2019年11月15日号
次回12月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

Ando Gallery、「富野由悠季の世界」「高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの」「画業50年“突破”記念 永井GO展」

安藤忠雄の設計で5月に新設された第2展示棟(Ando Gallery)を見るために、久しぶりに兵庫県立美術館を訪れた。展示エリアには吹抜けと大階段もあり、想像以上に大きいスペースが増えている。パリやヴェネツィアのプロジェクト模型なども置かれ、東京やパリを巡回した個展の目玉の落ち着き先になったようだ。そして安藤がデザインした屋外オブジェの大きな『青りんご』は、いまや来場者が順番に撮影するフォト・スポットである。それにしても具象的な安藤の作品はめずらしい。



Ando Galleryの大階段から見上げた展示エリア



パリやヴェネツィアのプロジェクト模型



安藤忠雄のプロジェクト模型より



館内から眺めた、安藤忠雄の『青りんご』。撮影者が列をなしている


美術館では、じつは安藤と同じく1941年生まれの「富野由悠季の世界」展が開催されていた。最初の頃は驚いたが、いまやアニメに関連する展覧会が公立の美術館で行なわれることは当たり前になっているが、ただの作品紹介ではなく、これは国立近代美術館の「高畑勲─日本のアニメーションに遺したもの」展と同様、監督・演出家としての富野を紹介する企画であり、キュレーションがなされた内容だった。特に富野だけに、ヴィジュアルだけではなく、『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」や『伝説巨神イデオン』の「イデ」など、作品を貫く彼の概念=思想をひもとくことをうたっている。ともあれ膨大な資料を集めており、感心したのは、子供時代の絵や文章まで展示されていたことだ。また絵コンテなど、自ら描いたヴィジュアルが多いのも興味深い。



「富野由悠季の世界」展より。『無敵鋼人ダイターン3』の模型


一方で「高畑勲」展は、本人のスケッチがあまりないために、脚本や制作ノートを通じ、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)の重要性を振り返りつつ、高畑の監督・演出家としての姿勢が示されていた。1970年代の『アルプスの少女ハイジ』のオープニング映像にも服を脱いで走る場面があったが、遺作となった『かぐや姫』(2013)の疾走シーンは日本アニメにおけるひとつの到達点だったことがうかがえる。



「高畑勲」展より。『アルプスの少女ハイジ』のジオラマ模型


富野もまた膨大な作品を手がけているが、やはり1970年代末から80年代初頭のガンダムやイデオンが後世のSFアニメに大きな影響を与えたといえるだろう。ちなみに9月に上野の森美術館で「画業50周年“突破”記念 永井GO展」も鑑賞したが、ロボットものは永井豪が『マジンガーZ』(1972)を皮切りに、1970年代初頭にすでに開拓していたので、やはり富野の本領は、思想をもったSFとしてのアニメになるだろう。



「画業50周年“突破”記念 永井GO展」より。永井豪の仕事場を再現したコーナー

公式サイト:
富野由悠季の世界  https://www.tomino-exhibition.com/
高畑勲展—日本のアニメーションに遺したもの  https://www.tomino-exhibition.com/
画業50年“突破”記念 永井GO展  https://www.tomino-exhibition.com/


2019/10/20(月)

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アートのお値段

ポロックやウォーホル、バスキアの作品が100億円を超す高値で売買される現代。よく聞かれる疑問が、本当にそれだけの価値があるの? そもそも美術品に適正価格はあるの? ってこと。これに対する答えは、美術品(に限らないが)の価格は需要と供給の関係で決まるということだ。つまり、その作品を欲しい人が2人以上いれば価格はいくらでも上がるが、1人もいなければゼロに等しい。そしておそらく、2人以上がほしがる作品は全体の1パーセントにも満たず、大半の作品は値がつかないか、つけても売れないということだ。この極端な格差がごく一握りの作品を超高額に押し上げる一方、99パーセントのゴミを生み出している。これを聞いて思い出すのが、世界の富豪上位26人が有する資産の合計(約153兆円)が、下位半分(38億人)の資産とほぼ同額という統計だが、アートの世界はもっと極端かもしれない。

この『アートのお値段』は、高騰を続ける現代美術の価格と価値を巡るドキュメンタリー映画。そもそも現代美術の価格が高騰し始めたのは、日本のバブルがはじけてアートマーケットが縮小した90年代のこと。日本人が近代美術を買い漁って底をついたため、今度は作品がいくらでも供給できる現代美術にスライドしたというのだ。だれが? ごく一部のギャラリスト、オークショニア、コレクター、そしてアーティストだ。言ってみれば、アートマーケットは彼ら数十人のプレイヤーが動かすゲームみたいなもの。その最優秀プレイヤー(?)として登場するのが、広大なスタジオでスタッフに絵を描かせ、自分は指示を出すだけのアーティスト、ジェフ・クーンズであり、その対極として描かれるのが、かつてドットを使ったオプ・アートの旗手として名を馳せ、現在は郊外の一軒家で目の覚めるようなペインティングに取り組むラリー・プーンズ。その中間に位置するのがゲルハルト・リヒターだ。

『アートのお値段』というタイトルは身もふたもないが、原題は『THE PRICE OF EVERYTHING』で、これはオスカー・ワイルド著『ウィンダミア卿夫人の扇』のなかの「皮肉屋というのは、あらゆるものの値段を知っているけど、そのものの本当の価値を知らない人のことさ」というセリフから来ている。つまり価格と価値は別物だということであり、ここではクーンズは価格派、プーンズは価値派であり、リヒターは価値を重視しながら価格に乗る派、に分類できる。いずれにせよ、アートのお値段は芸術性とは関係ないということだが、実は無関係というだけでなく、美を感じる脳と欲望により活発化する脳とでは正反対の反応を示すと、精神科医でコレクターの高橋龍太郎氏はパンフレットのなかで指摘する。どうやら価値(美)と価格(欲望)は別物どころか、対極に位置しているらしい。なんとなくアートマーケットに感じていたモヤモヤ感が、少しすっきりした。

この映画でもうひとつおもしろかったのは、プーンズのほか、美術評論家のバーバラ・ローズやギャラリストのメアリー・ブーンなど、1970-80年代に活躍した過去の人たちが登場すること。もっとも、すっかり別人のようになったメアリー・ブーンはつい最近、脱税で捕まって名前が出たばかりだが。新表現主義をマーケットに乗せた彼女も、結局「アートのお値段」に振り回されたのか。

公式サイト:http://artonedan.com/

2019/09/22(日)(村田真)

話しているのは誰? 現代美術に潜む文学

会期:2019/08/28~2019/11/11

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

タイトルを聞いたときは、文学と現代美術との関係を問い直す展覧会ではないかと思った。つまり、プルーストの『失われた時を求めて』やカフカの『変身』のような、具体的な文学作品が下敷きにある現代美術作品を集めた企画だと思ったのだ。ところが展示を見て、それがまったくの誤解であることがわかった。「ここでの文学は、一般に芸術ジャンル上で分類される文学、つまり書物の形態をとる文学作品だけを示すわけではありません」ということだったのだ。

今回展示されたのは、現代美術作家たちが何らかのかたちで「文学的要素」を取り入れて制作した作品である。つまり、その解釈の幅はかなり広い。さらに、北島敬三、小林エリカ、ミヤギフトシ、田村友一郎、豊嶋康子、山城知佳子という出品作家の顔ぶれを見ると、1950年代生まれから80年代生まれまでが含まれており、写真、映像、オブジェ、パフォーマンス、インスタレーションなど、ジャンルも多岐にわたる。かなりバラついた展示になる恐れもあったが、実際には互いの作品がうまく絡み合って、すっきりとした、緊張感のある展示空間が構築されていた。

全体的に写真・映像作品の比率が高い展示になったのも興味深い。「EASTERN EUROPE 1983-1984」、「USSR 1991」、「UNTITLED RECORDS」という3つの写真シリーズを出品している北島敬三はもちろんだが、ほかの出品作家も豊嶋康子を除いては、写真か映像、あるいはその両方を使っている。おそらく写真という具体性と象徴性をあわせ持つ媒体の喚起力が、「文学的要素」を取り込むのに向いているのだろう。個人的には、山城知佳子の映像作品《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)が面白かった。沖縄の現実をオペラや琉歌やロックに乗せて歌い上げる、活気あふれるショート・ムービーである。

2019/08/28(水)(飯沢耕太郎)

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新聞記者

遅ればせながら、藤井道人監督の映画『新聞記者』を観る。主役の演技も、観客を宙吊りにするラストもよかった。女性の新聞記者と若手官僚が政権の闇を暴こうとする物語だが、「特別に配慮された大学の新設」というモチーフは明らかに加計学園や森友学園の問題を連想させ、日本では希有な同時代的な政治サスペンスである。もっとも、直接的に固有名詞を使わないこのレベルでさえ、「テレビの仕事がなくなるから」と2つの製作会社が依頼を断ったり、政権批判的な内容ゆえに、テレビでもあまり映画を紹介しなかったことに驚かされた。

あいちトリエンナーレに対する激しいネット・バッシングの後だと、内閣情報調査室がネット書き込みで世論操作をしているシーンがリアルに不気味だ。実際、「毎年(!)トリエンナーレを楽しみにしていたのに、もう行かない」といった組織的な書き込みが数多く出現したのは、よく知られている。また展覧会が始まってすぐ、少女像と天皇を扱う作品の他に、今回の「表現の不自由展・その後」には出品されていない、安倍首相と菅官房長官と見られる人物の口を踏みつけにした竹川宣彰の作品も、いっしょに画像つきで拡散された。後者は、アーティストのホームページから、香港の展覧会を探さないと見つからない画像であり、簡単には出てこない。したがって、偶然に間違えたのではなく、炎上を加速させる目的で、悪意をもって紛れ込ませたフェイクの情報である(これを今でも信じている書き込みも散見される)。

ところで、映画内に出てきた内調のネット書き込み部隊のインテリアの空間表現が興味深かった。明るく乱雑な新聞社のオフィスに対し、暗い部屋で青白く光るパソコンの画面に向かい、職員たちが黙々と悪口を書き込むのである。これはいかにもネットの悪い人というイメージだが、あえてリアリティがない表現なのかもしれない。なぜなら、こうした組織の実態がよくわからないからだ。映画では、官僚の強烈な台詞がある。「日本の民主主義は形だけでいい」というものだ。官僚は国民ではなく、政権の維持に奉仕する。これでは、東大の入試で文1(法学部)と文2(経済学部)の合格最低点が逆転したように、官僚の希望者が減るのも仕方ない。

公式サイト:https://shimbunkisha.jp/

2019/08/17(水)(五十嵐太郎)

あいちトリエンナーレ2019 情の時代(開催7日目)

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター+四間道・円頓寺+名古屋市美術館ほか[愛知県][愛知県]

4回目の愛知県芸術文化センターでは、「表現の不自由展・その後」の中止に抗議し、韓国の作家2名の部屋が閉鎖され(いずれも北朝鮮を扱う作品)、さらにもぎとられたようで痛々しい。とはいえ、何度か通っても、映像の作品が長いので、まだ全部を見ることができないくらいのヴォリュームがある。



イム・ミヌク《ニュースの終焉》の展示中止を伝える説明パネル


パク・チャンキョンによる、北朝鮮の少年兵を連想させる作品《チャイルド・ソルジャー》も展示中止に

10階の田中功起の作品は、大きな展示室に批評的に介入する空間インスタレーションも興味深いが、鑑賞するのにかなり時間がかかる映像が素晴らしい。今回のトリエンナーレでは、家族や移民など、アイデンティティをめぐる作品が多いが、これも日本に暮らす混血・多国籍のメンバーが互いの記憶や経験を語りあいながら、共同作業によって抽象画を描く試みである。あからさまなプロパガンダではない。しかし、確実に、いま起きている事態への静かな抵抗にもなっている。



田中功起《抽象・家族》の展示風景より


田中功起《抽象・家族》の展示風景より

この日は、展示室からも怒号が聞こえ、後で出入口に行ったら、バケツで水をまいていた人がとりおさえられていた。津田監督のトークイベントも当面は中止か、延期になっており、事態が落ち着き、今回の件をじっくりと説明・議論できる場が設けられ、再開への道を探ることを期待したい。そもそも「不自由展」が展覧会の中のミニ展覧会であり、さまざまな作品の共通点は、過去に排除されたことがあることだけだ(例えば、Chim↑Pom(チンポム)は「福島」や「放射能」の言葉が入っているだけでNGに)。そうした基本的な情報すら理解されず、少女像や天皇の肖像を用いた作品の背景も、まったく理解されていない。芸術の政治利用と批判されているが、作品の一部だけを切り取り、もはや政治が芸術を利用している状態である。しかもメディアが政局化を煽るという最悪のパターンだ。

今回のトリエンナーレはオペラをやめて、ポピュラー音楽にシフトしたが、その目玉となるのが、サカナクションの『暗闇 -KURAYAMI-』である。タイトル通り、ホールの照明をすべて消し、ライブを行なうものだ。かつてゲーテが音楽を鑑賞する際、演奏者の姿が邪魔になると述べたこと、また大きな壁でメンバーが隠されたピンク・フロイドの『ザ・ウォール』のライブなどを想起させる。なるほど、これだけの大空間が本当の闇になると凄い。視覚を遮断することによって、さらに音が立体的になり、音が身体を包み、音が空気の振動で直接に触ってくる実験的な体験だった。「不自由展」も、目に見える部分だけで条件反射しているのではないか。アートには制作者の思想があり、それを切り離して考えることはできない。

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/08/07(水)(五十嵐太郎)

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