2024年03月01日号
次回3月18日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ほろびて『センの夢見る』

会期:2024/02/02~2024/02/08

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

歴史上の出来事をフィクションで扱うとはどういうことなのだろうか。ほろびて『センの夢見る』は2024年の日本に生きる泉家の居間と、1945年のオーストリア・レヒニッツに生きる三姉妹の居間とがつながってしまうところから物語がはじまる。この年、この場所が示唆するように、そして当日パンフレットにその解説が記載されていることからも明らかなように、この作品は1945年3月24日の夜にレヒニッツ城で行なわれたナチス関係者の集うパーティーでのユダヤ人の虐殺事件に関わるものだ。しかし、「レヒニッツの虐殺」での出来事は登場人物によって語られこそするものの、舞台に上げられることはない。主に描かれるのは、そのパーティーに招待されるルイズ(安藤真理)、アンナ(油井文寧)、アビー(生越千晴)の三姉妹とルイズの親友であるヴィク(藤代太一)が過ごす日々の出来事だ。歴史上の出来事をフィクションで扱うことのひとつの意味はここにあるだろう。史実として記録されなかった、しかしそこにあったかもしれない人々の営みに目を向けること。事実を知ることは不可能だと知りつつ、それでも想像をしてみること。

舞台の上には中空から垂れ下がる紐によって家のような、あるいはサーカスのテントのような空間が象られている。客席に向かってかすかに傾斜する舞台面には「居間/Wohnzimmer」「玄関/Eingang」と文字が記され、白とクリーム色の線が完全には一致しない二つの居間の輪郭をなぞる。二組の家族は違う時間、違う場所を生きながらこの居間だけを共有する。



[撮影:渡邊綾人]


物語は三姉妹のもとにパーティーへの招待状が届くところからはじまる。それはアビーの友人であり伯爵夫人であるマルギット(その名前は史実に基づくものだ)からの誘いなのだが、大喜びでパーティーに何を着ていくかを考えはじめる妹たちに対し、ルイズは乗り気ではない様子。どうやらマルギットがナチスと親しくしていることに不安を覚えているらしい。「伯爵につぐこの町第二の富豪」でありながらルイズの親友であるヴィクは三姉妹を気にかけ、ナチスをあまり刺激しないようにとルイズを諌めるのだが──。

一方の泉家では非正規雇用の用務員として大学で働く縫(大石継太)とその妹の伊緒(佐藤真弓)がともに暮らしている。泉家にはサルタ(浅井浩介)と呼ばれる若者が出入りしていて、なぜか縫にカメラを向けている。サルタ曰く「ジャーナリスト系YouTuber」らしいのだが、何を撮ろうとしているのかはいまいち判然としない。



[撮影:渡邊綾人]


そんな二つの世界がなぜか重なり合ってしまうのだが、しかし物語は必ずしもそのことによって駆動されるわけではない。もちろん、それぞれの時間は進み、さまざまな事情は明らかになっていく。泉家と三姉妹それぞれの困窮、アビーが実の妹ではなく、しかもユダヤ人の血が流れていること、縫と伊緒もまた実の兄妹ではなく、家に石を投げ入れられるなど何らかの差別的な攻撃の対象になっていること。こうして並べてみると、二つの居間が重なってしまったのは時空間を隔てた両家の置かれた状況に重なる部分があったからだと言ってみたくもなる。だが、それらの共通点がそこにいる人々の連帯の契機となったり、あるいは現代日本に生き「レヒニッツの虐殺」を知る誰かが三姉妹のパーティー行きをやめさせたりという展開も用意されてはいない。それどころか、自分のことでいっぱいいっぱいの伊緒は三姉妹の生活をコスプレ的なものだと思い込み、それを金持ちの道楽と批判しさえもする。三姉妹とヴィクはパーティーに行き、虐殺の現場に居合わせることになるだろう。そして二つの居間の重なり合いははじまったときと同じように確たる理由もなく唐突に終わることになる。



[撮影:渡邊綾人]


二つの異なる時空間が一時のあいだ重なり合ってしまうという状況は「今ここ」にそれとは異なる時空間を重ねる演劇という営みの暗喩でもあるだろう。あり得たかもしれない三姉妹の生活を史実が伝えないのと同じように(あるいはちょうどその裏返しのように)、観客である私は「レヒニッツの虐殺」が起きたということ以上に居間=舞台の外の彼女たちを知ることはできない。泉兄妹についてはなおさらである。何らかの事情を抱えていることは窺えるものの、サルタのYouTubeチャンネルの視聴者はおそらく知っているであろうそれを観客が知ることは最後までない。家と居間の輪郭線が観客の知ることのできる限界を示すラインでもあることをはっきりと示すように、物語の終わりとともに家を象っていた紐はぶつりと切られたかのように垂れ下がり、そこには観客の側の現実だけが残される。



[撮影:渡邊綾人]



[撮影:渡邊綾人]


泉兄妹と三姉妹はしばし居間を共有しながら互いの事情に深く踏み込もうとはせず、交流を通して状況が改善することもない。だがそれでもこの作品は、たまたま同じ場を共有しているというただそれだけのことが人々に与える影響に僅かな希望を託しているようにも思えるのだ。伊緒がすぐそばの川に落ちたと聞けばルイズたちは(家の外はそれぞれ別の空間であるにも関わらず)つい家の外に飛び出していくし、軽薄なYouTuberに思えたサルタでさえ「見世物じゃないんで」と伊緒を野次馬な視線から守ろうとする。稽古場に集い劇場に集い、「今ここ」とまた別の時空間とをつなげようとする演劇という営みの可能性は、突き詰めればそうして接点を創り出すことそれ自体に宿っているのかもしれない。

『センの夢見る』の戯曲は5月に刊行予定の演劇批評誌『紙背』に掲載予定。ほろびての次回公演としては6月に『音埜淳の凄まじくボンヤリした人生』の再演が予定されている。



[撮影:渡邊綾人]


ほろびて:https://horobite.com/

関連レビュー

ほろびて『あでな//いある』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年02月15日号)

2024/02/05(月)(山﨑健太)

コンプソンズ『岸辺のベストアルバム!!』

会期:2024/01/24~2024/01/28

小劇場 B1[東京都]

2023年8月に上演されたコンプソンズの前作『愛について語るときは静かにしてくれ』が第68回岸田國士戯曲賞の最終候補作品に選出された。このレビューが公開される3月1日には選考会が行なわれ、受賞作が決定する予定だ。上演台本は他の最終候補作品とともに翌2日の12時まではWEB上で無料公開されている(なお、上演台本はコンプソンズのオンラインショップでも販売中/演劇批評誌『紙背』2023年11月号にも掲載)。まだ観ていない/読んでいない方はこの機会に是非。

さて、しかしコンプソンズと金子鈴幸はこの1月に上演された新作『岸辺のベストアルバム!!』(作・演出:金子鈴幸)ですでにその先へと進んでいる。ちなみにこちらも上演台本がオンラインショップで販売されているのみならず、3月31日まではアーカイブ配信も実施中だ。この先では物語の結末に触れているので、読み進める前にまずは視聴を。

物語は春雨(波多野伶奈)の独白からはじまる。作者を名乗る彼女は、この話は自分の恋愛の話であり、当事者である彼女自身がヒロインを演じるのだというのだが、横から出てきたジャスティン・バービー(端栞里)は「そんなもんに大勢の人を付き合わすな。ゲボ吐きそう」と切って捨て、勝手に物語をはじめてしまう。冒頭のこの場面が示唆するように、本作では複数の筋、複数の世界が錯綜し、登場人物のそれぞれが作者=当事者の座を奪い合うようなかたちで進んでいくことになる。だが、それぞれが自らの物語に固執し続けるかぎりにおいてハッピーエンドは訪れない。主役を張れるシングル曲ばかりが並ぶベストアルバムの名を冠したこの作品は、無数の物語が並び立つこの世界でどう生きるかという問いに真摯に向き合おうとする。容易には答えの出ないその問いは、コンプソンズ/金子が近作で問い続け、そしておそらくは今後も問い続ける問いでもあるだろう。

暗転が明けると舞台には夏子(西山真来)、千秋(佐藤有里子)、冬美(笹野鈴々音)の三人。どうやら子どもを幼稚園のバスに乗せるところらしい。子どもが同じソウという名前だという偶然に驚いた三人はお茶をすることになり、三人とも名前に季節が入っているという共通点を持っていることにさらに驚く。



冬美(笹野鈴々音)、夏子(西山真来)、千秋(佐藤有里子)[写真:塚田史香]


一方、14歳で二人の女の子を殺し少年Aと呼ばれたソウ(藤家矢麻刀)は20歳になり、現在は「岸辺のカフカ」という名前で歌舞伎町のホストクラブで働いている。その店にはクラブのプロデューサーで元ホストのどっこい軍神(大宮二郎)、歌舞伎町のフィールドワークをしている社会学者の東真司(近藤強)、その教え子で気鋭のドキュメンタリー監督・河瀬直子(宝保里実)が集まり開店を祝っているのだが、ホストとしての軍神を支えてきた「姫」の真矢マヤ(星野花菜里)は実は「人間の欲望を吸い込むことで生きる、ダークマンティコアという化け物の末裔」で「悪意に満ちた世界を作り上げる」ために軍神を利用していたのだった──。



ジャスティン・バービー(端栞里)[写真:塚田史香]




東真司(近藤強)[写真:塚田史香]




真矢マヤ(星野花菜里)、どっこい軍神(大宮二郎)[写真:塚田史香]


ほとんど文字通りに登場人物の数だけの物語があり(ここに東のかつての義理の息子候補で夏子たちが訪れたカフェの店員でもある北川トオル[佐野剛]も加わる)、誰もが物語の作者=当事者であろうとその覇権を争ううちに世界は滅茶苦茶になっていく。やがて、少年Aとして作者=当事者の地位を改めて手に入れたソウは、世界を完全に壊してしまおうとするのだが、そんな彼の前に(同じ名前の子をもつという以外には)無関係な、「ただの通りすがり」で「たまたまここにいる」だけの夏子たちが魔法少女となって立ちはだかる。「関係ないなら俺がどうしたっていいだろ!」と言い放つソウにしかし彼女たちは言う。「私たちがついてる!」「何の関係もない私たちがあなたを止める!」と。



河瀬直子(宝保里実)[写真:塚田史香]




ソウ(藤家矢麻刀)、春雨(波多野伶奈)[写真:塚田史香]



北川トオル(佐野剛)[写真:塚田史香]


「どんどん悪くなる一方なこの世界」への拒絶を撥ねのけ、世界の可能性と未来を改めて信じ直すこと。それができる未来のために、自ら世界を変えようとすること。これは『愛について語るときは静かにしてくれ』の語り直しでもある。だが、『愛について語るときは静かにしてくれ』の小春が一人で世界と向き合うことを選んだのに対し、『岸辺のベストアルバム!!』の魔法少女には仲間がいる。奇跡的な偶然によって結びついた、無関係の他人が。



ソウ(藤家矢麻刀)[写真:塚田史香]


ソウの物語に一応のケリがついたあと(もちろんそのあとも人生は続くのだが)、夏子たちは「もとの世界」に戻るための舟に乗り込む。エピローグ的な位置付けのこの場面はともすると蛇足のようにも思えるが、しかし私は三人を見ながら呉越同舟という言葉を思い浮かべていたのだった。敵味方が同じ場所に居合わせること。また、敵味方が協力し合い、共通の困難にともに立ち向かうこと。「二時間だけのバカンス」でもいいのだ。観客である私もまた、劇場という同じ舟に一時のあいだ乗り合わせ、そして言うまでもなく同じ世界に乗り合わせた一人だ。無関係な誰かを、世界を救おうとする動機なんて、その程度の、しかしたしかな偶然でいい。

「誰も殺さないで!」とソウを止めようとする場面で掲げられたのはガザの虐殺に抗議しそれを止めるためのプラカードだった。その祈りのような信頼は真っ直ぐに観客へと、同じ舟に乗り合わせた人々へと向けられている。

コンプソンズの次回公演は10月を予定。


コンプソンズ:https://www.compsons.net/
コンプソンズオンラインショップ:https://www.compsons.net/online-shop/
『岸辺のベストアルバム!!』アーカイブ配信(2024年3月31日23時30分まで):https://teket.jp/851/29058

関連レビュー

コンプソンズ『愛について語るときは静かにしてくれ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年09月01日号)

2024/01/24(水)(山﨑健太)

20歳の国『長い正月』

会期:2023/12/29~2024/01/08

こまばアゴラ劇場[東京都]

光陰矢の如し。気づけば一年が経っている。一方に去年と大して変わらぬ新年があり、一方にあまりに大きな変化とともに迎える新年がある。いずれにせよ一年という時間だけは確実に流れていて、その繰り返しで重ねる年月の先には老いが、そして死が待っている。時間は残酷なまでに公平に流れ続ける。

2023年の年末から年明けにかけて上演された20歳の国『長い正月』(作・演出:石崎竜史)の物語はちょうど百年前、関東大震災が起きた1923年の大晦日にはじまる。ソーントン・ワイルダーの一幕劇『長いクリスマス・ディナー』の構造を借りたこの作品は、木村家の居間を舞台とする百年の歳月を100分の上演時間に圧縮して観客の目の前に展開してみせるものだ。単純計算で1分で1年。とはいえもちろん早回しで百年を演じるわけではなく、ある年の大晦日がシームレスに次の年の、あるいは数年先の大晦日へと移り変わるようなかたちで舞台上の時間は進行していく。場面転換と言えるものは一幕と二幕のあいだの一度きり。いまが何年であるかが舞台上に示されるわけでもない。ゆえに、例えば観客は、関東大震災が3年前の出来事として言及されてはじめて、「いま」がもはや1923年ではないことを、あれから3年もの年月が経過していることを知ることになる。文字通り、気づかぬうちに年月は過ぎ去っていくのだ。


[撮影:金子愛帆]


そうして過ぎゆく年月のうちには当然、死もあれば新たな生命の誕生もある。舞台上手からの登場が誕生を、下手からの退場が死を意味しているのも『長いクリスマス・ディナー』を踏まえた趣向だ。木村家は1876年生まれのトミ(Q本かよ)を最年長にその息子・博(熊野晋也)と妻・ふく(菊池夏野)、その長男・勝一(埜本幸良)と長女・寿美(田尻祥子)、勝一の妻・園子(櫻井成美)、勝一夫妻の長女・智恵(Q本)と長男・健太(熊野)、そして智恵とその夫・里見の娘である2000年生まれのひかる(菊池)と百年のうちに五世代をまたぎ、隣家で代々神職を務める田崎家もトミと同級の宮司、その息子で博の幼馴染の克也(藤木陽一)、その養子・春彦(山川恭平)、そして春彦の孫の清春(藤木)と同じだけの世代をまたぐだろう。


[撮影:金子愛帆]


トミの死、勝一・寿美の誕生、そして博の死。それぞれの人生において大きな意味をもつはずの出来事もこの舞台においては次々と観客の前を通り過ぎていく。どうやら博は戦時中に亡くなったらしい。そう、戦争である。恐ろしいことに、気づいたときには日本は戦争へと突入していたのだった。気づいたときには、というのは観客である私の体感だが、それが登場人物たちの、当時を生きた人々の実感ではないと、あるいは2024年の現在と無関係なものだと果たして言い切れるだろうか。気づけば時間が経ってしまっているのは平時だけではない。

いずれにせよ、時間の経過は決して取り返しのつかないものだ。ゆえにしばしば人は選ばなかった人生へのifを抱えたまま生きることになり、ときにそれは苦い後悔へと転じることになる。もしあのときああしていたら/していなかったら。選ばなかった人生が実現することはもちろんない。だが、取り返しのつかない出来事もやがてほかの出来事と同じように過去のものとなっていくだろう。時間は残酷で優しい。だから、後悔があるならば生きているうちに行動し、そこから先の未来を変えていくしかない。いや、そんなことは知っているはずだ。それでも時間があると思っているうちに取り返しがつかなくなってしまうのが人間である。誰もが大なり小なり取り返しのつかない後悔を抱えて生きている。だからこそ、息子・健太との関係の修復を望みながらも「まだ遅くない」と繰り返すうちにそれを果たさず亡くなってしまう勝一の姿が胸に迫るのだ。


[撮影:金子愛帆]


『長い正月』の締めくくりには、舞台上で演じられた百年の出来事を振り返る走馬灯のようなシーンが用意されている。そこに紛れ込むようにして束の間浮かび上がるのは、父と息子を含めた家族四人がともにマリオカートに興じる場面だ。実現することのなかったその現実は、しかしたしかにその瞬間、ほかの現実と同じだけのたしかさをもって舞台の上に存在することになるだろう。現実は取り返しがつかない。だがだからこそ、その演劇的な嘘に慰めを見出すことくらいは許されてもいいではないか。

『長い正月』という作品の魅力は構造と同じかそれ以上に具体的な細部やエピソードの積み重ねによって支えられている。だが、百年にわたる家族史と12人もの登場人物たちそれぞれの物語のすべてをここに書ききることは不可能だ。いや、本来それは100分の演劇作品で描ききれるものでもないだろう。しかし石崎の筆と俳優たちの演技は登場人物たちを舞台の上に生き生きと説得力をもって立ち上げ、百年=100分という時間に見事に命を吹き込んでみせた。無情なる時の流れを前に人の一生が儚く過ぎゆく様を描いたこの作品が、それでもそれぞれの人生を力強く肯定していたと思えるのは、舞台に立つ人々がそこにたしかに生きていたからにほかならない。改めて大きな拍手を送りたい。


[撮影:金子愛帆]


[撮影:金子愛帆]


20歳の国:https://www.20no-kuni.com/

2024/01/04(木)(山﨑健太)

果てとチーク『グーグス・ダーダ』

会期:2023/12/14~2023/12/17

BUoY[東京都]

流れる血が見えなければ、そこにある痛みもないことにできるのだろうか。果てとチーク『グーグス・ダーダ』(作・演出:升味加耀)の冒頭で交わされる会話は、隕石の影響で透明になってしまったというソトの人間の血の色についてのものだ。ナカとソトの境界で警備にあたっているイダ(神山慎太郎)とエダモト(横手慎太郎)の衣服がところどころ濡れて見えるのは、「清掃」でその血を浴びたかららしい。だが、イダはその臭いに軽い嫌悪感こそ示すものの、それ以上は気にすることもなくそのまま長々と雑談に興じる。そんなイダは冒頭の問いに対してイエスと答えているも同然だ。しかし、観客の関心もまた、見えない血から雑談の内容へとすぐさま移っていくだろう。少なくとも私はそうだった。見えない血を気にし続けることは難しい。


[撮影:木村恵美子]


『グーグス・ダーダ』の世界は分厚く高い二重の壁とその間に広がる砂漠によってナカとソトに分断されている。かつて落ちた隕石によってソトの土壌とそこに住む人間が「汚染」されてしまったというのがその理由らしい。ソトの人間はナカの人間によってランク付けされ、居住地域を指定されるなどの管理を受けている。その一端を担い「清掃」にも携わる仮国境警備隊のイダとエダモトは、一方でソトの住人である「彼」(松森モヘー)が壁の周辺をうろつくことは「できるだけのことはしてあげよ」と黙認している。「彼」は砂漠を越えようとする人たちのために水を置いて回りながら、そこを通る人々が遺していった「忘れ物」を回収しているようだ。「彼」と暮らす「彼女」(雪深山福子)はもともとはナカの住人なのだが、そのことを隠して塾の講師として働いている。その教え子のスー(中島有紀乃)は幼馴染のミカド(上野哲太郎)がテロ組織に関わろうとしているのではないかと疑うのだが──。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


一方、ナカの人々。エダモトの妹・ユキ(小嶋直子)はソトから養子を迎え育てている。しかし、その養子であるヲトメ(若武佑華)はエダモトのところに入り浸り、どうやらソトへの思いを募らせているらしい。ヲトメの友人・ユー(渚まな美)はソトからの移民2世で、両親はソトの子供をナカの人々へと斡旋する仕事をしている。ヲトメの養子縁組もユーの両親の仲介で実現したものだ。ユキの従兄弟でありイダの妹でもあるカヤ(川村瑞樹)は兄夫婦の不妊治療に端を発するトラブルに巻き込まれつつ、友人である「彼女」のソトでの暮らしを案じている。

やがてナカへのオリンピックの誘致が決まると状況は急激に悪化しはじめ、なんとかやってきたそれぞれの暮らしも綻んでいく。ソトからの移民は排斥され、抵抗するものは容赦なく排除されていく。ユーの両親はデモで捕まり、ヲトメもまたユキとともに暮らすことはもはやできない。テロが頻発し、ミカドと「彼」は帰らぬ人となる。かけがえのないはずの命はいくらでも代わりがあるものとして扱われていく。そして拡散する陰謀論、あるいは真実。陰謀論と歴史の改竄は見分けがたく、描かれる物語はあまりに現実に近しい。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


タイトルはドイツ語で「いないいないばあ」を意味する言葉だ。見えないことにし続けたものは、いつか歪なかたちでその姿を現わすことになるだろう。だが一方で、この物語世界においては、血さえ流れなければナカとソトの人間の区別はつかないという点も忘れてはならない。このことは、分断が暴力を生み出しているのではなく、流される血こそが、いや、血を流させる暴力こそがナカとソトとの分断を生み出しているのだということをも暗示してはいないだろうか。そういえば、同じ施設で育ったヲトメとスーの運命がナカとソトへと分かたれることになったのも、ヲトメの行為によるスーの流血が原因だった。

悪い方へ悪い方へと転がり続ける物語は、どんな解決も結末らしい結末も与えられないまま唐突に終わりを迎える。だがそれは世界の終わりではない。物語の冒頭を繰り返すように人々が行き交うなか「なにかが落ちてくる」最後の場面は、暴力と分断の終わりなき連鎖を改めて観客に突きつける。「その一発で、全部おしまいになればよかった。だけど、なにも変わらない。誰も気づかない。わたしたちは、ずっとずっと、ここにいる。多分、永遠に」。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]



[撮影:木村恵美子]


果てとチークの前作『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』の戯曲は第68回岸田國士戯曲賞最終候補作品に選出されている(受賞作は2024年3月1日[金]に決定)。それに伴い2月13日(火)23:59まで上演映像も無料公開中。今後の公演としては8月に『はやくぜんぶおわってしまえ』(第29回劇作家協会新人戯曲賞最終候補作品)再演、11月に『害悪』(令和元年度北海道戯曲賞最終候補作品)再再演、そして2025年1月に『はやくぜんぶおわってしまえ』の続編となる新作『きみはともだち』が予告されている。


果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek
『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』上演映像(2月13日[火]23:59までの配信):https://youtu.be/BsIj73v-1mM


関連レビュー

果てとチーク『そこまで息が続かない』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年12月01日号)
果てとチーク『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年09月15日号)
果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年02月01日号)

2023/12/16(金)(山﨑健太)

捩子ぴじん『ストリーム』

会期:2023/12/13~2023/12/15

若葉町ウォーフ[神奈川県]

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。捩子ぴじん『ストリーム』を観ながら『方丈記』の冒頭を思い浮かべていたのは、タイトルからの連想だけが理由ではない。neji&co.名義のコロナ三部作(『Sign』『Cue』『Out』)のスピンオフとして制作されたこの作品には、コロナ禍を過ごす捩子の生活や新型コロナウイルスを巡る諸々など、(作中で明示されるものとしては)2020年から2022年当時の出来事が痕跡として刻み込まれている。いまとはまったく異なるものとして流れていたはずの時間はしかし、やがて現在へと流れ込む同じ流れなのだ。2023年3月の京都での初演から6、7月の東京での上演、そして私が今回立ち会った12月の横浜での上演。上演の現在は『ストリーム』に刻まれた時間から少しずつ遠ざかっていく。

ここから先では作品の具体的内容に触れることになるが、『ストリーム』東京公演の記録映像はVimeoで無料配信(ストリーミング!)されている。読み進める前にぜひそちらをご覧いただきたい。


捩子ぴじん『ストリーム』 from neji&co. on Vimeo.


『ストリーム』の上演は過去を上演の現在に改めて呼び込むものとしてあり、そのことは冒頭からはっきりと示されている。捩子が紙に書いていく文字を音響を担当するmizutamaが読み上げるかたちで上演前の諸注意が行なわれるのだ。文字はリアルタイムで書かれ、そして読み上げられていくが、声は必ず遅れて発せられ届けられる。声と同時に届くのは、少し先に読み上げられることになる文字を書きつけるペン先の音だけだ。書きつけられ過去となった文字は読み上げられることで再び現在へと合流し、そこに少し先の未来を走るペン先の音が並走する。その後も、『ストリーム』の言葉の多くは上演台本を読み上げるかたちで、あるいは録音した声を再生したものとして発せられる。複数の時間の流れが現在において束ねられる。


捩子ぴじん『ストリーム』京都公演[撮影:脇田友(スピカ)]


まず語られるのはある日の捩子の起床の場面だ。夢から覚め、妻子を起こさぬよう布団を抜け出し、隣室で鳴っているスマートホンのアラームを止める。スヌーズと1週間後の天気予報、2匹の飼い猫、排泄、沸かした湯の冷めていく茶碗。いくつもの時間の流れが並行して走る朝。語る声はやがてマイクを介して増幅されたものになり、録音されたものになり、そして再びマイク、捩子自身の声へと戻っていく。


捩子ぴじん『ストリーム』京都公演[撮影:脇田友(スピカ)]


ユニークなのは、語りのところどころでその内容とは関係なく照明が明るくなったり暗くなったりし、その度に捩子が「まぶしー」「くらーい」と朗読を中断する点だ。内容に集中しているかぎりにおいて過去と現在とのズレが意識されることはないが、語りの中断は観客の意識を現在へと引き戻す。朗読の中断が文字を読むという行為を成立させるための条件である光量の変化によるものなのだからなおさらだ。ここにさらにバリエーションが加わる。暗闇に一瞬の閃光。それを受けて捩子が発する「ピカッ、ゴロゴロゴロ」という言葉はこれが雷であることを示し、するとそれまでは上演が行なわれている空間の物理的な条件に過ぎなかった光量の変化も自然のそれに引きつけて見ることができるだろう。日は巡り時は流れる。

呼応するように次の場面では「2020年1月6日/中国武漢で原因不明の肺炎」にはじまるコロナ禍のタイムラインが語られていく。コロナ禍における主に日本の出来事が録音された声で語られる合間に肉声で語られる捩子自身の身に起きた個人的な出来事。京都市のゴミ収集の仕事をはじめたこと、給付金の申請、入籍、証券口座の開設、ワクチン接種、妻の妊娠、子の誕生、新型コロナウイルスへの感染等々。やがて語りは人間の意識と時間、生と死を巡る思索へと展開していき、ゴミ収集の仕事で目撃したという蛆、つまり蝿の子が無数にたかるゴミ袋を経由して子を育てはじめた捩子自身の日々についてのそれへと合流するだろう。


捩子ぴじん『ストリーム』京都公演[撮影:脇田友(スピカ)]


そうして訪れる最後の場面は忘れがたい。子を高い高いするかのようにゴミ袋を空中へと投げ出す捩子。床へと落下するたび、ゴミ袋からはヘドロ状のものがこぼれ落ちていく。そこに重ねられる言葉はこうだ。「依ちゃん、ウクライナに生まれてこなくてよかったね」。捩子の父のものだというその言葉は繰り返されるうちにすぐさま「ウクライナに生まれてこなくてよかったね」「生まれてこなくてよかったね」と変化していく。これを祝福と呼ぶべきだろうか。そして辿り着く「よかったね」とそれに応じる「よかったね」という捩子自身の言葉にはしかし、どこか突き抜けた肯定の響きを感じもしたのだった。


捩子ぴじん『ストリーム』京都公演[撮影:脇田友(スピカ)]


このレビューが公開される2月15日(木)から北千住のBUoYでneji&co.「コロナリポート」としてコロナ三部作が上演される。15・16日は『Cue』の、17日は『Sign』『Out』の上演となる。『ストリーム』で使用されたテキストは『Out』の一部としても使用されているらしい。


neji&co.:http://nejiandco.com/
『ストリーム』記録映像:https://vimeo.com/908223743

2023/12/13(水)(山﨑健太)

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