2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

俵万智 展 #たったひとつの「いいね」 『サラダ記念日』から『未来のサイズ』まで

会期:2021/07/21~2021/11/07

角川武蔵野ミュージアム 4F エディット アンド アートギャラリー[埼玉県]

「この味が いいね」と君が 言ったから 七月六日は サラダ記念日

現代短歌のなかで万人が知るもっとも有名な短歌が、俵万智のこの作品ではないか。1987年に刊行された彼女の初歌集『サラダ記念日』は280万部ものベストセラーとなり、映画「男はつらいよ」シリーズ作の題材になるなど、その後も社会現象を巻き起こした。当時まだ10代初めだった私の頭のなかにもこの短歌はしっかりと記憶された。当時の感覚からすれば、ちょっとおしゃれなイメージがあった「サラダ」に「記念日」を組み合わせる言葉の斬新さ、そして「この味がいいね」という軽妙さが非常に印象深かったのだ。いま、SNSで頻繁に「いいね」が飛び交う世の中からしても、同作品は「いいね」の先駆けと受け止めができる。そう思うと、この短歌の鮮度が時代を経ても変わらないことに感心するのだ。

このように私の俵万智に関する情報は1980年代半ばで止まっていたのだが、それは勝手な思い込みで、当然ながら彼女はまだ存命しているし、歌人として活躍もしている。本展を観て改めて同時代を生きる歌人、俵万智を実感した。会場は三つのエリアに緩やかに区切られており、彼女が少女から大人の女性へ、そして母へと成長する様子が感じられる構成となっていた。ひとつ目は『サラダ記念日』エリアで、大学時代を中心とした若かりし頃の短歌が紹介されていた。恋を詠んだ短歌が目立ち、青臭さと生々しさとが入り混じった印象を受ける。二つ目は回廊エリアで、社会人となり、子どもを出産してシングルマザーになった様子が伺えた。三つ目は『未来のサイズ』エリアで、人生の折り返し地点に立ち、息子を思う母の気持ちを詠んだ短歌が目立った。東日本大震災やコロナ禍に際して詠んだ歌もあり、誰もが抱えたもやもやした気持ちを彼女は短歌へと見事に昇華させていた。


展示風景 角川武蔵野ミュージアム 4F エディット アンド アートギャラリー 『サラダ記念日』エリア ©角川武蔵野ミュージアム


展示風景 角川武蔵野ミュージアム 4F エディット アンド アートギャラリー 回廊エリア ©角川武蔵野ミュージアム


そんな俵万智の短歌の数々をダイナミックに見せていたのが、トラフ建築設計事務所による会場構成だ。実は私が本展に興味を持ったきっかけも、彼らがデザインに携わったと知ったからだ。例えば恋の歌が多い『サラダ記念日』エリアにはハート形の展示台を設置し、短歌を立体的に紹介。ほかに柱や壁、アクリル板、家や船形の展示台などを使って会場中を短歌で埋め尽くし、その生き生きとした言葉を来場者が肌で体感できるようになっていた。絵や彫刻、写真といった有形物ではなく、言わば無形物の言葉をどう展示するかという課題に見事に応えた展覧会であった。


展示風景 角川武蔵野ミュージアム 4F エディット アンド アートギャラリー 『未来のサイズ』エリア ©角川武蔵野ミュージアム



公式サイト:https://kadcul.com/event/42

2021/08/30(月)(杉江あこ)

カタログ&ブックス | 2021年7月15日号[近刊編]

展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
※hontoサイトで販売中の書籍は、紹介文末尾の[hontoウェブサイト]からhontoへリンクされます





Viva Video! 久保田成子

編集:新潟県立近代美術館国立国際美術館東京都現代美術館
発行:河出書房新社
発行日:2021年6月29日
サイズ:B5判、256ページ

1970年頃からビデオを使用したアート作品を先駆的に制作した世界的アーティスト、久保田成子。没後から6年、その活動の全貌がついに明らかになる大回顧展の図録。


大・タイガー立石展 図録

構成:工藤健志(青森県立美術館)、滝口明子(うらわ美術館)、平野到(埼玉県立近代美術館)、牧野裕二(高松市美術館)
編集:菊池真央(埼玉県立近代美術館)、庄子真汀(千葉市美術館)、森啓輔(千葉市美術館)、藁科英也(千葉市美術館)
翻訳:小川紀久子
発行:千葉市美術館青森県立美術館高松市美術館埼玉県立近代美術館うらわ美術館
発行日:2021年4月10日
サイズ:A4判、249ページ

千葉市美術館(2021年4月10日〜7月4日)、青森県立美術館(2021年7月20日〜9月5日)、高松市美術館(2021年9月18日〜11月3日)、埼玉県立近代美術館(2021年11月16日〜2022年1月16日)、うらわ美術館(2021年11月16日〜2022年1月16日)を巡回するタイガー立石(立石紘一/立石大河亞)の大回顧展の図録。

ロスト・イン・パンデミック 失われた演劇と新たな表現の地平

監修:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(エンパク)
編著:後藤隆基
発行:春陽堂出版
発行日:2021年6月30日
サイズ:B5判、320ページ

演劇の灯は消えない──
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大によって、何が失われ、何を得たのか。 そして、この先の来るべき演劇の形とは ─
100人をこえる舞台関係者の声をあつめ、コロナ禍の記憶を記録する。

ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?

著者:津田大介、平田オリザ
発行:青幻舎
発行日:2021年6月28日
サイズ:B6判、208ページ

近年、文化芸術、アートをめぐって様々な問題が巻き起こっています。本書は、劇団「青年団」主宰し国内外で活躍する劇作家・平田オリザ氏、「あいちトリエンナーレ2019」で芸術監督を務めたジャーナリスト・津田大介氏による対談で構成しています。演劇界、ジャーナリズム界でリードする両氏が、「ニッポンの文化芸術」の問題点、可能性について存分に語ります。「表現の不自由展」で議論を呼んだ「あいトリ」は何が問題だったのか? コロナ危機で露わになった文化政策の脆弱性とは? 学術会議問題は「学問の自由」のみならず「表現の自由」にもつながる……。文化芸術を皮切りに、日本政治、トランプ現象、地方が生き残る戦略、withコロナ時代のあり方など、これからの日本が向かうべき道筋を問います。

『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く

編集:河出書房新社編集部
執筆者:五十嵐太郎、久保豊、近藤銀河、斎藤環、最果タヒ、坂口将史、高島雄哉、照沼健太、難波優輝、西田藍、藤田祥平、伏見瞬、ふぢのやまい、松下哲也
発行:河出書房新社
発行日:2021年6月29日
サイズ:A5判、 224ページ

「エヴァ」の「終わり」と徹底的に向き合うために、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を当代最高の執筆陣が論じ尽くす。緊急刊行。

関連記事

シン・エヴァンゲリオン劇場版|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年04月15日号)

〈みる/みられる〉のメディア論

編著:高馬京子、松本健太郎
発行:ナカニシヤ出版
発行日:2021年4月30日
サイズ:A5判、250ページ

〈みる/みられる〉の関係性を理論的言説、メディア・テクノロジー、表象空間、社会関係という視点を通して多角的に読み解く


葬いとカメラ

編著:金セッピョル、地主麻衣子
発行:左右社
発行日:2021年5月30日
サイズ:四六判変型、200ページ

アーティストと文化人類学者らが考えた「葬い」を記録することについて。 両者の視点から「死」と「葬い」を見つめた先に見えてきたものは……
身寄りがなくなり、壊される無縁仏
自然葬をすることにした家族の葛藤
葬儀を撮ることの暴力性
在日コリアンのお墓
研究映像とアート作品
簡素化される葬儀と、葬いの個人化

誰もが直面する「死」と、残された者の「葬い」という営みを、どのようにとらえることができるのだろうか。 本書では主に映像によって記録するという行為を通じて、死や葬いを普遍的にとらえなおすことを試みるものである。

クバへ/クバから(いぬのせなか座叢書4)

著者:三野新
栞=小冊子:小田原のどか・佐々木敦
特製ペーパー:笠井康平
装釘・本文レイアウト・解説:山本浩貴+h
発行:三野新・いぬのせなか座写真/演劇プロジェクト制作実行委員会
発行日:2021年6月30日
サイズ:A4判、140ページ

写真を一種の演劇的手法としてとらえ、「現代の恐怖の予感を視覚化する」ことをテーマに多くのパフォーマンスや演劇、展示作品を発表してきた写真家/舞台作家、三野新。福岡出身・東京在住のかれが、分厚い「沖縄写真」の歴史と、自らの内なる激しい抵抗感にともに曝されながら、「沖縄の風景」を/に向けて、撮影・編集・発表する。...
新作写真・ドローイング・コラージュ・戯曲はもちろん、これまでの全活動・全写真を振り返り、素材化し、新たな仮設的劇空間を立ち上げる。三野新、待望の第一写真集。

ありのままのイメージ スナップ美学と日本写真史

著者:甲斐義明
発行:東京大学出版会
発行日:2021年6月24日
サイズ:A5判、360ページ

木村伊兵衛、土門拳、森山大道、荒木経惟から藤岡亜弥まで、日本写真史を駆動してきた力学のひとつはスナップという美学だった。そのスナップ美学の変遷と実態を多様な言説と具体的な写真作品を精査することで浮かび上がらせる、気鋭の研究者による写真研究の成果。

トーキョーアーツアンドスペース アニュアル 2020

編集:杉本勝彦
デザイン:中西要介、根津小春(STUDIO PT.)、寺脇裕子
インタビュー撮影:加治枝里子
インタビュー:内田伸一
発行:公益財団法人東京都歴史文化財団東京都現代美術館トーキョーアーツアンドスペース事業課
発行日:2021年6月1日
サイズ:A5判、166ページ
*非売品(ウェブサイトよりPDFダウンロード可能)

トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)による2020年度の活動をまとめた事業報告書。TOKAS本郷のほか、全国の美大や美術館のライブラリーなどでも閲覧可能。





※「honto」は書店と本の通販ストア、電子書籍ストアがひとつになって生まれたまったく新しい本のサービスです
https://honto.jp/

2021/07/14(水)(artscape編集部)

artscapeレビュー /relation/e_00056673.json、/relation/e_00057634.json、/relation/e_00057587.json、/relation/e_00055967.json s 10169991

植物 地球を支える仲間たち

会期:2021/07/10~2021/09/20

国立科学博物館[東京都]

植物の展覧会って、なんか地味そうだ。なぜそう思うかというと、動物と違って「動かない」からだ。やはり動かないものには反応しない、興味を示さないというのは、まさに動物の特性なのだと思う。もうひとつ地味に感じるのは、これも動物と違って植物には「顔がない」からだ。たとえゲジゲジでもダイオウグソクムシでもミジンコでも、顔さえあればそこを窓口に入っていきやすいし、キャラクタライズしやすいし、親しみも感じられる。しかし植物には顔はないけど、花はある。花はだいたい上のほうに咲くので顔に近いし、植物のなかでは唯一華やかな部分だ。逆に植物から花がなくなってしまえば、人間は見向きもしなくなるだろうし、おそらくほかの動物も蜜を採れないので離れていくはず。

なんの話をしているのかというと、植物と動物は相互に依存しながら地球上にはびこっているにもかかわらず、あまりに姿かたちや生活様式が異なるため、互いに知らんぷりをしていてもったいないということだ。だからこの「植物」展を見に行こう、とPRしたいわけではなく、植物は動物(人間)中心の世界観の外にいるので、物事を裏側から見るアート的思考に大きなヒントを与えてくれるかもしれない、と言いたいのだ。それがこの展覧会を見に行った理由にほかならない。

同展は「植物という生き方」「植物はどのように進化してきたか?」「本当は怖い植物たち」など6章に分かれ、その機能から形態、進化まで写真や模型、実物、データなどを使って多面的に見せている。植物の基本は先にもいったように、動かないことだ。いわば不動産生物。動かないから大きくもなり、長生きもする。第2章の「地球にはどんな植物が存在しているか?」では、最大サイズの植物を紹介。アメリカ西海岸に自生するセコイアメスギは身長115メートルに達し、幹の体積は530立方メートルに及ぶ。メキシコラクウショウは幹周り36メートルを超し(直径10メートル以上)、樹齢は2000-3000年といわれる。人間というか、動物のスケールをはるかに超えているのだ。

カタログには、地球上における生物の存在量を比較したグラフが載っていて、すこぶる興味深い。それによると、全生物の総量は炭素原子換算で約545ギガトン、うち植物が450ギガトンを占めるそうだ。つまり地球生命体の8割以上が植物なのだという。植物の次に多いのが細菌で70ギガトン、菌類が12ギガトン、動物はたった2ギガトン、つまり0.4パーセントを占めるにすぎない。では動物のうちでいちばん多いのはなにかというと、人間ではなく昆虫などの節足動物で、動物全体の約半分の1ギガトン、魚類が0.7ギガトン、以下、ミミズなどの環形動物、タコなどの軟体動物、クラゲなどの刺胞動物などが続き、人類はなんと0.06ギガトン、生物全体の0.01パーセントにすぎないのだ。これは驚き。地表に75億もはびこる人間だが、植物に比べればじつに7500分の1、ミミズやタコやクラゲにもかなわない微々たる存在であることがわかる。人間中心の世界観をことごとく粉砕してくれるに十分な展覧会。

2021/07/09(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00057875.json s 10170394

「ストリーミング・ヘリテージ」展で考えた、金鯱と名古屋城の今後

会期:2021/03/12~2021/03/28

名古屋城二之丸広場ほか[愛知県]

名古屋市の歴史と文化を現代的な視点から読み解く「ストリーミング・ヘリテージ|台地と海のあいだ」のイベントに登壇した。名古屋城の会場で、先行する日栄一真+竹市学のパフォーマンスはなんとか小雨で終えた。つづく秋庭史典のモデレートによるメディア・アーティストの市原えつこと筆者の対談は、文化と厄災、伝統とデジタル・テクノロジーをめぐる話題になったものの、激しい雨に見舞われた。個人的にも、これだけ厳しい天候の野外トークは初めてかもしれない。そういう意味で記憶に残るイベントだったが、もうひとつ強烈だったのが、普段は屋根の上にある金鯱が真横にあるというステージだったこと。16年ぶりに地上に降臨したらしい。

もともと金鯱は、火事のときは水を噴きだすというイメージから、建築の守り神と考えられていた(当日は効きすぎて、豪雨になったが)。現代の設備なら、スプリンクラーである。ともあれ、金鯱は名古屋のシンボルになっており、これがあるからこそ、名古屋城が大事にされていると考えると、やはり建築を守る存在だろう(ちなみに、ヴェネツィアは有翼の獅子が街の守護神であり、サン・マルコ広場のあちこちで見出すことができる。ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞もこれにちなむ)。抽象的な建築だと、一般には受け入れられにくいが、金鯱という具象的なシンボルは、やはりキャラとして愛されやすい。最強のアイコンなのだ。


イベント・ステージ真横に位置する金鯱(海シャチ)。逆さ金鯱が水面に映っている


ステージ上から撮影した、2つの金鯱

さて、輝く金鯱が地上に降りたのは、これで3度目であり、2005年の愛知万博(愛・地球博)以来になるが、今回は河村たかし市長が名古屋城の木造化の機運を高めるために企画したものだ。彼が選挙の公約として掲げながら、遅々としてプロジェクトが進まないのは、現在のコンクリート造の城の問題ではない。足元にある石垣がオリジナルであるため、その扱いに慎重さが求められるからだ。もっとも、石垣を傷つけずに工事するのは、血を出さずに肉を切るという「ヴェニスの商人」的な状況と似ていよう。すでに名古屋市は竹中工務店に発注し、おそらく設計もしているほか、必要な木材も購入しているらしい。もし着工されなければ、これらは無駄に終わる。とすれば、戦後に市民の応援で復元したコンクリート造の城を残しつつ、石垣保全の問題が起きない近くの場所で、木造の名古屋城を別に建設すればよいのではないか、と思う。荒唐無稽のように思えるが、戦災で焼失した城をコンクリートで復元したことも、重要な歴史の出来事であり、その記憶を抹消しないですむ。また2つの城が、双子のように並ぶインパクトのある風景は、ほかに存在しないから、観光資源にもなるはずだ。



名古屋城二之丸広場で開催された「名古屋城金鯱展」


特設会場脇の砂山に吸えられた金鯱(山シャチ)


展示フレーム越しに眺めた金鯱

公式サイト: https://streamingheritage.jp/

2021/03/20(土)(五十嵐太郎)

サンガツ『¿Music?』

会期:2021/02/19~2021/02/20

ロームシアター京都[京都府]

「コロナ禍における舞台公演への制限」を逆手に取り、実験的な上演形態へと昇華したライブコンサート。会場に入ると、舞台があるべき空間と客席は高さ数メートルの壁で遮られ、壁の前には鉄琴、弦楽器、タンバリンやシンバル、鈴、カリンバ(アフリカの民族楽器)などの楽器や、ガラス瓶、金属のボウルなど「楽器」ではないが叩くと音を鳴らすことができるモノがさまざまに並べられている。




[撮影:井上嘉和]


そして「上演」が始まると、この「壁」には字幕が投影され、「音楽はどのように成立するのか」をめぐる断章的な問いと実演とともにコンサートが進行していく。「音」と「音楽」の境界はどこにあるのか。単音とその反復。リズムすなわち時間の分節。時間的進行という構造(ストラクチャー)。意図と偶然性。秒やヘルツといった物理的単位の客観性と、「いまここにはない音」への想像。空気の振動という物理的なバイブレーションと、「音楽を聴くあなたと私のなかで起こる共鳴」というバイブレーション。時間と空間を分節しつつ、音楽はそれを聴く者の関係性や共同体をつくり上げていく。



[撮影:井上嘉和]


壁の前に並べられた楽器やさまざまな物体は、「それを鳴らす演奏者の登場」を期待させるが、彼らはいっこうに姿を現わさない。一方、中盤では、「壁」を隔てた双方向的なコミュニケーションが仕掛けられる。壁の向こう側から突如、色とりどりの小さなゴムボールが投げ込まれ、楽器や並べられた物体に当たって予測不可能な音を立てながら飛び跳ねる。「音」が物理的接触によって生じるものであることと、「あらゆるモノにその可能性が潜在している」という遍在性。また、壁の向こうからこちらへロープが伸びてくると、「吊ってある紙を受け取り、願い事を書いて、紙ヒコーキにして壁の向こうへ飛ばしてください」と字幕が告げる。紙ヒコーキは意外と難しく、なかなか壁を超えることはできない。そのうち壁の向こう側からも、次々と紙ヒコーキが飛来する。境界や分断をそれでも越えたいという願い、音楽が希望のメッセージを伝えるものであるというストレートな主張とともに、観客を巻き込んだ祝祭的な時間となった。

終盤では、「壁」が次第に左右に分かれ、隙間から眩しいレーザー光が照射される。「壁」は最終的に「門」のような形態となるが、その奥の無人の舞台上には楽器と機材があるだけで、彼らは最後まで姿を現わさない(カーテンコールもない徹底ぶりだ)。「出演者がまったく姿を現わさない」という事態は、(朗読劇は別として)演劇やダンス公演ではほぼ不可能だろう。「音楽の上演において、演奏者の身体とは何なのか」という問いを最後に投げかけて、本公演は終了した。



[撮影:井上嘉和]


2021/02/19(金)(高嶋慈)

文字の大きさ