2022年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

まぼろし博覧会

まぼろし博覧会[静岡県]

池田20世紀美術館に行こうとしたらバスの待ち時間が長かったので、たまたま駅の案内所でパンフレットを見つけた「まぼろし博覧会」とやらへ、先に行ってみることに。パンフには「ニューカルチャーの聖地」としておびただしい量の画像が満載され、好奇心を刺激してやまない。ここはどうやら出版社のデータハウスの社長が館長を務めるB級スポットとして知られているらしく、館長自身も「セーラちゃん」として時折コスプレして登場するそうだ。ぼくは幸か不幸か出会わなかったが。

まず、規模がハンパではない。「敷地面積は甲子園球場や東京ドームと同じ広さ」で、かつて熱帯植物園だった土地を買い取ったそうだ。巨大な温室を改造した「大仏殿」に始まり、斜面に沿って「昭和の町を通り抜け」「まぼろし神社」「ほろ酔い横丁」「まぼろし島」「メルヘンランド」などの小屋が並んでいる。広さだけでなく、展示品数もまたおびただしいことこのうえない。大仏殿には巨大な聖徳太子像をはじめ、巨石人頭像や古代エジプトの神像、仁王像のレプリカ、藝大生が藝祭のためにつくった牛頭馬頭御輿、人魚のミイラなど支離滅裂な品ぞろえ。




まぼろし博覧会 正門[筆者撮影]



まぼろし博覧会 聖徳太子像[筆者撮影]


続く小屋にも各地の秘宝館やテーマパークから払い下げられたような怪しげな人形、シロクマやカンガルーなど動物の剥製、人体標本、ピンク映画のポスター、全学連の立て看やヘルメット、昭和歌謡のレコード、ストリップ劇場の看板、ミゼットやスクーター、コスプレ衣装、戦争画の複製画まで展示されている。いや展示されているというより、寄せ集められているというべきか。いちおう大まかに分類されてはいるけれど、ジャンルの境界が曖昧であっちこっち浸食し合い、全体で昭和の残骸の吹きだまりといった趣だ。この過剰感、カオス感がたまらない。



まぼろし博覧会 衛生博覧会[筆者撮影]



まぼろし博覧会 昭和の町を通り抜け[筆者撮影]



まぼろし博覧会 昭和の町を通り抜け[筆者撮影]



まぼろし博覧会 昭和の町を通り抜け[筆者撮影]



まぼろし博覧会 昭和の町を通り抜け[筆者撮影]


それにしても、これでは管理するのが大変だろうと思うが、あまり管理されている形跡はなく、小屋も展示品もホコリを被り、汚れ放題でカビ臭い。また扇風機はあるがエアコンなどはなく、もともと熱帯植物園の温室だったので蒸し暑く、展示品にとっては(観客にとっても)最悪の環境だ。もともと大して価値のないものばかりだから朽ちるに任せるのもひとつの考えだが、ある人たちにとってはとてつもないお宝だし、また10年後50年後にはとんでもなく価値の上がりそうな物件もあってあなどれない。昨日訪れた江之浦測候所とは対極をなすアナザーワールド。

2022/07/11(月)(村田真)

アビシニア高原、1936年のあなたへ─イタリア軍古写真との遭遇─

会期:2022/07/07~2022/08/09

PURPLE[京都府]

映像人類学者の川瀬慈が知人を介して偶然譲り受けたイタリア軍古写真を、自身のエッセイとともに展示する企画。古写真は、イタリアによるエチオピア帝国侵略時代(1935–1941)にイタリア軍の兵士が撮影したと思われるものを中心に、200枚余りに及ぶ。撮影されたエチオピア北部と近隣エリア(現在のエリトリア)は、川瀬が長年フィールドワークを行なってきた土地である。トランプ大の古写真が展示台に並べられ、そのうち6点がパネルに引き伸ばされ、川瀬の言葉を添えて展示された。


これらは、イタリアの蚤の市で、ただ同然の値段で売られていたものだという。所有者の手を離れ、出自も撮影者も不明だが、被写体の性格や撮影手法の点でいくつかのまとまりが見えてくる。イタリア軍の活動には、戦車や行軍、兵士たちの日常生活のスナップに加え、凄惨な死体や兵士の墓もある。一方、典型的な植民地写真の群れは、侵略した土地とその住民や動物を「イメージ」として二重に所有しようとする欲望を表わす。現地住民を従えた記念撮影。裸の上半身に首飾りを何重にも巻いて着飾った少女たち。ワニやダチョウなどの野生動物。古代遺跡や雄大な風景。イタリア兵はカメラを意識せずラフに写るのに対し、現地住民は正面向きや直立不動の姿勢であり、眼差しの前に物体化した身体を晒している。


[撮影:守屋友樹]


本展のポイントは、さまざまな被写体に「あなた」と呼びかける川瀬の言葉にある。「あなた(タバコの火を分け合うイタリア兵たち)」は、加害者であり、帝国の野望の犠牲となった被害者でもあった。「あなた(戦車の隊列)」は、19世紀後半に「文明国」がエチオピアに敗けた屈辱を晴らすため、近代兵器の強大な力を示しながら再びこの地にやってきた。王侯貴族のお抱え楽師/道化/庶民の代弁者/社会批評家とさまざまな顔を持つ「あなた(吟遊詩人)」は侵略者を賛辞する歌を歌ったが、抵抗を歌って処刑された者もいた。「あなた(巨大なムッソリーニの彫像)」は、かつてイタリア軍が敗れた街に征服の証として建てられ、兵士たちは「あなた」の前に現地住民を「陳列」して記念撮影した。「あなた」の帽子のかぶり方は、侵略者側に付いた現地住民の傭兵であることを示す。住民の憩いの場であり、争いごとを木の下で話し合って調停する場でもある「あなた(イチジクの巨木)」は、人間の叡智も繰り返される愚かさも見守ってきた。



[撮影:守屋友樹]


川瀬はまた、「イメージはこうやって、おのずからひょっこり私たちのまえに現れるので、おもしろくもあり、やっかいでもある」と書きつける。これは、2度目の「遭遇」である。1度目は、異民族の前に侵略者・征服者として相対し、イメージとして他者を所有しようとする眼差し。そして、そうした欲望の眼差しが焼き付いた写真を、時間的・空間的距離を隔てて再び見つめる眼差し。この2度目の「遭遇」のもとで、第一次エチオピア戦争での敗北(1896)からエチオピア併合(1936)の40年に及ぶイタリア史というナラティブの流れが発生する。写真は常に、遅れてきた眼差しの下でナラティブを生み出す。写真とは、眼差しを何度でも受け止める物質的な層である。それは、イメージとして印画紙の上に固定されつつ、決して固定された時間を生きてはいないのだ。

また、現地住民もイタリア兵も巨大な彫像も古木も「あなた」と等しく呼びかける川瀬の語りは、さまざまな示唆を含む。どんなものでも代入可能な「あなた」は、固有名が失われ、回復不可能な忘却という空白を示す。同時に、いま私とともに私の目の前にある「あなた」という存在を承認し、唯一の固有性を回復しようとする呼びかけは、弔いにも似た行為である。

客観性を装った通常の「歴史資料の解説文」であれば、「私」「あなた」といった人称を欠き、「私とあなた」という親密な関係性も想像的な対話もない。そうした形式をあえて逸脱した川瀬の語りは、再び「征服者」「所有者」としてイメージを奪取するのではなく、被害者として一方的に糾弾する(立場を偽装する)のでもない、「あなた」として向き合う倫理的な態度を示していた。



[撮影:守屋友樹]


2022/07/07(木)(高嶋慈)

景聴園ラジオ 第1回『何故絵を描いているのか?』

会期:2022/06/05〜

ポッドキャスト

チャンチャチャチャーンチャチャ……穏やかなギターの音で始まる「景聴園ラジオ」は「日本画」の勉強会と鑑賞の手引きを行なうポッドキャストだ。

「景聴園」は2012年に発足した日本画のグループ。メンバーは、作家である上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓、企画の乃村拓郎、そしてアーカイブとテキストの古田理子。1980年代から90年代生まれの彼らは、京都市立芸術大学での結成当時から、合作を行なうタイプのグループではなく、グループ展を幾度となく開催してきた。かなり雑な言い方で恐縮だが、私から見た「景聴園」は、具象日本画の再考を軸としたグループだ。彼らの企画展に行くと、「日本画」が「物語」を描くとしたら、何を扱うべきか、どう描くべきかが5人ともまったく違うということにいつも驚かされる。でも、私は「日本画」に詳しくないので、そこで思考も眼も立ち止まってしまっていた。そんなときにこのポッドキャスト、渡りに船である。

第1回の冒頭では、「横山大観についての話をしよう」と前振りが来て身構えていたが、初回ということで、まずは「なぜ絵を描いているのか?」という問いからスタートした。「好きだから」という言葉を景聴園はいくつも切り分けていく。どの瞬間によろこびを感じるのか、絵を通して自分の認識が他者にとってどうなのかがわかるよろこび、生きていく手立てとしての絵、絵を描くときの「手癖」をよろこびと捉えるか否か。そこに研究はどう関連するか。

松平が途中で指摘した通り、景聴園の話はすべてが日本画についてのものなのだが、彼らが立ち返るときのエピソードは人間が人間として生きている限りにおいて、誰もが「何か」を「日本画」に代入することが可能という、不思議な体験であった。同時代としての日本画に向き合う彼らだからこそのなせる技だ、と唸ったり笑ったりのポッドキャスト。景聴園の結成10周年特別企画は耳も眼も離せない。


景聴園ラジオ(Anchor):https://anchor.fm/keichoen/

2022/06/05(日)(きりとりめでる)

沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」

会期:2022/05/03~2022/06/26

東京国立博物館 平成館[東京都]

今年は沖縄県が復帰50年を迎える節目の年である。本展はそれを記念した展覧会なのだが、「琉球」というタイトルのとおり、スポットを当てているのはそのルーツである「琉球王国」だ。琉球王国について詳しく知っている人はどのくらいいるだろうか。正直、私はほとんど何も知らなかったということを本展で知らされた。琉球王国は1429年から1879年まで存在した。日本では室町時代から江戸時代までにあたる。

本展の第1章で《東インド諸島とその周辺の地図(『世界の舞台』)》という16世紀の地図が展示されていたのだが(※5月29日に展示終了)、それを見て愕然とした。当時、世界の目から見ると、日本よりも琉球王国の方が存在感が大きかったことを示していたからだ。なぜなら琉球王国は中国をはじめ、日本、朝鮮半島、東南アジア諸国との貿易によって発展した海洋王国だったためだ。まさにアジアの架け橋として外交に長けていた一方、国内では高度な手業による種々さまざまな工芸品が発達した。絵画、木彫、石彫、漆芸、染織、陶芸、金工などがあるなか、私がもっとも目を奪われたのは漆芸だ。螺鈿や沈金、箔絵などで細やかに加飾された豪華絢爛な箱や盆、卓などが展示されており、かつての華やかなりし王家の暮らしを彷彿とさせた。当時、中国から最先端の工芸品類を輸入していた背景もあり、相当、目が肥えていたのだろう。王国内で豊かな文化が醸成されていたことを伝えていた。


首里城公園 首里城正殿(2014[平成26]年撮影)[画像提供:一般財団法人 沖縄美ら島財団]


そんな琉球王国の象徴とも言える首里城の再建や文化遺産の復元作品で本展は締められていたが、観覧後、なんだか夢から覚めたような気分になる。日本の明治政府によって琉球王国が沖縄県になってからというもの、ずっと困難や苦難の連続だったのではないか。我々はむしろ、そちらの現実の方を知っているからだ。琉球王国にかつて存在した高度な手業はいったいどこに消えたのか。日本はその貴重な文化や産業の多くを彼らから奪ってしまったことをもっと知るべきである。そんな複雑な思いに駆られた展覧会だった。


浦添市指定文化財 朱漆山水人物沈金足付盆(しゅうるしさんすいじんぶつちんきんあしつきぼん)
第二尚氏時代・16〜17世紀 沖縄・浦添市美術館蔵


公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/ryukyu2022/

2022/05/28(土)(杉江あこ)

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高尾俊介「Tiny Sketches」(高尾俊介を中心に考えられること[1])

会期:2022/05/13~2022/06/12

NEORT++[東京都]

高尾俊介による初個展「Tiny Sketches」は、2019年3月から高尾が始めた「デイリーコーディング」で制作された作品1500点以上のなかから200点を選出しプリントした展覧会。デイリーコーディングとは、高尾が1日ひとつ、少しでも何かコードを書いて、それをTwitterにアップロードするという修練でもあり日記のようでもある活動だ。紙に出力された作品にはプロジェクターの光が照明として投げかけられ、その輝度に眼が揺らされて、モニターを見ているような心地になる。

連動企画のトーク「NFT, コーディングの観点から考えるメディア・アート」[★]では、畠中実は高尾のオルタナティブ性を、ジェネラティブ・アートは出力物ではなくコーディングに力点があったこと、そしてNFTアートはNFTを使っているという意味ではないはずであり、NFTによってジェネラティブ・アートの成果が作品にできたのではないかと指摘した。いわば、高尾は二重の宙づりのなかでその特異性が成立したということだ。これは慧眼だと思った。続く久保田晃弘はより形式の次元での検討を進める。メディア・アートの定義のうち「作品が流通・受容・再生産される媒体過程そのものを作品の本質としてとらえるアートの呼称」(中井悠『アメリカ文化辞典』)という点に着目し、コーディングとNFTとメディア・アートの位相を考える。NFTが希少性=作家性を人工的につくり上げる一方で、その対極にあるクリエイティブ・コモンズ0(著作権フリー)とNFTは「オーナーシップ」(Braian L. Frye)でつながるというのだ。つまり、NFT(アート)は所有が目的ではなく、所有の表明によるコミュニティへの影響が重要であるため、その公開自体はフリーでも構わないという作品とのかかわり方だ。ここで久保田はNFT(アート)を著作権をなくす行動、著作権がなくても経済が回る可能性であり、メディア・アートを考えるひとつの視点なのではないかと示した。

いまは高尾の取り組みはたくさんの既存の文脈との比喩で語られることを積み重ねて、一体これが何であるのかと切り分けている最中でもあるわけだが、ここで、トークの途中で高尾がポロっと言った、NFTにおける「絶え間ない作品と作家との関係」に戻ってみたい。つまり、久保田の図式に「作家」のレイヤーを追加する必要性自体の検討であり、作家が存命であるときの時間幅での作品について考えることだ。NFTや美術作品全般は所有ではなく「影響」を買うものだとして、そのときの作品はどのようなコードをバックグラウンドに走らせているかではなく、高尾俊介のNFT上に紐づく作品だけでなく、ログ、プロジェクト、Twitterでの高尾の発言、時価を参照し続けているということだ。これもまた既存の作品の在り方との連続性のなかで語りうることでもあるだろう。しかし、NFTにおける「影響」の矛先、あるいは、高尾のデイリーコーディングのコミュニティを含めて考えるなら、それは外せないのだろう。

次回は、「継続性と高尾俊介とSNS」について考えたい。

展覧会は無料でした。作品のほとんどはウェブサイトで鑑賞可能です。


高尾俊介《220219a_Community Statement on "NFT art"》(2022)


★──久保田晃弘、畠中実、高尾俊介、NIINOMI「NFT, コーディングの観点から考えるメディア・アート[Tiny Sketches Shunsuke Takawo's 1st solo Exhibition]」(2022年5月21日)
https://youtu.be/S5aZ1RIUyHQ



公式サイト:https://tinysketches.neort.io/ja/dailycoding

2022/05/15(日)(きりとりめでる)

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