2020年01月15日号
次回2月3日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

つつんで、ひらいて

会期:2019/12/14~未定

シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開[東京都]

彼の仕事はまさに工芸に近かった。本作は1万5千冊もの本の装幀を手掛けた菊地信義を追ったドキュメンタリー映画だ。驚いたのは、現代においても未だにすべて手作業でデザインしていることだった。もちろんコンピューターを操作するスタッフが側にいるので、菊地の指示のもと、最終的にはDTPで入稿データを作成しているのだろうが、彼女はあくまでもオペレーターの役目にすぎない。デザインの過程は手作業なのだ。ラフスケッチを描いた後、活字を見つけてきて、レタリングし、コピーを取り、ときにはトレスコープ(紙焼き機)を駆使し、ハサミで文字を切り抜き、ピンセットで切り抜いた文字をつまんで並べて貼っていく。その一連の手作業を、私は駆け出しの頃に辛うじて見たことがあるが、いまの現役世代の多くは知らないのではないか。

でもなぜだか、本の装幀にはこの工芸的な手作業が似合うように思えた。インターネット情報や電子書籍が台頭し、紙の本がアナログ媒体の権化のようになったからだろうか。こんな時代においても紙の本を求めるのは、やはり紙の手触りや風合い、匂い、指でページをめくる所作といった五感を喚起させる、ものとしての魅力に取り憑かれているからに違いない。だから菊地が愛おしそうに手や頬で撫でて紙を選ぶシーンには深く共感した。こうして丁寧にデザインされたものこそ、手に取った読者はきっと五感を満足させられるのだ。

©2019「つつんで、ひらいて」製作委員会

©2019「つつんで、ひらいて」製作委員会

本作のなかで、菊地はいろいろと印象的な言葉を残している。例えば「タイポグラフィーで全部デザインしたいくらい」と言う。確かに、本作で紹介された菊地の代表作の多くがタイポグラフィーを中心としたデザインだった。つまりそれはタイトルを伝えることに重きを置いた、究極の削ぎ落としのデザインとも言える。また「編集者が書く帯の文章で、装幀の骨格が決まる」とか「テキストと対話する」とも言い、文章から像を結ぶ能力が高い人なのだということをつくづく思い知った。何より私が感銘を受けたのは、「デザイン」を日本語に訳すとしたら「こさえる」と語っていたことだ。「こさえる」なんて表現をいまどき使うだろうか。もしかしたら死語に近いかもしれないこの言葉に、ある種の泥臭さや田舎臭さを感じる一方で、地に足の着いた心地良さや安心感をも抱く。こんな装幀家はもう次世代にはいない。だからいまの時代に出会えていることが嬉しい。



公式サイト:http://www.magichour.co.jp/tsutsunde

2020/01/06(月)(杉江あこ)

いただきます ここは、発酵の楽園

会期:2020/01/24~未定

UPLINK吉祥寺[東京都]

発酵と有機農業が1本の線でつながった。本作を観て、自分のなかで何かストンと腑に落ちる気がしたのである。私は自分の家で味噌や糠床を造る程度には、発酵食に親しんでいる。また無農薬・無肥料の米と野菜を定期購入もしている。つまり両者とも関心を持っていることは確かなのだが、なぜだか別々のものとして捉えている節があった。本作は「腸活エンターテイメント・ドキュメンタリー」と謳う、異色のドキュメンタリー映画だ。里山で園児自身が稲作や野草狩りを行ない、それらを用いた「野草給食」を軸に里山保育を実施する保育園をはじめ、書籍『奇跡のリンゴ』で有名な木村秋則や、「菌ちゃん先生」と呼ばれる吉田俊道らオーガニックファーマー、大学教授のインタビューや活動が紹介される。

©イーハトーヴスタジオ

本作が素晴らしいのは、その合間にアニメーションが挟まれていることだ。田畑と人間とが食物を通じて微生物でつながっていることを易しく表わすアニメーションである。愛らしい顔をした宇宙人のような姿の黄色い物体が微生物である。無数のその名も「菌ちゃん」が田畑の周りを飛び回る様子は、まさしく「ここは、発酵の楽園」をイメージさせる。いま流行りの腸活は、本来、人間の腸内だけで完結することではない。田畑に、いや地球上にいる微生物とつながってこそ成り立つのである。この目に見えない微生物を「菌ちゃん」という名でキャラクター化させていた点が良かった。

©イーハトーヴスタジオ

本作のアニメーションは、漫画『もやしもん』(石川雅之作)を思い出させた。菌が目に見えて会話もできるという主人公の農大キャンパスライフを描いた漫画である。同漫画でも菌が地球上のあらゆるところに存在し、さまざまな発酵食文化が育まれてきたことを教わった。こうして微生物や発酵に対して理解が徐々に深まると、バカらしく思えてくるのが除菌である。昨今は腸活ブームであると同時に、除菌ブームでもある。この両者が別次元で成り立っていること自体、人間のエゴを思わせてしかたがない。微生物と仲良く暮らすこと、それは太古から続いているサステナビリティの秘訣なのだ。



公式サイト:https://itadakimasu2.jp

2019/12/01(日)(杉江あこ)

試写『ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像』

名画をめぐるオークションの話はよくある。父と娘と孫の愛憎物語も珍しくない。でもその二つが絡み合う映画は見たことがなかった。時代に取り残された老画商が、オークションハウスで1点の肖像画に目を止める。サインはないが、もしかして、名のある画家の知られざる作品? そろそろ店じまいを考えていた画商は、最後に一花咲かせようと、この1点に賭ける。そのころ、音信不通だった娘から問題児の孫の世話を頼まれ、聞かん坊だが好きなことには夢中になる孫とともに、その絵の作者を調査。探し当てた作者は、ロシアの巨匠イリヤ・レーピンだった。しかし落札するにも金がない。画商は資金繰りに奔走し、とうとう孫の貯金にまで手を出してしまう。怒った娘は父と断絶……。

最後は父の死により家族のわだかまりは消え、物語としては丸く収まるのだが、なにか引っかかる。それはおそらく、老画商が芸術的価値を見抜く才能を持っているのに、それをあっさり金銭的価値に転換させてしまったことだ。もちろん画商は芸術的価値を金銭的価値に置き換えるのが商売だから、むしろそれをしないのは画商失格だが、しかしこの画商は作品がレーピンのものだと直感した瞬間から金の亡者と化してしまい、いかに金を集めるかばかりを考えてしまう。そうでなければ物語が進まないことはわかっているけれど、なんかこの主人公には共感できないなあ。

2019/11/06(水)(村田真)

Ando Gallery、「富野由悠季の世界」「高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの」「画業50年“突破”記念 永井GO展」

安藤忠雄の設計で5月に新設された第2展示棟(Ando Gallery)を見るために、久しぶりに兵庫県立美術館を訪れた。展示エリアには吹抜けと大階段もあり、想像以上に大きいスペースが増えている。パリやヴェネツィアのプロジェクト模型なども置かれ、東京やパリを巡回した個展の目玉の落ち着き先になったようだ。そして安藤がデザインした屋外オブジェの大きな『青りんご』は、いまや来場者が順番に撮影するフォト・スポットである。それにしても具象的な安藤の作品はめずらしい。



Ando Galleryの大階段から見上げた展示エリア



パリやヴェネツィアのプロジェクト模型



安藤忠雄のプロジェクト模型より



館内から眺めた、安藤忠雄の『青りんご』。撮影者が列をなしている


美術館では、じつは安藤と同じく1941年生まれの「富野由悠季の世界」展が開催されていた。最初の頃は驚いたが、いまやアニメに関連する展覧会が公立の美術館で行なわれることは当たり前になっているが、ただの作品紹介ではなく、これは国立近代美術館の「高畑勲─日本のアニメーションに遺したもの」展と同様、監督・演出家としての富野を紹介する企画であり、キュレーションがなされた内容だった。特に富野だけに、ヴィジュアルだけではなく、『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」や『伝説巨神イデオン』の「イデ」など、作品を貫く彼の概念=思想をひもとくことをうたっている。ともあれ膨大な資料を集めており、感心したのは、子供時代の絵や文章まで展示されていたことだ。また絵コンテなど、自ら描いたヴィジュアルが多いのも興味深い。



「富野由悠季の世界」展より。『無敵鋼人ダイターン3』の模型


一方で「高畑勲」展は、本人のスケッチがあまりないために、脚本や制作ノートを通じ、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)の重要性を振り返りつつ、高畑の監督・演出家としての姿勢が示されていた。1970年代の『アルプスの少女ハイジ』のオープニング映像にも服を脱いで走る場面があったが、遺作となった『かぐや姫』(2013)の疾走シーンは日本アニメにおけるひとつの到達点だったことがうかがえる。



「高畑勲」展より。『アルプスの少女ハイジ』のジオラマ模型


富野もまた膨大な作品を手がけているが、やはり1970年代末から80年代初頭のガンダムやイデオンが後世のSFアニメに大きな影響を与えたといえるだろう。ちなみに9月に上野の森美術館で「画業50周年“突破”記念 永井GO展」も鑑賞したが、ロボットものは永井豪が『マジンガーZ』(1972)を皮切りに、1970年代初頭にすでに開拓していたので、やはり富野の本領は、思想をもったSFとしてのアニメになるだろう。



「画業50周年“突破”記念 永井GO展」より。永井豪の仕事場を再現したコーナー

公式サイト:
富野由悠季の世界  https://www.tomino-exhibition.com/
高畑勲展—日本のアニメーションに遺したもの  https://www.tomino-exhibition.com/
画業50年“突破”記念 永井GO展  https://www.tomino-exhibition.com/


2019/10/20(月)

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アートのお値段

ポロックやウォーホル、バスキアの作品が100億円を超す高値で売買される現代。よく聞かれる疑問が、本当にそれだけの価値があるの? そもそも美術品に適正価格はあるの? ってこと。これに対する答えは、美術品(に限らないが)の価格は需要と供給の関係で決まるということだ。つまり、その作品を欲しい人が2人以上いれば価格はいくらでも上がるが、1人もいなければゼロに等しい。そしておそらく、2人以上がほしがる作品は全体の1パーセントにも満たず、大半の作品は値がつかないか、つけても売れないということだ。この極端な格差がごく一握りの作品を超高額に押し上げる一方、99パーセントのゴミを生み出している。これを聞いて思い出すのが、世界の富豪上位26人が有する資産の合計(約153兆円)が、下位半分(38億人)の資産とほぼ同額という統計だが、アートの世界はもっと極端かもしれない。

この『アートのお値段』は、高騰を続ける現代美術の価格と価値を巡るドキュメンタリー映画。そもそも現代美術の価格が高騰し始めたのは、日本のバブルがはじけてアートマーケットが縮小した90年代のこと。日本人が近代美術を買い漁って底をついたため、今度は作品がいくらでも供給できる現代美術にスライドしたというのだ。だれが? ごく一部のギャラリスト、オークショニア、コレクター、そしてアーティストだ。言ってみれば、アートマーケットは彼ら数十人のプレイヤーが動かすゲームみたいなもの。その最優秀プレイヤー(?)として登場するのが、広大なスタジオでスタッフに絵を描かせ、自分は指示を出すだけのアーティスト、ジェフ・クーンズであり、その対極として描かれるのが、かつてドットを使ったオプ・アートの旗手として名を馳せ、現在は郊外の一軒家で目の覚めるようなペインティングに取り組むラリー・プーンズ。その中間に位置するのがゲルハルト・リヒターだ。

『アートのお値段』というタイトルは身もふたもないが、原題は『THE PRICE OF EVERYTHING』で、これはオスカー・ワイルド著『ウィンダミア卿夫人の扇』のなかの「皮肉屋というのは、あらゆるものの値段を知っているけど、そのものの本当の価値を知らない人のことさ」というセリフから来ている。つまり価格と価値は別物だということであり、ここではクーンズは価格派、プーンズは価値派であり、リヒターは価値を重視しながら価格に乗る派、に分類できる。いずれにせよ、アートのお値段は芸術性とは関係ないということだが、実は無関係というだけでなく、美を感じる脳と欲望により活発化する脳とでは正反対の反応を示すと、精神科医でコレクターの高橋龍太郎氏はパンフレットのなかで指摘する。どうやら価値(美)と価格(欲望)は別物どころか、対極に位置しているらしい。なんとなくアートマーケットに感じていたモヤモヤ感が、少しすっきりした。

この映画でもうひとつおもしろかったのは、プーンズのほか、美術評論家のバーバラ・ローズやギャラリストのメアリー・ブーンなど、1970-80年代に活躍した過去の人たちが登場すること。もっとも、すっかり別人のようになったメアリー・ブーンはつい最近、脱税で捕まって名前が出たばかりだが。新表現主義をマーケットに乗せた彼女も、結局「アートのお値段」に振り回されたのか。

公式サイト:http://artonedan.com/

2019/09/22(日)(村田真)

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