2020年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

ダムタイプ 新作パフォーマンス『2020』上映会

会期:2020/10/16~2020/10/18

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

18年ぶりのダムタイプの新作として今年3月に上演予定されるも、コロナ禍で直前に中止となった『2020』。無観客で収録、編集した映像が、収録場所と同じホールで上映された。

冒頭、暗闇のなか、ライトが振り子のように左右に揺れ続ける。前作『Voyage』(2002)のシーンを直ちに想起させるこの導入は、18年の歳月の隔たりを埋めて前作との連続性やバトンタッチを示唆する仕掛けだ。舞台中央を円周状に進みながら静謐なダンスシークエンスを展開する女性パフォーマー。静謐な所作と次第に増幅する電子音、そして轟音のなかで波しぶき/吹雪のように乱舞する白い光の嵐。暴力性と美しさが拮抗に達したとき、その床面を飲み込むかのような巨大な皆既日食の影が落ち、正方形の深い「穴」が舞台中央に残される。この穿たれた「穴」の周囲で本作は展開する。



[撮影:井上嘉和]


男性中心主義からの脱却、「テクノロジーとの融合」に加えコロナ禍の予言的ですらある「まばたきによるコミュニケーション」のシーンを経由して、人間中心主義への決別と未知の生物との融合・変態へ。本作の構造はこのように要約できるだろう。匿名的で均質的なスーツを着た5人のパフォーマーが登場し、足を広げて座る、腕組みなど「男性的」なポーズとともに苛立ちを募らせていく。「穴」と呼応するような正方形のスクリーンで顔を遮断された彼らは、ひとり、またひとりとスクリーンの手前に現われ、スーツを穴の中へ脱ぎ捨てると、カラフルなワンピースやスカートがその下から姿を現わす。監視カメラのモノクロ映像をグリッド状に映していたスクリーンは、トランプ、プーチン、習金平のモザイク画像に変貌する。図式的だが、記号化された男性の抑圧性、攻撃性、匿名性から、女性と個人としての解放が提示される。

また、2019年3月に行なわれたワークインプログレス公演で披露された3つのシーンのうち、「まばたきによる会話」のみが最終的に採用された。水着姿の2人の女性パフォーマーが横たわり、顔のアップがスクリーンにライブ投影される。まばたきに合わせ、一音ずつ区切った録音音声が流れ、「さみしい」「いいわけ」「さようなら」など心情や挨拶などコミュニケーションに関わる単語が星座のように浮遊する。「これが、コミュニケーションのさいしん」というメタな台詞は、コロナ禍への予言とともに、機械による身体機能の拡張を示す。



[撮影:井上嘉和]


ラストシーンでは、電子音と映像の競演のなか、白い全身タイツに身を包んだパフォーマーが、仰向けの体勢でゆっくりと四肢をくねらし、性別、人間/軟体動物の境界すら超えた未知の生物の目覚めを目撃するかのようだ。彼女が背中から穴の中へダイブする幕切れは、『S/N』(1994)のそれを反復する。セクシュアリティ、人種、国籍、障害といった分類のラベルや境界とその暴力性、HIV+と国家による性の管理や統制について問う『S/N』において、「壁の上から向こう側へ落下」するパフォーマーたちの身体は、「銃殺/向こう側への命懸けの逃走や境界の越境」を体現し、絶望と希望が同居する両義性に満ちていた。一方、本作は、「人間(中心主義)への決別」という終末的トーンが漂う。



[撮影:井上嘉和]


このように、冒頭とラストでそれぞれ過去作の象徴的なシーンを「引用」した本作は、「洗練された音響や映像と身体パフォーマンスの融合」という既存の「ダムタイプ」像を良くも悪くも超え出て更新するものではなかった。ただ、ラストシーンに初参加の若い世代(アオイヤマダ)を起用した点には、「世代交代」「新陳代謝」の意図も読み取れる。本来は、大型フェスティバル「KYOTO STEAM─世界文化交流祭─2020」のプログラムの目玉として予定されていた本作。プロデューサー主導の流れではなく、メンバー自身の自発的な創作動機や更新となるかは、むしろ今後の展開にかかっている。

関連レビュー

ダムタイプ 新作ワークインプログレス 2019|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年04月15日号)

2020/10/17(土)(高嶋慈)

草野なつか監督『王国(あるいはその家について)』

会期:2020/09/11

新文芸坐[東京都]

2020年9月11日、草野なつか監督による映画『王国(あるいはその家について)』(脚本:高橋知由、以下『王国』)が新文芸坐で上映され、同時に上映開始の19時より24時間限定で有料の「上映同時間配信」が行なわれた。コロナ禍もあって演劇公演の有料配信は増えているが、映画でこのような試みがなされるのは珍しい。新文芸坐はTwitterアカウントで、劇場での上映と配信とでは主催者が違うため「劇場の儲けが減ってしまう可能性がある」「今回の配信は物議を呼ぶかもしれません」としつつ「配給会社を持たない優れたインディー作品の可能性を広げるためにも挑戦したいと思」ったのだと言い、「併せて劇場鑑賞の良さも再認識していただれば幸いです」と発信している。かく言う私も配信があったことでこの映画を観ることができた観客のひとりだ。

『王国』はもともと2016年度愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品として製作され、17年に64分版として発表された作品。その後、19年の第11回恵比寿映像祭で150分の再編集版が上映され、以降、150分版が三鷹SCOOLや新文芸坐で上映され、あるいは映画配信サービスMUBIで限定配信されてきた。英国映画協会により2019年の優れた日本映画の1本にも選ばれている。

休職し数日間の帰省をしている亜希(澁谷麻美)は幼なじみの野土香(笠島智)とその夫でサークルの先輩でもある直人(足立智充)夫婦の新居を訪れる。娘・穂乃香の相手をしているうちに彼女は亜希に懐くが、ある台風の日、亜希は穂乃香を橋から投げ落として殺害してしまう──。

物語はしかし、通常の映画のようには描かれない。亜希が穂乃香の殺害に至るまでのいくつかの場面は、稽古場のような場所で台本を手にした役者たちによって演じられ、しかもそれはリハーサルのように何度も繰り返されるのだ。

この映画は「役者たちの変化の過程」を捉えた作品なのだと紹介されることがある。なるほど、確かに映し出されるリハーサルらしきやりとりのなかで役者は徐々に台本を手にする頻度が減り、周囲の様子も稽古場然とした場所から「実際の」ロケーションへと変化しているようにも思える。だが、そこには本当に「役者たちの変化の過程」が映し出されているのだろうか。リハーサルは「物語」の時間軸に沿っては進んでいかない。同じ場面の異なる回のリハーサルがワンカットに収められているわけではないため、ある一回のリハーサルとまた別の回のリハーサルの前後関係も(カチンコによって数字が示される場合を除けば)観客にはわからない。そもそも、映画というのは完成時の場面の順序に沿って撮影することの方が珍しい。だから、観客が見るのは現実の時間経過に伴う「変化の過程」というよりむしろ、無数のバリエーションとしての変化ということになるだろう。

この作品が供述調書をその内容確認のために読み上げる場面からはじまっていることは示唆的だ。犯罪の容疑者となった人物は取調べから裁判へと至る過程で同じ内容を繰り返し供述させられることになる。その繰り返しは供述調書へと収斂し、内容確認のため「他人」である取調官によって読み上げられたのち、本人によってその内容が承認されることで「真実」として扱われる。だが、亜希と取調官とのやりとりからは、そこに記された内容が必ずしも真実を示すものだとは限らないということも見えてくるのだった。

リハーサルの場面はこの供述調書の内容確認場面に続いて始まる。演じられるのは取り調べよりも前、亜希がほのかを殺害するに至る過程にあたるいくつかの場面だが、すでに供述調書の内容を知っている観客にとってそれは、すでに起きた犯罪の再現ドラマのようでもある。

まるで供述調書を台本にしたようなリハーサルは、その一回一回が異なる回の供述をもとにしているかのように、少しずつ違ったニュアンスを帯びている。少しずつ異なるリハーサルの様子はむしろ、そのどれもが真実であると主張するかのようであり、唯一絶対の真実というフィクションは揺らいでいる。

事件に至る一連の出来事と記憶の反芻としての証言、そして供述調書。映画の台本と繰り返されるリハーサル、そして完成形としてのフィルム。パラレルな両者の関係はしかし、取り調べにおいて最終的なアウトプットであるところの供述調書と映画撮影のスタート地点である台本とが擬似的なイコールで結ばれることで奇妙な循環を生み出すことになった。供述調書も完成形のフィルムもあり得た帰結のひとつの可能性に過ぎない。供述調書へと収斂した真実は再び無数の真実へと発散していく。唯一の真実に至ることは不可能だ。


公式Twitter:https://twitter.com/domains_movie
草野なつかTwitter:https://twitter.com/na2ka

2020/09/11(金)(山﨑健太)

ライフ・イズ・カラフル! 未来をデザインする男 ピエール・カルダン

会期:2020/10/02〜

Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開[東京都ほか]

「世界でもっとも知られたフランス人」といった発言が本作のなかで聞かれたが、あながちそれは嘘ではないと思う。誰かと言えば、ピエール・カルダンである。日本をはじめ世界中で、ファッションに疎い人でも多くの人々がその名を知っている。なぜならピエール・カルダンはライセンスビジネスでもっとも成功したファッションブランドだからだ。現在、それは世界110カ国で展開されているという。それまで誰も手を出さなかったライセンスビジネスを初めて導入したことから、関係者からは「パンドラの匣を開けた」とも揶揄される。しかしその後、多くのファッションブランドが後塵を拝す結果となるのだ。

©House of Cardin - The Ebersole Hughes Company

本作は、2020年にブランド創立70周年を迎えるピエール・カルダンの伝記的ドキュメンタリーで、過去の記録映像やさまざまな関係者からの独白によって構成されている。ピエール・カルダンの明るくポップな世界観に沿うように、映像のテンポも非常に小気味いい。かつてデザインチームの一員だったジャン=ポール・ゴルチエや、インテリアデザインとプロダクトデザインを担当したフィリップ・スタルクといったいまや大御所のデザイナーから、ナオミ・キャンベルやシャロン・ストーンらトップモデルや女優、そして日本からは森英恵や桂由美、高田賢三らがインタビューに答える。なんやかやとピエール・カルダンは周囲から愛された人物だったことが浮かび上がる。

©House of Cardin - The Ebersole Hughes Company

物心がついた頃から私にとって、ピエール・カルダンといえばタオルに付いたロゴだった。そのイメージがずっと刷り込まれ、今日に至っている。だから「モードを民主化した天才デザイナー」とキャッチコピーにあるが、どちらかと言うと「大衆化」の表現の方がぴったりくるのではないか。いずれにしろピエール・カルダンが「私の目標は一般の人の服を作ることだ」と宣言し、プレタポルテで功績を残したことは大きい。ライセンスビジネスによりブランドが大衆化されすぎて、真のファッション性を私はよく理解していなかったが、ピエール・カルダンを象徴するコスモコール(宇宙服)ルックは未来的で、斬新で、ややユニセックスで、いま改めて見てもおしゃれである。LVMHなどの巨大コングロマリットとはまったく異なる手法で、ファッションの楽しさを大衆に与えたことはもっと賞賛されるべきだろう。

©House of Cardin - The Ebersole Hughes Company



公式サイト:https://colorful-cardin.com

2020/08/25(火)(杉江あこ)

バウハウス100年映画祭『バウハウス 原形と神話』

会期:2020/08/08~2020/08/28(※)

東京都写真美術館ホール[東京都]

2019年にドイツの造形学校バウハウスが誕生100年目を迎え、2019年から2020年にかけて、数々の展覧会とともに開催されたのが、この「バウハウス100年映画祭」である。合計5本のプログラムが公開され、私も『バウハウス 原形と神話』『ニュー・バウハウス』の2本を観た。ここでは主に『バウハウス 原形と神話』について述べたい。当時の記録映像や元学生たちの証言などによって構成された本作を鑑賞し、また併せて本作のパンフレットも参照すると、そもそもバウハウスとは何だったのかという“原形”がまさに見えてきた。本作中で元学生たちは口を揃えてこう言う。「私たちは世界を変えると信じていた」。この自負はいったい何なのだろうと思ったが、そこには第一次世界大戦直後のドイツの社会状況が大きく関わっていたようだ。

『バウハウス 原形と神話』

歴史を紐解くと、大戦末期の1918年11月にドイツ革命が起こり、皇帝が退位してドイツ共和国が発足し、戦争が終結した。1919年1月、社会民主党左派のスパルタクス団がドイツ共産党と改称し、社会主義革命を目指して武装蜂起するが、政府に弾圧されて失敗に終わる。そして同年2月、穏健な議会制と資本主義経済を掲げたヴァイマール共和国が成立する。そのヴァイマール憲法が発布されることになる地、ヴァイマールに同年4月、バウハウスは誕生した。初代校長を務めた建築家のヴァルター・グロピウスは、失敗に終わった社会主義のユートピアを学校に持ち込んだのではないかと指摘されている。それゆえに、あの「サロン芸術」を否定するバウハウス宣言があるのかと納得した。本作で、周囲から学生たちはヒッピーのように思われていたという発言もあり、やはり旧来の社会制度から解き放たれた革新的な風土が学内にはあったようだ。

『バウハウス 原形と神話』

しかし革新的であればあるほど、その後、台頭する右派のナチスから批判を受ける運命となる。右派勢力から逃れるようにヴァイマールを離れてデッサウへ移転し、さらに私立学校としてベルリンで再開するものの、1933年にバウハウスは閉校となってしまう。もちろんバウハウスの教師や学生たちの運命がさまざまであったことは確かだ。ナチスから迫害を受け、若くして命を落とした学生たちが多くいる一方、アウシュビッツ強制収容所の施設建築に携わった学生もいる。ナチスに入党あるいは協力した教師もいれば、米国などへ逃亡した教師もいる。このように時代の波に翻弄された様子も、本作では明かされていく。「芸術への関心、それだけで革命だった。全ては新しくて過去の自分は無に感じた」。若者がこんな風に、芸術分野において目を輝かせて本気で言うほど、革命的なことがあるだろうか。これこそがバウハウスの真髄なのだろう。



公式サイト:https://trenova.jp/bauhaus/
※「バウハウス100年映画祭」は、今後、10月31日~11月13日に下高井戸シネマ、11月7日〜20日に横浜シネマリンほか全国公開予定。

2020/08/21(金)(杉江あこ)

13th ─憲法修正第13条─

相次ぐ白人警官による黒人への暴力に対して、BLM(Black Lives Matter)運動の人種差別抗議が大きく再熱するアメリカ。本作は、奴隷制廃止以降も現代に至るまで、黒人の大量投獄とそれを支える法制度や巨大な刑務所ビジネスによって、「見えない奴隷制度」と差別構造がアメリカ社会で温存されてきたことを鋭く問題提起するドキュメンタリー映画である(2016年製作、Netflixで公開中)。黒人のジャーナリストや研究者、活動家、弁護士、教育者、議員らの発言と膨大な映像資料を織り交ぜながら、アメリカの政治・経済・法制史を「奴隷制度の構造的温存」の観点から検証していく。その鍵となるのが、タイトルの「合衆国憲法修正第13条」である。

合衆国憲法は奴隷的拘束の禁止を規定しているが、「例外として、犯罪者は適用外」とする修正第13条が、抜け穴として利用されてきた。南北戦争後、貧困層の解放奴隷が不当に大量収監され、刑務所内での労働に従事させられ、受刑者の貸出制度というかたちで奴隷制が温存された。また、南部諸州で、黒人を二級市民化し、交通機関や病院、学校など公共施設の利用を禁止・制限する人種隔離制度を合法化したのが、ジム・クロウ法である。ジム・クロウ法は1964年に撤廃されたが、公民権運動への反動として、「法と秩序」「犯罪との戦争」をスローガンに、人種問題を犯罪問題にすり替えたのがニクソンである。こうして1970年代から黒人の大量投獄が始まり、80年代にはレーガンの提唱した「麻薬戦争」が追い打ちをかけた。白人/黒人は、使用する麻薬の種類(コカイン/クラック)でも量刑が差別化され、人種間の戦争の代理戦争としての麻薬戦争により、黒人受刑者の大量化を招いた。この事態は、黒人犯罪者への憎悪感情を選挙キャンペーンに使ったブッシュ、重罪3回で終身刑とする「スリーストライク法」によって厳罰化を推進したクリントンを経て、「法と秩序」を再び提唱したトランプ政権下へと至る。一生涯で投獄される可能性は、白人男性が17人に1人であるのに対し、黒人男性は3人に1人であり、人口の6.5%にもかかわらず、受刑者数の40.2%を占めるというデータが示される。監視下の黒人の数は、1850年代の奴隷の数より多いという。

こうした大量投獄を支えるのが、肥大化した刑務所ビジネスだ。その背後には、ALEC(American Legislative Exchange Council)というロビー団体の存在があり、企業が立法を左右していることが指摘される。ALECに加盟した銃の大手販売会社や民間刑務所運営会社によって、受刑者の安定供給につながる法律が提案されてきた。実態は刑務所である移民収容施設の急増につながる移民法もそこに含まれる。刑務所ビジネスは、刑務所運営会社に加え、電話、食事サービス、医療サービスなど周辺企業を含む巨大な企業複合体であり、受刑者=安い労働力として搾取する多種多様な製造業も密接に絡んでいる。刑務所内では、社会復帰に役立つ活動はほとんど行なわれず、ローンや就職など出所後もさまざまな社会的制約があり、「アメリカでは罪の償いに終わりがない」。

このように本作は、現在の産獄複合体が奴隷制の歴史の上に成立していること、抑圧的制度は時代に合わせて姿を変えて残存していること、問題の根は過去の歴史の不十分な総括にあることを示した上で、あとを絶たない白人警官による残忍な暴力とBLM運動の希望について最後に語る。「射殺された黒人の死体を見せるべきか」という議論には、「黒人はすでに知っているので、見る必要はない」という意見も紹介しつつ、遺族の承認を経た上で、メディアを通して黒人の経験が共有されることの意義を認める。「BLM運動は社会現象だから拳銃で止められない」「黒人は『例外』ではなく、人間の尊厳についてこの国の意識を変える」という希望が、自由を謳い上げるラップとともにラストで提示される。

膨大な映像を引用し、当事者自身の語りによって検証や告発を積み重ねる作品構造は、同じくNetflixで公開中のドキュメンタリー映画『Disclosure トランスジェンダーとハリウッド』とも共通する。もちろん、「黒人」と「トランスジェンダー」を切り分けることはできないが(『Disclosure』が中心的に扱うのは、黒人トランス女性の表象である)、『13th』は法制度と経済という現実の政治において、『Disclosure』は表象という別の政治空間において、それぞれ差別や偏見が再生産される構造を鋭く抉り出し、相補的な関係にある。


公式サイト:https://www.netflix.com/title/80091741

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