2020年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

尾崎森平「1942020」

会期:2020/02/18~2020/03/01

ギャラリー ターンアラウンド[宮城県]

仙台の現代美術のギャラリーにて尾崎森平の個展が開催され、トークのゲストとして招かれた。彼は、真っ青の空とクリーム色の地面を背景に「今春オープン」というイオンの看板が立つ《Mirage》や、遠景に山が見える広大な空き地に不動産の宣伝看板が立つ《売り地》など、地方のフラットな風景を簡略化、ならびにやや抽象化しつつ、カラフルな配色で作品を制作している。さて、今回の展覧会のタイトル「1942020」は、イタリアで中止になった1942年のローマ万博の都市EURと、東京2020オリンピックの年号を合体させたものだ。注目すべきは、ムッソリーニが推進したファシズム期のイタリア合理主義の建築をモチーフとしていること。すなわち、尾崎の作品において、現在はフェンディの本社になっているイタリア文明宮(この建物は第12回恵比寿映像祭[2020]において、ローマ・オリンピック1960で活躍したアベベ・ビキラをテーマとしたニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの作品でも使われていた)がラブホテルに、あるいはアダルベルト・リベラが設計した会議場は浴場やセレモニーホールに変容している。ほかに列柱(!)があるコンビニ、ムッソリーニが糾弾されたシーンを重ねあわせた洗車場なども展示されていた。

もっとも、本来、EURの街区は人が歩くスケールを超え、ファシズム建築もメガロマニアックな傾向をもち、基本的に巨大であるのだが、尾崎が平坦な日本の地方の風景に溶け込ませると、必然的にサイズを縮小せざるをえない(本人はイタリアを訪れたことがないという)。その変容プロセスは、ゴシック様式のウェディングチャペルとも似て、いかにも日本らしい。モダニズムと古典主義を調停した合理主義の建築が、全然違う文脈に放り込まれることで、少し違和感を残しつつも、意外に地方でありそうなキッチュな建築になっているのが興味深い。尾崎は「表現の不自由展」のように、はっきりと政治的なメッセージを出しているわけではないが、日常に浸透するファシズムを読みとることも可能だろう。一方でそれを簡単に批判するのではなく、ファシズム建築に魅せられるわれわれをも示唆しているかのようだ。

2020/02/25(火)(五十嵐太郎)

俳優座劇場プロデュースNo.109 『彼らもまた、わが息子』/演劇研修所第13期生修了公演『社会の柱』

2007年から窓学のリサーチ・プロジェクトに関わり、先日、その成果のひとつとして、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」(東京国立近代美術館)が開催された。東北大学五十嵐研では、主に窓の歴史とその表象を分析しているが、テーマはさまざまな広がりをもつ。すでに美術、漫画、映画、広告などのジャンルは着手したが、他にも演劇の舞台美術における窓、あるいはインテリア・デザインにおける窓などが、調べられるのではないかと考えている。


先日、俳優座劇場において、アーサー・ミラーの重い原作をもとに桐山知也が演出した『彼らもまた、わが息子』を観劇した。アフタートークを聞いて、訳者の水谷八也による現代日本の口語になじませる苦労と解釈も興味深かったが、とりわけ印象的だったのは、舞台の前面にプロセニアム・アーチのような巨大なフレームが自律して設置されていたことだった。この抽象的な白い窓をまたぐと、俳優は物語世界に入るのだが、デザインとしても家屋のポーチの枠や奥の壁に表現された窓の群と呼応している。ほかにも不在を示す椅子の群、見えない木と林檎など、舞台美術はさまざまな工夫が施されていた。ちなみに、この演劇における囲われた世界=庭と過去は、いまだ太平洋戦争の歴史の亡霊に取り憑かれる現代日本の話でもあるだろう。


宮田慶子が演出したイプセンの『社会の柱』は、ノルウェーの小さな港町を舞台とする1877年の作品だが、まったく古びれず、現代に通用するのは、近代化というパラダイム、あるいは偽善的な村社会vs自由と真実の新世界という構図をわれわれが共有するからだろう(いささかアメリカが理想化されすぎているが)。特に悲劇を予感させる後半の展開は、目が離せない。舞台美術としては、大きなカーテンと両側の古典主義風の柱によって窓であることが表現された四角いフレーム(その中央の下側には具象的な扉がある)が、家屋の内外を区切る。その奥には何も支えない白い柱群が並ぶ(タイトルからのインスパイアか?)。窓学を通じて、窓は物語を駆動させる重要な装置であると確信したが、演劇においてもそれが当てはまるのではないかと考えている。


俳優座劇場プロデュースNo.109 『彼らもまた、わが息子』 2020/02/07/~2020/02/15 俳優座劇場/鑑賞日:2020/02/08(土)
演劇研修所第13期生修了公演『社会の柱』 2020/02/21~2020/02/26 新国立劇場/鑑賞日:2020/02/22(土)

2020/02/22(土)(五十嵐太郎)

TPAM 劇団態変『箱庭弁当』/アブラクサス『タブーなき世界そのつくり方』

今年のTPAMは、筆者がいくつか鑑賞した限りでは、政治的な題材を扱う作品は少なく、ほとんど人間が前面に出てこないハイネ・アヴダル&篠崎由紀子『nothing's for something』や、伝統舞踊の型を脱構築していくピチェ・クランチェン『No.60』など、むしろ美学を揺さぶるタイプの作品が目立った。ここではディレクションとフリンジからひとつずつ取り上げたい。


劇団態変『箱庭弁当』の出演者は全員、身体障害者である。五体不満足ゆえに、当然、根本から動きは変わらざるをえない。ただし、冒頭は個別の能力がわからず、もやもやした気持ちになっていた。わざと寝そべっているか、あるいは立てないのか? などが判別できなかったからである。またサーカス団の見世物のようにも見え、正直、戸惑った。しかし、やがて鑑賞するうちに、それぞれの出演者の個性を把握すると、通常の身体表現と全然違う動きがどのような仕組みで成立しているか、もしくはその新しい可能性を理解することができた。もっとも単純な立つ、歩く、掴むという行為でさえ、別の方法があるのだ。


TPAMフリンジのアブラクサス『タブーなき世界そのつくり方』は、ベタな演劇である。取り上げている題材は、三重苦の重複障害者としてもっとも有名な偉人であるヘレン・ケラーだ。一般的には屋外で「水」という概念を理解した感動的なエピソードがよく知られており、この作品でもそのシーンは登場するが、むしろ重点を置くのは、その後の彼女の生きざまである。すなわち、ヘレン・ケラーとその教師の実話をもとに、いくつかの改変を加え、障害者差別と人種差別の問題を重ね合わせているのだ。もちろん、彼女に肌の色は見えない。ヘレン・ケラーが労働運動、婦人運動、公民権運動などに参加したのは事実である。だが、そうした彼女に対し、感動的な障害の克服だけを語っていろ、政治や社会に口出しするな、という圧力がかかる状況は、まるでいまの日本のようだ。これは昔のアメリカの話ではない。パラリンピックが開催される2020年においても(新型コロナウィルスの影響でどうなるか微妙だが)、ヘイトがなくなる気配がない現状への問いかけのように感じられた。

TPAM 劇団態変『箱庭弁当』 2020/02/09-2020/02/11 KAAT神奈川芸術劇場
アブラクサス『タブーなき世界そのつくり方』 2020/02/12-2020/02/16 サンモールスタジオ

2020/02/16(日)(五十嵐太郎)

奇蹟の芸術都市バルセロナ

会期:2020/02/08~2020/04/05

東京ステーションギャラリー[東京都]

数年前、学生時代に訪れたバルセロナを再訪したら、完成間近のサグラダ・ファミリアなど、アントニ・ガウディの作品に関して、オーバーツーリズムというべき現象が発生しており、驚かされた。今回、バルセロナ展というタイトルなので、やはりガウディが中心の内容なのかと思いきや、そうではなかった。もちろん、代表作のひとつ、カザ・バッリョーの図面や家具はある。だが、それくらいしかガウディの作品はない。これまでに奇抜な創造者、展示にコンピュータの解析を活用した合理的な構造デザイン、漫画家の井上雄彦とのコラボレーションなど、さまざまな切り口によって、彼は紹介されてきたが、むしろ、この展覧会は彼を生みだした都市の状況を伝えるものだ。19世紀後半の都市改造(グリッド・プランの整備や拡張)、あるいはドメネク・イ・モンタネールやジュゼップ・ジュジョルなど、同時代に活躍し、ガウディと同様、装飾を多用した建築家にも触れている。が、とりわけ、アート界の動向が興味深い。

展覧会の第3章「パリへの憧憬とムダルニズマ」は、パリの影響を受けた前衛芸術家たちをとりあげる。彼らは、カタルーニャ語で近代主義を意味する「ムダルニズマ」を推進し、横断的な総合芸術を展開した。第4章「四匹の猫」は、アーティストのたまり場となり、展覧会、音楽会、人形劇などが催されたカフェの名称である。ここがカタルーニャ文化の発信地となり、若き日のピカソも初の個展を行なう。第5章「ノウサンティズマ──地中海へのまなざし」は、民族性や地中海の文明への回帰に向かう、保守的なアートである。その動向は、1900年代主義を意味する「ノウサンティズマ」と呼ばれた。当時、1929年のバルセロナ国際博覧会が開催されたが、このときミース・ファン・デル・ローエの傑作、モダニズムの極北を提示したバルセロナ・パヴィリオンが登場している。そして最終章「前衛美術の勃興、そして内戦へ」は、ル・コルビュジエやバルセロナのモダニズムの建築家を紹介しつつ、1936年に勃発したスペイン内戦によって、芸術表現が政治化していく。



アントニ・ガウディ《カザ・バッリョー》



ドメネク・イ・モンタネール《カタルーニャ音楽堂》



左:カタルーニャ美術館(万博の政府館) 右:ミース・ファン・デル・ローエ《バルセロナ・パヴィリオン》



2020/02/13(木)(五十嵐太郎)

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「大阪万博 カレイドスコープ─アストロラマを覗く」展、高島屋

会期:2020/01/15~2020/04/19

高島屋史料館TOKYO[東京都]

日本橋の高島屋史料館TOKYO「大阪万博 カレイドスコープ─アストロラマを覗く―」展を鑑賞した。新型コロナウィルスの影響によって、2週間ほど会期が短くなってしまった「インポッシブル・アーキテクチャー」展のトークにおいて、橋爪紳也から聞いていたが、この企画は高島屋が共同出展したパビリオンのみどり館に焦点をあてたものである。建築はカラフルな多面的なドームだ。エントランスでは、吉原治良が監修した具体美術展も開催されたという。

展示では、コンパニオンの制服などもあったが、注目すべきは、全天周映画を鑑賞できる館内の「アストロラマ」(天体と劇を合成した造語)の映像を詳しく紹介していることだ。谷川俊太郎が脚本、黛敏郎が音楽、土方巽が舞踏を担当したものである。頭上から巨大な土方が舞い降りて、踊りだす映像はかなり前衛的であり、当時の子供たちがどのように受け止めたのかが興味深い。ともあれ、その後、さんざん地方博を重ね、広告代理店の仕切りになってしまった博覧会に対し、大阪万博は日本での初めての体験ということで、現在では考えられない尖った人選だったことが改めてよくわかる。



会場風景



さて、久しぶりに高島屋を訪れ、高橋貞太郎が手がけたオリジナルの百貨店(1933)の細部を観察すると、非常に興味深い。全体としては古典的な感覚が残った近代の構造体であるが、斗栱ときょう蟇股かえるまた肘木ひじき、釘隠しなど、さまざまな和風のデザインが散りばめられているからだ。もちろん、帝冠様式が登場した時代背景はあるが、彼が東大を卒業後、明治神宮造営局や宮内省内匠寮などで勤務した経験が大きかったかもしれない。また先行する日本橋の三越にも和風が混入していた。が、高島屋はさらに複雑であり、和風の意匠がカクカクとしており、やや幾何学的に変形された部分には、アール・デコの影響も感じとれる。これも当時、流行していたデザインであり、古典、近代、和風、アール・デコの要素がミックスされた細部なのだ。個人的にはオットー・ワグナーのウィーン郵便貯金局も彷彿させる、皮膜の表現も認められることに感心させられた。



1階吹抜けの見上げ。柱頭は斗栱のモチーフ



屋上のエレベータホールにある折上げ格子天井



外観の湾曲した隅部。軒下に垂木のモチーフ



正面入口付近の蟇股



柱の下部、粽風の意匠


2020/02/12(水)(五十嵐太郎)

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