2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

いいへんじ『器』

会期:2022/06/08~2022/06/18

こまばアゴラ劇場[東京都]

「死にたみ」とともに生きるとは、あるいは「死にたみ」とともにある人とともに生きるとはどういうことか。いいへんじ『器』(作・演出:中島梓織)は擬人化された「死にたみ」の存在を通して、「死にたみ」とともにあることになんとか折り合いをつけようとする作品だ。なお、公式のウェブショップでは戯曲も販売されている。以下では作品の結末にも触れているので、興味を持たれた方は先に戯曲を読んでいただく方がいいかもしれない。

冒頭、ピエロのような服(衣装:カワグチコウ)を着た人物が「みんなー! おれっちの声、聞こえるー?」と観客に向かって大声で語りかける。すぐさま「聞こえてないよねー? おっけおっけー!」と言う、もうすぐ生まれるところらしいその人物(?)こそがこの作品に登場する「死にたみ」のひとり・メラン(小澤南穂子)だ。



続く場面では就職し二人での新生活をはじめるカズキ(宮地洸成)とカナ(松浦みる)の引っ越しを友人のショウ(藤家矢麻刀)とその兄・ハル(竹内蓮)が手伝っている。ハルには「死にたみ」・ドンク(箕西祥樹)がついているが、ほかの人間には見えていないようだ。また別の場所ではカズキの高校の同級生・サキ(波多野伶奈)が配信をしていて、その側にも「死にたみ」・クラン(飯尾朋花)がいる。再び場面が転換すると新生活がスタートしていてカナコは出勤していくのだが、どうやらカズキは働いていない様子。夕方になって二度寝から目覚めたカズキは頼まれていた買い物のために訪れたスーパーでメランと出会い──。




アニメやゲームなどメディアミックスで展開する『妖怪ウォッチ』という作品がある。『妖怪ウォッチ』では世の中の困った問題や不思議な現象はすべて「妖怪のしわざ」だとされ、主人公たちは妖怪と友達になることでそれらの問題を解決していく。例えば子供がいたずらをするのもその子が悪いのではなく取り憑いた「妖怪のしわざ」なのだというわけだ。「死にたみ」を感じるのも当人に原因があるのではなく取り憑いた「死にたみ」のせいなのだ、という考えはそれ自体、当人や周囲の人間の気持ちを軽くし「問題解決」への第一歩となり得るものだろう。心理療法でいうところの認知療法の実践に近いところもあるかもしれない。

完治が難しいとされるうつ病では、「普通の」生活ができる程度に症状が改善した状態を寛解と呼ぶ。「持病」としてのうつ病とどう付き合っていくか。ドンクの機嫌の取り方を覚え、何とか日々を過ごしているハル。クランの言葉を聞かないふりでやり過ごそうとするサキ。そして何なのかわからないままに生まれたばかりのクランと暮らしはじめるカズキ。「死にたみ」との距離感は付き合いの長さによって三者三様だ。



「死にたみ」が俳優という生身の人間によって演じられるこの作品では、観客にとって「死にたみ」がそこに存在していること、そしてそれが取り憑いている当人とは別個の存在であることは最初から自明のことだ。だが、登場人物にとってはそうではない。メランがカズキのことをずっと見ていたと言うのに対し、カズキはメランの存在に気づいてなお、「それ」がなんなのかわからずメランの言葉を聞き取ることもできない。メランを「見つけた」カズキはなぜか就職活動に精を出しはじめるのだが、その行動はカズキが自らの抱える感情を見極められていないがゆえのものでもあるだろう(その点では、急に就職活動をはじめたカズキを心配するカナの方がまだカズキの状態に敏感であると言えるかもしれない)。状態が悪化し引きこもり、やがて「死にたい」とつぶやくようになってようやく、カズキはメランの言葉を理解できるようになる。それはつまり自分のなかに「死にたみ」があることを認めることだ。時を同じくしてメランは、自分たちが生まれたのは「このままじゃ死んじゃう」ことに「気づいてもらいたかった」からじゃないかという話を先輩であるところのドンクから聞いていた。当然といえば当然だが、カズキとメランの変化は連動しているのだ。そうしてカズキとメランはともに「生きる」ためのスタート地点に立つ。登場人物の微細な心の揺れを丁寧に掬い上げた俳優陣に拍手を送りたい。




ひとりの女性の脳内会議の様子を描いた『つまり』や自分のなかにある他人のイメージを具現化した『夏眠』『過眠』など、いいへんじには演劇的な仕掛けを巧く使って心の動きを視覚化した作品が多い。一方、作品ごとに描きたいことがあまりに明確であるがゆえか、メイン以外の登場人物に作品内で与えられた役割以上の広がりが感じられず、テーマや物語を描くためだけに存在しているように見えてしまうきらいもある。今回『器』と二本立てで上演された『薬をもらいにいく薬』では演劇的な仕掛けが控えめだったこともあり、特にその点が気になった。どの作品でも中心となるテーマや登場人物へのまなざしとそれを扱う手つきは繊細であるだけに「もっといけるはずだ」と思ってしまうのは高望みだろうか。


いいへんじ:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/



関連レビュー

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
いいへんじ『夏眠』/『過眠』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)

2022/06/16(木)(山﨑健太)

康夏奈(吉田夏奈)《SHAKKI - black and white on the lake》(2009):MOTコレクション 光みつる庭/途切れないささやき

会期:2022/03/19~2022/06/19

東京都現代美術館[東京都]

映像のなかでひたすらに雪かきを続ける人物が、康夏奈(1975-2020)である。この作品は康がアーティストインレジデンスでフィンランドに滞在していたときに制作された。康は映像の冒頭ですでに凍った湖の上に立っていて、うすく積もった雪にはグリッド状の線が入っている。その線に沿って、康は除雪用のシャベルで雪を掻いては隣のマス目に雪を載せていく。全編、遠目に康の身振りが見えていて、表情は見て取れない。降り続ける雪に落胆しているのか、淡々とした様子なのかもわからないが、ズボンと靴が黒っぽいから、盛った雪のエッジはこわさないように、雪かきを済ませた箇所から次の作業箇所へと移動するときの慎重な様子はうかがい知ることができる。やっと白と黒のコントラストがはっきりしてきたかと思えば、雪の勢いは増し、掻いても盛っても降り続け、また全体的に白くなる。数分見ていると映像は早回しになり、康がより一層キビキビと氷上を動き回る。

SHAKKIというのはフィンランド語でチェスを意味する。康は何とやりあっていたのだろうか。白と黒、どちらが康かといえば、白い雪に触れないようにしていたからおそらく黒が康だろう。広大な領域に境界線とルールを定めることで、やっと康は白い陣営であろう雪と攻防を繰り広げることができる。でもこれは定められた負け試合。時間もスケールも動かせるエネルギーも枠外の世界。でもそれをもう一度枠内に引き入れることが康にはできた。映像での撮影だ。映像が黒と白の一進一退を、康が雪かきを続ける時間と空間だけに限定することで、無限に循環させる。映像の終盤には、キッチリと雪を掻き分けきった状態がよくわかる、寄り気味の写真が数枚挿入されているが、最後は白くフェードアウトする。少し時間が経つと映像はループされ、また康は戻ってきて、途切れなく白の陣営と格闘を始めることになる。けれども、映像を編集した康はこのチェスの行方に満足しているはずだ。


康夏奈(吉田夏奈)《SHAKKI - black and white on the lake》(2009)


康夏奈(吉田夏奈)《花寿波島の秘密》(2013)個人蔵
「瀬戸内国際芸術祭」(香川県小豆島、2013-19)展示風景[Photo: Yasushi Ichikawa]


公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-collection-220319/

2022/06/12(日)(きりとりめでる)

artscapeレビュー /relation/e_00060526.json s 10177381

円盤に乗る派『仮想的な失調』

会期:2022/06/03~2022/06/05

吉祥寺シアター[東京都]

円盤に乗る派『仮想的な失調』は「何もないはずのところにおれは立っていた」と暗闇に響く幽霊(辻村優子)の声ではじまる。明かりが点き、幽霊の姿とともにそこに立つ男(日和下駄)の姿が見えるようになると幽霊はすぐさま「お前は驚いただろう。自分の体がそこにあるということ」と男に向かって話しかけるのだが、「お前はまだ呼吸もできないかもしれない」と言われるその男はどうやらこの世界に生まれ出たばかり、あるいはいまにもこの世界に生まれようとしているようでもある。そうしてはじまるACT Ⅰは狂言「名取川」を下敷きにしたものだ。

「名取川」は物覚えの悪い僧が授けられた二つの名を忘れないように袖に書きつけておくものの、川を渡る際に袖に書かれた名前が消えてしまい、その川が名取川という名だったことから名前をとられたと思い込み──という話。『仮想的な失調』では名取川が「ハッピーマートなとり店」に置き換えられるなど諸々の設定こそアレンジが加えられているものの、大まかな筋は原作を踏まえており、狂言版と同じく男が自らの名を思い出したところで終わる……のだが、その直後、男はシズチャン(畠山峻)に「お、9太郎じゃん。こんなとこにいたの」と声をかけられ、舞台上の世界は能「船弁慶」を下敷きにしたACT Ⅱ(および休憩を挟んでのⅢ)へとスライドしていく。


[撮影:濱田晋]


9太郎と呼びかけられつつも記憶の戻らない男だったが、自らが9太郎であることを引き受け、シズチャンとムサシ丸(橋本清)と行動を共にすることにする。どうやら9太郎は虚言癖のあるインフルエンサーの兄によってツイッターで拡散された情報が元で追われる立場にあるらしい。犬のシズチャンを連れたまま逃避行を続けることはできないと判断した一行はゲストハウスのOwner(鶴田理紗)とともに別れのパーティーを開き、シズチャンのダンスが終わるとACT Ⅱは幕となる。

登場人物の名前からもほとんど明らかだが、「船弁慶」は源九郎義経の都落ちをベースにした物語で、『仮想的な失調』では義経・武蔵坊弁慶・静御前がそれぞれ9太郎・ムサシ丸・シズチャンに置き換えられている。前半で静御前を演じるシテ方が後半では平知盛の怨霊を演じる「船弁慶」と同じように、『仮想的な失調』のACT Ⅱでシズチャンを演じた畠山はACT Ⅲでヒラオカクンとして登場し、特急電車の中で9太郎に暴行を加えることになる(ただしその場面は舞台上では描かれない)。

病院で目覚めた9太郎は、自分は豪雨のために川を渡ったところで緊急停止した電車のトイレで怪我をして倒れているところを発見されたのだと付き添っていたムサシ丸から告げられる。ムサシ丸が去り、9太郎ひとりになった病室に幽霊が現われると「お前はすでに罪を背負っている。そろそろそれに向き合わなくてはならない」と9太郎の罪を思い出させる。ヒラオカクンは、かつて9太郎がつくり出し兄によって拡散されたイメージが原因で自らの命をその川で絶ったのだった。いつしか幽霊の語りの主語は「お前」から「おれ」へと移行しており、そうして忘れ去られていた罪は回帰する。


[撮影:濱田晋]


『仮想的な失調』は「名取川」と「船弁慶」の間に二つの名という共通点を見出し、そのモチーフをしつこいまでに反復している。俳優は辻村を除いた全員が二役を演じ、最後にはその辻村が演じる幽霊でさえ9太郎の分身とでも呼ぶべき存在であったことが明らかになる。なかでもシズチャンとヒラオカクンがひとり二役であることは重要だ。そこでは愛憎の両面がひとりの俳優のなかに同居している。そういえば、ACT Ⅰでも男とハッピーマートの店員なとり(橋本)との間でこれ見よがしな(狂言版には存在しない)役割交換が行なわれていたではないか。それらはすべて、9太郎が暴行の被害者になると同時に自らも加害者であったことを思い出す最後の場面へとつながっている。9太郎の罪は彼を追い詰める兄のふるまいと同型でさえあるのだ。ならば、最後の場面で発せられる「除霊の水」で霊を「退治しちゃえば、もう何も心配いらないよ」というムサシ丸の言葉が何の解決にもならないであろうことは明らかだ。川の此岸と彼岸の区別は、思うほど容易ではない。


[撮影:濱田晋]


本作では戯曲を担当したカゲヤマ気象台とともに蜂巣ももが共同演出を担当している。具体的なプロセスはカゲヤマが書いた「ありふれた演劇について」29に詳しいが、今回の共同演出は「現場ではカゲヤマが演出を行うが、蜂巣氏はカゲヤマに対して演出を施す」ようなものだったという。「自我に対して超自我があるように、演出に対する『超演出』を行う」とも記されるこのプロセス自体、『仮想的な失調』と共振するものだ。残念ながら演劇の創作現場における加害が頻繁に問題になる現在においては、このようなプロセスのあり方自体が重要な意味を持つだろう。そしてそれは優れたクリエイション成果としても結実することになった。円盤に乗る派としては過去最多の集客を記録した『仮想的な失調』の戯曲は円盤に乗る派のオンラインショップで購入することができる。


円盤に乗る派:https://noruha.net/
「ありふれた演劇について」29:https://note.com/noruha/n/nd713f8a362d0?magazine_key=m1c104069f174
円盤に乗る派オンラインショップ:https://noruha.stores.jp/


関連レビュー

円盤に乗る派『流刑地エウロパ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年03月15日号)
円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年11月15日号)
円盤に乗る派『正気を保つために』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年08月01日号)

2022/06/05(日)(山﨑健太)

ホエイ『ふすまとぐち』

会期:2022/05/27~2022/06/05

こまばアゴラ劇場[東京都]

嫁 v.s. 姑を中心とした地獄のようなバトル&ディスコミュニケーションに笑いながら、ふとした瞬間にそれが私自身の周囲の状況に重なって見えてゾッとする。「怒涛の津軽弁エンターテイメント」を掲げるホエイ『ふすまとぐち』はそんな作品だった。

舞台は津軽地方に居を構える小山内家。夫に先立たれたキヨ(山田百次)は長男のトモノリ(中田麦平)とその嫁・桜子(三上晴佳)と同居している。その家には離婚した長女・幸子(成田沙織)が小6の娘・小幸(井上みなみ)とともに出戻ってきたばかりだ。キヨとうまくいっていない桜子は、最近はもっぱら押入れに篭って過ごしているらしい。一方のキヨは「早起きの会」を名乗る千久子(赤刎千久子)と沢目(森谷ふみ)という怪しい二人組を家に呼び込んでいて──。



ホエイにとって3年ぶりの東京公演となった本作は、作・演出の山田が青森から上京してきて立ち上げた「劇団野の上」で2010年に初演され、その後2012年には5都市をツアーで回った作品の再演。プロデューサー/ドラマターグの河村竜也とともに企画から立ち上げるというホエイ(およびその前身としての青年団若手自主企画河村企画)名義の作品には、岸田國士戯曲賞の最終候補作にも選出された『郷愁の丘ロマントピア』に代表される北海道三部作をはじめ、かなりはっきりと社会的なテーマを打ち出したものが多い。ホエイ以前の作品であり、嫁姑バトルに焦点を当てた「エンターテイメント」である本作には一見したところそのような社会的なテーマ性は薄いようにも思えるが、しかしもちろん、小山内家の置かれている状況の背後にはさまざまなレベルでの格差が横たわっている。



小山内家で家事を引き受ける桜子に個人としての収入はおそらくない。夫のトモノリは働きに出ているものの、仕事は時給払いの非正規雇用しかなく、それさえしばしば休みになってしまう。経済的背景がキヨとの同居の一因となっていることは否めないだろう。シングルマザーとしてスナックで働く幸子の事情も似たり寄ったりだ。一方のキヨには、近所の怪しげな集まりで勧められた15万円もするトルマリン入りの布団をぽんと買えてしまう程度には貯えがある(それが財布にどの程度のダメージを与えるものなのかはともかく)。桜子の置かれている状況は都市部と地方の、世代間の、そして男女の格差が生み出したどんづまりなのだ。その意味では、小山内家の居間ほどに現代日本の諸問題が表われている場所はほかにないとさえ言うこともできるかもしれない。10年ぶりの再演だが、作品のアクチュアリティはますます高まっている。



キヨのキャラクターの強烈さも手伝って、小山内家の嫁姑バトルは苛烈をきわめたものとなっている。だが、そこにある対立は見かけ通りのものではない。例えば、冒頭の場面でキヨは桜子の朝食の味つけがしょっぱいと文句を言うが、その日の味つけは前日の「味がしない」というキヨのコメントを受けて桜子が調整した結果であり、そもそも魚を毎日出すこと自体、キヨのリクエストによるものだった。桜子からキヨへの嫌がらせのように思えた虫のバラバラ死体も、虫を嫌がるキヨのために桜子が殺したものでそこに悪意はない。一方、キヨが家に招き入れた「早起きの会」の二人は怪しげな新興宗教の信者のようにも見えるものの、会のメンバーは「辛い思い」をしてきた女性で構成されており、キヨが二人を呼んだのもどうにかして桜子を押入れから外を出そうとしてのことらしい。二人が対立しているのは確かだが、同時に、そこにいるひとりの人間として相手のことを気にかけていることもまたたしかなのだ。その意味では、キヨとの対話を半ば放棄しコミュニケーションの断絶が起きているトモノリや幸子との関係の方が深刻であるとさえ言える。キヨが脳卒中で倒れたときの両者の対応の差にもその違いは表われている。

このようなすれ違いやディスコミュニケーションは小山内家だけでなく日本中のあらゆるコミュニティで起きていて、しかししばしば見て見ぬふりをされ、あるいは気づかれずにきたものだ。小山内家の親戚の小学1年生・幸太郎(中田)が小幸にキスを迫る場面はそのグロテスクさを観客に突きつける。そこにあるのは相手の意思を無視して性的な行為を迫る暴力そのものだからだ。小学生の衣装を身につけた成人男性の姿は子供を表わすよりむしろ、日本社会に生きる男性の幼稚さを暴き立てるものだろう。




さて、本作はキヨにかけられた優しい言葉を思い出した桜子が小山内家に戻り、「ただいま」「おかえり」と作中で初めてまともにトモノリと言葉を交わす場面で終わる。家族というコミュニティの再生に向けた一筋の希望を感じさせるラストだが、これがDV被害者の陥りがちなパターンであることを考えると素直に感動してもいられない。これは家族というコミュニティに限った話ではないだろう。そういえば「早起きの会」のメンバーもまた、お互いの関係を「親族」と称していたのだった。「ワだぢ家族だべ」という言葉は呪いにもなり得る。そのことを知ったうえでなお、鈍感さに閉じこもることもなく、自分の所属するコミュニティと、そこにいる人々とどのような関係を結ぶことができるのか。『ふすまとぐち』はそんな問いを投げかけている。


ホエイ:https://whey-theater.tumblr.com/


関連レビュー

ホエイ『或るめぐらの話』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年11月01日号)
ホエイ『喫茶ティファニー』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年06月15日号)
青年団リンク ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年02月01日号)

2022/05/29(日)(山﨑健太)

ケダゴロ『세월』

会期:2022/05/26~2022/05/29

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

下島礼紗を主宰に2013年に結成されたダンスカンパニー、ケダゴロ。下島は、「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020」にて受賞し、今年度よりセゾン文化財団の若手支援枠であるセゾン・フェローⅠに採択され、海外公演も予定など、新進気鋭の振付家である。ケダゴロはこれまで、出世作『sky』(2018)では連合赤軍事件とオウム真理教事件、『ビコーズカズコーズ』(2021)では1980年代の整形逃亡殺人犯である福田和子と、センセーショナルな社会事件を着想源としたダンス作品を発表してきた。前者では、オムツ姿で両手に持った氷の塊をダンベル体操のように持ち上げ続け、後者では、頭上に格子状の装置が張り巡らされ、腕の筋肉のみでその上に登って身を隠す/耐え切れずうんていのようにぶら下がる運動が繰り返され、悲鳴や怒号、「ガンバレ」と激励しあう声が飛び交う。ダンサーの身体に過酷な負荷をかけ続けることで、さまざまな集団的暴力(日本社会の同調圧力、規律や権威への絶対的服従、ジェンダーの暴力、そして振付という暴力)を観客に突きつけてきた。

本作『세월』では、2014年に韓国で起きた大型旅客船「セウォル号」沈没事故を題材としている。304名(うち修学旅行の高校生250名)の死者を出したこの大惨事は、積荷の過積載、乗船員の経験不足、救命道具や避難誘導の安全教育の怠慢、そして乗客へ「待機」のアナウンスを繰り返すだけで避難指示が大幅に遅れたことなど、複数の要因が指摘されている。

開演前から、舞台の上手奥にはオレンジに塗られた平台が山型に積み上げられ、名前のゼッケンのように胸に「세월(セウォル)」と書かれたTシャツを着た出演者たちが、この「船」の両側に佇んでいる。頭上には大きな拡声器が4台吊られ、時折アナウンスが流れる。開演と同時に出演者たちが平台の山から降りると、危ういバランスを保っていた「船」は、「ドーン」という轟音とともに崩壊。拡声器が不穏に傾く。だが彼らは、オレンジの平台=救命ボートには見向きもせず、単調だが中毒性のある韓国語の歌に合わせ、ふざけたノリの振付を集団的統率のもと踊り続ける。交互に韓国語の歌が繰り返し流れ、同調したダンスと、でんぐり返り、腕立て伏せ、2人1組での倒立など、体操的な運動がひたすら遂行される。拡声器から断続的に「カマニイッソ(動かないで)」という韓国語のアナウンスが流れるたび、ダンサーたちは「静止」するが、曲がかかると条件付けのようにダンスを再開する。不気味なまでに規律と指示に従う身体の集団性がただただ提示される。彼らはたびたび「過呼吸」に陥るが、「ヒーッ、ヒーッ、ハァー」という息のリズムまで完全に同期しているのだ。



[撮影:草本利枝]



[撮影:草本利枝]


また、拡声器からは、「上演終了まであと○分○秒です」とカウントする別の声も繰り返し流れ、「そのまま客席でお待ちください」という指示は、「上演終了=沈没」までのカウントダウンの時間を「客席に待機を強いられた身体」として耐えねばならないものとして、観客を「上演」という出来事の共犯者に巻き込んでいく。私たちは、目の前で息を切らして汗だくになっていくダンサーたちを「見せ物」として安全に消費するのではなく、客電が落ちずに舞台と地続きになった明るい光のもと、姿の見えない不可解な「命令」が下す暴力の宛先となるのだ。

後半、オレンジの平台はダンサーたちの手で組み替えられ、階段状の斜面を「緊急脱出シューター」のように一人ずつ転がり落ちたあと、海面に浮かぶ「救命筏」となる。だが、平台は両側から持ち上げて激しく揺さぶられ、筏に乗る者たちは「大波」に足元をすくわれながらも振付を遂行し続けようとする。疲労の蓄積のなか、ランナーズハイのようにさらに熱気と祝祭性を帯びていくダンス。終盤では、平台を裏返すと「オレンジの地に白い十字架」が現われ、ダンサーたちはゴルゴダに向かうキリストのように、一台ずつ背負って重荷に耐え続ける。救命装置が命を奪う負荷になるという究極の皮肉。一人、また一人と耐え切れず床に落とした者が立てる、「ゴトン」という絶命の音。「ガンバレ」と口々に励まし合う声。なおも流れる待機と静止を命じるアナウンスに従ったまま、どこにも進めない虚しい足踏みの音が暗闇に響き、幕切れとなった。



[撮影:草本利枝]


このように、オレンジの平台というシンプルな舞台装置にさまざまな意味づけを与え、セウォル号事故への示唆を散りばめた本作だが、メタレベルで上演されていたのは、やはり過去作品と同様に、徹底して「日本」という構造的暴力と、(観客も巻き込んだ)「上演」という暴力にあると思う。誤解を恐れずに言えば、セウォル号事故という「題材」は、そのための「設定」にすぎない。土着的な日本の踊りを思わせる振付に一瞬顔を出す、土下座や切腹の身振り=「謝罪」や自己責任の圧力。何度も反復される腕立て伏せは、理不尽な「懲罰」であり、腕と連動した頭の上下は「土下座」でもある。ダンサーたちは頬をふくらませて「息を止めた」状態で振付に従事するが、それは水難と同時に、「ひょっとこ顔」で舞い踊る祝祭性、そして「自由な発言の禁止」でもある。彼らの口を塞ぐのは、水の浸入だけではないのだ。

本作の動機には、下島が昨秋、韓国国立現代舞踊団から委嘱を受けて滞在制作を行なったことにあるという。ただ、セウォル号事故を「日本」の文脈と関連づけて扱う必然性が、本作からは見えてこなかった。特に疑問の中心は、作中で流れた「独島は我が領土」の歌である。セウォル号事故との関連性からは唐突で違和感を感じたが、韓国語を解さない観客にわかるようにあえて「日本語歌詞バージョン」を用いたことは、潜在的な主題が「日本」であることを示す。「反日」に過剰に反応する排他的な集団心理が「われわれ日本人」の一体感を形成することを示したと解すべきだろう。

ダンスサークルや運動部の練習着のような衣裳をまとい、「ゼッケンに書かれた名前」さえも匿名化され、ルール=振付に絶対服従する者たちは、日本社会という集団的狂気を上演し続ける。そこではルールに従う限り快楽がもたらされ、同調を強いる暴力に反転し、規律への服従が再生産されていく。過去作『sky』では、「ルール」を命じる存在が「教祖」「集団のリーダー」として明示され、特権的な男性ダンサーにその役が割り当てられていたが、本作では「拡声器から流れる不在の声」によって、私たちが内面化している証左が突き付けられた。私たちが見続けていたのは、「日本」が「沈没」していく姿にほかならない。だが、なぜ誰も異議を唱えず従い続けるのか?「脱出」するためにはどうすればいいのか?「ダンサーに集団的な肉体負荷をかける」というケダゴロの体質上、何を題材にしても構造的暴力性に帰着してしまう点は否めないが、本作では、(観客も含め)「ルールの内面化」を「拡声器」として可視化させる進化を見せたからこそ、「その先」の方向性に期待したい。



[撮影:草本利枝]


関連レビュー

Choreographers 2021 次代の振付家によるダンス作品トリプルビル&トーク KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD(KCA)2020 受賞者公演|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年01月15日号)

2022/05/28(土)(高嶋慈)

文字の大きさ