2022年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

大道兄弟『My name is my name is…』

発行所:桜の花本舗

発行日:2021/09/16

毎月、たくさんの写真集が送られてくる。だが、ほとんどが自費出版のそれらの写真集のなかで、何か書いてみたいと思わせるものはそれほど多くない。大道兄弟という未知の二人組が、自分たちの写真をまとめた『My name is my name is…』も、最初はなんとなく見過ごしていたのだが、そのうちじわじわと視界に入ってきて、気になる一冊として浮上していた。

どうやら二人は1994年山梨県生まれ、大阪府堺市育ちの双子の兄弟(YukiとKoki)のようだ。赤々舎などでアルバイトをしながら、写真を撮り続け、Zineを既に40冊余り出している。『My name is my name is…』が最初の本格的な写真集である。モノクロ、カラーが入り混じり、被写体との距離感もバラバラだが、どこか共通の質感を感じさせる写真が並ぶ。特に、人の写真にその眼差しの質がよく表われていて、真っ直ぐに向き合いつつも、暴力的にねじ伏せようとはしていない。共感をベースにしながらも、なかなかそれを伝えることができないもどかしさと、コミュニケーションへの切実な渇望が写真に表われている。と思うと、そっけない、だが体温を感じさせるモノの写真もあり、被写体をあまり厳密に定めてはいないようだ。まだ海のものとも山のものともつかないが、写真を通じて世界と深くかかわっていこうとする、ポジティブな意欲が伝わってくる写真が多かった。

どれがYukiの写真でどれがKokiの写真かは、あえて明確にしていない。「兄弟」というユニットに徹することで、個人作業を超えた共同性が芽生えつつあるのが逆に興味深い。可能性を感じさせる一冊だった。

2021/12/07(火)(飯沢耕太郎)

藤岡亜弥『アヤ子江古田気分/my life as a dog』

発行所:私家版(発売=ふげん社ほか)

発行日:2021/09/16

藤岡亜弥は1990年から94年にかけて、日本大学芸術学部写真学科の学生として、東京・江古田に住んでいた。今回、彼女が刊行した2冊組の小写真集は、主にその時代に撮影した写真をまとめたものだ。『アヤ子江古田気分』には、「木造の古い一軒家の2階の八畳ひと間」に大学卒業後も含めて8年間住んでいた頃のスナップ写真が、大家の「82歳のおばあさん」との暮らしの記憶を綴った文章とともに収められている。『my life as a dog』は、「大学生のときに夢中になって撮った」という子供たちの写真を集めたものだ。

どちらも彼女の後年の作品、『私は眠らない』(赤々舎、2009)や第43回木村伊兵衛写真賞を受賞した『川はゆく』(赤々舎、2017)と比べれば、「若書き」といえるだろう。とはいえ、奇妙に間を外した写真が並ぶ『アヤ子江古田気分』や、牛腸茂雄の仕事を思わせるところがある『my life as a dog』のページを繰っていると、混沌とした視覚世界が少しずつくっきりと像を結び、まぎれもなく一人の写真家の世界として形をとっていくプロセスが、ありありと浮かび上がってくるように感じる。「若書き」とはいえ、そこにはまぎれもなく藤岡亜弥の写真としかいいようのない「気分」が漂っているのだ。

木村伊兵衛写真賞受賞後、広島県東広島市に移住した藤岡は、いま、次のステップに向けてのもがきの時期を過ごしているようだ。写真学科の学生時代をふりかえることも、その脱皮のプロセスの一環といえるのだろう。だがそれとは別に、2冊の写真集をそのままストレートに楽しむこともできる。笑いと悲哀とが同居し、どこか死の匂いが漂う写真たちが、じわじわと心に食い込んでくる。

2021/12/06(月)(飯沢耕太郎)

土田ヒロミ「ウロボロスのゆくえ」

会期:2021/11/29~2022/01/17

キヤノンギャラリーS[東京都]

土田ヒロミは1939年の生まれだから、今年82歳になるはずだ。普通ならリタイアしてもおかしくない年代であるにもかかわらず、その創作意欲はまったく衰えていない。今回キヤノンギャラリーSで開催した「ウロボロスのゆくえ」展でも、新たな領域にチャレンジする姿勢が全面的に表われていた。

とはいえ、展示されていたのはバブル経済の崩壊の時期だった1990年代前半に撮影された「産業考古学」(1991-2004)と「Fake Scape(消費の風景)」(1995-2000)の2シリーズである。「産業考古学」は「日本の高度経済成長を支えてきた基幹産業の生産現場」を記録するプロジェクトで、工場地帯の光景をその物質性を強調して撮影している。一方「Fake Scape(消費の風景)」では、「大都市郊外の国道線路沿線(主に国道16号)に現われていた消費者が誘導する異様な意匠の店舗の風景」にカメラを向けた。興味深いのは、この2シリーズを合体させることで、1990年代における生産と消費の現場のうごめきが、あたかも合わせ鏡のように出現してくることである。それこそが、土田が今回の写真展のタイトルに「ウロボロス」(自分の尻尾をくわえた蛇、あるいは竜の表象)という名辞を付した理由だろう。同時にその「異様な」眺めが、2020年代の現代の都市風景のプロトタイプであることが、鮮やかに浮かび上がってきていた。

本展では、過去作にあらためてスポットを当てつつ、それらを再解釈、再構築しようとする土田の営みが、実り多い展示として実現していた。彼には、まだ現在も進行中のプロジェクトがいくつもある。現役の写真作家として、さらなる活動の広がりを期待できそうだ。

2021/12/06(月)(飯沢耕太郎)

村越としや「息を止めると言葉はとろけるように消えていく」

会期:2021/11/20~2021/12/18

amana TIGP[東京都]

会場に入ると7点の作品が展示されていた。イメージサイズは60×190cm。マットの余白とフレームがあるのでさらに大きく感じる。写っているのは横長の海の景色で、水平線がちょうど画面の中央に来ている。2012年から21年にかけて、福島第一原子力発電所近くの、ほぼ同一の場所から、6×17cmサイズのパノラマカメラで撮影されたものだ。雨、あるいは霧がかかっているのだろう、湿り気を帯びたグレートーンが、画面全体を覆いつくしているものが多い。

この「息を止めると言葉はとろけるように消えていく」と題されたシリーズを見て、杉本博司の作品を連想する人は多いだろう。むろん、発想もプロセスもかなり違っているのだが、見かけ上は杉本の「Seascapes」と同工異曲に思える。人によっては、村越がずっと撮り続けてきた、実感のこもった福島の風景とは違った方向に進みつつあるのではないかと感じるかもしれない。彼もそのことを充分に承知の上で、あえてこの隙のない画面構成と、モノクローム・プリントの極致というべき表現スタイルを選択しているのではないかと思う。個人的には、その方向転換をポジティブに捉えたい。村越のなかにもともと強くあったミニマルな美学的アプローチを、むしろ徹底して打ち出そうとしているように思えるからだ。不完全燃焼に終わるよりは、より先に進んだ方がいいのではないだろうか。DMの小さな画像ではよくわからなかった、彼の全身感覚的な被写体の受け止め方が、大判プリントの前に立つことでしっかりと伝わってきた。

関連レビュー

村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)

2021/11/30(火)(飯沢耕太郎)

松江泰治 マキエタCC

会期:2021/11/9~2022/1/23

東京都写真美術館[東京都]

松江泰治といえば俯瞰した風景写真を撮る人、くらいしか知らなかった。でもその写真は、被写体が自然だろうが都市だろうが影が少なく乾いていて、ひと目で松江が撮った写真だとわかった。ま、その程度の認識しかなかった。今回の展覧会はここ10年あまりの都市の写真ばかりを集めたもの。松江の作品をまとめて見たいという思いもあったが、なにより地図や俯瞰写真を眺めるのが好きなので見に行ったというのが正直なところ。なんだろうね、俯瞰するのが好きという性癖は。朝トイレに入るときは必ず備え付けの地図帳を開くし、飛行機に乗っても窓側で晴れていればずーっと外を眺めている。それは大げさにいえば「神の視点」を得られるからではないか、と思ったこともある。

で、展覧会。出品作品には都市の俯瞰写真ばかりだが、「ATH」とか「UIO」とか「JDH」といったアルファベットに数字を併記したタイトルしか記載されていないので、それがどこの都市なのかわからない。でも建物の様式や色合い、密度などでだいたいヨーロッパか中東か東アジアかくらいは見当がつく。そうやって楽しんでいると、あれ? なんかおかしいぞ、これ実景じゃないじゃん、と気がつく。実景と、都市の模型の2つのシリーズが混在しているのだ。あらためて解説を読むと、タイトルの「マキエタCC」の「CC」はシティ・コード、つまり「ATH」とか「UIO」などの都市の略号で実景の写真、「マキエタ」はマケットのポーランド語、つまり都市の模型を撮った写真のことなのだ。いやーまんまと騙されるところだった、てか、そのくらい予習してから行けよ。まーとにかく、どちらも同じ手法で撮影されているので最初は気づかなかったが、数えてみると「CC」より「マキエタ」のほうが多いではないか。

松江の風景写真に共通しているのは、よく晴れていること、画面に地平線や水平線が入っていないこと、場所が特定できる建造物は避けること、高所から斜めに俯瞰していること、画面全体にピントを合わせていること、順光で撮影していること、などだ。そのため影がほとんどできず、遠近感もあまりなく、匿名性が強く、平面的に感じられる。絵でいえば、奇妙なことに、風景画よりむしろオールオーバーな抽象画に近い。現代美術として評価されるゆえんだろう。「マキエタ」のほうもほぼ同じ条件で撮っているらしく、タイトルも「CC」に準じているので紛らわしいことこのうえない。とりわけ紛らわしいのが最後の展示室にあった「TYO」の4点。何度見ても模型とは信じられないくらい精巧につくられた「マキエタ」なのだ。

もうひとつ特筆すべきは、4つの展示室のそれぞれ中央に水平に置かれた作品。最初の1点は博物館の内部を俯瞰した写真で、ほかの風景とは趣を異にするが、よく見ると小さく写っている人物が動いており、映像であることがわかる。次の1点は逆に群衆が騒がしく動き回る青果市場、残りの2点は「CC」と同じ都市風景で、粒のような人や車が動いている。視点が固定されているので、誰かが言ったように「動く写真」というほかない。これを見ると、建築や都市は写真でも映像でも静止しているので同じだが、人や車はその隙間を血液のように絶えず動き回っていることが改めてわかる。もし静止し続けている人がいれば死人だろう。また、もしこれを1万倍速で撮れば、もはや人や車は消え、今度は建築や都市が生き物のようにニョキニョキとうごめくのが見て取れるはず。これは時間的な「神の視点」といえるかもしれない。さまざまに妄想が膨らむ写真展である。

2021/11/26(金)(村田真)

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