2021年03月01日号
次回3月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

松田正隆作・演出『シーサイドタウン』

会期:2021/01/27~2021/01/31

ロームシアター京都[京都府]

地方の荒廃、血縁関係のしがらみ、隣国からの攻撃の脅威と緩やかに浸透する全体主義。現代日本社会の病理を凝縮したような辺境の海辺の町を舞台とするオーソドックスな会話劇と、実験的な上演形式のハイブリッドが本作の特徴である。劇作家・演出家の松田正隆は、書き下ろしの新作戯曲を、主宰する「マレビトの会」で実践してきたミニマルな形式で上演した。

場ミリ(スタッフや出演者のために、舞台上につける大道具や立ち位置の目印)の白テープが散りばめられただけの素舞台。そこに、ひとりの男が登場し、引き戸を開け、直角に舞台上を横切り、蛇口をひねってコップに水を満たす仕草を淡々とマイムで行なう。舞台奥から挨拶の声をかける隣人。何もない空間に、玄関、縁側、廊下、洗面所といった見えない空間の弁別が立ち上がる。この空き家に引っ越してきた男(シンジ)は、東京で職を失って帰郷した。隣家には平凡な夫婦と高校生の娘が住むが、とりわけ妻は「住民訓練」への参加を熱心に呼びかける。それは、(「東京アラート」の陰で忘却の彼方となった)「Jアラート」発動時に、「隣国からの弾道ミサイル攻撃に備えて身を守る」ための訓練だ。「住民の一体感」を高めるイヴェントとして参加を要請する隣人、「全体訓練」を近隣市町村との「合同訓練」に拡大させようとする市長。36か所の「着弾予想地点」や避難経路が書かれたハザードマップがシンジにも配られる。だが、シンジのバイト先の友人、トノヤマは「着弾予想地点で性行為か自慰を行なうことで、着弾を回避できる」という自説を実践する。それは、アナーキーな秩序攪乱による全体主義への抵抗なのか。隣人の高校生の娘は「将来の夢は殺し屋」と作文に書き、確執を抱える母親が探しても見つからない「ナイフ」はなぜかシンジの部屋で見つかり、トノヤマは「ファシズムの手先の市長を刺す」と息巻く。だが彼は暗殺計画ではなく別の卑近な暴力に手を染め、疑いをかけられたシンジは蒸発し、何事もなかったかのような夏の気怠い日々が続いていく。

小道具を一切使わず、観客にも「見えない」ナイフは、行き場のない鬱屈や卑小な悪意の比喩として手から手へと渡り、矛先を間違えた一瞬の暴発を引き起こし、霧消して再び消え失せてしまう。善意と悪意、平凡さと異様さが区別不可能に混ざり合った淀みがゆっくりと全身に絡んでいくような後味が残った。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


リアリズムの手触りの強い戯曲だが、「演劇」を極限まで縮減し解体するような形式で上演される。舞台美術のない素舞台、小道具の不在とマイムの動作、効果音やBGMの欠如、最低限の照明操作。俳優たちはほぼ正面向きで直立を保ち、抑揚を欠いた棒読みに近い発話で会話する。さらに、俳優どうしが目を合わさず、現実にはありえない距離感と位置関係で「配置」されている点も特徴だ。足元に露出する「場ミリ」が示唆するように、「身体に一定の導線と配置の圧を加える」演劇が行使する力は、訓練の反復によって「権力の要請に馴致された身体を集合的に形成する」力と秘かに通底していく。



[撮影:中谷利明]


一方そこには、「マレビトの会」を通して松田が実践してきた形式的な実験の系譜がある。『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)では、「広島と、在外被爆者の多く住む韓国のハプチョンでの体験や思考の報告」を、客席と舞台の区別がない空間に点在した出演者が、同時多発的に発話やパフォーマンスを行なう。この特異な上演形式は、(観客自身も含む)他者が行き交う「都市の雑踏」を出現させると同時に、多層的な声による「ヒロシマ」の脱中心化が企図されていた。続く『N市民 緑下家の物語』(2011)では、この「点在した俳優による行為の同時多発性とリニアな時間軸の解体」の手法が、ドキュメンタリーから「ドラマ」へと移植された。

そして、震災後の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)では、東京から福島へと移動しながら現実空間で数ヵ月にわたって上演される戯曲と、その上演記録を出演者たちがSNSやブログ上に蓄積していく「第一の上演」のあと、その記憶を思い出している出演者の身体を劇場内で展示する「第二の上演」が行なわれた。「ドラマ」は一回性の出来事に限りなく近づき、ネット上の無数の痕跡は出来事の「真偽」を宙吊りにしつつ、「想起のための空間」と化した劇場内には見るべきものはおろか、想起のための手がかりもほぼ皆無である。ここには、「演劇」という表象形式と、(松田自身の故郷、長崎を含む)集団的な災厄の「表象」それ自体への抵抗が極点で交差する。その後、『長崎を上演する』(2013-2016)、『福島を上演する』(2016-2018)では、複数の執筆者による共同創作というかたちで、長崎や福島での取材を元にした戯曲が、本作同様ミニマルな上演形式で試みられている。

こうした系譜上にある本作は、「長編戯曲」という松田の原点に回帰しつつ、「ドラマはどう自律し、どこまでの解体に耐えうるのか」という強度を自己点検する実験性のなかに、「悲劇以降の時間/まだ到来せぬ悲劇」のあいだで宙吊りになった、日常の微温的な狂気を描いていた。

2021/01/30(土)(高嶋慈)

Kyoto Art for Tomorrow 2021―京都府新鋭選抜展―(特別出品:高嶺格《118の除夜の鐘》)

会期:2021/01/23~2021/02/07

京都府京都文化博物館 別館ホール[京都府]

毎冬開催されている「京都府新鋭選抜展」は、選抜された若手作家の新作を展示し、審査委員や各新聞社などが受賞作を決めるコンペ展。あわせて、ベテラン作家による「特別出品」も展示される。今年度は、高嶺格が体験型作品《118の除夜の鐘》を発表。本評では、この高嶺作品をメインに取り上げる。

会場の別館ホールは、明治期に建てられた旧日本銀行京都支店の重厚な建築物であり、天井高のある広い吹き抜け空間が広がっている。その空間に、鉄パイプを7段、ほぼ水平に渡した円形の檻のような構造物が組み上げられている。鑑賞者はこの構造物の中央の椅子に座り、袋のなかから鉄球を一つ選ぶよう、スタッフに促される。椅子の正面では、最下段の鉄パイプの先が、巨大なメガホンか蓄音機のラッパ型ホーンのような形状で口を開けて相対する。選んだ鉄球は、スタッフの操作で最上段の鉄パイプのなかに投入され、金属管のなかを何かが転がっていくような音が、一段ずつ周回しながら走っていく。見えない気配を想像させる「音」は、加速とともに次第に増幅し、否応なしに緊張感を高め、椅子に固定された身体を包囲する。比例して徐々に暗くなる照明、轟音と加速度のクライマックスを包む闇。相対するラッパ型に開いた開口部から、鉄球がこちらに向かって飛び出すのではないかという恐怖。だが、加速の付いた鉄球の代わりに飛び出すのは、「えー、領収書が」というブツ切りの音声と鐘の音であり、床にボトッと転がり落ちた鉄球は、脱力に一転する。



高嶺格《118の除夜の鐘》



高嶺格《118の除夜の鐘》


高嶺によれば、タイトルの「118」は「安倍元首相が国会でついたとされる嘘の数」であり、ブツ切れの音声は、「桜を見る会」の会計処理をめぐる国会答弁の一部かと思われる。そうした政治批判にとどまらず、「自分の選択した小さな行為が、姿の見えないまま次第に膨れ上がり、制御不可能なものに変質して自らを脅かし、逃げ場所を奪って包囲する」という構造は、例えば(コロナ禍における)「SNS上で呟いた一言がデマとなって拡散・巨大化し、自分自身をも脅かす」事態を想起させ、極めてアクチュアリティに富む(なお、本作自体には実は「もうひとつの仕掛け」があるのだが、ネタバレとなるので伏せておく)。


ただ、例年のことではあるが、ベテラン作家が広い別館ホールを独占する「特別出品」と、(メインであるはずの)選抜若手作家たちの扱いには、大きな非対称性がある。ダイナミックな空間を実質上の個展として独占できるベテラン作家に対し、「ひとり1点」の制限やサイズ規格を受けた若手作家たちは、展示室に大勢が詰め込まれる。「新作」という出品要請の一方、フィーは出ない。本当に「若手支援」を目指すのならば、展示空間の割り当てや資金面での不均衡を解消すべきだろう。また、例年、選考・審査委員の顔ぶれも「60代、70代男性」に偏っており、ジェンダーや世代の多様性が必要ではないか。

2021/01/24(日)(高嶋慈)

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八木良太 山城大督 1/9「Sensory Media Laboratory」

会期:2021/01/11

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

美術作家の八木良太と山城大督による一日だけの展覧会が、京都の劇場「THEATRE E9 KYOTO」で開催された。観客は各回定員9名で、八木と山城のガイドとともに、視覚、聴覚、触覚、運動感覚、そして味覚を使ってさまざまなオブジェや装置を体験していく参加型形式だ。タイトル中の「センサリーメディア」という言葉は映像人類学における新たな方法論で、「視覚偏重から脱却し、音・テクスト・写真・もののインスタレーション・パフォーマンスなど複合的なメディアを用いた、人の感覚をキーワードにした文化の記録や表象の方法」を指す。この方法論に共感した山城は、「センサリー・メディア・ラボラトリー」と名付けたプロジェクトを2017年から開始。今回、「ラボの研究員」として八木が参加し、劇場を舞台にした「一日だけの展覧会」を9年間にわたって継続するという。

舞台空間には、感覚を拡張・増幅・変容させるような器具や仕掛けが用意され、観客はそれらをひとつずつ体験していく。足ツボマッサージ器具やものすごく柔らかい毛のブラシを触るなど、触覚や皮膚への刺激。「水を入れた風船を投げ、キャッチする」動作は、簡単なようだが、予想を微妙に裏切ってズレる軌道で落下するため、慣習的な運動感覚が追い付かない。振動を拾って増幅するセンサーが付いたハサミで紙や布を切ると、素材の硬さや枚数の重なりによる音の違いが増幅されるとともに、自分の行為と音響が分離したような奇妙な感覚を味わう。「ゴロリメガネ」という既製品は、レンズ部分に仕込まれたミラーが光を屈折させ、「寝ころんだ状態で、上体を起こさなくてもテレビ画面が見える」という便利(?)グッズだが、立った状態でかけると、普通はありえない「斜め下の足元の床」が視野になり、他人の視覚をジャックしたような違和感や酔いに襲われる。終盤では、口の中でパチパチと弾ける駄菓子を食べながら、プラネタリウムのような回転装置が暗闇に投げかける無数の光の粒を鑑賞する。キャンディの弾ける音の集合が静かな雨音のように響き、星空と細雨を同時に疑似体験するような詩的な感覚に包まれた。



会場風景


「触って体験する」たびに消毒が課されるとはいえ、徹底した体験型の展覧会を開催することは、大きな決断だったと思う。初回ということもあり、「集めた素材を羅列し、順番に体験してもらう」というプレゼンテーション的な性格が強かったが、今後は、独自のメディアや装置の開発が期待される。また、「劇場」という特性をより活かし、起点と終点のあるリニアな時間軸のなかで、感覚の変容や増幅をどうストーリーとして組み立てていくかという「演出」の方向づけも必要だろう。そのとき、知覚の変容とともに、「もののふるまい方」の変化の様相もまた、すぐれてシアトリカルな力の作用として立ち上がるはずだ。上述の終盤では、ある種の親密な共同体をつくりながら、日常感覚からの離脱や非日常的な体験へと開いていく回路の萌芽が見られた。それは、「劇場」という空間の使い方の実験でもある。THEATRE E9 KYOTOは昨年、写真家の金サジの個展も開催しており、「客席の雛壇」があたかも死出の山に変貌し、その山を登って胎内巡りのように再び産まれ直すような強度のある空間を出現させていた。本展も、「劇場」ならではの体験性に向き合い、年を重ねるごとの展開と深度を期待したい。

関連レビュー

金サジ「白の虹 アルの炎」|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年02月15日号)

2021/01/11(月)(高嶋慈)

akakilike『眠るのがもったいないくらいに楽しいことをたくさん持って、夏の海がキラキラ輝くように、緑の庭に光あふれるように、永遠に続く気が狂いそうな晴天のように』

会期:2021/01/08~2021/01/09

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

舞台芸術の「再演」において、「初演以降に流れた時間」はどのように作品内部に刻印されるのか。とりわけ、(プロの俳優やダンサーではない人々の)「個人としての生」を扱うドキュメンタリー性の強い作品の場合、この問いは分かち難く絡んでくる。akakilikeが薬物依存症回復支援施設「京都ダルク」の利用者とともにつくり上げた本作は、作品の基本構造を保持しつつ、彼ら自身が語る「ダルクに来る以前(依存症の背景)」と「2019年の初演から経過した時間」を対比的に構成し直すことで、家族との関係や彼ら自身の変化を浮かび上がらせ、「いま」をポジティブに肯定する力に満ちていた。

冒頭、akakilike主宰の倉田翠とともに登場したダルク利用者たちは、無言で客席に対峙したあと、頭上から落下した普段着の私服に着替え、「料理の共同作業」と「グループセラピーのミーティング」というダルクの日常を淡々と再現していく。一方、倉田はその傍らで独り言のように身体を動かし続ける。これが本作の基本的な構造である。



[撮影:前谷開]




[撮影:前谷開]


初演との違いは、まず、出演者が13名から6名に半減し、うち初演経験者は4名で、新たに2名が参加したことだ。コロナの影響もあるだろうが、「利用期間2年」の制限のため、利用者の入れ替わりが激しいことも一因だ。そのため、ミーティングの再現として語られる生い立ち、家族事情、薬物との関わり、日々の経験などのエピソードの多くが入れ替わり、「初演後に起こった出来事」が追加された。また演出上の変更として、冒頭のシーン構成と「衣装」の変化がある。初演では、全員がYシャツに黒いスラックスという事務的な服装で「住民説明会」を再現したが、再演では、ダブルのダークスーツ、派手な柄シャツに金のチェーンネックレスといった「ヤクザやホスト」を思わせる衣装で登場したあと、普段着に着替えて料理の共同作業に向かうことで、ダルク以前の過去/ダルクにいる「現在」への移行を視覚的に印象づけた。

また、語られるエピソードも一人ひとりの比重が増し、家族関係の変化や「いまの自分」を肯定する前向きな印象を強く感じた。絶縁状態だった父親の七回忌に出席した際、ロウソクの火が揺れるのを見た家族が「父親が喜んでいる」と語り、「自分はここにいていいんだ」と思えたこと。初演で「留置所での首吊り」を再現した出演者は、「あんたは死んだも同然」と家族に拒絶されていたが、勉強中のイラストで生計を立てたいという夢を伝えると、「生きがいを見つけたんだね」という言葉をかけてくれたことを語る。別の出演者は、年末の埼玉公演の際、見に来てくれた地元の家族の姿を客席に探した経験を語る。一方、依存症の背景には、複雑な家庭環境や児童虐待といった問題があることも語られる。

カラオケの熱唱や(最前列の観客をモデルに描く)似顔絵イラストの披露など、歓待的なサービス精神に開かれつつ、「出演者のキャラや個性」に頼る側面は否定できない。だが、本作をそれでも「ダンス作品」であると言いうるなら、この場に「ダンス」はどのように存在できるのか? 「ダンス」の居場所はどこにあるのか? と倉田自身が問いながら立ち続けている点にある。一見、即興的に自由に踊っているように見える倉田だが、「振付提供:筒井潤」のクレジットが示すように、演出家の筒井が振付けた過去作品の再現に従事しているにすぎない。「私は(他人に振付られる)ダンサーである」という態度表明とともに、倉田自身もまた、「過去の記憶」を身体的に反芻しているのだ。

「ダルクの日常」の再現の中に「過去からの移行」を語りつないでいく利用者たちと、その輪には入れない「ダンサーの私」。交わらないはずの両者だが、例えば「クスリをやってない」と嘘の否定を家族に繰り返した告白が語られる傍らで、四つん這いの倉田が激しく頭を振り続けるとき、ふと交差し共振し合うようにも見える。その両者が交わるのが、ともに食卓を囲むラストシーンだ。「LINEを無視する妻と、それでも社交ダンスを踊りたい」という叶わぬ願望を語る出演者に応えるように、倉田は「不在の誰か」と手を繋いで楽しそうに踊る。だが、そのダンスは次第に失速し、表情は逆光の闇に暗く沈み、もどかしい手探り状態に陥っていく。それは、「ここは本当に私の居場所なのか」「ダンスはそこに存在できるのか」という逡巡の自問自答であると同時に、再び「ダンス」を手探りし始める胚胎の瞬間でもある。

「作品」を固定化してしまうことは、「徐々に、あるいは目まぐるしく変わっていく彼らの生」の否定につながってしまう。状況的な要請もあるが、「再演」とは固定化でも単なる反復でもなく、「二度と繰り返せない差異を通して、過去との隔たりを計測することにこそ、作品の本質が新たに照射される」という「再演」の持つ意義を提示した好例であった。


[撮影:前谷開]



[撮影:前谷開]


公式サイト:https://akakilike.jimdofree.com/

関連レビュー

akakilike『眠るのがもったいないくらいに楽しいことをたくさん持って、夏の海がキラキラ輝くように、緑の庭に光あふれるように、永遠に続く気が狂いそうな晴天のように』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年10月15日号)

2021/01/09(土)(高嶋慈)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING

会期:2021/02/06~2021/03/28

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都伝統産業ミュージアム、京都府立府民ホール“アルティ”ほか[京都府]

新型コロナウイルスの影響で、例年通りの秋開催から今春に会期変更となった「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING」(以下KEX)。フェスティバルの立ち上げから10年間ディレクターを務めた橋本裕介に代わり、川崎陽子、塚原悠也、ジュリエット・礼子・ナップの3人が共同ディレクターを務める新体制に移行した。川崎とナップはそれぞれKEXで制作と広報を務めており、塚原はcontact GonzoとしてKEXに何度も参加してきた一方、「KOBE-Asia Contemporary Dance Festival #3」(2014)などでのディレクター経験も持ち、それぞれの経験や得意分野を活かした連携が期待される。併せて一新されたロゴも斬新だ。

プログラム構成の大きな変化は、国内外の先鋭的な作品を上演するプログラム「Shows」に加え、アーティストが協働して3年間にわたり関西の地域文化をリサーチする「Kansai Studies」、そしてトークやワークショップなどを通じて多角的に思考を深める「Super Knowledge for the Future(SKF)」の3本柱で構成される点だ。また、関西を拠点とするアーティストを積極的に取り上げ、アジア圏のアーティストの紹介に力を入れている点も、注目すべき変化である。

上演プログラム「Shows」では、関西より、ダンサーの中間アヤカと垣尾優、音遊びの会が選出。中間は、2019 年初演のソロ作品『フリーウェイ・ダンス』を、京都版としてリ・クリエーションする。ダンスの専門的な訓練を受けていない人たちから提供してもらった「初めて踊ったときの記憶」を「振付」として踊るこの作品は、自己/他者、ダンス/日常的な所作といった境界に加え、「出入り自由で庭のような上演空間」「『ごはんの時間』も挟む4時間に及ぶ上演時間」といった仕掛けにより、「ソロダンス作品」の既存の枠組みをゆるやかに解体させていく。contact Gonzoの元メンバーで、近年は自身のソロ作品も発表する垣尾優は、「ダンスそのものに正面から向き合うことで、混沌とした『動く』ことの原初的考察」になるという新作を発表予定。また、知的障害のある人を含むアーティスト集団「音遊びの会」は、即興的なセッションを中心に演奏活動を行なっているが、今回、小説家・作詞家・ラッパーのいとうせいこうを迎え、「音と言葉のセッション」をテーマにしたコラボレーションを行なう。同じく関西の音楽シーンの紹介という点では、BOREDOMS、想い出波止場など多数のバンドで活動してきたミュージシャン、山本精一のディレクションのもと、関西の実験的表現の系譜をたどるプログラムが組まれている。

また、「Kansai Studies」では、大阪の建築家ユニットdot architectsと、京都の演出家・和田ながらが、「水」をテーマに関西各地のリサーチを行ない、ウェブサイトでのリサーチ過程の公開を経て、2022年度に3年間の成果を発表する予定だ。



中間アヤカ&コレオグラフィ『フリーウェイ・ダンス』 [Photo by Junpei Iwamoto]


アジア圏からは、インドネシアのヴィジュアル・アーティスト、ナターシャ・トンテイと、タイの若手演出家、ウィチャヤ・アータマートが参加。ナターシャ・トンテイの『秘密のグルメ倶楽部』は、人体を模した料理を、ホストの彼女自身とパフォーマーが食べるというパフォーマティブ・ディナー。ポップでグロ可愛い世界観のなかに、カニバリズムや過剰消費といった問題が潜む。また、多くの国際フェスティバルで高い評価を受けたウィチャヤ・アータマートの『父の歌(5月の3日間)』は、バンコクの小さなキッチンを舞台に、亡き父を偲ぶ姉弟の会話を通して、個人的な日常のなかにタイの政治史が交差するさまを描き出す。



ナターシャ・トンテイ『秘密のグルメ倶楽部』 [© Natasha Tontey]


KEXは過去10年を通して、「常識」「タブー」を激しく揺さぶるような挑発的な作品を取り上げてきたが、その実験性やラディカルな批評性は健在だ。特にジェンダーやセクシュアリティ、身体の表象をめぐる思考を挑発的に展開するのが、オーストリアの振付家のフロレンティナ・ホルツィンガー、カナダの振付家・ライブアーティストのデイナ・ミシェル、カナダのアート&リサーチ集団、ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネルによる3作品である。フロレンティナ・ホルツィンガーの『Apollon』(映像での上映)は、バレエの名作『アポロ』の神話的世界をベースに、6名の女性パフォーマーが出演。マシントレーニング、バレエのバーレッスンからスプラッターやワイヤーアクションが悪趣味なまでに展開し、女性の身体やジェンダー表象に問いを投げかける。デイナ・ミシェルは、ソロ作品『Mercurial George』の記録映像と新作映像作品『Lay them all down』の2本立てを上映。独自のダンス言語と繊細なジェスチャーで、自身のアイデンティティやセクシュアリティを問う。ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネルは、各国でワークショップを重ねて上演してきた『私がこれまでに体験したセックスのすべて』の日本版を上演する。多様なバックグラウンドを持つ60歳以上のシニアたちが、リアルな性体験を通して人生を語っていくという対話型演劇だ。



ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネル『私がこれまでに体験したセックスのすべて』(オーストラリアでの上演、2017)[Photo by Jim Lee]


最後に、舞台芸術全体に対する相対化の視線として、キュレーター・映像作家の小原真史が企画する展覧会「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」がある。1903年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で、アイヌ、沖縄、台湾などの先住民を「展示」した「学術人類館」をはじめ、19世紀末から 20世紀初頭に欧米諸国の博覧会で行なわれた同様の「人間の展示」の資料写真を紹介する。帝国主義と表裏一体の植民地主義や人種差別への検証とともに、家屋や生活用具を「舞台装置」のように設え、民族衣装をまとった「異民族」が日常生活を再現するさまを眼差す行為はある種演劇的でもあり、本展は、演劇あるいは劇場という装置に対する再帰的な批評性として機能するだろう。



小原真史「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」「学術人類館」(第五回内国勧業博覧会)1903年、個人蔵



公式サイト:https://kyoto-ex.jp/

KYOTO EXPERIMENTロゴ © 小池アイ子

2020/12/25(金)(高嶋慈)

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