artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

奥能登国際芸術祭2017 その3

会期:2017/09/03~2017/10/22

珠洲市全域[石川県]

芸術祭の魅力は現代美術の鑑賞をとおして開催地の風土や伝統、習慣を体験できる点にある。それは都市型の国際展では到底望めない、地域に根づいた芸術祭ならではの大きなアドバンテージである。
坂巻正美は上黒丸北山の集落に、この芸術祭が開催される前から通い詰め(奥能登・上黒丸アートプロジェクト)、今回は休耕田に大きな櫓を立て、大漁旗をなびかせた立体作品と、小屋の中で木造船や鯨の頭蓋骨などで構成したインスタレーションを発表した。あわせてこの日、展示会場にほど近い仲谷内邸で「鯨談義」を催した。
「鯨談義」とは、この地域で伝統的な生業としてあった鯨漁についての車座談義で、その経験者はもちろん地域の方々や芸術祭の来場者が交流する場である。一般のご家庭に入ると、土間では集落の方々が炭火で獣の肉を焼いており、居間では地酒とご馳走がふるまわれている。坂巻がプロジェクターで鯨漁の資料などを見せる傍ら、集落のご婦人たちが次から次へと暖かい料理を運んでくるので、話に耳を傾けながらも、神経はもっぱら舌の味覚に集中せざるをえない。鹿や猪の肉、鯨肉、そしてそれらの味を引き締める地産の塩。文字どおり海の幸と山の幸を存分に堪能したのである。
地域の風土や歴史、民俗文化と現代美術。そもそも後者が都市文化の賜物であることを思えば、前者と後者の相性は決してよくないはずだ。しかし、芸術祭という形式において両者は奇妙な共鳴を生んでいるように思われる。現代美術は民俗文化を主題とした作品を制作するばかりか、鑑賞者をそれらに導くための道しるべになっているからだ。芸術祭がなければ「鯨談義」に同席することはなかったはずだし、そもそも奥能登の風土を知ることすらなかっただろう。現代美術は芸術祭を経由することで民俗文化に接近しつつあるのではないか。

2017/10/22(日)(福住廉)

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小松浩子

会期:2017/09/09~2017/10/14

gallery αM[東京都]

写真家の小松浩子の個展。工事現場の資材置き場を写したおびただしい数のモノクロ写真を会場の床や壁を埋め尽くすほど展示する作風で知られる写真家である。なかでも2012年に目黒区美術館の区民ギャラリーで開催した「ブロイラースペース時代の彼女の名前」は、広い会場にプリントされた印画紙のロールを張り巡らせた圧巻の展示だった。
今回の個展でも、その才覚はいかんなく発揮されていた。壁という壁がモノクロ写真で埋め尽くされ、それは床にも及んでいるため、来場者はそれらを踏みつけながら鑑賞することを余儀なくされる。文字どおり四方八方にイメージが拡散しているため、正面や中心を設定することは不可能に近い。それゆえ、私たちは特定の写真に視線の焦点を絞ることすらできないまま、まるで宇宙空間を漂うかのように、写真空間の中をあてどなく彷徨うほかないのである。
興味深いのは、そうであるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、その夢遊病的な彷徨は結果として「資材置き場」の視覚的なイメージよりも触覚的なイメージを強く感じさせるという点である。瓦礫や鋼材のざらついた質感だけではない。泥を浴びたブルーシートや剥き出しの土までもが、思わず触れたくなるような触覚性を醸し出している。この皮膚感覚を励起させたいがために、小松はこれほどまで執拗に写真空間の密度とボリュームを追究しているのではないか。
物質の触感を写真の平面に焼きつけ、なおかつ空間をそれらの平面で充填することによって、その触覚性を空間の物質面で増強すること。それは、一点の写真作品の芸術性を審美的に(つまり視覚的に)問う写真の規範では計りしれない、小松ならではの方法論である。写真作家としてそれを獲得していることに大きな意味がある。

2017/10/05(木)(福住廉)

奥能登国際芸術祭2017 その2

会期:2017/09/03~2017/10/22

珠洲市全域[石川県]

そうしたなか、この芸術祭でひときわ異彩を放っていたのは、鴻池朋子である。鴻池が注目したのは、海と陸の境界線である海岸線。山の幸と海の幸、あるいは近海で入り乱れる寒流と暖流など、境界線ないしは境界領域は、今回の芸術祭のキーワードである。その海岸線に沿って走る山道を汗をかきながら十数分歩くと、切り立った断崖絶壁と荒波が打ち寄せる岩礁にそれぞれ立体造形作品が現れる。それらは、人間と動植物が融合したような異形の造形物。全体が白く着色されているせいか、大自然のなかで見ると、さほど大きな違和感があるわけではないが、よくよく見ると人間の脚がはっきりと確認できるので、少し焦る。たとえ車で移動したとしても、身体性を強く意識させられる作品である。
鴻池の作品が優れているのは、それが自然の風景を美しく見せるための装置ではないからだ。美しい自然をより美しく見せるためのフレームに徹したような作品は、この芸術祭に限らず、近年非常に数多い。だが、鑑賞者に険しい登山道を登り下りさせるという過酷な条件を突きつけているように、鴻池は自然を美しく見せることにおそらく関心を寄せていないのだろうし、そもそも自然を美と直結させる見方を拒否しているのではないか。自然のただなかで暮らした経験のある者であれば誰もが知るように、人間にとって自然は美しいこともあるが、同時に厳しくもあり、場合によっては醜悪ですらある。海と陸の境界線上で、人間と動植物が溶け合ったようなオブジェが体現していたのは、そのような二面性ないしは両義性ではなかったか。
自然に恵まれた環境で催される芸術祭は、自然の美しさや地元住民のやさしさを喧伝する場合が多い。それらが限られた文化的資源のなかで対外的なイメージ戦略を打ち立てるうえで、非常に有効な言説であることは事実だとしても、同時に、それらが「つくられたイメージ」であることもまた否定できない。鴻池の作品は芸術祭の内部で芸術祭を批判する、きわめてクリティカルな意味があり、それを内側に含み込めたこの芸術祭はそれだけの深さと奥行きを持ちえているという点で高く評価したい。

2017/09/19(火)(福住廉)

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奥能登国際芸術祭2017 その1

会期:2017/09/03~2017/10/22

珠洲市全域[石川県]

石川県能登半島の先端に位置する珠洲市を舞台に催された初めての芸術祭。国内外のアーティスト40組が、市内の随所に作品を展示した。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(2000~)をはじめ、「瀬戸内国際芸術祭」(2010~)、そして「北アルプス国際芸術祭」(2017~)に続く、北川フラムによる芸術祭のひとつだが、開催規模も土地の風土もそれぞれ異なるとはいえ、これらのなかでもひときわ鮮烈に輝く芸術祭だと思う。
何よりも決定的な魅力が、清涼感あふれる土地である。山は、越後妻有と違って、なだらかな稜線を描き、海は、瀬戸内とは対照的に、荒々しくも力強い波が打ち寄せる。ちょうど台風18号が通過した直後だったせいかもしれないが、大気が恐ろしいほど澄んでいるのもこの上なく心地がよい。東京から飛行機を使えば1時間だが、北陸新幹線経由では4時間あまり。文字どおり「最果て」というフレーズが似つかわしい土地だが、そこまで足を伸ばす価値は十分にある。
美術作品は、そのような土地の風景と有機的に関係するかたちで展示されている。美しい風景をフレーミングしたり、その土地の記憶を掘り起こしたり、越後妻有や瀬戸内で繰り返されてきた作品の様態とさほど変わらない点は否めない。けれども本展の作品は、その土地の特性を十分に活かすかたちで関係づけられていた。
塩田千春は空間を赤い糸で編み込んだインスタレーションを発表したが、その基底には砂を積んだ砂取舟を設置した。海岸線にはいまも塩田が続いており、砂取舟はそのために実際に使われていたものだという。自らの作風を維持しながら、土地の特性を巧みに取り入れたのである。またトビアス・レーベルガーは廃線の線路上にカラフルでミニマルなインスタレーションをつくった。設えられた双眼鏡を覗くと、はるか先の旧蛸島駅のそばに組み立てられたネオンサインが望めるという仕掛けである。造形として見ればミニマリズム以外の何物でもないが、その土地と有機的に関係するという点では、サイトスペシフィック・アート以外の何物でもない。ミニマリズムの可能性をいま一歩押し広げた傑作である。
ほかにも、サザエの貝殻で外壁を埋めるとともに、内装をサザエのように湾曲させた村岡かずこや、漂着物で再構成した鳥居を海岸に立ち上げることで、ほとんど無意味だった空間にいかがわしい神聖性を付与した深澤孝史など、土地との有機的な関係性を切り結んだ優れた作品は多い。あるいは、地元住民を巻き込みながら巨大UFOを召喚しようとする映像作品を制作したオンゴーイング・コレクティブの小鷹拓郎も見逃せない。越後妻有や瀬戸内、北アルプスなどの先行する芸術祭と比べると、廃線の線路や駅舎、海岸、銭湯、バス停など、作品を制作ないしは設置するうえで、きわめて恵まれた条件がそろっていることは事実である。だが、そのようなアドバンテージを差し引いたとしても、今回の芸術祭はこの土地で作品を見る経験に大きな意味があることを実感できる、非常に優れた芸術祭である。

2017/09/18(月)(福住廉)

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驚異の超絶技巧! ─明治工芸から現代アートへ─

会期:2017/09/16~2017/12/03

三井記念美術館[東京都]

美術史家の山下裕二の監修による超絶技巧の企画展。明治工芸から現代アートまで、約130点の作品を一挙に展示した。同館をはじめ全国の美術館を巡回した「超絶技巧! 明治工芸の粋」(2014-15)の続編だが、「超絶技巧」というキャッチフレーズによって明治工芸を再評価する気運は、本展によってひとつの頂点に達したように思う。質のうえでも量のうえでも、本展は決定的な展観といえるからだ。
むろん、ないものねだりを言えば切りがない。明治工芸の復権を唱えるのであれば、「繊巧美術」の小林礫斎が含まれていないのは欲求不満が募るし、現在において江戸時代の工芸技術の復興を模索している雲龍庵北村辰夫や、比類なき人体造形を手がけているアイアン澤田の作品(さらにはオリエント工業によるラブドールさえ)も、同列で見る欲望を抑えることは難しい。それでも安藤緑山の牙彫や宮川香山の高浮彫に加えて、前原冬樹の一木造りや山口英紀の水墨画など、いまこの時代を生きる同時代のアーティストたちの作品が一堂に会した展観は壮観である。とりわけ微細な陶土のパーツを土台にひとつずつ貼り合わせ、焼成を繰り返すことで珊瑚のような立体造形をつくり出す稲崎栄利子の陶磁や、明治工芸で隆盛を極めた有線七宝の技法を駆使しながら蛇と革鞄を融合させた春田幸彦の七宝など、これまでほとんど知られることのなかった作家たちの作品を実見できる意義は大きい。
超絶技巧の歴史的な系譜──。明治工芸と現代アートをあわせて展示した本展のねらいが、この点にあることは間違いない。明治工芸の真髄は戦後社会のなかで見失われたかのようだったが、きわめて例外的であるとはいえ、ごく少数の希少なアーティストによって辛うじて継承されていたことが判明した。帝室技芸員という制度的な保証があるわけでもなく、宮家や武家という特権的な顧客に恵まれているわけでもなく、文字どおり「在野」の只中で、現代における超絶技巧のアーティストたちは人知れずその技術を研ぎ澄ましていたのである。その意味で、彼らの作品を意欲的に買い集めている村田理如(清水三年坂美術館館長)や言説の面での歴史化を実践している山下裕二の功績は何度も強調するべきだろう。
しかし、その一方で、近年の超絶技巧を再評価する機運は、新たな局面に突入したという思いも禁じえない。それが明治工芸を不当にも軽視してきた近代工芸史の闇を照らし出す灯火であることは事実だとしても、その歴史的系譜を現代社会で生かすには、展覧会での紹介や言説の生産だけでは明らかに不十分だからだ。つまり、超絶技巧を現代社会のなかに定着させる実務的な取り組みが必要である。流行現象として消費するだけでは、いずれ再び「絶滅」を余儀なくされることは想像に難くない。
超絶技巧の制度化。制作に長大な時間を要するアーティストを支えるコレクターを拡充することはもちろん、あらゆるかたちでの公的な支援の体制も整えるべきであろうし、場合によっては帝室技芸員を再興することすら考えてもよいだろう。自己表現という美辞麗句を隠れ蓑にしながら学生を甘やかすだけの美術大学のカリキュラムも根本的に再考しなければなるまい。美術館も例外ではない。モダニズム、具体的にはコンセプチュアル・アートに偏重した歴史観にもとづいた公立美術館の大半は、少なくとも戦後美術に限って言えば、ほとんどゴミのような作品を後生大事に保存しているが、超絶技巧の作品と入れ替えることで戦後美術史を再編することも検討すべきである。在野の美術批評家がいまやある種の「絶滅危惧種」であるように、超絶技巧のアーティストもまた、ある種の「天然記念物」として公的な保護の対象としなければならない。「遺伝子」というメタファーを用いるのであれば、それを保護する制度化の議論を含めない限り、それはたんなる消費のためのキャッチフレーズとして、やがて忘却の彼方に沈んでいくほかないのではあるまいか。
超絶技巧とは、戦後美術を根本的に転覆しうる可能性を秘めた、きわめてラディカルな運動と思想なのだ。その可能性の中心を見失いたくない。

2017/09/15(金)(福住廉)

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