2020年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

田附勝『KAKERA』

発行所:T&M Projects

発行日:2020年2月

写真に限らず、どんなアート作品でも「思いつきを形にする」ところからスタートする。だが、それが単なる生煮えの「思いつき」だけに終わってしまうのか、それとも熟成して高度な作品にまで辿り着くかに、アーティストの力量があらわれてくるといえそうだ。

田附勝の『KAKERA』もその始まりは偶然の産物だった。2012年の夏、田附は新潟で縄文土器が発掘されたという知らせを聞き、現場に向かった。その破片を目にした時、そこに積み重なった「時間」の厚みを感じて、「重くて熱い血液が上昇してくる」ように感じる。田附は縄文土器を撮影するために新潟に通うようになり、ある博物館の資料室で新聞紙に包まれた縄文土器の破片を見せてもらった。土器片を整理するときに、保管状態をよくするために、その場にあった新聞紙を使うのだという。たまたま、その新聞の日付が「2011年3月13日」、東日本大震災から2日後のものだったことで、何かがスパークした。田附は震災前から東北地方に足を運び、写真集『東北』(リトルモア、2011)を刊行していた。その記憶が鮮やかに甦り、「いくつにも積み重なった地層。表層と深層を繋ぐ時間」がそこに顔を覗かせたのだ。

本作『KAKERA』は、田附がその後さまざまな博物館、資料室などを訪ね歩き、縄文土器の破片とそれらを包んでいた新聞紙を撮影した写真群によって構成されている。「時間」そのものの結晶というべき土器のたたずまいにも引きつけられるが、それ以上にそのバックの新聞記事が気になってしまう。1918年の「米の対露声明」から2015年の「戦後70年反省とおわび」まで、その間に太平洋戦争、戦後の復興、高度経済成長の時期、東日本大震災など、日本と世界の歴史が含み込まれている。縄文土器が土中で経てきた「時間」と比較すれば、わずかな光芒かもしれないが、それでもひとりの日本人の生涯を超えるほどの「時間」が過ぎ去っているのだ。

『KAKERA』は、2種類の時間を一気に結びつけるという卓抜なアイディアを、的確な構図とライティングによって完璧に実現した写真シリーズである。町口覚の造本設計、浅田農のデザインも、写真の内容にうまくフィットしている。なお、写真集の刊行にあわせて、あざみ野フォト・アニュアルの一環として田附の個展「KAKERA きこえてこなかった、私たちの声」(1月25日〜2月23日)が開催された。

関連レビュー

田附勝『魚人』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)

田附勝『東北』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年09月15日号)

2020/03/07(土)(飯沢耕太郎)

小林秀雄新作展 街灯

会期:2020/02/28~2020/03/28

EMON Photo Gallery[東京都]

仕掛けを凝らした場面を設定し、自ら考案した光学装置を使って、1990年代からユニークな作品を発表し続けてきた小林秀雄の新作展である。今回は「街灯」、「花と電柱」、「街灯135」の3シリーズが出品されていた。

メインの展示となる「街灯」では、どこか奇妙な雰囲気のある「不自然な所」で街灯が光を放っている。公園や田んぼや菜の花の群生の中などにある街灯は、どうやら作り物のようだ。「花と電柱」では、電柱(これは本物)の周辺に赤い花々が見える。ヌードの女性が立っていることもある。これらは多重露光で合成したものだという。小林は8×10インチの銀塩大判フィルムを使っているので、暗室の中での合成作業ということになるだろう。「街灯135」では35ミリ判のカメラで撮影しているが、街灯と街灯のあいだでもシャッターを切っている。街灯と、何も写っていない暗闇を写し込んだフィルム6コマ分を提示し、写真の中に「移動した距離、撮影した行為による時間」を取り込もうとする。

3シリーズとも技巧を凝らしたものだが、そのことはあまり気にならない。むしろ、夜にふと街灯を見上げて、「現実と非現実、この世とあの世が、振り子が揺れるように行き来しながら、彷徨う」ように感じたという小林の体験が、リアルな実感をともなって再現されている。小林の仕事は、写真という枠組みを超えた、「光と闇」にかかわる普遍的な表現の域に達している。もう少し評価されていいアーティストではないだろうか。

関連レビュー

小林秀雄「中断された場所 / trace」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年07月15日号)

小林秀雄「SHIELD」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)

2020/03/06(金)(飯沢耕太郎)

橋本照嵩『瞽女 アサヒグラフ復刻版』刊行記念展

会期:2020/02/21~2020/04/04

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

橋本照嵩(1939〜)の「瞽女(ごぜ)」は、1970年代の日本の写真家たちの仕事のなかでも、最も印象深いシリーズのひとつである。新潟・北陸地方を、唄と三味線で門付けをしながら旅を続ける盲目の女芸人たちを、橋本は行動をともにしながら四季を通じて撮影し続けた。それらは、1970〜73年の『アサヒグラフ』に5回にわたって掲載され、1974年に写真集『瞽女』(のら社)として出版され、橋本の代表作となった。

今回展示されたのは「作家の手元に残る当時の膨大なネガより新たな視点で選りすぐって制作した」20点余りだが、いま見直すと、哀感を込めて撮影された瞽女たちの姿だけでなく、彼女たちの背景となる風景の変貌にむしろ胸を突かれる。1970年代は「日本列島改造」の掛け声に乗って、都市と田舎との差異が縮まり、日本全体に均質な眺めが広がり始めた時期だった。橋本は、同時代の北井一夫、土田ヒロミ、山田脩二らと同様に、農村地帯に残っていた日本の原風景が急速に失われていく状況に鋭敏に反応し、その指標として瞽女たちにカメラを向けていった。やや広角気味のレンズで、引き気味に撮影するスタイルが、その意図とうまく噛みあっている。

本展は、タイトルが示すように、ZEN FOTO GALLERYから刊行された『瞽女 アサヒグラフ復刻版』の出版記念展を兼ねている。写真集『瞽女』より一回り大きな判型の『復刻版』で見ると、個々の写真の迫力が増して、生々しい印象が強まる。1970年代の写真家たちの作品は、雑誌を最終的な発表媒体として制作していたので、このような試みは、貴重かつ有意義といえるだろう。

関連レビュー

橋本照嵩「瞽女」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)

2020/03/04(水)(飯沢耕太郎)

木村孝写真展 ライフ・コレクション・イン・ニュータウン

会期:2020/02/26~2020/03/10(03/03〜03/10は臨時休館)

銀座ニコンサロン[東京都]

とても興味深いテーマの写真展である。木村孝は、2014年からタイ・チョンブリー県のアマタナコーン工業団地に隣接する集合団地を撮影し始めた。最初は団地を「風景」として撮影していたが、今回、銀座ニコンサロンで開催された個展「ライフ・コレクション・イン・ニュータウン」では、集合団地やその周辺の地域の住人たちと、彼らが暮らす部屋の内部にカメラを向けている。

もともとアマタ・コーポレーションという大企業が、工業団地で働く人々のための集合住宅を建造したことから、商業施設なども増え、「ニュータウン」が形成されていった。まったく何もない場所にできあがった「過去のない街」の空気感が、部屋の中のなんとも表層的な家具や壁紙、部屋の住人たち(若者が多い)の、どこか寄る辺のない不安げな表情から伝わってくる。木村のやや引き気味で、部屋の細部まできちんと画面におさめていく撮り方も、とてもうまくいっていた。

このような、都市そのものの生成のプロセスを、そのごく初期の段階から撮影していくプロジェクトは、ありそうであまりないのではないだろうか。「風景」から「部屋」へという展開も悪くないが、これから先がむずかしくなりそうだ。今のところ、カタログ的、羅列的な展示構成なのだが、次は住人一人ひとりにもっと寄り添ったストーリーが必要になってくるだろう。10年くらい撮り続ければ、アマタナコーンをもっと立体的に浮かび上がらせることができる、厚みのある写真とテキストがかたちをとってくるのではないだろうか。より大きな広がりを持つ写真シリーズになっていくことを期待したい。

なお、本展の会期は、新型コロナウイルス感染症の広がりの影響で短縮されてしまった。大阪展(3月19日〜4月1日)は開催される予定だが、当面のあいだ臨時休館となり、状況は予断を許さない。本展に限らず、あまり観客数が多くない美術館やギャラリーでの展覧会を、一律に中止してしまうことには疑問が残る。

2020/03/02(月)(飯沢耕太郎)

白髪一雄

会期:2020/01/11~2020/03/22(02/29〜03/22は臨時休館)

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

戦後日本の前衛美術の流れにおいて、大きな役割を果たした具体美術協会の中心メンバーだった白髪一雄の回顧展は、圧倒的な迫力と存在感を備えた代表作がずらりと並んでいて見応えがあった。古賀春江を思わせる幻想画から、次第に抽象性を強め、画面に全身で没入する「フット・ペインティング」に至る道筋も興味深かったのだが、ここでは別な角度から白髪の仕事を捉え直してみたい。

展示の最後に、《緑のフォトアルバム》、《青いフォトアルバム》、《赤いフォトスクラップブック》と題された写真帖3冊が出品されていた。ガラスケースの中なので、ひとつの見開きのページしか見ることができないのだが、そこに貼られていたポートレートやパフォーマンスの記録写真の質はかなり高い。また、年表の1956年の項に《レンズ》という作品が紹介されている。板を削った窪みの底にレンズを嵌め込んだ作品だが、その解説に白髪は「無類のカメラ好き、カメラマニア」だったと記されていた。白髪が具体美術協会第1回東京展(1955)に参加したときのパフォーマンス《泥に挑む》の記録写真にも、写真作品としての表現性の高さを感じる。それらを考え合わせると、白髪の仕事を写真という切り口で再検証することも可能なのではないだろうか。

具体美術協会のメンバーたちは、白髪の「フット・ペインティング」のように、完成作だけでなく、そのプロセスを重視する作品を多数残している。有名な村上三郎の《紙破り》のパフォーマンスもその一例だろう。パフォーマンス作品においては、写真あるいは映像による記録だけが、唯一の存在証明となることが多い。写真と前衛美術との関係に、新たな角度から光を当てる展覧会も考えられそうだ。

2020/02/28(金)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00051792.json s 10160954

文字の大きさ