2024年03月01日号
次回3月18日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ほろびて『センの夢見る』

会期:2024/02/02~2024/02/08

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

歴史上の出来事をフィクションで扱うとはどういうことなのだろうか。ほろびて『センの夢見る』は2024年の日本に生きる泉家の居間と、1945年のオーストリア・レヒニッツに生きる三姉妹の居間とがつながってしまうところから物語がはじまる。この年、この場所が示唆するように、そして当日パンフレットにその解説が記載されていることからも明らかなように、この作品は1945年3月24日の夜にレヒニッツ城で行なわれたナチス関係者の集うパーティーでのユダヤ人の虐殺事件に関わるものだ。しかし、「レヒニッツの虐殺」での出来事は登場人物によって語られこそするものの、舞台に上げられることはない。主に描かれるのは、そのパーティーに招待されるルイズ(安藤真理)、アンナ(油井文寧)、アビー(生越千晴)の三姉妹とルイズの親友であるヴィク(藤代太一)が過ごす日々の出来事だ。歴史上の出来事をフィクションで扱うことのひとつの意味はここにあるだろう。史実として記録されなかった、しかしそこにあったかもしれない人々の営みに目を向けること。事実を知ることは不可能だと知りつつ、それでも想像をしてみること。

舞台の上には中空から垂れ下がる紐によって家のような、あるいはサーカスのテントのような空間が象られている。客席に向かってかすかに傾斜する舞台面には「居間/Wohnzimmer」「玄関/Eingang」と文字が記され、白とクリーム色の線が完全には一致しない二つの居間の輪郭をなぞる。二組の家族は違う時間、違う場所を生きながらこの居間だけを共有する。



[撮影:渡邊綾人]


物語は三姉妹のもとにパーティーへの招待状が届くところからはじまる。それはアビーの友人であり伯爵夫人であるマルギット(その名前は史実に基づくものだ)からの誘いなのだが、大喜びでパーティーに何を着ていくかを考えはじめる妹たちに対し、ルイズは乗り気ではない様子。どうやらマルギットがナチスと親しくしていることに不安を覚えているらしい。「伯爵につぐこの町第二の富豪」でありながらルイズの親友であるヴィクは三姉妹を気にかけ、ナチスをあまり刺激しないようにとルイズを諌めるのだが──。

一方の泉家では非正規雇用の用務員として大学で働く縫(大石継太)とその妹の伊緒(佐藤真弓)がともに暮らしている。泉家にはサルタ(浅井浩介)と呼ばれる若者が出入りしていて、なぜか縫にカメラを向けている。サルタ曰く「ジャーナリスト系YouTuber」らしいのだが、何を撮ろうとしているのかはいまいち判然としない。



[撮影:渡邊綾人]


そんな二つの世界がなぜか重なり合ってしまうのだが、しかし物語は必ずしもそのことによって駆動されるわけではない。もちろん、それぞれの時間は進み、さまざまな事情は明らかになっていく。泉家と三姉妹それぞれの困窮、アビーが実の妹ではなく、しかもユダヤ人の血が流れていること、縫と伊緒もまた実の兄妹ではなく、家に石を投げ入れられるなど何らかの差別的な攻撃の対象になっていること。こうして並べてみると、二つの居間が重なってしまったのは時空間を隔てた両家の置かれた状況に重なる部分があったからだと言ってみたくもなる。だが、それらの共通点がそこにいる人々の連帯の契機となったり、あるいは現代日本に生き「レヒニッツの虐殺」を知る誰かが三姉妹のパーティー行きをやめさせたりという展開も用意されてはいない。それどころか、自分のことでいっぱいいっぱいの伊緒は三姉妹の生活をコスプレ的なものだと思い込み、それを金持ちの道楽と批判しさえもする。三姉妹とヴィクはパーティーに行き、虐殺の現場に居合わせることになるだろう。そして二つの居間の重なり合いははじまったときと同じように確たる理由もなく唐突に終わることになる。



[撮影:渡邊綾人]


二つの異なる時空間が一時のあいだ重なり合ってしまうという状況は「今ここ」にそれとは異なる時空間を重ねる演劇という営みの暗喩でもあるだろう。あり得たかもしれない三姉妹の生活を史実が伝えないのと同じように(あるいはちょうどその裏返しのように)、観客である私は「レヒニッツの虐殺」が起きたということ以上に居間=舞台の外の彼女たちを知ることはできない。泉兄妹についてはなおさらである。何らかの事情を抱えていることは窺えるものの、サルタのYouTubeチャンネルの視聴者はおそらく知っているであろうそれを観客が知ることは最後までない。家と居間の輪郭線が観客の知ることのできる限界を示すラインでもあることをはっきりと示すように、物語の終わりとともに家を象っていた紐はぶつりと切られたかのように垂れ下がり、そこには観客の側の現実だけが残される。



[撮影:渡邊綾人]



[撮影:渡邊綾人]


泉兄妹と三姉妹はしばし居間を共有しながら互いの事情に深く踏み込もうとはせず、交流を通して状況が改善することもない。だがそれでもこの作品は、たまたま同じ場を共有しているというただそれだけのことが人々に与える影響に僅かな希望を託しているようにも思えるのだ。伊緒がすぐそばの川に落ちたと聞けばルイズたちは(家の外はそれぞれ別の空間であるにも関わらず)つい家の外に飛び出していくし、軽薄なYouTuberに思えたサルタでさえ「見世物じゃないんで」と伊緒を野次馬な視線から守ろうとする。稽古場に集い劇場に集い、「今ここ」とまた別の時空間とをつなげようとする演劇という営みの可能性は、突き詰めればそうして接点を創り出すことそれ自体に宿っているのかもしれない。

『センの夢見る』の戯曲は5月に刊行予定の演劇批評誌『紙背』に掲載予定。ほろびての次回公演としては6月に『音埜淳の凄まじくボンヤリした人生』の再演が予定されている。



[撮影:渡邊綾人]


ほろびて:https://horobite.com/

関連レビュー

ほろびて『あでな//いある』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年02月15日号)

2024/02/05(月)(山﨑健太)

オペラ『エウゲニ・オネーギン』

会期:2024/01/24~2024/02/03

新国立劇場[東京都]

新国立劇場にて、オペラ『エウゲニ・オネーギン』を観劇した。19世紀のロシアにおいて、かつて田舎屋敷で恋心を寄せられた女性タチアーナと、数年後にペテルブルクの舞踏会で再会し、今度はオネーギンが心を奪われるのだが、すでに人妻となっており、さよならを告げられるというシンプルなあらすじである。しかし、プーシキン原作の詩とメロディ・メーカーとしてのチャイコフスキーの楽曲が深みを与える作品だ。

さて、3幕から構成されたオペラの舞台美術は、短い転換の時間にもかかわらず、神殿モチーフを効果的に用いながら、さまざまな場面を表現していた。基本のパターンは、ペディメントがのったイオニア式オーダーによる4本の柱であり、これは全編を通して必ず登場する。そして奥の壁に三つのアーチの開口部がつく。おそらく、フランスのボザール経由で、ロシアの建築に古典主義のデザインがもたらされたことを踏まえている。



新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』より 第1幕第1場 [撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場]


冒頭の第1幕第1場では、基本パターンの手前の両側に手すりを加え、壁のアーチの向こうに部屋をのぞかせることで、貴族ラーリン家の田舎屋敷の玄関として用いられた。第1幕第2場になると、白いカーテン、ベッド、机などが配されることで、同じモチーフながら内外が反転し、タチアーナの個室に変化する。第1幕第3場は、神殿モチーフから壁をなくしつつ、中心にバラストレードを追加し、背景画を樹林とすることで、庭にたつ東屋として使われた。



新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』より 左:第1幕第2場 右:第1幕第3場 [撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場]


第2幕第1場は、長いテーブルを手前に、アーチの開口部の奥に肖像画のある壁を配し、ラーリン家における宴会場となる。そして第2幕第2場は、再び壁がないシンプルな状態に変え、背景画を暗い雪原とし、友人を殺してしまう早朝の決闘シーンだ。



新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』より 左:第2幕第1場 右:第2幕第2場 [撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場]


第3幕第1場は、列柱が両側に開きつつ、背後にも大きなアーチを支える4本の列柱が加わり、上からはシャンデリアが吊られ、もっとも壮麗な舞踏会の場面となる。列柱が二重化して奥行きが演出されるだけでなく、アーチの向こうに背景画は、赤いカーペットを敷いたバロック的な大階段とその上部の列柱が描かれ、高さの感覚が加わる。最後の第3幕第2場は、基本パターンを室内化させ、公爵邸の居室とするが、赤いカーテンが印象的だ。

建築だけでなく、衣装の色彩も、性格や感情を表わす。第1幕のタチアーナは垢抜けない青っぽい服であり、部屋で恋の手紙を書くときは白い室内着だった。第2幕の宴会と第3幕の舞踏会はいずれも賑やかな場面だが、前者はやや質素な衣服であり、後者はタチアーナ以外の女性が全員黒服という異様な雰囲気だ。友人を死なせたことによる放浪の旅から戻ったオネーギンには、華やかな舞踏会もそう見えるという表現だろう。だが、タチアーナだけは紅一点の赤いドレスとして目立ち、女性としての成熟を示す。赤いカーペット、赤いカーテンなども、これに呼応するだろう。目で見て楽しむこともできるドミトリー・ベルトマンの演出とイゴール・ネジニーの美術だった。


新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』より 第3幕第1場 [撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場]


新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』:https://www.nntt.jac.go.jp/opera/eugeneonegin/

2024/01/27(土)(五十嵐太郎)

コンプソンズ『岸辺のベストアルバム!!』

会期:2024/01/24~2024/01/28

小劇場 B1[東京都]

2023年8月に上演されたコンプソンズの前作『愛について語るときは静かにしてくれ』が第68回岸田國士戯曲賞の最終候補作品に選出された。このレビューが公開される3月1日には選考会が行なわれ、受賞作が決定する予定だ。上演台本は他の最終候補作品とともに翌2日の12時まではWEB上で無料公開されている(なお、上演台本はコンプソンズのオンラインショップでも販売中/演劇批評誌『紙背』2023年11月号にも掲載)。まだ観ていない/読んでいない方はこの機会に是非。

さて、しかしコンプソンズと金子鈴幸はこの1月に上演された新作『岸辺のベストアルバム!!』(作・演出:金子鈴幸)ですでにその先へと進んでいる。ちなみにこちらも上演台本がオンラインショップで販売されているのみならず、3月31日まではアーカイブ配信も実施中だ。この先では物語の結末に触れているので、読み進める前にまずは視聴を。

物語は春雨(波多野伶奈)の独白からはじまる。作者を名乗る彼女は、この話は自分の恋愛の話であり、当事者である彼女自身がヒロインを演じるのだというのだが、横から出てきたジャスティン・バービー(端栞里)は「そんなもんに大勢の人を付き合わすな。ゲボ吐きそう」と切って捨て、勝手に物語をはじめてしまう。冒頭のこの場面が示唆するように、本作では複数の筋、複数の世界が錯綜し、登場人物のそれぞれが作者=当事者の座を奪い合うようなかたちで進んでいくことになる。だが、それぞれが自らの物語に固執し続けるかぎりにおいてハッピーエンドは訪れない。主役を張れるシングル曲ばかりが並ぶベストアルバムの名を冠したこの作品は、無数の物語が並び立つこの世界でどう生きるかという問いに真摯に向き合おうとする。容易には答えの出ないその問いは、コンプソンズ/金子が近作で問い続け、そしておそらくは今後も問い続ける問いでもあるだろう。

暗転が明けると舞台には夏子(西山真来)、千秋(佐藤有里子)、冬美(笹野鈴々音)の三人。どうやら子どもを幼稚園のバスに乗せるところらしい。子どもが同じソウという名前だという偶然に驚いた三人はお茶をすることになり、三人とも名前に季節が入っているという共通点を持っていることにさらに驚く。



冬美(笹野鈴々音)、夏子(西山真来)、千秋(佐藤有里子)[写真:塚田史香]


一方、14歳で二人の女の子を殺し少年Aと呼ばれたソウ(藤家矢麻刀)は20歳になり、現在は「岸辺のカフカ」という名前で歌舞伎町のホストクラブで働いている。その店にはクラブのプロデューサーで元ホストのどっこい軍神(大宮二郎)、歌舞伎町のフィールドワークをしている社会学者の東真司(近藤強)、その教え子で気鋭のドキュメンタリー監督・河瀬直子(宝保里実)が集まり開店を祝っているのだが、ホストとしての軍神を支えてきた「姫」の真矢マヤ(星野花菜里)は実は「人間の欲望を吸い込むことで生きる、ダークマンティコアという化け物の末裔」で「悪意に満ちた世界を作り上げる」ために軍神を利用していたのだった──。



ジャスティン・バービー(端栞里)[写真:塚田史香]




東真司(近藤強)[写真:塚田史香]




真矢マヤ(星野花菜里)、どっこい軍神(大宮二郎)[写真:塚田史香]


ほとんど文字通りに登場人物の数だけの物語があり(ここに東のかつての義理の息子候補で夏子たちが訪れたカフェの店員でもある北川トオル[佐野剛]も加わる)、誰もが物語の作者=当事者であろうとその覇権を争ううちに世界は滅茶苦茶になっていく。やがて、少年Aとして作者=当事者の地位を改めて手に入れたソウは、世界を完全に壊してしまおうとするのだが、そんな彼の前に(同じ名前の子をもつという以外には)無関係な、「ただの通りすがり」で「たまたまここにいる」だけの夏子たちが魔法少女となって立ちはだかる。「関係ないなら俺がどうしたっていいだろ!」と言い放つソウにしかし彼女たちは言う。「私たちがついてる!」「何の関係もない私たちがあなたを止める!」と。



河瀬直子(宝保里実)[写真:塚田史香]




ソウ(藤家矢麻刀)、春雨(波多野伶奈)[写真:塚田史香]



北川トオル(佐野剛)[写真:塚田史香]


「どんどん悪くなる一方なこの世界」への拒絶を撥ねのけ、世界の可能性と未来を改めて信じ直すこと。それができる未来のために、自ら世界を変えようとすること。これは『愛について語るときは静かにしてくれ』の語り直しでもある。だが、『愛について語るときは静かにしてくれ』の小春が一人で世界と向き合うことを選んだのに対し、『岸辺のベストアルバム!!』の魔法少女には仲間がいる。奇跡的な偶然によって結びついた、無関係の他人が。



ソウ(藤家矢麻刀)[写真:塚田史香]


ソウの物語に一応のケリがついたあと(もちろんそのあとも人生は続くのだが)、夏子たちは「もとの世界」に戻るための舟に乗り込む。エピローグ的な位置付けのこの場面はともすると蛇足のようにも思えるが、しかし私は三人を見ながら呉越同舟という言葉を思い浮かべていたのだった。敵味方が同じ場所に居合わせること。また、敵味方が協力し合い、共通の困難にともに立ち向かうこと。「二時間だけのバカンス」でもいいのだ。観客である私もまた、劇場という同じ舟に一時のあいだ乗り合わせ、そして言うまでもなく同じ世界に乗り合わせた一人だ。無関係な誰かを、世界を救おうとする動機なんて、その程度の、しかしたしかな偶然でいい。

「誰も殺さないで!」とソウを止めようとする場面で掲げられたのはガザの虐殺に抗議しそれを止めるためのプラカードだった。その祈りのような信頼は真っ直ぐに観客へと、同じ舟に乗り合わせた人々へと向けられている。

コンプソンズの次回公演は10月を予定。


コンプソンズ:https://www.compsons.net/
コンプソンズオンラインショップ:https://www.compsons.net/online-shop/
『岸辺のベストアルバム!!』アーカイブ配信(2024年3月31日23時30分まで):https://teket.jp/851/29058

関連レビュー

コンプソンズ『愛について語るときは静かにしてくれ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年09月01日号)

2024/01/24(水)(山﨑健太)

オル太『ニッポン・イデオロギー』

会期:2024/01/13~2024/01/14

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

終わりのない肉体労働の搾取、共同体を形成する祝祭、歴史の反復構造といった観点から、日本の近現代を象徴する舞台装置のなかで、歴史/日常の遠近感を身体的に問うパフォーマンス作品を展開してきたアーティスト集団、オル太(井上徹、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chi)。『超衆芸術 スタンドプレー』(2020)では東京オリンピックの新国立競技場の陸上トラックを、『生者のくに』(2021)では炭鉱の坑道を模した舞台空間のなか、パフォーマーたちは肉体労働に従事し、現代日本の日常的な光景の点描が連なっていく。

本作は、こうしたオル太の関心を、戦前から現在、そしてAIやロボットが労働を代替するようになる近未来までを射程に収め、全6章で描く大作である。上演時間は約6時間。

前半の1、2、3章では、会社員、女子高生、夫と妻、販売員、老婆、アナウンサーといった現代日本の匿名的なキャラクターたちの日常会話の点描のなかに、昭和天皇とマッカーサーが迷い込み、歴史の遠近を欠いた平坦な空間が展開していく。街頭の選挙演説カーも風俗求人広告カーも終戦詔書も「どこからか聞こえてくる機械越しの音声」であり、あらゆるものを等価に陳列し、脱政治化していく作用こそ政治的であることを突きつける。ミッキーマウスのカチューシャを付けたマッカーサーがセグウェイに乗って徘徊し、日本の民主化に関するGHQの指令文書を読み上げるが、彼が手にしているのは漫画本だ。「大人になれない日本人」にとって「アメリカ」とは「ディズニーランド」である。そして、(実際に1975年に訪米した)「夢の国」をひとり彷徨う昭和天皇の架空のモノローグにより、「排除」に支えられた巨大な消費のテーマパーク化に日本が覆われていく。あるいは、コロナ下の「自粛太り」解消のため、コンニャクダイエットが流行し、不足するコンニャクの増産が急がれているというニュースは、戦時下の工場で「風船爆弾」の制作に従事する若い女性たちや、無茶な増産を上官に命じられる軍人にスライドしていく。



[撮影:松見拓也]


パフォーマーたちの衣装には「菊の紋」「制服(軍隊/女子高生)」「高級ブランドロゴ」といった記号が張り付いているが、シーンの交替とともに次々と複数の役を担当することで、むしろ記号の表層性が強調される。発声の抑揚や身ぶり、表情は単調に抑えられ、出番外の者たちの身体はだらしなく寝そべり、モノのようにただ転がる。「ニッポンの空虚な退屈さ」を退屈な手法でひたすら並列化していく──ここには、いかにスペクタクルを回避するかという戦略が掛けられている。

一方、4、5、6章では、ロボットの労働や外国人が増加する「未来」への投射が「過去」へと接続され、沖縄と韓国に焦点が当てられる。そこに「フクシマ」「靖国」が絡み合う。排外意識や偏見は空気のように舞台空間に浸透している。親しみを込めたつもりで老婆に「ヨボさん」と呼びかけられた韓国人女性が示す拒絶(韓国語で「ヨボセヨ」は「もしもし」を意味する)。「外国人観光客があんまり増えてほしくない」という「本音」。平和教育とは戦時中に殺処分された『かわいそうなぞう』であると答える加害の忘却。福島に来たけど、刺身は食べないようにしようと言う夫婦の会話。「女はナメられるから田舎に住みたくない」と言う妻に対して、「そんなことないよ」と否定する夫には見えていない性差別。そうした無意識の断片に散りばめられているからこそ見えにくい、「コミュニケーション」に埋め込まれた権力構造や日常のなかの微妙な政治性をオル太は丁寧に拾い集めていく。一方、「大文字の政治」は徹底して戯画化される。「原発処理水の放出」はピノキオの人形の「放尿」として表現され、戦前のアジアの地図に向けて日の丸と菊のダーツが投げられる。



[撮影:松見拓也]



[撮影:松見拓也]


過去作品でもパフォーマーたちは、競技場のレールの上でトレーニングマシンを押して周回させ続けるといった労働に従事していたが、本作でも、パフォーマーを乗せた座席や段ボール箱を人力で押して運ぶ労働が基底をなす。そこには、戦前に結婚して朝鮮半島に渡った日本人女性が、終戦後に日本国籍が剥奪されたため、「荷物」の扱いで返還されたというエピソードが重なり、モノとして扱う人権意識が示される。自動開閉する透明なドアは、満員電車のドアであり、出入国管理のゲートであり、偏在する透明な境界線となる。

アーティストが「自主規制」してしまう、いや私たちが普段「政治的な話題だから」と口に出すのをはばかるトピックを、オル太は躊躇うことなく、これでもかと舞台にのせていく。「内面化された検閲」もまた、ニッポンを構成する見えにくいイデオロギーだからだ。



[撮影:松見拓也]


6時間という長さの必要性が伝わってくる舞台。同時に上演時間の長さは、身体のモードが「本気でやっているわけではないメタ演技」に常に拘束・回収されてしまうというジレンマやアポリアを感じさせた。過去作品と同様、本作にもオル太メンバーに加え、俳優やダンサーが出演する。ただ、右翼やレイシストの発言は「本気で言っているわけではない」という体栽が必要であり、無邪気に踊られるダンスは、(例えば「建国体操」のように)「素人の身体」が国家によって集団的に規律化されていく事態を示す必要がある。あるいは、「覇気のないシュプレヒコール」は、主体的な意志を欠いた集団感染的な不気味さとして示される。そのため、舞台上には、「〜を演じているモード」か、ゾンビのように不活性で弛緩した身体が提示される。

このことがアポリアを超えて両義性を感じさせたのが、終盤で流れる「君が代」のシーンである。だらりと頭を垂れた無言の身体が柱のように突っ立つ。そこではもはや、意志を奪われ絶望的に下を向いているのか、敬虔に頭を垂れているのか、区別不可能だからだ。




[撮影:松見拓也]


オル太『ニッポン・イデオロギー』:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/108622/

関連レビュー

オル太『生者のくに』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)

2024/01/14(日)(高嶋慈)

20歳の国『長い正月』

会期:2023/12/29~2024/01/08

こまばアゴラ劇場[東京都]

光陰矢の如し。気づけば一年が経っている。一方に去年と大して変わらぬ新年があり、一方にあまりに大きな変化とともに迎える新年がある。いずれにせよ一年という時間だけは確実に流れていて、その繰り返しで重ねる年月の先には老いが、そして死が待っている。時間は残酷なまでに公平に流れ続ける。

2023年の年末から年明けにかけて上演された20歳の国『長い正月』(作・演出:石崎竜史)の物語はちょうど百年前、関東大震災が起きた1923年の大晦日にはじまる。ソーントン・ワイルダーの一幕劇『長いクリスマス・ディナー』の構造を借りたこの作品は、木村家の居間を舞台とする百年の歳月を100分の上演時間に圧縮して観客の目の前に展開してみせるものだ。単純計算で1分で1年。とはいえもちろん早回しで百年を演じるわけではなく、ある年の大晦日がシームレスに次の年の、あるいは数年先の大晦日へと移り変わるようなかたちで舞台上の時間は進行していく。場面転換と言えるものは一幕と二幕のあいだの一度きり。いまが何年であるかが舞台上に示されるわけでもない。ゆえに、例えば観客は、関東大震災が3年前の出来事として言及されてはじめて、「いま」がもはや1923年ではないことを、あれから3年もの年月が経過していることを知ることになる。文字通り、気づかぬうちに年月は過ぎ去っていくのだ。


[撮影:金子愛帆]


そうして過ぎゆく年月のうちには当然、死もあれば新たな生命の誕生もある。舞台上手からの登場が誕生を、下手からの退場が死を意味しているのも『長いクリスマス・ディナー』を踏まえた趣向だ。木村家は1876年生まれのトミ(Q本かよ)を最年長にその息子・博(熊野晋也)と妻・ふく(菊池夏野)、その長男・勝一(埜本幸良)と長女・寿美(田尻祥子)、勝一の妻・園子(櫻井成美)、勝一夫妻の長女・智恵(Q本)と長男・健太(熊野)、そして智恵とその夫・里見の娘である2000年生まれのひかる(菊池)と百年のうちに五世代をまたぎ、隣家で代々神職を務める田崎家もトミと同級の宮司、その息子で博の幼馴染の克也(藤木陽一)、その養子・春彦(山川恭平)、そして春彦の孫の清春(藤木)と同じだけの世代をまたぐだろう。


[撮影:金子愛帆]


トミの死、勝一・寿美の誕生、そして博の死。それぞれの人生において大きな意味をもつはずの出来事もこの舞台においては次々と観客の前を通り過ぎていく。どうやら博は戦時中に亡くなったらしい。そう、戦争である。恐ろしいことに、気づいたときには日本は戦争へと突入していたのだった。気づいたときには、というのは観客である私の体感だが、それが登場人物たちの、当時を生きた人々の実感ではないと、あるいは2024年の現在と無関係なものだと果たして言い切れるだろうか。気づけば時間が経ってしまっているのは平時だけではない。

いずれにせよ、時間の経過は決して取り返しのつかないものだ。ゆえにしばしば人は選ばなかった人生へのifを抱えたまま生きることになり、ときにそれは苦い後悔へと転じることになる。もしあのときああしていたら/していなかったら。選ばなかった人生が実現することはもちろんない。だが、取り返しのつかない出来事もやがてほかの出来事と同じように過去のものとなっていくだろう。時間は残酷で優しい。だから、後悔があるならば生きているうちに行動し、そこから先の未来を変えていくしかない。いや、そんなことは知っているはずだ。それでも時間があると思っているうちに取り返しがつかなくなってしまうのが人間である。誰もが大なり小なり取り返しのつかない後悔を抱えて生きている。だからこそ、息子・健太との関係の修復を望みながらも「まだ遅くない」と繰り返すうちにそれを果たさず亡くなってしまう勝一の姿が胸に迫るのだ。


[撮影:金子愛帆]


『長い正月』の締めくくりには、舞台上で演じられた百年の出来事を振り返る走馬灯のようなシーンが用意されている。そこに紛れ込むようにして束の間浮かび上がるのは、父と息子を含めた家族四人がともにマリオカートに興じる場面だ。実現することのなかったその現実は、しかしたしかにその瞬間、ほかの現実と同じだけのたしかさをもって舞台の上に存在することになるだろう。現実は取り返しがつかない。だがだからこそ、その演劇的な嘘に慰めを見出すことくらいは許されてもいいではないか。

『長い正月』という作品の魅力は構造と同じかそれ以上に具体的な細部やエピソードの積み重ねによって支えられている。だが、百年にわたる家族史と12人もの登場人物たちそれぞれの物語のすべてをここに書ききることは不可能だ。いや、本来それは100分の演劇作品で描ききれるものでもないだろう。しかし石崎の筆と俳優たちの演技は登場人物たちを舞台の上に生き生きと説得力をもって立ち上げ、百年=100分という時間に見事に命を吹き込んでみせた。無情なる時の流れを前に人の一生が儚く過ぎゆく様を描いたこの作品が、それでもそれぞれの人生を力強く肯定していたと思えるのは、舞台に立つ人々がそこにたしかに生きていたからにほかならない。改めて大きな拍手を送りたい。


[撮影:金子愛帆]


[撮影:金子愛帆]


20歳の国:https://www.20no-kuni.com/

2024/01/04(木)(山﨑健太)

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