2023年06月01日号
次回6月15日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

浅沼光樹『ポスト・ヒューマニティーズへの百年──絶滅の場所』

発行所:青土社

発行日:2022/12/26

本書のもとになったのは、雑誌『現代思想』に連載された「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」である(2020年1月号から2022年3月号まで)。本書の「あとがき」にあるように、連載時から大幅な加筆修正がなされているが、かくも壮大な思想史的試みが途絶せず一書にまとめられたことを、まずは言祝ぎたい。

本書の表題における「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」とは、第二次世界大戦前から今日までの約一世紀にほぼ重なると見てよい。著者・浅沼光樹(1964-)は、思弁的実在論をはじめとする今日の現代思想──そこでは副題にもある「絶滅」が、ひとつの主要な問いを構成している──を論じるにあたり、まずはそこにいたるまでの思想の場面をたどることから始める。それが本書第一部「二〇世紀前半」の内容である。そこで論じられるヤスパース、ハイデガー、田邊元、ジャンケレヴィッチ、西田幾多郎、パースといった面々をつなぐひとつの固有名──それが「シェリング」である。

フリードリヒ・シェリング(1775-1854)は、カント、フィヒテ、ヘーゲルらと並び、ドイツ観念論を代表する哲学者のひとりである。弱冠15歳でテュービンゲン神学校に入学を許可され、卒業後まもなく幾冊もの著書を執筆、20代のはじめにはすでに大学の教壇に立っていたこの早熟の哲学者は、カントやヘーゲルに比べるとその一般的な知名度ははるかに劣る。しかし近年、専門家による地道な研究の甲斐あってか、このシェリングの哲学体系が新たに注目を集めつつあるのだ。

事実、今世紀に入ってからの現代思想は、さながら「シェリング・ルネッサンス」の様相を呈している。とりわけマルクス・ガブリエル(1980-)、イアン・ハミルトン・グラント(1963-)の2人をその代表格として、ここのところシェリング再評価の気運は留まることを知らない。本書の著者もまた、シェリングを専門とする研究者のひとりとして、現代において甦ったシェリングの思想をさまざまな仕方で「使用」していこうとする。このあたりの経緯は第二部「二〇世紀後半から二一世紀初頭にかけて」に詳しい。そこでは、ホグレーベ、ジジェク、ガブリエル、ドゥルーズ、グラントにおけるシェリングの(隠れた)影響が指摘され、現代思想におけるシェリングの重要性が(再)確認される。

その重要性とは、端的に言っていかなるものなのか。著者の見立てでは、カントからヘーゲルへといたるドイツ観念論の「ループ」のなかで、その中間にいるシェリングこそが、この終わりなきループからの脱出の鍵を握っている。ただし本書では、この仮説の証明にすべてが捧げられることはなく、むしろ19世紀から21世紀にかけてのさまざまな哲学者の仕事のうちに、このシェリングの隠れた痕跡が見いだされていくのだ。前述のように、ハイデガー、ジャンケレヴィッチ、ドゥルーズといった大陸哲学の重鎮たちはもちろんのこと、そこから時間的・地理的に隔たった京都学派(西田幾多郎、田邊元)や思弁的実在論(メイヤスー、ブラシエ)の面々についても、それは例外ではない。おそらくほとんどの読者にとって、近現代哲学におけるシェリングの存在感をこれほどまでに感じさせてくれる書物はかつてなかったのではないか──本書を読んでいると、そのように思わされる。

とはいえ、本書はシェリングやポスト・シェリングの哲学について、まとまった論証をおこなうといった性格の本ではない。平明な書きぶりながら、しばしば大胆な飛躍を厭わない議論の連続なので、読者はテンポよく移り変わる話題の節々から、自分で何らかの糸口を見いだすことが求められるだろう(とりわけ第三部「ニヒリズムの時代」にそれは顕著である)。いずれにせよ本書『ポスト・ヒューマニティーズへの百年』が、ガブリエルをはじめとする現代思想のルーツ(のひとつ)としてのシェリングへと赴こうとする読者に対し、さまざまな示唆を与えてくれるものであることは確かである。

2023/04/03(月)(星野太)

鳥居万由実『「人間ではないもの」とは誰か──戦争とモダニズムの詩学』

発行所:青土社

発行日:2023/01/07

かつて『遠さについて』(ふらんす堂、2008)で詩壇に颯爽と現われた鳥居万由実(1980-)による、日本近代詩の研究書である。時期としてはおおよそ第一次世界大戦後から第二次世界大戦までを対象に、左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴らの作品が論じられる。

本書に即して言うと、これらの詩人のあいだにある共通点は「人間ではないもの」へのまなざしである。序章によれば、1920年代から1930年代後半というのは、詩のなかに動物や機械といった「人間ではないもの」の表象が「爆発的に登場した」時代であるという(14頁)。この言い方がひとつのポイントなのだが、ここでいう「人間ではないもの」とは、時には無力で小さな「昆虫」であり、時には哺乳類をはじめとする「動物」であり、またあるときには工場で騒音を発する「機械」である(ただし、本書は生物学的な分類にもとづき、昆虫も魚類も鳥類も哺乳類もすべて「動物」に括っている)。戦間期におけるさまざまな詩人の作品を「人間ではないもの」というキーワードによって新たに捉えなおしたところに、本書のオリジナリティがある。

だがそもそも、そのようなテーマを設定する理由とは何なのか。それは、当時の日本における「主体」の問題と分かちがたく結びついている。本書は大きく、モダニズム詩を論じた第一部(左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎)と、戦時期の詩を論じた第二部(高村光太郎、大江満雄、金子光晴)からなる。各章はいずれも独立した作家論として読みうるものだが、これらを束ねる大きなキーワードが「主体」であることは、本書の端々で明示される。著者の見立てでは、動物や機械が何らかの寓意や象徴をともなって登場するのは、「主体」がうまく機能していないとき、あるいは「主体」を離れたところから言葉が発せられるときである(16頁)。より平たく言えば、安定したアイデンティティをともなった「主体」が何らかの理由により揺らいでいるとき、あるいは国家などにより仮構された「主体」──たとえば「国体」──が批判されるべきものであるとき、動物や機械といった「人間ではないもの」が頻繁に登場してくる。おそらくそのように言えるだろう。

そのような全体像を確認したうえで言えば、本書の眼目は、やはり個々の作家論にある。なかでも「ジェンダー規範と昆虫──左川ちか」(第一部第一章)と「『人間ではないもの』として生きる──金子光晴」(第二部第四章)を個人的には興味深く読んだ。前者は、昨年『左川ちか全集』(書肆侃侃房、2022)が刊行されたばかりの詩人についての力強い論攷であり、後者は、戦時下の情勢に抵抗する姿勢を崩すことのなかった例外的な詩人における、さまざまな「非−人間」の表象を包括的にたどったものである(蛇足めいたことを付け加えれば、この「非−人間」のうちに「神」も含まれることがきわめて重要である)。かりに全体を束ねるコンセプトに引っかかるところがなくとも、冒頭に列挙した戦間期の詩人たちに興味のあるむきには一読を勧める。

2023/04/03(月)(星野太)

王欽『魯迅を読もう──〈他者〉を求めて』

発行所:春秋社

発行日:2022/10/19

本書のタイトルを見たとき、いくぶん意表を突かれる思いがした。「魯迅を読む」ではなく、「魯迅を読もう」である。このタイトルは、文字通りに取れば、読者に対して「ともに」魯迅を読むことをうながしているかに見える。事実そうなのだろう。だが、「魯迅を読もう」というこの誘惑の背後には、もうすこし複雑なコンテクストが畳み込まれているように思える。

魯迅(1881-1936)と言えば、日本への留学経験もある、中国近代文学におけるもっとも重要な作家である。したがって、中国語や日本語のみならず、英語でも魯迅についての書物や論文のたぐいは豊富にある(個人的にも、魯迅を専門とする英語圏の研究者にはこれまで数多く会ってきた)。さながら日本における夏目漱石のごとく、中国の近代文学を話題にするうえで、およそ魯迅を避けて通ることなどできない。これはいまや世界的な事実である。

ひるがえって、いまの日本語の読者のあいだに、魯迅を読もうという気運はどれほどあるだろうか。日本とも縁浅からぬこの作家への今日的な無関心が、著者をして本書を書かしめた最大の要因であるように思われる。

むろん、過去には竹内好の仕事をはじめとして、日本語で読める魯迅のすぐれた訳書・解説書は現在までに数多く存在する。だが、本書の著者である王欽(1986-)のアプローチは、これまでに存在した魯迅の解説書とはいくぶん毛色を異にするものだと言えよう。著者は中国・上海に生まれ、ニューヨークで学業を修め、現在では東京で教鞭をとる研究者である。つまり本書は、中国語を第一言語とし、英語圏の批評理論にも精通した著者が、あえてみずから日本語で書いた本なのである。

本書は、魯迅の『阿Q正伝』をはじめとする小説から雑文にいたるまでの全テクストを視野に収めた、堅実な解説書である。ただし、そこでは中国語や日本語による文献に交じって、ベンヤミン、ド・マン、デリダを援用しながら議論を進めるくだりが散見される。こうした批評理論を噛ませたアプローチには賛否あるだろうが、すくなくとも今日の英語圏における魯迅の読まれかたとして、本書のような「釈義」(11頁)による方法はむしろ王道に属するものであるように思われる。

個人的には、『村芝居』『凧』『阿金』といった比較的マイナーなテクストを論じた後半の議論を興味ぶかく読んだ。全体的に、編集の目が行き届いていないがゆえの誤字脱字も散見されるが、本書のようなすぐれた書物が日本語で著されたことの意義は、それを補って余りあろう。本書の読後、きっと読者は魯迅を「読もう」という気にさせられる──その点において、本書の目論見は十分に達成されているように思われる。

2023/02/09(木)(星野太)

ジャック・デリダ『メモワール──ポール・ド・マンのために』

翻訳:宮﨑裕助、小原拓磨、吉松覚

発行所:水声社

発行日:2023/01/10

本書は、哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)が、アメリカ合衆国における「脱構築」の後見人であり、唯一無二の友人であった批評家ポール・ド・マン(1919-1983)について書いた文章をまとめたものである。いずれもド・マン没後数年のうちに書かれた文章であるが、前半「Ⅰ」と後半「Ⅱ」でテクストの性格がかなり異なる。まずはそのあたりの事情を見ていくことにしたい。

本書の第Ⅰ部は、1984年にカリフォルニア大学アーヴァイン校で行なわれた連続講演にもとづいている。もともと「アメリカにおける脱構築」というテーマを構想していたデリダは、その前年末のド・マンの訃報に接し、急遽その内容に変更を加えた。「1 ムネモシュネ」「2 メモワールの技法」「3 行為──与えられた言葉の意味」と題されたこれらのテクストでは、おもにド・マンにおける「記憶」の問題を論じるというかたちで、その数ヶ月前に亡くなったド・マンに対する「喪の作業」を遂行するとともに、もともとのテーマであった「アメリカにおける脱構築」にも間接的に応じる格好となっている★1

これに対して第Ⅱ部は、それから4年後の1988年に執筆・公表されたものである。その経緯については本文でも述べられているように、やはりその前年(1987年)に明らかになったド・マンのベルギー時代の活動が直接的なきっかけとなっている。ご存じの読者も多いだろうが、戦後アメリカ合衆国に渡り、のちにイェール大学で教鞭をとることになる若きド・マンが、『ル・ソワール』という親ナチ的な新聞に文芸時評を書いていたことが一大スキャンダルを引き起こした。さらにこれをきっかけとして、ひとりポール・ド・マンのみならず、アメリカにおける脱構築批評、さらにはその震源地であるデリダらの「フレンチ・セオリー」にも、その攻撃は飛び火したのである。

この反・脱構築のキャンペーンが当時においてどれほど苛烈なものであったか、それを直接見聞していないわたしでも、その光景を容易に想像することができる。というのも、このたぐいの批難は、それから30年以上が経った最近でも──ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(岡崎玲子訳、集英社、2019)などを通じて──また異なったしかたで反復されたものであるからだ★2。何らかの理由からデリダやド・マンの理論──さらにはそのエピゴーネン──に苦々しい感情を抱いていた人々が、鬼の首をとったようにこの事実に飛びかかったことは間違いない。だが、これはほとんど断言してよいと思われるが、それらの人々は、20歳そこそこのド・マンが親ナチ的な新聞に文章を寄せていたという「事実」を強調するばかりで、その文章に目を通してみようとすら思わなかったに違いない。これに対して、デリダが本書第Ⅱ部(「貝殻の奥にひそむ潮騒のように──ポール・ド・マンの戦争」)で行なったのは、この若きベルギー人が書いたものをまずは徹底的に読み、そこから何が読みとれるのかを日のもとに晒すという作業であった。

その成果が少しでも気になった読者は、まずは本書をじかに読んでみてほしい。友人ド・マンへの深い哀悼の意と、その過去の出来事にたいする(あくまでも公平な立場からなされた)弁護からなる本書は、これからデリダを読もうとする読者にとっての最初の一冊として、留保なく推薦できるものである。

本書を読んでいると、ある資料体を徹底的に、時間をかけて読むことがひとつの「倫理」であるということを、あらためて痛感せざるをえない。本書をはじめとするデリダの文章はたしかに迂遠な印象を与えるかもしれないが、そこに不必要に難解なところはひとつもない(念のため付言すると、本書『メモワール』の訳文はきわめて正確かつ流麗である)。ある「新事実」の暴露に右往左往する今日の人間からすれば、そこで告発されたテクストをゆっくり、丹念に検討するというのはどこか反時代的な身振りに映るかもしれない。だが、そうした倫理=慣習(エートス)を失ったとき、わたしたち人間を人間たらしめる根拠はまたひとつ失われるだろう──本書を読んでいると、いささか大仰とも思われるそのような感慨を抱かずにはいられない。

★1──本書のタイトルでもある単語「メモワール(mémoires)」の多義性についてはここでは踏み込まない。これについては宮崎裕助「訳者あとがき」(本書 pp.325-339)のほか、郷原佳以「記憶と名前──ド・マンとデリダの「メモワール」」(『コメット通信』第30号、水声社、2023、pp.11-13)を参照のこと。
★2──この問題については次の拙論で論じた。星野太「真実の終わり?──21世紀の現代思想史のために」(東京大学東アジア藝文書院(編)『私たちは世界の「悪」にどう立ち向かうか──東京大学 教養のフロンティア講義』トランスビュー、2022、pp.53-81)

2023/02/09(木)(星野太)

ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』

翻訳:伊勢康平

発行所:ゲンロン

発行日:2022/08/10

昨年、哲学者ユク・ホイの主著2冊が立て続けに日本語に翻訳された。その1冊が『再帰性と偶然性』(原島大輔訳、青土社)であり、もう1冊が本書『中国における技術への問い』(伊勢康平訳、ゲンロン)である。かれのおもな専門は技術哲学だが、過去には哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが手がけた展覧会「非物質的なものたち」(1985)についての論文集の編者を務めるなど★1、現代美術にも造詣が深いことで知られる。

本書『中国における技術への問い』は、近年まれにみるスケールの哲学書である。著者ユク・ホイは香港でエンジニアリングを、イギリスで哲学を学び、ドイツで教授資格(ハビリタツィオン)を取得したという経歴の持ち主だが(現在は香港城市大学教授)、本書を一読してみればわかるように、そこでは英語、中国語はもちろん、ドイツ語やフランス語の文献までもが幅広く渉猟されている。そのうえで本書が投げかけるのは──まさしく表題にあるように──「中国」における「技術」とは何であるか、という問いである。

そもそもこの「技術への問い(The Question Concerning Technology)」という表現は、ハイデガーによる有名な1953年の講演(の英題)から取られている(『技術への問い』関口浩訳、平凡社ライブラリー、2013)。本書は、かつてハイデガーが西洋哲学全体を視野に収めつつ提起した「技術への問い」を、中国哲学に対して差しむけようとするものである。せっかちな読者のために要点だけをのべておくと、本書でホイがとりわけ重視するのは「道」と「器」という二つのカテゴリーである。大雑把に言えば、中国哲学においては前者の「道」が宇宙論を、後者の「器」が技術論を構成するものであり、ホイはこれら二つの概念を軸に、みずからが「宇宙技芸」と呼ぶものの内実を論じていくことになる。言うなればこれは、古代ギリシアにおける「テクネー」を端緒とする西洋的な「テクノロジー」とは異なる、中国的な「技術」の特異性を明らかにする試みである。

同時に、ただちに付け加えておかなければならないが、本書は「技術」概念をめぐるたんなる比較思想の試みでもなければ、中国における「技術」によって西洋のそれを「乗り越えよう」とする試みでもない。本書後半において、戦前の京都学派による「近代の超克」論に話題が及ぶことからもうかがえるように、著者は「技術への問い」がもつ政治的な危うさを重々承知している。ホイによる「宇宙技芸」というプロジェクトの核心は、従来もっぱら単一的・普遍的なものとされてきた「技術」を複数的なものとして捉えなおし、各々の「技術」がいかなる世界把握に支えられているのかを説得的なかたちで示すことにある。ここには、凡百の技術哲学とは異なる周到な方法的自覚がある。

本書の「日本語版へのまえがき」でも書かれているように、「宇宙技芸(cosmotechnics)」の「宇宙(cosmo-)」という接頭辞には、宇宙論が「技術に原動力を与え、その条件を規定する」という意味と、技術が「宇宙と人間世界の道徳のあいだを媒介する」という双方の意味が込められている(15-16頁)。本書におけるストア派と道家の思想の比較が示すように、著者はなにも中国にだけ特権的な「宇宙技芸」を見いだしているのではない。ここで言う「宇宙技芸」には東西問わずさまざまなかたちがありえたし、これからもありうるだろう。繰り返しになるが、重要なのは「技術」を単一的・普遍的なものから解放し、その複数性に目をむけることである。

本書の問いを継承する『芸術と宇宙技芸』(2021)をはじめとして★2、ユク・ホイが本書によって切り開いた問いの領域は、いまなお拡大を続けている。そこではきわめて広範な問題が論じられているだけに、おそらくさまざまな異論や反論もありうるだろう。だが、それは本書のポテンシャルを示すものでこそあれ、根本的な瑕疵となるものではない。いずれにせよ、洋の東西を超えて現代思想のフロンティアを果敢に切り開こうとする本書が、すぐれた日本語訳によって出版されたことを喜びたい。

★1──Andreas Broeckmann and Yuk Hui (eds.), 30 Years After Les Immatériaux: Art, Science and Theory, Lüneburg: mason press, 2015.
★2──Yuk Hui, Art and Cosmotechnics, University of Minnesota Press/e-flux, 2021.

2023/01/06(金)(星野太)

文字の大きさ