2021年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

須藤健太郎『評伝ジャン・ユスターシュ──映画は人生のように』

発行所:共和国

発行日:2019/04/25

本書『評伝ジャン・ユスターシュ』は2019年4月に刊行された。いまだ謎の多いフランスの映画作家についての──日本語では初となる──モノグラフであり、昨年(2020年)の表象文化論学会賞、渋沢・クローデル賞奨励賞を立て続けに受賞した。末尾の謝辞にある通り、本書は2016年にパリ第三大学に提出された著者の博士論文(Jean Eustache : génétique et fabrique)がもとになっている。その学術的な達成がいかほどのものであるかは、その華々しい受賞歴が示す通りだ(いずれも選評がオンラインで公表されている)。だが、本書はすぐれた学術書であると同時に(あるいはそれ以上に)、ユスターシュの映画を愛する者にとって、あるいは映画一般に関心を寄せる者にとって必携の一冊である。刊行後すでにさまざまな媒体で取り上げられているが、著者とほぼ世代を同じくする人間として、いくぶん個人的な回想も交えつつ本書を紹介することにしたい。

現在、ジャン・ユスターシュ(1938-81)という作家について、いったいどれほどのことが知られているだろうか。約3時間半におよぶユスターシュの長篇『ママと娼婦』(1973)が日本で初めて劇場公開されたのは1996年のことである。その後、2001年には特集上映「ジャン・ユスターシュの時代」がユーロスペースで開かれ、『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『ママと娼婦』『ぼくの小さな恋人たち』『不愉快な話』『アリックスの写真』の6作品が上映された。その後、幻の作品『ナンバー・ゼロ』が発見され、2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されたことは大きな話題となった。その後、わたしの知るかぎり、ユスターシュの映画がまとまって上映される機会はしばらくなかったが、2019年にはふたたびユーロスペースとアンスティチュ・フランセ東京で特集上映が行なわれた。本書『評伝ジャン・ユスターシュ』の刊行計画も、この特集上映と同時進行で進められていたという(第11回表象文化論学会賞「受賞者コメント」より)。

ユスターシュはわずか2本の長篇映画と、数本の中篇映画・ドキュメンタリー作品のみを残して、1981年11月に拳銃自殺した。初長篇『ママと娼婦』は1973年のカンヌ国際映画祭で複数の賞を受賞するなど批評的な成功を収めたが、つづく『ぼくの小さな恋人たち』(1974)は公開当時にかならずしも好評をもって迎え入れられたわけではなかった。何より、後述する複雑な権利問題により、ユスターシュの死後に生まれた世代がその作品を実見できる機会はきわめて乏しかった。東京都内にかぎって言えば、2001年の特集上映以来、前述の2本の長篇が上映される機会はままあったため、その限られた機会に劇場に足を運んだ者も多かったはずである。本書はまず、そうしたユスターシュの映画に魅了された観客にとって待望の一冊として現われた。

本書は、ユスターシュの作品について、現在アクセスしうるあらゆる資料と、関係者への膨大なインタビューをもとに書かれた、きわめてスリリングな一書である。ユスターシュという作家をめぐる今日の評価は揺るぎないものであるが、先に挙げたような制約もあって、実際にその作品に接するには大きなハードルがある。それもあってか、42歳で亡くなったこの映画作家に捧げられた書物は、仏語や英語でもけっして多いとは言えない。まして、これだけ多くの関係者にインタビューを行ない、各作品の制作背景をはじめとする事実を明らかにした書物は、おそらく今後も存在しえないだろう(なぜなら本書の調査・執筆時においてさえ、すでに鬼籍に入っていた者が少なくなかったのだから)。

さらに言えば、読み物としても非常に魅力的な本書は、ユスターシュの映画にふれたことのない読者をも、大いに興奮させることだろう。先述したように、ユスターシュの作品は、日本で一時期発売されていた──現在では入手困難な──DVD-BOXを除けば、いっさいソフトになっていない。しかしその一方で、現在ではそのほとんどが英語字幕つきでYouTubeにアップされている。こうした奇妙な状況の中心にいるのが、現在ユスターシュの作品の権利をもつ次男ボリス・ユスターシュである。本書では、この次男のみならず、『ナンバー・ゼロ』の被写体であるユスターシュの祖母オデット・ロベール(第二章)、『ママと娼婦』の登場人物マリーのモデルであり、初号試写の直後にみずから命を絶ったカトリーヌ・ガルニエ(第七章)、『不愉快な話』をはじめとする数作品に出演するなど、公私ともにユスターシュの重要な友人であったジャン=ノエル・ピック(第八章)など、この映画作家の周囲にいた人物たちに次々と輪郭が与えられる。

本書は「ジャン・ユスターシュの伝記」ではなく、あくまでその「作品の伝記」であると著者は言う(12頁)。ユスターシュは「カメラが回れば、映画はひとりでにできあがる」として、映画における「作者」の概念を否定した。これはこれでひとつの美学であろうが、しかし少なくとも文章の場合、そこでは一定のオートマティスムに基づく映画よりもはるかに「作者」の介入が必要とされることは言うまでもない。この「作品の伝記」という困難な試みを可能にしているのは、ほかでもなく、この著者の堅実かつ魅力的なエクリチュールである。

★──このあたりの詳しい事情については、須藤健太郎×廣瀬純の対話「ジャン・ユスターシュとは誰か? 人生は映画のように[前篇]」(『Digging Deep|共和国のウェブマガジン』2019年11月12日公開)を参照のこと。

2021/02/08(月)(星野太)

蓮實重彦『言葉はどこからやってくるのか』

発行所:青土社

発行日:2020/10/30

本書は、蓮實重彦の著書のなかでもいささか特異な印象を与える。この1936年生まれの著者がこれまで上梓してきた書物は、単著・共著・編著などをあわせてゆうに100冊を超えるが、本書はそれらとまぎれもなく通底する一書であると同時に、そのいずれにも似ていない。本書の主題は、映画でも、文学でも、はたまたそれ以外の何かでもない。厳密にはそのいずれでもあるのだが、まず本書に収められたテクストが、特定の分野や領域に集中してはいないということをはじめに確認しておきたい。

本書は全Ⅲ部からなる。本書のメイン・パートである第Ⅰ部には、2016年の「三島由紀夫賞受賞挨拶」にはじまり、同年の『新潮』に掲載された受賞記念インタビュー「小説が向こうからやってくるに至ったいくつかのきっかけ」、2003年の『ユリイカ』のロラン・バルト特集に収められたインタビュー「せせらぎのバルト」、同じく2004年の『ユリイカ』を初出とするインタビュー「零度の論文作法」、さらには1992年のAny会議(湯布院)で発表されたド・モルニー論「署名と空間」、そしてさらにさかのぼること1989年の共著『書物の現在』所収のインタビュー「『リュミエール』を編集する」の6篇が収められている。

このように、時代もテーマも多種多様であるが、それは本書の成立経緯じたいが「著者自身が好んでいながら、まだどの書物にも収録されていないあれこれのテクスト」(334頁)を集めたものであるという事情に拠っている。しいていえば、これらはいずれも「語りおろし」を初出とするという点では共通している。「署名と空間」のみ、かぎりなく論文に近い講演原稿であるが(初出は『Anywhere』NTT出版、1994)、これもやはり、ある特殊な状況において発せられたパフォーマティヴな言葉であるという意味では性格を同じくしている。また、大学行政についての話題が中心である第Ⅱ部も、リベラルアーツや映画をめぐる第Ⅲ部も、時々の求めに応じてなされたインタビューであるという点では第Ⅰ部と相違ない。その意味で、本書所収のテクストは緩やかな統一をみせているとも言えよう。

しかし、著者が過去にそのような書物を発表してこなかったわけではない。はじめに、本書が「いささか特異な印象を与える」と言ったのは、第Ⅱ部に収められたテクストの性格に拠るところが大きい。ここに収録されている「「革命」のための「プラットフォーム」」と「Sustainability」は、いずれも著者が東京大学総長という立場で行なった公的なスピーチであり、なぜこれらが本書の収録テクストとして選ばれたのか、という疑問は残る。しかも、これらはすでに『私が大学について知っている二、三の事柄』(東京大学出版会、2001)という単著に収められており、「まだどの書物にも収録されていない」テクストというわけでもない。したがって、おそらくこの二篇は、続く「「AGS」をめぐる五つの漠たる断片的な追憶」というテクストの関連で再録されているのだろう、というのが自然な推論である。不思議なことに、この後者のテクストを収めているという──「初出一覧」(337頁)に挙げられた──文献『AGSの記録』(東京大学AGS推進室、2020)は、これを書いている時点では一般に公表された形跡はなく、おそらく存在するにしても広く流通している媒体ではないのだろう。東京大学が海外の諸大学と結んでいるAlliance for Global Sustainabilityを意味するらしいこの「AGS」というプラットフォームをめぐって書かれたこの回想録に、著者がいかなる思い入れを持っているのか──こればかりは、それぞれの読者がテクストの端々から想像するほかない。

いずれにしても、あるときは『伯爵夫人』(新潮社、2016)により三島由紀夫賞を受賞した小説家として、あるときは『季刊リュミエール』(筑摩書房、1985-88)の編集長として、またあるときは東京大学総長(1997-2001)として、それぞれ異なる立場のもとで書かれた(語られた)これらのテクストが、いずれもめっぽう面白いものであることには心底驚かされる。本書のあちこちを開くたびに評者の脳裏をよぎったのは、これほど読み手の意表をつく言葉がいったい「どこからやってくるのか」という、ただしく本書の表題にもなっている問いであった。

2021/02/08(月)(星野太)

小林康夫『《人間》への過激な問いかけ──煉獄のフランス現代哲学(上)』

発行所:水声社

発行日:2020/09/30

長年にわたり、フランスの思想や文化と密接な関わりを持ちつづけてきた著者が、20世紀後半のフランス哲学を「人間」へのラディカルな問いとして総括した書物。その上巻にあたる本書では、おもにバルト、フーコー、リオタールの三者について過去に発表された時評的な文章が集められている。

本書は三部からなるが、第I部「フランス現代哲学の星雲」が、本書全体の導入にあたる。そこには、著者が80年代以降に著した数本の概説的なテクストが配されているのだが、それら「《人間》の哲学」や「《ポスト・モダン》の選択」──ともに初出は1987年──こそが、本書のトーンを決定していると言っても過言ではない。本書の表題に含まれる「人間」という言葉が重要な意味を担うのも、まずはそこにおいてである。

著者によれば、20世紀後半のフランス哲学をあえてひとつの言葉によって特徴づけるなら、それは最終的に「人間」という言葉へと帰着する。これは、いささか驚くべきテーゼだろう。というのも、ひじょうに大まかに言って、実存主義のあとに台頭した構造主義──およびポスト構造主義──には、むしろ既成の意味での「人間」を後景に追いやることによって展開してきたというイメージがあるからだ。「構造」にせよ「記号」にせよ「テクスト」にせよ、そこで探求されていたのは個々の主体に回収されることのない非人称的な次元であり、その意味で「人間」は世界の中心からの退位を余儀なくされていたとも言える。

しかし著者は、グザヴィエ・ティリエット(1921-2018)がメルロ=ポンティに捧げた「人間の尺度(la mesure de l’homme)」という表現に合図を送りつつ、そこで問われていたのは、あくまで「人間」をめぐる問いにほかならなかったと指摘する。なるほど、かつて「構造」や「記号」や「テクスト」といった合言葉のもとでなされてきた探求は、「人間」からその明証性を剥奪する営みと地続きであったと言ってよい。しかし同時にそれは、「現に生き呼吸している具体的な人間の尺度」をけっして忘れることがなかったし、超越的なものの探求においてなお「具体的な人間に注がれる眼差し」を手放すことがなかった(29頁)。本書のひとつの読みどころは、いまだフランス現代哲学が導入・紹介される途上にあった1980年代に、すでにそうしたことを指摘している著者の慧眼にある。

第I部と同じく、第II部(バルト、フーコー)、第III部(リオタール)も、著者の旧稿を新たに構成しなおしたものが大部分を占める。そのため著者の世代の仕事を追ってきた者にとって、そこにさほどの新しさは感じられないかもしれない。だが、70、78年の二度のフーコー来日に立ち会った著者の回想、さらにフランスおよび日本で行なわれたリオタールとの濃密な対話をはじめとして、ここには彼らのいまだ知られざる表情がある。そして、これまで単行本に未収録であったこれら数々のテクストから見えてくるのは、半世紀にわたりフランス哲学の「隣人」でありつづけてきた著者の「冒険」の軌跡である。あるいは本書の表現に拠るなら(8頁)、ここに読まれるのは、フランス現代哲学という星雲の「客観的なマップ」などではなく、むしろひとつの「内部観測」にほかならない。その意味で本書は、著者が言うところの「パッションに貫かれた《人間》」(29頁)が示しうる、ひとつのモデルでもあろう。

2020/12/03(木)(星野太)

許紀霖『普遍的価値を求める──中国現代思想の新潮流』

監訳:中島隆博、 王前
翻訳:及川淳子、徐行、藤井嘉章

発行所:法政大学出版局

発行日:2020/08/20

中国における「現代思想」について、日本語で知りうることはいまだ多いとは言えない。思想史的なアプローチをとったものとしては、本書の監訳者である王前の『中国が読んだ現代思想──サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』(講談社、2011)という好著があるが、その地理的な範囲の広さも災いしてか、今日の中国における現代思想の勘どころを伝えてくれる学術書が、日本であまり見られないのは残念なことである。

本書は、現代中国を代表する知識人のひとりである許紀霖(1957-)がみずから選定した論文をもとに編まれた、日本語では初の単著である。巻末の出典を見てもわかるように、本書所収の論文が発表されたのはおおむねここ10年ほどのことであり、なおかつ論争的な性格をもつものが多くを占める。現代中国における思想状況を概観するための足がかりとして──とりわけ、評者のような門外漢にとっては──格好の一書である。

著者の中心的な関心事は政治思想にある。より具体的には、今日の世界的な状況のなかで、東アジアの新たな国際秩序をいかに構想するかということに、著者の関心は注がれている。東西のさまざまな思想を理論的フレームとして用いつつ、中国および東アジアの現状を見つめる著者の視線は、日本にいるわれわれのそれとも大いに重なり合うものであろう。

本書の中核をなすのは「新天下主義」という思想である。これは、古代中国における「天下」の概念をもとに、東アジアにおける「新しい普遍」を構想すべく生み出されたものである。著者によれば、この言葉にはさまざまな批判が寄せられており、「歴史上の中華を中心とするヒエラルキーの帝国が捲土重来してくる」のではないか、と懸念を抱く人もいるという(v頁)。ある意味ではそれも当然だろう。しかし、著者があえて「天下主義」という中華的な概念を持ち出してくるのは、西洋由来の「普遍主義」とは異なる、もうひとつの普遍主義を構想するためにほかならない。ここでいう「新」天下主義という表現にはむしろ、かつての天下主義の「脱中心化と脱ヒエラルキー化」を目指すという意味が賭けられているのであり、それをもとに著者は、ヨーロッパにおけるEUに相当するような共同体を東アジアにおいて構想することは可能だろうか、とわれわれに問いかける。

いわゆる普遍主義は、多元主義(多文化主義、文化相対主義)の尊重へとむかった20世紀後半の思潮のなかで、長らく旗色の悪い思想であった。しかし今日ではむしろ、狭隘なナショナリズムに対するカウンターとして機能しうるような、新たな普遍主義が必要とされている。許紀霖の議論が興味深いのは、「普遍」という概念にそもそも複数のかたちがありうるということを、ウィトゲンシュタインの「家族的類似」などに依拠しながら論じるところにある。おそらく本欄の読者にとっても、東アジアの「隣人」たる同時代の知識人が、いま何を考えているのかということは大きな関心事であるだろう。柄谷行人、汪暉、白永瑞らとの思想的対話のなかで練り上げられた本書の議論は、国家や言語の枠組みを越えた、東アジアの現代思想の一面を照らし出すものである。

2020/12/03(木)(星野太)

國盛麻衣佳『炭鉱と美術──旧産炭地における美術活動の変遷』

発行所:九州大学出版会

発行日:2020/01/31

炭鉱と美術──じつは評者にとって、このテーマは長らく気にかかるものであった。本書でも大きく取り上げられている「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」(目黒区美術館、2009)をひとつのメルクマールとして、炭鉱(ないし旧産炭地)に照準を定めた展覧会が、ここ十数年のあいだ目に見えて増加していることはよく知られている。さほど展覧会を網羅的に見ていない評者が実見したものに限っても、国内では前掲の「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」(2009)を、また国外では、元炭鉱街であるベルギーのヘンクを会場とした「マニフェスタ9」(2012)、そしてやはり元炭鉱街であるノルウェーのニーオーレスンに滞在したショナ・トレスコットの絵画作品(2012)などを挙げることができる。

本書『炭鉱と美術──旧産炭地における美術活動の変遷』は、みずから作家としても活動する著者が、2017年に九州大学に提出した博士論文を改稿したものである。大づかみに言うと、第1部は産炭地においてなされた文化活動についての歴史記述、第2部は旧産炭地を舞台とするアートプロジェクトの調査研究、そして第3部が著者本人による制作・発表・ワークショップなどの網羅的な記録と分析である。巻末には関係者のインタビューや、炭鉱を対象とした美術家たちのリストが付されるほか、本書のあとがきでは、祖父母が三井三池炭鉱の仕事に従事していたという理由もあり、なかば当事者として炭鉱をめぐる制作・研究に着手したという個人的な背景についても語られている。

ふつう「炭鉱と美術」というと、実際に当事者として炭鉱労働に従事していた山本作兵衛らの作品や、それを外部の目で描き出したルポルタージュ絵画などが第一に想起されるだろう。ゆえにその表題を一瞥するだけでは、本書がもっぱら旧産炭地における表現活動にのみ照準を合わせたものだという印象を受けるかもしれない。しかし先のように概観してみれば、本書の射程がそれよりはるかに広いものであることがわかる。たしかに本書の第1部では、おもに炭鉱・産炭地における文化活動に多くの紙幅が割かれている。だが第2部および第3部ではむしろ、閉山後に始まったアートプロジェクトに照準が合わせられることで、炭鉱という近代化の遺産をいかに継承するかという問題に関心がシフトする。著者の図(27頁)をやや改変しつつまとめるならば、本書は大きく(1)産炭地における芸術文化活動の歴史的研究、(2)炭鉱遺産の保存活用をめぐる文化資源学的研究、(3)旧産炭地におけるアートプロジェクトの研究、(4)創造都市論などを参考にした芸術文化環境の形成をめぐる研究──という4つの要素からなっていると言えるだろう。

本書を通して見られる著者の姿勢はきわめて真摯なものであり、立場の異なるさまざまな関係者に対して行なわれた巻末のインタビューも、それぞれ貴重なものである。関連資料も充実しており、日本をフィールドとした「旧産炭地における美術活動の変遷」について何かを知ろうとするとき、今後真っ先に踏まえるべき文献になることは間違いない。

その達成を踏まえたうえであえて注文をつけたいのだが、後進のためにも、巻末にはぜひとも文献表を付けてほしかった。また、これほどの情報量を含むだけに仕方のない部分もあるが、しばしば本文や註に固有名の誤りが散見されたことも、いささか残念であった。途方もない熱量をもって書かれたとおぼしき本書にそうした精確さが宿っていれば、本書は後世の人間にとって、より信頼に足る資料となったに違いない。

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