2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

「『風景』のつくりかた」

会期:2021/09/28~2021/10/03

目黒区美術館区民ギャラリーB[東京都]

「『風景』のつくりかた」は東京藝術大学大学院美術研究科美術専攻先端芸術表現領域出身の大槻唯我、鈴木悠生、寺田健人の三人の写真家のアーティスト・コレクティブによる展覧会。会場で配布されたハンドアウトには「『風景』とは何か」という問いに続いて「身近で当たり前のものとして享受している現代の『風景』とはそもそも何か」「私たちは『風景』をどうつくっているのか」「写真として写しているものは何か」という三つの問いと、「地域社会や都市空間において人間の営為によって生じた痕跡を『まなざす』ことによって、新たな「風景」の獲得を試み」るという宣言が掲げられている。


[撮影:鈴木悠生]


大槻、鈴木、寺田の順に並ぶ展示空間は作家ごとに区切られており、突き当たりにある寺田の展示まで観た観客はそこで折り返し、再び鈴木、大槻の展示空間を通過して会場を出ることになる。

観客がまず、そして最後に再び目にする大槻唯我《Study of Abandoned Mines and Forests》(2020-)は、いまや国内ではひとつを除いてすべてが閉鎖された金属鉱山をテーマにした写真群。有害な排水を処理する鉱滓ダムや不要な土砂を捨てた堆積場、そして破壊された森の植生などを写した写真が並ぶ。「『風景』のつくりかた」と展覧会のタイトルが大きく記された入口を入ってすぐの展示が大槻のものであるインパクトは大きい。展示の冒頭から、都市部に住む私の生活こそが、私の目には入らないところでこのような「風景」をつくり出しているのだということが突きつけられ、展覧会のタイトルの意味するところについて改めて考え込んでしまった。


[撮影:鈴木悠生]


一転、鈴木悠生《TOKYO TRANSPARENT BOUNDARIES》で鑑賞者が目撃するのは、鈴木が「生まれ育ち日常を過ごす東京という都市の風景」。テーマは境界ということで、フェンスや道路、川、陸上競技のトラックなどの境界がある風景に、ところどころその風景のどこに「境界」があるのか判然としない写真も混じっている。例えばある写真では境界を形成していた樹木が別の写真では単に風景の構成要素の一部となるなど、写真間で連続したり変化したりする要素が「境界」とは何かという思考を誘う。鈴木の撮る都市の風景と大槻の撮る山間部の、都市からは排除された風景。その境界はどうつくられているのかなどとも思う。


[撮影:鈴木悠生]


[撮影:鈴木悠生]


展示空間最奥部の寺田健人の連作写真《New Shelter》はタイトルの通り公衆トイレをテーマにした作品。排泄、SNS、食事、クルージング。「公に開かれた私的空間」である公衆トイレを「様々な欲望の実践の場所」として捉える寺田の写真は、公衆トイレの外観やトイレ内部での行為、あるいはその痕跡を捉えたものだ。


[撮影:鈴木悠生]


[撮影:鈴木悠生]


一方、寺田の展示空間の中央に置かれた映像インスタレーション《Act in public toilet》は「①トイレに残された痕跡を写真で撮り収集家のように集め、②トイレに残された痕跡から浮かび上がる人物像を想像して演じるというパフォーマンス」を映したもの。映像が映し出されているディスプレイは四方をパーティションで囲まれていて、鑑賞者はトイレの個室を上から覗き込むようにして(展示の1枚目に置かれた写真のように盗撮めいたアングルから!)映像を鑑賞する。

映像は三種類あり、ひとつは男がトイレの個室で歯を磨いている映像。残る二つはともにトイレを掃除している映像で、一方はインスタライブとして配信されていたもののようだ。歯を磨く男はカメラを意識することもなく、まさに盗撮風の映像なのだが、トイレ掃除の映像については、途中まではやはり盗撮風に見せつつ、やがて男がカメラに向かってジェスチャーをして見せたりカメラの位置を調整したりすることから、それが「やって見せている」行為であることがわかる趣向になっている。インスタライブに関しては言わずもがな。男と鑑賞者との関係が映像によって少しずつ違っているのが巧妙だ。


[撮影:鈴木悠生]


《Act in public toilet》を見終え、再び《New Shelter》に戻ると、鑑賞者は二つのことに気づくことになる。ひとつは展示空間自体が《Act in public toilet》と入れ子構造をなすトイレの個室に見立てられていること(展示の壁面は公衆トイレのパーティションにそっくりである)。展示空間はアーティストの、そして鑑賞者の欲望の発露する空間でもある。もうひとつは、《Act in public toilet》に付されていたという説明に虚偽が含まれていたのではないかということだ。《New Shelter》には《Act in public toilet》のトイレ掃除の最中に撮られたと思しき写真が含まれており、ならばそれは、寺田自身がトイレに残した痕跡だということになる。そこでは痕跡=写真とパフォーマンスの因果が、そして見る/見せるの関係が寺田の説明とは逆転しているが、しかしそれが実際にトイレに残されていた痕跡なのか、それとも寺田が残した痕跡なのかを鑑賞者が判別する術はない。見ることと見せることの欲望は絡まり合っている。

大槻と鈴木の展示はそれぞれ単独ではやや物足りなくも感じ、寺田の展示についてはコンセプトに比して映像やインスタレーションの設えが十分には練りきれていなかったのではないかとも思う部分もある。だが、三つの展示は連なることで、欲望と見ること、視線をめぐるさまざまな思考を誘発する。私的な領域から再び外へと展示空間を逆戻りしながら見る写真に、私はまた異なる思考を誘われる。


鈴木悠生:https://www.yu-suzuki.com/
寺田健人:https://kentoterada.myportfolio.com/work

2021/10/03(日)(山﨑健太)

木村華子「 [   ] goes to Gray」

会期:2021/09/17~2021/10/17

河岸ホテル[京都府]

「消えている」のに「現われている」。「何も表明しない」という表明。そうした存在論的矛盾がありえるだろうか。

木村華子の写真作品「SIGN FOR [    ]」は、「街中で発見した、何も書かれていない白紙のビルボード」を被写体にした写真の上に、青いネオンライトを取り付けたシリーズである。青白いネオンの光は、「広告」という目的や存在意義を失ってもなお屹立し続ける白い立方体を照らし出す。それは経済不況という時代の指標であると同時に、あらゆるものを「有用性」「生産性」で価値判断し、「白か黒か」「右か左か」といった両極的な選択を突きつける社会に対して、そこから逸脱する領域をセレブレーションするようでもある。



会場風景


一方、木村の作品は、美術史的な視点から読み込むことも可能だ。「余計なものが写り込まない青空をバックに撮影する」という同一条件で、消費資本主義の衰退を徴候的に示すモニュメントを撮り集める姿勢は、ドイツ各地に残る産業遺構を均質フォーマットで記録したベッヒャー夫妻を想起させる。また、「公共空間に置かれたビルボード」という点では、例えば「私の欲望から私を守って」といったメッセージを掲げ、欲望を作り出す広告装置を通して消費資本主義それ自体を批判したバーバラ・クルーガーがいる。フェリックス・ゴンザレス=トレスは、誰かが眠った跡を残す空っぽのダブルベッドの写真をビルボードに掲げ、エイズや性的マイノリティへの偏見に対して静かに訴えた。

だが、「白紙状態」に眼差しを向けるよう照らし出す木村作品は、そうした「批判や抵抗のメッセージ」が消去されたディストピア的イメージをも思わせる。それは、「声を上げること」を封殺し、塗り潰す抑圧的な社会の象徴でもある。と同時に、その「白紙」は、これから書き込まれるべきメッセージを待ち受ける希望的余白でもある。

社会の衰退の徴候であり、「ただ存在すること」の肯定であり、声の抑圧の象徴であると同時に、なおもメッセージを掲げることへの想像を止めないこと。そうした何重もの豊かな意味をはらんだ「空白」が見る者に迫ってくる。



会場風景



会場風景


2021/09/26(日)(高嶋慈)

平本成海「GOOD NEWS」

会期:2021/08/16~2021/10/02

PGI[東京都]

当時は「H/N」という名前で発表していた平本成海の作品を、ガーディアン・ガーデンの写真「1_WALL」展の審査で初めて見たのは2017年だった。その後、彼は2019年の第20回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞し、2020年に受賞展を開催した。今回のPGIでの個展はそれに続くものである。

平本は2016年から、住んでいる千葉のローカル紙の記事から切り抜いた写真を用いて、「一日一点」のコラージュ作品を制作するようになった。それらをその日のうちにInstagramにアップすることを日課としている。今回の個展では、もう4年余りも続くその制作活動から産み落とされた写真群を、フレームに入れて淡々と壁に並べていた。それとは別に、写真を元にテキストを作成する試みもあって、そのごく一部が展覧会のリーフレットの裏に掲載されていた。また、写真家・作家の清水裕貴が平本の作品から「Diary: 平本成海」という日記形式のテキストを綴ったものもあり、こちらはPGIのホームページに掲載されている。

丹念に、よく考えられた制作行為の積み重ねであり、一見ラフなようで「1px単位の繊細な編集がされている」という作品の精度も、以前よりも格段に上がってきた。日常の出来事が孕む「無気味さ」が、じわじわと滲み出てくる作品が多い。ただ、写真作品とテキストの関係については、もっとやりようがあるのではないかと思う。清水裕貴とのコラボレーションも悪くはないが、平本自身の言語能力の高さをもっと活かして、組織的に展開するべきではないだろうか。たとえば、安部公房が『箱男』(1973)で試みた、写真とテキストとのコラージュ的な併置を、デジタル時代のメディア表現として再編するようなこともできそうな気がするのだが。

関連記事

平本成海展 narconearco|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年04月15日号)

2021/09/21(火)(飯沢耕太郎)

青森 1950-1962 工藤正市写真集

発行所:みすず書房

発行日:2021/09/16

工藤正市(1929-2014)は青森市に生まれ、1946年に青森県立青森工業学校機械科を卒業した。その後、東奥日報社に入社し、印刷部を経て写真部に所属する。1950年代になると、工藤は美術展の写真部門やカメラ雑誌の月例写真欄に積極的に応募するようになり、入賞を重ねて、写真家として名前を知られるようになっていった。特に、1952-1954年頃の『カメラ』月例第一部での活躍はめざましく、1953年には、応募作家の年間最優秀賞であるベスト10の第1位を獲得する。ちなみに、この時のベスト10の第3位は川田喜久治、第6位は東松照明だった。

1960年代以降は、新聞社の仕事に専念し、写真作品の応募は封印するようになった。そのため、彼の存在はほとんど忘れ去られたままになっていた。ところが、没後の2018年に、荷物の整理をしていた娘の工藤加奈子が、押入れの奥からネガフィルムが入った大小の段ボール箱を発見し、写真家・工藤正市の仕事にふたたび注目が集まるようになる。スキャンした画像をInstagramに上げたところ、日本だけではなく世界各地から大きな反響があり、2021年6月には東京・馬喰町のKiyoyuki Kuwahara Accounting Galleryで写真展(「portraits 見出された工藤正市」)も開催された。本書はその工藤の残した写真を300ページ以上にまとめた、決定版というべき写真集である。

工藤が土門拳や木村伊兵衛が主導した「リアリズム写真」の運動に強い影響を受けていたことは間違いない。その被写体の選択、眼差しの向け方において、同時期に全国各地に出現してきていた「リアリズム写真」の信奉者たちと、特に違いがあるわけではない。だが、被写体を突き放すのではなく、むしろ同化していくような視点のとり方、写真の舞台となる街や農漁村の空気感を大事にし、それを丸ごと掴みとるような撮影のあり方に、工藤の写真家としての姿勢が明確にあらわれている。「リアリズム写真」の運動そのものは、5年余りでピークを迎え、1950年代後半以降は退潮に向かう。だが、工藤の同期生というべき川田喜久治や東松照明は、「リアリズム写真」をベースとして、次のステップへと歩みを進めていった。1950年代の写真表現の展開の厚みを確認するという意味でも、重要な写真群といえる。

関連記事

連続企画「都築響一の眼」vol.4/「portraits 見出された工藤正市」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年08月01日号)

2021/09/20(月)(飯沢耕太郎)

リャン・インフェイ「傷痕の下」

会期:2021/09/18~2021/10/17

SferaExhibition[京都府]

写真は、「出来事の真正な記録」としてのドキュメンタリーではなく、「イメージの捏造」によって、いかに告発の力を持ちうるのか。

昨年のKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の公募企画でグランプリを受賞した、中国のフォトジャーナリスト、リャン・インフェイ。今年は同写真祭の公式プログラムに参加し、より練り上げられた展示を見せている。

リャンの「傷痕の下」は、性暴力を生き延びたサバイバーへのインタビューを元にした写真作品。教師や上司、業界の有力者など年齢も社会的立場も上位の男性から性被害を受けた時の恐怖、不快感、憎悪、屈辱感、誰にも言えない抑圧、長年苦しめるトラウマが、悪夢のようなイメージとして再構築される。首筋をなめる舌はナメクジに置換され、助けを呼べず硬直した身体は、ベッドに横たえられ、空中で口をパクパクさせる魚で表現される。女性たちの顔は隠され、身体は断片化され、「固有の顔貌と尊厳の剥奪」を示す。また、「人形」への置換は、抵抗や告発の言葉を発さず、意のままに扱える「所有物」とみなす加害者の視線の暴力性を可視化する。



リャン・インフェイ《Beneath the scars PartII, 4》(2018)


展示会場は、半透明の壁で仕切られた個室的なスペースに分割され、両義的な連想を誘う。それは性暴力の起こった密室であると同時に、プライバシーの安全が保障された、カウンセリングのための守られた空間でもある。



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]


だが、いずれにせよ「外部からの遮断」「隠されるべきもの」という構造を外へと開くのが、「性被害について語る音声」の演劇的かつ秀逸な仕掛けだ。被害者の肉声ではなく、インタビューを再構成したテクストを朗読する声が写真とともに聴こえてくる。その声が複数性を持つことに留意したい。女性の声だけでなく、男性が読む声も混ざることは、「女性対男性」という単純な二項対立の図式を撹乱し、分断や敵対ではなく、体験の共有を志向する。同時にその仕掛けは、「性暴力の被害者は女性」という思い込みを解除し、「(性自認も含め)男性も被害者になりうる」ことを示す。性暴力は「一方のジェンダーに関する問題」ではなく、「あらゆるジェンダーにとっての問題」であることを音響的に示すのだ。

加えて、朗読する声には、年代差や関西弁のイントネーションなど、さまざまな差異が含まれる。少女や若い女性の声、中年女性の声といった年代差には、「10代、20代に受けた傷を後年になって語れるようになった」時間の経過を示す意図ももちろんある。だがより重要なのは、「被害者の代弁」を特定のひとりに集約させず、声を一方的に領有しない倫理的態度である。バトンを手渡すようにさまざまな声によって紡がれていく語りは、あるひとつの固有の体験と苦痛について語りつつ、その背後に無数の声が潜在することを可視化していく。

「出来事の決定的瞬間に立ち会えない」写真の事後性という宿命の克服に加え、写真と語りの力によって「体験を想像的に分かち合うこと」へと回路を開く、秀逸な展示だった。


KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2021/09/19(日)(高嶋慈)

文字の大きさ