2022年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 梅田哲也『リバーウォーク』

会期:2022/10/13~2022/10/16

京都中央信用金庫 旧厚生センター[京都府]

1930年に建てられた元銀行の重厚な建築の各階を、時間差で案内されながら、光や音、物体の回転運動を用いた梅田哲也による空間への介入とパフォーマンスを目撃する体験型作品。観客は各階ごとに受け取るマップを手がかりに、どの部屋で何が起こっているのか、探検さながら進んでいく。

例えば、ある部屋では、ブラインドの下りた窓の前に用意された椅子に座ると、パフォーマーがブラインドを上げ、賑やかな交差点を見下ろす光景が無音の映像として切り取られる。「音楽室」と「残響室」とマップに書かれた部屋に入ると、分厚い緩衝材の壁に沿ってパフォーマーが「ア~」と発声しながら行ったり来たりし、その倍音のような響きは、ストロボ光の残像効果により波形の運動を視覚化したキネティックなオブジェと呼応する。給湯室ではお湯が沸かされ、「暗室」と名づけられた真っ暗な部屋では、カメラ・オブスキュラの内部にいるように小さな「のぞき穴」から外の光景が見える。やはり暗闇の元金庫だった空間に入ると、厳重な扉がパフォーマーによって閉められ、独房のような空間に閉じ込められるが、再び扉が開くと、一気に開放的な広い空間が広がる。レコードと扇風機という「回転運動」の装置を改造したオブジェが散在し、ノイズがアンサンブルを奏でる。屋上に上がると、(先ほど沸いていたお湯で淹れた)お茶がふるまわれ、京都タワーが見える眺望を楽しんでいると、手鏡に集めた「光」をタワーの展望台に送っている人がいる。展望台からも「チカッ」という光が一瞬またたく。一転して地下に降りると、暗い各空間に、即席ミラーボールやライトのモビールが孤独な回転運動を繰り広げ、あるいはライトを持ったパフォーマーの歩みとともに光のさざ波がゆっくりと空間を浸食し、異空間に迷い込んだかのようだ。



梅田哲也『リバーウォーク』(2022)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]



梅田哲也『リバーウォーク』(2022)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


梅田は、1カ月前の『9月0才』でも、元劇場の市民会館を舞台に同様の体験型パフォーマンス作品を発表している。大ホールのある劇場棟と、演奏会場、結婚式場、宴会場や厨房など市民利用者向けの設備を備えた別棟を複雑な導線のもと行き来し、バックヤード、楽屋、屋上、裏階段も含む多様な空間をガイド役のパフォーマーとともに迷宮のように巡りながら、元劇場に残る記憶に触れていく。

一方、より建築の規模が小さい本作では、各階をつなぐ階段がひとつのため、順路は必然的に一本道となる。金庫や「残響室」など特異な空間もあるが、「元銀行の記憶」への言及は希薄で、美術館や元劇場ほど空間の強弱やドラマチックな対照性はない。ここで本作の肝は、「パフォーマーが時間差で部屋の扉を開けていく」仕掛けにある。「解禁」にともない、「次の部屋では何が待ち受けているのか」とひとつずつびっくり箱を開けていくような体験だ。ここでは、「タイムライン」が「部屋」単位で空間化され、「舞台芸術」が持つ時間構造が空間的に自己言及されている。建物全体を「幕」とすると、各階を「場」、さらに各部屋を「景」という舞台作品の構成単位に置換したと言え、建物の構造と舞台作品の時間単位がメタ的にリンクする。特に本作では「光」の仕掛けが印象的だったが、それを引き立てる真っ暗な「暗室」は、「暗転」に相当する。



梅田哲也『リバーウォーク』(2022)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]



梅田哲也『リバーウォーク』(2022)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


梅田は過去のパフォーマンス作品でも、「劇場」「上演」に対する批評性を常に潜在させてきた。例えば、観客が船に乗船し、大阪市内の水路を下りながら船内や対岸での出来事やラジオからの実況を聴くパフォーマンス・ツアー『入船』では、「川の流れ」がまさに舞台作品のタイムラインのメタファーになる。同時に、同時多発性による「見逃し」「聞き逃し」のリスク、どこまでが事前に仕組まれた「演出」でどこまでが「偶然の出来事」なのかの境界の曖昧さは、「船の乗客」という「共同体」が共有すべき経験の同質性に基づく舞台芸術への批判として機能していた。また、『インターンシップ』では、音響、照明、オーケストラピット、可動式の客席など劇場の物理的機構をフル稼働させつつ、「舞台上に見るべきものは何もない」という壮大なスペクタクル批判それ自体が上演されていた。

四角いキューブとして分割された空間を「時間の分節」として体感させる本作もまた、単に「タイムラインの可視化」にとどまらない批評性が胚胎する。受付を済ませ、手荷物を預けて「開演」を待つあいだと「終演後」の時間、観客は1階の広い空間(元銀行のロビー)で過ごすのだが、足場が組まれ、バスケットボールのゴールや作業台が置かれたこの空間では、パフォーマーたちや梅田自身が常に「運動」や「作業」を繰り広げているのだ。手作りの「楽器」が鳴らされ、足場の金属パイプが叩かれ、天井から吊られた拡声器が回転しながら時報やノイズを繰り出し、梅田は物販のオリジナルTシャツにシルクスクリーンプリントを刷っている。ここでは、「常に何かが進行中」であり、「ツアー作品を上演中のほかの階」に物音が突然響き渡り、線的な時間の流れが聴覚的侵入で撹乱される。分節化されたタイムラインと、それを内部から侵食する緩慢な持続の時間。その2つの「時間」の態を拮抗させながら扱う本作は、「劇場」「上演」に対する梅田の批評的意識の継続的な展開を示していた。



梅田哲也『リバーウォーク』(2022)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2022_tetsuyaumeda/


関連レビュー

高槻芸術時間「インタールード」 梅田哲也『9月0才』|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年10月15日号)
入船 19|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年04月15日号)
TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年03月15日号)

2022/10/15(木)(高嶋慈)

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手話裁判劇『テロ』

会期:2022/10/05~2022/10/10

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

ドイツの小説家/弁護士のフェルディナント・フォン・シーラッハによる観客参加型の裁判劇『テロ』を、「ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)による2人1役で演じる」という意欲作。『テロ』は2015年の発表直後からドイツで大きな反響を呼び、翻訳も刊行されている(東京創元社、2016)。この裁判劇が描くのは、「乗客164人を乗せた旅客機をテロリストがハイジャックし、観客7万人で満員のサッカースタジアムに墜落させようと目論んだが、緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜した。乗客164人を殺して7万人を救った彼は有罪か? 無罪か?」という難問だ。さらに、「判決」は観客の投票によって決定され、有罪と無罪、2通りの結末が用意されている。この問題提起的な戯曲を、字幕や「舞台端に立った手話通訳者」という従来の補助的な情報保障ではなく、「手話と発話のペアで一つの役を演じる」という形でバリアフリー上演のあり方そのものの大きな更新を試みた(なお、字幕も併用されている)。演出は、「ももちの世界」主宰の劇作家・演出家のピンク地底人3号。



[撮影:河西沙織]


『テロ』が提示するのは、「大量殺人を未然に防ぐためなら、“より少数の命”の犠牲は認められるのか?」という倫理の問題だけにとどまらない。裁判長、検察官、弁護人、被告人、証人のやり取りを通して、さまざまな問題提起が浮かび上がってくる。作中では、9.11のテロを受け、緊急事態には国防大臣の判断による武力行使を容認し、ハイジャック機の撃墜もやむなしとする「航空安全法」が制定されたが、ドイツの最高裁判所で違憲判決が出されたことが描かれる。この判決に対し、元国防大臣は、ハイジャック機の撃墜を命じる超法規的措置の必要性を発言した。国家による殺人の正当化、法の遵守と人命の尊厳。ハイジャック発覚からスタジアムへの墜落予定時刻まで52分と、避難には十分な時間があったにもかかわらず、誰もスタジアムからの観客の避難指示を出さなかった空軍幹部の無責任さや無能さ。「飛行機の乗客は自分がテロに遭う可能性に承諾している」と主張する被告の自己責任論。

そもそも、裁判と演劇は親和的で、「裁判劇」はメタ演劇でもある。法廷=舞台、傍聴席=観客席という二重性。過去の事件の「言葉による再現」。さらに本作では、観客が「参審員」(ドイツの裁判では一般市民が任期制で審理に参加する)となって評決に一票を投じる。観客を傍観者ではなく、裁判の当事者に巻き込むこの仕掛けは、メタ演劇性を強調すると同時に、「上演」の結末自体を決める力を委ねることで、より大きな意味を持つ。法廷での審理=社会の縮図とすると、投票という仕組みを上演に組み込むことは、民主主義の機能に対する信頼と希求でもある。「この社会がどうあってほしいか」方向性を決めて変えることができる力を一人ひとりが有していること。同時に、「自分とは異なる(真っ向から対立する)意見をもつ他者が同じ場にいること」を否応なく可視化させる。

では、この戯曲を「ろう俳優による手話劇」として上演する必然性とは何だろうか。演出のピンク地底人3号は、ろうの母親とコーダ(聴覚障害者の親を持つ聴者の子ども)の息子を軸に描いた『華指1832』(2021)で初めて手話劇に挑戦した。『華指1832』では、基本的に、聴覚障害者の役をろう俳優が手話で演じ、聴者の役を聴者の俳優が手話と発話の併用で演じていた。一方、本作では、「ひとつの役を、ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)のペアで演じる」という実験的な形式を試みた。この形式の採用は、「字幕や舞台端の手話通訳だと、舞台上の俳優の動きを同時に追いにくい」という技術的な問題の解決にとどまらず、戯曲そのものに対して、以下の2方向の批評を加えていたといえる。



[撮影:河西沙織]


ひとつめは、検察官の台詞が端的に示すように、「より多くの人の命が救える場合、もう一方の命を放棄することは許されるのですか?」という問いに関わる。この問いは、「有罪の判決文」で裁判長が判例として挙げる、難破船での殺害事件に変奏される。船長と水夫の3人は、より立場が弱く、孤児で、脱水症状で余命わずかと思われる給仕係の少年を殺害し、人肉を食べることで生き残った。ここに圧縮されるのは、「より多くの成員を生かすために、コミュニティで最も弱い者を殺すことは正当化されるのか」「社会的弱者は全体の犠牲になってよいのか」という戯曲の核心だ。だが、健常者の俳優だけで上演すれば、「結局、マジョリティだけで言っている正論」になってしまう。本作では、ろう俳優に加え、全盲の俳優などさまざまなマイノリティが出演することで、戯曲の核と意義がよりクリアに浮かび上がった。

また、「2人1役」は、1人の人物の二面性や複雑な両面性を示唆するという演出的効果ももたらした。例えば、同じ役を、感情を露にする片方の俳優と、押し殺した表情で演じる俳優は、「理性と感情」の相克を示す。また、筆者の観劇回は「有罪判決」だったが、判決が言い渡されたラストシーンで、被告のひとりはがっくりとうなだれ、もうひとりがその肩にそっと手を置く。理性と感情、俯瞰的に冷静視しているもうひとりの自分、あるいは良心。「2人の演技」に微妙な、時に劇的な差を出すことで、内面の複雑さや奥行きを伝える。それはさらに、「無罪か有罪か」「正義か犯罪か」「英雄か殺人か」という二項対立を突きつける戯曲世界に対する批評でもある。

このように、本作では、「2人1役の手話劇」という実験的な試みは成功していたといえる。ろう俳優の表情の豊かさは魅力的で見入ってしまう。また、「ろう者にとっての音楽」を映像化した映画『LISTEN リッスン』でも手の表現の繊細さが際立っていたが、本作では、上空を行き交う飛行機の群れや空を飛ぶかもめを俳優たちが身体的に表現するアンサンブルのシーンで活かされていた。ただ、「2人1役の手話劇」には戯曲との相性もある。本作のような「裁判劇」では、「裁判長」「弁護人」「検察官」「証人」といったポジション(役およびどこに着席するか)は固定的で明快で、混乱なく見ることができた。「バリアフリー上演の更新」という点でも、ピンク地底人3号には今後も手話劇の可能性に挑戦してほしいと願う。



[撮影:河西沙織]



[撮影:河西沙織]


公式サイト:https://www.kavc.or.jp/kp2022/

ももちの世界:https://momochinosekai.tumblr.com/

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LISTEN リッスン|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2022/10/09(日)(高嶋慈)

国際芸術祭「あいち2022」 百瀬文《Jokanaan》、『クローラー』

会期:2022/07/30~2022/10/10

愛知芸術文化センター、愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

愛知芸術文化センターでの展示作品《Jokanaan》(2019)と、1対1の体験型パフォーマンス作品『クローラー』。本稿では、百瀬文の秀逸な2作品を、「女性が欲望の主体であることの回復」「見る/見られるという視線の構造」「他者の欲望の代演」という繋がりの糸から取り上げる。

2チャンネルの映像作品《Jokanaan》では、オペラ『サロメ』でヨカナーン(預言者ヨハネ)への狂信的な愛を歌い上げるサロメの歌が流れるなか、左画面ではモーションキャプチャースーツを着て口パクで踊る男性パフォーマーが映され、右画面では、男性の動きのデータを元につくられた3DCGの女性像が映る。ユダヤ王の娘サロメは、幽閉されたヨカナーンに恋焦がれるが、愛を拒絶されたため、踊りの褒美に彼の生首を所望し、銀の皿に載せられた生首の唇に恍惚状態で接吻する。独占欲、プライド、絶望、歓喜がない交ぜになった倒錯的な愛のアリア。同期する二人の男女は、激情をぶつけ合う恋人どうしの二重唱のように見えるが、「なぜ私を見つめてくれないの」というサロメの台詞を文字通り遂行するように、両者の視線は同じ方向を向き、いっさい交わらない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)[© 国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:ToLoLo studio]


一方、映像の後半では、(カメラワークの妙もあり)二人の動きは次第にズレをはらみ、男性がモーションキャプチャースーツを脱いで動きを止めても、CGの女性は歌い踊り続ける。女性の足元には(CGの)血だけがついた空の皿が置かれ、男性の足元には実物の銀色の皿が置かれている。ラストシーンでは、男性が身を横たえて皿の上に首を載せ、「ヨカナーンの生首」を演じる一方、右側の画面は血のついた皿だけを映し、女性の姿は映らない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)


これは、「視線」と密接に結び付いた、「欲望の主体の回復」についての秀逸な逆転劇だ。前半では、「性に奔放で、男を破滅に導くファム・ファタール」という性幻想が、まさに男性の身体を通して生産され、CGであるサロメは他者の描く欲望を忠実に代演し続けるしかない。だがこの従属関係は次第に歪み始め、男性がスーツを脱ぐことでサロメはコントロールから解放され、最終的には画面から「消失」する。すなわち「見られる対象」ではなくなり、「サロメ自身の視線」が捉えたイメージ(だけ)が映し出される。しかもそこには、それまで欲望の主体の側だった「左画面」に投影され、上書きし、奪い返して占拠するという二重の転倒が仕掛けられているのだ。


一方、パフォーミングアーツのプログラムで上演された『クローラー』では、観客はたった一人で暗闇のなか、車椅子に座り、肩にかけたウェアラブルスピーカーから聴こえる、極めて親密な女性の語りに耳を傾ける。脳性麻痺のため、車椅子に乗っている硬直した身体。うまく開かない股の割れ目に差し入れる不器用な手。遠くに小さな灯がともる。声の指示に従い、車椅子に座る私は、その灯に向かってゆっくりと車輪をこぐ。慣れない車椅子の操作、暗闇と静寂に包まれる不安と緊張感。そのぎこちない道のりは、声が語る「遠くの灯台へ向かって漕ぎ出すような、オルガズムへのゆるやかな到達」と同時に、「障害者女性の性」という遠く隔たった存在へ向かっていく二重のメタ性を帯びている。誰の姿も見えない暗闇は、「社会の中で不可視化されていること」を文字通り指し示す。その暗闇はまた、絶対的な孤独と同時に、「誰からも見られていない」という安全の保証でもあり、多義性を帯びている。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


灯に近づくにつれ、車椅子をこぐ指が冷たくなり、2つに見えた灯が実は水面に映る影で、浅く水の張られた水面を進んでいたのだと分かる。そして灯の向こうに、おぼろげな白い人影が揺らめく。声が語る、お気に入りのアダルトビデオ。障害者専門のセックスワークに従事した経験。絶頂を感じる瞬間、身体の日常的な痛みから解放される、それが自慰行為の目的であること。人影はちゃぷちゃぷと水音を立ててこちらに歩み、車椅子の隣にかがんでともに灯を見つめる。オルガズムへの接近を告げるように明るさを増す灯。対峙の恐怖から、「誰かが傍にいて寄り添ってくれる」安心感へ。ゆっくりと車椅子を押して灯の周囲を一周してくれるその人は、メタレベルでは、オルガズムへの到達に導いてくれる存在だ。ちゃぷ、ちゃぷというリズミカルな水音は、濡れる粘膜が立てる音へと想像のなかで変換される。だが私の身体、特に下半身は水の冷気で冷たくこわばっていく。15分という短くも長い上演時間は、語り手とともに想像のオルガズムを共有するために必要な時間だったのだ。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


百瀬は、障害者専門のセックスワークの経験がある障害者女性への取材を元にテキストを書き、その女性自身が朗読を担当した。「舞台上の障害者を一方的に眼差す」という非対称な関係性ではなく、(「誰にも姿が見られていない」ことも含めて)観客自身が当事者に近い状況に置かれたとき、身体感覚と想像力をどこまで接近させられるのか(あるいは、どのように接近できないのか)。「障害者女性の性とケア」という社会的に不可視化された領域を、車椅子、灯、水を用いた緻密な構築により、まさに暗闇の中でこそ(擬似)体験可能なものとして身体的にインストールさせる本作は、VRとは別の形で、「抑圧され、共有困難な他者の欲望をどのように代演・想像できるか?」という困難な問いに応えていた。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


*『クローラー』の上演日は2022年10月6日(木)〜10月10日(月・祝)。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/momose-aya.html

関連レビュー

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2022/10/06(高嶋慈)

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国際芸術祭「あいち2022」 アピチャッポン・ウィーラセタクン『太陽との対話(VR)』

会期:2022/10/04~2022/10/10

愛知県芸術劇場 大リハーサル室[愛知県]

映画とVRは共存・融合可能なのか。「スクリーンという同一平面に投影された光を見つめる」という映画の集団的な没入体験は、VRによってさらに拡張されるのか。そのとき映画は、「集合的な夢への没入」の座をVRに明け渡してしまうのか、あるいは映画とは、宇宙空間で膨張し続ける太陽のように、VRすらも飲み込んでしまう巨大な光なのか。映画館の座席に身体をあずけたまま夢を見る──仮死状態にある観客の身体は、VR装置によって、互いの姿が見えないままゾンビ的な緩慢さでさまよう亡霊的身体に変容させられるのか。だとすれば、映画からVRへの移行は、あるひとつの(仮)死から別の(仮)死への不連続的な移行ではないか。その移行自体を、どのように体験/眼差すことが可能か。

アピチャッポン・ウィーラセタクンが国際芸術祭「あいち2022」から委嘱を受けて制作した、初のVR体験型パフォーマンスである本作は、このような問いの連鎖の周りを旋回する。本作は二部構成で、前半では、上演空間の中央に吊られた二面スクリーンに投影される映画を鑑賞し、後半ではVRのヘッドセットを付けて鑑賞する。そして本作の最大のポイントは、前半/後半が同一空間で展開され、映画/VRそれぞれの鑑賞者が混在する点だ

映画は両面とも「眠る人」の映像で始まり、ゆるやかに同期しつつ、裏表で異なる映像が映し出されていく。緑したたるテラスや深い森を背に語られる、断片的なモノローグ。「夕方、盲目の詩人が街に繰り出す」という夢。「歩いている人、止まっている人。彼らは見ているふりをする。歩き続けている人もいる」……。中庭に揺れるハンモック。ギターを爪弾く男。俯瞰ショットで捉えたデモや集会では、人々の持つ灯が星の瞬きのようにきらめき、美しい波動となって地を覆う。裏面では回転するネオン管のオブジェが映され、エモーショナルな夢幻性を高める。巨大な太陽の出現。そして再び眠る人の映像に、「都市」「最後の夢」「1000日分の昨日」「影」「無政府/君主制」「消された」「歴史」「遠くにある映画」「寺院の光」といった単語がエンドロールのように流れていく。



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


後半、VRのヘッドセットを付けると、映画からバトンを受け取るように、「眠る人が映るスクリーン」が同じ場所に浮かんでいる。さらに、何人もの「眠る人」のスクリーンが周囲を取り囲む。他のVR鑑賞者は「浮遊する白い光の球体」として見え、身体を失った私は多数の死者の魂とともに、「他者の夢」という異界に入っていく。スクリーン群は徐々に消滅し、闇に飲み込まれ、荒涼とした岩の大地が現われる。ゆっくりと頭上から落下する岩石、流星をかたどったような光の構造体。この異星の洞窟には、原始的な壁画と奇妙で巨大な石像がある。両眼を塗り潰され、唇を縫い合わされつつ、勃起した男根を持つ石像だ。巨大な光の球体の出現と分裂、消滅。やがて視点は地面を離れ、他の死者の魂たちと暗い洞窟のなかを上昇=昇天していく。足下を見下ろすと、石像の頭部が溶けかかったように崩れている。長く暗い産道。頭上の出口に見えるまばゆい光。太陽のようなその球体はぽこぽこと分裂し、小さな恒星を生み出すが、内側から黒い球体に侵食され、闇に飲み込まれていく。ひとつの惑星の文明や政治体制の死と、太陽の誕生と死という宇宙的スケールの時間が重なり合う。

本作のVR体験とは、「映画のスクリーンに映る、眠る人々」が見ている夢の中へまさに入っていく体験であり、二部構成だが、構造的には入れ子状をなす。夢の世界では、身体感覚を手放し、他者の存在しない、イメージと音だけの世界を一人称視点でさまよう。夢とVRの相似形は、前半の映画パートで、VR体験者が夢遊病者のように見えることで強調される。VR体験者たちの動きが止まったり、一斉に頭上をあおぐ様子は、彼らが集団的な夢の中にいることを示唆する。それはオルタナティブな現実への夢想なのか、それとも現実を忘却させる麻薬的な陶酔なのか。また、映画パートで語られる「街に繰り出す盲目の詩人たち」「歩いている人、止まっている人。彼らは見ているふりをする」といった台詞は、VR体験者をメタ的に言及し、「夢の中に入り込む」VR体験を「語り手が見た夢」の中にまさに入れ子状に取り込んでしまう。



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


アピチャッポンは過去の映画作品でも、現実と並行的に存在する「夢の中の世界」や、夢を通して死者の霊と交信する物語を描いてきた。だがそこには、「夢というもうひとつの世界を、スクリーンという同一平面上で見るしかない」という物理的制約があった。しかし本作でアピチャッポンは、「映画の技術的拡張としてのVRの援用」にとどまらず、「映画」の中にVRを取り込み吸収してしまったのだ。3年前のあいちトリエンナーレ2019で上演された小泉明郎のVR作品『縛られたプロメテウス』も、同様に「VR体験中の鑑賞者を眼差す」体験を組み込むことで、「身体感覚の希薄化/他者との共有の回路」「他者の身体を眼差すことと倫理性」について批評的に問うものだった。本作もそうしたVR自体への自己言及を基盤に、物理的制約を解かれた「映画」の中にVRさえも飲み込んでしまう、静謐だが恐るべき作品だった。


★──ただし、上演時間1時間のうち、観客は30分ごとに入場して前半(映画)/後半(VR)が入れ替わるため、各日とも、「初回の前半」は映画パートの観客のみ、「最終回の後半」はVRパートの観客のみであり、混在状態にはならない。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/apichatpong-weerasethakul.html

関連レビュー

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小泉明郎『縛られたプロメテウス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)
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2022/10/04(高嶋慈)

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中尾美園「ある家の図譜」

会期:2022/09/21~2022/10/02

なら歴史芸術文化村[奈良県]

祖母や高齢の女性たちが箪笥に保管していた思い出の品や着物、「祝日の国旗掲揚」「正月に飾るしめ縄作り」といった慣習、火災焼失した小倉遊亀の日本画の「再現模写」。中尾美園はこれまで、個人の遺品、廃れゆく慣習、焼失した作品といった「失われゆくもの」「失われたもの」を日本画材で精緻に写し取り、桐箱に収められた絵巻物という保存装置に仕立てることで、「記憶やものの保存と継承」について問うてきた。その根底には、大学院で保存修復を学び、美術品や古文書の「補彩」という保存修復の仕事に携わった経歴がある。

本展は、なら歴史芸術文化村でのレジデンスの成果発表展。なら歴史芸術文化村は今年3月にオープンした道の駅だが、文化財4分野(仏像等彫刻、絵画・書跡等、建造物、考古遺物)の修復工房をガラス張りで公開する施設を備え、レジデンス事業も行なっている。約1ヵ月半滞在制作した中尾は、昭和に建てられた一軒の住宅の解体現場で採取した壁や床、欄間、家具など「家の断片」をスタジオに持ち込み、10cm四方ほどの大きさに切り取り、1点ずつ原寸大で模写を行なった。「仏間」「居間」「台所」など部屋ごとに1枚の和紙に写し取られた壁や家具の「断片(=切:きれ)」は、《高橋家切》(2022)としてガラス張りの修復工房と同じ空間に展示された。《高橋家切》では、壁や床、家具の合板の木目、聚楽壁(土壁)のざらざらした質感、畳や障子、こすれた食卓の角、すりきれた合皮のソファ、シールの剥がれた跡や落書きなど、シミや汚れまで克明に写し取られ、長年使い込まれた生活の痕跡を伝える。



中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]




中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]


一方、作業現場となったスタジオが、現物の模写資料とともに公開された。模写されたさまざまな現物の断片が、白い座布団状の緩衝材の上に丁寧に置かれている(文化財修復の際に用いる、薄葉紙という丈夫な薄い和紙で綿を包んだ「綿布団」である)。また、1点ずつ、「名称、採取した部屋名、管理番号」が書かれたラベルが「発掘資料」のように添えられる。中尾の手つきは両義的だ。「解体された民家の断片」が「貴重な歴史資料」を擬態すること。「断片に切断する」という暴力性と、「破損せぬよう慎重に保護する」というケア的身振り。中尾は過去作品で、祖母や高齢の女性たちが大切に保管していた着物を、人生を物語る断片=「切(きれ)」としてハギレほどの大きさに断片化して模写しているが、模写の対象を実際に切断し、かつ展示するのは初めてだという。とりわけ、落書きやシールの貼られた壁や家具は、あえて途中で寸断され、痛々しい暴力性を帯びる。



中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]



中尾美園《高橋家住宅資料》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]


ここで、「切断」は二重の暴力性を伴っている。のこぎりで切断するという物理的な暴力と、かつて所属していた文脈からの断絶・強制移動というもう一つの暴力性。後者は、「美術館」「博物館」への収蔵と共鳴し、振られた番号が「管理」の権力を示唆し、きっちりと正方形に揃えられた「資料サンプル」は「そこから切り捨てられた残余」があることを逆照射する。一方、「管理対象となった資料」の奥には、「未整理のもの」が作業台の上に無造作に積まれている。それは、保存修復とは未完のサイクルであること、そして生産と時代の加速化により、どんどん「古いもの」にされていくスピードに我々は追いつけないことを示す。

歴史化の作業は(恣意的な)フレーミングや「文脈の切断」の暴力性を伴うことを示しつつ、傷や劣化を補修してあくまで「もの」として残す文化財修復とは別の、「模写」というかたちで記憶を写し取って残そうとする中尾作品。そのとき、「断片化して写す」という作法は、「すべてを保存すること」の不可能性と同時に、「断片どうしのつながりや全体像への想起」を促す。実際の文化財の修復工房と並行的に見ることで、中尾作品の意義や射程がより広がって見えてくる好企画だった。



スタジオの展示風景[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]



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2022/09/25(日)(高嶋慈)

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