2018年11月01日号
次回11月15日更新予定

artscapeレビュー

VvK21 桑島秀樹キュレーション「家族と写真」

2018年05月15日号

会期:2018/04/21~2018/04/29

KUNST ARZT[京都府]

VvK(アーティストキュレーション)の第21弾。写真家の桑島秀樹のキュレーションにより、写真を通してそれぞれの「家族」に向き合う作家4名が参加した。

桑島は、視線の謂いとしてのカメラを介して父親の写真作品に対峙する「Parallax」シリーズを出品。かつて写真館を営んでいた父親が撮った肖像写真の前にガラス板を立て、ガラス面にピントを合わせて撮影したものと、父の作品自体にピントを合わせて撮影したものとを、多重露光によって一枚の写真に仕上げている。前者の場合、ガラス面に映り込んだ桑島の構えるカメラにピントが合う一方で、ガラス越しの父の作品は亡霊のようにぼやけて浮遊する。その曖昧な像は、写真館の消灯の仕事を命じられていた子ども時代の桑島が、父の撮った肖像写真が無数に並ぶ様が恐ろしくて正視できなかったため、薄目を開けて消灯していた時に見たイメージに近いという。父親の撮ったポートレイト/「写真家」として対峙する自身の視線の代替としてのカメラ/亡霊のように浮遊する記憶のなかの像。そこでは、二重、三重の眼差しの交錯に加え、父親が撮影した1960年代という過去の時間、現在の桑島の視線、自身の子ども時代の記憶というように、複数の時間も一枚の画面上に重層的なレイヤーとして折り畳まれている。「Parallax」は「視差」を意味するが、桑島の作品は、決して重なり合わない二重像の内に父親との距離感を表出させるとともに、被写体との「適切な距離」を測りながら、眼差しを向ける者自身の(物理的、心理的)距離も同時に写り込んでしまう写真それ自体についてのメタ写真であるとも言える。


桑島秀樹《Parallax - At the Ruins in Mikage》1963/2011 Gelatin Silver Print


また、自身を含む家族が「消防隊」「選挙カーでPRする政治家」「遊園地のアクションヒーロー」などを演じる写真作品で知られる浅田政志は、まさに本展のテーマに相応しい作家だ。浅田の作品は、家族のメンバーがコスプレし、固定化した陳腐なイメージを演じることで、「家族」という枠組み自体が「社会的役割として演じられるフィクション」であることを逆説的に浮かび上がらせる。「家族のポートレイト」であると同時に「家族」の虚構性の提示でもある点に、浅田作品の本質的な意義がある。


浅田政志 展示風景


「家族(像)」の虚構性を突く浅田作品とは対照的に、山本雅紀はモノで溢れかえった狭いアパートの居室に、両親や兄弟姉妹たちが暮らす「山本家の生態」を生々しく切り取って提示する。折り重なるように川の字で寝る様子、パンツ一丁で髪を剃る父親、下着姿にくわえタバコの母親、入浴姿、新聞紙の上の誕生日ケーキを囲む様子、濃密なスキンシップ……。壁面を隙間なく覆い尽くす展示方法が、写真の持つ得体の知れないエネルギーを増幅させる。貧困や引きこもりといった社会問題も透けて見えるが、家族の表情は明るく、「撮られる」ことに抵抗感がなく無防備に身体を晒している。「プライバシー」の配慮すら感じさせない撮り方だが、露悪的な暴力性を感じさせないのは、この濃密な共同体のなかに山本自身が身を置いて皮膚感覚で共有しているからこそ可能になったものだろう。


山本雅紀 展示風景


一方、松本欣二は、10歳の時に何者かに殺害された台湾人の母親との関係を、虚実を曖昧にする写真の力によって再構築しようと試みる。作品は、1)ドキュメントとしての過去の写真や新聞記事、2)母親の足跡や記憶の「再現」、3)現在の自身の家族のスナップという3つの要素から主に構成される。1)では、子ども時代に撮られた写真、パスポート、事件を報じる新聞記事といった過去の出来事の証左が複写される。2)では、自身の記憶や事件の捜査記録を辿り、「母がよく行っていた喫茶店」「母が作ってくれた料理で好きだったもの」「最後に吸ったタバコ」といった記憶や証拠物件が「再演」され、証拠写真のように撮影されることで現実として再び立ち上がる。3)では、自身の幼い息子が被写体となるが、「花火」「入園式(卒園式)」など、1)の自身の過去の写真と似たシチュエーションが意図的に選択されることで、自身の幼年期と息子への眼差しが重ね合わせられていく。妻の顔をあえて写さないことも、この「二重写し」「混同」の操作に加担する。写真のなかで幸福に触れ合う母子はかつての自分と母親ではなかったか──そうした幸福な幻想と、一方で冷静に距離を置く眼差しが、松本の写真には複雑に同居する。


松本欣二 展示風景

最後に、本展のタイトルについて振り返ろう。「家族写真」ではなく、「『家族』と『写真』」とした点に、本展の射程が集約されている。「家族写真」と言った時、「一般的な、普通の、規範的な家族像」を無自覚に前提としていないかという問いこそ、本展の根底に見出されるべきである。

2018/04/29(日)(高嶋慈)

2018年05月15日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ