2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

木野彩子レクチャーパフォーマンス ダンスハ體育ナリ? 其ノ弐 建国体操ヲ踊ッテミタ

会期:2018/05/12

聖徳記念絵画館[東京都]

明治期に美術界では「書は美術なりしか?」という論争があったが、舞踊界では「ダンスは芸術か、体育か?」という問いかけがあるそうだ。現状では芸術ではなく、体育に組み込まれているらしいが、そのことを戦前の「建国体操」を復元することで振り返り、ダンスと体育の差異を探ってみる試みだ。講師の木野彩子は、お茶の水女子大学の舞踊教育学科を出て保健体育の先生をやっていたダンサーというから、まさに芸術と体育を股にかけてきた人。そういえば大野一雄も長く体育教師をやっていたっけ。

会場は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館の会議室だが、絵画館前で待ち合わせ、バスガイド姿の木野が建設中の国立競技場や建国記念文庫をザッと案内。神宮外苑にはご存知のように、いま建て替え中の巨大な競技場をはじめ、野球場、ラグビー場などスポーツ施設が整備され、また絵画館には、明治天皇と皇后の事績を記録した80点の絵画が常設展示されている。この外苑で戦時中、学徒出陣の壮行会が行われた。なぜここを会場に選んだかが徐々にわかってくる。では館内へ。

会議室では、学ランに着替えた木野がダンスと体育、体育と神宮外苑、体操ブームと戦争との関係などについてレクチャー。日中戦争が始まった1937年に成立した「建国体操」を復元し、木野が模範演技。その後みんなで踊ってみた。はて、体操は「踊る」というのかな?  動きは空手みたいに拳を突き出す動作が多く、戦闘的な印象だ。ダンスと体操は身体を動かすという点では同じだが、ダンスがみずからの自由意志で動くのに対し、体操は全員が決まった動きを強要される点で決定的に異なり、むしろ戦闘訓練に近いのではないか。ほかにも「日本体操(やまとばたらき)」という創作体操もあって、「みことのり」「いやさか」「みたましずめ」「天降り」などの動作があるのだが、動きがほとんどなく声を出すだけで、身体訓練というより精神的な鍛錬を目指しているのではないかとのこと。このように戦争中に体操ブームが起こったのは、1940年に予定されていた東京オリンピックが中止になったからだそうだ。

重要なのは、体操が国家の必要により身体を鍛えるのに対して、ダンスは国家や社会の要請から脱していくことに本質があるのではないかとの指摘。何年か前、深夜クラブでのダンスが禁止されて問題になったが、国家は国民の身体を統制したがるのだ。最後に木野は1964年の東京オリンピックを見た杉本苑子の文章を朗読した。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。オリンピックの開会式の進行(行進?)とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった」。2年後にはまた東京オリンピックが開かれる。

2018/05/12(村田真)

BLIND PIECE PROJECT

会期:2018/05/10~2018/05/11

京都芸術センター ミーティングルーム2[京都府]

通常のダンス公演とワークショップの中間のような感触をもった作品。構想と振付は、パフォーマー、振付家の秋津さやか。事前の告知文や公演前に「ガイド役」のパフォーマーにより、「パフォーマンスのシーンと観客がガイドの合図に従って目を閉じる時間が組み合わさった観客参加型の作品」であること、ダンサーと観客の身体的な接触があることが告げられる。

公演会場は元小学校の教室であり広くはなく、観客も定員15名と数が絞られ、親密な演出設計が図られる。正方形に並べられた椅子に観客が座ると、ダンサーが同じ客席から現われ、椅子に囲まれたスクエアの空間で動き始める。3名のダンサーはそれぞれ、学校やレッスン場など記憶のなかの場所を思い出しながら、廊下を歩く、段差を越えるといった動作を行なっているようだ。「これくらいの幅で…」「高さはこれくらいで…」といった言葉を誰にともなく発しながら、空間を測量するような動作に、うまく思い出せないもどかしげな仕草がノイズのように加わる。3人の身体が描く記憶の風景と交通が奇妙な磁場を醸成し始めたころ、「目を閉じてください」というガイドの言葉が唐突に発せられ、見ることが遮断される。目をつむっても動作の気配は続く。しばらくすると、「目を開けてください」という言葉が発せられ、視覚は回復する。


[写真提供:FORUM KYOTO]

これを数回繰り返した頃だろうか、「目を閉じている」時、誰かの手が膝をすうっと撫でた。次に目を閉じた時、膝の上に置いた手を誰かがそっと握る。「誰か」はだんだん大胆になり、手首を掴まれた私は席を立って、中央のパフォーマンスエリアに足を踏み出すよう無言で促される。突然離される手と「見えない」ことが微かな不安をよぶ。合図に従い目を開けると、何人かの他の観客も席から連れ出されて周囲に立っている。見る/見られるの反転。「目を開ける」度に、動かされた観客の身体が新たな風景を形づくる。「目を閉じている」時、動かされた私の手は誰かの身体に触わり/触れられる。身体の向きとともに変化して感じられる照明の明るさ、隣に立つ誰かの気配、不揃いな足音、だんだん速く大胆に動かされる私の身体。3名のダンサーの短いソロパートを「見る」時間を挟み、最後は観客全員が中央の空間に連れ出されて終了した。


[写真提供:FORUM KYOTO]

一方的にダンサーから「触られる」こと、「目を閉じて見ない」こと。ここで企図されているのは、「観客性」の揺さぶりもしくは一時的解除である。「見ること」を担保する安全な距離の介在は、ダンサーとの直接的な身体的接触により、破られる。そして(観客がガイドの指示に従う限り)視線の主体であることは―少なくとも一次的に―無効化されてしまう。

では、ここで起きている出来事の総体を見ているのはいったい「誰」なのか?「BLIND PIECE」の試みはむしろ、通常は不可視の盲点としてある「演出家」という特権的位置を浮かび上がらせる。また、「観客性」の一時的解除という戦略は理解できるが、「何かを思い出そうとしながら語る人間の(半ば)無意識の身体の動きや、語る言葉と身体の乖離を扱う」というパフォーマンスの軸との関連性が乏しく、やや未消化感が残った。既に2度の上演を重ね、今後も(観客の意見をフィードバックさせながら)発展させていくというこのプロジェクトの今後の展開に期待したい。

2018/05/10(木)(高嶋慈)

ふじのくに⇄せかい演劇祭2018

会期:2018/04/28~05/06

静岡芸術劇場ほか[静岡県]

ゴールデンウィークは恒例になってきたふじのくに⇄せかい演劇祭に出かけた。静岡芸術劇場で上演された「ジャック・チャールズ vs 王冠」は、俳優ではなく、本人が何度も刑務所入りした生涯を振り返りながら、オーストラリアにおける先住民の児童隔離政策の歴史をあぶりだす。本人役ゆえの説得力はあるが、逆に演劇としてはやや単調な印象も受けた。まちなかで展開するストレンジシードのプログラムとしては、市役所ステージを使うままごとと、札の辻をステージとした壱劇屋を部分的に鑑賞した。前者は通常観客を座らせる階段側の上部のほうを舞台にしていたのが興味深い。移動中に周辺をうろうろと歩くと、リノベーションによるおしゃれなお店をいくつか発見したが、これぞまちなか展開の醍醐味である。建物の中でじっと演劇を凝視しても、街に対する新しい出合いはないが、ハコを飛びだすと、街も変わって見えるし、これがなければ気づかなかった場所に足を運ぶ。

ビルの2階の閉鎖されたレストランフランセを活用した「大女優になるのに必要なのは偉大な台本と成功する意志だけ」は、小さな部屋に同じ背丈の巨体と痩身の女が登場し、二人の激しい会話を透明な壁からのぞき見るようなメキシコの演劇だった。これはストーリーがどうのこうのというよりも、緩急の展開と喜怒哀楽の振幅が圧倒的な迫力で突き刺さり、忘れがたい体験になった。そしてトリは、やはり宮城聰の「マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜」である。フランスのアヴィニョン演劇祭に招聘された作品で、前から観劇したいと思っていたが、ようやく実現した。これはインドの叙事詩が、もし日本の平安時代に伝搬していたらという想定のもと和様化に挑戦し、前衛性と大衆性が見事に融合した作品である。観客席を囲む円環状の舞台は、橋懸かりの変形のようにも見えるが、何よりも舞台の奥行性をなくし、リニアに連なる役者の配置と移動をもたらす。当然、演者がぐるぐるまわる場面もあった。駿府城公園の樹木に大きく映る影も美しい。

2018/05/06(日)(五十嵐太郎)

クロード・レジ演出『夢と錯乱』

会期:2018/05/05~2018/05/06

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

ほとんど何も見えない深い闇から、人間のような形象がかろうじて浮かび上がる。闇を手探るように伸ばされた両手、おぼつかなく揺れる足取り、闇に隠された表情。足元に横たわる影の方が存在感のある、陽炎のようにおぼろげなひとがたが亡霊のように舞台上を彷徨う。スローモーションで引き伸ばされた痙攣。やがて、夜よりも暗い深淵のなかから、ざらついた質感を帯び、嘆きと憎悪と嘲笑が入り混じった声が発せられる。厳格な父親、石のように無関心な母親、死の匂いが重く立ち込めた家、情欲と死への衝動が、破滅的で夢幻的なビジョンの断章として語られていく。

フランス演劇界の巨匠、クロード・レジの演出による本作は、オーストリアの夭折の詩人、ゲオルク・トラークルによる自伝的要素の強い散文詩をテキストに用いて上演された。トラークルは薬剤師として働くなかでモルヒネ中毒になり、妹との近親相姦の関係にも苦しんだ。第一次世界大戦下で衛生部隊として戦線に送られ、自殺未遂の後、コカインの過剰服用により27歳で他界した。

原詩はドイツ語だが、上演はフランス語で行なわれている。そして、本公演の最大のポイントは、俳優の発語と完全に同期しない「日本語字幕」の表示のタイムラグにある。はらわたから絞り出すような発語から数秒ほど遅れて表示される字幕の「ズレ」は、演出上の意図によるものだ。意味内容の理解よりも先に、空気を震わす物理的振動としての「声」が、怖れ/嘆き/破滅の予感/絶望/苦悶の喘ぎといった感情を皮膚感覚で体感させ、調子の狂った弦楽器のようなその声の物質的質感が、一つひとつの言葉に手触りと輪郭を与え血肉化するのだ。声によって受肉化されたイメージを噛みしめる贅沢な間が、観客には与えられている。顔貌も見分け難いほどの暗がりが支配する舞台上で、やや遅れて俳優の頭上で淡い光を放つ字幕は、混沌と闇に文字通りひとときの「光」を与え、たちまち闇に飲まれて消えていく。フランシス・ベーコンの絵画を思わせる大きく開かれた口、その虚無的な広がりに、聴こえない叫びが充満する。

繊細にコントロールされた照明と音響、俳優の身体的現前と声の魅力、そして「字幕」の操作も含めた演出設計が、「朗読」から本作を「演劇」として分かつ。禁欲的にして過剰、沈黙のなかに叫びに満ち、静謐にして内臓的な暴力性に満ちた本作は、身体の輪郭を闇に溶かしながら声の野蛮的な力を浮上させ、見る者の時間・空間感覚すらも失調させるほどの力に満ちていた。


[Photo: Pascal Victor]

2018/05/06(日)(高嶋慈)

武本拓也ソロ公演『象を撫でる』

会期:2018/05/05~2018/05/06

SCOOL[東京都]

ほとんど何もない空間に男がひとり立っている。静止と見紛うばかりのゆるやかな動き。張りつめた空気は観客にも感染する。悪魔のしるしや生西康典の作品に俳優として出演してきた俳優・武本拓也によるソロ公演は、舞踏を思わせる緊張感のあるパフォーマンスで始まった。そのさまは自らの内部、あるいは周囲で生じる微細な出来事に集中し、その一つひとつに応答するかのようだ。

実際、終演後に配布された覚書には「舞台空間に向き合う」「建物の外の音を聞く」「空間の思い出」などのタスクを伴った八つのシーンから作品が構成されていたことが記されている。しかしもちろん、それらが観客に正確に知覚されることはない。見えるのは、極度に集中した武本の身体それだけである。

だが、小駒豪による照明がそこにもうひとつのレイヤーを追加する。舞台奥の壁に向き合い、ゆっくりと歩み寄る武本。白い壁に映し出された複数の影は歩むにつれて武本自身へと凝集していき、壁への到達と時を同じくしてその身体と重なりあう。すると次の瞬間、照明が転じ、武本自身もまた影と化す。

武本はSCOOLの真っ白な空間で、周囲の音や気配、自らの内部で生じる感覚を探り当てようとする。その試みから生まれる身体の動きが状況を変化させ、新たな知覚を生じさせる。それらはすぐそばにありながら容易にはつかめないという意味で影に似ている。つかもうと伸ばす手の動きは、影の形を変えてしまう。武本と影との関係も時々刻々と変わっていく。足元に控えめに存在していた影は、気づけば武本以上の存在感を主張している。武本自身が影へと転じる瞬間には内と外とがひっくり返るような感覚があった。知覚と動作を往復し、両者が渾然一体となるところに武本の身体があり、その輪郭を揺らしている。知覚=イメージ=像の探求は、武本自身を半ばイメージの側へと引きずりこむ。見ること、いること、感じること。観客もまたその分かちがたさを身をもって体感する。

[撮影:研壁秀俊]

公式サイト:http://scool.jp/event/20180505/

2018/05/05(山﨑健太)

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