2019年09月01日号
次回9月17日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

新聞記者

遅ればせながら、藤井道人監督の映画『新聞記者』を観る。主役の演技も、観客を宙吊りにするラストもよかった。女性の新聞記者と若手官僚が政権の闇を暴こうとする物語だが、「特別に配慮された大学の新設」というモチーフは明らかに加計学園や森友学園の問題を連想させ、日本では希有な同時代的な政治サスペンスである。もっとも、直接的に固有名詞を使わないこのレベルでさえ、「テレビの仕事がなくなるから」と2つの製作会社が依頼を断ったり、政権批判的な内容ゆえに、テレビでもあまり映画を紹介しなかったことに驚かされた。

あいちトリエンナーレに対する激しいネット・バッシングの後だと、内閣情報調査室がネット書き込みで世論操作をしているシーンがリアルに不気味だ。実際、「毎年(!)トリエンナーレを楽しみにしていたのに、もう行かない」といった組織的な書き込みが数多く出現したのは、よく知られている。また展覧会が始まってすぐ、少女像と天皇を扱う作品の他に、今回の「表現の不自由展・その後」には出品されていない、安倍首相と菅官房長官と見られる人物の口を踏みつけにした竹川宣彰の作品も、いっしょに画像つきで拡散された。後者は、アーティストのホームページから、香港の展覧会を探さないと見つからない画像であり、簡単には出てこない。したがって、偶然に間違えたのではなく、炎上を加速させる目的で、悪意をもって紛れ込ませたフェイクの情報である(これを今でも信じている書き込みも散見される)。

ところで、映画内に出てきた内調のネット書き込み部隊のインテリアの空間表現が興味深かった。明るく乱雑な新聞社のオフィスに対し、暗い部屋で青白く光るパソコンの画面に向かい、職員たちが黙々と悪口を書き込むのである。これはいかにもネットの悪い人というイメージだが、あえてリアリティがない表現なのかもしれない。なぜなら、こうした組織の実態がよくわからないからだ。映画では、官僚の強烈な台詞がある。「日本の民主主義は形だけでいい」というものだ。官僚は国民ではなく、政権の維持に奉仕する。これでは、東大の入試で文1(法学部)と文2(経済学部)の合格最低点が逆転したように、官僚の希望者が減るのも仕方ない。

公式サイト:https://shimbunkisha.jp/

2019/08/17(水)(五十嵐太郎)

あいちトリエンナーレ2019 情の時代(開催7日目)

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター+四間道・円頓寺+名古屋市美術館ほか[愛知県][愛知県]

4回目の愛知県芸術文化センターでは、「表現の不自由展・その後」の中止に抗議し、韓国の作家2名の部屋が閉鎖され(いずれも北朝鮮を扱う作品)、さらにもぎとられたようで痛々しい。とはいえ、何度か通っても、映像の作品が長いので、まだ全部を見ることができないくらいのヴォリュームがある。



イム・ミヌク《ニュースの終焉》の展示中止を伝える説明パネル


パク・チャンキョンによる、北朝鮮の少年兵を連想させる作品《チャイルド・ソルジャー》も展示中止に

10階の田中功起の作品は、大きな展示室に批評的に介入する空間インスタレーションも興味深いが、鑑賞するのにかなり時間がかかる映像が素晴らしい。今回のトリエンナーレでは、家族や移民など、アイデンティティをめぐる作品が多いが、これも日本に暮らす混血・多国籍のメンバーが互いの記憶や経験を語りあいながら、共同作業によって抽象画を描く試みである。あからさまなプロパガンダではない。しかし、確実に、いま起きている事態への静かな抵抗にもなっている。



田中功起《抽象・家族》の展示風景より


田中功起《抽象・家族》の展示風景より

この日は、展示室からも怒号が聞こえ、後で出入口に行ったら、バケツで水をまいていた人がとりおさえられていた。津田監督のトークイベントも当面は中止か、延期になっており、事態が落ち着き、今回の件をじっくりと説明・議論できる場が設けられ、再開への道を探ることを期待したい。そもそも「不自由展」が展覧会の中のミニ展覧会であり、さまざまな作品の共通点は、過去に排除されたことがあることだけだ(例えば、Chim↑Pom(チンポム)は「福島」や「放射能」の言葉が入っているだけでNGに)。そうした基本的な情報すら理解されず、少女像や天皇の肖像を用いた作品の背景も、まったく理解されていない。芸術の政治利用と批判されているが、作品の一部だけを切り取り、もはや政治が芸術を利用している状態である。しかもメディアが政局化を煽るという最悪のパターンだ。

今回のトリエンナーレはオペラをやめて、ポピュラー音楽にシフトしたが、その目玉となるのが、サカナクションの『暗闇 -KURAYAMI-』である。タイトル通り、ホールの照明をすべて消し、ライブを行なうものだ。かつてゲーテが音楽を鑑賞する際、演奏者の姿が邪魔になると述べたこと、また大きな壁でメンバーが隠されたピンク・フロイドの『ザ・ウォール』のライブなどを想起させる。なるほど、これだけの大空間が本当の闇になると凄い。視覚を遮断することによって、さらに音が立体的になり、音が身体を包み、音が空気の振動で直接に触ってくる実験的な体験だった。「不自由展」も、目に見える部分だけで条件反射しているのではないか。アートには制作者の思想があり、それを切り離して考えることはできない。

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/08/07(水)(五十嵐太郎)

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永遠の門 ゴッホの見た未来

盛り上げようと思えばいくらでもドラマチックに盛り上げられるはずのゴッホの生涯を、あくまで画家の立場から、画家自身の目で粛々と捉えた主観映画。ここでいう画家とはもちろんゴッホのことだが、監督ジュリアン・シュナーベルのことでもある。シュナーベルが80年代に新表現主義の画家として一世を風靡したことは知られているが、盟友ともいうべき早逝の画家を撮った「バスキア」をはじめ、映画監督を始めてからもつねに画家の立場、画家としての視線を忘れていない。この映画でもゴッホと自分を、表現主義の先駆者とその末裔として重ね合わせている。

ゴッホを演じるのは怪優ウィレム・デフォー。名前からするとオランダ系なので、それでゴッホ役に選ばれたのかと思ったら、ただのアメリカ人だそうだ(笑)。対するゴーガン役のオスカー・アイザックは、顔が似ているだけでなく、いかにも傲岸そうなふてぶてしさをよく出している。それにしてもゴッホより5歳上のゴーガンを、デフォーより2回りも年下の役者が演じているのに違和感を感じさせないのは、両者の名演ゆえだろう。

カメラは手持ちで画家を追い、またしばしば画家の目線で撮られるので、激しく揺れる。見にくいといえば見にくいが、それが観客をゴッホの揺れ動く不安な精神状態に導く。そして最期のシーン。ゴッホの死因はピストル自殺が定説だが、シュナーベルは悪童たちによる暴発説に従った。自殺のほうがいかにも悲劇的で「泣ける」のに、ここではあえてあっけない事故死を採用したのだ。シュナーベルがやろうとしたのは、ゴッホの生涯に感動させることではなく、ゴッホの内側に入って画家の生と死を追体験させることだった。いってみれば、観客をゴッホにする試みなのだ。だからツライ。終わった後、涙が流れて仕方なかった。

公式サイト: https://gaga.ne.jp/gogh/

2019/08/05(月)(村田真)

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小田原のどか、レニエール・レイバ・ノボ、高嶺格 豊田市エリア(後編)

会期:2019/08/01~2019/10/14

豊田市美術館+豊田市駅周辺

豊田市駅周辺では、公共空間に置かれた「彫刻」や「記念碑」のリサーチをとおして、戦後の日本社会が抑圧・忘却してきた負の記憶を批評的に浮かび上がらせる小田原のどかの代表作が展示された。長崎の爆心地に1946-48年まで建っていた「矢羽根型記念標柱」を原寸大で「再現」しつつ、「原子爆弾中心地」というオリジナルの文言を消し去り、消費文化の象徴である赤いネオン管で象った《↓(1946-1948)》は、記憶の忘却、「爆心地」の潜在的な遍在性、そして将来的な書き込みを待ち受ける空白を指し示す。



小田原のどか《↓(1946-1948)》
あいちトリエンナーレ2019の展示風景


また、《↓(1923-1951)》は、東京の三宅坂に現在ある三女性のヌード像《平和の群像》の台座に、戦前は軍人の騎馬像が置かれていた史実に基づく作品である。彫像の交替に伴い、台座の高さも低くされたが、小田原の本作では、約5mという元の台座の見上げるような高さを再現した。マッチョな威圧性を物質的に再提示しつつ、「鑑賞者が自由に台座に上れる」楽しさとともに、「見上げる/見下ろす」視線の転換を図っている。



小田原のどか《↓(1923-1951)》
あいちトリエンナーレ2019の展示風景


また、キューバ出身のレニエール・レイバ・ノボは、社会主義時代のソビエトで建てられた、労働者やガガーリンの巨大な彫像(の一部)を、美術館の床や天井を突き破ったかのように、原寸大で再現した。私たちの目に見えるのは、ガガーリンの両手の指先と、労働者が掲げるハンマーと鎌の先端だけだ。美術館には収まりきらない、彫像というよりは建築物に近いモニュメンタルな巨大さが体感的に理解される。ここでは、公共彫刻とイデオロギーの結託が、断片化の操作によって文字通り分解されるとともに、「一部しか見えない」ものの背後を想像する態度へと誘われる。



レニエール・レイバ・ノボ《革命は抽象である》(2019)
あいちトリエンナーレ2019の展示風景
[ Photo: Takeshi Hirabayashi]


一方、高嶺格は、廃校のプールを舞台に、場所に働く重力を文字通り反転させる、度肝を抜くようなインスタレーションを発表した。「プールのコンクリートの底板」を剥がし、90度反転させて垂直の壁として立たせたその作品は、ある種の記念碑性と威圧的な巨大さを誇示するが、むしろその「空虚さ」「無意味さ」こそをさらけ出す。「反モニュメントとしてのモニュメント」を壮大なスケールで提示し、痛快だった。



高嶺格《反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで》
あいちトリエンナーレ2019の展示風景



小田原、ノボ、高嶺と辿ってきた「公共彫刻や記念碑と政治的イデオロギー」の問題は、本評前編で予告したように、「表現の不自由展・その後」の炎上の中心的理由となった、慰安婦を表象した「平和の少女像」とも接続する。この少女像は、ソウルの日本大使館前や釡山の日本総領事館前など韓国各地で複数体が設置されており、小田原が以前の個展タイトルに使用した、近代史家モーリス・アギュロンの造語「statumania(彫像建立癖)」をまさに体現する。政治的摩擦を横に置けば、この少女像は、彫像すなわち表象化への欲望、横に置かれた「空席の椅子」が示す参加型作品としての性格、膝に手を置いて座った少女のポーズや椅子のセットに込められた「記念撮影」を誘う意図(さらには撮った写真をSNSで拡散してもらう意図)、少女像に服やマフラーが着せられる事態が示す「人型のフィギュアを擬似=人間的に扱う」心理、「戦時(性)暴力」と言わずに「平和」と言い換える言葉の選択、さらに「平和」と「女性像」の結びつきなど、表象、体験や感情の共有、記号、ジェンダーをめぐる複数の興味深い論点を含む。狭義の政治問題だけに帰着させず、より広義の政治と表象をめぐる文脈から少女像を考え直す機会こそ必要であるし、展覧会という思考装置はそれを可能にさせるはずである。

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

関連記事

小田原のどか個展「STATUMANIA 彫像建立癖」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年04月15日号)

2019/08/04(日)(高嶋慈)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代(開催4日目)

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター+四間道・円頓寺+名古屋市美術館ほか[愛知県][愛知県]

残念ながら「表現の不自由展・その後」は、開幕3日目で閉鎖に追い込まれた。直接的な理由は、想定外の規模の電凸攻撃と脅迫の多さゆえに、来場者の安全を確保できないこと、またスタッフの精神的な限界である。これは公共施設に対するテロのはずだが、後に警察の初動が鈍かったことが判明している。「不自由展」の作品は、美術館や行政側が自主規制したり、おそらく議員の非公式な接触などが原因で展示中止になったものが多かったように思われたが、今回は、複数の政治家が展示の内容に介入することを公式の場で発言したことに驚かされた。確かに社会のフェイズが変わったことを示している。N国がマツコ・デラックスを批判し、ネット民もそれに同調するなど、杉田水脈や丸山穂高もそうだが、意見が異なる個人への攻撃を扇動するのは、国会議員の職務でないだろう。「不自由展」に対する政治家の圧力と同様、タガが外れている。メディアがこれをどっちもどっちの雰囲気で面白おかしく報道するのも、おかしい。

「不自由展」に関して、筆者が「あいちトリエンナーレ2013」の芸術監督だったことから、4つの新聞社を含む、複数のメディアからコメントなどの依頼が寄せられた。当時、津田監督が外部に向けて十分に発信できなかったのは、おそらく県の施設に殺到した膨大な数の脅迫への対策に追われていたのだろう。3度目に訪れた愛知芸術文化センターでは、本当に可動壁を入れて(上部は空いているが)、その奥の「不自由展」へのアクセスが塞がれていた。もっとも、この部屋は必ず通過しないといけない動線上ではなく、ルートからそれた袋小路となる位置であり、運営上の影響は比較的少ない。



閉ざされた「表現の不自由展・その後」 へのアクセス

情報系や工芸系の作品がある、名古屋市美術館も2周目に挑戦した。初見ではゆっくり時間がとれなかった藤井光の作品は、日本統治時代の台湾における同化教育の過去の映像とその身体運動を模倣する現代の映像を並べている。そう、歴史修正主義が跋扈し、不敬罪という言葉が叫ばれ、確かに2019年が当時とリアルにつながっているのではないか。この数日、「あいちトリエンナーレ」に起きた出来事によって、作品の見え方も変わった。

3つのパフォーミング・アーツのプログラムを鑑賞したが、ベルギーで有名な連続少女監禁殺人事件を題材とし、子供たちに演じさせる形式をとったミロ・ラウ(IIPM)+CAMPOの『5つのやさしい小品』が印象に残った。日本ならばさしずめ、宮崎勤が引き起こした連続幼女誘拐殺人事件の演劇化だろうか。炎上しそうな作品である。しかし、内容は知的に構成され、演じるとは何かのメタ的な視点をもち、この日のもうひとつの演目、ドラ・ガルシアのレクチャーパフォーマンス《ロミオ》に通じるものだった。ところで、『5つのやさしい小品』の冒頭で、思いがけず「イマジン」が歌われ、いまの残酷に分断された日本を想う。


ドラ・ガルシア、レクチャーパフォーマンス『ロミオ』のポスター

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/08/04(日)(五十嵐太郎)

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