2020年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ロドルフ・ガシェ『脱構築の力──来日講演と論文』

編訳者:宮﨑裕助

発行所:月曜社

発行日:2020/01/31

2014年11月、ニューヨーク州立大学バッファロー校の哲学者ロドルフ・ガシェ(1938-)が来日し、国内の複数の大学で講演を行なった。評者もそのいくつかに参加したが、ハイデガーやアーレントの精読を通じて一見ささやかな、しかし内実としては大胆かつスリリングなテーゼを打ち出していくその講演スタイルは、昨今の学術的な催事においてすっかり失われた光景であるように思われた。

その来日講演の原稿を再録し、関連するいくつかの論文を収めたものが本書『脱構築の力』である。本書は大きく前・後半に分かれ、第Ⅰ部「デリダ以後の脱構築」にはデリダとアメリカ合衆国におけるその受容を論じた「脱構築の力」「批評としての脱構築」「タイトルなしで」の3篇が、そして第Ⅱ部「判断と省察」にはアーレント論「思考の風」とハイデガー論「〈なおも来たるべきもの〉を見張ること」の2篇が収められている。「批評としての脱構築」(1979)と「タイトルなしで」(2007)をのぞく3本の日本講演は、来日後に上梓された英語の著書にそれぞれ組み込まれているようだが、それでもこれらが日本語オリジナル論集として1冊にまとめられたことの意味は小さくない。それはなぜか。

本書の「はじめに」から、ガシェが脱構築について述べた印象的な一節を引いてみよう。それによれば、主著『鏡の裏箔──デリダと反省哲学』(1986[未訳])や本書所収の「批評としての脱構築」をはじめとする「これらの著作のすべてにおいて」論じられているのは、脱構築とは「どんなテクストにも無差別に適用できるような文芸批評の方法」ではなく、「テクストの自己反照性や自己言及性を論証するというよりも、反照作用の可能性と不可能性の条件として当の反照作用から逃れるものへの探究に存している、紛れもなく哲学的なアジェンダを伴ったアプローチなのだということである」(9-10頁)。

この一節に端的に示されているように、ガシェは脱構築をたんなる「文芸批評の方法」として受容する──とりわけアメリカを中心に広まった──趨勢に抗い、あくまでそれを「哲学的なアジェンダを伴った」アプローチであることを訴える。そして、デリダその人の思想を(俗流の)「脱構築」と同一視することに明確に反対する著者の関心は、デリダにおける「思考」の特異なステータスへとむかう。それをひとつの問いのかたちで練り上げるとすれば、デリダにとって「思考するとはどういうことなのかを浮き彫りにすること」(11頁)こそが、ここでのもっとも重要な課題となるだろう。先にふれたアーレントの「判断」やハイデガーの「省察」をめぐる論文もまた、こうした「思考」の問題の延長線上にある。むろん、ガシェがデリダと二者の議論を同一視しているわけではないが、著者が「批判的警戒」と呼ぶもの(デリダ)と、アーレントおよびハイデガーの議論(「判断」および「省察」)は、その問題意識においてたしかに通底している。

対象とするテクストの綿密きわまりない解読に支えられた各論文は、読者にもそれなりの粘り強さを要求する。ホメロスやカントの言葉にあるように(第4章「思考の風」)、たしかに思考は「風」に擬えられるほど「迅速」で「非物質的な」ものである。しかしその──アーレントによれば「破壊的な」(187頁)──思考を伝達可能なものとしてくれるのは、「迂遠」で「物質的な」テクスト以外にあるまい。いずれにせよ、そうしたことへの連想をうながすガシェの日本講演が、5年あまりの時を越えて書物のかたちで刊行されたことを喜びたい。

2020/02/11(火)(星野太)

宮﨑裕助『ジャック・デリダ──死後の生を与える』

発行所:岩波書店

発行日:2020/01/24

博士論文を元にした前著『判断と崇高──カント美学のポリティクス』(知泉書館、2009年)に続く、宮﨑裕助(1974-)の2冊目の単著。著者がこの10年間、雑誌や論集に発表してきたデリダ論に加筆修正を施し、それに「生き延び」ないし「死後の生」という統一的なテーマを与えたのが本書である。

ここ数年、日本語でもようやくデリダについての充実した研究書が読めるようになった(亀井大輔『デリダ──歴史の思考』[法政大学出版局、2019年]、マーティン・ヘグルンド『ラディカル無神論──デリダと生の時間』[吉松覚・島田貴史・松田智裕訳、法政大学出版局、2017年]など)。しかしその反面、いまなおコンスタントに翻訳が続けられているデリダの著書は(おもに金額的に)一般の読者には入手しづらい状況にあり、世代を近しくするドゥルーズやフーコーとくらべると、若い読者にとってはいささか接近しがたい印象があるように見える。たとえばここ数年だけでも、講義録『獣と主権者』(西山雄二ほか訳、白水社)や論文集『プシュケー──他なるものの発明』(藤本一勇訳、岩波書店)といった待望の邦訳が成ったが、大部であり複数刊にまたがるという事情もあってか、いまひとつ読書界からの反響に乏しい。加えて、これまでに翻訳されたデリダの主著がほとんど文庫になっていないことも、大きな問題である。

そうした状況のなか現われた本書は、後期デリダについての入門的な内容を含み、同時に昨今の研究動向を踏まえた本格的な研究書でもあるという点で、画期的なものである。前述のように、過去に発表された学術論文が元になっているだけに議論の水準は高い。しかし同時に各章で扱われるのは、国家、労働、友愛、家族といった、われわれの多くにとって身近な──少なくとも馴染みのある──主題ばかりである。著者は、デリダの迂回に迂回を重ねた議論をただこちらに投げ出すのではなく、先に挙げたようなテーマをめぐる核心的な問いを「デリダとともに」立てつつ、それを「デリダとともに」よりふさわしいかたちで練り上げる。デリダに深く精通しながら、まったくデリダ的ではないその論述のスタイルが、読者をテクストのより適切な理解へと導いてくれるだろう。

なかでも、本書においてもっとも興味深いテーマは、著者がデリダから引き出してくる「生き延び(survie)」の思想であろう。序論において適切に示されているように、デリダの晩年にとりわけ顕著になるこの「生き延び」の思想は、直接的にはベンヤミンの翻訳論に遡ることができる。詳細は本書の記述に譲るが、そこで繰り返し強調されているように、ここでいう「生き延び」ないし「死後の生」とは、あくまでも言語によって媒介されるかぎりでの「生」の姿であり、その思想は実存的ないし生物学的な含意をもった(いわゆる)「生の哲学」とはまったく異なるものだ。いまなお編纂の途上にある生前の講義録や、それに関わる国内外の研究状況を見据えつつ、デリダを通じて本書が示すのは、そうした有機的ならざる「生」をめぐる刺激的な洞察なのである。

2020/02/11(火)(星野太)

松本卓也『創造と狂気の歴史──プラトンからドゥルーズまで』

発行所:講談社

発行日:2019/03/13

これまで、『人はみな妄想する』『享楽社会論』を始めとする著書を世に送り出してきた松本卓也(1983-)が今年上梓したのが、本書『創造と狂気の歴史』である。すでに刊行から半年以上が経過しているが、本書の読者層は意外に美術に関心を寄せる人々と重なっていないのではないかと思い、年内最後のこの機会に当欄で取り上げることにした。

著者が勤務する京都大学での講義をもとにした本書は、語り口こそ平易であるものの、その射程はきわめて遠大であるといってよい。西洋の思想を「創造と狂気」という観点から捉え、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから、20世紀フランスのデリダ、ドゥルーズまでの2500年におよぶ長大な歴史が辿られる。これだけでもそのスケールの大きさはうかがい知れるだろうが、これほど長大なスパンに及ぶ書物であるにもかかわらず、クロノロジカルに進む各章の緊張感がまるで失われていないことは、加えて特筆に値する。おそらくその理由は、第1章で提示されるひとつの前提が、本書を強力に牽引しているからだ。すなわちその前提とは、近代において「創造と狂気」の関係を問うてきた病跡学という学問が、狂気のなかでも統合失調症のなかに優れた創造を見いだしてきた、という事実である。はるか過去のプラトンやアリストテレスに始まる本書の思想史的作業も、病跡学の言説を支配する「統合失調症中心主義」(23頁)がいったいいかなる条件のもとに成立したのか、という問いをめぐって進められるのだ。

本書前半では、古代ギリシアにおける「ダイモーン」および「メランコリー」、キリスト教世界における「怠惰」の否定的なイメージとその転換、さらにはデカルトやカントが排除しようとした「狂気」の内実が、それぞれ手際よく整理されていく。だが、議論が佳境に入るのは、やはり本書の主役であるヘルダーリンの登場後にあたる後半部だろう。ヤスパースはほかならぬヘルダーリンを念頭におきながら、統合失調症者においては、一時的にせよ「形而上学的な深淵が啓示される」と論じた。いっぽうハイデガーは、ヘルダーリンから大きな影響を受けながら、「詩の否定神学」(218頁)とでも呼ぶべき思索にいたった。そのハイデガーを経て、ラカンやラプランシュといったフランスの精神分析家により、この「否定神学」的図式が20世紀にいかに構造化されてきたのかが、本書ではきわめて説得的な仕方で論じられる。さらにそれにはとどまらず、前述のような「病跡学」的な見方の問題点を突くアルトー、デリダの議論を経由して、最終的にはドゥルーズの文学論のなかに、データベースとアルゴリズムに依拠し、偶然と賭けを肯定する「ポスト統合失調症」的な文学観が見いだされる。

以上のような専門的な内容を含みながらも、前述のように大学での講義をもとに書き下ろされた本書の説明は、終始丁寧なものである。最終章に登場する草間彌生と横尾忠則の対比をはじめ、全体の議論に挟まれる個々のケース・スタディもきわめて興味深い。他方、これはあくまで評者の印象だが、一般的に美術に関心を寄せる人々のあいだでは、そもそも本書において「統合失調症中心主義」や「悲劇主義的パラダイム」と結びつけられる従来の病跡学についての認識すら、ほとんど共有されていないように思われる。そのような人たちに対する病跡学への入門書としても、本書は好適な一冊である。

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2019/12/09(月)(星野太)

山本浩貴『現代美術史──欧米、日本、トランスナショナル』

発行所:中央公論新社

発行日:2019/10/17

ここ数ヶ月のあいだ、書店や美術館のショップで、本書が平積みにされている光景を幾度となく目にした。その理由は言うまでもなく、山本浩貴(1986-)による本書が、日本語によるはじめての本格的な「現代美術史」の入門書として広く受け入れられているからだろう。過去にも現代美術の入門書を謳う書物は数多く存在したが、新書サイズで国内外の現代美術「史」を通覧しようとした日本語の書物は、本書がはじめてと言ってよいはずである。

とはいえ、著者も早々にことわっているように、限られた紙幅で包括的な「現代美術史」を書くことには大きな困難が伴う。そこで本書が選択したのは、「芸術と社会」というテーマをその中心に据えることであった。本書は1960年代を「現代美術史」の出発点に定めるが、序章でその「前史」として紹介される戦中・戦後の芸術運動は、「アーツ・アンド・クラフツ」「民芸」「ダダ」「マヴォ」の四つである。この選択は、専門家や美術愛好家を含む多くの読者にとって、かなり大胆なものと映るのではないか。だが、芸術をひとつの社会実践としてとらえる本書の立場からすれば、現代美術の「前史」は、いわゆる近代美術(モダン・アート)の名作の数々などではなく、これら四つの芸術運動にほかならないということなのだろう。

第一部の「欧米編」で取り上げられる60年代から80年代の芸術は、ランド・アート、インスティテューショナル・クリティーク、ハプニング、フルクサス、ヨーゼフ・ボイス、シチュアシオニスト・インターナショナルである。これもいくぶん大胆な選択であると思われるが、その後に来る90年代以降の美術がリレーショナル・アート、ソーシャリー・エンゲージド・アート、コミュニティ・アートであることに鑑みれば、この選択も首肯できるものだろう。第二部の「日本編」はさらに大胆で、九州派、万博破壊共闘派、美術家共闘会議といった、従来の歴史記述では周縁に置かれがちな活動が中心に据えられている。これもまた、その後で論じられる90年代以降の美術がアート・プロジェクトや3・11以降のアートであることから、遡行的になされた選択であることは明らかだろう。

印象的なのは、第一部と第二部では、個々の作家や芸術運動に対する論評が、いずれもごく控えめなものにとどまっている点だ。おそらく意識的な選択として、著者はすでに専門的な研究のある各トピックについてはあらためて詳述することを避け、運動の周辺にいた人物や後世の研究者をはじめとする、固有名のネットワークを浮かび上がらせることに専心しているように見える。そのため記述がいささか平板に流れているきらいもあるが、限られた紙幅で、意欲的な読者のさらなる探求を促そうとする配慮を、ここには見て取ることができる。

第三部の「トランスナショナルな美術史」では、それまでの第一部、第二部とは打って変わって、戦後ブリティッシュ・ブラック・アートと、東アジアの現代美術におけるポストコロニアリズムについてのまとまった分析がなされる。欧米と日本の現代美術史を通覧する前二部とは異なり、この第三部では「国家」単位ではない、国家横断的な現代美術史の可能性が示唆される。この前者から後者への流れに、アンバランスな印象を抱く読者もいるかもしれない。しかしおそらく著者の意図は、従来の慣習的な「美術史」の作法にある程度まで倣いつつ(第一部、第二部)、昨今の「グローバル・スタンダード」としての世界美術史へと読者の目をむけさせることにあるのではないだろうか(第三部)。終章の「美術と戦争」も含め、本書後半の詳細な記述からは、新書という体裁に応じた「入門書」であることを超えた、そのような野心を読み取ることができる。

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2019/12/09(月)(星野太)

國分功一郎『原子力時代における哲学』

発行所:晶文社

発売日:2019/09/25

前著『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)に続く著者の2年半ぶりの新著が、本書『原子力時代における哲学』である。とはいえ、本書は2013年に行なわれた全4回の連続講義をもとにしており、そこには2011年の福島第一原発事故以来、原発をめぐるあらゆる議論が背負うことになった「緊張感」(317頁)が生々しく刻印されている。

本書の導入にあたる第一講「一九五〇年代の思想」では、核兵器、およびその「平和利用」を謳った原子力発電に対して、過去いかなる議論が重ねられてきたのかが紹介される。たとえば、原子力に対して過去なんらかの理論的考察を行なった哲学者に、ギュンター・アンダースとハンナ・アレントがいる。しかし、アンダースの批判対象はほぼ核兵器に限定されていたし、「核の平和利用」を謳う原発についての考察を行なっていたアレントも、それを技術による疎外という図式に引きつけて論じるにとどまっていた。著者によれば、いまだ多くの人々が原子力に「夢」を見ていた20世紀半ばにおいて、原子力そのものに根本的な批判を加えていた哲学者はただ一人しかいない。その人物こそ、かのマルティン・ハイデッガーである。

本書の中盤は、そのハイデッガーのテクストを実際に読んでいくかたちで進む。とりわけ、そのほとんどが講義録であるハイデガーの著作集のなかでも、生前に刊行された例外的な書物のひとつである『放下』が読解の中心に位置づけられる(講演「放下」は1955年、著書としての『放下』の刊行は1959年だが、本書で述べられるように、その成立経緯はきわめて複雑である)。その前提として、比較的よく知られるハイデッガーの技術論や、ソクラテス以前の自然哲学に対する関心にまで視野を広げつつ(第二講)、著者は本書最大の関門である対話篇「放下の所在究明に向かって」を、慎重かつ大胆に読み進めていくのだ(第三講)。

とはいえ、「科学者」「学者」「教師(賢者)」を登場人物とするこの謎めいたハイデッガーの対話篇が、いったい原子力の何を明らかにしてくれるというのか──いつものごとく、大きな問いへとむけてゆっくりと、しかし着実に歩みを進めていく本書の結論を、ここで明らかにすることはしない。ただ、これは本書の議論が深まる後半(第三講・第四講)に顕著なのだが、『スピノザの方法』における「真理」、『暇と退屈の倫理学』における「環世界」、そして『中動態の世界』における「中動態」概念などに立脚しながら開陳される著者の思想は、これまでの仕事から驚くほどに一貫している。考察の対象となるテーマはそのつど異なっていながら、著者の問いはいつも「この」時代にむけられてきたことを、読者は本書を通じて身をもって感じることになるだろう。本書の読後に「原子力時代」とはつまるところ何か、と問われれば、それは「完全に自立したシステム」(271頁)を夢見るナルシシズムに満たされた時代だ、ということになろう。「原子力時代における」哲学の仕事とは、そのような時代にいかなる哲学が可能かを考えることにほかなるまい。


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2019/10/07(月)(星野太)

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