2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

神村企画《STREET MUTTERS #2》

会期:2021/08/06~2021/08/08

糸口[東京都]

「路上にある標識や表示を観察・採集し、その意味や指示を受け止め、それに従い自発的に動かされてみるダンス公演」《STREET MUTTERS #2》が上演された。振付・出演は神村恵と木村玲奈。会場となった「糸口」は振付家・ダンサーとして活動する木村が2020年から運営するスペースで、すでに複数のアーティストによる「こけら落としパフォーマンス」はウェブ上で公開されているものの、観客を入れての実地開催公演は本作が初めてとなる。

上演はおおよそ三部構成になっており、まずは壁面にさまざまな標識の画像が次々と投影されていく。なかには私が駅から「糸口」に至るまでに目撃したものも含まれており、それらは「糸口」周辺で採集されたものなのかもしれない。続いて、今回「スコア」として採用された三つの標識(トイレ、不法投棄厳禁、非常口)についての二人の会話。そして最後に三つの標識それぞれをスコアとするダンスという構成だ。観客の手元にはスコアとして三つの標識とともにそれぞれの標識から「読み取る指示」「振付」が記された紙も配布される。

標識を身体への指示とみなしそこからダンスを立ち上げる、というアイデアは、たしかに聞いてみればなるほどと思わされるものだが、しかし興味深いのは、取り上げられた三つの標識は標識としてのあり方がそれぞれに異なっている点だ。たとえば、トイレの位置を指し示すトイレの標識は、記号としてはステレオタイプな男女のヒトガタとして表象されており、実のところそれがトイレを指し示しているのだという理解は慣習的なものに過ぎない。一方、同じくヒトのかたちが描かれた非常口の標識は、一見してそれ自体が「外に出ること」を示していることは明らかであり、さらに「非常口」という文字も付されている。不法投棄厳禁の標識については記号的な要素はなく、「不法投棄厳禁」等々の文字が記されているのみだ。


[撮影:鐘ヶ江歓一]


こう考えてみると、トイレの標識には本来的には身体への指示というべきものは含まれていないのだが、神村と木村はそこから「二つのカテゴリーどちらかに自分を振り分け、もう一方についての想像力を停止させる」という指示を読み取る。振付は「排泄するためにトイレに向かう」「二つのカテゴリーのどちらかに入り、異物がいないか注意する」「もう一方についての想像力を停止させ、排泄する」「外に出て、もう一方についての想像力を取り戻す」となっている。これを見ると、(探していた)トイレの標識を見つけた後の行動を標識による指示として解釈していることがわかる。基本的にはトイレに行きたいからこそトイレの標識を探すのだということを考えると因果関係が逆転しているような気もするが、しかしもちろん標識を見たからこそトイレに行く気になるということもしばしばあり、意思はともかく行為には標識が先立っていることに変わりはない。抽象度の高い看板から立ち上がるダンスが現実での行為をなぞるような、ある意味で演劇的なものになっていた点も興味深かった。


[撮影:鐘ヶ江歓一]


不法投棄厳禁の標識から読み取られた指示は「表示を見たりゴミを捨てたりすることで、それを設置した人と間接的なコミュニケーションを取る」。振付は「表示を見ているというメッセージとしてゴミを捨てる」「表示の指示に従ってゴミを捨てたことを取り消す」「その二つを繰り返す」。上演ではゴミが入っていると思しきレジ袋を捨てては拾う行為を繰り返すのだが、一連の行為の速度が上がっていくと、捨てられたゴミが地面に着く前にキャッチされ、行為が文字通りキャンセルされるような事態が生じてくる。看板の設置にはおそらく不法投棄が先立っているように、禁止にはつねに禁止された当の行為が先立っている。ゴミ捨てという行為が宙づりにされるようなダンスは「禁止」の命令に内在する力学とそれが引き起こす運動を体現するものだ。


[撮影:鐘ヶ江歓一]


非常口の標識から読み取られた指示は「現在の場所にいたまま、いつか起こりうることや、ここではない場所を想像する」。振付は「A.リラックスして寝たまま危険を想像し、最小限の力でそれを避ける」「B.想像の中で外の世界へ行き、その想像が閉じたらさらにその外へ出ることを繰り返す(戸口→側溝の網→雑草→白線→歩道の緑→電線・空→団地→車・歩行者→屋根→押入れ→渓流)」。前二つの標識から読み取られた指示、そこから生まれた振付と比較するとグッと抽象度が増しているのがわかる。標識が示す「非常口から脱出する」という行為、そしてそこに至る事態が実現することは稀であり、多くの場合、それは想像されるに止まることになるだろう。だが、この標識から想像されるのはそれだけではない。標識は非常口の向こう側への想像力をも起動する。二つの想像は無関係なわけではないが、それぞれ半ば独立したラインとしてあり、2種類の振付はそれに対応している。上演されたダンスも振付の文言に対応して抽象度の高いものとなっていたが、糸口の出入口から外に出た二人は最後にゆっくりと標識と同じ出ていく人のポーズを取る。ダンスは再び標識に回収されつつ、観客の想像力は自分たちがこれから出ていくはずの外の空間に向かって開かれる。



さまざまな標識とそこから読み取られた指示・振付、そしてダンス。三者のあいだに生じる差異は、標識に対峙する私に身体と想像力のありようを精査するよう促す。それはつまり、生活空間に置かれた我が身のありようを振り返ることにほかならない。


神村恵:http://kamimuramegumi.info/
木村玲奈:https://reinakimura.com/

2021/08/07(土)(山﨑健太)

コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケースのラストを飾ったのはコトリ会議。2007年に結成され関西で活動してきたコトリ会議は2016年にこまばアゴラ劇場で上演されたショーケース公演『対ゲキだヨ!全員集合』をきっかけに関東でも注目を集めて以降、毎年のように東京公演も実施している。作・演出の山本正典は2018年に第9回せんがわ劇場演劇コンクールで上演された『チラ美のスカート』で劇作家賞を受賞し、2020年には『セミの空の空』で第27回OMS戯曲賞大賞を受賞した。

『おみかんの明かり』は「ざくざく」と足を踏みしめる音(を口に出す女の声)ではじまる。懐中電灯を手に歩くその人物の姿は舞台奥の暗がりにあってよく見えない。故障のせいか電池切れか、ふいに懐中電灯の光は消えてしまい、それでも彼女は暗闇の中を必死に進む。やがて水辺に小さなオレンジの明かりを見つけた彼女は手を伸ばし「これが おみかんの明かり」とつぶやくのだった。


[撮影:引地信彦]


どうやら「おみかんの明かり」には死者を呼び出す力があるらしい。三途の川にも見える湖の向こう側に人影が浮かび上がる。水面を挟んで「こういっちゃん」「かなえさん」と呼び合うふたり。かなえ(花屋敷鴨)は「こっちへ来て」と呼びかけるが孝一(原竹志)は「ごめんだけれどそっちへ行けないんだ」と答えるばかり。泳げないかなえが覚悟を決めて湖に一歩足を踏み入れた瞬間、ホイッスルの音とともに銀河警察官・はさみ(三ヶ日晩)が現われる。はさみは「この湖に入るのは宇宙条例に反する」「死んだ人の顔を見るだなんて」「そんな破廉恥は禁止されてるよ」「生きてる人と死んでる人が触れてしまうと 地球が削れるかもしれないくらい 爆発するんだよ」と二人を諌めるが、かなえははさみの光線銃を奪い孝一とともに逃亡してしまう。

水辺に取り残されたはさみ。と、湖の向こうに人影が。それは帝国軍の任務で命を落としたカレンダー(まえかつと)だった。やがてはさみも堪えきれず、湖に足を踏み入れる。制止しようとするカレンダーと触れようとするはさみ。二人がまさに触れ合おうとしたその瞬間、遠く響く爆発音と降ってくる女の頭部。やがてひとり戻ってきた孝一にはさみは「ねえ死んだ地球人 この山を下りた方がいいわよ 私たちもうすぐ爆発するから」と告げるのだった。はさみとカレンダーは手を伸ばし合い、そして暗闇が訪れる。やがて再び「ざくざく」と足音が響き、「おみかんの明かり」へと手を伸ばす者の姿が──。


[撮影:引地信彦]


舞台いっぱいに広がる青い水面と周囲に広がる暗がり、そしてぽつんと灯る「おみかんの明かり」は、広い宇宙で生きている/死んでいる者たちの寄る辺なさを効果的に表わしていた。一方で、私が見た初日には空間に対する声の大きさ、あるいは出し方が十分にチューニングしきれておらず、コトリ会議の魅力が十分に発揮されていないと感じる場面もあった。

コトリ会議の作品ではしばしば、何気ない呼びかけや問いかけ、特に大きな意味を持つとは思えない単語が複数の人物のあいだで、あるいはひとりの人物によって繰り返し発せられる。繰り返しのなかで言葉がその響きを微妙に変えていく繊細さはコトリ会議の持ち味のひとつだが、その響きが聴き取られるためには発する側にも聴く側にもそれなりのチューニングが必要となってくる。悪ふざけめいたウンゲツィーファ『Uber Boyz』を観た後だったこともあり、私の側のチューニングも十分ではなかったのだろうとは思われるものの、コトリ会議の作品としては珍しく、繰り返しの声がうるさく感じられる瞬間があったのは残念だった。

今回の作品では言葉だけでなく劇中の出来事も繰り返され、そのことが人の弱さを際立たせる。地球人の犯した過ちを繰り返してしまう銀河警察のふたり。取り締まる側にも取り締まられる側と同じ弱さがある。だが、それは果たして本当に弱さだろうか。爆発してしまうとわかっていても手を伸ばしてしまうのは、むしろ思いの強さだろう。それを「弱さ」として取り締まらなければならないなら、不条理なのは世界の方ではないだろうか。


掲げられたタイトルゆえにショーケースを見ながら、そして見たあとも「弱さ」について色々なことを考えた。率直に言えば、私自身は「弱いい派」という括り、あるいはそう名指すことが引き起こす効果にはやや懐疑的である。「弱さの肯定」はその当事者が自分の存在を肯定するための、あるいは、弱さを否定する社会を変えていくための第一段階の処方としては必要であり有効なものだろう。だが、そうして肯定された弱さは容易に固定されてしまう。

徳永は「“その後”に出現した『弱いい派』について」(『現代日本演劇のダイナミズム』所収)で「『弱いい派』の特徴は、弱い立場の人々を当事者性で描くのではなく、当事者から見た社会、世界が描かれること」だと述べている。ここで「当事者性」は「被災者、被害者、弱者の置かれた状況や心情を想像する」ことを指す言葉として使われており、「当事者は、当事者性を取る人より、笑うのも泣くのも自由だ」と続く。だがこれは、当事者であるということが簡単に最強のカード、無敵の切り札へと裏返ってしまうということでもある。

そもそも、弱さというのは本当にその「当事者」に固定された性質なのだろうか。ある性質があったとき、それを「弱さ」と規定するのは周囲の環境であり社会のあり方である。もう一度言おう。弱さを肯定することはたしかに必要かもしれない。だが、自分が「弱さ」の側にいないとき(いやもちろんそのようなジャッジにこそ罠が潜んではいるのだが)、すでに「弱いい派」に出会ってしまった私が考えるべきことは、言うまでもなくその先なのだ。


コトリ会議:http://kotorikaigi.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 —かそけき声を聴くために—』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


関連レビュー

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
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コトリ会議『しずかミラクル』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケース公演でいいへんじに続いて登場したのはウンゲツィーファ。こちらは一見したところ、「弱いい派」という呼称とはあまり関係ないようにも思える作品の上演となった。

ウンゲツィーファは劇作家・本橋龍を中心に活動する「実体のない集まり」。ウンゲツィーファの公演では本橋が脚本・演出を担っているが、今回はそれぞれが活動する劇団で作・演出を担うゆうめいの池田亮、盛夏火の金内健樹、コンプソンズの金子鈴幸、スペースノットブランクの中澤陽にウンゲツィーファ常連で青年団に所属する俳優・黒澤多生を加え、全員が作・演出・出演を担う形で創作した「Uber Boyz」を上演した。音楽にはヌトミック/東京塩麹の額田大志を迎え、差しづめ小劇場アベンジャーズといった趣だ。本橋は『動く物』で平成29年度北海道戯曲賞大賞を受賞するなど、劇作家として高く評価されているが、今回はこれまでのウンゲツィーファ作品と共通する手触りもありつつ、集団創作のエネルギーが全面に出た作品となった。


[撮影:引地信彦]


「多様性の発展の果てに、地球平面説が立証された」「今から少し先の未来」、『マッドマックス』や『北斗の拳』を思わせる荒廃した世界を舞台に、「ポッド」からの指示で荷物を運搬して報酬を得る配達員と「バッドボーイズ」と呼ばれるギャングチーム(?)がときに争いときに協力しながら「生物荷物括弧ライフバゲッジ」を目的地に届ける(?)までの顛末が描かれる。

コロナ禍においてある種の「エッセンシャルワーカー」としてその存在が改めて注目を集めたウーバーイーツの配達員には、ほかの多くの非正規雇用労働と同じく正負の両面が存在している。プラスは働き手の都合で働けるという点。一方で、労働者に十分な権利が保障されていない点はプラスを打ち消してあまりあるマイナスである。資本による搾取のシステムの末端に配達員は置かれている。

『Uber Boyz』で描かれているのはクエストをクリアして報酬を得ることでゲーム的な現実をタフに生きる者たちの姿だ。システムに組み込まれた彼らは「強くなければ生きていけない」。強くあるしかないという「弱さ」には、舞台上に展開される男子校的ホモソーシャルな悪ふざけとも響き合うものがある。


[撮影:引地信彦]


率直に言って、観客としての私はところどころで大いに笑いつつも、上演全体を楽しむことはできなかった。それは舞台上の彼らの、本人たちは至極楽しそうな男子校の文化祭的なノリとネタについていけなかったからである。冒頭から『ONE PIECE』のルフィの格好をした金子が関西弁でコナンを名乗り(『名探偵コナン』には服部平次という関西弁の探偵が登場する)、物語の展開には『新世紀エヴァンゲリオン』のエッセンスが配置されているなど、この作品には有名無名さまざまな「サブカルチャー」からの引用やパロディが無数に盛り込まれている。おそらく、これらの引用・パロディにほとんど意味はない。だが、私にもすべての引用・パロディが理解できたわけではなく、それらを無意味な馬鹿騒ぎだと切って捨てることもできない。そもそも、それが無意味だったとして何が悪いのか。無意味で日々をやり過ごせるならば、そこには十分な価値があるのではないか。

引用やパロディの内容に意味はないかもしれないが、その対象が権威ある古典や文学作品でないことは重要だ。「哲学はマジゲロだからやめろ」という彼らの哲学の教科書は少年ジャンプやコミックガンガンで、それさえも「クソ分厚い難解な書物」と呼ばれてしまう。そのようにして構成されている彼らの世界は同じ「教養」を共有するものにしか理解し得ない。ギリシャ悲劇やシェイクスピアとジャンプやガンガンのどちらが「高尚」であるかという問題ではない。だが、ギリシャ悲劇やシェイクスピアを「教養」とする層のほとんどは、生活に一定以上の余裕があるという厳然たる事実もある。冒頭で示される「地球平面説」が示唆するように、私たちに見えているのはそれぞれ異なる世界であり、そこには無数の断絶がある。

2800円のチケット代を払って客席に座る私と、ウーバーイーツで生計を立てながら舞台に立つ彼ら。小劇場演劇の舞台と客席のあいだにも搾取の構造は存在している。だがそれでも、「安全」のためにウーバーイーツを利用する人々も、演劇を観るためには劇場に足を運ぶしかない。「絶対に踏み込んではいけない2m」の「不可侵領域」、「アースの狭間」をあいだに挟みながら、私たちは同じ劇場にいる。

憐れみや同情を誘い感動で観客を気持ちよくする見せかけの断絶ではなく、舞台と客席の、そして客席と客席のあいだにある本物の断絶を、見えている世界の違いをあらわにすること。スカムでジャンクでドイヒーな世界を東京芸術劇場という公の劇場の企画で上演すること。それは紛れもなく「弱いい派」という呼称への批評的応答と言えるだろう。


ウンゲツィーファ:https://ungeziefer.site/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


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2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』は東京芸術劇場が「若手の才能を紹介」するショーケースの8年ぶりの第三弾。「演劇にあらわれた時代の潮流をすくい取」ることもねらいだというこの企画で今回取り上げられたのが、企画コーディネーターも務める演劇ジャーナリスト・徳永京子の命名による「弱いい派」である。「弱いい派」という言葉にはかなり微妙なニュアンスが込められており、それをネーミングのそのままに「弱さの肯定」とだけまとめてしまうと誤解を招きかねないのだが、徳永は「諦念や絶望の手前で、冷静に、飄々と、あるいは自覚なき誇りを持って、とりあえず生きていく態度」や「登場人物の言葉を借りた糾弾や啓蒙ではなく、小さいけれども聴くべき当事者の声達」を描くつくり手たちを「弱いい派」と呼んでいる(いずれも当日パンフレットからの引用)。今回は「弱いい派」からいいへんじ、ウンゲツィーファ、コトリ会議の三組がそれぞれ40分程度の短編を上演した。


いいへんじは劇作・演出を担当する中島梓織と俳優の松浦みるを中心に2017年に旗揚げされた演劇団体。『薬をもらいにいく薬(序章)』(作・演出:中島梓織)は今後上演が予定されている長編『薬をもらいにいく薬』の冒頭部分となる。今回上演された3作品のなかでは「弱いい派」というキーワードをもっともストレートに引き受けた作品だと言えるかもしれない。

ある日、ハヤマ(タナカエミ)は出かけようとして薬を切らしてしまっていることに気づく。その日は同居している恋人・マサアキ(小見朋生)の誕生日、かつ出張から帰ってくる日で、ハヤマは空港に向かおうとしたところだった。パニック障害と思われる持病のある彼女が出かけるためにはお守り代わりの薬が必要で、しかし薬をもらいに病院に行くにもそのための薬がない。諦めてタオルケットにくるまっているところに、バイト先の同僚・ワタナベ(遠藤雄斗)が、バイトを長く休んでいるハヤマに店長の指示でシフト用紙を届けに来る。ハヤマはワタナベに事情を説明し、一緒に空港に向かってくれるよう頼む。ワタナベもそれを了解するが、ハヤマはそれでも家を出られない。そんなハヤマにワタナベは、家から空港までの道のりを「一回やってみましょう」とシミュレーションしてみることを提案するのだった。


[撮影:引地信彦]


ハヤマに接するワタナベが持つある種の軽さ、遠藤の飄々とした演技には、「弱さ」に向き合おうとして強ばる心をほぐしてくれるようなしなやかさを感じた。ハヤマと同じ重さや深刻さを引き受けるのでなく、かと言って突き放すのでもなく、仕方ないなと言わんばかりのルーズさで他人の困りごとに付き合うこと。実際のところ、シフト用紙を届けにきたワタナベは当初、「でもこれ、書いたらどうしたらいいんだろう」と言いつつも「まいいや、渡すとこまでなんで、俺の仕事」と帰ろうとしていたのであった。

後半では、ワタナベもまた、同性パートナーのソウタ(マサアキと同じく小見が演じる)と一緒に住む家がなかなか見つからず、ふたりの仲がぎくしゃくしはじめているという自らの悩みを吐露する。ハヤマに対するワタナベの態度は彼の性格に起因するものだと思われるが、一方で、後半の展開を踏まえると、彼がゲイという「社会的弱者」であるがゆえに、あるいはパートナーであるソウタもまた心の病を抱えているがゆえにハヤマにも優しいのだという解釈も成り立つかもしれない。だが、それでは優しさは弱さの共感のなかに閉じてしまう。その意味で、後半の展開は前半で示されるワタナベのようなあり方の可能性を減じているようにも思われた。


[撮影:引地信彦]


今回は長編の冒頭部分のみの上演という事情もあってか、基本的にはタイトルが示す状況とそこからの一歩目が示されるに留まった印象だ。大事なことのほとんどが言葉で説明されてしまっていたという点でも、今回の上演はあまりに素朴だったと言わざるを得ない。ここから長編としてどのように展開していくのだろうか。作中には「Cross Voice Tokyo」というラジオ番組(声:松浦みる、野木青依)がたびたび挟み込まれる。番組のキャッチコピーは「東京に住む人々の、声と声とが交差する場所」。ハヤマとワタナベのパートナーがいずれも小見というひとりの俳優によって演じられていることも合わせて考えると、「交差」というのはこの作品のひとつのポイントになっていくのかもしれない。自分の悩みに溺れてしまうのではなく、他者と言葉を交わしてみること。『薬をもらいにいく薬』完全版は『器』との二本立てでの上演が来年に予定されている。


いいへんじ:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


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コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
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2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

中野成樹+フランケンズ『Part of it all』

会期:2021/07/18

えこてん 廃墟スタジオ、屋上スタジオ[東京都]

中野成樹+フランケンズ、略してナカフラ2年半ぶりの(東京ではなんと5年ぶりの!)公演が行なわれた。演出ノートによれば、しばらく公演がなかったのは中野が「鬱をわずらったり、複数のメンバーが育児に追われはじめたり、新型コロナがやってきたり、なかなかその機会が整」わなかったから、とのことで、そのような状況でも演劇をやるために今回の公演は「現状のメンバー全員が、 ①日常生活を維持しながら無理なく参加できる ②あるいは、積極的に不参加できる」という二つの指針に基づいて準備が進められてきたそうだ。日曜日1日のみ、午前午後1回ずつの2回公演。すべての役に複数の俳優が割り当てられているのも公演を「無理なく」行なうための構えだろう。

今回上演されたのはエドワード・オールビー『動物園物語』を原作に中野が誤意訳・演出を手がけた『Part of it all』。ナカフラはもともと「時代・文化風習等が現代日本と大きく異なる、いわゆる『翻訳劇』をとりあげ、『いまの自分たちの価値観と身体』で理解し体現する」ことを掲げ、「逐語訳にとらわれない翻訳、あらすじのみを死守する自由な構成、従来のイメージやマナーにとらわれぬ私たちの物語としての作品解釈、その方法・表現を『誤意訳』と名付け」て実践してきた。今回の『Part of it all』は会場となった廃墟スタジオでまずは第一部として「原作の紹介上演」が行なわれた後、同じ会場で第二部として「その誤意訳上演」、そして屋上へ移動しての第三部「+メンバーの日常」という三部構成での上演となった。手練ぞろいのナカフラ俳優陣による上演は期待に違わず抜群の面白さだった。



原作の『動物園物語』は男二人の会話劇。ピーター(洪雄大/福田毅)が公園のベンチで本を読んでいると見知らぬ男が「動物園へ行ってきたんです」と話しかけてくる。適当にあしらって会話を早く切り上げようとするピーターだったが男はしつこく話しかけてくる。ジェリー(田中佑弥/竹田英司)と名乗るその男はどうやら動物園で何かニュースになるようなことをしてきたらしい。出版社に勤め妻子もいるピーターと酷いアパートの一室に独り住むジェリー。不均衡な二人のあいだで交わされる会話は不穏さを増していき、やがて悲劇的な結末を迎える……のだが、今回の上演はおおよそ前半部のみ。不穏さが急激に高まっていく直前で上演は途絶し、第二部の誤意訳がはじまる。

第二部ではピーターが三人になっており(A:佐々木愛/北川麗、B:福田毅/洪雄大、C:新藤みなみ/[中野成樹])、どうやら彼女たちは会社の同僚らしい。休憩中だろうか、コーヒーや財布を手に心霊写真の話で盛り上がる三人。そこに缶酎ハイとコンビニのチキンを手にした男(=ジェリー、配役は第三部まで同じ)がやってくると、「一人、百円ずつもらっていいですか?」と言い出し──。ジェリーの不条理さは原作と同様だが、第二部では構図が三対一になったことでピーターの側にある数の優位とその感じの悪さが際立つ。Cのパートナーが電通に勤めているという設定は、数の優位が資本の力とも結びつき得ることを示唆するものだろう。金を払えばいいのだろうと言わんばかりの態度も鼻につく。

第三部は基本的には第二部と同じ内容なのだが(ただしピーターはA:石橋志保[佐々木愛、北川麗]、B:小泉まき[福田毅、洪雄大]、C:野島真理/斎藤淳子[新藤みなみ])、上演のシチュエーションが変わることでその見え方は再び大きく変わることになる。舞台は屋上。アウトドア用のテーブルや椅子、パラソルやビニールプールなどが置かれた空間で、ナカフラのメンバーとその子供たちが遊んでいる。そこにやってくるジェリーは子供たちに危害を加えかねない不穏さを孕んでいるように見え、ピーターたちはジェリーを子供たちに近づけないように立ち回る。ジェリーはいわゆる「無敵の人」のようでもあり、数では勝るピーターたちは、必ずしも優位な立場にあるわけではない。



ところで、今回の上演では一貫してピーターたちは白、ジェリーは赤の衣装を身にまとっていて、そのことが対立の構図をより鮮明に見せている。だが、上演の核は分断よりはむしろ「見えないもの」に想像を広げていくことにあるだろう。誤意訳で書き込まれた心霊写真(過去、死者)やお腹の子(未来)といったモチーフがそのことを示している。第二部では女性が、第三部では子供が登場し、舞台の上の人数とその多様性は増していく。それはつまり、それ以前には舞台上に彼女たちはいなかったということだ。だがそれでも、それ以前の上演の背後にも彼女たちは存在していたことは言うまでもない。演劇は、芸術は、社会と生活から切り離された営みではない。

動物園で何が起きたかをはじめ、ピーターと観客はジェリーの背景を十全に知ることができない。今回の上演は途中までなので、戯曲を読まなければ戯曲に書かれているはずのことすらすべてを知ることはできない。そこにあるのは全体の一部に過ぎず、しかしたしかに全体の一部ではある。そのことを改めてきちんと想像してみること。

屋上で上演される第三部には無言のまま舞台をゆっくりと通り過ぎる人物がいて、その衣装は鮮やかな青だ。赤と白の衣装は日本国旗を連想させるが、世界は紅白のなかで完結するわけではない。国旗は空にはためくものであり、日本の外側には海も広がっている。海の向こうにはまた別の国々もある。青空と街並みを背景に屋上で上演され、俳優たちの日常までもが垣間見える第三部は、私の見えないところにも世界は広がっているのだというごく当たり前のことを、しかし鮮やかに体感させてくれた。


公式サイト:http://frankens.net/
『Part of it all』中野成樹・野島真理インタビュー:http://frankens.net/part-of-it-all-interview/

2021/07/18(日)(山﨑健太)

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