2023年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ジェシカ・ワイン『数学者たちの黒板』

翻訳:徳田功

発行所:草思社

発行日:2023/07/20

先日、仕事で中国・北京に滞在したおりに、クリストファー・ノーランの新作『オッペンハイマー』(2023)を観る機会があった。原爆の父ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主人公とするこの伝記映画は、2023年9月末日現在、いまだ日本公開の目処が立っていないことで知られる。あくまで憶測の域を出ないとはいえ、その理由は、日本が世界で唯一の被爆国──というより、この映画で開発される原子爆弾の投下された国──であるという事実と無関係ではないだろう。さらに、SNS上で物議を醸した「バーベンハイマー」現象の余波もあり、同作は映画としての内容以前に、公開前から──良くも悪くも──高い注目を集めている。

ここでその『オッペンハイマー』について詳しく語るつもりはないが、個人的にこの映画で印象的だった要素のひとつが、物語中つねに大きな存在感を示す「黒板」の存在だった。知られるように、理論物理学者であったオッペンハイマーが「原爆の父」と言われるのは、かれが原爆開発を目的とするマンハッタン計画で主導的な役割を担った人物だからである。そんな科学者を主人公とする映画とあらば自然なことだが、本作には前途有望な若きオッペンハイマー博士が黒板を背に講義する場面が頻繁に登場する。そして、やがて始まるマンハッタン計画のために集った科学者たちの議論もまた、いつも複雑な式をともなった黒板を背になされるのだ。科学者たちが集まるところ、つねに黒板がある──。この事実は、やはり本作品の主要な部分を占める政治的な弁論(公聴会)の場面が口頭でのやりとりに終始するのと、どこか対照的である。

そんな特異な媒体としての黒板に着目したのが、写真家ジェシカ・ワイン(1972-)による「Do Not Erase」というプロジェクトだ。本書『数学者たちの黒板』は、このプロジェクトをもとにした作家初のモノグラフであり、原著は2021年にプリンストン大学出版局から上梓されている。

本書に収められた109枚の写真は、いずれも数学者たちの黒板を写しとったものだ。教室や研究室のものと思しき黒板には、個性豊かな図や数式が描かれており、どれひとつとして同じものはない。これを書いているわたしも含め、その内容を十全に理解できる者はほとんどいないだろうから、大多数の読者はこれを、ひとつのタブローとして把握することになるだろう。

その黒板の写真には、それぞれのタブローの「作者」である数学者たちの短いエセーが添えられている。これらもまた、写真に劣らず興味深いものばかりだ。とはいえ、その内容は人によってさまざまで、自分が数学の道に足を踏み入れた経緯について語る者、おのれの研究にとっての黒板の重要性について語る者、あるいは数学の愉しみをここぞとばかりに語る者など、個性豊かな100本あまりのエセーが写真の「キャプション」として並ぶ。

なかでも、これらのエセーには共通する一定の特徴がある。まず、本書に登場する数学者たちが総じて強調するのは、コミュニケーションの手段としての黒板の重要性である。ごく当たり前のことだが、PCやノートと比べてはるかに大きな面積を有する黒板は、その場に集まった複数の人間が即座に同じ情報を共有するのに適している。また、スクリーンに投影されたスライドなどとは異なり、その場で──原理的には──誰もが気軽に加筆・修正できるという点でも優れている。本書のもとになったプロジェクトが新型コロナウイルスの流行期に重なったという事情もあってか、本書に登場する複数の数学者が、オンラインでの議論では同じ成果が得られないとこぼしているのも印象的だ。

なかには、ウィルフリッド・ガンボやシミオン・フィリプのように、黒板がもたらす「遅さ」の重要性を強調する者もいる。講義や研究発表のさいに黒板を使用するとなれば、あらかじめ準備した資料にもとづいて内容を説明するよりも、ゆっくりとしたペースにならざるをえない。しかしそのことが結果的に、はじめてその内容にふれる他者の理解を促進する結果につながる、というのだ(20、82頁)。あるいはロネン・ムカメルが指摘するように、黒板を用いた講義や研究発表は「人間の思考の速さで行われる」がゆえに、「準備不足のパワーポイント」などよりもはるかにその優劣を浮き彫りにするだろう(78頁)。

かれら数学者のなかには、黒板のもつ物質性に大きな偏愛を抱く者が少なくない。例えば、本書のはじめに登場するフィリップ・ミシェルのエセーはこんなふうに始まる──「黒板は数学の研究をする生活の基本要素だ。10年前にローザンヌの職場に着いて私が最初にしたのは、悪臭のする赤いペンの置かれた醜いホワイトボードを、本物の黒板と交換するように手配したことだった」(12頁)。このような〈黒板≠ホワイトボード〉という考えかたは、アラン・コンヌ(54頁)、エスター・リフキン(152頁)、ジョン・モーガン(192頁)らも共有するところである。

他方、アミー・ウィルキンソンのように、黒板で数学の研究をすることが「触覚的な経験」(14頁)だと言う者もいる。かと思えば、フィリップ・オーディングのように、指導教員のオフィスにあったスレート製の黒板でチョークが奏でる、不思議なほど「一様な音」について語る者もいる(30頁)。黒板は視覚的なメディアであるにとどまらず、触覚的、聴覚的なメディアでもあるのだ。

本書にはまた、2015年に廃業した日本のメーカー・羽衣文具の栄光が書き留められていることも特筆しておきたい。前出のフィリップ・ミシェルは次のように言う──「滑らかに、途切れることなく書き込むには、上質のチョークも重要だ。特に感動したのは、ある年にクリスマス休暇から戻った博士研究員が、伝説的な日本の『ハゴロモ・フルタッチ・チョーク』を2箱持ってきてくれたときだった」(12頁)。羽衣文具のフルタッチ・チョークは数学者のあいだでは知られた逸品であったらしく、同社の廃業のさいには世界中の数学者による買い占めが起こったという。バッサム・ファヤドが言う「日本製の上質のチョーク」というのも、おそらくこの羽衣チョークのことだろう(156頁)。

昨今、大学の内外における講義や研究発表のほとんどは、Microsoftのパワーポイントをはじめとするデジタルツールによって行なわれている。本書はそうした世の趨勢に対し、実のある説明や議論をするには、黒板というオールドメディアが必要であることを高らかに唱える。それは、おそらく本書の主題である数学に限った話ではなく、新たなアイデアを生み出そうとするあらゆる分野の仕事に当てはまるだろう。本書に登場する数学者たちは、真に創造的な仕事のためには、黒板のような物質的抵抗をともなったメディアが必要であることを示唆しているように思われる。

2023/10/05(木)(星野太)

成相肇『芸術のわるさ──コピー、パロディ、キッチュ、悪』

発行所:かたばみ書房

発行日:2023/06/10

2010年代、東京でもっとも批評的な展覧会を手がけていたキュレーター/学芸員は誰か──この問いをどのような水準で受け取るかにもよるが、わたしにとってその答えははっきりしている。成相肇(1979-)である。

本書『芸術のわるさ』は、その成相肇による初の著書である。目次を一瞥してみればわかるように、本書の中心をなすのは、かつて成相が企画した「不幸なる芸術」(switch point、2011)、「石子順造的世界」(府中市美術館、2011-2012)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」(東京ステーションギャラリー、2014)、「パロディ、二重の声」(同、2017)といった展示の図録および関連原稿だ。それらに加えて、学生時代からの専門である岡本太郎についての論文や、他館の図録に寄せた原稿が、「コピー」「パロディ」「キッチュ」「悪」の全4章に編成されている。

成相が手がける展覧会はいつも、美術館ではなかなか取り上げられることのない対象を中心に据えてきた。展示物の3分の2が「非ファインアート」(188頁)であったという「石子順造的世界」にしても、かつて白川義員とマッド・アマノのあいだで争われた「パロディ裁判」(1971-1987)を大きく取り上げた「パロディ、二重の声」にしても、鑑賞者が一般的に想定する「現代美術展」とはまったく異なる光景が、そこでは広がっていた。これを小さな自主企画などではなく、公の美術館で堂々とやってのけるところに、成相肇という学芸員の真骨頂がある。

そして──これが重要なことだが──成相は文章がめっぽう巧い。いわゆる「論文」調のものはもちろんのこと、本書の随処に見られる「口上」をはじめ、アイロニーやユーモアを交えた文章を書かせたら、おそらく美術業界で右に出るものはいない(それは本書を読めば一目瞭然である)。本書刊行の詳しい経緯については詳らかでないが、これを創業第一書に定めたかたばみ書房の眼力には、ひとりの読者として唸らざるをえない。

念のため、本書の掲げる「芸術のわるさ」についても一言付言しておこう。あとがきでも明らかにされているように(377頁)、本書タイトルに含まれる「わるさ」とは、単に道徳的な「悪さ(=悪意・悪行)」のみならず、遊戯的な「わるさ(=悪戯)」の謂いでもある。後者の「わるさ」を能くしたものとしては、マルセル・デュシャンから赤瀬川原平まで、さまざまな先達の名前が挙がるだろう。本書が掲げる4つのキーワード(コピー、パロディ、キッチュ、悪)のなかで、この意味での「わるさ」ともっとも縁が深いのが「パロディ」である。げんにこのパートは本書の白眉と言ってよいものであり、前掲の「パロディ裁判」の判例を中心に展開される立論は必読である。

かつての鶴見俊輔による限界芸術論をはじめとして、いわゆるファインアート/非ファインアートの境界を問う試みは過去にもさまざまなされてきた。しかし展覧会という場そのものを、こうした思索のための空間に仕立て上げることはけっして容易ではない。本書は、石子順造をはじめとする先達のさまざまな理論的仕事に棹さしつつも、この問題を美術館という制度のど真ん中で展開してみせた、きわめてユニークなキュレーター/学芸員の活動の軌跡である。

2023/07/24(月)(星野太)

金川晋吾『いなくなっていない父』

発行所:晶文社

発行日:2023/04/25

本書の著者・金川晋吾(1981-)は、いまから7年前に写真集『father』(青幻舎、2016)を刊行した。同書は、著者が子どものころから失踪を繰り返してきたという父親を被写体とした作品であり、刊行後さまざまなメディアで取り上げられるなど、大きな反響をよんだ。しかしその父親も、金川がこの作品を撮りはじめた2008年と2009年に一度ずつ失踪したきりで、それ以後は一度も失踪していないという。本書『いなくなっていない父』は、『father』の後日譚に相当するここ数年の記録であるとともに、『father』で定着してしまった「失踪を繰り返す父」というイメージを、作家みずから払拭することを試みたエセーである。

かつて、わたしが『father』を読んだときに何より驚かされたのは、当の写真に続く長大な「日記」の存在だった★1。そこでは、作家がこの作品を撮りはじめるにいたった理由が独白的に語られるのではなく、父親の蒸発、借金、転居、そして兄や弁護士との会話をはじめとする撮影中の出来事が克明に記述されていた。わたしがそこで得た直観は、これを文字通りの、つまり撮影の日々からそのまま垂れ流された日記として読むべきではない、というものだった。この写真集の一部をなす「日記」は、単なる作品解題でもなければ、その詩的なパラフレーズでもない、ひとつのすぐれた散文作品である。果たして『father』の刊行後、この作家の例外的な文才は、文芸誌などのさまざまな媒体で発揮されることとなった。

その筆力は、本書『いなくなっていない父』においても遺憾なく発揮されている。著者は、とくに奇をてらったことを書いているわけではまったくない。むしろ本書は、家族をめぐって、あるいはかつての『father』という作品をめぐって、おのれが経験したこと、あるいはそこで考えたことを、ただ淡々と記録しているといった風情の散文である。だから、本書を一読したときの印象は、『father』のそれと同じく「日記」に近い。にもかかわらず本書が強い印象を残すのは、文章による観察と記録の水準が、一般的なそれと比べて著しく際立っているからだろう。

本書は、写真家が作品を通していちど定着させたイメージ(=「失踪を繰り返す父」)を、文章によって払拭する(=「いなくなっていない父」)という試みとしても、きわめて興味深い。芸術作品──とりわけ写真作品──というのは、往々にして対象の生をひとつのかたちに固定しがちである。むろん、これを回避するために、同じ被写体を数年、数十年のスパンで継続的に撮影する写真家もいる(A1, A2, A3…)。これに対して本書は、かつてのイメージ(A1)を新たなイメージ(A2, A3…)によって更新するのではなく、それとまったくオーダーを異にする文章(B)によって複層化しようとする稀有な試みである。すくなくとも本書は、写真家の単なる余技とみなされるべきではなく、みずからの作品に対して明確に「修復的な」(イヴ・セジウィック)アプローチをとった、ほとんど類例のない営みと見るべきであろう。

★1──『father』における「日記」の重要性については、かつて次の雑誌に寄せた短文でもふれたことがある。『IMA』Vol.20(特集:写真家と言葉)、2017年、72頁。

2023/07/24(月)(星野太)

ガルギ・バタチャーリャ『レイシャル・キャピタリズムを再考する──再生産と生存に関する諸問題』

翻訳:稲垣健志

発行所:人文書院

発行日:2023/01/30

本書は、イギリスの社会学者ガルギ・バタチャーリャ(1968-)の初の邦訳書である。バタチャーリャの専門は人種およびセクシュアリティの諸問題であり、英語ではすでに10冊を超える編著書がある。本書『レイシャル・キャピタリズムを再考する』(原著2018年)は彼女の最新の仕事のひとつであるが、その内容に入っていく前に、いくつか前提を確認しておく必要がある。

まず、「レイシャル・キャピタリズム」といういささか聞き慣れない用語は、アメリカの政治学者セドリック・ロビンソンの『ブラック・マルクシズム』(1983)に由来する。これは、資本主義が生みだす社会構造には、必然的にレイシズムが浸透するという考えかたである。『レイシャル・キャピタリズムを再考する』の訳者解題(342-353頁)によれば、このロビンソンの議論は従来そこまで注目されてきたわけではなかった。だが、2020年のジョージ・フロイドの死をきっかけとしたBLM(Black Lives Matter)への関心の高まりもあり、このロビンソンの議論にも近年ふたたび注目が集まっているという。むろん本書はジョージ・フロイド事件よりも前に書かれたものであるが、『ブラック・マルクシズム』をはじめとするロビンソンの議論に新たな光が当てられるいま、本書をひもといてみるのは時宜に適ったことであろう。

そのうえで言うと、本書はそのタイトルが示すように、レイシャル・キャピタリズムを「再考する(rethinking)」試みである。つまりここでは、資本主義があらかじめレイシズムを構造化しているというロビンソン的なテーゼは、なかば暗黙の前提とされている。本書は、資本主義とレイシズムの複雑な関係をより精緻に──すなわち、一見レイシズムとは関係のないようなところにまで視野を広げて──検討するための試みなのだ。その点を見落としてしまうと、なぜ本書が、フェミニズムやエコロジーといった多種多様な問題に多くの頁を割いているのかがまったくわからなくなってしまうだろう。

ここではさしあたり、本書のイントロダクションとして書かれた「レイシャル・キャピタリズムをめぐる一〇のテーゼ」に即して、その要点のみを見ておきたい。ここで明示的にのべられているように、バタチャーリャが「レイシャル・キャピタリズム」と呼ぶもののなかには、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、あるいは年齢などを通じた「他者化」と「排除」の手法もまた含まれる(19-20頁)。つまり、問題は帝国主義の時代における奴隷貿易や、近代において黒人たちが被ってきた職業差別の話にとどまる(べき)ものではないのだ。昨今しばしば耳にする言葉でいえば、本書でバタチャーリャは「交差性(インターセクショナリティ)」とよばれる複合的な差別や抑圧の存在を明らかにすることによって、ロビンソンのレイシャル・キャピタリズム論を現代的にアップデートすることを試みているのだと言えよう。

以上のような複雑なコンテクストが畳み込まれているがゆえに、日本語で本書を読む読者にはまず「緒言」(小笠原博毅)と「訳者解題」(稲垣健志)に目を通すことを勧める。バタチャーリャが巧みな表現でのべているように、「利益を追求するために規定された人種的な略奪」は、それに関わるわれわれ全員を道徳的に退行させる(34頁)。その一方で彼女は、そのような信念を共有しない読者に対して、以上のような「道徳的な問題」を押しつけるつもりはない、とも言う。いくぶん逆説的なことながら、ここに読み取られる暗黙のメッセージは次のようなものであろう──それは、読者の信念がどのようなものであるかにかかわらず、現実に・・・、資本主義の根幹には人種的な略奪が存在するということだ。本書は、これまでそうした問題を考える必要すらなかった人たち──たとえば極東にいるわれわれ──にこそ、届けられるべき書物である。

2023/06/11(日)(星野太)

アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』

監訳:田中東子

発行所:花伝社

発行日:2023/02/25

「創造的(creative)」という言葉が、行政文書のなかに目につくようになって久しい。2004年に始まったUNESCOの「創造都市ネットワーク」はすでに20年弱の歴史をもつが、これにかぎらず、今日において「創造(的)」という言葉は、国家や企業が推進する事業に完全に絡め取られている。おそらく、ひろく芸術に携わる誰もがそのことに気づきながら、この言葉が行政やビジネスの論理に掌握される様子を、なすすべもないまま眺めている。

本書『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』の著者であるアンジェラ・マクロビーは、ロンドン大学ゴールドスミス校で長らく教鞭をとったカルチュラル・スタディーズの研究者である。ポピュラー文化やフェミニズム理論を専門とし、昨年には『フェミニズムとレジリエンスの政治──ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』(田中東子・河野真太郎訳、青土社、2022)が訳出されている。

おもにロンドンとベルリンを対象とする本書は、ファッション、音楽、現代アートをはじめとする文化的労働についての研究書である。とはいえ、ここに書かれていることは、すでに「やりがい搾取」という言葉が定着して久しい日本語圏の読者にとってみれば、ごく馴染みのある事象ばかりであるかもしれない。マクロビーが本書において明らかにしようとしているのは、つまるところ、ファッションやアートのような「創造的な」労働の領域において、いかに容赦ない「やりがい搾取」が行なわれているかということだからだ。日本では過去、アニメーション制作会社の低賃金が大きく取り沙汰されたことがあったが、これにかぎらず、ひろく文化にかかわる世界では、当事者の「熱意」や「やりがい」に支えられるかたちで、低賃金(ないし無給)の長時間労働が横行していることは周知のとおりである。

もちろん、そこには国や地域ごとの特殊事情がないわけではない。たとえば、イギリスでは1990年代後半に、当時の労働党首相トニー・ブレアによって「クール・ブリタニア」という政策が大々的に掲げられた。そこでは、まさに映画や音楽をはじめとする「クリエイティブ産業」が、国を挙げた国際戦略の中心に躍り出たのだ。本書が描き出すロンドンのクリエイティブ産業の状況は、こうした政府主導の戦略と切り離せない。

本書の議論はけっしてひとつに収斂するものではないが、そのなかでいくつか本質的と思われるものを挙げておこう。第一に、クリエイティブ産業における「やりがい搾取」には、明らかにジェンダー的な不平等がある。本書序文で著者が描き出す当事者たちのプロフィールも、その大半が若い──なおかつ、イギリスの外からやってきた──女性たちである(マクロビーは、労働環境をめぐる従来の左派の言説が、この男女の境遇の違いを見落としてきたことをくりかえし指摘する)。第二に、前述したような「やりがいのある仕事」の多くは、その華やかなイメージと裏腹に、不安定な雇用や不十分な保障と背中合わせである。そのため、クリエイティブ産業を推進する政策は、若者たちに「やりがいのある」仕事を供給するかに見えて、その実、社会福祉の切り下げを行なっているというのも正鵠を得た指摘である。

最後に、著者はバーミンガム学派が主導してきたカルチュラル・スタディーズ(CS)の伝統に連なる一人として、これまでCSが政治的抵抗の場として見いだしてきた文化的な諸領域が、いまや経営・起業的な関心から「創造性」を涵養するためのもっとも効果的な学問へと転じてしまっていることを率直に認めている。著者の言葉でいえば、CSはおのれの功罪を問うべき「再帰的なカルチュラル・スタディーズ」(23頁)へと歩みを進める段階に来ているのだ。ブルデューやベックの「再帰的な社会学」に倣ったこうした問題意識は、今日なんらかのかたちで文化と教育、あるいは文化の教育に携わるすべての人間によって、ひろく共有されるべきものだと言えるだろう。

2023/06/07(水)(星野太)

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