2021年04月15日号
次回5月17日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』

会期:2021/03/04~2021/03/11

ニュー新橋ビルおよび新橋駅周辺[東京都]

シアターコモンズ'21で上演された高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』は東日本大震災の翌年、フェスティバル/トーキョー12でPort B『光のないⅡ』として上演された作品の「リクリエーション再演」。10枚組のポストカードとポータブルラジオを手にした観客がひとりずつ新橋の街を巡るというツアーパフォーマンスの形式とそれが辿るおおよそのルートは初演と変わらなかったものの、観客が立ち止まることになるポイントとそこで対峙するものの変化は作品の印象に大きな違いをもたらすことになった。それは同時に、震災から10年という時間が否応なく私にもたらした変化でもあっただろう。

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

10枚組のポストカードにはそれぞれ表面に報道写真が、裏面に次のポイントまでのルートが記されていて、観客はそれを見ながら新橋駅周辺の10のポイントを巡っていく。ポイントに着いた観客はポストカードの裏面に記された周波数にラジオを合わせ、そこから聞こえてくる音声に耳を傾ける。聞こえてくるのはオーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクが震災と原発事故に応答するかたちで発表した一連の戯曲の一作、『エピローグ?』[光のないⅡ]を読み上げる訥々とした声。クレジットによればそれはいわき総合高校演劇部の生徒の声らしい。

10のポイントで待っているのは潜在する不可視の声だけではない。例えば、福島のものと思われるひび割れた地面を写したポストカードは私を東京電力本社の向かいにある内幸町広場に導く。そこには特別なものは何も置かれていないのだが、広場のタイルは報道写真に写る地面と似た、ひび割れたような文様を描いている。その類似が私のいる新橋と遠く福島とを無理矢理につなげてみせる。あるいは雑居ビルの一室には、報道写真に写るもぬけの殻の布団が敷かれた暗い和室の様子が「再現」されている。ある種のインスタレーションのようなその空間はしかし、報道写真に写る光景を模したものであることは明らかなものの、最初からリアルな再現は目指されていないようなおざなりな作りであり、その「再現できてなさ」が私に自らのいる新橋と福島との距離を、そこにある断絶を突きつける。

しかしこれらは私の記憶に残る初演の話だ。今回の再演では空間の再現はなく、各ポイントにはポストカードに印刷されたものと同じ報道写真、あるいはそこに写し出された場面を含む動画が配置されていた。あるものはショーウインドウの中に、あるものは引き伸ばされて高架下の壁面に、またあるものは駅前のSL広場のディスプレイに。ひとつを除いて公共の空間に配置されたそれらは行き交う人々の注目を集めることもなく街に溶け込み、ラジオを持った観客に「発見」されるのを待っている。

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

異物であるはずの報道写真が街に溶け込んで見える理由のひとつは、そこに写っているマスクをした人々の姿や防護服が、2021年の東京を生きる人々にとっては見慣れたものになってしまったからだろう。たまたまそこを通りがかった人々の目には、それらの写真は単に「現在」を写したものと見えたのではないだろうか。

ツアーパフォーマンスの観客もまた、現在の磁場から逃れることはできない。受付でラジオとポストカードを受け取った私が最初のポイントで出会うのは、防護服を来たジャーナリストと思われる人物が鏡に向き合うかたちで自分を撮影した写真だ。浪江の文字が刻まれた鏡越しには住民が避難した後と思しき民家の光景が見える。写真が置かれたカメラ屋のショーウインドウは奥の壁面が鏡になっていて、写真を見る私は自然と写真の人物と同じように鏡に対峙することになる。そこに映し出されるのは写真の人物と同じようにマスクをした私自身の姿だ。このことは、報道写真に写る光景と2021年現在の私を取り巻く状況との「類似」を強烈に印象づける。ラジオから聞こえる「目に見えない」「触れるのも余計なこと」などの言葉がさらにその印象を強化する。放射能について述べたものであるはずのそれらの言葉を現在の自分を取り巻く状況に引きつけるほどに、福島第一原発事故は遠ざかる。

今回の再演では内幸町広場は立ち止まるポイントに指定されていなかった。第3のポイントに向かう私は最短経路ではなく、マップの指示通りに大回りのルートを通る。かつて大勢の警備員を目撃した東京電力本社前を通り過ぎ、福島の遠さに愕然とした内幸町広場を通り抜ける。そうやって「通り過ぎさせられる」ことで私は、通り過ぎてしまったことすら意識してこなかった場所を、時間を、ものごとを思う。

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]


『光のない。─エピローグ?』:https://theatercommons.tokyo/program/akira_takayama/
Port B:http://portb.net/

2021/03/06(土)(山﨑健太)

百瀬文『鍼を打つ』

会期:2021/03/06~2021/03/10

SHIBAURA HOUSE 5F[東京都]

「喉の奥に痛みがある」「頭痛がある」「ため息が多い」「頭の中が雲で覆われているような気分になることがある」「平熱が37.0°C以上である」。問診票の言葉を読む私は一行ごとに「さてどうだろうか」と自分自身の状態を省みる。即答できる項目もあればしばしの検討を要するものもあり、あるいはときにそんなことは考えたこともなかったという予想外の問いが含まれていたりもする。それらは普段は意識していない「自分」の姿を浮かび上がらせる。

百瀬文『鍼を打つ』のメインビジュアルとして使用されていたイラストには、水に浮かんだ裸体のあちこちにピンが刺さっている様子が描かれていた。それはもちろん鍼の施術を思わせるものではあるのだが、水面からのぞく体の部分は同時に海に浮かぶ島のようでもあり、イラストの全体が地図のようにも見えてくる。小さな赤い球体を頭につけたピンは地図上の一点を指し示す印だ。だとすれば鍼の施術は、問診票によって把握された「状態」を人体へとマッピングしていく作業だということになるだろう。問診票の言葉は私の体の任意の点へと変換され(実際には単純な一対一の対応ではないのだろうが)、鍼によってそこには印が刻まれていく。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

『鍼を打つ』ではまず、6枚の問診票に回答するように言われる。冒頭に記したのはその最初の五つだ。「問い」の多くは体調や生活習慣に関する一般的なものだが、なかには「よく黒い服を好んで着る」「他人に迷惑をかけてはならないと強く思う」など、鍼治療にどのように関わるのかよくわからない問いも含まれている。「過去と未来を行き来している」「時間をかけてようやく思い出す」などに至っては意味も判然としないが、いずれにせよ私は当てはまるものにチェックマークをつけていく。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

ひと通り回答を終えると施術台に置かれたイヤフォンを装着し、鍼師が来るのを待つ。しばらくするとイヤフォンから声が聞こえてくる。それは先ほど私が記入した問診票の言葉だ。しかし語られる順序は問診票のそれとは違っている。「心臓がドキドキすることがある」「風邪をひきやすい」「咳が止まらなくなることがある」。やがて鍼師がやってきて、横たわるよう促され施術が始まる。声はときに沈黙を挟みながら、施術が終わるまで淡々と続く。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

問診票では一行ずつ独立していた言葉たちは、異なる順序で語られることでときに物語のようなものを浮かび上がらせる。「視界がぼやける」「かつて海にいたことがある」「耳がつまり、くぐもって聞こえることがある」「ものの輪郭より、色のかたまりがまず先に見える」「国境はなくてもいいと思う」あたりは海中の世界を思わせるし、「地図がないと道がわからない」「点と点のあいだに線を結びたがる」「大地が揺れているように感じる」「歯がぐらぐらする」という言葉の連なりは地図を媒介に大地と私の身体の感覚とを直結させる。

しかしそのような連想はあくまで事後的に生じたものに過ぎない。声に耳を傾けているその瞬間ごとの私にできるのは、「問い」の一つひとつに改めて向き合うことだけだ。私はすでに、いくつかの「問い」に対してどのように答えたかを忘れてしまっていることに気づく。答えた記憶さえない「問い」もある。私は声が語り直す問診票の言葉に導かれ、すでに失われてしまった少し前の私を探しているような気分になる。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

鍼を初めて体験する私はひどく緊張していて、施術箇所に意識を集中するあまり、気づけばしばしば声の語る言葉を聞き逃している。その都度、意識を声へと向け直すのだが、すると今度は体への意識が疎かになり、いつしか施術箇所は移っている。『鍼を打つ』はそのような、声への意識と体への意識の綱引きの体験として私には感覚された。

ところで、問診票の言葉は厳密には「問い」ではない。誰かによって用意されたその言葉は疑問文ではなく、断定のかたちで書かれていた。問診票はその形式によってそこに記された平叙文に「問い」としての機能を付与する。だが、声によって語られる言葉をそのまま受け取るならば、主語こそ欠落してはいるもののむしろそれゆえに、それは声自身についての言明として解釈されるはずだ。「他人が何を考えているのかわからないことが多い」「青あざができやすい」「特定の職業に対する偏見がある」。自問自答を引き起こす私への問診は、一方で見知らぬ誰かと同調するポイントを探る作業でもある。

誰かによって用意された問診票の言葉は私のすべてを把握するにはまったく十分ではなく、そうして捉えられる私の姿は夜空の星を結ぶことで浮かび上がる星座程度の解像度しかない。だが一方で、それはたしかに私には見えていなかった私自身の一端を示してもいるのだ。「他者がいなければ自分のかたちを決められない」。「上から自分を見下ろしているような気分だ」。声は最後に私を突き放す。「時間をかけてようやく思い出す」。「これは自分の体ではない」。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]


『鍼を打つ』:https://theatercommons.tokyo/program/aya_momose/
百瀬文:http://ayamomose.com/


関連レビュー

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年02月01日号)

2021/03/06(土)(山﨑健太)

譜面絵画『Terra Australis Incognita』

会期:2020年~2021年

吉祥寺シアターほか[東京都]

『Terra Australis Incognita』は譜面絵画が2020年から2021年の1年間をかけて取り組むプロジェクト。脚本・演出を務め青年団演出部にも所属する三橋亮太はこれまでにも第6回せんだい短編戯曲賞の最終候補作品に『牛乳とハチミツ、ゆれて三日月を喰みる』が、かながわ短編戯曲賞2020の最終候補作品に『新津々浦駅・北口3番バスのりば』が、そして3月20日に最終審査会が控えるかながわ短編戯曲賞2021の最終候補作品に『【H+】アポトーシスしてみた』がノミネートされるなど、その戯曲が評価されつつある若手劇作家のひとり。ラテン語で「未知の南方大陸」を意味するという新作戯曲『Terra Australis Incognita』もまた、企みに満ちた戯曲/プロジェクトだ。

「1st(戯)曲アルバム」と冠された戯曲『Terra Australis Incognita』は8本の短い戯曲で構成されている。同作は2021年の間に複数の場所、異なる出演者での上演が予定されているそうだが、「上演をする際には、戯曲を音楽のプレイリストのように一曲ごとに組み合わせることで上演」することになっており、それは「会場や環境、土地の歴史、出演者の人数に応じ、どこで体験したとしても特異性を帯びる作品」を、「いつでも・どこでも・何人が出演しても、ふさわしい演劇作品」をつくるためだという。実際、12月にワーク・イン・プログレスとして配信された映像公演は海辺の公園を舞台に3人の俳優によって演じられ、1月に(予定されていた演劇公演が緊急事態宣言に伴い中止となり)映像公演として配信された祖師ヶ谷大蔵ver.はカフェ ムリウイ屋上劇場を舞台に2人の俳優によって演じられており、上演された戯曲もその順番も異なっていた。

さらに、すでに「アルバム」として発表されている戯曲に加え、各会場で「限定戯曲」も追加されるのだという。すでにワーク・イン・プログレスでは「形・フレーム」、祖師ヶ谷大蔵ver.では「暦から風」という2本の戯曲が追加されている。上演を重ねるごとに追加される戯曲は場所と作品とのつなぎの役割を果たしつつ、未来の上演の可能性を広げることになる。

8本の(あるいは10本の)戯曲を通して語られる物語は錯綜している。国外(?)の海辺の村に滞在したBさんなる人物の話をしている2人。Bさんと村長、そして通訳の会話。どこかからやってきた船の乗員を皆殺しにしてしまったという村の昔話。先住民との対立と虐殺。猫たちの会話。進化した動物が博物館で自分たちの祖先を見て交わす言葉。コロンブス。現地の子との対話。生贄の風習。伝説のモチーフとなった動物とその保護区域。映画『青と緑の全貌』。巨人の背骨と埋蔵金、等々。これらの断片が語られる物語のなかでさらに別の物語のなかへ、そしてまた別の物語のなかへ入っていくように語りつがれていく。重なり合う無数のレイヤーは観客の足元にあるはずのそれとも同質のものだ。『アラビアンナイト』のような戯曲はしかも、上演の度に語られる順番が入れ替わり、新たな断片が追加されていく。いくつものレイヤーが重なり溶け合うのみならず、ときに物語の内外は反転し、クラインの壺のような物語の迷宮が生成される──かもしれない。

3月14日には本作初の劇場公演が吉祥寺シアターで予定されている。これまでの映像公演では、戯曲で語られる内容の多様さに比して単調な上演スタイルが気になった。戯曲をそのまま上演すると基本的に会話をしているだけの場面が延々と続くこと、登場人物の語りのトーンがどれも似通っていることなど、戯曲に起因する「退屈さ」に加え、出演俳優=舞台で発せられる声の種類の少なさは物語をモノトーンに押し込んでしまう。吉祥寺シアター公演では出演者はグッと増え、映像出演の2人も合わせると12人。多様な声が戯曲に仕組まれた複雑なレイヤーを浮かび上がらせることを期待したい。


公式サイト:https://fumenkaiga.wixsite.com/fumenkaiga

2021/02/22(月)(山﨑健太)

小泉明郎『解放されたプロメテウス』

会期:2021/02/17~2021/02/21

SHIBAURA HOUSE 5F[東京都]

あいちトリエンナーレ2019で初演されシアターコモンズ'20でも上演された『縛られたプロメテウス』の「続編とも言える新たなVR作品」、小泉明郎の『解放されたプロメテウス』がシアターコモンズ'21で上演された。

会場は三方をガラス窓に囲まれた開放感のある空間。床の中央には人間がひとり横たわっている。「開演後しばらくすると、ヘッドセット内に現われるアバターが地上面まで浮上します。それ以降は、それぞれのアバターに近づくと、アバターたちの見ている夢に入ることができます。夢から出る際はアバターから大きく一歩離れてください」などの説明をひと通り受けてヘッドセットを装着すると、床下に横たわる5体のアバターの姿が見える。合成音声が「私たち人間は、そのシステムを、こよなく愛していた」と語り出すとゆっくりと浮上するアバターたち。以降、鑑賞者は会場内を歩き回り、アバターに近づいたり離れたりしながらその夢を覗き見ていくことになる。

[撮影:佐藤駿]

合成音声は語る。「ある謎の病の流行を機に、システムに突然変異が起きた。システムが、夢を毎晩見るようになったのである。しかも、多くの夢が、悪い夢であった」。では、鑑賞者である私の目の前に横たわり夢を見ているこのアバターこそが「そのシステム」なのだろうか。しかし「そのシステムは、おとなしく、優しい性格をしてい」て、「よく働」き、「私たちが家に帰ると、必ず笑顔で迎えてくれた」のだともいう。ならば「そのシステム」とはつまり人間のことなのではないか? では、「私たち人間」を自称する合成音声は?

アバターに近づくと周囲の景色は消え、鑑賞者である私はアバターの夢の中らしき空間に入り込む。CGによって描写されたそこはしんしんと降る雪に、流れ落ちる砂に、あるいは高層ビルに囲まれた無機質な空間で、横たわったまま宙に浮かぶアバター以外に人の姿はない。東南アジア系のアクセントだろうか、悪夢は辿々しい日本語で囁くように語られる。不思議な生き物に見つめられ怖くて動けない夢。駅のような場所に自分以外誰もいない夢。雪の夜に橋の下で一夜を明かす夢。王様のような暮らしがアラームの音で崩壊し、遅刻したことを責められる夢。魔女の鞭で体を真っ二つにされ、それでも死なない夢。語りはループしていて、悪夢が終わることはない。私はしかし悪夢に囚われることなく、ひと区切りがついたところで次の悪夢を「鑑賞」するために移動する。

[撮影:佐藤駿]

[撮影:佐藤駿]

開演前、夢から出られなくなってしまった場合は手を挙げてスタッフに知らせてくださいというアナウンスを聞いた私は、それはぞっとしない状況だなと思ったのだった。だが私は「アバターから大きく一歩離れ」距離を取ることで悪夢から簡単に離脱し、それを見ないで済ますことができる。対してアバターたちは、悪夢から逃れることはおろか距離を取ることすら許されていない。その残酷さ。終演後、帰り際に手渡された紙には「作中の夢は、日本で働くベトナム人の若者達が、コロナ禍中に実際に見た夢です」との文言が記されていた。技能実習生の名のもとに奴隷のように働かされる人々を、入管収容所で不当に長期収容されている人々を思う。

5体のアバターのうち1体はなぜか丸太の姿をしていて、それは私に旧日本軍の研究機関である731部隊が人体実験の被検体のことをマルタと呼んでいたという話を連想させた。人間を労働力としてしか見ず、あまつさえそれをシステムと呼んでしまうのであれば、その思考は731部隊のそれとも遠くない。

合成音声の語る「私たちは、システムを観察し続けた」という言葉は、私が傲慢な鑑賞者の位置に立っていることを暴き立てる。「私たち人間」は「悲しみと恐れに満ちていた」という「システムの夢」を「美しいと感じるように」なり、「システムと同じように、夢を見たいと願うように」なったというのだからそれは傲慢以外の何物でもないだろう。だが、最後に至り、合成音声の語りはやや調子を変える。「私たち人間も、かつての人間のように、悪夢を見たいと祈るようになった」。その言葉が示唆するのは、人間が現在ある姿からは「解放」された未来だ。だがその「未来」は単純な時間の経過によって訪れるものではなく、経済と技術の発展の先、格差の上にある。「私たち人間」と「かつての人間」は同じ現在に存在している。ならば、「かつての人間のように、悪夢を見たい」という一見したところ傲慢にも思える願いは、痛みを共有するための「祈り」へと転じ得るのかもしれない。

終演後にアクセス可能な「もう一つの夢」のモノクロームの画面には、ヘッドマウントディスプレイを装着し「夢」に没頭する鑑賞者たちの姿が映し出されていた。現実は何重にも階層化され、「私たち人間」もまたシステムに組み込まれている。だが、床に横たわっていた人間だけはヘッドマウントディスプレイを装着していなかった。あの人間だけは夢から醒め、いや、現実という悪夢にアバターたちとともに対峙していたのかもしれない。ヘッドマウントディスプレイを外した私は夢から醒めているだろうか。

[撮影:佐藤駿]


シアターコモンズ'21作品ページ:https://theatercommons.tokyo/program/meiro_koizumi/
小泉明郎公式サイト:https://www.meirokoizumi.com/


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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小泉明郎『縛られたプロメテウス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)

2021/02/18(木)(山﨑健太)

中村佑子『サスペンデッド』

会期:2021/02/11~2021/02/28

ゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センター[東京都]

『サスペンデッド』はシアターコモンズ'21の一環として発表された中村佑子によるAR映画。中村のシアターコモンズへの参加は2019年のリーディング・パフォーマンス『アリス・イン・ベッド』(作:スーザン・ソンタグ)の演出を担当して以来二度目となる。

会場はゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センターにある、おそらくはゲストの滞在用に設えられたものだと思われる一画。ひとつながりになったリビングダイニングキッチンに洋室が二間、和室が一間あり、中に入ってしまえばそこはほとんど一般的な住宅と変わらない。『サスペンデッド』の鑑賞者は、10分ごとにひとりずつその「居住空間」へと導かれ、ヘッドマウントディスプレイを装着した状態で各部屋を順に巡っていく。ヘッドマウントディスプレイを介してモノクロームになった室内で鑑賞者が対峙するのは宙に現われる鮮やかな映画のスクリーン。そこに映し出されるのは精神的な病を抱える母を持つ子の視点から振り返られる物語であり、その大部分は鑑賞者が立つ「居住空間」で撮影されたものだ。

[撮影:佐藤駿]

かつてあったものを映し出す映画というメディアが、それが撮影された当の空間で体験されるとき、それがかつてそこにあったのだという感覚はより一層の強いものとなる。「そこ」はまさにその場所として目の前にあり、しかしそこにいたはずの人物もそこで起きたはずの出来事も目の前にはない。鑑賞者のいる室内には食器の置かれたダイニングテーブルやソファ、勉強机といくつかのぬいぐるみ、ベッドなど、「彼女たち」が過ごす空間と同じものも置かれているが、現実の室内に置かれているのは映画のなかで映し出されるもののごく一部でしかなく、ガランとして生活感のないそこはすでに抜け殻のようだ。置かれているというよりはかろうじて残された痕跡。ヘッドマウントディスプレイ越しの視界はモノクロームに色を失い、そこにあるはずの現実が遠い。宙に浮くスクリーンだけが、「彼女」の記憶だけが鮮やかだ。

[撮影:佐藤駿]

ところで、「彼女」とは誰か。鑑賞者が最初に導かれた部屋でまず目にするのは、この映画が作者自身を含めた3人の女性の幼少期の体験をもとにしたものであり「いまも世界のどこかで病の親と暮らしている子供たちの家庭のなかで体験する宙吊りの感覚を映像化したもの」だという言葉だ。母が起きるのを待ち、友達と遊ぶことなく家に帰り、母の「目の前の霧」が晴れるのを待ち、あるいは入院した母の帰りを待つ。「宙吊りの感覚」というのはこのようなすべてが待機状態に置かれた時間を指す言葉だろう。しかしそれでも時間は流れ、いつか状況は変わっていく。秒針の音が耳を打つ。

「あなたの痛みがどんなものか、私は想像することしかできない」と「彼女」の声は語る。「あなた」と呼ばれているのはもちろん「彼女」の母親なのだが、それは映画の鑑賞者への呼びかけのようにも響く。ヘッドマウントディスプレイ越しのモノクロームの視界、世界の遠さは鬱の症状のそれに通じているようにも感じられる。「目の前の霧」。映画は子である「彼女」の視点で語られる記憶だ。ではこのモノクロームの視界は誰のものか。室内を歩くほかの鑑賞者たちが私に注意を向けることはなく、同じ部屋にいながら自らの世界に入り込んでいるように見える。

鑑賞者たる私は室内を漂う光の粒子に導かれて部屋から部屋へと移動していく。窓際の椅子、ソファ、ダイニングテーブル、子供部屋にベッドの置かれた和室。記憶の場所を巡るように漂う光の粒子は「彼女」の記憶の残滓か、それとも母親のそれか。「ひとつの心が壊れるのを止められるなら」「ひとつの命の痛みを軽くできるなら、ひとつの苦しみを鎮められるなら、1羽の弱っているコマドリを、もう一度巣に戻せるなら、私が生きることは無駄ではない」。「ただいま」と告げる母から切り返して子の顔のアップ。「おかえり」の声が画面に重なる。子でありながら母のような立場に置かれた「彼女」。かつて子であり、現在は母となった中村がこの映画を撮ることは、二重化された「彼女」に現在から手を差し伸べることだ。それは祈りにも似ている。

エンドロールのあと、映画の最後に示されるのは、日本国内では精神疾患を患う親と子供はその人数すら把握されておらず、「支援の穴」と言われているという現実だ。ヘッドマウントディスプレイを外し、色彩を取り戻した私の現実に「彼女」の姿は見えていない。

[撮影:佐藤駿]

[撮影:佐藤駿]


シアターコモンズ作品ページ:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/
中村佑子Twitter:https://twitter.com/yukonakamura108


関連レビュー

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2021/02/17(水)(山﨑健太)

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