2023年09月15日号
次回10月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

BASE ART CAMP #02 第2期生 成果発表 演劇ルート公演『三』

会期:2023/08/27

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「BASE(Bank for Art Support Encounters)」は、「コロナ禍で危機的状況にある京都の芸術創造発信拠点を応援する」ことを目的とし、劇場・アートスペース・映画館など京都の6つの民間運営の拠点と京都信用金庫が協働して立ち上げた組織である。「芸術と社会の持続的で発展的な共生の仕組みをつくる」という目標を掲げ、働き生きる人のための新しい芸術学校『BASE ART CAMP』を開講した。各分野のアーティストが講師を務め、受講生は「順応編」でウォーミングアップをしたのち、「演劇ルート」と「展覧会ルート」に分かれ、実際に作品をつくる「登頂編」を実践する。本公演は、演劇ルートの2期生による成果発表であり、講師を務めた演出家・THEATRE E9 KYOTO芸術監督のあごうさとしが演出した。

あごうは近年、「フリーアナウンサー」「建築家」といった、プロのパフォーマーではない職業人と協働し、普段の仕事内容や日々の思考を一種のドキュメンタリー演劇として再構成する作品を手がけている。桐惇史(記者・編集者)、岸田重男(看護師・鍼灸師)、加納ビナ(起業家・ゴルフ愛好者)の3名の受講生が出演する本作もこの延長線上に位置づけられるものであり、内省的なテクストを綴る、普段の仕事をマイムで再現するといった点描を重ねることで、1本の太い軸線が立ち上がっていく。

本作の核は、1人目の出演者が壁と床にそれぞれ書いた2つのテクストを、他の2人がバトンを受け取るように朗読し、それぞれの声と言語によって、異なる輪郭と存在を与えていく構造だ。冒頭、椅子の上に身体を丸めた男(桐)が、ゆっくりと片手を動かし、掌を広げ、肩から背中の後ろへ回し、深い呼吸とともに全身を伸ばしていく。立ち上がった男は、今まさに彼の意識と身体のなかで起こっていたプロセスをなぞるように、壁に言葉を綴っていく。動き出すまでの身体は、深海に沈む彫像のような息苦しい抑圧と恐怖のただ中にあること。呼吸を整え、指先から慎重に動かし、関節が歯車のように連動し、鼓動を感じる。「そして/私は/私になって/ゆっくりと浮かび上がる」。ままならなさを抱えた「他者」ともいえる身体との内的対話を通した、自意識の醸成。



[撮影:THEATRE E9 KYOTO]


暗転が入ると、入れ替わるように別の男性(岸田)が同じポーズで椅子にうずくまり、立ち上がって壁のテクストを読み上げる。続けて展開されるのは、訪問看護師の仕事のマイムでの再現だ。「おはようございます」と扉を開け、脈拍や血圧を測り、オムツを替える。ずっしりと手に伝わる、大量の便の見えない重さ。患者はおそらく重度の介護が必要な寝たきりの高齢者で、「ごはんの準備」は3時間かかる点滴だ。患者に憑依した岸田が身体を強張らせてうめく、「メシ食わせろ~」という叫び。それは誰にも聴こえなかった最期の叫びであり、脈拍や瞳孔反応の確認、医師と家族への業務連絡が淡々と行なわれる。



[撮影:THEATRE E9 KYOTO]


そして、1人目の男が再び登場し、今度は床にチョークで言葉を綴る。「身体の観察」は、自己の内部ではなく、「他者との共通点と差異」へと向かっていく。あなたの目元は私と似ているが、あなたの声は私と違ってよく通る。「あなた」との差異と類似を通して形成される「私」は、どこまで「私」だろうか?

このテクストは舞台前面から奥へ向かって縦書きに書かれるため、観客からは逆方向になり読みにくいが、3人目の出演者(加納)が登場し、遅れたエコーのように読み上げていく。確かな輪郭線を与えられる言葉。そして加納は、普段の仕事や日常会話を断片的に再現していく。日本語で交わされるビジネスの会話と、家族や友人とのプライベートな中国語の会話。仕事とプライベート、2つの領域を2つの言語とともに行き来しながら、貿易業とホテル経営の展開、さらに趣味のゴルフでTikTokを始めて事業としても展開したいことなど、充実した日々をエネルギッシュに過ごしていることがわかる。そして床のテクストは、最後に再び加納の声によって読み上げられる。ただしその朗読は日本語と中国語が交互に混じり、発音の細部から彼女が日本語ネイティブではないことが推察される。一度確かな形を与えられたテクストは、再び輪郭線が曖昧にほどけていく。



[撮影:THEATRE E9 KYOTO]



[撮影:THEATRE E9 KYOTO]


「出演者の人選」は演出家のコントロールではなく偶然だが、本作の成否の鍵はやはり「朗読をどのような人物が担い、どのような声をあてがうのか」にあるだろう。普段は意識しない身体の不随意性、もしくは仮死状態としての眠りからの覚醒、あるいは抑うつ状態からの浮上などを想起させる壁のテクストは、訪問看護師によって読まれることで、重度身体障害者や要介護の高齢者の意識内部で起こっている出来事へと想像の外延を広げていく。そして、類似と差異によってそのつど引き直される「あなたと私の境界線」は、健常者/障害者に加え、日本人/外見がよく似ているが中国ルーツの人といった、時に可視的で時に見えにくい分断を浮かび上がらせる。

普段の仕事、身体にしみ込んだ身振り、日々の思考……。一つひとつは断片でも、つなげて再構成することで、「私たちはどのような地盤の上に立っているのか」が見えてくる。その人の生き方や仕事は、演劇やアートとかけ離れたものではなく、両者は断絶されたものではないこと。劇場はアーティストの発表の場として用意されたものだが、アーティストが社会人向けの講座の講師を務めることで、表現に関心がある人に裾野が拡がっていく。「芸術と社会の共生」という目標を掲げ、地域に根ざした民間劇場の取り組みとしても意義ある作品だった。

なお、「展覧会ルート」の成果発表は、9月22日~24日に京都市内のKUMAGUSUKUで予定されている。


公式サイト:https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20230827

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2023/08/27(日)(高嶋慈)

果てとチーク『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』

会期:2023/08/18~2023/08/27

アトリエ春風舎[東京都]

「くらいところからくるばけもの」が「あかるくてみえない」のはなぜか。その「ばけもの」が、誰かにとっては直視してしまえば自身の存在基盤そのものを脅かしかねない危険なものであると同時に、また別の誰かにとっては目も眩むばかりの希望でもあるからだ。 前作『はやくぜんぶおわってしまえ』(YouTubeで全編無料公開中)で女子校の高校生たちが生きる現実という地獄のリアルを抉り出した果てとチーク。同じ主題を引き継いだ新作『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』(作・演出:升味加耀)は、ひとまずのところ正統派のホラーらしい物語を展開していく。

なお、本作は12月17日(日)まで配信チケットを販売している(視聴は2024年1月16日[火]まで )。以下にはネタバレが多分に含まれるので注意されたい。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


畑仕事に精を出すルイ(川村瑞樹)・キミタカ(函波窓)夫妻とキリエ(林ちゑ)・マサヤ(佐藤英征)夫妻。それは大学の先輩であるキリエにルイが誘われるかたちで参加している「ヒラヤマ大地の恵み会」の活動の一環なのだが、「女性だけが持つ生命を生み出す尊いソーラーエナジー」を重視する会の教えに対する距離感はまちまちのようだ。会の教えに懐疑的なマサヤによれば、ヒラヤマはかつて母恵会と呼ばれる宗教団体が拠点としていた場所であり、「儀式」として信者たちからレイプされていた少女ソラ(福井夏)が教祖を殺した末に信者たちのリンチによって殺され、さらには多くの信者が教祖の後を追って自ら命を絶つという凄惨な事件があったいわくつきの土地らしい。幕開けの不穏はすぐさま世界を覆うものとなる。「お母様」と呼ばれる巨大ミミズが祀られた神社が燃えるのと時と同じくしてポルノサイトで拡散しはじめるある動画。それは「儀式」を撮影したもので、最後まで見た者は呪われてしまうのだという。やがて眼球を押し潰された死体がマンションの一室で発見されると、同じような死者はあっという間に数百人に膨れ上がり──。


[撮影:木村恵美子]


呪いの蔓延によって機能不全に陥る社会の姿は、新型コロナウイルス感染症が流行するここ数年の現実社会における出来事を彷彿とさせる。異なっているのは、新型コロナウイルス感染症の犠牲者の割合が「社会的弱者」において有意に高いのに対し、ポルノ動画を介して「感染」する呪いの犠牲者が主に男性であるという点だ。「いいですよね、安全な所からしゃべれる女は、ほんとに、今俺らが毎日どんな気持ちですごしてるかなんて全くわかってないじゃないですか」というマサヤの言葉はだから、作者による痛烈な皮肉として聞かれるべきだろう。もちろんこれが新型コロナウイルス感染症に限った話ではないことは言うまでもない。

直後に続く「(呪いによって幻覚が)見えてる奴と見えてない奴の差ってなんですか?」という問いもまた、現実社会において「見えてしまう」呪いをかけられているのが誰であるのかということを、そして「見えてない奴」が誰であるのかということを考えれば皮肉が過ぎる。マサヤの問う「見えてる奴と見えてない奴の差」はほとんどそのまま、現実における「見えてない奴と見えてる奴の差」を反映したものと思われるからだ。マサヤが苛立ちと自己憐憫とともに吐き出すその言葉は実のところ、マサヤたちに向けられた「呪いの言葉」そのものなのだと言うことさえできるかもしれない。


[撮影:木村恵美子]


呪いを前になす術のない社会。だが、ルイと幼馴染のナツ(上野哲太郎)、そしてソラの姉ミウ(鈴木彩乃)は、その呪いがルイを守ろうとするソラの意志によるものであることを察する。ルイもまた、かつて母恵会の巫女であることを強いられた過去を持ち、ソラは親友であるルイと入れ替わるようにして巫女の役割を負わされたのだった。ソラ自身とルイに害なす者への復讐としての呪い。しかしその呪いは、ほとんど無差別に男なるものを対象にすることで、もはや別のものへと変質しつつあった。そのことに気づいたルイはソラを止める決意をする。

だからこそ、ラストシーンにおいてルイがソラに告げる「もういい」という言葉が、もう復讐は十分になされたということを意味するものでも、社会が十分に変わったということを意味するものでもないことは明らかだ。「今でも全員殺したいけど、あたしやソラにひどいことしたやつぶち殺したいけど、それはあんたが、やらなくていい。17歳のあんたが、毎日毎日地獄みたいに最悪なこと思いだして、わざわざやらなきゃいけないことじゃない」。ここに示されているのは、17歳のときから変わらず酷いままの現実を諦めとともに受け入れてきたルイが、いまある社会をつくり上げてきた者のひとりとして下の世代に対する自分自身の責任を引き受け、そのことによって過去の自分をも救い出そうとする意志だ。


[撮影:木村恵美子]


さて、ここまで書いてきたことはこの作品が描き抉り出そうとする現実のごく一部でしかない。例えば、イエのしがらみと分かちがたく結びついた「母性神話」とでも呼ぶべきものもまた、この作品では鋭く批判に晒されている。それがどのようになされているのかはぜひとも配信で確認していただきたい。特にソラとミウの母ケイコを演じる川隅奈保子の、その穏やかそうな見た目ゆえの「怖さ」は必見。

果てとチークは10月6日(金)から9日(月・祝)にかけて2名のアーティストとひとつの演劇ユニットが作品を発表する共同企画「もういない、まだいない」の一環として『まだ宵の口』『そこまで息が続かない』の2作品を上演予定。12月15日(金)から17日(日)には本公演として『グーグス・ダーダ』の上演も予定されている。


[撮影:木村恵美子]



果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek
『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』配信ページ:https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=74578&

関連レビュー

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年02月01日号)

2023/08/19(土)(山﨑健太)

ホーム・スイート・ホーム

会期:2023/06/24~2023/09/10

国立国際美術館[大阪府]

コロナ禍における「ステイホーム」やウクライナ侵攻といった社会情勢を受け、家、家族、居場所、そして祖国や故郷という「ホーム」の多義性を主題に据えたグループ展。イギリス人の父親とフィリピン人の母親をもち、フィリピンで生まれ日本で育ったマリア・ファーラ、上海生まれで幼少時に青森に移住した潘逸舟、ジョージアに生まれロシアの侵略により故郷を追われた経験をもつアンドロ・ウェクアと、2つ(以上)の国にまたがるダブル・アイデンティティやディアスポラ的生を生きる作家が複数参加する。ウェクアは、家族の肖像のコラージュ作品とともに、記憶のなかの故郷の家をミニチュアハウスとして再現した。レンガの壁、雨どい、煙突、窓のつくりなど細部まで精巧につくられているが、部分的にピンクや青に塗られ、どこか非現実感が漂う。



アンドロ・ウェクア「ホーム・スイート・ホーム」展示風景 国立国際美術館(2023)[筆者撮影]


出品作家8名中、2名はレクチャープログラムおよびスクリーニングという形での参加となり、展示会場には物理的な作品が「不在」であることも本展の特徴のひとつだ。アルジェリア出身で、10代でイギリスに移住したリディア・ウラメンは、8月にレクチャープログラムを実施した。アルジェリアからボートでスペインに渡航を試み、不法移民として強制送還された友人から、密航中の映像を見せられた経験が、作家活動を方向づけたことを話した。多くの不法移民を生み出す富の不均衡の原因がアルジェリアの石油産業にあることに着目し、(移民の代わりに)空の石油のドラム缶を国外に持ち出そうとし、その煩雑な手続きのプロセスを「越境の困難さ」と重ね合わせた作品や、アルジェリアの自宅にある家具やドアなどをすべてスイスの展示会場に輸送し、元の配置どおりに設置した作品など、「移動」「越境」をテーマとした過去作品を紹介した。

また、レクチャープログラムに際して「展示」された《母親たちが不在のあいだに》(2015-2018)も興味深い。アルジェリアの市場で、母親のものだという金のネックレスを若い男に売りつけられたこと。その売値がヨーロッパへの密航費の相場であることに気づいたウラメンは、アルジェリア独立戦争時に徴兵逃れのため歯を全部抜いたという祖父のエピソードを「再演」し、自身の歯を1本抜き、ネックレスを溶かしてつくった金歯を口の中に埋め込んだ。植民地支配の歴史と肉親の記憶を、肉体的な痛みを通して自身の身体に「移植」すること。「体内に入り込んだ異物との共生」が移民のメタファーでもあること。

実際には、金歯は2つつくられ、「ウラメンの身体に埋め込まれなかったもう片方」が「展示用のスペア」として存在する。だが、本展への参加にあたり、コロナ禍での人間や作品の移動について作家と話し合ったうえで、もうひとつの金歯の展示は行なわず、レクチャープログラム時に作家が会場に現われた時のみ「作品の展示状態が成立する」という措置が取られた(従って、作家の滞在時以外は、壁にはキャプションのみが貼られ、展示空間は「空白」のままである)。コロナ禍でのリスク管理の対応ではあるが、この「展示方法」は、結果的に、作品の潜在的な批評性を浮かび上がらせたのではないか。「作品」が作家自身の移動する身体の内部にあり、身体と物理的に切り離せないことは、グローバルなアート市場とアートシーンにおいて、「移民やディアスポラの生」を切り売りして「作品化」し消費されることに対する皮肉な抵抗になりうるからだ。



リディア・ウラメンのポートレート、レクチャープログラムにて[撮影:福永一夫]


一方、日本におけるポストコロニアルな文脈と移民について「日本家屋」を通して問い直す秀逸な作品が、鎌田友介のインスタレーション《Japanese Houses》(2023)である。日本家屋の基本単位である八畳間を反復した空間構成のなかで、植民地期の朝鮮半島と台湾、移民先のブラジル、そして焼夷弾実験のためアメリカで建てられた日本家屋の写真や図面、映像が展示される。特に映像作品では、戦前から戦後の建築史を縦軸に、日米関係を横軸とした交差点として、日本のアジア侵略と同時代に日本に滞在した「建築家A」ことアントニン・レーモンドに焦点が当てられる。レーモンドは、日本家屋の構造の研究をとおしてモダニズム建築理論を見直しつつ、日米開戦後はアメリカで焼夷弾の燃焼実験用の日本家屋の設計に関わっていたことが語られる。また、インスタレーションの部材の一部には、1930年代に仁川に建設された日本家屋のものも使用され、木材を組み合わせた跡やひび割れが残る。その周囲に並ぶ多数の古いポストカードは、朝鮮半島各地に建てられた日本家屋と日本風の街並みを伝える。



鎌田友介《Japanese Houses》(2023)作家蔵
「ホーム・スイート・ホーム」展示風景 国立国際美術館(2023)[撮影:福永一夫]


鎌田の作品が浮かび上がらせるのは、かつて海の向こう側に「歪な双生児」として存在した日本家屋の姿だ。植民地として統治した土地に移植した、自国の文化様式の象徴としての住居。一方、その帝国主義とナショナリズムを破壊し尽くすために建てられた、焼夷弾実験用の日本家屋。正反対の目的をもった日本家屋が、ほぼ同時期に海を隔てた反対側にそれぞれ存在していたこと。八畳間という基本ユニットの反復構造は、「帝国の建設と破壊」という対極的な欲望の増殖性を、そして「反復=中心性の欠如」は「日本における記憶の忘却」という空白の事態を指し示していた。



鎌田友介《Japanese Houses》(2023)
「ホーム・スイート・ホーム」展示風景 国立国際美術館(2023)[筆者撮影]


公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/20230624_homesweethome/

2023/08/18(金)(高嶋慈)

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冨樫達彦 “Fahrenheit” by 灯明 / Lavender Opener Chair

会期:2023/08/11~2023/08/13

void+eaves[東京都]

気温およそ35度、肌がジリジリする日差しのなか、パラソルの中ではためく「アイスクリーム」というのぼりを見つけた。「Skin&Leather」と書かれた冷凍庫が外に置かれていて、人がけっこう集まっている。どうやらギャラリーの中に入って、そこでアイスクリームカップを1個800円で購入し、外に出て誰かにアイスクリームを注いでもらうらしい。うろうろしていたら本展のアーティストである冨樫達彦がアイスディッシャーをガシャガシャさせて2種類のアイスをよそってくれた。「今日はアイスがだれている。増粘剤の問題か、今日は冷凍庫を移動させたからか」と冨樫が言っていた。

富士通や日立といった家電メーカーはアイスクリームの推奨保存温度を摂氏マイナス18度だとしているが★1、それは華氏でいうと0度。アイスがだんだん溶けていく。本展のタイトルが「華氏(Fahrenheit)」であるうえでアイスクリームが提供されるならば、それはアイスクリームを基点とした世界への眼差しを提供しようとするものなのだろうか。確かにみるみるサラサラと溶けていく。


カップの中のアイスクリームの様子[撮影:森政俊]


出展作は「Leather」と「Skin」という名の二つのアイスクリームだ。《Skin》はパプリカとレモンピールがメインの食材★2。可食部のほとんどが皮であり、さまざまな肉詰め料理の皮にもなる野菜の筆頭パプリカと、ずばりレモンの皮でできたアイスは、牛乳の甘みとパプリカのどこかフルーティーなみずみずしさにレモンピールのこくが加わり爽やかで、プラスチックの小さなスプーンで掬ってすぐ「あ、おいし」と言葉がこぼれた。もうひと口。あともうひと口。うまいうまい。

暑い。コンクリートの上に置かれた巨大なサーキュレーターがごうごうと音をたてている。《Leather》と《Skin》がどんどん混ざっていく。《Leather》をすくう。《Leather》はなんというか、革の香りがする。牛革でいっぱいの鞄屋の匂いが味になったような気がした。スパイシーだけど甘い。コリアンダーシードが入っているかと思った(入っていなかった)。

これは「甘くておいしい」とかではなかった。食べ慣れた感覚になることはまったくなく、面白くて口内の感覚がフル稼働し始めるという意味で味わい深く、美味しい。もっと知りたいと思って口に運ぶも、3口くらいで食べきってしまった。カップには作品名が記載されており、ギャラリー裏の水場でゆすぎ、持ち帰ることにした。

《Leather》の黄色い見た目はサフラン由来。そこにしいたけ、京番茶、ホワイトペッパー、パンペロ★3、栗の蜂蜜でつくられているそうだ。しいたけについて尋ねると、冨樫が「マッシュルームレザー」が念頭にあると話してくれた。

それは「きのこレザー」ともいわれ、広いカテゴリーとしては天然皮革の代替品を目指し動物由来のものを一切含まない「ヴィーガンレザー」の一種だ。皮革のなかでも牛革は食肉と結びつく付随的な面ももつが、アニマルウェルフェア(動物福祉)、牛皮を革へと鞣す過程でクロムなど環境汚染を引き起こす化学物質を使用すること、また、そもそも畜産業が世界における温室効果ガスの排出の14.5%を占めるといった事象に対する解決の一助として、マッシュルーム、パイナップル、サボテンなど、非プラスチックのヴィーガンレザ―は近年開発が目まぐるしい★4

皮から毛を剥ぎ、脂肪を取り除いて柔らかくしたものが革になるということに対置するのであれば、牛乳や生クリームに砂糖とタンパク質を加え冷やし固めたものがアイスクリームだ。では、皮革に対する倫理や環境への意識をほかの食材に反射させていくとどのようなことが浮かび上がってくるだろうか。

いずれもその生産に関して動物福祉の面であったり(養蜂★5や養鶏の生育環境★6)、植民地主義的な問題(砂糖における大規模プランテーションといった歴史的な地域搾取★7)が透けて見えてくる。牛乳の場合はどうか。例えば、一度に40頭の搾乳が可能な大型搾乳機「ロータリーパーラー」が近年導入され、人員や時間の削減が見込める一方でその巨大装置の前で牛も人間も等しく機械の歯車となるべく、互いに気持ちを読み合うようになっていきながらも、両者とも心身を疲弊させていくということが報告されている★8。ここにきて酪農に関する報告書を読み始め★9、世界の至るところに問題が山積している、ということしかわからなくなってきた。

家の机の上には持ち帰ったアイスのカップがある。二つのアイスクリームは途中で溶け合ってしまったが、《Leather》の鮮烈さはいまもわたしの舌だか鼻だかをちらつく。広く「革」を模倣するということ、すなわちプラスチック系の「合成皮革(ヴィーガンレザー)」は、長きにわたって樹脂による「革の表面の模倣」だった。数年経ったらボロボロと崩れてしまうそれは、視覚的あるいは触覚的な水準での刹那の模倣である。わたしは植物性のヴィーガンレザーを手に取ったことはまだない。しかしそれは、一体「革」の何を模倣しようとしているのだろうか。


ギャラリーの外で行なわれていた作品の提供の様子[撮影:森政俊]


冨樫のアイスクリームは事物としての「皮」と模倣としての「革」をひとつのカップの中に収める。だが、それはきっとマイナス18度の冷凍庫を出たらものの数分で融解してしまい、作品の構造そのものが溶けてなくなってしまう。「Fahrenheit」、それはこのアイスクリームを《Skin》を《Skin》として、《Leather》を《Leather》として体験できる、一瞬の温度を指した言葉なのかもしれない。


展覧会の観覧は無料、アイスクリーム《Leather》と《Skin》は800円で購入可能でした。



★1──「アイスクリームが凍りにくいです。」(『日立の家電品』)
https://kadenfan.hitachi.co.jp/support/rei/q_a/a90.html
★2──その場で作者の冨樫達彦氏に筆者が素材について質問した。
★3──パンペロ社によって製造されているベネズエラ産のラム酒。「パンペロ アニバサリオ」は豚の革の袋に包まれて販売されている。
★4──「ヴィーガンレザ―」については以下を参考としている。
エミリー・チャン「天然皮革をよりサステナブルにすることは可能?」(『VOGUE』、2021.6.4)
https://www.vogue.co.jp/change/article/ask-an-expert-sustainable-leather
廣田悠子「アディダスのキーマンが語る“キノコの菌製”人工レザーの課題と可能性」(『WWD』、2021.5.11)
https://www.wwdjapan.com/articles/1212585
★5──中村純「ダーウィン養蜂とミツバチのアニマルウェルフェア」(『玉川大学農学部研究教育紀要』第5号、2020、pp.45-67)
https://www.tamagawa.jp/university/faculty/bulletin/pdf/2_2020_45-67.pdf
★6──山本謙治「突撃インタビュー『やまけんが聞く!!』」(『月刊専門料理』2023年8月号、柴田書店、2023.7、pp.114-117)
★7──マーク・アロンソン、マリナ・ブドーズ『砂糖の社会史』(花田知恵訳、原書房、2017)
★8──ポール・ハンセン「乳牛とのダンスレッスン」(『食う、食われる、食いあう : マルチスピーシーズ民族誌の思考』近藤祉秋、吉田真理子訳、近藤祉秋、吉田真理子編、青土社、2021、pp.108-131)。ハンセンによるこの北十勝のフィールドワーク論考はすばらしいので機会があればぜひ読んでほしい。牧歌的表象としての日本の酪農についてから、技能実習生にとっての北海道への憧憬とその失望に至るまでつぶさに書かれている。
★9──「バター不足、TPPで深刻化へ ─時代遅れの酪農振興策が招く悲劇─」(『キヤノングローバル戦略研究所』、2016.8.18)
https://cigs.canon/article/pdf/160818_yamashita.pdf



冨樫達彦 “Fahrenheit” by 灯明 / Lavender Opener Chair:https://www.voidplus.jp/post/725053469531291648/

2023/08/12(土)(きりとりめでる)

コンプソンズ『愛について語るときは静かにしてくれ』

会期:2023/08/02~2023/08/13

OFF・OFFシアター[東京都]

芸術文化は生活を、人生を豊かなものにしてくれる。だが、芸術文化を楽しみ、それに耽溺することは、ときにその背後にある現実から目を背けることへと容易にすり替わってしまう。もちろん、芸術文化には辛い現実を一時のあいだ忘れさせ心を軽くしてくれる効用もあるだろう。だがそれが、自分以外の誰かにとっての辛い現実を看過ごすことで成り立っているとしたら?

コンプソンズ『愛について語るときは静かにしてくれ』には、サブカルへのアンビバレンツな思いが込められている。下北沢を舞台にした一見したところぐだぐだな群像劇は、やがて「観客」である「私たち」の欺瞞と見て見ぬふりを痛烈に糾弾することになるだろう。


[撮影:コムラマイ]


舞台はアパートの一室。有名ゲーマーとして生活費を稼ぐ小春(辻凪子)には、映画を撮ると言いながら一度も完成させたことのないスズ(金子鈴幸)という彼氏がいる。小春の大学時代からの友人・まい(宝保里美)、小春の弟で「サブカルメメントモリ」なるネットラジオを配信する大介(細井じゅん)との平穏に思えた日々は、隣室に越してきた漫画家・カノン(畦田ひとみ)がそこに入り込むことによって歪みをあらわにしていくことになる。

さて、本作はいわゆる「ネタバレ」が作品の面白さを大幅に損ねることになるタイプの作品となっている。teketでは9月30日(土)23:30までアーカイブ配信を実施しているので、可能ならば是非とも配信を視聴してからこの先を読んでいただきたい。


[撮影:コムラマイ]


舞台はドタバタのうちに不穏さを増していく。スズと別れた小春は突如としてサキュバス(星野花菜里)の幻覚(?)を見るようになり、それに対処しようとまいが小春に怪しげな薬剤を注射する一方、大介は霊媒師の岡田(大宮二郎)に助けを求める。さらに、アパートの周辺にはロリコンの殺人鬼を追っているという刑事(てっぺい右利き)がうろついていて──。やがて観客に明かされるのは、劇中で描かれる世界が実は2023年の現在ではなく、2052年という近未来だったという事実だ。

2024年、ロシアによるウクライナ侵攻は世界大戦へと波及。日本はミサイル攻撃を受けると同時に再びの大地震と原発事故にも見舞われ、その日のことはやがて「ダブルブッキング」と呼ばれることになる。小春たちはその災害孤児であり、小春が従事する「ゲーム」とは実のところ、VRを介して操作するドローンによる他国への攻撃作戦を指すものだったのだ。


[撮影:コムラマイ]


[撮影:コムラマイ]


この事実は、例えば大介の発する「サブカルメメントモリ」という言葉の響きも大きく変えることになるだろう。徴兵制が敷かれ戦争が身近なものとなった2052年の過酷な現実を生きる大介にとって、文字通り失われた文化としての「サブカル」への渇望は、少なくとも表面上はいまだ平穏を保っている2023年の日本を生きる「観客」には想像もつかないほど切実なものであり得るからだ。

まいの正体が兵士としての小春の活動をサポートするエージェントだったという事実が明らかになるに至り、小春は欺瞞に塗れた「ゲーマー」という仕事をやめることを決意する。すると、スズに連れられ現われた「未来の子供の幽霊」(てっぺい右利き)が小春に告げる。小春が次の戦闘に参加しないことで自分が生まれない運命が確定した、おかげでこんな酷い世界に生まれずに済んで感謝していると。


[撮影:コムラマイ]


だが、それを聞いた小春は、なぜか再び戦闘に参加することを選択する。しかも、ドローンの映像にかけられていたモザイクによるプロテクトを外した状態で戦闘に臨むというのだ。たったひとりの、しかもこれから生まれてくるのだという子供を「救う」ためにいまを生きる複数の人間を殺すという小春の選択は決して「正しい」ものではないだろう。小春にもそれはわかっている。それでも小春に「正しさ」があるとしたらそれは、「生まれないようにしてくれて、ありがとう」という言葉を否定しようとする意志に、そして自らの選択が生む犠牲から目を逸らさないというその意志にのみ宿るものだろう。

鬼気迫る小春の戦闘シーンに重なって山下達郎の「RIDE ON TIME」が聞こえてくる。2023年の8月にこの曲を聴く私は、作中でも言及されるジャニー喜多川による性加害問題の渦中において、ジャニーズ事務所と関係の深い山下がそれを「まったくあずかり知らぬこと」と発言したことを思い出さずにはいられない。「僕の輝く未来 さあ回り始めて/虚ろな日々 全て愛に溶け込む」と高らかに歌い上げる山下を尻目に、小春は自らの加害を直視することを選択する。


[撮影:コムラマイ]


この作品によって糾弾されているのが、現実を隠蔽するものとしてのフィクションだけではないことはもはや明らかだろう。むしろ、背後にある犠牲とそれを容認し加担する私自身の罪を見ないふりをすることでしか成立しない現実という虚構、その欺瞞こそが撃たれているのだ。性加害問題、原発、外国人技能実習制度。2023年という現在は、少なくとも太平洋戦争にまで遡る連綿たる無責任の果てにある。「観客」たる「私たち」はそれをどう引き受けられるのかを問われている。


コンプソンズ:https://www.compsons.net/
『愛について語るときは静かにしてくれ』アーカイブ配信:https://teket.jp/851/22967

2023/08/06(日)(山﨑健太)

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