2020年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜

会期:2020/02/08~2020/03/22

神奈川県立歴史博物館[神奈川県]

横浜の掃部山に建つ井伊直弼の銅像建立110年を記念する特別展。彦根藩主で幕末の江戸幕府に仕えた井伊大老の銅像が、なぜ横浜に建っているのか? なぜそれを歴史博物館で紹介するのか? この展覧会を見ればわかる。

そもそも掃部山を「かもんやま」と読める人は、井伊直弼ファンか、掃部山周辺の住人くらいではないか。この名称は井伊掃部頭直弼の官位「かもんのかみ」に由来する。つまり、掃部山という名の小高い丘に銅像が建ったのではなく、井伊直弼の銅像が建ったから掃部山と呼ばれるようになったのだ。それ以前は不動山、明治以降は近くに最初の鉄道が通ったため鉄道山とも呼ばれていたという。

ここで井伊直弼の略歴を振り返ってみると、近江彦根藩主の家に生まれ、幕末に江戸に召還されて幕府の大老となり、日米修好通商条約を結んで日本の開国に尽力する。これが横浜港を見下ろす丘の上に銅像が建った理由のひとつだ。しかし強権をもって反対勢力を粛清(安政の大獄)したため恨みを買い、万延元(1860)年、襲われ刺殺される(桜田門外の変)。

明治になって直弼の銅像を建てようと動いたのは旧彦根藩士たちで、その中心人物が横浜正金銀行の頭取を務めた相馬永胤だった。相馬は横浜裁判所の判事を務めたこともあり、横浜との縁は深かった。最初は上野の山に建設しようとしたが許可が下りず、次に横浜の不動山に建設を申請し、こちらは許可が下りたものの「藩閥政府の圧迫」により計画は頓挫してしまう。大仕事をなしとげた為政者は敵も多いため、モニュメントを建てるのは容易なことではない。

しかし相馬はあきらめず、20年以上たってから再び奔走し、ようやく横浜開港50年に当たる1909年に完成を見た。銅像を制作したのは藤田文蔵で、工部美術学校で彫刻を学び、東京美術学校の教授を務め、女子美を創立した彫刻家だ。また、台座を設計したのは妻木頼黄。相馬が頭取を務めた横浜正金銀行本店の設計者でもある。そしてこの銀行の建物が現在、神奈川県立歴史博物館として使われているのだ。なぜ井伊直弼像が横浜に建ち、なぜ歴史博物館で紹介されるのか、すべてはつながっているのだ。

像はその後、関東大震災で倒壊は免れたものの台座ごと回転。第2次大戦中は金属回収により撤去され、戦後の1954年、開国100年に合わせて再建された。展覧会ではこうした銅像建立の経緯を示す資料をはじめ、像のマケット、茶人でもあった直弼の書画や茶器、相馬の日記、藤田の作品、震災によってズレた台座の写真、銅像の絵葉書、開国百年記念の手ぬぐい、銅像がデザインされた崎陽軒の弁当の包装紙にいたるまで集めている。はっきりいって展示だけ見てもおもしろいものではないが、日本の近代化の過程で銅像建立がどんな意味を持っていたのかを知ることは、一見なんのつながりもなさそうな現在のパブリックアートを考える上でも無駄なことではないだろう。

2020/02/11(火)(村田真)

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ニューヨークの新しい観光名所

[米国、ニューヨーク]

およそ三年半ぶりのニューヨーク訪問だったので、新しい観光名所を訪れた。まずはハドソン・ヤードの再開発のエリアである。ここでトーマス・ヘザウィックによる《ヴェッセル》と、ディラー・スコフィディオ+レンフロによる《ザ・シェッド》が並ぶ風景は、まるで怪獣対決だ。前者は階段のお化けのような構築物である。ちなみに、まわりのビルよりも低いために、展望台として機能するわけではない。ただ登って降りるだけである。ある意味では無目的な施設だ。にもかかわらず、希有な空間体験そのものが目的になっており、朝から多くの観光客が集まっている。一方、後者は移動する空気膜の覆いであり、どことなくモスラのような相貌だ。



トーマス・ヘザウィック《ヴェッセル》



ディラー・スコフィディオ+レンフロ《ザ・シェッド》


ちなみに、やはりディラー・スコフィディオ+レンフロの設計によって、高架の線路を空中の遊歩道に改造したハイラインも、ハドソン・ヤードまで伸長し、隣接してザハ・ハディドによるマンションが登場している。すなわち、ニューヨークでは、独創的な建築を加えることで、都市に新しい魅力を次々に重ねている。



ディラー・スコフィディオ+レンフロの設計によるハイライン




ザハ・ハディドによるマンション


9.11の跡地における超高層ビルの開発やメモリアルは、すでにほとんど整備されたが、ひときわ目立つのは、ワールド・トレード・センター駅のオキュラス《オキュラス》だろう。ビル群はそこまでアイコン的なデザインではないし、基本的にメモリアルの空間は地下に展開しているのに対し、サンティアゴ・カラトラヴァによる有機体のようなデザインは、先端が尖った無数の骨状の構築物になっているからだ。これも怪獣になぞらえるならば、針に覆われた甲羅をもつアンギラスというべきか。また、大屋根の下に広がる内部空間は、商業施設だが、宗教的な崇高さすら獲得している。これらの新名所が誕生した同時期、東京がつまらなくなった理由を考えさせられた。それはニューヨークがこの街にしかできないプロジェクトを遂行しているのに対し、東京は東京にしかできないことに挑戦していないからではないか。そして日本の地方都市は、おきまりの商業施設を並べる「東京」の真似をしない方がいい。だが、いまの東京は「東京」を真似している大きい地方都市のようだ。



サンティアゴ・カラトラヴァ《オキュラス》



サンティアゴ・カラトラヴァ《オキュラス》

2020/01/16(木)(五十嵐太郎)

ミイラ ~「永遠の命」を求めて

会期:2019/11/02~2020/02/24

国立科学博物館[東京都]

幼少のころ、母に連れられて何度か科学博物館に来たことがある。もう半世紀以上も前のことだ。動物の標本を見るのは好きだったが、ひとつだけ怖いものがあった。最後のほうに展示されていたミイラや干し首だ。初めて見た晩、怖くて眠れなかった記憶がある。以後、そこだけは極力見ないように足早に通り過ぎるのだが、恐いもの見たさでついチラ見してしまうのだった。その科学博物館で「ミイラ展」をやるというのだから、見ないわけにはいかないでしょう。もう怖くないもん。

ミイラといえば古代エジプトのものが有名だが、気候風土に関係なく世界中にあるそうだ。人間、考えることはみな同じというか、死に対する考え方は人類共通であるらしい。展示は地域別に、南北アメリカ、古代エジプト、ヨーロッパ、オセアニアと東アジアの4章に分かれている。地域によって乾燥させる方法や包んでいるものは違っても、ミイラそのものはどれも茶色く物体化しているため大して変わらない。ちょっと怖いのは日本のミイラだ。ほかの地域のミイラは数百〜数千年たっているのに、日本のは比較的新しい江戸時代のもの。特に「本草学者のミイラ」は1832年ごろ製造(?)というから、まだ200年もたっていない。髪の毛や眉毛も残っているし、肌のツヤもフレッシュ。これはちょっと……。

最後に「国立科学博物館で過去に展示されたミイラ」として、「メキシコのミイラ」および「南米ヒバロ族の干し首」というのがあった。これこれ、ぼくが昔見たのは。

2019/11/01(金)(村田真)

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広島平和記念資料館の展示リニューアル

広島平和記念資料館[広島県]

展示のリニューアルを終えた広島平和記念資料館を訪れた。以前に比べて、全体として展示のデザインは洗練されたと言えるだろう。広島の爆心地周辺の模型がある円形の台に対し、上から映像をプロジェクトする東館の展示は、すでに先行して公開され、DSAの日本空間デザイン大賞2017を受賞している。もっとも、同館の上空に吊るされた赤い球体で爆発を示した廃墟のジオラマや、リトルボーイの模型がなくなったのは寂しい。プリミティヴな展示だが、映像よりも空間やスケール感を伝える力があったのではないか。



円盤へのプロジェクション


リニューアル前の爆心地模型

さて、リニューアル後の本館は初めてである。筆者はかねてより被爆者の描いた絵が与える想像力が重要だと考えていたが、新しい展示では導入部のおどろおどろしい被曝再現人形が消え、代わりに暗い部屋で絵が大量に使われ(基本的に絵は複製)、スポットを当てたのはよかったと思う。ただし、絵と写真を同一面で混ぜて並べた展示にはやや違和感をもった。記憶にもとづき、だいぶ後になってから被爆者が描いた絵と、当時プロのカメラマンが撮影した写真では、メディアの性格が全然違うからだ。またリニューアル後の展示では、写真、衣服、遺品を用いて、子供の犠牲者の紹介が増えている。来場者に対し、悲しみの感情移入をうながしやすいだろう。そして日本人以外の被曝者にも触れている。総じて言えば、被害を受けた側の視点に立つ展示の性格がより強くなった。しかし、「なぜ、このような事態を招いたのか?」という説明がない。これでは自然災害と同じである。



被曝再現人形がなくなった導入部


被爆者の絵と写真


子供の犠牲者

以前から重要だと思っていたのが、展示を見終わった後、公園を望む通路を歩くことになるが、ここに架けられた原爆投下前の地図である。ここが昔は繁華街の中島町だったことを示しており、敗戦後に公園になったことを伝えるからだ。リニューアル前はひっそりと地図があり、気づかない人が多かった記憶があるが、今ははっきりとわかるように、キャプションもついている。また公園内では、昔の住宅など、被爆遺構の発掘を開始した。今後、その公開も予定されているという。


中島地区の地図



近年の発掘成果を紹介するパネル

2019/08/24(土)(五十嵐太郎)

梅田哲也『Composite』

会期:2019/08/12

神戸アートビレッジセンター KAVCホール[兵庫県]

「声と身体が立てる音」という最小限の要素で構成され、ルールの設定と即興、中心性の欠如、プログラムとエラーの介在、ミニマルな要素の反復とズレがもたらす多様性の生成、伝染や共鳴の現象といった問題群を提示しつつ、「個人と集団」「集団と集団」の調和とせめぎ合い、さらに「集団の崩壊と包摂/同調の浸透」へ。ワークショップに基づくパフォーマンスの実験性に社会構造への批判的視線を内在させた、恐るべき強度を持つのが梅田哲也の『Composite』である。2014年にフィリピン山岳地帯の村の子どもたちと制作され、日本ではKYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGでの発表以来の再演となる。今回の神戸公演では、小・中・高校生と教育に関わる大人を対象にしたワークショップを開催し、作品がつくり上げられた。

本作の構造は明快だ。輪をつくった6名の男女のグループAによる合唱(規範的な集団の発生)、子どもを含むもうひとつのグループBによる同様の合唱(相似的な別集団の形成)、そして異なる単旋律を唱える第三勢力Cの登場を経て、Cが有する「伝染」作用による集団の崩壊と全体的な包摂へと展開する。初めに登場したグループAは、円陣を組み、「アレアレウッ」という掛け声と足踏み、肩や腕を叩く音で一定のリズムを反復する。向かい合った2人ごとに微妙に異なるリズムが設定され、「掛け声、足踏み、身体部位を叩く音」という構成要素の共通性とそのパターンの違いにより、ミニマルな要素から複雑な合唱を立ち上げていく。リズムが途切れると輪が回転し、「前任者の担当パターン」が引き継がれていくようだ。目をぎゅっとつぶったパフォーマーたちは、互いの立てるリズムに妨害されずに自分に課せられたルールを遂行しようと、集中力を保つのに懸命だ。「手を繋いだ輪」が示唆する共同体とその閉鎖性、個人の声と集団の声のせめぎ合い、調和と不調和、「位置の交替」による役割の引継ぎなど、音響の生成を通した社会集団の抽象化が提示される。



最終リハーサルの様子 [写真提供:神戸アートビレッジセンター]


遅れて登場した相似的な別集団Bも、同様のリズムの生成に従事する。だが、AとBは完全に同期しないため、集団内の調和と不調和は、集団対集団のそれへと拡大される。そして、A・Bとは異なる単調な旋律を歌う第三勢力Cが、客席から一人、また一人と登場する。このCは「位置移動」と「接触による伝染」という能力を持っており、CとぶつかったA・Bの構成員はC化し、帰属していた集団を離れてバラバラの方向に歩き出し、移動先でさらに伝染を拡大させていく。そして暗転。集団の崩壊と、次第に大きくなる「ひとつの単旋律」への吸収が、暗闇のなか、音響の強度のみで想像され、震撼させる。その想像力の宛先は、極めて両義的だ。「他者」との接触によって閉じた共同体が解体され、解放された個人が他者への「共感」を通して、全員が包摂されるユートピアが広がっていくのか。それとも逆に、その過程は、次第に膨れ上がり大きくなる「単一の声」の伝染力に抗えず、個人の声が帰属を失って同化吸収され、「異なる小さな声」を排除していく全体主義的な過程なのか。



最終リハーサルの様子 [写真提供:神戸アートビレッジセンター]


『Composite』は、専門化されたダンサーやパフォーマーではなく、子どもや一般の人々とつくり上げるワークショップにより、「私たちの生きる社会構造がどう形成され、どこへ向かうのか」を美しくも不穏さを湛えた合唱作品として予見的にあぶり出す。民主的なプロセスによって社会形成そのものを問う、透徹した思考に支えられた作品だ。公演終了後は、梅田と出演者による振り返りのミーティングが行なわれていたが、一般非公開だったことが惜しまれる。参加者、特に子どもたちは、あの場で直感的に何を経験していただろうか。梅田がワークショップ対象者に子どもたちを含めていたことに、本作に込められた希望を見出したい。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING ショーケース「Forecast」国枝かつらプログラム|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年04月15日号)

2019/08/12(月)(高嶋慈)

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