2019年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源・拡張版』

会期:2019/05/29~2019/06/09

こまばアゴラ劇場[東京都]

本作は同タイトル・同モチーフ・同設定のもと、2018年12月の「基本公演」と2019年5月の「拡張公演」の二つのバージョンが上演された。こちらは拡張公演のレビューとなる(基本公演のレビューはこちら)。

家族、あるいは男女の関係の新たなあり方を模索しつつも異性愛男性中心の価値観の強固な支配から逃れられなかった基本公演。拡張公演では「その後」、あるボードゲームカフェの開店が断念されるまでの時間と周囲に集う人々の関係の変化が、錯綜した時間軸のなかで描かれる。

© 刑部準也

結論から言えば、異性愛男性中心の価値観は本作においても温存されている。男性の登場人物が3人に増えたため「ギャルゲー」の印象はなくなったものの、本作においても女性の登場人物が男性の物語を担保するための駒として配置されている印象は拭えなかった。支配的な価値観を転覆することはかくも難しい。

そんななかにあって、新たにコミュニティに参加しようとしながら、ゲームに誘われるたびに「できません」と繰り返す女・そつある(湯口光穂)の存在は際立っている。彼女の発言や行動は一見したところ場の空気を読まない「迷惑な」ものだが、場を規定するそもそものルールが理不尽であるとき、その土俵(この言葉自体、男性原理に支配されたフィールドを指すものであった)で勝負すること自体に異を唱えるのは真っ当なふるまいだろう。

おそらく、作者の山本健介は自らに巣食う男性原理に気づいているのだ。基本公演同様、本作でも劇中にはオリジナルのゲームが登場する。『魔女の村に棲む』と題されたそれはインディアンポーカーと人狼を組み合わせたようなゲームで、二つの陣営に分かれたプレイヤーは、自らがどちらの陣営に属しているかわからないままに、自分たちが「多数派」となるよう「相手」を排除していくことを要求される。

ゲームの作者・中大兄(寺内淳志)は「このゲームで何がしたいっていうのが見えてこない」と言われ「話し合いがしたい」と答える。ゲームに民主主義を導入する試みにも思えるが、話し合いを目的に据えている時点で転倒しているのは明白だ。そこで話し合われるのは「誰が死んだ方がいいか」であり、「自分とは違う人」をあぶり出し排除するのは民主主義ではない。

しかも、プレイヤーは自らがどちらの陣営に属しているかを知らない。ジエン社の作品の多くで東京は何らかの災害に襲われており、本作でも舞台となる街の川向こうに見える東京では火の手が上がっている。登場人物たちは時おりぼんやりとその煙を眺めるが、いつしか炎は我が身に迫り、ラストでは中大兄の家も燃えてしまう。対岸の火事は果たして本当に対岸のものか。

© 刑部準也

© 刑部準也


インディアンポーカー(Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC#%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC

人狼(汝は人狼なりや?/Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9D%E3%81%AF%E4%BA%BA%E7%8B%BC%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%82%84%3F

公式サイト:https://elegirl.net/jiensha/

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The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源』|山﨑健太(2019年07月01日号artscapeレビュー)

2019/06/09(山﨑健太)

関田育子『浜梨』

会期:2019/06/07~2019/06/10

SCOOL[東京都]

関田育子は立教大学現代心理学部映像身体学科卒出身。2016年に同学科教授の松田正隆が主宰するマレビトの会のプロジェクト・メンバーとなって以降、マレビトの会での活動と並行して自身の名義での作品を継続して発表している。2017年にはフェスティバル/トーキョー'17の「実験と対話の劇場」に参加し『驟雨』を上演した。

『浜梨』ではある親子の物語と集団登校する小学生たちの様子がおおよそ交互に描かれる。親子の物語では父が再婚し、娘が昇進して上京するまでのそれぞれの葛藤が描かれ、つまりそこにはベタな物語がある一方、小学生たちについては作品の終盤に至っても逆上がりができるようになるという程度の変化しか描かれず、そこには物語らしき物語はない。5人の俳優はいずれの「物語」にも登場し、作品内でそれぞれが二つ以上の役を担うことになるのだが、面白いのは、二つの「物語」が完全に独立しているわけではなく、両者がときに交錯しながら作品が進んでいく点だ。場面間の「つなぎ」がときにグラデーションのように曖昧なかたちをとっていることもあり、観客はしばしば俳優がいまこの瞬間に演じている役を誤解し、あるいは決定不可能な状態に置かれることになる。このような観客の認識の混乱がもたらすダイナミズムが関田作品の面白さのひとつだろう。

[撮影:小島早貴]

役の混同や取り違えはさらに、単なる演劇的趣向を越えて物語、あるいはそこで描かれる感情の受容にも大きな影響を与えているように思われる。たとえば娘が亡き母の仏壇に手を合わせ涙を流す場面。極度に記号化された「涙を拭う」仕草と、嗚咽しているさまを表わすと思われる寸断された「お……かあ……さ……ん」という言葉は、その記号化ゆえに「泣く」という行為そのものをむき出しに提示してみせる。だがその涙の無防備さはむしろ、同じ俳優が演じる小学1年生の女の子の方にこそ似つかわしいものに思われる。あるいは、娘に潜在する子ども時代がふいに顔を出したような印象がそこにはあった。

親子の物語と小学生たちの様子はともに「現在」の、そして基本的には無関係なものとして描かれつつ、並置され交錯する両者はそれぞれの見方に影響を与え合う。設定上の整合性は取れずとも、小学生たちはときにまるで大人たちの子ども時代であるかのようにも見える。大人たちの向こうにふと透けて見える「子ども」の顔。それはホームドラマを補強し、生の感情を表出させるための回路だ。「大人」である娘は同時に父と母の「子ども」でもあり、そのことは彼女の土台となっている。父を置いて上京し、また、父の再婚相手として新たな母を迎え入れることに対して娘が抱く複雑な感情は、まさに「娘」としての立場から生じるものだ。彼女の向こうに二重写しとなる「子ども」の姿は、彼女の率直な思いを伝えることになる。そうして「子ども」の自分を認めることでようやく、新しい家族のかたちはその最初の一歩を踏み出すことになるだろう。

[撮影:小島早貴]

[撮影:小島早貴]


公式サイト:http://scool.jp/event/20190607/

2019/06/08(山﨑健太)

ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

会期:2019/04/27~2019/04/28

グランシップ 映像ホール[静岡県]

本作はコンゴ東部紛争についての「裁判」をめぐるドキュメンタリー映画である。「裁判」とカッコで括ったのは、それが本物の、つまり法的拘束力を持った公的なものではなく、ミロ・ラウらによって立ち上げられた模擬法廷におけるものだからだ。「演劇だから語り得た真実」という原題にはない副題はこの事実を指す。複雑に入り組んだ利害関係を背景に、語られることも裁かれることもされてこなかった紛争の現実。ラウは関係者に「演劇作品への参加」を呼びかけることで「真実」を明らかにする機会をつくり出した、らしい。

不勉強な私には大変勉強になる映画だった。紛争がレアメタル資源をめぐって引き起こされたものである以上、それは日本に住む私とも決して無関係ではない。この映画を見た程度で紛争の複雑な背景のすべてを理解することはできないが、たとえばスマートフォンの普及の裏でこのような事態が引き起こされていることは広く知られるべきであり、その意味で今後も上映が望まれる作品である。

映画『コンゴ裁判』より

しかし、本作を観終えた直後の私は物足りなさを感じてもいた。ラウの演劇作品の多くは過激とも言えるかたちで現実と虚構=舞台上の「現実」を突き合わせることで、観客にあらためて現実と向き合うことを迫る。たとえばこの8月にあいちトリエンナーレで上演される『5つのやさしい小品』はベルギー・ゲントの劇場CAMPOによる委嘱作品で、オーディションによって選ばれた地元の子どもたちが、90年代に起きた少女監禁殺害事件を「再演」するという作品だ。それと対峙する観客の内部に強烈な感情、あるいは倫理的な問いが喚起されるであろうことは想像に難くない。だが、『コンゴ裁判』という映画からは、そのような演劇の力を感じることができなかったのだ。

この物足りなさは、映画内である謎が解消されていないことと通じている。そもそも彼らはなぜ、加害者の自覚があるにもかかわらずノコノコと「法廷」に現われたのか。演劇だと思っていたから? たしかにそういうことになっている。だが、それはほとんど何も説明していないのと同じである。関係者たちが出廷を承諾するまでの過程がスクリーンに映し出されることはない。ラウの手練手管は伏せられている。結果として、この映画から演劇という嘘のありようはほとんど消去されていたように思われる。

たしかに、当事者にとって法的拘束力の有無は大きな違いだろう。そのような条件においてしか動かすことのできなかった現実があることもわかる。だが実のところ、法廷が本物であるか否かは、少なくともこの映画にとっては重要ではなかったのではないか。それを開くことさえできたならば、法廷が本物であったとしても、映画としての『コンゴ裁判』はほとんど変わらなかったのではないか。

考えてみればそれも当然だろう。ラウの目的は、まずはコンゴの現実を動かすことにあり、そして映画を見た人間を動かすことにあったはずだ。演劇はあくまでそのための道具でしかない。だから、物足りないという感想は、持てる者の側にいる私の傲慢だ。見るべきものをはき違えてはならない。

映画『コンゴ裁判』より


公式サイト:http://festival-shizuoka.jp/program/the-congo-tribunal/
『コンゴ裁判』アーカイヴサイト:http://www.the-congo-tribunal.com/


参考

コンゴ動乱:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E5%8B%95%E4%B9%B1
第一次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
第二次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

2019/04/27(山﨑健太)

新聞家『屋上庭園』

会期:2019/04/26~2019/04/30

つつじヶ丘アトリエ[東京都]

新聞家はこれまで、村社祐太朗自らが戯曲を執筆・演出し上演してきた。既存の戯曲を用いて一般に開かれた公演を行なうのは今回が初めてだ。「一般に開かれた」とわざわざ断ったのは、そもそも村社演出による『屋上庭園』(作:岸田國士)は利賀演劇人コンクール2018で上演され奨励賞を受賞した作品であり、今回の上演はその改定再演だからだ。利賀演劇人コンクールで上演された作品がほかの場所で「再演」されることはそれほど多くないのだが、コンクールの成果を広く問う意味でもこのような「再演」には大きな意義があるだろう。

村社の「戯曲」はほぼ散文といってよい形式をとり、その上演に一般的な意味での会話はない。言葉は決して難解なわけではないが容易には意味が取りづらく、しかしそこが魅力でもある。上演においては俳優が他者としての言葉と対峙する様がクローズアップされ、それを観る私もまた、そのような態度を要請される。一方、『屋上庭園』は(およそ100年前に書かれた戯曲ではあるが)平易な言葉で紡がれる会話劇だ。同じ新聞家名義での公演とはいえ、両者の上演は相当に異なるものになるだろう、と思っていた。

だが考えてみれば、他者としての言葉に対峙するという意味では俳優の営為に違いはない。戯曲自体の言葉の質の違いを別にすれば、『屋上庭園』の上演から受けた印象は、新聞家のこれまでの作品のそれと驚くほど変わらなかった。『屋上庭園』という戯曲とそこに書き込まれた人々のことがこれまでにないほど「よくわかる」とさえ思わされたのは、新聞家が「他者」と徹底して向き合ってきたことを考えれば至極当然だったのかもしれない。

人の出入りや金の受け渡しなど、戯曲に書き込まれた必要最低限の動きこそ実行されるものの、演技はいわゆる「リアリズム」からはほど遠く、4人が寄り添い同じ方向を向いて立ち尽くす(記念写真を撮るかのような)状態が基本となる。その視線の先には透明のアクリルボードのようなものがあり(美術:山川陸)、そこには俳優たちの姿もうっすらと映り込んでいただろう。この配置自体、2組の夫婦が/夫と妻とが、互いに己を映し合う『屋上庭園』の構造、そして新聞家の実践それ自体を可視化するようでもある。

横田僚平、那木慧、菊地敦子、近藤千紘の4人の俳優の演技はきわめて解像度の高い「リアル」な情感を私のうちに呼び起こした。男女の配役はそれぞれダブルキャストになっており、2×2で4パターンの配役があったらしい。自身が見た回の配役こそが最適解であると思わされたが、おそらくいずれのパターンも等しく精度の高い、しかしそれぞれに異なった「リアル」を感知させる上演だったのだろう。一見したところ抑制されているように見える俳優の発話や挙動が、それゆえむしろ微細な差異を際立たせる。観客はそうしてそこにある「テクスト」とそれぞれに対峙する。新聞家の実践が決して特殊なものではなく、むしろ演劇原理主義的な側面を持つものであることをあらためて確認できたという点においても(それはつまり演劇の原理(のひとつ)をあらためて確認することでもある)有意義な体験だった。

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©三野新

©三野新

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

公式サイト:https://sinbunka.com/

2019/04/26(山﨑健太)

ホエイ『喫茶ティファニー』

会期:2019/04/11~2019/04/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

2018年に上演した『郷愁の丘ロマントピア』が第63回岸田國士戯曲賞最終候補作に選出されたホエイ。新作の舞台はレトロなアーケードゲームの卓が残る古びた喫茶店だ。初めて店を訪れたらしい男(尾倉ケント)は連れの女(中村真沙海)からマルチ商法まがいの「ビジネス」に誘われている。女の上司(斉藤祐一)、男の友人(吉田庸)らも合流し、「ビジネス」の話を進めようとするうち、男女がともに在日コリアンであることが明らかになり──。

「正義」や「常識」は相対的なものであり、多くの人がそれを「正しい」と信じているという程度のことでしかない。茶碗をめぐるマナーひとつとっても韓国と日本とでは違いがあり、それがときに摩擦やイジメを生む。物語の主軸をなすのは在日コリアンの置かれた困難な状況とその抜け出しがたさだが、それらを生み出す構造は世のあちこちに見出すことができる。

「詐欺してますよね」「だまされてますよ」とマルチ商法であることを指摘し「人助け」をしようとした女性客(赤刎千久子)が逆に店から追い出されてしまう場面が印象的だ。そこでは彼女の言動は「正義」とは見なされない。直前に彼女がいかに自らが「正当な」日本人であるかを説明していたことも影響したのかもしれない。「ビジネス」に望みをかけ、何とか現状を打破しようとする人々にとって、彼女の言葉は邪魔なものでしかない。

©三浦雨林

ところで、これまでのホエイのほとんどの作品では、ある意味で「学芸会」的ともいえる簡素な舞台美術が採用されてきた。そこにはないものを「見る」ための想像力を刺激する戦略としてだろう。しかし今作では「リアルな」喫茶店のセットが組まれている。しかも、照明こそ換わるものの、喫茶店以外の場面もそのセットのままで演じられるのだ。このことは何を意味しているのだろうか。

見えていないものを想像することはもちろん重要だ。だがそのためには、そもそも自分には見えていないものがあるのだという自覚がなければならない。友人の出自、異性の抱える困難、あるいは自国の歴史。それが遠い外国のことであれば「知らない」と自覚することは比較的容易、かもしれない。だが、目の前に「見えているもの」があればその分だけ、その向こうに「見えていないもの」があることは想像しづらい。喫茶店のかたちで観客の目の前にはっきりと存在する「今ここ」とは異なる位相で語られるエピソードは登場人物には「見えていないもの」として、観客にのみ開示される。

作品のほとんど最後に至ってさりげなく、物語上は特に意味のないかたちで「クノレド」という単語が登場するのも示唆的だ。なるほど、本作は在日コリアンを中心とした物語だったかもしれない。だがその向こうには無数の同型の、同時にまったく違った問題がある。そもそも在日コリアンについてだって私はロクに知ってはいないのだろう。「知っている」ことの安全圏の外側を、私は想像し続けることができるだろうか。

©三浦雨林

公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/
ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』レビュー:https://artscape.jp/report/review/10142986_1735.html

2019/04/21(山﨑健太)

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