2021年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケースのラストを飾ったのはコトリ会議。2007年に結成され関西で活動してきたコトリ会議は2016年にこまばアゴラ劇場で上演されたショーケース公演『対ゲキだヨ!全員集合』をきっかけに関東でも注目を集めて以降、毎年のように東京公演も実施している。作・演出の山本正典は2018年に第9回せんがわ劇場演劇コンクールで上演された『チラ美のスカート』で劇作家賞を受賞し、2020年には『セミの空の空』で第27回OMS戯曲賞大賞を受賞した。

『おみかんの明かり』は「ざくざく」と足を踏みしめる音(を口に出す女の声)ではじまる。懐中電灯を手に歩くその人物の姿は舞台奥の暗がりにあってよく見えない。故障のせいか電池切れか、ふいに懐中電灯の光は消えてしまい、それでも彼女は暗闇の中を必死に進む。やがて水辺に小さなオレンジの明かりを見つけた彼女は手を伸ばし「これが おみかんの明かり」とつぶやくのだった。


[撮影:引地信彦]


どうやら「おみかんの明かり」には死者を呼び出す力があるらしい。三途の川にも見える湖の向こう側に人影が浮かび上がる。水面を挟んで「こういっちゃん」「かなえさん」と呼び合うふたり。かなえ(花屋敷鴨)は「こっちへ来て」と呼びかけるが孝一(原竹志)は「ごめんだけれどそっちへ行けないんだ」と答えるばかり。泳げないかなえが覚悟を決めて湖に一歩足を踏み入れた瞬間、ホイッスルの音とともに銀河警察官・はさみ(三ヶ日晩)が現われる。はさみは「この湖に入るのは宇宙条例に反する」「死んだ人の顔を見るだなんて」「そんな破廉恥は禁止されてるよ」「生きてる人と死んでる人が触れてしまうと 地球が削れるかもしれないくらい 爆発するんだよ」と二人を諌めるが、かなえははさみの光線銃を奪い孝一とともに逃亡してしまう。

水辺に取り残されたはさみ。と、湖の向こうに人影が。それは帝国軍の任務で命を落としたカレンダー(まえかつと)だった。やがてはさみも堪えきれず、湖に足を踏み入れる。制止しようとするカレンダーと触れようとするはさみ。二人がまさに触れ合おうとしたその瞬間、遠く響く爆発音と降ってくる女の頭部。やがてひとり戻ってきた孝一にはさみは「ねえ死んだ地球人 この山を下りた方がいいわよ 私たちもうすぐ爆発するから」と告げるのだった。はさみとカレンダーは手を伸ばし合い、そして暗闇が訪れる。やがて再び「ざくざく」と足音が響き、「おみかんの明かり」へと手を伸ばす者の姿が──。


[撮影:引地信彦]


舞台いっぱいに広がる青い水面と周囲に広がる暗がり、そしてぽつんと灯る「おみかんの明かり」は、広い宇宙で生きている/死んでいる者たちの寄る辺なさを効果的に表わしていた。一方で、私が見た初日には空間に対する声の大きさ、あるいは出し方が十分にチューニングしきれておらず、コトリ会議の魅力が十分に発揮されていないと感じる場面もあった。

コトリ会議の作品ではしばしば、何気ない呼びかけや問いかけ、特に大きな意味を持つとは思えない単語が複数の人物のあいだで、あるいはひとりの人物によって繰り返し発せられる。繰り返しのなかで言葉がその響きを微妙に変えていく繊細さはコトリ会議の持ち味のひとつだが、その響きが聴き取られるためには発する側にも聴く側にもそれなりのチューニングが必要となってくる。悪ふざけめいたウンゲツィーファ『Uber Boyz』を観た後だったこともあり、私の側のチューニングも十分ではなかったのだろうとは思われるものの、コトリ会議の作品としては珍しく、繰り返しの声がうるさく感じられる瞬間があったのは残念だった。

今回の作品では言葉だけでなく劇中の出来事も繰り返され、そのことが人の弱さを際立たせる。地球人の犯した過ちを繰り返してしまう銀河警察のふたり。取り締まる側にも取り締まられる側と同じ弱さがある。だが、それは果たして本当に弱さだろうか。爆発してしまうとわかっていても手を伸ばしてしまうのは、むしろ思いの強さだろう。それを「弱さ」として取り締まらなければならないなら、不条理なのは世界の方ではないだろうか。


掲げられたタイトルゆえにショーケースを見ながら、そして見たあとも「弱さ」について色々なことを考えた。率直に言えば、私自身は「弱いい派」という括り、あるいはそう名指すことが引き起こす効果にはやや懐疑的である。「弱さの肯定」はその当事者が自分の存在を肯定するための、あるいは、弱さを否定する社会を変えていくための第一段階の処方としては必要であり有効なものだろう。だが、そうして肯定された弱さは容易に固定されてしまう。

徳永は「“その後”に出現した『弱いい派』について」(『現代日本演劇のダイナミズム』所収)で「『弱いい派』の特徴は、弱い立場の人々を当事者性で描くのではなく、当事者から見た社会、世界が描かれること」だと述べている。ここで「当事者性」は「被災者、被害者、弱者の置かれた状況や心情を想像する」ことを指す言葉として使われており、「当事者は、当事者性を取る人より、笑うのも泣くのも自由だ」と続く。だがこれは、当事者であるということが簡単に最強のカード、無敵の切り札へと裏返ってしまうということでもある。

そもそも、弱さというのは本当にその「当事者」に固定された性質なのだろうか。ある性質があったとき、それを「弱さ」と規定するのは周囲の環境であり社会のあり方である。もう一度言おう。弱さを肯定することはたしかに必要かもしれない。だが、自分が「弱さ」の側にいないとき(いやもちろんそのようなジャッジにこそ罠が潜んではいるのだが)、すでに「弱いい派」に出会ってしまった私が考えるべきことは、言うまでもなくその先なのだ。


コトリ会議:http://kotorikaigi.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 —かそけき声を聴くために—』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


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2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケース公演でいいへんじに続いて登場したのはウンゲツィーファ。こちらは一見したところ、「弱いい派」という呼称とはあまり関係ないようにも思える作品の上演となった。

ウンゲツィーファは劇作家・本橋龍を中心に活動する「実体のない集まり」。ウンゲツィーファの公演では本橋が脚本・演出を担っているが、今回はそれぞれが活動する劇団で作・演出を担うゆうめいの池田亮、盛夏火の金内健樹、コンプソンズの金子鈴幸、スペースノットブランクの中澤陽にウンゲツィーファ常連で青年団に所属する俳優・黒澤多生を加え、全員が作・演出・出演を担う形で創作した「Uber Boyz」を上演した。音楽にはヌトミック/東京塩麹の額田大志を迎え、差しづめ小劇場アベンジャーズといった趣だ。本橋は『動く物』で平成29年度北海道戯曲賞大賞を受賞するなど、劇作家として高く評価されているが、今回はこれまでのウンゲツィーファ作品と共通する手触りもありつつ、集団創作のエネルギーが全面に出た作品となった。


[撮影:引地信彦]


「多様性の発展の果てに、地球平面説が立証された」「今から少し先の未来」、『マッドマックス』や『北斗の拳』を思わせる荒廃した世界を舞台に、「ポッド」からの指示で荷物を運搬して報酬を得る配達員と「バッドボーイズ」と呼ばれるギャングチーム(?)がときに争いときに協力しながら「生物荷物括弧ライフバゲッジ」を目的地に届ける(?)までの顛末が描かれる。

コロナ禍においてある種の「エッセンシャルワーカー」としてその存在が改めて注目を集めたウーバーイーツの配達員には、ほかの多くの非正規雇用労働と同じく正負の両面が存在している。プラスは働き手の都合で働けるという点。一方で、労働者に十分な権利が保障されていない点はプラスを打ち消してあまりあるマイナスである。資本による搾取のシステムの末端に配達員は置かれている。

『Uber Boyz』で描かれているのはクエストをクリアして報酬を得ることでゲーム的な現実をタフに生きる者たちの姿だ。システムに組み込まれた彼らは「強くなければ生きていけない」。強くあるしかないという「弱さ」には、舞台上に展開される男子校的ホモソーシャルな悪ふざけとも響き合うものがある。


[撮影:引地信彦]


率直に言って、観客としての私はところどころで大いに笑いつつも、上演全体を楽しむことはできなかった。それは舞台上の彼らの、本人たちは至極楽しそうな男子校の文化祭的なノリとネタについていけなかったからである。冒頭から『ONE PIECE』のルフィの格好をした金子が関西弁でコナンを名乗り(『名探偵コナン』には服部平次という関西弁の探偵が登場する)、物語の展開には『新世紀エヴァンゲリオン』のエッセンスが配置されているなど、この作品には有名無名さまざまな「サブカルチャー」からの引用やパロディが無数に盛り込まれている。おそらく、これらの引用・パロディにほとんど意味はない。だが、私にもすべての引用・パロディが理解できたわけではなく、それらを無意味な馬鹿騒ぎだと切って捨てることもできない。そもそも、それが無意味だったとして何が悪いのか。無意味で日々をやり過ごせるならば、そこには十分な価値があるのではないか。

引用やパロディの内容に意味はないかもしれないが、その対象が権威ある古典や文学作品でないことは重要だ。「哲学はマジゲロだからやめろ」という彼らの哲学の教科書は少年ジャンプやコミックガンガンで、それさえも「クソ分厚い難解な書物」と呼ばれてしまう。そのようにして構成されている彼らの世界は同じ「教養」を共有するものにしか理解し得ない。ギリシャ悲劇やシェイクスピアとジャンプやガンガンのどちらが「高尚」であるかという問題ではない。だが、ギリシャ悲劇やシェイクスピアを「教養」とする層のほとんどは、生活に一定以上の余裕があるという厳然たる事実もある。冒頭で示される「地球平面説」が示唆するように、私たちに見えているのはそれぞれ異なる世界であり、そこには無数の断絶がある。

2800円のチケット代を払って客席に座る私と、ウーバーイーツで生計を立てながら舞台に立つ彼ら。小劇場演劇の舞台と客席のあいだにも搾取の構造は存在している。だがそれでも、「安全」のためにウーバーイーツを利用する人々も、演劇を観るためには劇場に足を運ぶしかない。「絶対に踏み込んではいけない2m」の「不可侵領域」、「アースの狭間」をあいだに挟みながら、私たちは同じ劇場にいる。

憐れみや同情を誘い感動で観客を気持ちよくする見せかけの断絶ではなく、舞台と客席の、そして客席と客席のあいだにある本物の断絶を、見えている世界の違いをあらわにすること。スカムでジャンクでドイヒーな世界を東京芸術劇場という公の劇場の企画で上演すること。それは紛れもなく「弱いい派」という呼称への批評的応答と言えるだろう。


ウンゲツィーファ:https://ungeziefer.site/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


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2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』は東京芸術劇場が「若手の才能を紹介」するショーケースの8年ぶりの第三弾。「演劇にあらわれた時代の潮流をすくい取」ることもねらいだというこの企画で今回取り上げられたのが、企画コーディネーターも務める演劇ジャーナリスト・徳永京子の命名による「弱いい派」である。「弱いい派」という言葉にはかなり微妙なニュアンスが込められており、それをネーミングのそのままに「弱さの肯定」とだけまとめてしまうと誤解を招きかねないのだが、徳永は「諦念や絶望の手前で、冷静に、飄々と、あるいは自覚なき誇りを持って、とりあえず生きていく態度」や「登場人物の言葉を借りた糾弾や啓蒙ではなく、小さいけれども聴くべき当事者の声達」を描くつくり手たちを「弱いい派」と呼んでいる(いずれも当日パンフレットからの引用)。今回は「弱いい派」からいいへんじ、ウンゲツィーファ、コトリ会議の三組がそれぞれ40分程度の短編を上演した。


いいへんじは劇作・演出を担当する中島梓織と俳優の松浦みるを中心に2017年に旗揚げされた演劇団体。『薬をもらいにいく薬(序章)』(作・演出:中島梓織)は今後上演が予定されている長編『薬をもらいにいく薬』の冒頭部分となる。今回上演された3作品のなかでは「弱いい派」というキーワードをもっともストレートに引き受けた作品だと言えるかもしれない。

ある日、ハヤマ(タナカエミ)は出かけようとして薬を切らしてしまっていることに気づく。その日は同居している恋人・マサアキ(小見朋生)の誕生日、かつ出張から帰ってくる日で、ハヤマは空港に向かおうとしたところだった。パニック障害と思われる持病のある彼女が出かけるためにはお守り代わりの薬が必要で、しかし薬をもらいに病院に行くにもそのための薬がない。諦めてタオルケットにくるまっているところに、バイト先の同僚・ワタナベ(遠藤雄斗)が、バイトを長く休んでいるハヤマに店長の指示でシフト用紙を届けに来る。ハヤマはワタナベに事情を説明し、一緒に空港に向かってくれるよう頼む。ワタナベもそれを了解するが、ハヤマはそれでも家を出られない。そんなハヤマにワタナベは、家から空港までの道のりを「一回やってみましょう」とシミュレーションしてみることを提案するのだった。


[撮影:引地信彦]


ハヤマに接するワタナベが持つある種の軽さ、遠藤の飄々とした演技には、「弱さ」に向き合おうとして強ばる心をほぐしてくれるようなしなやかさを感じた。ハヤマと同じ重さや深刻さを引き受けるのでなく、かと言って突き放すのでもなく、仕方ないなと言わんばかりのルーズさで他人の困りごとに付き合うこと。実際のところ、シフト用紙を届けにきたワタナベは当初、「でもこれ、書いたらどうしたらいいんだろう」と言いつつも「まいいや、渡すとこまでなんで、俺の仕事」と帰ろうとしていたのであった。

後半では、ワタナベもまた、同性パートナーのソウタ(マサアキと同じく小見が演じる)と一緒に住む家がなかなか見つからず、ふたりの仲がぎくしゃくしはじめているという自らの悩みを吐露する。ハヤマに対するワタナベの態度は彼の性格に起因するものだと思われるが、一方で、後半の展開を踏まえると、彼がゲイという「社会的弱者」であるがゆえに、あるいはパートナーであるソウタもまた心の病を抱えているがゆえにハヤマにも優しいのだという解釈も成り立つかもしれない。だが、それでは優しさは弱さの共感のなかに閉じてしまう。その意味で、後半の展開は前半で示されるワタナベのようなあり方の可能性を減じているようにも思われた。


[撮影:引地信彦]


今回は長編の冒頭部分のみの上演という事情もあってか、基本的にはタイトルが示す状況とそこからの一歩目が示されるに留まった印象だ。大事なことのほとんどが言葉で説明されてしまっていたという点でも、今回の上演はあまりに素朴だったと言わざるを得ない。ここから長編としてどのように展開していくのだろうか。作中には「Cross Voice Tokyo」というラジオ番組(声:松浦みる、野木青依)がたびたび挟み込まれる。番組のキャッチコピーは「東京に住む人々の、声と声とが交差する場所」。ハヤマとワタナベのパートナーがいずれも小見というひとりの俳優によって演じられていることも合わせて考えると、「交差」というのはこの作品のひとつのポイントになっていくのかもしれない。自分の悩みに溺れてしまうのではなく、他者と言葉を交わしてみること。『薬をもらいにいく薬』完全版は『器』との二本立てでの上演が来年に予定されている。


いいへんじ:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


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2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

ほろびて『あるこくはく [extra track]』

会期:2021/06/19~2021/06/22

SCOOL[東京都]

5月の第11回せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリ、劇作家賞(細川洋平)、俳優賞(吉増裕士)を受賞したほろびての短編『あるこくはく』が、新作短編『[extra track]』を加えた二本立て公演『あるこくはく [extra track]』としてSCOOLで上演された。

第11回せんがわ劇場演劇コンクールは新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、劇場での一般観覧を中止。私は配信でコンクールの様子を視聴したが、解像度も十分とは言えない引きの固定カメラを通しての映像は大いに物足りないものだった。また、日本では短編演劇作品を上演する機会はきわめて限られており、このようなコンクールで上演された短編はしばしばその後、二度と日の目を見ないままに終わってしまう。グランプリ受賞作の生での観劇の機会を提供するという意味でも、短編作品の上演機会を創出するという意味でも、今回のほろびての公演には大きな意義があったと言えるだろう。


[撮影:渡邊綾人]


『あるこくはく』は愛海(鈴政ゲン)が恋人(藤代太一)を連れて実家の父(吉増)を訪ねる話。ところがその恋人というのは石で──。家の中に突如として線が出現する『ぼうだあ』、人を操るコントローラーが日常を狂わせていく『コンとロール』と同じく、ひとつの奇妙な設定を起点に物語は極めてシリアスな主題を展開していく。

定石通り、父は娘の結婚を認めようとしない。恋人が石であるということに最初は戸惑う父だったが、やがて怒り出し、「日本の憲法では石に人権は与えられてないし日本国民にもなってない」と言い放ったうえ「石蹴り」と称して石を蹴りつける。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


藤代演ずる石は石の被りものをすることで石であることを表現しているが、しかし見た目はもちろん人間である(これはどうやら物語の設定上もそうらしい)。ゆえに、父の行動は暴力を伴なう直球の差別に見える。だが、恋人が石であるというあまりに奇妙な設定は、私にそれを差別だと断じることを僅かにためらわせる。石だったらそれはまあ蹴ってもよいのでは……?

ここに、人間が石を演じるという企みのねらいがあるだろう。「差別をしてはいけない」という当然のことをお題目として反復するだけではそれを演劇としてやる意味はない。実際に差別をしていてもそれを差別と認識していない人、「差別をしてはいけない」と思っている人は多くいるはずだ。むしろ、だからこそ差別はなくならない。おそらく、ただの石を蹴ることに抵抗を覚える人はほとんどいない。だがこれが虫だったら? 人形だったら? あるいは、舞台上で蹴られているのが本物の石だったら私はそこで起きていることを差別だと断じることができただろうか?

結局、父は付き合いを認めず、愛海も一度距離を置こうと言い出す。彼女は「先に進むための考え」として「石が人間になる」ことを提案しもするが、それが石にとってはアイデンティティの放棄を意味することには無頓着だ。ここにも無意識の差別があり、石は深く傷ついてしまう。一方、石が人間になるといういかにも荒唐無稽な提案は、ではどのようなアイデンティティならば自らの意思で変えることができるのかという問いを私に突きつける。

ところで、この物語には登場人物がもうひとりいる。三者の対面の場に同席しながら、しかしその存在を無視され続ける女(橋本つむぎ)は、実は愛海にしか見えていないらしい。終盤になってようやく、四葉と呼ばれるその女が愛海の(あるいは父の?)祖母の妹であること、関東大震災のときに避難した先で石を投げつけられて亡くなっていたことが明らかになる。「わたしはそこで、日本人じゃなかったみたいで」という言葉からは彼女が朝鮮人だと思われて(事実そうだった可能性もある)石を投げられたらしきことが推察される。その意識はなくとも、石もまたかつて差別に「加担」し、愛海の血縁の命を奪っていたのだ。

石と四葉が愛海を介して手を伸ばし合い、「はじめまして」と自己紹介を交わすところでこの作品は終わる。父の態度は過去の経緯に起因するものだろうか。だが、死者の姿をきちんと見ているのは父ではなく愛海の方だ。最後に手を伸ばし合う二人とその手探りを仲介する愛海の姿には、そこに未だ困難があるとしても、希望を見たい。


[撮影:渡邊綾人]


『[extra track]』は『あるこくはく』と同じ4人の俳優が順にモノローグを語っていく構成の作品。マチュピチュ、バンコク、阿佐ヶ谷と異なる場所について語る人物はそれぞれの場所で「石」を拾い、次の語り手となる俳優に手渡していく。語り手となる俳優は代わっていくが、そこで語られているのは連続した「私」であるようにも思われる。

最後のひとりは「残した記録を消すことを命じられ」「もうこのような仕事を続けられないために、命を終える」と語る。だが、それは「語り手とは違う、文字としての『私』」なのだと。2番目の語り手は、自殺した大学時代の同級生の葬式に出向きながら、線香も上げずに帰ってきてしまったと語っていた。3番目に語られる、阿佐ヶ谷で石を拾ったという「私」は「あるこくはく」の愛海のようでもある。世界を構成する無数の「私」は異なっていて、しかしどこかでつながっている。そのそれぞれが無意識に積み重ね手渡したイシが、投擲された石のごとくひとりの「私」の命を奪う。だが同じように、言葉に宿るイシは、俳優を介して観客である私にも届けられてもいる。財務省の決裁文書改竄に関与させられ自殺した近畿財務局の赤木俊夫氏が遺した「赤木ファイル」が開示され遺族のもとに届けられたのはこの公演の最終日、2021年6月22日のことだった。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


10月27日(水)からはほろびての新作『ポロポロ、に(仮)』がBUoYで、8月5日からは細川が戯曲を書き下ろしたさいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』が彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演される。


ほろびて:https://horobite.com/
第11回せんがわ劇場コンクール:https://www.chofu-culture-community.org/events/archives/456


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ほろびて『コンとロール』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年02月01日号)

2021/06/22(火)(山﨑健太)

イキウメ『外の道』

会期:2021/05/28~2021/06/20

シアタートラム[東京都]

劇作家・前川知大の、そして劇団イキウメの新たな代表作が誕生した。

二十数年ぶりに再会を果たした寺泊満(安井順平)と山鳥芽衣(池谷のぶえ)。偶然にも同じ町内に住んでいたことに驚きつつ近況を報告し合う二人は、それぞれに不可思議な事態に巻き込まれていた。

二人が住む金輪町には県外からも客が訪れるほどの人気でなかなか予約がとれない喫茶店がある。客の目当てはマスター(森下創)の手品。海外の一流マジシャンにも引けを取らない彼の手品だったが、しかしそのいくつかはあまりにも現実離れしていた。客の500円玉を未開封のコーラ瓶にするりと差し入れてしまう手品を見た寺泊は、かつてあるパーティーで目撃した政治家の死を思い出す。パーティーの最中、突然倒れてそのまま亡くなった政治家の脳からは、会場に用意されていたビール瓶の欠片が見つかったらしい。外傷はなし。寺泊はふと思う。あれはもしかしてこのマスターの仕業ではなかったか。タネを教えてくれと迫る寺泊にマスターは、タネも仕掛けもない、あるのは「世界の仕組み」だけだと答える。自分には分子レベルの物質の隙間を見通す目があるのだと。寺泊はその言葉に取り憑かれたかのようになり、以来、妻(豊田エリー)が以前とは別人のような輝きをまとって見えるようになる。いや、妻だけではない。世界のすべてが違って見える。やがて寺泊は宅配便ドライバーの仕事で誤配を繰り返すようになり──。


[撮影:田中亜紀]


一方、山鳥はある日、品名に「無」と書かれた宅配便を受け取る。開けた段ボール箱の中身は空っぽ。数日後、山鳥は自分の部屋に不自然な暗闇の塊のようなものがあることに気づく。日に日に広がっていく闇に部屋は飲み込まれ、足を踏み入れた山鳥は暗闇を彷徨う。やがて闇に朝日が射し込むと、山鳥は見知らぬビルの屋上に全裸で立っていた。さらに、闇に飲まれた自室に突然、見知らぬ少年(大窪人衛)が現われる。驚いた山鳥が呼んだ警察はしかし、三太と名乗るその少年は山鳥の息子だと言い出す。山鳥は上司で恋人の行政書士・日比野(盛隆二)に助けを求めるが、卒業アルバムや写真など、三太の存在を証明する記録は無数に存在し、挙句には山鳥と三太が5年前に養子縁組をした記録までもが発見されるのだった。それでも三太との関係を否定し続ける山鳥と周囲の人々との間には溝ができはじめ──。


[撮影:田中亜紀]


それぞれに無関係に展開する寺泊と山鳥の物語はしかし、世界がそれまでとは異なる仕方で見えるようになってしまった者の末路を描いている点において共通している。居場所を失った二人はいまいる世界に「限界なのよ」と見切りをつけ「ここを出る」ために暗闇へと踏み出す。狂っているのは二人か世界か。誰がそれをジャッジできるのか。


[撮影:田中亜紀]


二人が語るさまざまな場面はすべて、打ち捨てられたホテルのラウンジのような舞台美術(土岐研一)の中で演じられ、俳優は全員がつねに舞台上にいる。主役の二人の語りに合わせてほかの俳優たちは役を演じ、群衆となり、あるいは舞台美術のような役割を果たしながら物語を進行させていく。語りの主体は寺泊=安井と山鳥=池谷のはずだが、ときにほかの俳優たちまでもが寺泊や山鳥であるかのように物語を紡ぐ。あるいは、その他者の語りこそが舞台上に寺泊と山鳥を存在せしめ、世界をそのようにあらしめているとしたら。ある人物の存在は、そして世界の存在は何によって保証されるのか。物語の問いと演劇としての表現は分かちがたく結びついている。

暗闇に踏み出した二人は無から新たな、美しい世界をつくり出そうと想像する。やがて舞台奥の窓いっぱいに射し込む光。舞台上の、どこにも行けない閉じられた世界。その外に光は広がっている。闇をくぐり抜けて光を見るのは寺泊と山鳥だけではない。バトンは観客に手渡された。閉じられた劇場から外の世界へ。舞台上にさまざまな光景を描き出した想像力で、世界の未来を描くことはできるだろうか。SFのようでも、ホラーのようでも、不条理劇のようでもサイコスリラーのようでもあるこの作品は、狂気のような正気でもって世界と対峙し変革しようとする者たちの物語だ。


[撮影:田中亜紀]


今作にはもともと、2020年の5月から予定されていた公演がコロナ禍により中止となり、代わりに実施されたワークインプログレスを経て今回の公演が実現したという経緯がある。公演延期は苦渋の決断だったと思われるが、ワークインプログレスを経ての創作は十二分に実を結んだと言えるだろう。ウェブサイトではワークインプログレスの様子や台本の一部、各種設定やイキウメの代表作である『太陽』『獣の柱』の映像も公開されており、より深く、あるいは初めてイキウメワールドに触れるには最適のガイドとなっている。

なお、本作は7月3日(土)には穂の国とよはし芸術劇場での、11日(日)には北九州芸術劇場での上演が予定されている。


イキウメ:https://www.ikiume.jp/
『外の道』W.I.P.:https://sotonomichi.jp/

2021/06/01(火)(山﨑健太)

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