2019年12月01日号
次回12月16日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

國分功一郎『原子力時代における哲学』

発行所:晶文社

発売日:2019/09/25

前著『中動態の世界』(第16回小林秀雄賞)に続く著者の2年半ぶりの新著が、本書『原子力時代における哲学』である。とはいえ、本書は2013年に行なわれた全4回の連続講義をもとにしており、そこには2011年の福島第一原発事故以来、原発をめぐるあらゆる議論が背負うことになった「緊張感」(317頁)が生々しく刻印されている。

本書の導入にあたる第一講「一九五〇年代の思想」では、核兵器、およびその「平和利用」を謳った原子力発電に対して、過去いかなる議論が重ねられてきたのかが紹介される。たとえば、原子力に対して過去なんらかの理論的考察を行なった哲学者に、ギュンター・アンダースとハンナ・アレントがいる。しかし、アンダースの批判対象はほぼ核兵器に限定されていたし、「核の平和利用」を謳う原発についての考察を行なっていたアレントも、それを技術による疎外という図式に引きつけて論じるにとどまっていた。著者によれば、いまだ多くの人々が原子力に「夢」を見ていた20世紀半ばにおいて、原子力そのものに根本的な批判を加えていた哲学者はただ一人しかいない。その人物こそ、かのマルティン・ハイデッガーである。

本書の中盤は、そのハイデッガーのテクストを実際に読んでいくかたちで進む。とりわけ、そのほとんどが講義録であるハイデガーの著作集のなかでも、生前に刊行された例外的な書物のひとつである『放下』が読解の中心に位置づけられる(講演「放下」は1955年、著書としての『放下』の刊行は1959年だが、本書で述べられるように、その成立経緯はきわめて複雑である)。その前提として、比較的よく知られるハイデッガーの技術論や、ソクラテス以前の自然哲学に対する関心にまで視野を広げつつ(第二講)、著者は本書最大の関門である対話篇「放下の所在究明に向かって」を、慎重かつ大胆に読み進めていくのだ(第三講)。

とはいえ、「科学者」「学者」「教師(賢者)」を登場人物とするこの謎めいたハイデッガーの対話篇が、いったい原子力の何を明らかにしてくれるというのか──いつものごとく、大きな問いへとむけてゆっくりと、しかし着実に歩みを進めていく本書の結論を、ここで明らかにすることはしない。ただ、これは本書の議論が深まる後半(第三講・第四講)に顕著なのだが、『スピノザの方法』における「真理」、『暇と退屈の倫理学』における「環世界」、そして『中動態の世界』における「中動態」概念などに立脚しながら開陳される著者の思想は、これまでの仕事から驚くほどに一貫している。考察の対象となるテーマはそのつど異なっていながら、著者の問いはいつも「この」時代にむけられてきたことを、読者は本書を通じて身をもって感じることになるだろう。本書の読後に「原子力時代」とはつまるところ何か、と問われれば、それは「完全に自立したシステム」(271頁)を夢見るナルシシズムに満たされた時代だ、ということになろう。「原子力時代における」哲学の仕事とは、そのような時代にいかなる哲学が可能かを考えることにほかなるまい。


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2019/10/07(月)(星野太)

Boyan Manchev『Clouds. Philosophy of the Free Body』

発行所:Metheor

発売日:2019/09

ソフィアおよびベルリンを拠点とする哲学者ボヤン・マンチェフは、2年前、母語であるブルガリア語で新著『雲』を上梓した★1。過去に英語、フランス語、イタリア語をはじめとする複数の言語で著されてきた哲学的散文とは打って変わって、同書は全体にわたり断片的な、ほとんど詩的と言ってもよいテクストによって構成されている。「雲とは……である」というセンテンスの執拗な反復に貫かれたこの書物では、ボードレール、ブレイク、シェリーをはじめとするわずかな例外を除けば、明示的に第三者のテクストが引用されることもない。そのスタイルは、ジョルジュ・バタイユの思想を主要な導きの糸とする『世界の変容──ラディカルな美学のために』(Éditions Lignes, 2009)や、ドストエフスキー、アルトー、ブランショらの作品をつねに傍らにおいた『変身と瞬間──生の脱組織化』(La Phocide, 2009)といった旧著(いずれもフランス語)のそれとは際立って対照的である。

筆者がマンチェフ本人から『雲』の話を聞いたのは、彼がドラマトゥルクとして関わる「メテオール」という集団が、新たに同名の出版レーベルを立ち上げたときのことだった。アニ・ヴァセヴァ(演出家、アーティスト)、レオニード・ヨフチェフ(俳優)、ボヤン・マンチェフ(哲学者、ドラマトゥルク)の3名を中心とするメテオールの舞台作品は、すでにブルガリア国内で高い評価を獲得し、その次のステップとして、同名の叢書の設立を計画しているところだった。それからわずか2年ほどのあいだに、メテオール叢書から刊行されたブルガリア語の書籍はすでに8冊におよぶ★2。そして、同叢書から刊行される9冊目の書物にして、はじめての英語の書物となるのが、ボヤン・マンチェフによる『雲』の英訳(本書)である。

はじめにも述べたように、本書は「雲」にまつわるいくぶん詩的なテクストである。同書の「プロレゴメナ」(序文)によれば、雲についての書物は、同時にそれ自体が雲のような書物でなければならない。著者の言い方に倣えば、「雲についての書物(book on clouds)」は、同時に「雲の書物(book of clouds)」にして、「雲のなかの書物(book in clouds)」でもなければならない(p. 15)。要するに本書がめざすのは、雲をめぐる抽象的な思索それ自体を、雲の形象へと接近させることである。これも著者が述べていることだが、「新たな哲学」は「新たな形式」の発明と不可分である(p. 16)。複数の文体を矢継ぎ早に切り替えていく『雲』の叙述形式もまた、まさしくそうした「新たな形式」を生み出すために選ばれたものにほかならない。

形式面だけでなく、内容面でもひとつ、本書の読みどころを紹介しておきたい。本書でもっとも特権的な人物として扱われるのは、哲学者でも文学者でもなく、ロンドン生まれの科学者ルーク・ハワード(1772-1864)である。もともと気象学には門外漢でありながら、若い頃から雲におおいに魅せられていたこのイギリス人は、のちに今日までつづく雲の分類の基本形を作り上げたことで知られる。かのゲーテとも交流のあったハワードによる雲の研究を、本書は──いささか驚くべきことに──カントの『判断力批判』(1790)とともに読むことを提案する。

なるほど、1783年に起こったアイスランドの大噴火が象徴的に示すように、雲はカントが同書で「崇高」と呼んだ自然現象と容易に結びつくものである。しかし、それはまだ物事の一面にすぎない。天空のいたるところで集合・離散を続け、そのたびごとに姿を変える雲は、噴火や雷鳴といった「崇高な」自然の象徴である以前に、私たちの思考を刺激する「形」をともなった「不定形な」現象の最たるものである(ここで著者はカントとともに、バタイユの名にも抜かりなく言及している)。そしてそれを、カントが「美的理念」と呼んだもの、すなわちいかなる概念もなしに、しかし思考を大いに刺激する理念に結びつけるのだ(p. 78)。そのような理念を産出する、「概念−以前のマグマ」としての雲(p. 80)──著者マンチェフが雲のうちに見いだすのは、「美」や「崇高」の手前に位置する、そうした感覚と理念の媒介のアナロジーなのである。

★1──同年にソフィアとプロヴディフの二都市で行なわれた『雲』のリーディング公演については、次の拙文のなかで詳述したことがある。星野太「アペイロンと海賊──『雲』をめぐる断章」、小林康夫編『午前四時のブルー』第1号、水声社、2018年。

★2──http://desorganisation.org/index.php/en/

2019/10/07(月)(星野太)

中村稔『回想の伊達得夫』

発行所:青土社

発売日:2019/07/01

詩人・中村稔(1927-)による、伊達得夫をめぐる回想録。伊達といえば、書肆ユリイカの創業者にして、のちに戦後を代表することになる若き詩人たちを世に送り出してきた伝説的な編集者である。あまり知られていないことかもしれないが、現在青土社から刊行されている雑誌『ユリイカ』は、伊達の死後に清水康雄が故人の遺志を継いで──伊達のそれと同名の雑誌として──創刊したものだ。中村稔は大作『私の昭和史』(青土社)でも伊達得夫の回想に少なくない頁を割いているが、その後『ユリイカ』に書き継がれた「私が出会った人々」でも、伊達については例外的に連載3回分が割かれている。本書の前半(第一部)にはそれら既発表原稿に加え、伊達の生前は詳らかにされることのなかった稲垣足穂との交流を追ったエセーが収められている。また本書の後半(第二部)では、伊達の生い立ちや高校・大学時代の活動をめぐる貴重な伝記的事実が明らかにされている。

伊達得夫という編集者の仕事ぶりについては、長谷川郁夫『われ発見せり──書肆ユリイカ・伊達得夫』(書肆山田、1992)や、田中栞『書肆ユリイカの本』(青土社、2009)をはじめとする先行する書物に詳しい。また、生前に伊達が書き残したものについては、『詩人たち──ユリイカ抄』(平凡社ライブラリー、2005)が幸いにして現在でも入手できる。それでもなお本書が興味深いのは、これが中村稔という詩人・弁護士の目を通した、戦後詩のある側面を伝える貴重なドキュメントになっているからだろう。著者は、あるときは刊行物の奥付や検印を手がかりに、原口統三『二十歳のエチュード』をはじめとする作品の刊行経緯をごく客観的な手法により問い詰める。いっぽう、著者の知る伊達の人柄を捉え損ねていると見える記述に対しては、ごく主観的な断言をもってこれを否定することも少なくない。本書は伊達得夫の生涯を追った包括的な伝記でもなければ、書肆ユリイカという出版社についての網羅的な研究書でもない。終始、脱線や連想を恐れない自由なスタイルで書かれた本書は、表題が示すように「回想」と形容するほかないものだろう。まるですべてを所定の型にはめていくかのような昨今の風潮のなかで、こうした自由な書物に出会えることは、おそらくそれなりに稀有な幸運であるように思われる。

2019/07/22(月)(星野太)

ウィリアム・マルクス『文学との訣別──近代文学はいかにして死んだのか』

訳者:塚本昌則

発行所:水声社

発売日:2019/03/20

ここのところ、ウィリアム・マルクス(1966-)の著作の刊行が続いている。具体的には、一昨年の『文人伝』(本田貴久訳、水声社、2017)を皮切りに、今年に入ってからは本書『文学との訣別』と『オイディプスの墓』(森本淳生訳、水声社、2019)の2冊が立て続けに翻訳・刊行された(さらに付け加えるなら、同じ版元から昨年刊行された三浦信孝・塚本昌則編『ヴァレリーにおける詩と芸術』にもこの人物のヴァレリー論が収録されている)。今年4月にコレージュ・ド・フランス教授に選出されたこの比較文学者の書物が、こうして立て続けに日本語で読めるようになったことをまずは喜びたい。

本書『文学との訣別』は、近代ヨーロッパで生じた「文学」の拡張・自律・凋落の過程を、数々のエピソードとともにたどった魅力的な書物である。著者は、文学を同時代の社会状況に還元する単純な社会反映論からも、同じくその不変性を無自覚に措定する文学論からも等しく距離を取り、「文学」がこの間に被ってきた変遷をあくまでも具体的な場面に即して跡づける。18世紀末のヴォルテールの凱旋を象徴的な始まりとする文学への崇拝は、19世紀における大衆からの断絶を経て、20世紀に急速な価値の下落をみるに至った──おそらくこうしたストーリー自体は、さして新味のあるものではない。しかし、本書の何よりの美点は、文学の「自律性の獲得」(第3章)や「形式への埋没」(第4章)といった各場面を、さまざまな作家を例に綴っていく明晰かつ魅力的な文体にこそあるだろう。近代の文学史、ひいては芸術史の流れをあらためて振り返りたいと考える読者にとって、おそらく本書は最適な書物のひとつである。

2019/07/22(月)(星野太)

ミヤギフトシ『ディスタント』

発行所:河出書房新社

発売日:2019/04/20

現代美術家・ミヤギフトシ(1981-)の「デビュー作」と銘打たれた本書には、ミヤギが2017年より雑誌『文藝』に発表してきた「アメリカの風景」「暗闇を見る」「ストレンジャー」という三篇の小説が収録されている。それぞれの語りの視点こそ異なるが、その中心にいるのは、沖縄に生まれ、大阪の専門学校を経て、ニューヨークの大学で写真を学ぶ若きアーティスト志望の男性だ。これまでのミヤギの作品、とりわけ「American Boyfriend」というシリーズに触れたことがある者にとって、これらがいわゆる「私小説」のたぐいであることは一読して明らかだろう。

美術家による小説作品、というのは過去にも例がないわけではない。古くは「尾辻克彦」のペンネームで芥川賞を受賞した赤瀬川原平のような例もあれば、近いところでは『この星の絵の具』という三部作の自伝小説を刊行中の小林正人のような例もある。しかし、ミヤギフトシという作家にかぎって言えば、ここ数年の小説への進出はなかば必然的な流れであったのではないか、と思わせるところがある。というのも、ミヤギがこれまで発表してきた作品は、《The Ocean View Resort》(2013)や《花の名前》(2015)のような映像作品であれ、《Bodies of Water》(2014)や《How Many Nights》(2017)のようなインスタレーションであれ、映像・音楽・写真・オブジェ等の組み合わせにより立ち上がる、詩情あふれる物語性をつねに伴っていたからだ。

しかしそれゆえに、と言うべきか、本書を「現代美術家による小説作品」と形容することには一種のためらいもある。というのも、すでにみずからの青春の記憶を「American Boyfriend」というシリーズに託してきたこの作家の小説を、いわゆる通常の「私小説」と同一視することは不適切であるように思われるからだ。

本書『ディスタント』に収められた三作品は、さきにも触れたような語り手や一人称の変化をはじめ、隅々まで周到に書かれた見事な小説だ。しかしそのような印象のいくばくかは、作者自身の個人的な遍歴や、過去に公にされてきたこの作家の仕事を知っていることに由来しているのかもしれない(少なくとも本書が、美術家としてのミヤギフトシの作品をなかば前提としていることは明らかであるように思われる)。だとするなら、この小説はミヤギの「American Boyfriend」というプロジェクトの一部をなしていると考えるほうが、おそらく適切だろう。少なくとも筆者はこの小説を、映像作品、インスタレーション、トークイベントをはじめとする複数の形態を取ってきた、同シリーズの新たなる一歩として受け取った。先述のように、美術家が小説家として筆を執ること自体は過去にも例がないわけではない。だが、もともと現実と虚構のあわいを行くような作品を手がけてきたこの作家を知る者にとって、本書の占める位置はきわめて複雑なものとならざるをえない。率直に読めば、この物語はミヤギフトシが東京で美術家としての活動を始めるまでの、いわば前史に相当する。しかしそれは、いったいどこまでが「本当のこと」なのか──。いずれにせよ、これまでの「私小説的な」作品の上に重ねられたこの「私小説」の存在が、この作家が構築してきた作品世界をよりいっそう豊かなものにしていることは確かである。

2019/07/22(月)(星野太)

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