2020年02月15日号
次回3月2日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」

会期:2019/12/07~2020/01/18

EFAG East Factory Art Gallery[東京都]

百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」は三つの映像作品で構成されていた。《Jokanaan》は二面スクリーンの作品で、一面にはシュトラウスのオペラ「サロメ」の一場面を踊る男性ダンサー(武本拓也)が、もう一面にはモーションキャプチャーで男性ダンサーと同じように踊るCGの(陶器像のようなテクスチャーの)少女が映し出される。だが、両者の動きは次第に乖離していき、サロメというモチーフも相まって、虚構の存在であるはずの少女が場を支配していくかのようである。

興味深かったのは、両者の体の動きが次第に乖離していくのに対して、顔の表情は最初から一致していなかった点だ。顔の表情をトレースしてCGに反映する技術も存在するが、今回のモーションキャプチャーは体の動きだけを対象としていて、顔の表情はその範囲外だった。するとあの場を支配していたのは男でも少女でもなく振付だったのだと言ってみたくなる。外部からの指示によって動かされる体と、その動きが呼び起こす情動。顔は唯一許された自由の場だ。曲が終わりに近づくと少女は操り人形のように奇妙に捻れながら崩れ落ち、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てた男もまた床に横たわる。振付が尽きたとき、二人には動くためのモチーベーションは残されていない。

《Social Dance》はろうの女性とその恋人である男性の手話による対話を映した作品。彼女は恋人の過去の言動を責め、男は彼女をなだめようとしながらもときに強い調子で反論する。激昂する彼女の手を男が取るとき、「愛」と暴力は一体のものとなる。親密な接触が言葉を奪う。

ところで、残念ながら私は手話を解さない。二人のやりとりの内容は画面中央に映し出される日本語と英語の字幕によってしか知ることができない。だが例えば「だって私が介入すると/You got angry」で彼女の言葉が遮られたとき、彼女の手話は日本語英語どちらの内容に対応していたのだろうか。言葉はすぐに再開され、文全体としては日本語と英語とで意味の違いはないことがわかる。しかし彼女は「私が介入すると」と「あなたは怒る」のどちらを先に伝えていたのか。日本語で示されていた「私が介入すると」の方だろうとなんとなく思ってしまうのだが(しかも日本語字幕は英語字幕の上に表示されている)、映像では彼女の頭部はフレームアウトしており、外見から話している言語を推測することはできない(いや、そんなことはそもそも不可能なのだが)。作品に英語タイトルが付されていることから考えれば、むしろ英語の方が主なのだと考えるのが妥当かもしれない。あるいは彼女はまったく別のことを話していて、そもそも二人は喧嘩などしていないという可能性もある。

《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》はカメラ=鑑賞者の方を向いた女性がひたすらにまばたきをし続ける作品。女性は初めのうちは落ち着いた様子でゆっくりとまばたきしているが、7分弱の映像のなかでだんだんと顔は歪み、その調子は激しい(あるいは苦痛に満ちた?)ものになっていく。まばたきはモールス信号でI can see youと発しているらしいのだが、手話と同じくモールス信号も解さない私がそれを知っているのは、会場で配布されていたハンドアウトにキュレーターによるそのような記述があったからでしかない。だが、I can see youというメッセージは誰から誰へと向けられたものなのか。それが作品のタイトルにもなっていることを考えれば、画面に映る彼女から鑑賞者へと向けられたメッセージだろうか。だが、彼女から鑑賞者が見えるわけもなく、すると「私にはあなたが見えます」という言葉は端的に嘘になってしまう。作品鑑賞の場において「私にはあなたが見えます」という言葉が正しく成立するのはそれが鑑賞者から彼女に向けられたときだけだ。だが、それは本当だろうか。彼女は確かに見えている。しかし「解説」を読んだ私は彼女の「モールス信号」を自ら解読する努力を放棄してしまった。いや、そもそもあれは本当にモールス信号だったのか。私は本当に彼女を見ていたか。タイトルの裏に潜んだDo you see me?という問いかけは展示全体へと敷衍される。


公式サイト:http://ayamomose.com/icanseeyou/?ja

2020/01/20(月)(山﨑健太)

KAAT DANCE SERIES2019『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』

会期:2020/01/10~2020/01/19

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

如月小春の戯曲『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』が描くのは敗戦からおよそ20年、東京オリンピックを直前に控えた日本。初演されたのは五輪から24年後の1988年、バブル崩壊前夜のことだった。周囲の期待を背負いマラソン日本代表への道をひた走るカズオ。だが、代表選考がかかったレースの直前に足を捻ってしまう。それを隠したままトレーニングを続けた結果、足は悪化。ついにコーチにも気づかれてしまうが、カズオはそれでもレースに出ると言うのだった。そしてレース当日──。

戦争、オリンピック、バブル、そして再びのオリンピック。歴史は繰り返すという言葉があるが、「戯曲を上演する」という演劇の形式のひとつの意義はここにあるだろう。込められたアイロニーは痛烈だ。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」演劇版[撮影:宮川舞子]

ヨシダ、キシ、タナカ、ミキ。登場人物の名前は歴代総理大臣からとられている。周囲の期待に応えようとして果たせず、そして消えてしまったカズオは犠牲者だったのだろうか。カズオはこう言っていた。「皆、お膳を囲みながら思ってるんだ。もっと大きなお膳が欲しい、もっと大きなお皿が欲しい、大きな冷蔵庫が、洗濯機が、風呂が、(略)そんな皆の熱い想いが、電波に乗って俺の中に入り込むのがわかる。(略)皆が俺に望んでいるんだよ」。あるいは「僕は皆の夢なんだ。夢は無理矢理さまされるまで、見続けなくちゃいけない。(略)僕は日本だ。日本そのものなんだ」と。レースの対抗馬はニクソン、シュミット、カストロ、モウ、シュウたちだ。国を背負って立とうとしたカズオは、同時に擬人化された国そのものの姿でもある。小さな個人と国とに分裂した登場人物たちは歌う。

「なーんでもない どーうでもいい そーんな気分になっちゃうよ(略)ぼくら けなげな 小市民 胸のここには せつない願い 消費生活 楽しくやろうぜ 小さな脳ミソ キリキリ絞って そのうちいいこと 何かあるだろ(略)NIPPON・CHA! CHA! CHA!」

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」演劇版[撮影:宮川舞子]

同じくKAATの企画で2019年6月に昭和・平成ver.、令和ver.とふたつのバージョンが上演された多田淳之介演出『ゴドーを待ちながら』(作:サミュエル・ベケット)を思い出す。キャッチコピーは「男たちはいつから待っていたのか。そして、これからも待ち続けるのか」。二幕構成の『ゴドー』は一幕二幕とほとんど同じことを繰り返す。その繰り返しをさらに昭和・平成/令和へと拡張すること。そこには変化は待つものではなくもたらすものではないかという問いかけがあった。「そのうちいいこと 何かあるだろ」。

結局、カズオはレースの最中、失踪してしまう。夢想として挿入される未来において、カズオの存在はほとんど忘れられ、しかし人々は豊かな暮らしを送っているようだ。回顧されるべき過去は忘れられ、ときに捏造される。それは同時にまぎれもない「現在」のことでもある。加害者としても被害者としても無自覚な、能天気な人々。我が身の情けなさに涙が出た。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」演劇版[撮影:宮川舞子]

今回の山田うん演出版では、演劇版に続いてダンス版が上演された。演劇版の途中に10分の休憩はあったものの、それは文字通りに続けて上演される。演劇版のラスト、カズオがひとり亡霊のように立ち尽くす場面は、彼がふらりと動き出すことによってそのままダンス版のオープニングとなる。歴史は繰り返す。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」ダンス版[撮影:宮川舞子]

ダンス版に言葉はなく、構成も戯曲をそのまま「再現」しているわけではなさそうだ。ところどころに見覚えのある場面がある気がするものの、意味内容を正確に汲み取るのは難しい。それでも、演劇版をすでに見ている私は、目の前の動きを物語と結びつけようとする。ダンサーの存在は、その運動は否応なく物語に巻き込まれていく。カズオという存在が、オリンピックにおけるスポーツがそうであるように。

しかし同時に、ダンスは純粋な運動の喜びでもある。演劇版から引き続き主役を演じ舞台上を伸び伸びと動き回る前田旺志郎からは開放感にも似た心地よさを感じた。そこに物語からの解放を重ねて見るのは、それこそひとつの物語に過ぎないだろうか。だがそれこそが、如月のアイロニーに対する山田からのド直球の返答のように思えたのだった。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」ダンス版[撮影:宮川舞子]


公式サイト:https://www.kaat.jp/d/chachacha

2020/01/19(日)(山﨑健太)

関田育子『フードコート』(昼のフードコート)

会期:2019/10/19~2019/11/17

TABULAE[東京都]

『フードコート』という作品にはテクストを書いた新聞家・村社祐太朗自身の演出による(いくつかの)上演のほかに、関田育子の演出によるバージョンが用意されていた。「関田育子の演出」とひとまず書いたものの、関田の近作において「演出」など職掌別のクレジットはなく、創作に携わった人間はみな「クリエーションメンバー」としてクレジットされている。よって、「関田育子の演出」と言ったとき、関田の名はチーム全体を指すものとしてある。また、公演の名義こそ「関田育子」となっているものの、新聞家の同名の公演期間中、同会場での上演であり、これは新聞家の企画でもあったのだと考えるのが妥当だろう。村社は新聞家の前回公演『屋上庭園』で初めて自分以外の人間が書いた戯曲を演出した。村社の側からすると今回はその逆、自分が書いたテクストを他人の演出に委ねる試みだということになる。新聞家は一貫して「他者と対峙すること」に取り組んでおり、これまでの戯曲の多くが「家族」についてのものだったのもその反映とみなせる。

当日パンフレットに「昼のフードコート」と記載があったことから推察するに(予約時には明示されていなかったものの)、関田版ではどうやら昼夜で異なる演出が採用されていたらしい。私は夜の公演は見られなかったのだが「昼の公演では、新聞家の主宰である村社さんが書いたテキストを思考の中心におき、それとどう関係していくのかが論点に置かれた」とある。

戯曲としての『フードコート』は(おそらくは)ひとりの視点からの内省的な語りのテクストだ。ある場面が詳細に描かれることはなく、具体的な部分はあっても断片的なイメージが連なっていく。村社版の俳優はほとんど動かないまま、訥々と言葉を発するのみ。客席やガラス戸越しに見える屋外の空間も上演の一部としてデザインされていることは明らかだが、それらと語られる言葉との間にはほとんど関係がないらしいことは初見の観客も了解するところだろう。ひとまずは朗読のような(しかしテキストが眼前にあるわけではない)ものだと考えればよい。一方、関田版の俳優(中川友香)は屋外も含めた空間を動き回りながら言葉を発する。必然的に、観客はその動きと語られる言葉との「正しい」関係を探ることになるのだが、ときにガラス戸に外から張り付いたままカニ歩きをするような動きにどんな解釈が「正解」たりえるだろうか。言葉と動きとを結びつけて理解しようという試みはおおよそ失敗する。

私がギリギリ引っかかったのは、バナナのように剥いて噛みついたハンバーガーがレモンのように酸っぱかった場面だ。そんな場面はない。ないのだが、まず彼女は空の手を胸のあたりまで持ち上げると、バナナの皮を剥くような動作をする。それは握られることなく、肉まんを食べるときのように左右からそれぞれ添えられた五指によって顔の前に運ばれる。かじるように動いた彼女の顔は梅干しを口に含んだかのごとくゆっくりと歪み、戻り、また歪む。「二番目のレモン」と「黄色い包み紙」。かろうじてつながる単語と不可解な動作があり得ないイメージを私に植えつける。あるいはそれは、すでに村社版を見ている私による、言葉に先立った解釈だったようにも思う。いずれにせよそもそも戯曲に私の妄想と一致する場面はなく、多くの場面で言葉の落ち着きどころはない。

今までの関田作品では、言葉と動作の結びつきが明らかになる瞬間、そしてそれらがズレ、歪んでいく瞬間に演劇的快楽があった。そこでは基本的に、観客の想像は関田によって一定の方向に導かれている。だが、今回の上演ではテクストと上演とをどう結びつけられるかはほとんど完全に観客に委ねられていたように思う。そうであるならば、それは夜空に星座を描くのとどう違うのだろうか。


公式サイト:https://ikukosekita.wixsite.com/ikukosekita

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新聞家『フードコート』(東京公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)

新聞家『フードコート』(京都公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)

関田育子『浜梨』 │ artscapeレビュー(2019年08月01日号)

2019/11/17(日)(山﨑健太)

新聞家『フードコート』(京都公演)

会期:2019/10/26~2019/10/27

京都教育文化センター[京都府]

京都公演の会場は東京公演のそれとは大きく趣が異なっていた。いわゆる公民館的な施設の一室で、壁の一面が鏡張りになっている。普段はダンスのレッスンなどにも使われているのではないだろうか。「客席」として手渡されるヨガマットもその連想を強化する。東京公演の会場との共通点は通りと接する一面がガラス張りになっていることくらいで、それも日本庭園風の植栽を間に挟んでなので印象は随分と違う。観客がガラス窓に向き合う位置関係はおおよそのところ東京公演と同じだが、置く位置を指定されたヨガマットは6×2の長方形に整然と並び、個々の観客に見えるものにさほどの違いはない。観客の正面、ガラス窓を背にして空いた空間の中央には岩のようなものが置かれている。

すでに東京公演を二度観ていた私は『フードコート』の戯曲を取り出してそれを復習しつつ開演を待っていた。「緩みをもともと含んでいるとは知らなかった」と戯曲冒頭の言葉が聞こえてきて目を上げるが、そこに俳優の姿はない。実は出演者の吉田舞雪は素知らぬ顔で前列の観客たちの間に座っていて、ほかの、という言い方は変なのだが、観客たちと同じように窓の方を向いたまま言葉を発していたのだった。気づけばそこから声が聞こえてきているのは明らかだったが、ほとんど身動きもしない彼女の後ろ姿からその気配を知ることは難しい。

私を含めた観客の多くは特に彼女のいる方向に向き直ることもなく、何とはなしに窓の方向を向いたままでいる。「舞台」には誰もいないが観客はそこに向き合っていて、言葉は客席から生み出されるようにして聞こえてくる。あるいはそれは私にだけ聞こえているのかもしれない、私の記憶の反芻でしかないのかもしれないと空想してみるが、上演が終わればその空想こそが現実で、そこには何も残らない。

終演後には新聞家のこれまでの公演と同じように「意見会」という場が設けられていた。当たり前だが、京都で初めて『フードコート』の上演に立ち会った観客にとっては「俳優が客席にいる」ことこそが作品にとって重要な要素に感じられたという話を聞き、いや、確かに東京公演でも彼女は窓に向き合っていたが、しかし俳優然として観客の前にいたのだという話をする。

そもそも公演全体の設えもかなり違っていた。京都公演の予約ページにも「2回観劇可」という記載はあった。しかし聞けばそもそも2回しかない公演の両方を観る予定だという観客はほとんどおらず(東京公演をすでに観たという観客の方が多かった)、村社としてもこちらでは必ずしも2回観なくてもよいというつもりだったらしい。吉田が客席にいたのは、東京公演とはまた異なるかたちで俳優のあり方と観客のそれを「近づける」ための試みだったのかもしれない。

新聞家の次の取り組みとして予告されている『保清』は2月23日から9日間にわたって開催される「オープンスタジオ」なのだという。ここにも同じ指向性を感じるがはたして。


公式サイト:https://sinbunka.com/

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新聞家『フードコート』(東京公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)
新聞家『屋上庭園』 │ artscapeレビュー(2019年06月15日号)

2019/10/26(土)(山﨑健太)

新聞家『フードコート』(東京公演)

会期:2019/09/21~2019/12/01

TABULAE[東京都]

新聞家『フードコート』(東京公演)には2回観劇パスとフリーパスの2種類のチケットしかない。観客は基本的に2回以上の上演に立ち会うことを前提に観劇に臨むことになる。

公演期間は9月21日から12月1日までのおよそ2か月半にわたり、季節は秋から冬へと移りゆく。会場となるTABULAEは曳舟の住宅街にある民家を改装した小さなギャラリーで、通りに面した側は全面がガラス戸になっている。だから、昼の回と夜の回とでも上演は随分とその印象を変える。

複数回の観劇を前提とした長い公演期間は、演劇の上演が本来的に持つ一回性を、観客に寄せて言い換えるならば、演劇を観ることが極めて個人的で一度きりの体験であることを思い出させ際立たせるためのデザインだろう。「同じ作品」を観たとしても同じ観劇体験は存在しない。

空間(美術:山川陸)も体験が個人的なものであるよう配慮されている。観客は受付でいくつかの植物の名前を提示され、選んだ植物が置いてある近くに座る。公演期間は長いので、あるものは育って形を変え、あるものは枯れてしまうかもしれない。植物の種類と置いてある場所は回によって違っていて、私が二回目に訪れた際には一度目にはなかった植物が仲間入りしていた。15人も入ればいっぱいになってしまう空間ではどこに座るかによって見えるものも見え方も随分と違っていて、観客の多寡やどのような人がそこに座っているかによってもそのあり方は変わるだろう。

私にとって興味深かったのは、私がこれまでの新聞家の公演において要請され実践してきた態度のようなものが、二度目の観劇がある/であるということで「緩んでしまった」と感じられたことだ。新聞家・村社祐太朗の書くテクストは容易には意味がとり難く、上演において観客は俳優が訥々と語る言葉に極度に集中することになる。それは言葉以外の要素が極度に切り詰められているがゆえのことでもあるのだが、そのようにして集中してなお、語られる言葉の意味を十全に理解することは難しい。しかし、あらかじめ予定されている二度目の観劇は私に油断を許す。

失われた緊張は二度目でも取り戻されることはなかった。上演が始まると(おそらくは彼らの思惑通りに)自然と前回のことが思い出され、いや、正直に言えば私は積極的にその記憶を反芻しさえしていたのだった。そのときの私はすでに『フードコート』の戯曲を読んでいて、記憶のなかのそれを呼び出しつつ目の前の風景を眺める私の営為は俳優のそれにも近づいている。

ところで、二度目の観劇の際には、私にとって一度目の観劇の際と同じテクストの同じ俳優(吉田舞雪)による上演のあとに、新たな俳優(花井瑠奈)による新たなテクストの上演が加わっていた。『フードコート』では公演期間の初めからさらなる出演者が募集されていて、応募に応じて新たなパートが追加される可能性があることも予告されていた。だが、それがいつ上演されるのかは(そもそも応募があったのかどうかも)観客には知らされなかった。

作品の変化に対して期待はあっても明確な準備をしていなかった私は、半ばぼんやりとしたままそれを受け取ることになる。追加された部分の冒頭、「収まることにどの子も協力的じゃない」と聞こえた「どの子」は戯曲には「どの弧」と書かれていて、私はそこですでにつまづいていた。

何かを簡単にわかってしまうのではなく、真摯にそれに向き合い続ける、というのが新聞家に一貫した姿勢であって、上演における体験の個人的な部分、抽象概念としての「作品」以外の部分を際立たせる試みもその一環だろう。だが、私個人の観劇体験を構成するさまざまな要素に対しても真摯に向き合いつつ、同じ程度に「作品」に対しても集中し続けることは少なくとも私にとっては難しく、例えばよぎる猫の姿に気はそらされるのであった。それはぜんぜん嫌ではないのだけれど。


公式サイト:https://sinbunka.com/

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2019/09/21(土)(山﨑健太)

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