2023年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』

翻訳:伊勢康平

発行所:ゲンロン

発行日:2022/08/10

昨年、哲学者ユク・ホイの主著2冊が立て続けに日本語に翻訳された。その1冊が『再帰性と偶然性』(原島大輔訳、青土社)であり、もう1冊が本書『中国における技術への問い』(伊勢康平訳、ゲンロン)である。かれのおもな専門は技術哲学だが、過去には哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが手がけた展覧会「非物質的なものたち」(1985)についての論文集の編者を務めるなど★1、現代美術にも造詣が深いことで知られる。

本書『中国における技術への問い』は、近年まれにみるスケールの哲学書である。著者ユク・ホイは香港でエンジニアリングを、イギリスで哲学を学び、ドイツで教授資格(ハビリタツィオン)を取得したという経歴の持ち主だが(現在は香港城市大学教授)、本書を一読してみればわかるように、そこでは英語、中国語はもちろん、ドイツ語やフランス語の文献までもが幅広く渉猟されている。そのうえで本書が投げかけるのは──まさしく表題にあるように──「中国」における「技術」とは何であるか、という問いである。

そもそもこの「技術への問い(The Question Concerning Technology)」という表現は、ハイデガーによる有名な1953年の講演(の英題)から取られている(『技術への問い』関口浩訳、平凡社ライブラリー、2013)。本書は、かつてハイデガーが西洋哲学全体を視野に収めつつ提起した「技術への問い」を、中国哲学に対して差しむけようとするものである。せっかちな読者のために要点だけをのべておくと、本書でホイがとりわけ重視するのは「道」と「器」という二つのカテゴリーである。大雑把に言えば、中国哲学においては前者の「道」が宇宙論を、後者の「器」が技術論を構成するものであり、ホイはこれら二つの概念を軸に、みずからが「宇宙技芸」と呼ぶものの内実を論じていくことになる。言うなればこれは、古代ギリシアにおける「テクネー」を端緒とする西洋的な「テクノロジー」とは異なる、中国的な「技術」の特異性を明らかにする試みである。

同時に、ただちに付け加えておかなければならないが、本書は「技術」概念をめぐるたんなる比較思想の試みでもなければ、中国における「技術」によって西洋のそれを「乗り越えよう」とする試みでもない。本書後半において、戦前の京都学派による「近代の超克」論に話題が及ぶことからもうかがえるように、著者は「技術への問い」がもつ政治的な危うさを重々承知している。ホイによる「宇宙技芸」というプロジェクトの核心は、従来もっぱら単一的・普遍的なものとされてきた「技術」を複数的なものとして捉えなおし、各々の「技術」がいかなる世界把握に支えられているのかを説得的なかたちで示すことにある。ここには、凡百の技術哲学とは異なる周到な方法的自覚がある。

本書の「日本語版へのまえがき」でも書かれているように、「宇宙技芸(cosmotechnics)」の「宇宙(cosmo-)」という接頭辞には、宇宙論が「技術に原動力を与え、その条件を規定する」という意味と、技術が「宇宙と人間世界の道徳のあいだを媒介する」という双方の意味が込められている(15-16頁)。本書におけるストア派と道家の思想の比較が示すように、著者はなにも中国にだけ特権的な「宇宙技芸」を見いだしているのではない。ここで言う「宇宙技芸」には東西問わずさまざまなかたちがありえたし、これからもありうるだろう。繰り返しになるが、重要なのは「技術」を単一的・普遍的なものから解放し、その複数性に目をむけることである。

本書の問いを継承する『芸術と宇宙技芸』(2021)をはじめとして★2、ユク・ホイが本書によって切り開いた問いの領域は、いまなお拡大を続けている。そこではきわめて広範な問題が論じられているだけに、おそらくさまざまな異論や反論もありうるだろう。だが、それは本書のポテンシャルを示すものでこそあれ、根本的な瑕疵となるものではない。いずれにせよ、洋の東西を超えて現代思想のフロンティアを果敢に切り開こうとする本書が、すぐれた日本語訳によって出版されたことを喜びたい。

★1──Andreas Broeckmann and Yuk Hui (eds.), 30 Years After Les Immatériaux: Art, Science and Theory, Lüneburg: mason press, 2015.
★2──Yuk Hui, Art and Cosmotechnics, University of Minnesota Press/e-flux, 2021.

2023/01/06(金)(星野太)

エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』

翻訳:松葉類、宇佐美達朗

発行所:勁草書房

発行日:2022/10/26

2016年に世に出た『植物の生の哲学──混合の形而上学』(嶋崎正樹訳、勁草書房、2019)によって、エマヌエーレ・コッチャの名前は一躍世界的なものとなった。この1976年生まれの哲学者の仕事は、いまや狭義の現代思想の枠をこえて、さまざまな文化領域に広がっている。なかでも、同時代のアーティストからの影響を公言して憚らない著者は、2019年にはカルティエ現代美術財団の「われわれという木々(Nous les arbres)」の学術顧問を務めたほか、フィンセント・ファン・ゴッホ財団の要請により、かの有名な《種まく人》についての小さな著書(『種まく人──現代の自然について』)を執筆している。現在はパリの社会科学高等研究院(EHESS)で教鞭をとるこの哲学者は、現代美術の世界でも昨今ますます存在感を増している。

その『植物の生の哲学』のいわば続篇とも言えるのが、2020年に刊行された本書『メタモルフォーゼの哲学』である。原著の翌年(2021年)にはすぐさまロビン・マッカイの手による英訳が刊行されており、そのことからも、この哲学者に対する世界的な注目度の高さがうかがえる。

本書に内包される思想は、ある意味ではきわめて単純なものである。ふだんわれわれが生命とみなしているのは、同じひとつの「生」が変容したものである。個々のあらゆる生命は、そのメタモルフォーゼの結果にすぎない。いかなる生物も単独では存在しえず、われわれはつねにほかの生物を糧として、またほかの生物の糧として存在している。その意味で、どんな生物であっても根源的にはどこかでつながっている。さらに厳密に言うなら、事態は生物の範囲内にとどまらない。コッチャによれば、生物とは無生物の延長──ないし「再受肉」──なのであり、そのかぎりにおいて「生物と無生物の間にはいかなる対立もない」(8頁)。

以上のような思想を、本書は「Ⅰ 誕生=出産」「Ⅱ 繭」「Ⅲ 再受肉」「Ⅳ 移住」「Ⅴ 連関」という5つのパートを通して詳らかにする。各章のトピックは比較的広範にわたっているが、本書全体を貫くのは、自立した個体(=わたし)というものが一種のフィクションにほかならず、その実相は大いなる「生」のメタモルフォーゼの一部である、という全体論的な世界観である。これは昨今のエコロジー思想とも親和性の高い、現代の「生の哲学」の一形態であると言えよう。

さきほど、本書はある意味で前著『植物の生の哲学』の続篇である、と言った。それは、この2冊がいずれも、生命というものを根源的に「一なるもの」として捉えている点で共通しているからだ。前著では、それを端的に言い表わす「混合の形而上学(métaphysique du mélange)」という表現が副題に用いられていたわけだが、「混合」にしろ「メタモルフォーゼ」にしろ、そもそも一なる生が根幹にあり、そのうえで個々の生物がその存在を分かち持っているという図式において、コッチャの思想はこれらのあいだで大きく異なってはない。

そのうえで言うと、わたし個人の『メタモルフォーゼの哲学』に対する評価は、いくぶん微妙なものとならざるをえない。『植物の生の哲学』においては、「混合」ないし「浸り」というキーワードを通じて、有機体のなかでも伝統的に最下位におかれてきた植物を世界の中心に据えるという大きな価値転換が見られた。対する『メタモルフォーゼの哲学』において、この地上に生きるわれわれはみな「ガイア」という大いなる存在に結びつけられる。ここには昨年亡くなったブリュノ・ラトゥール(1947-2022)からの影響も見られるとはいえ、そこでは前著にあったような価値観の大胆な転換が、いくぶん影をひそめているように見えなくもない。

さらに言おう。本書には、いまだかつてない「新しい」哲学理論が含まれているわけでは必ずしもない。勘のよい読者ならばお察しのように、ここまで紹介してきたような内容の大半は、ベルクソンやホワイトヘッドをはじめとする過去の「生の哲学」の焼きなおしにすぎない。「すべての生命はつながっている」という命題にしても、ほとんどの人にとっては、あらためて言挙げするまでもないたんなる事実の域を出ないだろう。だから注目すべきは、そんな本書がなぜこれほどまでに読まれ、注目を集めているかという問題のほうにある。

かつて本書を原著で読んだ一読者としての印象を言えば、本書には著者の第一言語でないフランス語で書かれているがゆえの、不思議な力強さがある。なるべく込み入った構文を避けて、短く断定的なセンテンスをぽつぽつと繰り出していくそのライティング・スタイルは、前著からさらなる洗練をみせている。著者であるコッチャはかつて筆者との対話のなかで、哲学(史)というのはさまざまな知の「寄せ集め」であって、そこにはいかなる共通の対象も、文体も、方法もないと述べたことがある。なるほど、プラトン、ニーチェ、ウィトゲンシュタインといった「哲学者」たちの文章には、それぞれ対話篇、アフォリズム、命題の集合といった特徴があり、ふつうに読めばそこに共通点などまったくない。コッチャの言葉を補って言えば、われわれが──事後的に──「哲学史」とみなしているのは、つねに新しい「スタイル」の発明の連続であったということだ。わたしが本書を読みながら、くりかえし思い出していたのはそのことだった。コッチャの一連の著書もまた、その哲学的な内容の新しさ云々の次元でなく、そのスタイルにおいて、ひとつの新しい形式を発明する試みであると考えるべきかもしれない──本書につづく『家の哲学(Philosophie de la maison)』(2021)も含めて、わたしがコッチャの近年の仕事から感じるのはそのような「新しいスタイル」への意志である。

関連レビュー

エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学──混合の形而上学』|星野太:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

2023/01/05(木)(星野太)

グレゴワール・シャマユー『人間狩り──狩猟権力の歴史と哲学』

翻訳:平田周、吉澤英樹、中山俊

発行所:明石書店

発行日:2021/09/13

本書の著者グレゴワール・シャマユー(1976-)は、今日もっとも勢いのあるフランスの哲学者の一人だろう。シャマユーは、2008年の『人体実験の哲学』(加納由起子訳、明石書店、2013)、2013年の『ドローンの哲学』(渡名喜庸哲訳、明石書店、2018)、2018年の『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022)など、いずれも重要なテーマを扱った書物を次々と世に送り出してきた。なかでも、かれの2冊目の単著にあたる2010年の『人間狩り』は、思想的にも歴史的にも、きわめて広大な射程をもった書物のひとつである。

本書でシャマユーが照準を合わせるのは、「人間を狩る」という穏やかでないテーマだ。ただしこの「狩り」には、(獲物などを)「追いかける」という意味と、「暴力的に外に追いやる」という二つの含意がある(8頁)。この「追跡する狩り」と「追放する狩り」は一応は区別されるが、この二つの行為は根本ではつながっている。なぜなら、人間を動物のように追い回すことは、その人間があらかじめ公共の領域から追い立てられていることを意味するからだ。『人間狩り』は、そうした人間を人間ならざるものへと追いやる「狩猟権力」についての書である。

全12章からなる、本書の大まかなストーリーは次のようなものである。まず古代ギリシアにおいて、「狩猟権力」はポリスの市民が奴隷を力づくで調達・捕獲し、主人として彼らを支配するための権力として出現した(第1章)。次いでヘブライ=キリスト教の伝統において、「狩猟権力」はまずもって暴君が行使する「捕獲するための狩り」に相当したが(第2章)、同時にそれは、慈悲深いはずの「司牧権力」(フーコー)が行使する「追放するための狩り」でもあった(第3章)。

これら三つが「狩猟権力」の旧き形象であるが、時代とともに、この暴力的な権力は地球上のいたるところに広がる。周知のように、それはアメリカ大陸における「先住民狩り」であり(第4章)、アフリカにおける「黒人狩り」(第5章)である。また新大陸や植民地ではなく、西洋社会の内部に目を向けてみても、そこでは「貧民狩り」(第7章)や「外国人狩り」(第10章)といった暴力的営為が──警察権力の拡大とともに──連綿と続けられてきた。本書はこうして、古代から近代までの「人間狩り」をめぐる壮大な系譜学を描き出すのだ。

なかば当然のことではあるが、こうしたシャマユーの問題意識は、しばしばフーコーの権力論と比較され、それを継承するものとされてきた。その正否については本書の「訳者解題」(平田周)をはじめすでにさまざまな議論があるので、ここでは立ち入らない。だが、ここでひとつだけ触れておくことがあるとすれば、それは本書の驚くべき読みやすさにある。シャマユーの書物がきわめて「現代的」だと思わされるのは、フーコーをはじめとする先達の権力論に比べて、その論述スタイルがきわめて明晰であることだ。本書『人間狩り』や『ドローンの哲学』が英語圏で好評を得ていることからもうがかえるように、本書は簡潔にして要領を得た文体によって、歴史的にも理論的にも厚みのある「人間狩り」という主題に接近するための、格好の一冊になりえている。

2022/10/06(木)(星野太)

クリストフ・メンケ『力──美的人間学の根本概念』

翻訳:杉山卓史、中村徳仁、吉田敬介

発行所:人文書院

発行日:2022/07/30

「力(ちから)」というシンプルかつ控えめな表題に反して、本書は、きわめて複雑かつ野心に満ちた書物である。本書は、18世紀ドイツにおける「美学(Ästhetik)」という学問領域の誕生に新たな視座を導き入れるとともに、それを近代的な「主体性」の誕生をめぐるエピソードとして(再)評価する。著者によれば、美学とは、近世においてすでに生じていた「主体」の概念とは異なる「真に近代的な主体性概念が養成される場」であったという(8頁)。これが本書の第一のテーゼをなす。

以下では本書の「序言」や「訳者解説」を手がかりとしつつ、その大まかな道筋をたどっていくことにしよう。クリストフ・メンケ(1958-)は現在フランクフルト大学で教鞭をとる哲学者であり、『芸術の至高性──アドルノとデリダによる美的経験』(柿木伸之ほか訳、御茶の水書房、2010)をはじめとする数多くの著書がある。本書『力(Kraft)』(2008)はそのメンケの5冊目の単著であり、これ以後も『芸術の力(Die Kraft der Kunst)』(2013)をはじめとする比較的近いテーマの仕事を公にしている。

さて、そのメンケの見立てによれば、美学こそは「真に近代的な主体性概念」が養成される場である、ということだった。そのような「主体性」とは、具体的にはいかなるものなのか。ごく簡潔に要約してしまうと、それは(1)当の主体によって意識的に制御された次元と、(2)そこからはみ出す、無意識的で制御不能な次元の拮抗のうえに成り立つような「主体性」である。そしてこの(1)が「能力(Vermögen)」に、(2)が「力(Kraft)」に相当すると言えばわかりやすいだろう。ようするに、ここで言う「近代的主体性」とは、意識と無意識、理性と非理性といったお馴染みの対立によって構成される主体であると考えておけばよい。

ここでいったん用語の整理をしておくと、この「能力」と「力」の共通の土台となるものを、メンケは「威力(Macht)」と呼んでいる。つまり、あらゆる人間には「威力」というものがそなわっているのだが、あるときはそれが「能力」として、またあるときは「力」として発現するということである。すこしわかりにくいが、本書を読みすすめるにあたり、この三つの概念の相関を押さえておくことは有益である。

さて、そのうえで整理を続けるなら、前者の「能力(Vermögen)」とは「威力がとる特殊な形態のうち、規範的かつ社会的な実践の参加者として主体を定義するような形態」のことである(10頁)。つまり「能力」とは、人間の社会的な規範意識を醸成し、それによって社会参加を可能にするものだと言ってよいだろう。これに対する「力(Kraft)」とは、むしろ「戯れとして展開されるような作用の威力」であるという(10-11頁)。つまりそれは「能力」とは違って、ある表現を生み出しては解消し、ある表現を超克してはそれを別の表現へと変貌させる、そうした遊戯的な作用のことである。

この「能力」と「力」は、どちらか一方が──主体の「威力」として──正しく、どちらか一方が誤っているということにはならない。ある見方をすれば、この二つの威力は互いを補完しながら「弁証法的統一」へと至る、と言うことができる(=「能力の美学」)。しかしべつの見方をすれば、この二つの威力はあくまで解消不可能な「逆説」を構成していると言うことも可能である(=「力の美学」)。そして本書の最大の野心は、18世紀から19世紀にかけての美学理論の展開を、この「能力の美学」と「力の美学」の相克として語りなおすところにあるのだ。

本書は、美学の創始者バウムガルテン(1714-1762)を「能力の美学」に、そして哲学者ヘルダー(1744-1803)を「力の美学」に割り振ることで、こうした遠大な理論形成史、ないし学問伝承史を提示する。巻末の「訳者解題」(杉山卓史)が適切に示すように、第2章のバウムガルテン論が「能力の美学」の誕生、第3章のヘルダー論が「力の美学」の誕生をめぐるものだとすると、第1章、第4章はそれぞれの背景を論じたものとして、第5章(カント論)、第6章(ニーチェ論)はこの二つの美学の対決の帰趨を論じたものとして読むことができる。各章の議論はそれなりに専門的だが、本書を通読した先には、美学と近代的主体性の関係をめぐるまったく新たな認識が得られるはずである。

2022/10/06(木)(星野太)

ルネ・デカルト『方法叙説』(講談社学術文庫)

翻訳:小泉義之

発行所:講談社

発行日:2022/01/11

古今東西の哲学書のなかでも、デカルトの『方法叙説』(1637)ほど広く知られているものはそうそうないだろう。同書の「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum; Je pense, donc je suis)」という言葉は、哲学や思想にまったく興味がない人であっても、どこかで一度は聞いたことがあるはずだ。

同時に本書ほど、その知名度に比して読まれていない本もあるまい。世間では「我思う、ゆえに我あり」という定式──ないしキャッチフレーズ──だけが一人歩きしているきらいがあるが、『方法叙説』の内容は、そのようなひとつの文章によって要約しうるものではまったくない。

今年のはじめ、講談社学術文庫に加わった本書は、そのあまりにも有名な古典の新訳である。巻末の訳者解説によれば、20世紀後半だけにかぎっても、本書の日本語訳は6種類におよぶという。訳者の小泉義之(1954-)は『ドゥルーズの哲学』(講談社学術文庫、2015)をはじめとする現代フランスの哲学・思想をめぐる仕事によって知られているが、最初の本である『兵士デカルト』(勁草書房、1995)をはじめ、デカルトを中心とする近世哲学が元来の専門である。

そもそも『方法叙説』とはいかなる書物か。若き日のデカルトは母国フランスで学業を修めたのち、「文献による学問」を捨て兵士としてオランダ、ドイツに赴いた。その間も、デカルトは「世界という大きな書物」(17頁)に学びつつ思索を続け、最終的に9年間の放浪を経てオランダに隠棲することになる。本書は、デカルトがそれまでの20年におよぶ精神の遍歴を綴ったものであり、間違っても第四部に登場する「私は思考する、故に、私は存在する」(45頁)というひとつの命題に収斂するものではない。

知られるように、そもそも本書は『屈折光学』『気象学』『幾何学』という三試論に先立つ「方法」についての概説であった(従来、方法「序説」という日本語訳が採用されてきたのもそのためである)。しかし、以上のような成立経緯をもつ『方法叙説』は、デカルトという人間の半生を綴った自伝的な書物でもある。げんにかれはこう言っている──「この叙説で、私が辿ってきた道の何たるかを示し、私の人生を一枚の絵画のように表象することができれば、私としてはとても喜ばしい」(12頁)。そう、本書は何よりもまず、40歳になったデカルトがおのれの半生を振り返りつつ書いた「一枚の絵画」なのだ。じっさい、全六部からなる本書を虚心坦懐に読んでいくなら、そこで第一にせり上がってくるのはデカルトというひとりの人間の肖像にほかならない。

この小泉義之訳の『方法叙説』──ちなみに、本書のタイトルが方法「序説」でない理由は訳者解説で説明されている──は、これまで同書を手にとり挫折した人にとっても、あるいは人生のどこかの段階で同書を読んだことのある人にとっても、ひとしく参照に値する一冊である。全体を通してきわめて行き届いた訳注を含め、本書はいわゆる学術書の翻訳作法に則っているが、そこに不必要な読みにくさはまったくない。なおかつ、エティエンヌ・ジルソンやフェルディナン・アルキエによる定評ある註解書にもとづいた訳注の数々は、あるていど専門的な内容を期待する読者の期待にも応えうるものである。

2022/08/18(木)(星野太)

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