2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

平田オリザ『働く私』/『さようなら』

会期:2018/03/09〜2018/03/10

浜離宮朝日ホール[東京都]

『働く私』は男女の俳優とプログラムによって舞台で動く2体のロボット(かわいらしい造形であり、デジタル的な音声から推定すると、男女のジェンダー分けがなされている)による演劇。『さようなら』は不治の病の女性と、椅子に座って詩を読むアンドロイド(女性の形象だが、かなりリアルなため、やや不気味)による会話劇だった。なお、後者は3.11を受けての改訂版になっており、その後、原発事故が起きた福島に移送されるという設定が加えられている。技術的にロボットに何が可能かというスペックにあわせて、当て書きのように脚本が執筆されていること、また試行錯誤を繰り返しながら、もうすでに何度も国内外で上演されていたからだと思われるが、俳優と自動人形の息はぴったりと合っている。ロボットが途中でフリーズした場合、再起動する時間を稼ぐために、どのように対応するかもあらかじめ想定されているという。

これらの作品が興味深いのは、改めて人(俳優)とは何か、そして演劇とは何かを考えさせられることだろう。そもそも演劇とは、あらかじめ決められた演出に従い、俳優が身体を動かし、しゃべる表現の形式である。とすれば、究極的に俳優は、一定の振り付けを完全に再現できるロボットになることが求められている。アフタートークでは、ロボット演劇が誕生した契機となった、大阪大学における科学とアートの融合プロジェクトの経緯が紹介されたが、やはり平田のデジタルな演出法はもともと相性がよかったのだろう。彼は抽象的な言葉ではなく、無駄な動きも含めて、1秒以下の細かい単位で、俳優に指示をだしているからだ。ならば、将来、すべての俳優はロボットに置き換え可能なのか?(すでにハリウッド映画では、俳優のCG化が進行しているが)ただ、両者が接近するほど、おそらく人間の特性も明らかになるだろう。少なくとも、現時点で平田は、ロボットだけが登場する作品はまだ発表していない。また筆者が鑑賞したとき、人間とロボットのあいだの微妙な(ディス?)コミュニケーションが想像しうることの重要性を痛感した。

2018/03/09(金)(五十嵐太郎)

かもめマシーン『しあわせな日々』

会期:2018/03/01~2018/03/04

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチルーム[東京都]

腰まで砂に埋まった女・ウィニーがひたすらしゃべる。二幕になると女は首まで埋まっていて、やはりひたすらにしゃべる。時おり砂山の向こうから夫・ウィリーが姿を見せる。サミュエル・ベケットの戯曲『しあわせな日々』はそんな作品だ。タイトルは「されどしあわせな日々」の意だろうか。我が身の状況を知りながらも意に介さない女への皮肉だろうか。

今回の萩原雄太の演出では女(清水穂奈美)の埋まる砂山は鉄の殻を貼り合わせたような造形で(美術:横居克則)、そのビジュアルは高橋しん『最終兵器彼女』や大友克洋『AKIRA』、あるいは映画『マトリックス』を思い起こさせる。ここにある「しあわせ」は幻想に過ぎないと示唆するように。

[撮影:荻原楽太郎]

会場となった旧ノグチルームからは東京のビル群が見渡せる。私が観た回はちょうど夕刻で、ビルの向こうに日が沈むなか、開演を告げるベルが鳴った。それは一日の始まりの合図でもある。女が目を覚まし、一幕が始まる。夕日はまるで朝日のように女を照らすが、それはもちろん錯覚でしかない。時々刻々と日は翳りゆき、夜の訪れとともに一幕が、彼女の一日が終わる。だが、二幕になれば再びベルが鳴り、新しい一日が始まる。外には夜が広がっているにもかかわらず。すると夜を拒絶するかのように部屋の周囲に白い薄幕が降り、窓の外、現実の風景を覆い隠してしまう。

ウィニーの生きる世界に飲まれた観客の姿はウィリーに似ている。砂山=鉄の殻に潜り込み、ウィニーが宿す胎児のように眠るウィリーと、白い薄幕に包まれ現実から隔てられた観客。彼らを包む幻想は果たして安全を保障するだろうか。

あるいは、ウィリーこそがウィニーの孕む幻想そのものなのかもしれない。ならば、結末において外部から現れ手を差し伸べるウィリーの姿もまた都合のよい幻にすぎない。自らのつくり出した幻想に埋もれ、朽ちてゆく自身に見て見ぬふりをする女。窓の外にはDHCの広告が煌々と輝いていた。

[撮影:荻原楽太郎]

公式サイト:http://www.kamomemachine.com/

2018/03/04(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『転職生』

会期:2018/02/28~2018/03/04

王子スタジオ1[東京都]

ウンゲツィーファという言葉はカフカ『変身』に由来する。「毒虫」と訳されることが多いが、本来は「害をなす小さな生き物」という程度の意味らしい。

本作はある会社が舞台の群像劇。人間関係の面倒臭さ、登場人物たちの漠然とした不安や苛立ちが台風の訪れとともにゆっくりと重みを増していく。中途採用で今日が初出社のシナトは空気を読まず、社内の空気をますますおかしくする。台風で帰れなくなった彼らは社内で飲み会を開くが、社員のタカニシがバイトのヨアラシのパソコンを勝手にいじり、彼が書いていた脚本のデータを消してしまったことで二人は衝突。その場の何人かも自らの鬱憤を噴出させる。すると突然シナトが歌い出し、なんだかよくわからないままにその場は終わっていく。

空間の使い方が効いている。通常は稽古に使われるスタジオをそのまま会社の空間に転じ、外を走る車の音がゴウゴウという風の音に聞こえる。休憩所、喫煙所、事務所と並ぶ横長の舞台はリアリズムに基づいているように見えるが、三つの空間は実際には隣り合ってはいないようだ。観客からは同じ空間にいるように見える俳優たちは、しばしば互いが見えていないかのように振る舞う。彼らはひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている。

作品は翌朝、社内ですれ違うヨアラシとタカニシがぶっきらぼうに挨拶を交わす瞬間で終わる。許容。羞恥。謝罪。諦念。無関心。おそらくどれでもあってどれでもない。わかりあわないままでともにある二人にグッと来る一方で、そうするしかないことに苛立ちを感じて引き裂かれる。何事からも自由であるように見えるシナトですら、「あの! 月曜日も来ますよね」という問いかけに一度は黙ってから「あ、はい、よろしくお願いします」と答える。それは共生への微かな希望なのだろう。だがその背後に、そうあるしかないことへの虚無にも似た絶望が透けて見えるのは気のせいだろうか。

公式サイト:https://ameblo.jp/kuritoz/

2018/03/03(山﨑健太)

鳥公園「鳥公園のアタマの中」展

会期:2018/02/27~2018/03/04

東京芸術劇場 アトリエイースト[東京都]

鳥公園・西尾佳織の6本の戯曲を西尾を含めた5人の演出家がそれぞれ演出し、リーディング公演として(台本を手に持ち、それを読み上げるかたちで)上演するという今回の企画。ただし、演出家と俳優はその日の朝からリハーサルを始め、稽古のほとんどの時間は一般に開かれた状態で行なわれる。公演後には西尾と俳優や演出家とのトークもある。創作のプロセスをそのまま見せるという意味で、会場の名前でもある「アトリエ」での作業を見せる試みと言えば近いだろうか。

しかし、創作のプロセスを開示することに、あるいはたった1日しか稽古していないリーディング公演を上演することにどのような意味があるのだろうか。私のように演劇そのものに興味がある人間、あるいは自らも創作に携わる人間にとっては有意義かもしれないが、そうでない人々はこの取り組みに何を見ればよいのだろうか。

27日に上演された『カンロ』(演出は西尾)の初演は2013年。複数の視点から見た現実や夢、妄想が溶け合うような上演のあり方はそれ自体が作品の魅力をなしている一方、舞台上で何が起きているかを完全に把握することを難しくしている印象もあった。ところが今回のリーディング公演では戯曲の構造がはっきりと見えた。戯曲の複数のレイヤーが、俳優の立ち位置や移動によってはっきりと可視化されていたからだ。トークで聞いたところによれば、それは演出の西尾の指示によるものでなく、俳優が自発的に動いた結果なのだという。

ここに示されているのは、戯曲を上演するという行為には、俳優が(あるいは演出家が)戯曲と向き合い思考するプロセスが含みこまれているという当たり前の、しかし忘れがちな事実だ。稽古がそうだというだけでない。繰り返される上演もまた、本来的には思考のプロセスとしてあるはずだ。観客もまた、舞台上の俳優たちと場を共有し、ともに思考する時間を過ごす。であるならば、よい上演の条件とは何だろうか。

公式サイト:https://www.bird-park.com/

2018/02/27(山﨑健太)

シアターコモンズ ’18 マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター「バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章」

会期:2018/02/24~2018/02/25

港区立男女平等参画センターリーブラ、リーブラホール[東京都]

ファイブ・アーツ・センターは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブであり、メンバーのマーク・テは演出家、キュレーター、研究者と複数の顔を持つ気鋭のアーティストである。2016年に横浜と京都で上演された『Baling(バリン)』は、植民地支配からの独立をめぐる内戦の和平会談を記録に基づいて「再演」しつつ、映像作家やアクティビストでもある出演者たちによる個人的な語りや検証を加えることで、公に語られずにきたマレーシアの現代史を掘り起こし、相対化を試みる秀逸な作品だった。本作も同様にドキュメンタリー演劇の手法を用いつつ、「過去」ではなく「(かつて想像された)未来」へとベクトルを変えている。俎上に載せられるのは、1991年にマハティール政権が提唱した国家プラン「ワワサン2020(ビジョン2020)」。2020年までにマレーシアの経済成長と先進国化の実現を謳うこのプランの下で、出演者たちは子供から大人へと成長した。

舞台は、彼らの個人的な経験のエピソードを織り交ぜつつ、この成長過程をなぞるように展開する。「クアラルンプール2020」と書かれた未来都市のポスターがスクリーンに大写しになる。当時13歳だった出演者は、学校の生徒たちが国旗を描くマスゲームの練習に駆り出された記憶を語る。視察に来た首相と目を合わせようと、精一杯の笑顔でポンポンを振る生徒たち。その懸命な無邪気さを、勇壮な行進曲をバックに出演者たちは再現してみせる。次のシーンで彼らは、空き缶やペットボトル、ビニールシートを古典舞踊の衣装のように身にまとい、輝かしい躍進について口々に話す。ハリボテの神々が語る、経済成長と速度の夢。だが彼らはゴミのような素材でできた「衣装」を脱ぎ捨て、床に叩きつけて暴れ始める。舞台奥のDJブースにいた男性が、自身の留学体験を語り出す。企業の奨学金を得てアメリカの大学に進学し、帰国後はエンジニアとして雇用される契約で、未来は保証されていたこと。しかし実際はパンクロックに染まって帰国したこと。ペットボトルや空き缶を叩きつけて破壊する出演者たちは、若者の反骨精神を体現する。散らかった残骸だけが後に残る。


© Masahiro Hasunuma


そして、「国家改革2050」のプログラムが新たに発表され、未来は延期された。出演者たちは残骸を拾い上げて組み立て、積み木遊びに興じ始める。秩序の回復と都市の成長の示唆。しかし延期された未来に、彼らは自身の未来像を投影できない。そして、足元の四角い芝生が、「ダタラン・ムルデカ(独立広場)」に見立てられて語られる。そこはさまざまな記念パレードや国家的な行事が執り行なわれるスペクタクルの空間であり、英国旗が下ろされた歴史の象徴的空間であり、「公共の空間」でありながら集会の禁止などさまざまな規制が課された権力と監視の空間でもある。背後のスクリーンに、10万人が参加した2012年のデモの映像が映される。公正な選挙、教育の無償化、直接民主制を訴える「オキュパイ・ダタラン」に参加し、広場にプロテスト・テントを張ったことを語る男性。別の出演者たちは芝生のシートの下に潜り込んで這いまわり、地面を不安定に流動化させる。警察が張った立ち入り禁止のテープを「国家が自身のパブリック・アートを作った」と詩的に表現する彼らは、「独立広場のオルタナティブな使い方」を口々に語り始める。「私は、独立広場がどんなダンサーも使えるリハーサル場であることを望む」「この国の行方不明者が追悼される場であることを望む」「雑草が生い茂る場所であることを望む」……。


© Masahiro Hasunuma


それは、政治に別の政治で対抗するのではなく、詩的な想像力を武器に対峙しようとする、軽やかかつ強靭な姿勢だ。床の芝生は剥がされ、丸められて墓石のように置かれ、そこにロウソクの灯が添えられる。そして、「都市の中にもう一つの都市」を束の間出現させた広場の占拠は、「オルタナティブな都市」の想像をかき立てていく。「国家を持たない都市」「マレーに生まれた者がイスラムを抜ける選択肢を持つ都市」「女性の快楽のための都市」「壁に描かれている未来を消す都市」「人々が代表されえない都市」……。それは闇に包まれた追悼の中で、かすかな希望のように灯される言葉だ。遊戯的な所作も相まって、舞台上に一瞬、開放的な風が吹き抜けていったように感じられた本作。それは、「演劇」という形式を借りて、世界中に無数に存在する「公共の広場」に向けて、誰のための空間なのかを再考し、再想像するためのレッスンであり、「シアターコモンズ」というコンセプトにまさに相応しい作品だったと思う。

公式サイト:http://theatercommons.tokyo/


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