2020年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」

会期:2019/12/07~2020/01/18

EFAG East Factory Art Gallery[東京都]

百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」は三つの映像作品で構成されていた。《Jokanaan》は二面スクリーンの作品で、一面にはシュトラウスのオペラ「サロメ」の一場面を踊る男性ダンサー(武本拓也)が、もう一面にはモーションキャプチャーで男性ダンサーと同じように踊るCGの(陶器像のようなテクスチャーの)少女が映し出される。だが、両者の動きは次第に乖離していき、サロメというモチーフも相まって、虚構の存在であるはずの少女が場を支配していくかのようである。

興味深かったのは、両者の体の動きが次第に乖離していくのに対して、顔の表情は最初から一致していなかった点だ。顔の表情をトレースしてCGに反映する技術も存在するが、今回のモーションキャプチャーは体の動きだけを対象としていて、顔の表情はその範囲外だった。するとあの場を支配していたのは男でも少女でもなく振付だったのだと言ってみたくなる。外部からの指示によって動かされる体と、その動きが呼び起こす情動。顔は唯一許された自由の場だ。曲が終わりに近づくと少女は操り人形のように奇妙に捻れながら崩れ落ち、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てた男もまた床に横たわる。振付が尽きたとき、二人には動くためのモチーベーションは残されていない。

《Social Dance》はろうの女性とその恋人である男性の手話による対話を映した作品。彼女は恋人の過去の言動を責め、男は彼女をなだめようとしながらもときに強い調子で反論する。激昂する彼女の手を男が取るとき、「愛」と暴力は一体のものとなる。親密な接触が言葉を奪う。

ところで、残念ながら私は手話を解さない。二人のやりとりの内容は画面中央に映し出される日本語と英語の字幕によってしか知ることができない。だが例えば「だって私が介入すると/You got angry」で彼女の言葉が遮られたとき、彼女の手話は日本語英語どちらの内容に対応していたのだろうか。言葉はすぐに再開され、文全体としては日本語と英語とで意味の違いはないことがわかる。しかし彼女は「私が介入すると」と「あなたは怒る」のどちらを先に伝えていたのか。日本語で示されていた「私が介入すると」の方だろうとなんとなく思ってしまうのだが(しかも日本語字幕は英語字幕の上に表示されている)、映像では彼女の頭部はフレームアウトしており、外見から話している言語を推測することはできない(いや、そんなことはそもそも不可能なのだが)。作品に英語タイトルが付されていることから考えれば、むしろ英語の方が主なのだと考えるのが妥当かもしれない。あるいは彼女はまったく別のことを話していて、そもそも二人は喧嘩などしていないという可能性もある。

《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》はカメラ=鑑賞者の方を向いた女性がひたすらにまばたきをし続ける作品。女性は初めのうちは落ち着いた様子でゆっくりとまばたきしているが、7分弱の映像のなかでだんだんと顔は歪み、その調子は激しい(あるいは苦痛に満ちた?)ものになっていく。まばたきはモールス信号でI can see youと発しているらしいのだが、手話と同じくモールス信号も解さない私がそれを知っているのは、会場で配布されていたハンドアウトにキュレーターによるそのような記述があったからでしかない。だが、I can see youというメッセージは誰から誰へと向けられたものなのか。それが作品のタイトルにもなっていることを考えれば、画面に映る彼女から鑑賞者へと向けられたメッセージだろうか。だが、彼女から鑑賞者が見えるわけもなく、すると「私にはあなたが見えます」という言葉は端的に嘘になってしまう。作品鑑賞の場において「私にはあなたが見えます」という言葉が正しく成立するのはそれが鑑賞者から彼女に向けられたときだけだ。だが、それは本当だろうか。彼女は確かに見えている。しかし「解説」を読んだ私は彼女の「モールス信号」を自ら解読する努力を放棄してしまった。いや、そもそもあれは本当にモールス信号だったのか。私は本当に彼女を見ていたか。タイトルの裏に潜んだDo you see me?という問いかけは展示全体へと敷衍される。


公式サイト:http://ayamomose.com/icanseeyou/?ja

2020/01/20(月)(山﨑健太)

シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢

幻想建築の系譜で語られ、シュルレアリスムの文脈で賞賛され、アウトサイダー・アートの先駆にも位置づけられる、郵便配達夫シュヴァルの理想宮。たった1人で、33年の歳月をかけて完成させた奇想の宮殿の誕生秘話をドラマチックに描いた映画。

南仏の小村で郵便配達をしていた寡黙な偏屈親父シュヴァルが、途方もない宮殿建設を始めたのは、後妻のあいだに娘が生まれて間もない40歳を過ぎたころ。配達の途中で石につまづいて倒れたのがきっかけで、石を集め始めた。以後、毎日30キロ以上を歩く配達の仕事が終わってから、さらに数キロ歩いて石を拾っては積み上げ、奇想天外、前代未聞の建物を営々と築いていく。もちろん建築の知識などあろうはずもなく、雑誌や絵葉書で見た世界中の建築を想像でつなぎ合わせ、野山を歩くなかで培った自然の力にゆだねてつくり上げていったのだ。村人には変人扱いされたが意に介さず、憑かれたように没頭した。ここらへんがアウトサイダー・アートたるゆえんだ。

溺愛していた娘が若くして亡くなり深く悲しむが、代わりに前妻とのあいだにもうけた息子が大人になって訪ねてきて、一家で近くに住み始める。このころから“宮殿”は徐々に知られるようになり、シュヴァルを変人扱いしていた村人の態度も軟化。しかし、宮殿が完成するころ息子が亡くなり、やがて後妻にも先立たれてしまう。シュヴァルはさらに長生きして家族の墓廟をつくり、88歳の長寿をまっとうした。

映画は事実に基づいているものの、脚色も多い。例えば、シュヴァルは愛娘のために「宮殿」を建てたように描かれているが、果たしてそうだろうか。また、前半ではシュヴァルが奇人変人として描かれているのに、後半では家族に愛され、村人に尊敬される好々爺に収まってしまったことにも違和感を覚える。シュヴァルはそんな小さなコミュニティに収まるような器ではないだろう。娘がどうなろうが、村民にどう思われようがどこ吹く風、ひたすらつくり続けただろうし、最後まで偏屈・変人だったと思いたい。そうでなければあんな夢(悪夢?)のような宮殿はつくれないはずだ。希代の偉業を陳腐な美談に仕立ててしまったのがちょっと残念。


公式サイト:https://cheval-movie.com/

2020/01/13(月)(村田真)

つつんで、ひらいて

会期:2019/12/14~未定

シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開[東京都]

彼の仕事はまさに工芸に近かった。本作は1万5千冊もの本の装幀を手掛けた菊地信義を追ったドキュメンタリー映画だ。驚いたのは、現代においても未だにすべて手作業でデザインしていることだった。もちろんコンピューターを操作するスタッフが側にいるので、菊地の指示のもと、最終的にはDTPで入稿データを作成しているのだろうが、彼女はあくまでもオペレーターの役目にすぎない。デザインの過程は手作業なのだ。ラフスケッチを描いた後、活字を見つけてきて、レタリングし、コピーを取り、ときにはトレスコープ(紙焼き機)を駆使し、ハサミで文字を切り抜き、ピンセットで切り抜いた文字をつまんで並べて貼っていく。その一連の手作業を、私は駆け出しの頃に辛うじて見たことがあるが、いまの現役世代の多くは知らないのではないか。

でもなぜだか、本の装幀にはこの工芸的な手作業が似合うように思えた。インターネット情報や電子書籍が台頭し、紙の本がアナログ媒体の権化のようになったからだろうか。こんな時代においても紙の本を求めるのは、やはり紙の手触りや風合い、匂い、指でページをめくる所作といった五感を喚起させる、ものとしての魅力に取り憑かれているからに違いない。だから菊地が愛おしそうに手や頬で撫でて紙を選ぶシーンには深く共感した。こうして丁寧にデザインされたものこそ、手に取った読者はきっと五感を満足させられるのだ。

©2019「つつんで、ひらいて」製作委員会

©2019「つつんで、ひらいて」製作委員会

本作のなかで、菊地はいろいろと印象的な言葉を残している。例えば「タイポグラフィーで全部デザインしたいくらい」と言う。確かに、本作で紹介された菊地の代表作の多くがタイポグラフィーを中心としたデザインだった。つまりそれはタイトルを伝えることに重きを置いた、究極の削ぎ落としのデザインとも言える。また「編集者が書く帯の文章で、装幀の骨格が決まる」とか「テキストと対話する」とも言い、文章から像を結ぶ能力が高い人なのだということをつくづく思い知った。何より私が感銘を受けたのは、「デザイン」を日本語に訳すとしたら「こさえる」と語っていたことだ。「こさえる」なんて表現をいまどき使うだろうか。もしかしたら死語に近いかもしれないこの言葉に、ある種の泥臭さや田舎臭さを感じる一方で、地に足の着いた心地良さや安心感をも抱く。こんな装幀家はもう次世代にはいない。だからいまの時代に出会えていることが嬉しい。



公式サイト:http://www.magichour.co.jp/tsutsunde

2020/01/06(月)(杉江あこ)

パラサイト 半地下の家族

飛行機の中でポン・ジュノ監督の映画『パラサイト』を鑑賞した。もっとも、後から映画のスクリーンに合わせて、美術監督が豪邸の空間を設計したことを知り、映画館でも見たくなった。途中から出てくる、異様な地下空間はさすがにセットだと思っていたが、どうやら地上部分もセットだったらしい。ちなみに、シャンデリアなどのアイテムによって豪華さを示すのではなく、建築雑誌に登場するような大きなガラス張りのリビングなど、モダンなデザインによって高級さが演出されている。韓国映画やドラマは、冬ソナ・シリーズをはじめとして、『私の頭の中の消しゴム』 、『イルマーレ』 、『建築学概論』など、しばしば建築や建築家が重要な役割を占めているが、本作ももうひとつの主役は、金持ちの住宅と貧乏人の半地下の住処ということになるだろう。前者はそれぞれが個室に分かれ、家族はバラバラであるのに対し、後者はほとんどプライバシーを獲得することができないものの、助けあう家族のイメージを空間で体現している。

興味深いのは、お手伝いというポジションが重要な位置づけになっていることだ。なるほど、その家の施主でもないし、家族の一員でもない他者でありながら、もっとも密接に住宅に関わる職業である。そして日中、家族が外に出かけているときも、家で作業をしている。実際、『パラサイト』において、家政婦は建築家が設計した住宅の秘密を知っており、その家の特殊ルールを決めたり、家族に大きな影響を与えるなどして、住宅という空間を影で支配していた。レム・コールハースが設計したボルドーの家を題材としたドキュメンタリー映画『コールハウス・ハウスライフ』でも、もはや住人が暮らしていないために、家政婦が主役だった。亡くなった主人の思い出を語る墓守のようでもあり、常に掃除という行為を通じて、住宅のあらゆる表面を触っている。特に空間の特徴に対して定型化された所作は、ほとんどコレオグラフィーに近い。こうした家政婦の重要性も、豪邸ならではかもしれない(ドラマ「家政婦は見た!」を想起せよ)。それにしても、『パラサイト』の終盤の激しい展開は予想できない。ここで抑圧された階級差や、隠された空間の分節が突如むきだしとなり、凄まじいカタルシスを迎える。

2020/01/04(土)(五十嵐太郎)

いただきます ここは、発酵の楽園

会期:2020/01/24~未定

UPLINK吉祥寺[東京都]

発酵と有機農業が1本の線でつながった。本作を観て、自分のなかで何かストンと腑に落ちる気がしたのである。私は自分の家で味噌や糠床を造る程度には、発酵食に親しんでいる。また無農薬・無肥料の米と野菜を定期購入もしている。つまり両者とも関心を持っていることは確かなのだが、なぜだか別々のものとして捉えている節があった。本作は「腸活エンターテイメント・ドキュメンタリー」と謳う、異色のドキュメンタリー映画だ。里山で園児自身が稲作や野草狩りを行ない、それらを用いた「野草給食」を軸に里山保育を実施する保育園をはじめ、書籍『奇跡のリンゴ』で有名な木村秋則や、「菌ちゃん先生」と呼ばれる吉田俊道らオーガニックファーマー、大学教授のインタビューや活動が紹介される。

©イーハトーヴスタジオ

本作が素晴らしいのは、その合間にアニメーションが挟まれていることだ。田畑と人間とが食物を通じて微生物でつながっていることを易しく表わすアニメーションである。愛らしい顔をした宇宙人のような姿の黄色い物体が微生物である。無数のその名も「菌ちゃん」が田畑の周りを飛び回る様子は、まさしく「ここは、発酵の楽園」をイメージさせる。いま流行りの腸活は、本来、人間の腸内だけで完結することではない。田畑に、いや地球上にいる微生物とつながってこそ成り立つのである。この目に見えない微生物を「菌ちゃん」という名でキャラクター化させていた点が良かった。

©イーハトーヴスタジオ

本作のアニメーションは、漫画『もやしもん』(石川雅之作)を思い出させた。菌が目に見えて会話もできるという主人公の農大キャンパスライフを描いた漫画である。同漫画でも菌が地球上のあらゆるところに存在し、さまざまな発酵食文化が育まれてきたことを教わった。こうして微生物や発酵に対して理解が徐々に深まると、バカらしく思えてくるのが除菌である。昨今は腸活ブームであると同時に、除菌ブームでもある。この両者が別次元で成り立っていること自体、人間のエゴを思わせてしかたがない。微生物と仲良く暮らすこと、それは太古から続いているサステナビリティの秘訣なのだ。



公式サイト:https://itadakimasu2.jp

2019/12/01(日)(杉江あこ)

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