artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Q『地底妖精』

会期:2018/04/20~2018/04/23

早稲田小劇場どらま館[東京都]

市原佐都子の演劇ユニット・Qはこれまで、女性の性や人間の動物性を中心的な主題とする作品を発表してきた。今秋には女性アーティストおよび女性性をアイデンティティとするアーティストやカンパニーにフォーカスを当てたKYOTO EXPERIMENT2018公式プログラムへの参加が決定している。

『地底妖精』は妖精と人間のハーフであるユリエリアを主な登場人物とする(ほぼ)ひとり芝居。妖精というモチーフは社会的に見えないことにされているもの、見ないふりをしているものをめぐる思考へとつながっている。白目を剥いた永山由里恵の怪演が強烈だ。本作は昨年、「こq」名義で初演され、現代美術作家の高田冬彦(演出・美術としてクレジット)とのコラボレーションでも話題を呼んだ。今回の再演では「劇場版」ということで美術がスケールアップするとともに戯曲が一部改訂され、演出にも変更が加えられた。

その変更された部分が問題だ。本作にはユリエリアが恋愛成就のおまじないをやってみせる場面がある。初演ではユリエリアひとりによって演じられたが、今回の再演では観客のひとりが恋愛成就の相手役として(半ば無理やりに)舞台に上げられた。おまじないは二つ。ひとつはローズウォーターと呼ばれる液体を相手=観客に飲ませるおまじないで、おそらくこちらは多くの観客の許容範囲内だろう。だがもうひとつはどうだろうか。 次に観客は舞台上で仰向けになるよう指示される。渋々従う観客にユリエリアは馬乗りになり、取り出したリップクリームをその顔面に塗りたくる。なぜこれが問題なのか。あるいは、なぜこれが問題にならないのか。

馬乗りになっている人物を男性だと仮定してみればよい。私が観劇した回ではここで客席から男性の笑い声が聞こえてきた。堂々たる犯行は不均衡な構造により隠蔽され、そのこと自体がある種の復讐となる。強烈な皮肉と怒りが込められた「犯罪計画」は、残念ながら成功してしまったと言わざるをえない。

[撮影:中村峻介]

公式サイト:http://qqq-qqq-qqq.com/

2018/04/23(山﨑健太)

オパンポン創造社『さようなら』

会期:2018/04/19~2018/04/22

花まる学習会王子小劇場[東京都]

オパンポン創造社は大阪を拠点とする野村有志のひとり演劇ユニット。CoRich舞台芸術まつり!2018春の最終審査に選出された本作は、劇団としては久々の東京公演となった。

舞台は淡路島のネジ工場。そこで働く柴田(野村有志)の毎日は、同じ工場で柴田を「かわいがる」先輩・宮崎(川添公二)、同僚の暗い女・末田(一瀬尚代)、風俗狂いの中国人・チェン(伊藤駿九郎)、工場の社長(殿村ゆたか)そして行きつけのスナックのママ(美香本響)という狭い人間関係で完結していた。ところがある日、末田とチェンが社長の金を盗み出す計画を柴田と宮崎に持ちかけて──。

冒頭、末田とチェンが柴田・宮崎を裏切り、金を持ち逃げしたことが明かされると、そこに至る彼らの日常が描かれる。退勤、飲みの誘い、スナックでのカラオケオール、ラジオ体操、就業、退勤、そしてまた飲みの誘い。柴田は乗り気ではないのだが、宮崎の誘いを断ることができずに毎日朝まで付き合うハメになる。毎日、毎日、毎日、毎日。執拗に描かれる日常は、繰り返すたびに少しずつ省略され、機械的な反復になっていく。磨耗する感情。繰り返しと省略が暴き出すのは、渦の中心に凝縮されていく鬱屈だ。

関西の劇団らしく、デフォルメされたキャラとテンポのいいやりとりが笑いを呼ぶのとは裏腹に、全体のテイストは苦い。抜け出せない日常に不満を覚えながらもそれをやり過ごす柴田は、変わりたいと思うことすら放棄していたことを末田に指摘される。ヘラヘラしたうわべとその向こうに垣間見える苛立ち、それでいて変化を望まぬ弱さを野村が巧みに演じていた。犯罪計画は露呈し、変化は望まぬかたちで訪れるものの、柴田は再び工場で働くことになる。行方を眩ましていた末田も戻り、変わらぬ日常が再開する……かのように思えたが、それは持ち逃げした金を使って末田と同じ顔に整形したチェンだった(!)。衝撃の結末に、しかし柴田の漏らす乾いた笑いはどこか明るい。

公式サイト:https://opanpon.stage.corich.jp/

2018/04/22(山﨑健太)

ナイロン100℃ 45th SESSION「百年の秘密」

会期:2018/04/07~2018/04/30

本多劇場[東京都]

俳優が複数の役をこなしながら、2人の女性をめぐる三世代にわたる長いスパンを描く物語の再演である。まずオープニングの演出に目を奪われる。ベイカー家の邸宅の舞台セットに対し、矢継ぎ早に重要なシーンの映像が断片的に投影され、観客は謎めいた言葉を受けとってから物語が始まるからだ。なお、この段階では、まだ俳優が演じている映像を見ており、のちに実際にその場で演じている場面に遭遇する。この演劇自体が時間の軸をシャッフルしながら進行するのだが、それを高密度に圧縮したというべきか。例えば、前半で描かれる数日は、幾度か時間が大きくジャンプし、ベイカー家が没落したことはわかるが、いくつかのミッシング・リンクを残したまま、休憩に入る。そして再開した後半に欠けていたパズルのピースを埋める数日のエピソードが入るという、物語的な吸引力を最後まで持続させる巧みな構成である。

空間の表現として興味深いのは、前庭にある大きな楡の木を舞台の中心、すなわち邸宅のリビングに据えていることだ。それゆえ、舞台転換することなく、同じ場所が室内、もしくは前庭として使われる。最初はいささか戸惑うが、慣れると気にならなくなる。いわば同じ空間が内部/外部であり、二重化されている。建築では不可能な、演劇ならではの空間の魔術だ。もちろん、楡の木は室内にあるわけではないが、「百年の秘密」の物語において重要な存在であり、これは精神的な大黒柱だろう。いや、もうひとつの語らぬ主人公と言えるかもしれない。また冒頭において邸宅の隅々に住人と来訪者たちの記憶が染みついていることが暗示されていた。長い年月が過ぎていくなかで、最初の登場人物は老い、子供や孫の代に受け継がれ、やがて死んでいく。変わらないのは、邸宅と楡の木だけである。そう、「百年の秘密」とは、これらが見守ってきた物語なのだ。

2018/04/14(土)(五十嵐太郎)

contact Gonzo × 空間現代

会期:2018/03/30~2018/03/31

[京都府]

空間現代コラボーレションズ2018の第3弾。空間現代の本拠地であるスタジオ兼ライブハウス「外」の中央には台座が置かれ、その上にベニヤで覆われた直方体が鎮座していた。天面からは木の枝やオレンジ色に塗られた木片、あるいは何かのコードが飛び出している。オブジェを囲むビニールカーテンの外には空間現代、内にはcontact Gonzo。「演奏」が始まる。

ゴンゾの面々はハンマーや木片でオブジェを殴打する。打撃音がスピーカーからも聞こえてくる。天面から出ているコードはどうやらマイクにつながっているらしい。オブジェの周囲のベニヤが破壊され、その正体がコンクリートconcrèteの塊だということが露わになる。

Photo by Yamazaki Kenta

今回のコラボレーションはゴンゾ&空間現代版ミュジック・コンクレートmusique concrèteだ。ミュジック・コンクレートは楽音のみならず自然界の音や人の声など、あらゆる音を電子的に録音・加工・構成することでつくられる。破壊音もまた音楽の一部となる。

合間にいつもの取っ組み合いを挟みつつ破壊は続く。電動ドリルまでもが登場し、コンクリート片が飛散する。コンクリート塊からはテニスボールや木片、ビニール袋、人の頭部をかたどったオブジェなどが「発掘」される。文字通りのファウンド・オブジェ。だがそれはもちろんあらかじめ埋め込まれたモノたちだ。無機質な直方体だったコンクリート塊は、いつしか彫刻のように削られている。

Photo by Katayama Tatsuki

Photo by Yamazaki Kenta

「解体=創造=(再)発見」の等式は空間現代の音楽に由来する。彼らの楽曲はいくつかのフレーズを解体、編集しながら反復することで構成されている。それを聞く観客は、反復される無数のバリエーションを通してオリジナルのフレーズを見出すのだ。繰り出される演奏の一撃一撃が、ハンマーのように空間現代の音楽を削り出す。

二日にわたる解体=創造のレコードたる「ミュージック・コンクリート」はその後、当日の演奏を複数のスピーカーで再構成した音とともに「3.30-31 Aftermath」として「外」に展示された。

Photo by Katayama Tatsuki

contact Gonzo:http://contactgonzo.blogspot.jp/
空間現代:http://kukangendai.com/
「外」:http://soto-kyoto.jp/

2018/03/30(山﨑健太)

KAC Performing Arts Program 2017/ Contemporary Dance ワークショップ&ディスカッション『ダンスの占拠/都市を占めるダンス』

会期:2018/03/24

京都芸術センター[京都府]

「都市におけるダンス」をテーマに、ダンスやダンサーを取り巻く現在の状況を再認識し、課題や展望を話し合う、ワークショップとディスカッションのプログラム。ほぼ丸一日にわたって行なわれたディスカッションの6つのセッションのうち、筆者は、手塚夏子のお話とワークショップ「フォルクスビューネの占拠にいて考えたこと」、「ダンサーが手を組むこと~労働としてのダンスと、互助組織、ネットワーク」、「若手ダンサーが求める課題と環境、そして機会」、「ダンス/地域/都市/社会/世界」の4つを聴講した。

まず、1つめのセッションでは、ダンサーの手塚夏子が、昨年ベルリンの劇場フォルクスビューネが占拠された現場での体験談を話した。ワークショップのようなものや炊き出しも行なわれ、現場は殺気立つというより穏やかな雰囲気だったというが、そこには、「対立の歴史が長いからこそ、運動を静かに続けることで対話を持続させよう」という静かな熱があるのではと手塚は話す。占拠事件の直接的なきっかけは、劇場総監督を25年間務め、実験的・問題提起的なアプローチで知られる演出家のフランク・カストルフが退任し、後任に元テート・ギャラリーの館長クリス・デーコンが着任したことで、これまで同劇場が培ってきた演劇文化や批判精神が失われるのではという反発が起こったことにある。手塚はさらに、「無骨ながらも創造的な街だったベルリンが、ジェントリフィケーションにより変容していくことに対する怒りも背景にあったのではないか。自分のアートが商品としてどう価値づけられるかという方向にアーティストの意識が変わっていくし、そうした意識のアーティストが入ってくる。60年代のジャドソン教会派のように、『タダ(に近い)場所』があることが重要。商品価値ではなく、何が自分たちのリアリティかを模索できる場所からこそ、何かが生まれる可能性がある」と話した。

「ダンサーが手を組むこと~労働としてのダンスと、互助組織、ネットワーク」のセッションでは、ダンサー・振付家の伊藤キムが、「ダンサーや振付家の労働組合をつくる」提言を行ない、議論の中心となった。プロデューサーや有名振付家など力のある相手に対し、ダンサーが個人でギャラなどの交渉に臨むことは難しいが、組合をつくって団体で交渉すればどうかという提言だ。そのためには、ダンサーは「踊りたいから踊る人」ではなく、職業人としての自覚を持つ必要があると訴えた。会場からも活発な意見が出され、演劇批評の藤原ちからは、俳優や制作者の労働環境問題についても触れつつ、「労働の対価として認められたものだけがアートなのか。今の日本社会や行政が求めるものという枠でアートをはかれるのか。アートの自律性についても丁寧に議論していくべきだ」と述べた。また、舞踊史研究者の古後奈緒子は、フランスの大学のカリキュラムを紹介し、労働基準法や契約の結び方についても教えること、ダンス史をきちんと学ぶことで自作の歴史的位置付けについて語れるように教育がなされていることについて話した。

最後のセッション「ダンス/地域/都市/社会/世界」では、神戸のNPO DANCE BOXのディレクター横堀ふみが、多文化が混淆する町の中にある劇場としての取り組みを紹介した。また、JCDN(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の佐東範一が、「踊りに行くぜ!」などのネットワーク整備や制作支援活動、震災を契機に始まった東北地方の芸能との交流をはかる「習いに行くぜ!」や三陸国際芸術祭の取り組みを紹介した。会場からの発言を交えてのディスカッションでは、公共ホールとの連携のあり方、「観客」の想定や育成、助成金頼みの体質からどう脱却するか、「コミュニティダンス」など地域で生まれるダンスのニーズなど、多岐にわたる論点が提出された。

若手、中堅、ベテランと層の厚いダンサーに加え、制作者やプロデューサーが集まって話し合い、刺激を与え合う貴重な機会だった。また、DANCE BOX(神戸)やJCDN(京都)など中間支援を行なう団体は関西に多い。こうした機会が今後も継続され、シーンの活性化につながることを願う。

2018/03/24(土)(高嶋慈)