2022年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

デザインに関するレビュー/プレビュー

アーツ・アンド・クラフツとデザイン ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで

会期:2022/09/23~2022/12/04

府中市美術館[東京都]

「モダンデザインの父」と呼ばれるウィリアム・モリスについて考える際、デザインとは何かを改めて考えざるをえない。そもそもイギリスで起きた産業革命が、モリスに手工芸品の復興を促すきっかけを与えたとされている。当時、急速に進んだ機械化への反動だ。しかしながら大量生産が当たり前となり、デザインの概念が広がった現代から見ると、実は産業革命そのものが社会の仕組みを大きく変えるデザインだったとも言える。もちろん技術革新を遂げるにはある程度の時間を要する。当初は粗悪品も多かっただろう。そうした時代の節目に肌で感じるのは、失われた過去の輝きだ。長い目で見れば人々の生活水準はだんだん向上していくのだが、モリスが生きた時代にはまだそれを感じられなかったに違いない。だから彼は庶民の視点で、豊かな暮らしを取り戻そうと必死になったのだ。


ウィリアム・モリス 《いちご泥棒》(1883)個人蔵


本展はそんなウィリアム・モリスから、約半世紀先の米国で生まれ活躍した建築家のフランク・ロイド・ライトまでを辿った、アーツ・アンド・クラフツ運動を振り返る展覧会である。その名が示すとおり、アーツ・アンド・クラフツ運動は美術と工芸を礼賛する運動であって、そこにデザインという言葉は入っていない。それなのにモリスが「モダンデザインの父」と呼ばれるゆえんは何なのか。それは当時、デザインという概念がまだ世の中に芽生えていなかったことが推測される。何しろモリスが「父」なのだから。だからそれに置き換わる美術と工芸で、人々の暮らしを良くしようとする運動が起きた。しかし現代から見れば「人々の暮らしを良くすること」を考えること自体、デザインなのだ。この思想がとても普遍的であったからこそ、アーツ・アンド・クラフツ運動は世紀を超え、欧州全土から米国まで及んだ。モリスが否定した機械化も、時代を経れば、肯定的に受け止められていく。なぜなら機械化は手段であり、目的は「人々の暮らしを良くすること」なのである。その点で、本展でアーツ・アンド・クラフツ運動に携わった建築家や画家らをはじめ、その余波としてリバティー商会、高級宝石商のティファニー、そしてフランク・ロイド・ライトまでを展示した意味はあったのではないかと感じた。


ウィリアム・モリス 《格子垣》(1864)個人蔵



公式サイト:http://fam-exhibition.com/artsandcrafts/

2022/10/26(水)(杉江あこ)

特別展「Life with Bonsai〜はじめよう、盆栽のある暮らし」

会期:2022/10/14~2022/11/09

さいたま市大宮盆栽美術館[埼玉県]

昨年春、美術家2人を招聘した企画展が記憶に新しいさいたま市大宮盆栽美術館で、特別展「Life with Bonsai」が開催された。今度は美術家をはじめ建築家、写真家、ファッションデザイナー、編集者ら多彩な9人のクリエイターを招き、それぞれが独自の盆栽飾りを発表した。盆栽飾りは、盆栽、掛軸、添物(水石や小さな盆栽)を設える三点飾りが基本。このいわば“型”をいかに押さえつつ崩すかが、センスの見せどころとなる。その点で本展はかなりバラエティーに富んだ内容であった。

まず印象に残ったのは、写真家、大和田良の展示である。構成要素が三点に絞られている点で、三点飾りの基本に則ってはいるのだが、主となるのは盆栽ではなく水石で、添物として小さな盆栽が脇の付書院に飾られているのみだった。なぜこうした構成なのかと言えば、京都の加茂川流域で採れる「水溜り石」を撮った自身の写真作品が掛軸として掛けられていたからだ。その掛軸と対比させるように「加茂川石」を水石にし、それをあえて主に選んだようである。被写体を二次元から三次元へと広げるがごとく、写真と本物とを同等に並べて見せるところが、実に写真家らしい発想に思えた。


大和田良《加茂川石》(2022)
ラムダプリント 加茂川石(大宮盆栽美術館) 黒松(藤樹園)


ほかにファッションデザイナーの津森千里や、建築家・プロダクトデザイナーの板坂諭の展示もユニークだったが、やはり注目したいのは昨年春にも参加した須田悦弘、ミヤケマイの美術家2人である。須田の展示は、一見、山もみじの盆栽が卓の上に設えられているだけに見える。キャプションを見ると、作品名も「もみじ」とあり、いったいどれが彼の作品? と戸惑うのだが、配布資料に親切にも説明が書かれていたことで理解できた。なんと、床に一葉落ちていた“落ち葉”が彼の彫刻作品だったのだ。あえて偽物を本物に紛れさせた挑戦的な展示である。一方でミヤケの展示は、床の間飾りに精通した彼女らしい完成度を見せていた。テーマは「虫養い」で、これは小腹が空いた時に食べる「お腹の虫に与えるおやつ」という意味だそう。また本展開催時の10月は、茶の湯では新茶の茶壺を開く直前の「名残の月」と呼ばれることに合わせ、遊び心にあふれた自身の掛軸作品などを取り合わせていた。結局、盆栽をどう解釈するのかは自由でいい。そんなメッセージを本展から受け取った。


須田悦弘《もみじ》(2022)
木に彩色 山もみじ(大宮盆栽美術館)


ミヤケマイ《虫養い Peckish》(2017/個人蔵)
ミクストメディア・軸 チャノキ、瀬田川石、舟(以上、大宮盆栽美術館)



公式サイト:https://www.bonsai-art-museum.jp/ja/exhibition/exhibition-8285/


関連レビュー

「さいたま市民の日」記念企画展 第6回「世界盆栽の日」記念・「さいたま国際芸術祭 Since2020」コラボレーション展 ×須田悦弘・ミヤケマイ|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年05月15日号)

2022/10/22(土)(杉江あこ)

展覧会 岡本太郎

会期:2022/10/18~2022/12/28

東京都美術館[東京都]

戦後の近代日本においてもっとも有名で、社会に強い影響を与えた芸術家は岡本太郎をさしおいてほかにはいないだろう。岡本の魅力は、何と言ってもその強さにあると思う。例えば名著『今日の芸術』でこう宣言している。「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」。岡本が遺した多くの作品が、まさにこの宣言どおりだ。きれいでもなければ、心地良くもない。しかし強烈なインパクトを観る者に与え、心を揺さぶる。それこそが本当の芸術だという。そんな岡本の過去最大規模の回顧展が開催中である。


展示風景 東京都美術館LBF(地下1階)


本展は地下1階から始まり、地上1階、2階へと続くのだが、まず地下1階では作品一つひとつにぐっと歩み寄って対峙してほしいという意図から、解説は控えめに、空間全体の照明を落とし、作品だけにスポットライトを当てた演出となっていた。正直、川崎市岡本太郎美術館で観た覚えのある作品も多かったが、この演出はとても良い。岡本の世界観へ入り込む準備ができた。そして1階から2階にかけては岡本の足跡と作品を時系列で辿る構成となっていた。何より貴重なのは、パリで発掘され、若かりし頃の岡本の作品だろうと推定された油彩画3点が展示されていたことである。いずれもどこか躊躇いがちな抽象画に見えるのは、当時、最先端の前衛芸術運動に関わりながら自らもがいた証なのか。


展示風景(推定 岡本太郎)東京都美術館1F


岡本の旺盛で多岐にわたる創作活動に対して論評はさまざまあると思うが、私がもっとも注目するのは、彼が日本文化のルーツとして縄文土器を見出し、さらに東北や沖縄をはじめ、日本各地へ民族学的視点でフィールドワークを行なったことである。つまり日本の辺境には、大陸から渡来した弥生人ではなく、縄文人のDNAがいまだ残っており、その独自の文化も息づいているはずだという見地だ。見方によっては岡本の作品からほとばしるエネルギーは、ある種、縄文文化的でもある。岡本の作品に感じる強さは、この民族学的視点で自らのアイデンティティをしっかり固めたことにあるのだろう。1970年の大阪万博のシンボルだった《太陽の塔》がそれをもっとも象徴しているように思う。


岡本太郎《縄文土器》 1956年3月5日撮影(東京国立博物館) 川崎市岡本太郎美術館蔵 ©岡本太郎記念現代芸術振興財団


【参考図版】岡本太郎《太陽の塔》(1970/万博記念公園) ©岡本太郎記念現代芸術振興財団



公式サイト:https://taro2022.jp

2022/10/17(月)(杉江あこ)

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細谷巖 突き抜ける気配 Hosoya Gan─Beyond G

会期:2022/09/05~2022/10/24

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

細谷巖(1935-)は永井一正(1929-)や田中一光(1930-2002)、横尾忠則(1936-)らと並び、一時代を築いたアートディレクター兼グラフィックデザイナーとして知られている。87歳を迎えてもいまだ現役で、東京アートディレクターズクラブの現会長も務める。そんな70年近くもの長い活動歴を持ちながら、本展で展示されたほとんどがデビューから間もない時代の作品だったことが目を引いた。その意図は、原点回帰なのか。1955年の日宣美展に出品し特選を受賞したポスター「Oscar Peterson Quartet」をはじめ、1960年代に発表した広告ポスター、パンフレット、書籍の一部、雑誌表紙などが並んでいた。こういう言い方は何だが、彼がもっとも脂が乗っていた頃の作品なのだろう。当然、アナログとデジタルという手法の違いもあるが、半世紀以上も前のこれらの作品にはいまの時代にはない鋭い感覚をはらんでいるように感じた。これが細谷の持ち味なのだろう。

「フォトデザインとも呼ばれるジャンルを確立した」と当時評価されたとおり、細谷は何より写真の扱い方が卓越している。ポスター「Oscar Peterson Quartet」では、ブレのあるモノクロ写真を重ねることでジャズピアニストの指の動きを臨場感たっぷりに表現した。また1961年の「ヤマハオートバイ」ポスターでは、二人乗りのオートバイが道を走っている写真を採用したのだが、「ありきたりな写真だったから」という理由で、写真を90度回転させ、上から下へ落下するような感覚を見る者に与えてより疾走感を演出した。これらの作品には、パソコンで写真をいかようにも加工できてしまう環境ではなかったからこその気迫がある。不自由は自由を生み、かえって自由は不自由を招くのではないかと思えた。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー1階[撮影:藤塚光政/提供:ギンザ・グラフィック・ギャラリー]


ところで本展に寄せた識者の解説の中で、面白いキーワードがあった。1935年生まれの細谷は「戦中派」世代であるという指摘だ。彼らは物心がついた少年期はずっと戦争中で、軍国教育を受けて育つものの、ある日突然に戦争が終わり、民主主義の世の中へと転換し、教科書に墨塗りをさせられたという背景がある。つまり大人にだまされた世代であるため、彼らは世の中に対する見方がどこか懐疑的で、屈折しているという分析だ。なるほど、そうした精神構造がクリエイティブにも少なからず影響を与えているのか。冒頭で述べた一時代を築いたデザイナーらが皆、戦中派というのは興味深い事実である。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー地下1階[撮影:藤塚光政/提供:ギンザ・グラフィック・ギャラリー]


公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000789

2022/09/30(金)(杉江あこ)

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装いの力─異性装の日本史

会期:2022/09/03~2022/10/30

渋谷区立松濤美術館[東京都]

「異性装の日本史」とは、公立美術館としてはずいぶん“せめた”テーマである。キワモノ的なのかと思いきや、『古事記』でのヤマトタケルの逸話からテーマを紐解いており、いたって真面目で学術的な内容だった。

神話に始まった日本の異性装がどのような変遷をたどるのかというと、中世には宮中物語や芸能で取り上げられ、戦国の世では女武者が登場し、江戸時代には若衆や蔭間が存在した。また江戸時代に始まった歌舞伎は、ご存知のとおり、現代まで続く異性装の最たる文化だ。いままで歴史の表舞台ではあまり語られてこなかったが、こうして俯瞰して見ると、もともと、日本は異性装やそれに伴う同性愛がごく自然に存在した国だったことがわかる。


三代・山川永徳斎《日本武尊》昭和時代初期(20世紀)個人蔵


その証拠に、異性装が異端として扱われるきっかけとなるのは、明治時代に西洋諸国に恥じぬようにと異性装禁止を含んだ軽犯罪法「違式詿違条例」が制定されたことだった。数年後にそれは別の法令へと引き継がれ、異性装禁止はなくなるのだが、異性装や同性愛は精神の病とする西洋精神医学の導入などにより、それらは世間で嫌悪や偏見の対象となってしまう。近頃、LGBTやジェンダーの問題が頻繁に取り上げられるようになったが、見方を変えれば、ようやく元の日本文化へ戻ったとも言えるのかもしれない。

それにしても、本展タイトル「装いの力」という言葉には考えさせられる。顔つきや声、体形に男女差があるとしても、社会において人は服装や髪型、化粧、持ち物などによって男性か女性かを見分け、また見分けられていることを示すからだ。例えば男性がスカートを履いていれば変な人に見られることの方が多いだろう。それは男性は男性らしい格好をしなければおかしいという固定観念があるからで、逆に言えば男性が男性らしい格好をしていれば「女性に間違われない」という安心感がある。対する相手も、男性らしい格好をした男性を女性に間違えることはないので、混乱を招かずに済む。つまり社会の中で、男性か女性かを見分ける目印として装いは大いに機能しているのだ。そう考えると、装いは社会における優れたデザインと言える。男性か女性かを見分けることは、ひいては男女が結ばれ子を成すことにつながるため、人にとっては非常に根源的な問題なのだ。そうした前提があるからこそ、異性装は異性に化けるための手段として使われてきた。人が異性に化けたときの違和感やドキドキ感がこれまでエンターテインメントの題材となってきたが、しかし近年の性に対する社会的価値観の変化により、我々の意識も揺らぎ始めている。社会の中で男性か女性かを外見で見分けることを必須としなければ、異性装という概念もなくなる時代がやってくるのかもしれない。


森村泰昌《光るセルフポートレイト(女優)/白いマリリン》(1996)
作家蔵(豊田市美術館寄託)



公式サイト:https://shoto-museum.jp/exhibitions/197iseisou/

2022/09/28(水)(杉江あこ)

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