artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

カール・ジンマー『「生きている」とはどういうことか──生命の境界領域に挑む科学者たち』

翻訳:斉藤隆央

発行所:白揚社

発行日:2023/07/12

生命をめぐる学問の歴史は古い。とりわけ自然科学が大きく発展したこの数世紀のあいだ、生命の起源や発生をめぐる問題は、科学者たちの大きな関心事でありつづけてきた。本書は、そんな科学者たちの苦闘を、精力的な取材と魅力的な筆致によって描き出した労作である。著者カール・ジンマー(1966-)は、進化や寄生といったトピックを得意とする高名なサイエンスライターであり、本書でもその手腕は遺憾なく発揮されている。

本書には、さまざまな方法で生命にアプローチする古今の科学者たちが登場する。そのなかには、チャールズ・ダーウィン、トマス・ハクスリー、エルンスト・ヘッケルといった誰もが知る人々に加えて、かつて生命の謎を明らかにしたという名誉に浴しながら、今では歴史の闇に埋もれてしまった科学者たちも含まれる。例えば、本書のはじめに登場する物理学者ジョン・バトラー・バークは、20世紀はじめに生命を生み出す元素を発見したと公表し、一時は英国でもっとも知られる科学者となった。その論文は『ネイチャー』にも発表され大きな話題をよんだが、バークが発見したと称する「レディオーブ」なる元素が存在しないとわかると、その後の人生は転落の一途をたどった。著者によれば、晩年にバークが著した「怪しげな大著」(17頁)である『生命の発生』(1931)には、ほとんど悲痛にも感じられる次のような定義が見られるという──「生命とは生きているものだ」(18頁、傍点省略)。

本書が類書とくらべて際立っていると思われるポイントのひとつは、生命とそうでないものを隔てる基準が、しばしばそれが要請される社会的場面に応じて決定されることを抜かりなく指摘していることだろう。本書第1部「胎動」において、脳死や中絶をめぐる論争が取り上げられることの意義はそこにある。こうしたケースは、「生命とは何か」という問いが、かならずしもその起源や発生を問うこととイコールではないことを明瞭に伝えてくれる。

加えて、本書では歴史にたずねるだけでなく、生命をめぐる同時代の研究成果を紹介することも怠っていない。本書に登場する「生命」のかたちは、ヒト、ヘビ、コウモリ、さらには粘菌、ヒドラ、クマムシにいたるまで、きわめて多岐にわたる。本書は最終的に、生命の定義可能性をめぐる哲学的な議論によって締めくくられる(とりわけ、物理学者から哲学者に転じたキャロル・クリーランドの議論は示唆に富む)。だが、そのパートが説得的に見えるとしたら、数学から宇宙生物学にいたるさまざまな分野の研究者に取材した、それまでの長い道のりがあるからだろう。全体にわたり読者を飽きさせない工夫に満ちた本書は、「生命とは何か」という広大な問いをあくまで具体的な事象に即して考えるにあたり、豊かな材料を提供してくれる。

2023/12/11(月)(星野太)

フランソワーズ・ダステュール『死──有限性についての試論』

翻訳:平野徹

発行所:人文書院

発行日:2023/10/30

哲学にとって「死」は最大のテーマのひとつである。というのも、あらゆる人間に等しく訪れるものでありながら、けっして一人称的には経験しえないただひとつのものが、自分の死であるからだ。死を経験するとき、そこにおのれの意識はすでにない。わたしたちが死について知っているすべてのことは、ほかの人間、ほかの生物を通じて得られた二次的なものでしかない。このような対象を前にして、哲学が語りうることは何だろうか。宗教的な語りとも、生物学的な語りとも異なる、いかなる語りがそこでは可能だろうか。

むろん、古来より死についてはさまざまなことが書かれてきた。そうした過去の言説もふまえながら、この問題に正面から取り組んだのが本書『死──有限性についての試論』である。著者フランソワーズ・ダステュールは1942年生まれのフランスの哲学者であり、独仏の現象学をおもな専門としている。まず強調しておきたいのだが、彼女にとって死をめぐる省察はけっして余技に属するものではない。ダステュールの著作一覧には、本書のほかに死をテーマとする専門書が数冊、および子どもを対象とする、同じテーマについての平易な入門書がある(邦訳『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』伏見操訳、岩崎書店、2016)。ここからわかるのは、ハイデガー、フッサール、メルロ゠ポンティらについて数多くの書物を著してきたこの哲学者にとって、死が一貫して問われるべきテーマでありつづけてきたということだ。

あらかじめ注意をうながしておくと、本書は死をめぐる包括的な哲学史ではない。ダステュールがこのテーマに取り組むにあたってもっとも頻繁に依拠するのが、著者が一番の専門とするマルティン・ハイデガーである。より積極的に言えば、死をめぐる本書の立場は、ハイデガーの思想を展開するかたちで練り上げられたものだと言ってよい。その核心をもっとも端的な言葉で言い表わすなら、おおよそ次のようになる──すなわち、死という乗り越え不可能な出来事に臨むことでのみ、われわれの生の可能性は開かれるのだ、と。

このような考えには、実のところ、まったく意外性はないだろう。あらゆる人間が、ただひとりの例外もなく固有の生をもつのは、われわれがみな死すべき存在であるからだ。人間は、理念としての永遠性や不変性とは無縁な存在であるからこそ、逆説的におのれの生を唯一無二のものとすることができる。ハイデガーこそは、こうした「死すべき存在」としての人間に、もっとも積極的な意味を与えた哲学者にほかならなかった。

ダステュールにおいても、死はけっして否定的なものとはみなされていない。むしろ、死はわれわれが世界へと開かれることを可能にする、唯一無二の地平である。とはいえ、こうした結論だけならば、前掲の子どもむけの本を読んでもそう変わりはないことになる。むしろ本書の読みどころは、そうしたありきたりの結論ではなく、その過程で示される著者の繊細な筆運びにあると言ってよい。例えば、通常「死にむかう存在(être pour la mort)」と訳されるハイデガーのSein zum Todeは、「死にかかわる存在(être relatif à la mort)」とすべきだと著者はいう(151頁、註25)。なぜなら、人間を前者のように──死に「むかう」存在として──捉えることは、死が悪しきものであるという一面的な見かたを暗黙のうちに前提してしまうからだ。こうしたケースに見られるように、本書は、古今のさまざまなテクストを誠実に読みなおすことで、死をめぐるわれわれの思索をより深いところにいざなってくれる。

なお、昨今では死をめぐる思索が「後景に退いている」(9頁)という指摘に、評者もまた同意するものである。もちろん、死が人間にとって縁遠いものになったわけではまったくない。だがその一方、「終活」にまつわるさまざまなビジネスの存在が雄弁に物語るように、われわれの社会生活においては、個々の実存的な死もまたすでに産業的なサイクルのなかに取り込まれている。そのような現代にあって、死が「忘却のなかに落ちこんでいる」(284頁)という著者の実感は広く共有されているにちがいない。全体を通じてきわめて専門的な議論からなる本書が、現代の生のありようをめぐる身近な問題意識に支えられていることは、やはり特筆しておきたい。

2023/12/11(月)(星野太)

ジェシカ・ワイン『数学者たちの黒板』

翻訳:徳田功

発行所:草思社

発行日:2023/07/20

先日、仕事で中国・北京に滞在したおりに、クリストファー・ノーランの新作『オッペンハイマー』(2023)を観る機会があった。原爆の父ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主人公とするこの伝記映画は、2023年9月末日現在、いまだ日本公開の目処が立っていないことで知られる。あくまで憶測の域を出ないとはいえ、その理由は、日本が世界で唯一の被爆国──というより、この映画で開発される原子爆弾の投下された国──であるという事実と無関係ではないだろう。さらに、SNS上で物議を醸した「バーベンハイマー」現象の余波もあり、同作は映画としての内容以前に、公開前から──良くも悪くも──高い注目を集めている。

ここでその『オッペンハイマー』について詳しく語るつもりはないが、個人的にこの映画で印象的だった要素のひとつが、物語中つねに大きな存在感を示す「黒板」の存在だった。知られるように、理論物理学者であったオッペンハイマーが「原爆の父」と言われるのは、かれが原爆開発を目的とするマンハッタン計画で主導的な役割を担った人物だからである。そんな科学者を主人公とする映画とあらば自然なことだが、本作には前途有望な若きオッペンハイマー博士が黒板を背に講義する場面が頻繁に登場する。そして、やがて始まるマンハッタン計画のために集った科学者たちの議論もまた、いつも複雑な式をともなった黒板を背になされるのだ。科学者たちが集まるところ、つねに黒板がある──。この事実は、やはり本作品の主要な部分を占める政治的な弁論(公聴会)の場面が口頭でのやりとりに終始するのと、どこか対照的である。

そんな特異な媒体としての黒板に着目したのが、写真家ジェシカ・ワイン(1972-)による「Do Not Erase」というプロジェクトだ。本書『数学者たちの黒板』は、このプロジェクトをもとにした作家初のモノグラフであり、原著は2021年にプリンストン大学出版局から上梓されている。

本書に収められた109枚の写真は、いずれも数学者たちの黒板を写しとったものだ。教室や研究室のものと思しき黒板には、個性豊かな図や数式が描かれており、どれひとつとして同じものはない。これを書いているわたしも含め、その内容を十全に理解できる者はほとんどいないだろうから、大多数の読者はこれを、ひとつのタブローとして把握することになるだろう。

その黒板の写真には、それぞれのタブローの「作者」である数学者たちの短いエセーが添えられている。これらもまた、写真に劣らず興味深いものばかりだ。とはいえ、その内容は人によってさまざまで、自分が数学の道に足を踏み入れた経緯について語る者、おのれの研究にとっての黒板の重要性について語る者、あるいは数学の愉しみをここぞとばかりに語る者など、個性豊かな100本あまりのエセーが写真の「キャプション」として並ぶ。

なかでも、これらのエセーには共通する一定の特徴がある。まず、本書に登場する数学者たちが総じて強調するのは、コミュニケーションの手段としての黒板の重要性である。ごく当たり前のことだが、PCやノートと比べてはるかに大きな面積を有する黒板は、その場に集まった複数の人間が即座に同じ情報を共有するのに適している。また、スクリーンに投影されたスライドなどとは異なり、その場で──原理的には──誰もが気軽に加筆・修正できるという点でも優れている。本書のもとになったプロジェクトが新型コロナウイルスの流行期に重なったという事情もあってか、本書に登場する複数の数学者が、オンラインでの議論では同じ成果が得られないとこぼしているのも印象的だ。

なかには、ウィルフリッド・ガンボやシミオン・フィリプのように、黒板がもたらす「遅さ」の重要性を強調する者もいる。講義や研究発表のさいに黒板を使用するとなれば、あらかじめ準備した資料にもとづいて内容を説明するよりも、ゆっくりとしたペースにならざるをえない。しかしそのことが結果的に、はじめてその内容にふれる他者の理解を促進する結果につながる、というのだ(20、82頁)。あるいはロネン・ムカメルが指摘するように、黒板を用いた講義や研究発表は「人間の思考の速さで行われる」がゆえに、「準備不足のパワーポイント」などよりもはるかにその優劣を浮き彫りにするだろう(78頁)。

かれら数学者のなかには、黒板のもつ物質性に大きな偏愛を抱く者が少なくない。例えば、本書のはじめに登場するフィリップ・ミシェルのエセーはこんなふうに始まる──「黒板は数学の研究をする生活の基本要素だ。10年前にローザンヌの職場に着いて私が最初にしたのは、悪臭のする赤いペンの置かれた醜いホワイトボードを、本物の黒板と交換するように手配したことだった」(12頁)。このような〈黒板≠ホワイトボード〉という考えかたは、アラン・コンヌ(54頁)、エスター・リフキン(152頁)、ジョン・モーガン(192頁)らも共有するところである。

他方、アミー・ウィルキンソンのように、黒板で数学の研究をすることが「触覚的な経験」(14頁)だと言う者もいる。かと思えば、フィリップ・オーディングのように、指導教員のオフィスにあったスレート製の黒板でチョークが奏でる、不思議なほど「一様な音」について語る者もいる(30頁)。黒板は視覚的なメディアであるにとどまらず、触覚的、聴覚的なメディアでもあるのだ。

本書にはまた、2015年に廃業した日本のメーカー・羽衣文具の栄光が書き留められていることも特筆しておきたい。前出のフィリップ・ミシェルは次のように言う──「滑らかに、途切れることなく書き込むには、上質のチョークも重要だ。特に感動したのは、ある年にクリスマス休暇から戻った博士研究員が、伝説的な日本の『ハゴロモ・フルタッチ・チョーク』を2箱持ってきてくれたときだった」(12頁)。羽衣文具のフルタッチ・チョークは数学者のあいだでは知られた逸品であったらしく、同社の廃業のさいには世界中の数学者による買い占めが起こったという。バッサム・ファヤドが言う「日本製の上質のチョーク」というのも、おそらくこの羽衣チョークのことだろう(156頁)。

昨今、大学の内外における講義や研究発表のほとんどは、Microsoftのパワーポイントをはじめとするデジタルツールによって行なわれている。本書はそうした世の趨勢に対し、実のある説明や議論をするには、黒板というオールドメディアが必要であることを高らかに唱える。それは、おそらく本書の主題である数学に限った話ではなく、新たなアイデアを生み出そうとするあらゆる分野の仕事に当てはまるだろう。本書に登場する数学者たちは、真に創造的な仕事のためには、黒板のような物質的抵抗をともなったメディアが必要であることを示唆しているように思われる。

2023/10/05(木)(星野太)

成相肇『芸術のわるさ──コピー、パロディ、キッチュ、悪』

発行所:かたばみ書房

発行日:2023/06/10

2010年代、東京でもっとも批評的な展覧会を手がけていたキュレーター/学芸員は誰か──この問いをどのような水準で受け取るかにもよるが、わたしにとってその答えははっきりしている。成相肇(1979-)である。

本書『芸術のわるさ』は、その成相肇による初の著書である。目次を一瞥してみればわかるように、本書の中心をなすのは、かつて成相が企画した「不幸なる芸術」(switch point、2011)、「石子順造的世界」(府中市美術館、2011-2012)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」(東京ステーションギャラリー、2014)、「パロディ、二重の声」(同、2017)といった展示の図録および関連原稿だ。それらに加えて、学生時代からの専門である岡本太郎についての論文や、他館の図録に寄せた原稿が、「コピー」「パロディ」「キッチュ」「悪」の全4章に編成されている。

成相が手がける展覧会はいつも、美術館ではなかなか取り上げられることのない対象を中心に据えてきた。展示物の3分の2が「非ファインアート」(188頁)であったという「石子順造的世界」にしても、かつて白川義員とマッド・アマノのあいだで争われた「パロディ裁判」(1971-1987)を大きく取り上げた「パロディ、二重の声」にしても、鑑賞者が一般的に想定する「現代美術展」とはまったく異なる光景が、そこでは広がっていた。これを小さな自主企画などではなく、公の美術館で堂々とやってのけるところに、成相肇という学芸員の真骨頂がある。

そして──これが重要なことだが──成相は文章がめっぽう巧い。いわゆる「論文」調のものはもちろんのこと、本書の随処に見られる「口上」をはじめ、アイロニーやユーモアを交えた文章を書かせたら、おそらく美術業界で右に出るものはいない(それは本書を読めば一目瞭然である)。本書刊行の詳しい経緯については詳らかでないが、これを創業第一書に定めたかたばみ書房の眼力には、ひとりの読者として唸らざるをえない。

念のため、本書の掲げる「芸術のわるさ」についても一言付言しておこう。あとがきでも明らかにされているように(377頁)、本書タイトルに含まれる「わるさ」とは、単に道徳的な「悪さ(=悪意・悪行)」のみならず、遊戯的な「わるさ(=悪戯)」の謂いでもある。後者の「わるさ」を能くしたものとしては、マルセル・デュシャンから赤瀬川原平まで、さまざまな先達の名前が挙がるだろう。本書が掲げる4つのキーワード(コピー、パロディ、キッチュ、悪)のなかで、この意味での「わるさ」ともっとも縁が深いのが「パロディ」である。げんにこのパートは本書の白眉と言ってよいものであり、前掲の「パロディ裁判」の判例を中心に展開される立論は必読である。

かつての鶴見俊輔による限界芸術論をはじめとして、いわゆるファインアート/非ファインアートの境界を問う試みは過去にもさまざまなされてきた。しかし展覧会という場そのものを、こうした思索のための空間に仕立て上げることはけっして容易ではない。本書は、石子順造をはじめとする先達のさまざまな理論的仕事に棹さしつつも、この問題を美術館という制度のど真ん中で展開してみせた、きわめてユニークなキュレーター/学芸員の活動の軌跡である。

2023/07/24(月)(星野太)

金川晋吾『いなくなっていない父』

発行所:晶文社

発行日:2023/04/25

本書の著者・金川晋吾(1981-)は、いまから7年前に写真集『father』(青幻舎、2016)を刊行した。同書は、著者が子どものころから失踪を繰り返してきたという父親を被写体とした作品であり、刊行後さまざまなメディアで取り上げられるなど、大きな反響をよんだ。しかしその父親も、金川がこの作品を撮りはじめた2008年と2009年に一度ずつ失踪したきりで、それ以後は一度も失踪していないという。本書『いなくなっていない父』は、『father』の後日譚に相当するここ数年の記録であるとともに、『father』で定着してしまった「失踪を繰り返す父」というイメージを、作家みずから払拭することを試みたエセーである。

かつて、わたしが『father』を読んだときに何より驚かされたのは、当の写真に続く長大な「日記」の存在だった★1。そこでは、作家がこの作品を撮りはじめるにいたった理由が独白的に語られるのではなく、父親の蒸発、借金、転居、そして兄や弁護士との会話をはじめとする撮影中の出来事が克明に記述されていた。わたしがそこで得た直観は、これを文字通りの、つまり撮影の日々からそのまま垂れ流された日記として読むべきではない、というものだった。この写真集の一部をなす「日記」は、単なる作品解題でもなければ、その詩的なパラフレーズでもない、ひとつのすぐれた散文作品である。果たして『father』の刊行後、この作家の例外的な文才は、文芸誌などのさまざまな媒体で発揮されることとなった。

その筆力は、本書『いなくなっていない父』においても遺憾なく発揮されている。著者は、とくに奇をてらったことを書いているわけではまったくない。むしろ本書は、家族をめぐって、あるいはかつての『father』という作品をめぐって、おのれが経験したこと、あるいはそこで考えたことを、ただ淡々と記録しているといった風情の散文である。だから、本書を一読したときの印象は、『father』のそれと同じく「日記」に近い。にもかかわらず本書が強い印象を残すのは、文章による観察と記録の水準が、一般的なそれと比べて著しく際立っているからだろう。

本書は、写真家が作品を通していちど定着させたイメージ(=「失踪を繰り返す父」)を、文章によって払拭する(=「いなくなっていない父」)という試みとしても、きわめて興味深い。芸術作品──とりわけ写真作品──というのは、往々にして対象の生をひとつのかたちに固定しがちである。むろん、これを回避するために、同じ被写体を数年、数十年のスパンで継続的に撮影する写真家もいる(A1, A2, A3…)。これに対して本書は、かつてのイメージ(A1)を新たなイメージ(A2, A3…)によって更新するのではなく、それとまったくオーダーを異にする文章(B)によって複層化しようとする稀有な試みである。すくなくとも本書は、写真家の単なる余技とみなされるべきではなく、みずからの作品に対して明確に「修復的な」(イヴ・セジウィック)アプローチをとった、ほとんど類例のない営みと見るべきであろう。

★1──『father』における「日記」の重要性については、かつて次の雑誌に寄せた短文でもふれたことがある。『IMA』Vol.20(特集:写真家と言葉)、2017年、72頁。

2023/07/24(月)(星野太)