2021年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

「ミヒャエル・ボレマンス マーク・マンダース|ダブル・サイレンス」、「村上慧 移住を生活する」、「アペルト13 高橋治希 園林」

金沢21世紀美術館[石川県]

なんとか会期中に、金沢21世紀美術館の「ダブル・サイレンス」に足を運ぼうと思ったのは、2012年にあいちトリエンナーレのための海外調査に行った、ベルギーのゲントで遭遇したマーク・マンダースの個展に強烈な印象を受けたからである。結局、筆者が芸術監督をつとめた2013年の芸術祭には彼は参加してもらっていないが(2016年のあいちトリエンナーレに参加)、そこで体験した奇妙な空間はずっと心の中に残っていた。具象的な身体と抽象的な構成の異様な融合、またこうした作品群と古い建築がとり結ぶ、不気味な関係性である。



筆者が2012年にゲントで遭遇したマーク・マンダースの個展風景



2012年、ゲントにおけるマーク・マンダースの個展風景



2012年、ゲントにおけるマーク・マンダースの個展風景



2012年、ゲントにおけるマーク・マンダースの個展風景


あいにく金沢21世紀美術館は、異なるホワイト・キューブの集合体であり、未完成、あるいは壊れかけのようにも見える作品と歴史的な空間の会話は生じないが、代わりに同じベルギーを拠点とする画家、ミヒャエル・ボレマンスとの二人展は抜群の相性のよさを示し、互いに環境を提供しあう、必然性がある展覧会だった。各部屋の使い方も、それぞれの空間の個性をうまく読みとっていたように思う。メディウムは違うが、いずれも顔や身体の損壊や不在を共通項としつつ、鑑賞者に謎と不穏なイメージを投げかける。またベラスケスなどの歴史に学んだボレマンスの絵画と、建築的・デザイン的にも興味深いマンダースの立体が共鳴していた。


とりわけ、大工の父をもち、「建物としてのセルフ・ポートレイト」という独自の考え方をもつマンダースは、大きな胸像や、傾いた頭を支える「台座」の造形が興味深い。変態的な家具とでもいうべき、ヤバすぎるデザインだ。ボレマンスも、無数の小さな窓とおかしなサイズの人間たちに囲まれた《機会の家(生涯のチャンス)》や《スイミング・プール》など、建築的にも刺激を与える小さな作品を制作している。なお、本展は、キュレーターによる音声ガイドがあり、会場でアクセスして聴くという雰囲気ではなかったので、家に帰ってから確認したが、これもよかった。見落としそうな場所にあった二人のインタビュー映像も(ウェブで視聴可能)、展示を理解するのに役立つ。


同時開催されていた「移住を生活する」展の、家を運びながら移住を続ける村上慧とは、確か仙台で一度会い、当時はまだ開始して1年程度の段階だったので、これを10年続けると本当に凄いプロジェクトになると言った記憶がある。もうすぐ8年目に突入しており、さすがに迫力が出てきた。また、高橋治希の「園林」展も、力作のインスタレーションだった。3つのすぐれた展示に長く滞在しすぎて、金沢に移転した《国立工芸館》の予約時間が迫ったため、コレクション展を見ることができなかったのが、心残りである。



村上慧「移住を生活する」展より



高橋治希「園林」展より



金沢に移転した《国立工芸館》の外観


「ミヒャエル・ボレマンス マーク・マンダース|ダブル・サイレンス」展

会期:2020/09/19〜2021/02/28
会場:金沢21世紀美術館


「村上慧 移住を生活する」展

会期:2020/10/17〜2021/03/07
会場:金沢21世紀美術館


「アペルト13 高橋治希 園林」展

会期:2020/12/19〜2021/05/09
会場:金沢21世紀美術館


2021/02/20(土)(五十嵐太郎)

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若手アーティスト支援プログラムVoyage かんのさゆり・菊池聡太朗展「風景の練習 Practicing Landscape」

会期:2021/02/06~2021/03/28

塩竈市杉村惇美術館[宮城県]

《塩竈市杉村惇美術館》は、鈴木弘人+東北芸工大が《塩竈市市公民館本町分室》(1950)をリノベートした建築である。注目すべきは、高さ約10mに及ぶ大きな集成材のアーチが連なる講堂だろう。近年、木材の使用が積極的に叫ばれているが、すでにモダニズムの時代にこれだけの規模の大架構を試みていたことに驚かされる。2階の常設展示室では、既存の窓もあえて潰さず、再び開くこともオプションとして残しており、原形に復旧可能な改装だった。またボトルシップのように、もう外に出せない、企画展示室内の2つの大きな白い可動壁の存在が興味深い。


集成材のアーチが特徴的な《塩竈市杉村惇美術館》講堂

ここで企画公募による二人展「風景の練習」が開催された。写真家のかんのさゆりは、一見、日本のどこにでもありそうなフラットなハウスメーカーの住宅を撮影した作品を外周に並べる。しかし、均質な風景を批判しているわけではない。それゆえ、ホンマタカシの郊外写真も想起させるが、実はこれらは被災地の復興住宅だ。また彼女はデジタル・カメラで撮影しており、基本的には人が不在の住宅写真だが、細部の小物、後付けの造作や装飾に住人の個性がほのかにうかがえる(もっと大きなサイズの写真の方がわかりやすかったかもしれない)。ほかにも沿岸の復興工事を撮影した作品があり、前述した可動壁は脇に追いやって、青いビニールシートをかけている。また企画室の窓はカーテンなどで遮光せず、空間と対話していた。


二人展「風景の練習」より。かんのさゆりの展示風景



かんのさゆりの展示風景



かんのさゆりの展示風景


菊池聡太朗のパートは、既存の巨大な可動壁を再配置しつつ、彼が修士設計で構想した展示空間の案を部分的に実体化させた新しいヴォリュームと、効果的に組み合わせている。これらが同居することによって、新しいヴォリュームは、可動壁をくり抜いた空間のように感じられるのも興味深い(個人的には「現代美術への視点─連続と侵犯」展に参加した青木淳の作品を想起した)。そして通常であれば、展示には不向きな窓から差し込む光が、印象的なシーンを生む。インドネシアの増改築が続く特殊な家屋と塩竈における石のリサーチ、そして《杉村惇美術館》の空間特性をアクロバティックに混淆させた建築的なインスタレーションだった。本来、出会わないモノ、あるいは空間と時間が、展示室において遭遇するのだが、あまり唐突さを感じさせることなく、抜群のセンスによってまとめられている。



二人展「風景の練習」より。菊池聡太朗の展示風景



菊池聡太朗の展示風景



菊池聡太朗の展示風景

2021/02/12(金)(五十嵐太郎)

シアターコモンズ’21

[東京都]

昨年はシアターコモンズのプログラムに参加したのを最後に、コロナ禍によってかなりの期間、観劇する機会が失われた。そうすると、パフォーミング・アーツをめぐる状況が変わってから丸1年たったわけである(ちなみに、初めてマスクをつけて展覧会に行ったのは、昨年2月の「第12回恵比寿映像祭」だった)。前回もVRによる小泉明郎の『縛られたプロメテウス』や、壇上の二人が発話しないジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレの『快適な島』など、すでにポストコロナを予感させる作品はあったが、今回は社会の動向を見すえたうえで、VRやARを本格的に活用した作品を用意しながら、新しい可能性に挑戦していた。

以下、空間に着目して、体験した作品をまとめておく。ツァイ・ミンリャン『蘭若寺(らんにゃじ)の住人』は、六本木のビルで椅子に座って、HMDを装着し、VR映像の空間に没入する。病の男が佇む廃墟の美を彩るのは、水と光と緑だ。本作を演劇の延長と捉えるなら、壁はあっても、普通の舞台なら、見えない/つくらない天井の染みを自由に眺められるのが興味深い。

スザンネ・ケネディほか『I AM(VR)』も、完全なVRの映像だが、少しだけ体を動かすことができる。最初の閉鎖的な空間から、どんどん世界が広がり、かなり没入感の高い体験だった。あえてゲーム的な空間を創造したようだが、ここまでできるなら、建築、インテリア、ランドスケープのデザインをもっと洗練させる余地があるのではないか。

一方で、中村佑子『サスペンデッド』は、東京ドイツ文化センターに付設された家の中を歩き、病の親をもつ子供を主題とするAR映像を体験する。各部屋で実際に窓から光が差し込み、影が揺れるのだが、それと仮想の映像スクリーン(=もうひとつの窓)の共存が印象的だった。この効果は、晴れた日の昼頃がベストかもれない。

そしてもっともハイブリッドな作品だったのは、小泉明郎『解放されたプロメテウス』である。これはAR(横たわる仮想のベトナム人が5名出現)と、VR(それぞれが実際に見た夢の世界への没入)が切り替わるタイプの体験を味わう。一部の場面では、会場がSHIBAURA HOUSE 5階のガラス張り空間であることも効果的だった。さらに、帰りにもらうプリントのQRコードから、動画「もう一つの夢」にアクセスし、鑑賞するまでが小泉の作品と考えるべきだろう。別の視点から、自らの体験を振り返ることになるからだ。

ところで、新橋エリアで開催された高山明による「光のない。─エピローグ?」は、ラジオというアナログなメディアを使いながら、個別にセルフツアーによって、街に埋め込んだ福島と重なる場をたどるという意味で、実は三密を回避し、もともとポスト・コロナにもぴったりの上演の形式だったのは興味深い。むろん、これはコロナ以前から実践していたものだが、コロナ禍によって、ポスト・シアターの意味が鮮明になったと言えるかもしれない。なお、詩の朗読を聴くために耳は奪われるものの、視覚は解放されているので、せんだいスクール・オブ・デザインのスロー・ウォークのように、普段はじっくり見ないビルの細部も思わず観察することになった。改めて、電線と配線の多いことに気づかされるが、これらも本作がテーマとしていた東京電力が供給する電気が、こうした街の風景をもたらしている。

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/


2021/02/11(木)(五十嵐太郎)

TPAM ホー・ツーニェン『Voice of Void』/アイサ・ホクソン『Manila Zoo』ほか

会期:2021/02/06~2021/02/14

[神奈川県]

今年のTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)は、当然ながら、コロナ禍における舞台芸術のあり方を探るプログラムが目立った。言い方を変えると、オンライン、もしくはヴァーチュアル・リアリティをいかに導入するか、である。もちろん、すでにテクノロジーの進化によって、こうした兆候がなかったわけではないが、今回は一気に加速した、いや、せざるをえなかった。

ホー・ツーニェンの『Voice of Void』は、形式的には4人で参加するものだが、相互のインタラクションはなく、また演者はいない。ゴーグルを装着して、リアルな畳の上で動くと、世界が切り替わる。すなわち、じっと静止していると、SF的な空間の広がりをもつ座禅室/少し動くと、茶室における京都学派の座談会/立ち上がると、モビルスーツが漂う空中/寝そべると、監獄という4つの空間だ。初日に体験したせいか、機材の設定トラブルが続き、何度かゴーグルを装着し、おかげで付け方が上手くなったのだが、おそらく、この技術の未来は、舞台の内部に入り込む体験だろう。

さて、6年前にポールダンスを観たアイサ・ホクソンの『Manila Zoo(ワーク・イン・パンデミック)』はKAAT 神奈川芸術劇場で観劇したが、やはりホストをのぞくと、そこに生の演者はいない。それぞれの個室で動物を演じるフィリピン人のダンサー陣の映像、ならびにドイツの電子音楽をリアルタイムで横浜に配信し、大きな画面で観るからだ。コロナ禍ゆえに、家にこもる人間と檻の中の動物が重なり、さらにきちんと機能しない政治への怒りが表明される。もちろん、ただ鑑賞するだけなら、あらかじめ録画された映像を流せばよい。だが、ダンサーが激しい運動を続けた後の休息をかねて、会場のホストと観客を交えたインタラクティブな演出(質問タイム、記念写真、アクション、照明など)が挿入される。そのとき、これが遠い場所だけれども、同時進行のライブであることを痛感した。

ほかのTPAMのプログラムでは、オンライン配信によって、谷賢一(DULL-COLORED POP)の福島三部作を鑑賞した。原発誘致前夜の「反対しなかったな/日本の原発は安全です/寝た子は正しく起こせ」など、各パートにおいて、印象的な言葉が突き刺さり、国外や記憶が薄れる未来に対して意義をもつ作品である。だが、家にいながら画面に向かうだけの視聴だと、途中で映像が止まったり、集中力が散漫になりやすい。以前、第一部の『1961年:夜に昇る太陽』のみは、駒場の小劇場で鑑賞していたが、やはり生で観たい作品だった。

ホー・ツーニェン『Voice of Void』
公式サイト: https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=voice-of-void
会期:2021/01/24〜2021/02/06
会場:BankART Temporary

アイサ・ホクソン『Manila Zoo(ワーク・イン・パンデミック)』
公式サイト: https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=manila-zoo
会期:2021/02/09〜2021/02/11
会場: KAAT神奈川芸術劇場

2021/02/09(火)(五十嵐太郎)

神奈川の新しい大学建築

[神奈川県]

数年前、BCS賞の審査員を担当したときに気づいたのが、大学の施設に力作が多いことである。なぜか。公共施設は、炎上を避けるべく、コストを抑えながら、つくることが求められる。また商業施設も、話題のプロジェクトはあるが、バブル期に比べると、やはり冒険がなく、また海外の同じビルディングタイプと比べて、おとなしい。そうした状況にもかかわらず、少子化の時代において、学生を獲得することを考えて、特に私立大学は新しい施設に力を入れているのではないかと思われた。実際、学生が見学に訪れるオープンキャンパスにて、魅力的な空間は効果を発揮するだろう。最近、神奈川県に登場したすぐれた大学建築を2つ続けて見学する機会を得た。

ひとつは春にオープンする石上純也の 《神奈川工科大学KAIT広場》である。これはデビュー作がいきなり日本建築学会賞(作品)に輝いた《KAIT工房》(2008)のすぐ背後につくられた。《KAIT広場》のプロジェクト自体は、筆者の記憶によれば、2008年の豊田市美術館での個展「建築のあたらしい大きさ」において、すでに紹介されていたが(当時は「カフェ」だった)、なかなか着工せず、いつになったら完成するのだろうと思っていたが、それがついに完成したのである。おそらく、公共建築ならば、年度単位の予算執行などを考えると、こんなに待たされないだろう。ともあれ、土木的なスパンと身体・微細なスケールのありえない共存、光のうつろいを増幅する開口部など、再び奇跡的な空間が誕生した。見えない部分に錘を埋めるといった構造は、《テーブル》(2005)でも試みられていたが、《KAIT広場》はさらに大胆なデザインを展開している(なお、空間の詳細は、筆者が寄稿した『毎日新聞』2月17日夕刊を参照されたい)。



《KAIT広場》の内部。無数の開口部から光が差し込んでくる



天井と床が湾曲した《KAIT広場》内部では、遠くの人物の上半身が見えないこともある



《KAIT広場》の屋根部分。ランダムに配された矩形の開口部が見える



オープンから12年後の《KAIT工房》


オンデザイン(萬玉直子+西田司ほか)による《まちのような国際学生寮(神奈川大学新国際学生寮・栗田谷アカデメイア)》(2019)は、住宅街にあるため、外部への表出は控えめとし、その内部に驚くべき共有空間を創造した。「ポット」と命名された小さな居場所が階段の踊り場に設けられ、吹き抜けのあちこちに浮かぶ。またポットはすべて用途やデザインが異なり、圧倒的な多様性を実現するための設計も施工も大変だったと思われる。個室の面積は絞られているから、必然的に学生の出会いを誘発するだろう。



《神奈川大学新国際学生寮》外観



《神奈川大学新国際学生寮》内部に設置された「ポット」



《神奈川大学新国際学生寮》の吹き抜けと「ポット」


さて、歩くごとに様々なシーンが展開することに感銘を受け、現地で多くの写真を撮影したのだが、後で確認すると、なかなか写真で表現するのが難しい建築であることに気づいた。どの写真も、実際に見たときの印象の方がよい。《KAIT広場》は、刻々と表情が変化し、いつどのように撮っても絵になるフォトジェニックな空間だが、《新国際学生寮》の場合は、また別の撮影技術が必要なのだろう。

2021/02/08(月)(五十嵐太郎)

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