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村田真のレビュー/プレビュー

彫刻刀が刻む戦後日本—2つの民衆版画運動 工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった

会期:2022/04/23~2022/07/03

町田市立国際版画美術館[東京都]

タイトルを縮めてしまえば「戦後日本の民衆版画運動」になるが、それではクソおもしろくないしだれも見に来ないだろうから、「彫刻刀が刻む」というちょっと刺激的な言葉を入れたに違いない。事実この一言が入ることで、小学校の図画工作で木版画(ゴム版画ってのもあった)をやったことを思い出し、そういえばクラスでひとりかふたり彫刻刀で指切ってたヤツがいたなあ、ひょっとしたらそのせいでいまの小学校ではあまり推奨されていないのかも、などと連想が広がったものだ。同展は、そうした学校教育のなかに版画を採り入れた「教育版画運動」と、その源流である「戦後版画運動」の2つを紹介している。

戦後版画運動は、敗戦まもないころ日本に紹介された中国の木版画(木刻)に刺激され、1940年代後半から50年代半ばにかけて盛り上がった版画運動。中国の木刻運動が抗日戦争や農村の生活風俗を刻んだ作品が多かったこともあり、日本でも労働運動や政治風刺などプロパガンダ色の強い木版画が数多くつくられた。木版画はモノクロームが基本だが、油絵や日本画はいうにおよばず、リトグラフやシルクスクリーンに比べても容易に制作できるため、全国に波及した。美術史的にいえば、戦前に弾圧されたプロレタリア美術の精神を受け継ぎ、戦後のルポルタージュ絵画と並行しながら発展した美術運動と位置づけられるだろう。だが、比較的容易に量産でき、社会運動と結びつく長所が、皮肉にも美術史から遠ざけられる要因にもなった。ルポルタージュ絵画が1950年代後半に日本を襲ったアンフォルメル旋風によって影が薄まったように、社会主義的なリアリズムを基本としたこの版画運動も衰退していく。

代わりに台頭してくるのが、学校教育に版画を採り入れていこうという教育版画運動だ。小学校低学年でも彫刻刀を使わずにできる「紙版画」を普及させたり、クラス単位、グループ単位で大画面に挑む共同制作を推進したり、さまざまな工夫が凝らされ、これも全国的に広がっていく。圧巻は小中学生の共同制作によるベニヤ板大(90×180cm)の大判版画。川崎市の小学校では黒煙を吹き出す工場地帯、青森県十和田市の小学校では切田八幡神社のお祭り、石川県羽咋郡の小学校では収穫風景や干し柿づくりというように、それぞれの地域に根ざしたモチーフを彫り込んでいる。なかでも、青森県八戸市の中学校養護学級14人によるファンタジックな「虹の上をとぶ船・総集編」の連作は、動物が空を駆けるシャガールの幻想絵画を思わせ、プリミティブながらも子どもがつくったとは思えないほどの完成度を示していて驚いた。余談だが、この「虹の上をとぶ船」のレプリカが三鷹の森ジブリ美術館に展示されており、それにインスピレーションを得た画像が宮崎駿監督の映画「魔女の宅急便」(1989)にも登場するという。実は教育版画運動の推進者である大田耕士は宮崎の義理の父にあたり、宮崎自身も教育版画運動に協力したことがあるそうだ。

2022/06/04(土)(村田真)

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開館15周年記念展 混沌と希望

会期:2022/05/14(土)~2023/05/07(日)

中村キース・ヘリング美術館[山梨県]

開館15周年記念展。ここはキース・ヘリングのコレクションを毎年テーマごとに展示替えしているので、大半は見たことがある作品ばかり。それでも見にいくのは、緑あふれる環境とヘンテコな建築、そしてスタッフのすばらしいホスピタリティに触れることができるから。なによりありがたいのは、この日、新宿から送迎バスが出ていたこと。これがなければなかなか腰が上がらない。ところが今回、西新宿から高速に乗る予定が事故のため高井戸ICに変更、そこで大渋滞に巻き込まれて高速に乗るまでに2時間もかかってしまった。ようやく乗った高速ものろのろ運転で、しかも自然の欲求に勝てず府中あたりでいったん高速を降りて、コンビニでトイレ休憩。結局12時到着予定が、着いたのはもう15時近く。中村和男館長のトークには間に合わず、同館顧問の梁瀬薫さんの解説を聞きながら急いで会場を回り、ホテルキーフォレスト北杜の「パトリシア・フィールド アートコレクション展vol.3」を見て、コロナ禍で遠ざかっていた久々のレセプションパーティーでおいしい料理と酒を慌ただしくいただき、1時間遅らせた17時発のバスで帰京した次第。

ま、そんな話は置いといて、今回の「混沌と希望」だ。そもそも北川原温設計の美術館建築は、ロビー横の「闇へのスロープ」を降りて「闇の展示室」に入り、そこからスロープを上りながら「プラットフォーム」を抜けて、明るく広大な「希望の展示室」に出る仕掛け(その後、いちばん奥に「自由の展示室」を増設)。つまり観客は、暗いどん底にいったん降りてから徐々に明るい高所へと上っていく体験をするわけで、これは八ヶ岳の斜面を生かしたプランであると同時に、地下鉄のグラフィティに始まり、やがてアートシーンに浮上してスターになり、世界中の子供たちに希望を与えたキースの人生を象徴する設計でもあるのだ。そして開館初年度の展覧会が「混沌から希望へ」と題されていたのは、まさにキースの生きざまを示すもの。15周年を迎えた今回は、もういちど原点に戻って「混沌と希望」を再考する試みといえる。

「闇の展示室」では、自画像やシルクスクリーンの連作《アポカリプス(黙示録)》(1988)、死の直前に制作した金属製の祭壇画《オルターピース(キリストの生涯)》(1990)が飾られ、「プラットフォーム」では地下鉄構内の黒い紙に書いていた初期のサブウェイ・ドローイングを展示。「希望の展示室」では、デフォルメした人のかたちを組み合わせた彫刻や、記号化された人間が入り乱れる大作絵画が並び、「自由の展示室」では、ペニスの先から人間が飛び出る初公開の絵画《無題》(1984)をはじめ、彼自身の個展や反戦・反核・反エイズのためのポスターなどがずらっと並ぶ。出品点数約150点。キースが去って30年余り、彼の命を奪ったエイズの脅威は近年パンデミックとして甦り、彼が取り組んだ反戦・反核運動はロシアのウクライナ侵攻により危機にさらされている。この「混沌」の時代に彼が生きていたら(それでもまだ64歳)、どんな作品で「希望」を与えてくれただろうか、だれもがそう思わざるをえない。

2022/05/28(土)(村田真)

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Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展:藤井光

会期:2022/03/19~2022/06/19

東京都現代美術館[東京都]

同時開催の「井上泰幸展」と「吉阪隆正展」の内覧会のときに見逃したので、あらためて見に行く。東京都とトーキョーアーツアンドスペースの主催するアワードの受賞記念展。受賞した藤井光と山城知佳子の2人展だが、ここでは藤井の作品について書く。出品作品は《日本の戦争画》と《日本の戦争美術》の2点。前者は大作ばかり153点が1セットになっているので、びっしり展示しても現代美術館の広大な1フロアの半分を埋め尽くす。《日本の戦争美術》のほうはマルチスクリーンの映像インスタレーションだが、3時間を超える長尺なので(音声のみだと12分弱)一部しか見ていない。

まず、会場入口に「日本の戦争美術展」とタイトルが掲げられ、「昭和21年8月21日-9月2日/東京都美術館/入場 占領軍関係者に限る/主催 アメリカ合衆国太平洋陸軍」と書かれている(実際は英語の下に日本語表記)。昭和21年というと、日本の敗戦後GHQが藤田嗣治らの協力の下に全国から戦争記録画を集め、東京都美術館に収蔵した時期にあたるので、その史実に基づいた架空の展覧会だろう。と思ったら、解説には「1946年に東京都美術館で、占領軍関係者に向けて開催された戦争記録画の展覧会を、アメリカ国立公文書館に現存する資料をもとに考察した映像とインスタレーションで再現します」とある。ほんとにそんな展覧会あったの? 聞いてないよ~。でも占領軍向けの非公開の展示ならありうるかも。

《日本の戦争画》は153点1セットからもわかるように、東京国立近代美術館に収蔵されている戦争記録画をすべて原寸大で再現したもの。といってもキャンバスに模写したわけではなく、ベニヤ板やカラーシート、クレート(美術品運搬用の箱)などの廃材を使って同じサイズに組み立てたものだ。1点1点すべてキャプション(これも英語が先)がついているので、ある程度知識があれば原画をイメージしやすい。例えば藤田の《サイパン島同胞臣節を全うす》は幅3.6メートルを超す横長の超大作だが、ここでは画面の9割くらいが黒い布に覆われ、上部にわずかな白い余白がのぞく構成で、崖の上で日本人たちが集団自決しようとしている原画のイメージがなんとなくオーバーラップしてくる(作者はそこまで意図してないと思うけど)。

最初の部屋はある程度余裕を持って展示しているが、通路を隔てた奥の部屋は骨組みだけの仮設壁を何枚も立て、収蔵庫のように2段がけでびっしり空間を埋め尽くしている。確か東京国立近代美術館はこれまで戦争記録画を15点以上まとめて公開したことがないが、もし153点すべて一気に見せようとすればこれだけの場所が必要だというシミュレーションとしても見ることができる。この展示のおもしろいところはそれだけではない。つぎはぎしたパネルやカラーシートを組み合わせた色面構成が並ぶさまは、まるでイミ・クネーベルかミニマルアートを思わせるため、戦争画から離れて抽象絵画として鑑賞することもできるし、また子どもが退屈したら、迷路のようなインスタレーションとして楽しむことだって可能だ。

ひとつ気になるのは、今回の展示の後これらの「作品」はどうなっちゃうんだろうってこと。「芸術作品」として153点まとめて保存されるのか、それとも再現可能なインスタレーションの素材として再び廃材に戻るのか(1点ずつバラ売りという選択肢もあり?)。これはGHQが戦争記録画を「芸術かプロパガンダか」と判断に迷ったことにもつながってくる。もし保存されるとしたら、どこがふさわしいだろう? 東京都美術館か、東京都現代美術館か、それとも東京国立近代美術館か。ま、倉庫が空いてるところだろうね。

2022/05/15(日)(村田真)

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惑星ザムザ

会期:2022/05/01~2022/05/08、2022/05/14,15

小高製本工業株式会社 跡地[東京都]

布施琳太郎がキュレーターを務め、17組のアーティストが参加する展覧会。なにより目を引くのは会場となった古いビル。製本工場だった6階建ての建物全体を使っているのだが、入り口はひとつなのに内部は大きく2つに分かれている。もともとL字型の敷地に建てられたのか、それとも斜向かいの土地に建て増したのか知らないが、この特徴的な空間をうまく活かした展示になっている。建物は坂の途中にあるため3階の入り口から入り、6階まで作品を見ながら階段を上っていき、別の階段で降りて2階、1階を見て裏口から出るという順路。ぼくが訪れたのは夜で、しかも映像作品が多いため室内は暗く、まるで迷宮巡りをしているような楽しさがあり、つい2往復してしまった。

ザムザとはいうまでもなく、カフカの小説『変身』の主人公の名前。布施のステートメントによれば、「『惑星ザムザ』はテキスト以前の物質から思考を開始する。それは芸術作品の制作の根拠を、書物的な理性ではなく、インクや愛液、紙、明滅、線、面、電気信号、塩基配列、振動、空気といったマテリアルに求めることだ。これら物質が、安定したテキストやコンテキストに到達することなく、身勝手な生命活動を開始した状況を観測することこそ『惑星ザムザ』の目的である」。いくつかの作品を見た順にピックアップしてみよう。

名もなき実昌の《いつかはきえる(記号が並ぶので省略)》は、床に砂で絵を描いて、ところどころにバナナの皮を置いたインスタレーション。見るものはその上を歩けるので、絵は会期中どんどん崩れ、変化し、消えていく。踏みつける絵というと「踏み絵」があるが、ここに描かれているのは聖像のような侵しがたいイメージではなく、壁紙に使われるような装飾パターンなので、バナナの皮を踏むより抵抗は少ない。田中勘太郎の《上書きの下のミイラ》は、工場に放置されていた印刷機械やダクトなどの廃棄物を重しにした押し花を展示。いたいけな花とそれを押しつぶす暴力的な産業廃棄物の対比は、まるで美女と野獣のようだが、お互い死にかけたものどうしのお見合いともいえる。

横手太紀の《When the cat’s away, the mice will play》は、暗い床にブルーシートに覆われたなにかがうごめく作品。なにかわからないがずっとうごめいているのだ。見逃しそうになるが、その横の暗い洗面所には《Building Flies》という作品もある。鏡に「この部屋には大量の■■■が住みついている あなたのスマートフォンにも彼らが写り込んでいるかもしれない」といった手書きの文字が、スマホの光で浮かび上がる(そのスマホにはなにかが写っている)。これはおもしろい。MESの《Stellar’s End/恒星の終り》は、宙吊りにした球体にレーザー光を当て、さまざまな記号や形態を描き出していく作品。タイトルは「恒星の終わり」だが、ゆっくり回転する宙吊りの球体は地球を連想させずにはおかない。例えば1点に当てられた光が徐々に円環状に広がり、球全体を覆っていく様子は、まるで巨大隕石が地球に衝突して衝撃波が広がるさまを想像させる。また、光はすぐに消えず、ゆっくり回転しながら残像を広げていくので、地球環境が徐々に蝕まれていくプロセスを見せつけられるようだ。どれもこの古いビルの特性を活かしたサイトスペシフィックな展示で、この社会に対する違和感や地球に対する危機感が表われている。



田中勘太郎《上書きの下のミイラ》[筆者撮影]

2022/05/04(水)(村田真)

リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと

会期:2022/04/09~2022/06/05

平塚市美術館[神奈川県]

川崎市市民ミュージアムは3年前に台風で被災してから休館したままだし、横浜美術館は昨年から改修工事のため休館中だし、両市合わせて人口500万人を超すというのに、人里離れた川崎市岡本太郎美術館を除いて美術館はほぼ壊滅状態。そのため、両市を通り越して三浦半島から湘南にかけての美術館に行くことが増えた。横須賀美術館からカスヤの森現代美術館、葉山と鎌倉の神奈川県立近代美術館、茅ヶ崎市美術館、平塚市美術館まで数も多いし、中小規模ながら内容的にも充実している。今日はそのうち平塚市美と茅ヶ崎市美をハシゴ。

「リアルのゆくえ」は5年前に見た展覧会と同じタイトルなので、また同じ作品を見せるのかと訝ったが、けっこうおもしろかったのでもういちど見るのもいいか、「けずる絵、ひっかく絵」もやってるしと思い直して足を延ばした。最初は高橋由一や水野暁らの絵が並んでいるので、やっぱり同じかと思ったが、後半になると彫刻ばかりなので違う。前回はすべて絵画だったが、今回は彫刻のほうが多い。

絵画は由一の《豆腐》《なまり》《鯛(海魚図)》など静物画から始まる。地味だが、対象を凝視し「リアル」に表わすには静物がもっともふさわしいことがわかる。前回いちばん感銘を受けたのは水野暁だが、今回も粘り強く描き込んだ大作《日本の樹・二本の杉(白山神社/東吾妻町・伊勢の森/中之条町)》や、リアルを求めてアンリアルな怪物的形象に至った「Mother」シリーズを出品。遠野市に住む本田健は、以前は鉛筆による風景画ばかり制作していたが、近年は油彩で雑草をはじめ田舎の身近な風景を濃密に描き出している。これはすばらしい進化。中折れしたトイレットペーパーの芯を大画面に描いた横山奈美の《逃れられない運命を受け入れること》は、以前どこかで見て感動した覚えがあるが、今回はフロッピー、砲弾、火のついたタバコといった時代遅れのオブジェや、「Painting」と描いたネオンをモノクロに近い暗い色彩で表わしている。モチーフの選択と表現テクニックが絶妙に絡み合う。これらに共通するのは、いずれも身近なもの、日常卑近なものを描いているということだ。

リアルな絵画を高橋由一から始めたように、彫刻では松本喜三郎や安本亀八の生人形を出発点とし、西洋彫刻の洗礼を受けた高村光雲や平櫛田中を経て、現代の彫刻表現までの流れのなかに日本独自の「リアル」を探ろうとしている。例えば、古い欄間の透かし彫りを集めて再構築した小谷元彦の《消失する主体》「消失する客体」シリーズや、鋳造のための鋳型を転用して立体の凹凸を反転させた中谷ミチコの作品は、彫刻の概念からはみ出しつつそれでもまだ彫刻の範疇にとどまっている。ところが、動く彫刻の「自在置物」をつくる満田晴穂や本郷真也、「曜変天目」や鉄瓶を漆器で擬態する若宮隆志らの作品は、彫刻というより「工芸」に近い。実際、彼らの出自は鋳金や漆芸だ。さらに、色といい質感といい本物そっくりのシリコン製の義手や義指を出品した佐藤洋二は、本来の仕事である義手・義足製作をアートの域にまで高めようとしている。じつは、生人形の喜三郎は人体模型や義足製作も手がけていたというし、佐藤の祖父も菊人形師であった。ここらへんに日本の彫刻、日本のリアルの独自性がありそうだ。

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リアルのゆくえ──高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの|村田真:artscapeレビュー(2017年06月15日号)

2022/05/03(火)(村田真)