2020年01月15日号
次回2月3日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

写真新世紀 2019

会期:2019/10/19~2019/11/17

東京都写真美術館地下1階展示室[東京都]

キヤノンが主催する「写真新世紀」は1991年のスタートだから、ずいぶん長く続いてきたものだ。当初は年4回開催されていたが、それが年2回になり、現在は年1回に落ち着いた。立ち上げから20年あまり審査員としてかかわった筆者にとっても、感慨深いものがある。その優秀賞、佳作入賞者の作品を展示してグランプリを決定する「写真新世紀展」にもほぼ毎年足を運んでいるのだが、このところかなり違和感を覚えていた。2015年から「静止画・動画を含むデジタル作品の応募」が可能となったことで、動画による映像作品が増え、また現代美術的なコンセプチュアルな発想の作品にスポットが当たることが多くなっていたからだ。ところが、今年の「写真新世紀展」では、「写真」をベースにした発想、手法、仕上げの作品の比率が上がってきている。いわば「先祖返り」といった趣の会場の雰囲気が興味深かった。

今年の審査員は椹木野衣(美術評論家)、サンドラ・フィリップス(SF MoMA名誉キュレーター)、瀧本幹也(写真家)、ポール・グラハム(写真家)、安村崇(写真家)、ユーリン・リー(台湾高雄市立美術館ディレクター)、リネケ・ダイクストラ(写真家)の7名である。優秀賞を受賞したのは、江口那津子「Dialogue」(ポール・グラハム選)、遠藤祐輔「Formerly Known As Photography」(安村崇選)、幸田大地「background」(瀧本幹也選)、小林寿「エリートなゴミ達へ」(サンドラ・フィリップス選)、田島顕「空を見ているものたち」(ユーリン・リー選)、中村智道「蟻のような」(リネケ・ダイクストラ選)、𠮷田多麻希「Sympathetic Resonance」(椹木野衣選)で、そのうち中村智道の作品がグランプリに選出された。

父親の死の前後の写真と、子供の頃に蟻の胴体をちぎって殺した記憶とを重ねあわせるように提示する中村の作品をはじめとして、身近な他者の生と死とを微視的に拡大し、重層的に組み上げていく写真のあり方は、日本の「私写真」の重要なファクターであり、1990年代から2000年代初頭にかけての「写真新世紀」の出品作品にもよく見られた。今回の優秀賞受賞者でいえば、アルツハイマー型認知症の母と歩いた街の記憶を辿る江口那津子や、亡くなった母親のポートレートの延長として、彼女が愛していた植物を撮影した幸田大地の作品もそうである。先ほど「先祖返り」という言い方をしたのはそのためだが、むろん当時と比較すれば写真家たちの表現意識はより高度なものとなり、厚みを増している。次年度の「写真新世紀展」がどうなるのか、この傾向が続いていくのかどうかが気になる。

2019/11/14(木)(飯沢耕太郎)

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川崎祐 写真展「光景」

会期:2019/11/13~2019/11/26

銀座ニコンサロン[東京都]

川崎祐は2017年の第17回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞し、2018年にガーディアン・ガーデンで開催した個展「Scenes」で同年度の木村伊兵衛写真賞の最終候補に選出された。今回の銀座ニコンサロンでの個展「光景」は、滋賀県在住の家族(父、母、姉)とその周辺の環境と出来事を撮り続けてきた一連の作品の最終ヴァージョンというべきものであり、赤々舎から同名の写真集も刊行している(装丁・寄藤文平+岡田和奈佳)。

「みずうみのそば、数年前に改修されたばかりの駅を中点に見立てて描いた半径三キロメートルの想像上の円」のなかに見えてくるのは「いかにも地方近郊と呼ぶにふさわしい、ありふれていて、退屈な、日本のどこにでもありそうなとくべつここでなくてもいい風景」である、と川崎は写真展に寄せたテキストに記す。展示されているのは、たしかにその通りとしか言いようのない写真群なのだが、彼の視点の置き方、被写体の切り取り方は、けっしてありきたりというものではない。身近な家族を撮るときに、主観性と客観性のバランスをどのように保つのかというのはかなりの難題なのだが、川崎はぎりぎりのところで紋切り型になりそうな解釈を回避し、彼らの生の輪郭をじわじわと浮かび上がらせていく。彼が家族に対して抱いている違和感とシンパシーとがない交ぜになった感情は、多くの人たちが抱え込んでいるものであり、誰もが当事者として直面せざるをえない状況といえる。「日本のどこにでもありそうなとくべつここでなくてもいい風景」だからこそ、川崎の眼を借りてその場面に直接的に対峙しているような切実なリアリティを感じてしまうのだ。今回の展示では、シークエンス(連続場面)を効果的に使って、観客を写真の世界に引き込んでいく工夫も凝らされていた。

川崎は一橋大学大学院言語社会研究科修士課程でアメリカ文学を研究していた。そういう経歴を見ても、言葉に並々ならない執着を抱いているのではないだろうか。写真集には幼年時代からの記憶を辿って「かつて私が憎しみ、出ていったこの郊外の街と家」について綴った「小さな場所へ」と題する長文のエッセイがおさめられていた。次作はより言葉の比重を上げてもよさそうだ。なお、本展は12月5日〜12月18日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2019/11/13(水)(飯沢耕太郎)

喜多村みか 写真展「TOPOS」

会期:2019/10/31~2019/11/12

Alt_Medium[東京都]

中学時代を長崎で過ごした喜多村みかは、数年前から「自分の痕跡を辿るように」その街を撮り始めた。その後、それまで縁がなかった広島にも足を運ぶようになる。ある年の8月6日と9日に、喜多村はTVの中継で長崎と広島の平和記念式典の様子を見ていて、その画面に向けてシャッターを切った。それをきっかけにして、新たな作品の構想がかたちをとっていった。「TOPOS」と題されたそのシリーズは、本年度の「VOCA展2019 現代美術の展望──新しい平面の作家たち」(上野の森美術館)に出品され、大原美術館賞を受賞する。今回の東京・高田馬場のAlt_Mediumでの展示は、その発展形である。

「TOPOS」、すなわち「連想や記憶を蓄えておける場所」(中村雄二郎)としての長崎と広島は、かなり特異な空間といえるだろう。いうまでもなく、原子爆弾の投下による被災という強烈なバイアスがかかった記憶がまつわりついているからだ。そのことを踏まえて写真を撮影し、選択し、構成していくためには、デリケートな手つきが必要になる。喜多村の今回の展示では、隅々にまで二つの土地の「TOPOS」についての配慮が感じられた。原爆ドーム、平和祈念像、「戦没学徒出身校」の石碑など、直接的に長崎や広島の悲劇的な状況につながる写真はしっかりと撮影されている。だがそれらの写真を、やや距離を置いて日常的なイメージのなかに紛れ込ませ、「遠くのどこか」の出来事として再構築していくプロセスが周到に準備されているので、むしろ「TOPOS」自体が本来備えている「連想や記憶」を喚起していく機能が無理なく引き出されてきていた。喜多村の写真の表現者としての資質が、まさに開花しつつあることがよくわかる、高度に練り上げられたいい展示だった。

なお、展覧会に合わせてAlt_Mediumから同名の小冊子が刊行されている。よくまとまってはいるが、もう一回り大きなサイズの写真集として見てみたい。

2019/11/12(火)(飯沢耕太郎)

清水裕貴「Empty park」

会期:2019/10/24~2019/12/06

PGI[東京都]

写真とストーリーとを結び合わせて作品化していく清水裕貴の新作は、「見えない水と、古い土地についての物語」だった。彼女が幼い頃に遊んでいた公園の隣には「謎めいた広大な草地」があり、そこには細い水路があって、稀に水が溢れると大きな池になると聞かされていた。その話を思い出して、約20年ぶりにその公園を訪れて撮影した写真群と、「水を盗もうとした泥棒」、「公園の清掃係」などを登場させて書き綴ったショート・ストーリーとを組み合わせたのが今回の展示である。

以前はプリントを壁から床に垂らすなど、インスタレーション的に扱う展示を試みたこともあったが、今回はオーソドックスにフレームに入れた写真が並んでいる。作品と作品のあいだの壁、2カ所に日本語と英語で言葉を配するやり方も、奇を衒ったものではなく、すっきりと目に入ってきた。清水の写真と言葉のクオリティは着実に進化している。「第17回 女による女のためのR−18文学賞」を「手さぐりの呼吸」で受賞するなど、小説家としても注目を集めつつある。だが、これが終着点とはまだ思えない。写真も言葉も、もう一段階レベルアップして、清水にしか到達できない世界を見せてくれるのではないかという期待があるのだ。両者に足りないのは、おそらく「切実さ」だろう。清水の作品を見ていると、彼女自身の生と緊密に結びついた言葉やイメージを、まだしっかりとつかみ取っていないのではないかと思ってしまうのだ。

なお、東京・外神田のnap galleryでも、同時期に「Birthday beach」展が開催された(10月16日〜11月23日、[休廊]11月6日〜9日)。こちらは「波打ち際に流れ着くものたちの物語」がテーマである。

2019/11/06(水)(飯沢耕太郎)

やなぎみわ展 神話機械

会期:2019/10/20~2019/12/01

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

そういえば、やなぎみわの展覧会をしばらく見ていなかったことに気づいた。約10年ぶりの個展だそうだ。やなぎは2010年から本格的に演劇のプロジェクトを始動した。それ以前から、彼女の作品には演劇的な要素が色濃かったのだが、写真・映像作品中心の展示から、舞台・パフォーマンスの制作へと活動の中心を移行していったのだ。その後、大正期の新興芸術運動に想を得た「1924」3部作(2011〜12年)、台湾製のステージ・トレーラーを使った野外劇「日輪の翼」(2016年〜)などが話題を集める。だが、そのあいだもアート作品の制作は並行して続けられており、今回の展示では演劇とアートとの融合が模索されていた。

「マイ・グランドマザーズ」、「エレベーター・ガール」、「フェアリー・テール」といった1990〜2000年代初頭の旧作をイントロダクションとして、今回の展示のメインとなっている「神話機械」が姿をあらわす。本展に向けて、京都造形芸術大学、京都工芸繊維大学、香川高等専門学校、群馬工業高等専門学校、福島県立福島工業高等学校のロボット製作チームと共同プロジェクト「モバイル・シアター・プロジェクト」を立ち上げ、ユニークな構想の「神話機械」を完成させた。「タレイア」(メインマシン)、「ムネーメー」(投擲マシン)、「メルポメネー」(のたうちマシン)、「テレプシコラー」(振動マシン)といったマシン群が、奇想天外な動きで、ハイナー・ミュラーの《ハムレット・マシーン》やマルセル・デュシャンの「レディ・メイド」を下敷きとしたパフォーマンスを展開する。また、日本神話に基づく新作シリーズの「女神と男神が桃の木の下で別れる」では、福島の桃を撮影した写真で展示空間を構成していた。

やなぎの演劇的想像力は、以前よりもスケールの大きさと飛躍性を増し、融通無碍に神話世界を渉猟することができるようになった。写真を使う場合も、こじつけめいたところがなくなり、力強いものになってきている。「神話機械」には、今後さらに広がりのあるプロジェクトとして展開していく可能性を感じる。

2019/11/05(火)(飯沢耕太郎)

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