2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

康夏奈(吉田夏奈)《SHAKKI - black and white on the lake》(2009):MOTコレクション 光みつる庭/途切れないささやき

会期:2022/03/19~2022/06/19

東京都現代美術館[東京都]

映像のなかでひたすらに雪かきを続ける人物が、康夏奈(1975-2020)である。この作品は康がアーティストインレジデンスでフィンランドに滞在していたときに制作された。康は映像の冒頭ですでに凍った湖の上に立っていて、うすく積もった雪にはグリッド状の線が入っている。その線に沿って、康は除雪用のシャベルで雪を掻いては隣のマス目に雪を載せていく。全編、遠目に康の身振りが見えていて、表情は見て取れない。降り続ける雪に落胆しているのか、淡々とした様子なのかもわからないが、ズボンと靴が黒っぽいから、盛った雪のエッジはこわさないように、雪かきを済ませた箇所から次の作業箇所へと移動するときの慎重な様子はうかがい知ることができる。やっと白と黒のコントラストがはっきりしてきたかと思えば、雪の勢いは増し、掻いても盛っても降り続け、また全体的に白くなる。数分見ていると映像は早回しになり、康がより一層キビキビと氷上を動き回る。

SHAKKIというのはフィンランド語でチェスを意味する。康は何とやりあっていたのだろうか。白と黒、どちらが康かといえば、白い雪に触れないようにしていたからおそらく黒が康だろう。広大な領域に境界線とルールを定めることで、やっと康は白い陣営であろう雪と攻防を繰り広げることができる。でもこれは定められた負け試合。時間もスケールも動かせるエネルギーも枠外の世界。でもそれをもう一度枠内に引き入れることが康にはできた。映像での撮影だ。映像が黒と白の一進一退を、康が雪かきを続ける時間と空間だけに限定することで、無限に循環させる。映像の終盤には、キッチリと雪を掻き分けきった状態がよくわかる、寄り気味の写真が数枚挿入されているが、最後は白くフェードアウトする。少し時間が経つと映像はループされ、また康は戻ってきて、途切れなく白の陣営と格闘を始めることになる。けれども、映像を編集した康はこのチェスの行方に満足しているはずだ。


康夏奈(吉田夏奈)《SHAKKI - black and white on the lake》(2009)


康夏奈(吉田夏奈)《花寿波島の秘密》(2013)個人蔵
「瀬戸内国際芸術祭」(香川県小豆島、2013-19)展示風景[Photo: Yasushi Ichikawa]


公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-collection-220319/

2022/06/12(日)(きりとりめでる)

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二人(宇田川直寛、横田大輔)「石が降る」

会期:2022/05/14~2022/06/12

TALION GALLERY[東京都]


本展は、ライトノベルやアニメに見られるフォーマットを踏まえて、「八王子隕石」「錬金術」「新東京ダイヤモンドボウル」という3章立ての物語に基づいて構成される。

(プレスリリースより抜粋)


え? そうだった?

2019年に結成された二人(宇田川直寛、横田大輔)による展覧会。多くの平面や立体作品は、バライタ印画紙で作成されていて、会場の隅には使い古された写真乳剤とシリコンオイルがガラス瓶に入って並ぶ。「フィルム写真の現像についての解釈のバリエーションの模索?」と思いながらも会場を見回す。窯で火にかけられたテラコッタの映像とその出来上がったもの。印画紙に焼き付けられた平面作品の名は「壺」「石」「人」。印画紙を折ってつくられた人形たち。人形は音に反応してカタカタ動く。「人」「不老長寿」を生成せんとする錬金術と、人の「似せ絵」を生成する写真術の目的と技術が重なる可能性が軽やかに示唆されている。動く人形たちは生きているか死んでいるか、魂があるかないか。蘇生や延命というより、新たなものの生成としての写真と錬金術★1


二人(宇田川直寛、横田大輔)《パーティータイム(石が降る)》(2022)テラコッタ、接着剤、石膏、映像
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


横田大輔《Untitled(写真)》(2022)ガラス瓶、写真乳剤、シリコンオイル
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


左から
二人(宇田川直寛、横田大輔)《壺(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
二人(宇田川直寛、横田大輔)《石(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
二人(宇田川直寛、横田大輔)《人(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY



会場で入手できたテキスト「石が降る」を読んでみる。


我々は〔…〕物語が始まるのを辛抱強く待っていた。ラノベやアニメの世界では物語は向こうからやってきて主人公を巻き込みながら事件を繰り広げる〔…〕いい写真が撮れない〔…〕我々は主人公ではなく〔…〕中年男性〔…〕八王子市役所のホームページで200年前に落ちた隕石をまだ探している〔…〕「我々は隕石を探しているのです」と人に話しかけ始めた。


「いい写真が撮れない」という苦悩が、ロードムービーの導入のように書かれていた。いい写真。テキストでそれは「事件があるかないか」という暫定的な基準が仄めかされている。中年男性には事件がないという己の幸運さと、それを悲しむ後ろめたさが、突拍子もない問いで動き出す。「我々は隕石を探しているのです」。

立体や平面を一式見てからやっと注意が行ったのだが、会場には声が流れている。二人の写真についての語りが、違う人物によって棒読みされた声。隕石の行方から飛躍して、どこかで聞いたことのあるような怪奇現象について話す人の声。物語が動き出したかと思えば、収集した出来事は類型的なものだった。これも「事件」にはたどり着かない。

ライトノベルの筋書きだったら、ある日、主人公の住む場所に隕石が落ちて、自分だけ助かり、愛する人々を失い、錬金術に没頭して、すべてを元通りにしようとするが、それは叶わず。しかし、驚くべきことに隕石は天災ではなく、実は存在した黒幕を打倒して、新しい場所で喪失を回復する物語になるかもしれない。でも、二人は隕石が落ちてこなくても、写真術=錬金術に平素から取り組んできた。


二人 (宇田川直寛、横田大輔)《ダイオウイカ》(2022)バライタ印画紙、箱(PET板、ボンド)12×34×77cm
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY



過剰な高温現象〔…〕毎日そんな作業を続けているとしまいに肌まで爛れてめくれてきた〔…〕まるでフィルムみたいで〔…〕逆に〔…〕フィルムは自分の身体なのだ〔…〕良い錬金術師は良い性格でなくてはならない。心的内容は物質に投影されるからだ。


爛れた自分の手にフィルムと連続する物質性を見出すと同時に、フィルム現像の環境負荷に思いを馳せた人物は、錬金術師であったら、手が石になるなんてことは「悪い」錬金術師の証明になってしまうと考える。でも、それはどうなのと写真家はつぶやく。「それはそれは失礼な話じゃないの」。こうして錬金術から写真家は袂を分かつ。写真を拡張するため過去に無理に遡及する必要なんかないと。二人が次に向かうのは、ラッセンのポスターが貼られた喫茶店のある、昔ながらのボーリング場、「新東京ダイヤモンドボウル」。


それで物語は始まる。という事で、ここがその場所に違いないと思ったのだ。


このようにして、何にも声をかけず、また二人は待つことにしたようだ。本展はかくして、写真になる瞬間を待つこと自体が造形された、主人公じゃない二人の何も起こらないロードムービーに終着した。

さて、ここで終わってもいいのだが、「声かけと写真」を考えるうえで、例えば、2016年の開催から批判を受けてきた「声かけ写真展」という公募グループ展がある。その応募規約には「こども (学齢期以下の人物) に声をかけて、承諾を得て撮影した、未発表の写真作品。被写体に声をかけ、本人の同意を得て撮影したものにかぎります。親権は同意を意味しません」と書かれ、子どもと撮影者の関係が友達のようにフラットであるなかでの許諾に重きを置くがゆえに、保護者への許諾を主催者は一蹴し続けている。

しかし、ウェブサイトや投稿写真(Twitterのハッシュタグで辿ることができる)の言葉や写真から、子どもというのが「少女」に限定され、撮影者は「おじさん」だと自己規定をし、「おじさん」が未就学者の無知に付け込むという状態自体への快楽、あるいは直接的な性的消費が目的なのではないかと強く批判されてきた。2022年も「声かけ写真展」は作品を募集しているが、①声かけ写真と②リミナルスペースの2部門になっている★2

「リミナルスペース」とは、英語圏中心の画像投稿サイト「4chan」を中心に起こった写真文化のひとつだ。普段は人で賑わうショッピングモールや駅や街といった場所に誰も人がいないことで引き起こされるサスペンス、異化効果が起きた風景への愛好、またはそれを撮影した写真のことであり、ひいてはゲームキャラクターのいないワールドのキャプチャーも包含する、風景写真のジャンルでもある。近年はCOVID-19で静まり返る都市が撮影された際、多くのものが「リミナルスペース」「#liminalspace」としてSNS上でタグ付けされた。

その一方、「声かけ展」で銘打たれた「リミナルスペース」は、より狭く再定義されている。「声かけ写真がしあわせに行なわれていた(はずと心象に刻まれる)空間」。その写真に人はいないが、幼い子どもの痕跡を辿ろうとするがゆえに、ハッシュタグで紐づけられた写真の多くは、広域な風景写真ではなく、身長が100cm程度の子どもの移動範囲をおさめる、カメラは地平に対して見下ろす角度のきつい、奥行きの浅い写真になっている。多くの「リミナルスペース」は風景の異化効果を増大させようと、より広い領域の人間の不在を求めるため、構図上の消失点はどこまでも深くとるのがセオリーであるから、「リミナルスペース」のSNSタグの海のなかで数点だけアップロードされている、「#声かけ写真展」の「#リミナルスペース」はそういう異質性がある。

本展の写真も人は不在である。だが、リミナルスペース写真と違って、いつも人が閑散としてそうな、うらびれた場所が被写体であったり、走る車の速度のままのブレた写真であるから、撮影されているのはむしろ「移動」で、それを行なっている「二人」の肖像であると言えるだろう。水が入ったグラスも二人のものだろうし、二人の痕跡しかない。地面に対して垂直に視線が向けられた写真も、ノーファインダーで撮影されたような二人の移動する足である。風景写真であるが、それよりも二人の存在へ折り返される写真。「声かけ展」の風景写真はもちろん、子どもの不在を通して子どもの姿を求めているのだが、ゆえに存在を求める撮影者だけが撮影の場に存在する。鑑賞者は痕跡に何も求めるものがないので、撮影者の存在をより強烈に感じる。二つのリミナルスペースも、二人の写真のいずれの風景写真も、そこにいるのは撮影者だけだ。

二人は事件が起きるのを待っている。しかし、二人は、事件は起きちゃいけないし、事件を撮っていいと言えるのかと思いつつ、待つことを考えるのだ。本展はそれを「待つふり」と言ったりはせず、事件を待ち続ける写真家の自写像の展覧会と言えるだろう。



横田大輔《Untitled (石が降る) 》(2022)ラムダプリント 17.4×25cm
宇田川直寛《Untitled (石が降る) 》(2022)ラムダプリント 17.4×26.1cm
左から1、3、7、9、10番目の写真が横田大輔作品、それ以外の5点が宇田川直寛作品
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


二人 (宇田川直寛、横田大輔)《相模原、若葉 (二人のショー) 》(2020)映像 37分40秒(相模原)、37分58秒(若葉)
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY





★1──本展では錬金術師と写真家が対比的だと言えるが、例えば、打林俊は不老不死や物質の変化を求める錬金術師と写真を発明するに至る科学者ニエプスの違いを、硝酸銀と塩が日光で黒化する事象から、画像の定着に向かったか否かにひとつの分水嶺があるのではないかと提起している(打林俊「錬金術と空想科学からみる写真」/『写真の物語──イメージ・メイキングの400年史』森話社、2019、pp.201-206)。
★2──「声かけ写真展」のウェブサイトは以下の通り。https://www.koekakephoto.net/(2022.6.23閲覧)

2022/06/05(日)(きりとりめでる)

佐々木友輔『映画愛の現在』スクリーニング:第14回恵比寿映像祭「スペクタクル後」

会期:2022/02/12(上映日)

東京都写真美術館[東京都]

この作品は佐々木友輔が鳥取大学に着任することに端を発している。「日々、浴びるように映画を観なければ、優れた作品はつくれない。優れた文章を書くことはできない」と考えていたら、鳥取には映画館が3館しかなかった。

しかしながら、鳥取にもシネフィルがいた。佐々木はたくさんの映画を愛する人たちに車で会いに行く。何人もの言葉を聞いていくと、地域によって映画との向き合い方の傾向が見えてくる。東部は自主上映に注力していて、中部は制作者が多く、西部はコミュニティづくりといったように。上映のために動き回って映画が観れなくなって「映画を観るだけでいれたら」と愚痴をこぼしたり、「気付いたらこうなってた」と映画祭の運営の代表になった人、人の顔と言葉。映画愛は人をここまで奮い立たせる。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分


第2部は、佐々木が映画とどのように向き合ってきたのかというモノローグが挟まる。自分がどのように映画を観ようとしてきたか。そして、本作の編集が誰によって行なわれているのかが言及されていく。本作の編集は、佐々木の鳥取大学のゼミ生だった井田遥だ。佐々木が自作の粋とも考えていた編集を、ソフトを覚えたての井田がめきめきと上達し、仕上げていく。佐々木はそれに衝撃と感慨を覚える。その感情は観客も同じだっただろう。映画を愛する人はいた。それを来鳥した佐々木がひとり奮闘して仕上げたのが《映画愛の現在》なのかというと、まったくそうではなかったのだ。ふいにバトンが渡された瞬間を目撃する。音楽が鳴る。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


作中、シネフィルたちへのインタビューに必要な移動と比例するように、頻繁にドライブシーンが挿入されている。その風景の連続は、鳥取ではないどこかを思い起こさせるのに十分なほど、私が住んでいた土地に似ていた。でも、鳥取のように、こんな風に映画を愛する人が、あそこにもいたんだろうか。佐々木の『映画愛の現在』は作品であると同時に、任意の形式を考えるうえでの方法論の極みだ。観賞したら、鳥取とどこかを思い比べて、思考をドライブすることになるだろう。このとき、鳥取は世界の中心となるのだ。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分



第14回恵比寿映像祭 『映画愛の現在』上映詳細:https://www.yebizo.com/jp/program/57370

2022/06/01(水)(きりとりめでる)

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Kanzan Curatorial Exchange「写真の無限 」vol.1 横山大介「I hear you」

会期:2022/04/26~2022/06/12(会期延長)

kanzan gallery[東京都]

必然性と切実性が感じられ、作者の思いが伝わってくるいい展覧会だった。1982年、兵庫県生まれの横山大介は、吃音の障害をもちつつ写真家としての活動を続けている。彼にとって、「他者に声をかけ、向き合い、カメラをとおして他者を見つめ、見つめ返される」ポートレート写真を撮影するという行為は、「会話以上の他者とのコミュニケーションになる」ものだという。今回のkanzan galleryでの個展には、2011年から続けている写真シリーズ「ひとりでできない」から、11点を出品していた。

写真の多くは、まさに「見つめ、見つめ返される」あり方を、シンプルかつストレートに提示したものだ。とはいえ、距離感や構図は一定ではなく、それぞれの被写体に対応して細やかに配慮している。なかに一点だけ、和室にあぐらをかいて座っている初老の男性を写した写真があって、他の写真とやや異質な眼差しのやりとりを感じた。もしかすると、近親者なのかもしれないが、キャプションが一切ないので、観客にはモデルのバックグラウンドはよくわからない。だが逆に、この人は何者なのかと想像する余地があることで、ポートレートに深みと奥行きが備わってくる。写真の選択、プリントの大きさ、レイアウトの決定なども含めて、横山の丁寧な写真展の構築の仕方が印象深かった。ぜひ写真集にまとめてほしい仕事だ。

会場には、もう一作、三島由紀夫の『金閣寺』、重松清の『きよしこ』、金鶴泳の『凍える口』など、「吃音の描写が印象的な文学作品」をいろいろな人に初見で読んでもらうというパフォーマンスを記録したビデオ映像作品「身体から音が生まれる」も出品されていた。48分15秒という上映時間はやや長過ぎるが、見応え、聞き応えのある作品である。

2022/05/17(火)(飯沢耕太郎)

山形一生《Blanketed Cubes》

会期:2022/02/09~公開中

オンライン・アーティスト・イン・レジデンス(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])

19世紀半ばのある日、花嫁はロンドンにいて花婿はニューヨークにいた。二人は同じ時刻に示し合わせて、モールス符号を送り合い、判事のもとで結婚した。これは法的に認められ、花嫁は父親に無理やり決められた相手ではなく、自身が望む相手との結婚を見事成就させた。

このエピソードは、電信による同期と人間の愛をめぐる物語の始まりの瞬間を記述している。指先での操作ひとつが即時にどんな顛末を招くかは誰にもわからないという世界がスパイのものだけではなくなった証だ。いまも無数の人が自分のオンラインにおけるほんのひとつの操作の意味や影響を理解しながらも、おびただしくさまざまな行為を「実行」し続けている。山形一生はその指先の重さをじっと見つめる作品をつくり上げた。電信以来の世界における、不可逆かと思いきや可逆的で、緩慢かと思えば急転直下の選択にまつわる作品だ。


山形一生《Blanketed Cubes》(2022)
ゲームをプレイして現われる最初のシーン[筆者撮影]


《Blanketed Cubes》はインターネットブラウザでプレイできるスクリーンゲームで、キーボードのあるPCでの操作が推奨されている。これはゲームだけど、ゲームじゃない。何をされてしまうかわからない予感が漂う。プレイ画面の黒いブランクは、しきりにブラウン管をシミュレートするかのようにチラチラと揺れていた。

プレイヤーがゲームの主人公を使役してできることは、矢印キーで限られた空間を移動することと、エンターキーで主人公の手から丸い玉を発射させることだけだ。およその仕組みはたったこれだけだが、プレイヤーは多くのことを選択することになる。もちろん、制限されていることの方が格段に多く、プレイヤーの選択をよそに物語は言葉や音での断りもなく進み、終わりを迎える。セーブもなければ、ゲームプレイのログが残る機能もない。しかし、PCの通常機能を使えばスクリーンショットで記録できる。むしろ、その自発的な記録行為はこのゲームが許した自由といってもいいだろう。人生は突然始まり、いつか終わることは変えられないが、その過程の逡巡は尊いとでも言いたげなほどに。

世界初のオンライン結婚というべき冒頭の出来事は、その新規性によって歴史に残ることになったし、これを「オンライン」という言葉でインターネットとの連続性を串刺しにすることは、歴史を記述し、過去と未来を想像するうえで有用だ。飛躍するが、翻って、本作の射程は、このプレイは何かに見られているのだろうかという気味悪さの感覚にある。あらゆるオンライン接続のデバイスがあなたの情報を収集し続けていることに慣れ切っている半面、だれかひとりに見つめられている可能性には耐えられない?

たったひとり、起きては眠るあの人に何を届けよう。そんな眠りの君に向けた愛情。この顛末、ましてはそこに至るまでの逡巡を誰かに共有するなんて馬鹿げている。そう思わせる物語の陳腐さと、プレイのプロセスで得られる情動の稀有な確かさの同居が本作にはある。

2022/05/08(日)(きりとりめでる)

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