artscapeレビュー
リアルのゆくえ──高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの
2017年06月15日号
会期:2017/04/15~2017/06/11
平塚市美術館[神奈川県]
日本の近代絵画における「リアリズム」の受容と変容をたどる興味深い展覧会。冒頭、高橋由一の《鮭》と磯江毅の《鮭─高橋由一へのオマージュ─》が並ぶ。これが日本のリアリズム絵画の始まりと現在、どちらが真に迫っているかな? というわけだ。いったい由一以降の、例えば堀和平や田村宗立や、ここには出ていないが、山本芳翠らに見られる独特の妖しげな暗さや、露悪的ともいえる「デロリ」とした感触はなんだろう。以前から気になっていたことだが、この暗いリアリズム(デロリズム?)は明るさを招来した黒田清輝以後も、岸田劉生、河野通勢、椿貞雄、高島野十郎、靉光と連綿と受け継がれていく。
同展を見て少しわかったのは、ルネサンス以降の西洋絵画は基本的にリアリズムで、遠近法や陰影法を駆使して外界を正確に再現しようとしてきたが、それは現実をありのまま描く(つまり醜い面もあえて描く)いわゆる「リアリズム絵画」とは違う。例えば布のシワは描くけど、女性の顔のシワやホクロは描かないし、陰毛も省略する。つまり夾雑物を排除し、理想化して画面に構成し直すのが西洋絵画の王道なのだ。ところが日本人が油絵を導入したとき、細部まで忠実に再現することに熱中して理想化と構成を忘れ、美も醜も描き込んでしまったのではないか。さらにそこに、世界を階層づける一神教とは異なった、細部に魂が宿るアニミズム的世界観も反映されているはず。日本のリアリズム絵画の独自性はここに由来する(リアリズムではないけれど、岡本太郎の抽象画も同じ理由でデロリとしている)。
ところが情報化社会になると、写真イメージをそのまま写し取ったスーパーリアリズム(フォトリアリズム)が登場し、機械的な正確さが増すのに反比例して急激に画面の厚みや匂いが薄まっていく。同展には写真を忠実に写し取る画家もいれば(吉村芳生、本田健ら)、対象を凝視して描く画家もいるが(磯江毅、水野暁ら)、いずれにせよ写真イメージの氾濫する現代ではかつてほどの訴求力は失われている。磯江の鮭は技巧的に見事というほかないが、由一の《鮭》の発するデロリとした生臭さはない。
2017/05/07(日)(村田真)