュニケーション史としても興味深い。

石巻では、南浜の津波復興祈念公園も立ち寄った。去年の夏はまだ造成中だったが、いまはきれいな公園である。《みやぎ東日本大震災津波伝承館》(2021)は、あいにくコロナ禍で閉館中だったが、円形のガラス建築なので、外からのぞくと、明らかに展示のヴォリュームが少ない。新聞報道によれば、当初、このプログラムは予定されておらず、途中で割り込んだことによって展示がおかしくなったという。ニューヨークの《9/11 MEMORIAL & MUSEUM》は、よくぞここまで徹底的に調べ、収集したという執念を、中国の《四川大地震博物館》(2009)は良くも悪くも国の強いイデオロギーを感じたが、最大級の災害なのに、南相馬の原子力災害伝承館など、日本の施設は中途半端さが気になる。



《石巻南浜津波復興祈念公園》



《みやぎ東日本大震災津波伝承館》


★──「石巻の津波伝承館、評判さんざん 監修者語る「盛大な失敗」の決定打」(朝日新聞、2021年9月6日付)https://www.asahi.com/articles/ASP9575SVP86UNHB00B.html


アニメージュとジブリ展 一冊の雑誌からジブリは始まった みやぎ石巻展

会期:2021年6月19日(土)~9月12日(日)
会場:マルホンまきあーとテラス
(宮城県石巻市開成1-8)
石巻マンガロード:https://www.mangaroad.jp/?page_id=3472

2021/09/08(水)(五十嵐太郎)

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