2019年05月15日号
次回6月3日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

福井裕孝『舞台と水』

会期:2019/03/21~2019/03/24

スパイラル・ガーデン[東京都]

学生クリエイターを支援するクマ財団クリエイター奨学金の給付を受けた奨学生たちによるショーケース「KUMA EXHIBITION2019」の一環として上演された本作は「デスクトップシアター」の「ワークインプログレス」と冠されている。デスクトップシアターとはその名の通り、机上を舞台に見立てた演劇である。俳優は指。人差し指と中指を交互に前に出すことでヒトが歩く様子を表現するようなものを思い浮かべればおおよそのところは正解である。机上にはほかに盆栽や灰皿、掌サイズの石などが置かれ、「舞台美術」の役割を果たす。観客は机の前に三脚並んだ椅子に腰かけ、あるいはその後ろに立ってそれを「観劇」する。

そこだけ切り出して見るならば単なる手遊びと言えなくもないのだが、指の「本体」たる俳優もまたその存在を主張してくるところがこの作品の面白さだ。机の向こうの黒子であるはずの「本体」は隠れる様子もなく、過剰に目につくと言ってもよいくらいである。観客の知覚は机上の指による「演劇」とその背後の俳優(?)たちとの間を行き来することになる。

いや、この言い方は正確ではない。指は手と、手は腕と、腕は俳優の胴とつながっているのだから、そもそも観客はそれらを一体のものとして知覚しているはずだ。手遊びの部分だけが切り出され「演劇」として認識されるのは、つくり手が用意したフレームに観客が「ノって」いるからだ。

用意されているフレームは指=机上とその背後の「黒子」だけではない。福井は演劇が上演されている空間、あるいは上演の外側の環境をもフレームとして利用する。あるいはそれこそがデスクトップシアターの意義であると言ってもよい。開かれた空間の只中に「劇場」を置くこと。

イベントの性質上、上演は展覧会の会場内で行なわれた。展覧会の会場自体もまたオープンスペースであり、隣接する空間には展示と無関係な人々が行き来する。舞台となる机の向こうにはカフェとその客が見える。上演が始まるとすぐに、椅子に座って「観劇」している私の目の前にアイスコーヒーが置かれた。「舞台美術」であろうそれは、いま目の前にあるのが舞台であると同時にカフェとひと続きの空間に置かれた単なる机であることを強く意識させた。

さらに「外」を意識させられる場面もあった。上演中、視界の端にコンビニ袋が入ってきたかと思えばそれを提げているのは出演者のひとりで、彼はそこからペットボトルを無造作に取り出すと机上に置いたのである。商品から舞台美術へ。何食わぬ顔で行なわれる「侵犯」がフレームの恣意性を暴く。コンビニ袋を下げた男は私の視界に入ってきた瞬間には間違いなく「出演者」だったが、ではその前、私を含めた「観客」に認識される前の彼はどうか。私は机上を動き回る指を「俳優」として見ていたが、そこにつながる掌は、腕はどうか。そう考え始めると、何か奇妙に落ち着かないモノを見せられているような、そんな気分にもなるのであった。

KUMA EXHIBITION2019:https://kuma-foundation.org/exhibition2019/
公式サイト:https://fukuihrtk.wixsite.com/theater

2019/03/23(山﨑健太)

Jamie Lloyd Company『Betrayal』

会期:2019/03/05~2019/06/08

Harold Pinter Theatre[ロンドン]

結末の見えた物語は味気ないものだろうか。いや、行き着く先を知っているからこそより大きく心揺さぶられる、そんなこともあるはずだ。ハロルド・ピンターの戯曲『背信』はエマとロバート、ジェリーとジューディスの二組の友人夫婦の9年間を、しかし時を遡るかたちで描く。それはエマとジェリーが出会い、不倫をし、そして決別するまでの9年間だ。観客は彼らの「未来」を知りながら「今」に立ち会うことになるだろう。目の前で交わされる約束が実現されないことを、かけがえのないように思えるその出来事がやがて忘れられ、あるいは誤った記憶に置き換えられてしまうことを知っている観客は、だからこそより一層、そこにある「今」の儚さに思いを馳せる。未来への約束も過去の記憶も不確かだ。その儚さを舞台上の彼らが知ることはない。

ハロルド・ピンター劇場でのジェイミー・ロイド演出による『背信』はエマ役にゾウイ・アシュトン、ジェリー役にチャーリー・コックス、そしてロバート役に日本でも『マイティ・ソー』『アベンジャーズ』のロキ役などで人気のあるトム・ヒドルストンを迎え、実力派俳優たちの演技を際立たせるシンプルな演出で上演された。

戯曲『背信』においてジェリーの妻であるはずのジューディスは名前しか登場せず、それゆえエマ、ジェリー、ロバートの三角関係が強調される。しかもそこには男同士の強い友情も関わっている。「実を言うと、昔から君よりもやつの方が好きな位なんだよ。そう、僕があいつと関係した方がよかったんじゃないかな、この僕が」(喜志哲雄訳、ハヤカワ演劇文庫『ハロルド・ピンターⅠ』より)というロバートの言葉からも読み取れるように、それは幾分か同性愛的な要素を含んでさえいるものだ。『背信』のほとんどの場面は三人のうち二人だけの会話による。愛情であれ友情であれ、そこには残るひとりへの「背信」の気配が濃厚に漂う。

この三角関係の複雑さ、微妙さを、ロイド演出は三人をつねに舞台上に置くことでよりはっきりと可視化してみせる。二人を見守る壁際のひとり。それは逢瀬を楽しむ二人の頭を過ぎる姿か、あるいはそこにいる二人こそが壁際のひとりの妄想か。壁に映る二人の影は、不在ゆえの存在感を強調する。舞台上につねに三人目の視線があることで、展開される出来事はむしろ客観的事実であることをやめ、各々の記憶という不確かなものへと結晶していくのだ。

しかしだからこそ、終盤に採用されたある演出には疑問が残る。劇中、ジェリーがエマの娘シャーロットを「高い高い」したというエピソードが二度語られる。それがエマの家の台所でのことだったと言うジェリーに対し、エマはその都度、「あなたの家の台所」だったとそれを訂正する。記憶の不確かさを象徴するエピソードだが、ロイド演出では二度目のこの会話のあと、舞台上にシャーロットと思しき子どもが登場し、ジェリーが彼女を「高い高い」してみせるのだ。もちろんそのようなト書きはない。シャーロットの登場は(それが唯一の「正解」を与えるものでないにせよ)、この戯曲と上演の「儚さ」を損なってはいないだろうか?

公式サイト:https://www.pinteratthepinter.com/

2019/03/07(山﨑健太)

中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』

会期:2019/03/02~2019/03/10

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチ・ルーム[東京都]

シアターコモンズ'19では三つの「リーディング・パフォーマンス」が上演された。個々の演出家による演出=セッティングのもと、その回ごとに集った参加者=観客たちで戯曲を読み合わせるという試みだ。私は映画監督・エッセイストの中村佑子演出による『アリス・イン・ベッド』のリーディング・パフォーマンスに参加した。

『アリス・イン・ベッド』は批評家スーザン・ソンタグの戯曲で実在の女性、アリス・ジェイムズをモデルにしている。哲学者ウィリアム・ジェイムズ、小説家ヘンリー・ジェイムズのふたりの兄と同様、アリスもまた才能溢れる人物だったが、若くして精神を病み、その後は長らく病床にあった。戯曲はアリスの日記をもとにした彼女の人生の断片らしき場面と、さまざまな女性、アリスの母、詩人エミリー・ディキンソン、女性活動家マーガレット・フラー、オペラ『パルジファル』の魔女クンドリ、バレエ『ジゼル』の精霊の女王ミルタらが登場する空想的な「ティーパーティー」の場面によって構成されている。

リーディング・パフォーマンスの参加者は座った順に役と場面を指定され、ほぼ全員が何らかの台詞を読み上げることになる。指定は機械的に行なわれるため、「役」と「役者」の性別・年齢は一致せず、また、場面ごとに「役者」が交代するので「役」の一貫性も薄い。

抑圧された女性の声をときに男性が読み上げることになるのも狙いのひとつではあるのだろう。だが、それ以上に興味深かったのは、複数の人間がひとつの戯曲を同時に読むことによって私のなかに複数の異なる声が立ち上がることだった。誰かが読み上げる言葉を自らも同時に「読む」ことによって、そこには戯曲の=「役」の声とそれを読み上げる「役者」の声、そして黙読する「私」の声が同時に存在する。それは例えば「私だったらそのようには読まない」という差異として浮かび上がるだろう。「役者」の交代もまたそこに別の声を加えることになる。

登場人物の多くは抑圧された女性という点で共通しているが、しかし互いに意見が一致しているわけではない。ときに共感を示しつつ、彼女たちの言葉はほとんど独り言のようにすれ違い続ける。それは「抑圧された女性」としてカテゴライズされ、個人が再び抑圧されることへの抵抗のようでもある。

戯曲という共有地=コモンズの上に差異を浮かび上がらせること。手法が主題を鮮やかに切り出す中村演出の『アリス・イン・ベッド』は、シアターコモンズの名を冠するにふさわしい新たな取り組みとなっていた。

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/

2019/03/02(山﨑健太)

スペースノットブランク『原風景』

会期:2018/12/18~2018/12/22

高松市美術館 講堂[香川県]

『原風景』は高松市の開催する高松アーティスト・イン・レジデンス2018に選出されたスペースノットブランク(小野彩加と中澤陽、以下スペノ)と俳優の西井裕美が高松市に49日間滞在して制作した「作品」。「作品」とカッコに括ったのは『原風景』が展示と上演のふたつのパートからなり、しかも展示の大部分を占めるのは高松市で絵を描き、写真を撮り、立体物を作る活動をしている「市民」の作品だったからだ。

スペノの作品は、おそらくそのほとんどがドキュメンタリー的手法によって作られている。上演において語られるのは、作品に参加した人々のそれまでの体験を言語化し編集することによって生まれた言葉だ(少なくともそのように聞こえる)。ここにおいてドキュメンタリー的という言葉は、演劇的、あるいは舞台芸術的というのとほとんど同義である。上演は、多くは稽古という名で呼ばれる時間の先にしかない。現在は過去の集積の上にあり、あるいは現在のなかに過去は折りたたまれている。

そうであったということはそうでしかなかったということではあっても、必然だったということではない(展示されていたワークショップの成果物、参加者の各々が家から会場までの経路を一枚の巨大な模造紙に書き込んだものはそのことを端的に示しているとも解釈できる)。だから、スペノの言葉はわかりやすい物語を紡がない。わかりやすい物語は複雑な時間のあり方を縮減してしまう。彼らが語る、易しいはずの言葉(なぜならそれらは生活のなかにあったものだから)は謎めいた魅力を称え、同時に幾分かとっつきづらい。

その点において、滞在制作という形式はスペノに向いている。上演において語られる言葉のバックグラウンドが、観客と作り手とのあいだで大なり小なり共有される可能性が高まるからだ。わからなければならないというわけではもちろんない。だが「わかる」ことから広がる未知の世界は大きい。



[© Kenta Yamazaki]



[© Yuka Kunihiro]

今作で西井によって語られる言葉は彼女自身のものでもスペノのふたりのものでもなく、今回の展示に参加した高松のアーティスト=「市民」から引き出され、編まれたものだ。彼らの名前は「原作」としてクレジットされ、その言葉の一部は作品とともに展示=上演会場に展示されてもいる。つまり、上演への入り口はさまざまなレベルで用意されている。作品を出展した者、その周囲の人々、出展者とは関係のない高松市周辺の人々、あるいは私のように「外」から訪れた者。いずれも展示を入り口に西井によって語られる言葉=世界に触れ、あるいは上演後に展示に触れることでその先に広がる世界を見ることができる。

アーティスト・イン・レジデンスへのスペノの選出は慧眼というほかない。これまでにもぺピン結構設計やブルーエゴナクなどを選出してきた高松アーティスト・イン・レジデンスは、今後も注目すべき枠組みと言えるだろう。



[© Yuka Kunihiro]

スペースノットブランク:https://spacenotblank.com/

2018/12/21(金)(山﨑健太)

ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』

会期:2018/11/17~2018/11/26

早稲田小劇場どらま館[東京都]

高校演劇のフォーマットにのっとった「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」シリーズ7作目。冬休みの図書室。ビーチ(端田新菜)は「好きな人ができたとき用のためのラブレター」を書くため、愛の言葉を収集している。それに付き合う親友の水星(大石将弘)は彼女に思いを寄せているようだ。ふらりと入ってきた太郎(篠崎大悟)はビーチの姉・海荷のかつての恋人で、まだ失恋を引きずっている。太郎は映画を撮るからと水星の兄・楽(本作には姿を見せないが過去作では同じく大石が演じていた)に呼び出されたのだが彼はなかなかやって来ない。楽の恋人・朝(島田桃子)は「イブなのに」と腹を立てつつ楽しそうだ。まだ来ぬ恋、過ぎ去りし恋。現在形の片思い両思い。

[撮影:三上ナツコ]

「まなざし」というシリーズのテーマは、しばしば恋愛というかたちで作中に表われる。だがそこに同性異性の区別はなく、それが自然なこととして描かれている。たとえば1作目では、将門という人物が太郎のことを好きかもしれないということがサラリと語られていた。本作で大石将弘が演じる水星は楽の「妹」だ。彼女はスカートこそ着用しているもののカツラを被っていたりはせず、見た目としてはほぼ「男性」である。彼女は「男性的な」見た目の女性なのかあるいはトランスジェンダーなのか。だが作中にそのあたりの言及は特にない。つまり、戯曲としては水星を「女性」が演じる選択肢もあるところに、三浦はあえて大石をキャスティングしたことになる。もちろん、男女どちらが演じてもいいし、見た目が「男性的」であっても「女性的」であってもいいのだ。説明もいらない。本当は、必要なのは理屈ではない。

何かしら望ましくない状況があったとき、その解決には二つの方法がある。ひとつは問題提起。もうひとつは、あるべき姿を当たり前の「空気」としてつくり上げてしまうこと。「いつ高」シリーズが高校生に捧げられている意味は大きい。

[撮影:三上ナツコ]

「いつ高」シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/

2018/11/22(山﨑健太)

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