2019年11月01日号
次回11月15日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

きたまり/KIKIKIKIKIKI グスタフ・マーラー交響曲第2番ハ短調「復活」

会期:2019/09/20~2019/09/22

THEATER E9 KYOTO[京都府]

「マーラーの全交響曲を振り付ける」という壮大なプロジェクトに挑む、ダンサー・振付家のきたまり。シリーズ第4弾となる本作は、マーラーの交響曲第2番「復活」が使用された。過去の3作品が上演された京都のアトリエ劇研は、2017年に惜しまれつつ閉館。同劇場のディレクターだった演出家・劇作家のあごうさとしを中心に新たに立ち上げた劇場「THEATER E9 KYOTO」のオープニングプログラムのひとつである本作は、「劇場の復活」という意味でも示唆的だ。舞踏出身の山田せつ子、バレエを基礎に持つ斉藤綾子という異なる出自を持つダンサーを共演者に迎えた本作は、それぞれの身体性の相違に加え、それを際立たせるソロ→デュオ→トリオという構成の流れ、扉の開放のタイミング、背後のスクリーンを染め上げるライブペインティングによる音と視覚の相乗効果など、演出力の高さが際立っていた。

冒頭から約30分ほどは、山田せつ子のソロが続く。変幻自在に展開し、掴みどころのないマーラーの楽曲に抗うように、陶酔とカタルシスの彼方へ押し流そうとする力に拮抗するように、ミニマルな微動に徹し、時に痙攣的に身を震わせる山田。音楽に支配されるのではなく、音楽を含むその場すべてを支配しようとする強い意志がみなぎる。重厚に張りつめた空気は、だが、山田が退場とともに開け放った扉から、外気と夕暮れの風景が流れ込んでくることで一新される。続けて、きたと斉藤のデュオが展開されるが、左右対称を保ったユニゾンの厳密性は、むしろ両者の身体性の違いを際立たせる。



[撮影:中谷利明]


きた、斉藤のソロを挟んで、3者が揃った後半のトリオは圧巻だ。腰を落とし気味に頭を左右にリズミカルに振り、マーラー(とその背後にある「ヨーロッパ」)を異化するようなきたの動き。両手を広げて天を仰ぎ、永遠に終わらない恍惚あるいは拷問のように、倒れるまで回転し続ける斉藤。毅然さを保ち、かと思うと2人を挑発するように撹拌的な動きを繰り広げる山田。重厚なコーラスが響き、仙石彬人によるOHPを用いたライブペインティングの投影が、無彩色からマーブル状に混じり合った鮮烈な色彩に背後の壁を染め上げていく。細胞の増殖、あるいは燃え上がる炎、極彩色に開く花びら、沸騰する赤い血潮。「なぜマーラーなのか」という問いを吹き飛ばす、「踊り続ける、なぜなら生まれてきてしまったから」とただ主張する強い3つの身体がそこにあった。



[撮影:中谷利明]


2019/09/22(日)(高嶋慈)

ホエイ『或るめぐらの話』

会期:2019/09/07~2019/09/08

城崎国際アートセンター スタジオ1[兵庫県]

『或るめぐらの話』は津軽の方言詩人・高木恭造の長編詩をもとにした山田百次によるひとり芝居(テキスト:高木恭造/方言詩集まるめろ『方言による三つの物語』より)。山田扮する黒井全一が問わず語りに語るのは「酒に女にと、さんざん遊んできた一人の男が、メチルアルコールのせいで目が見えなくなってしまいます。悲嘆に暮れて自殺しようとするが、お坊さんに命を救われます。そこから自分の人生を考え直し、やがて希望を見い出す。」(当日パンフレットより)と山田自身がまとめるようにいたってシンプルな物語だ。

[写真:三浦雨林]

今回はホエイ名義での上演となったが、この作品は2008年、30歳のときに青森から東京に出てきた山田がその頃から上演し続けているものだという。2014年にホエイが結成されるかなり前から上演されており、しかもテキスト自体は高木の詩をもとにした作品ではあるのだが、いま見ると、山田の作・演出による一連のホエイ作品のエッセンスがすでに凝縮された作品となっていることがわかる。

ホエイの作品の多くは見過ごされてきた/見過ごされているもの、周縁に置かれたものを描き、それが見過ごされるプロセスも含めて可視化することを試みている。本作にもまた、二つの「周縁的」なモチーフが登場する。「津軽」と「めぐら」がそれだ。

青森には「この長編詩を一人芝居にして上演してる方が数人いまして、それを観て自分もやりたいと思って始め」たと語る山田だが、しかし上演し始めたのは上京した頃からなのだという。つまり、全編が津軽弁で上演されるこの作品は多くの場合、津軽弁を十全には解さない観客を前に上演されてきたことになる。青森のアイデンティティと東京の孤独。今回の豊岡演劇祭での上演では同祭が国際演劇祭となることを意識してか英語字幕が付されていたため、英語を経由して物語のほぼすべてを把握することができたが、私の体感では津軽弁を聞くだけで理解できるのは全体の6、7割だろうと思われる。私にとっての津軽弁は日本語でありながら英語より遠い。観客にとっての距離を可視化する字幕という装置はむしろ、(津軽弁を解さないが英語を解する)日本人観客にとってこそ有効に機能するものかもしれない。

一方、主人公が「めぐら」であることは「見え(てい)ないもの」というホエイ作品に通底するモチーフにつながっている。ラストシーン、花見に赴いた全一は美しい風景と楽しげな人々が「みな見えるど」と小躍りしてみせる。生きることの喜びを取り戻す力強い場面だが、「めあき」であるところの私はそこで問われることになる。私には「見え(てい)ないもの」を見ることができるだろうか。「見え(てい)ないもの」が見えるようになったとき、それを喜びとすることができるだろうか。

[写真:三浦雨林]

ホエイ:https://whey-theater.tumblr.com/
第0回豊岡演劇祭:https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/


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2019/09/08(山﨑健太)

青年団『東京ノート・インターナショナルバージョン』

会期:2019/09/06~2019/09/08

城崎国際アートセンター ホール[兵庫県]

第0回豊岡演劇祭のオープニング演目として青年団『東京ノート・インターナショナルバージョン』が上演された。『東京ノート』は1995年に岸田國士戯曲賞を受賞し、その後も日本のみならず世界中で上演されてきた平田オリザの代表作。これまでにも台湾、タイ、フィリピンのそれぞれで現地の劇作家・俳優・スタッフとともに『台北ノート』『バンコクノート』『マニラノート』と題された現地版が制作されている。「インターナショナルバージョン」にはこの3カ国に加え日本、韓国、アメリカ、ウズベクスタンの俳優が出演しており、七つの言語でセリフが発せられる上演となった。

[写真:igaki photo studio]

近未来の東京にある美術館のロビーを舞台に、そこを行き来する人々の人間模様を描いた『東京ノート』。「インターナショナルバージョン」では登場人物の配置と戯曲の大筋はそのままに、2034年の東京を想定し、登場人物のバックグラウンドが多様化している。オリジナルは日本人同士の立場や考え方の違い、あるいはそれらへの無自覚を描き出すものだったが、「インターナショナルバージョン」では「国」も異なる人々とのやりとりがそこに加わる。例えば、平和維持軍に参加することにしたというフィリピン人・マニー(マンジン・ファルダス)に対し、たまたま居合わせた無関係の日本人・橋爪(前原瑞樹)が「Not to war.」と声を上げる場面は、オリジナルにも存在した日本人同士のそれ以上に緊張感を孕んだものに私には感じられた。橋爪が声を上げられたのは同行者である在日韓国人・寺西(鄭亜美)がフィリピン語を解したからなのだが、複数の言語が交わされ、誰が何語を解するかわからないという状況は、また別種の緊張を不意打ちのようにその場にもたらすことになる。

[写真:igaki photo studio]

ところで、「インターナショナルバージョン」には新たに追加された(=オリジナルには存在しなかった)登場人物がひとりいる。学校の課題で「英語で二十人と話さなきゃいけない」という中学生(井垣ゆう)だ。明らかに日本人である登場人物にさえ「日本人の方ですか」と律儀に確認を取り、そのたびに「はい」「じゃあ、いいです」と繰り返されるやりとりは笑いを誘い、地元の中学生のキャストへの抜擢と相まって平田流の「サービス」とも感じられるが、しかし彼女の存在は2034年の日本の状況を鋭く抉り出す。いちいち確認しなければわからない程度には、日本にいる人々のバックグラウンドが多様化しているのだ。

もちろんこれは作中の2034年に、あるいは人種・国籍に限られる話ではない。たとえば「オリジナルの登場人物は日本人のみ」というのも、作中に国籍への言及がない以上、実は私の思い込みにすぎない。『インターナショナルバージョン』にはロシア系日本人と在日韓国人の登場人物がいる。「日本人の方ですか」という不躾にも感じられた(というのは、実際のところある人が英語を話すかどうかと何人であるかはもちろん関係がないからだ)唐突な問いかけは、しかし翻って私のなかにも確実にある「偏見」を突くことになった。この「インターナショナルバージョン」は2020年2月に東京・吉祥寺シアターでも上演される予定だ。


青年団:http://www.seinendan.org/
第0回豊岡芸術祭:https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/

2019/09/07(山﨑健太)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭 2019

会期:2019/10/05~2019/10/27

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、 京都府立府民ホール “ アルティ”、THEATRE E9 KYOTO ほか[京都府]

10回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下「KEX」)。公式プログラムでは、「世界の響き~エコロジカルな時代へ」をテーマに、計11の公演や展示が行なわれる。

フェスティバルの立ち上げからプログラムディレクターを務めてきた橋本裕介が、今回で最後ということもあり、集大成的なプログラムだと感じた。軸としては、1)これまでの参加アーティストとの新たな創作、2)「女性アーティストあるいは女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループ」を打ち出した前回からの発展性、の2点が挙げられる。

1)では、チョイ・カファイ、チェルフィッチュ×金氏徹平、庭劇団ペニノ、神里雄大/岡崎藝術座、久門剛史が再び登場。チョイ・カファイは、大文字の「ダンス史」における西洋中心性の相対化と、アジアを拠点とする同時代のダンサーへのリサーチ、垂直軸と水平軸の交差領域にテクノロジーへの批評的視線を織り交ぜてきた。TPAM 2018でワーク・イン・プログレスとして発表された上演作品『存在の耐えられない暗黒』では、「イタコ/3Dアバター」によって「土方巽」の亡霊をダンサーの身体に憑依させる。また、チェルフィッチュは、近年舞台美術も手掛ける金氏徹平とコラボレーション。東日本大震災の被災地、陸前高田市において、津波被害を防ぐ高台の造成工事が人工的に風景をつくり変える様を目にした経験から、「人間的尺度」を問う新作『消しゴム山』を発表する。



チェルフィッチュ×金氏徹平 『消しゴム山』
[©Shota Yamauchi]


緻密に構築された舞台美術と濃密なフィクション世界によって魅了する庭劇団ペニノは、『蛸入道 忘却ノ儀』を上演予定。寺院を模した空間内で俳優が執り行なう儀式的パフォーマンスを、音響、視覚、香り、熱気の皮膚感覚など、五感を総動員する体験として観客に差し出す。緻密な強度をもつ文体によって、自身のルーツである南米、移民や人の移動についての物語を紡ぐ神里雄大/岡崎藝術座は、新作『ニオノウミにて』で「琵琶湖の生態系を脅かす外来種」をモチーフに、内/外、固有種/外来種、善/悪の線引きや対立について問う。また、KEX 2016 SPRINGでチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』の舞台美術を担当した美術作家の久門剛史が、初めて手掛ける舞台作品『らせんの練習』も注目だ。



久門剛史『らせんの練習』
[©Tsuyoshi Hisakado]


2)「女性アーティスト、女性性やジェンダーについての問題提起」というテーマの継続と拡張性。前回のKEXはこのテーマが主軸だったが、地域的には、日本、韓国、北米、ヨーロッパ、南米で構成され、「日本を含む東アジア」と「欧米」の2軸感が強かった。一方、今回のラインナップを見ると、テーマを引き継ぎつつ、モロッコ、南アフリカ、イランと地域的にはより「周縁性」に焦点を当てていることが分かる。モロッコ出身のダンサー・振付家のブシュラ・ウィーズゲンは、黒服をまとった女性パフォーマーの群れがトランス状態の儀式のように叫び声と振動を続ける『Corbeaux(鴉)』を、二条城と平安神宮で上演する。南アフリカ出身の振付家・パフォーマーのネリシウェ・ザバは、グローバル社会における物質的支援についてのレクチャーパフォーマンス『Bang Bang Wo』と、プラスチックバッグと自身の身体の関わりを通して、身体がジェンダーや人種、階級をめぐる政治的闘争の場であることを浮き彫りにする『Plasticization』を2本立てで上演する。



ネリシウェ・ザバ『Bang Bang Wo / Plasticization』
[Photo by Candida Merwe]


アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループは、イランの男子禁制の女子寮で、ある女子学生が男の声を聞いたことから始まる告発と詰問のドラマに、相互監視社会への批評を織り交ぜた『Hearing』を上演する。今年のヴェネチア・ビエンナーレ韓国館で展示を行なったアーティスト、サイレン・チョン・ウニョンの『変則のファンタジー_韓国版』が主題化するのは、1940年代末の韓国で生まれ、60年代に衰退した「ヨソン・グック(女性国劇)」。全ての登場人物を女性が演じる音楽劇のリサーチを通して、ジェンダーを越境して演じる行為と政治や歴史との関わりに焦点を当てる。



サイレン・チョン・ウニョン 『変則のファンタジー韓国版』
[©Namsan Arts Center]


これらの上演プログラムに加え、2018年に文化駅ソウル284(日本統治時代に建設された旧ソウル駅舎)で開催されたグループ展「ケソン工業団地」が、京都にやってくる。「ケソン工業団地」は、北朝鮮と韓国の双方の人々が共に働く特異な場として、南北を分断する軍事境界線の北側に、2004-16年まで操業されていた。グループ展では、労働、コミュニティ、越境などをテーマとした韓国の美術作品が紹介される。



グループ展『ケソン工業団地』 イ・ブロク『Robo Cafe』


こうしたラインナップのなか、シューベルトの歌曲の歌唱に、アパルトヘイトについてのドローイングアニメーションをオーバーラップさせるウィリアム・ケントリッジの『冬の旅』はどう見えるだろうか?

KEX 2019は「西洋近代の原理(モダニティ)の先へ」というキーワードを掲げているが、それは男性中心主義からの脱却と地域的周縁性への視線の双方を含む。「劇場空間で上演される舞台芸術」すなわち西洋近代の制度を用いつつ、脱中心化をはかる。社会に対するアートの批評的応答の力への信念というフェスティバルの基本姿勢を再確認しつつ、開幕を楽しみに待ちたい。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/

2019/08/30(金)(高嶋慈)

akakilike『眠るのがもったいないくらいに楽しいことをたくさん持って、夏の海がキラキラ輝くように、緑の庭に光あふれるように、永遠に続く気が狂いそうな晴天のように』

会期:2019/08/17~2019/08/18

京都芸術センター[京都府]

舞台の専門的な訓練を受けていない人々、特に社会から周縁化された「マイノリティ」性を帯びた人々と協働して舞台作品を作り上げること。「出演者が自身の言葉で語る」ドキュメンタリー的手法に則りつつ、巧みな構成力により、現実/フィクションの境界が瓦解した先にある真実的瞬間を「いまここ」に立ち上げること。演出(家)の権力性や出演者の「搾取」に対して誠実に向き合いつつ、根底では倉田自身の抱える葛藤や問題を語ること。akakilikeを主宰する演出家、振付家、ダンサーの倉田翠の近年の関心は、この3点に集約される。

前作『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』では、倉田は在日コリアンの多く住む京都の東九条にある老人ホーム「故郷の家」に通い、入所する高齢者や地域住民、京都市職員らと対話を重ね、共に過ごした時間を(映像の助けも借りつつ)舞台上で再構成した。そこでは、出演者がそれぞれの立場から、独白あるいは倉田との対話によって、「文化行政とまちづくり」「社会包摂」「在日」について語る。同時に、「圧力や無理解の罵声を浴びせる父親」の演劇的なシーンや、スクリーンに投影された幼少期の家族スナップを背景にもがき苦しむように踊るシーンでは、倉田自身の抱える「家族とダンス、双方に対する自虐的な愛憎」が吐露される。そこに、出演者/演出家、当事者自身の語り/安全地帯に身を置いたまま対話相手を務めること、という構造の非対称性を自覚しつつ、出演者各人に対して誠実に向き合い、かつ作り手として自分自身をさらけ出す誠実な態度がある。そして、ダンスは苦痛の記憶とつながっているが、目の前の「あなた」と「今この瞬間」を分かち合える悦ばしさの側面も持つことが、冒頭と終盤で二度登場する認知症の男性を前に踊るシーンで示される。


本作は、この『はじめまして~』の延長上にある姉妹編というべき作品であり、薬物依存症者の回復と社会復帰を支援するNPO法人「京都ダルク」に倉田が約1年半通って作り上げられた。出演者はダルクの利用者とスタッフ計13名と倉田。冒頭、彼らは全員、白いYシャツに黒いスラックスという同じ服装で登場し、長机に一列に座る。施設移転に伴う説明会でのやり取りが(「反対意見」と思われる質問者の発言を空白にした形で)再現される。続いて彼らは観客の目の前に一列に立ち、服を脱いで下着姿になる。頭上からバサリと落下した普段着に着替える出演者と倉田。没個性化されたユニフォームの匿名性から、「個人」への移行を印象づける導入であるとともに、「着替え」は彼らの何人かの体に入れ墨があることに否応なく意識を向けさせる。



[撮影:前谷開]


本作の大半は、ダルク利用者の独白を前景に、料理の共同作業、倉田の独り言のようなダンスが同時並行的に展開していく。反社会的組織に加わり、薬物で入所を繰り返し、断絶した父の死に目に立ち会えなかったが、やっと七回忌に参加でき、家族から「父は喜んでいると思う」と声をかけられたこと。刑務所に入ったが、出所後「クスリを一回止められたのだから、いつでも止められる」という気持ちでまた始め、依存から抜け出せなかったこと。自分を信頼して保証人になってくれたのに、再犯を犯してしまい、家族に迷惑をかけられないと、留置場で自殺を図ったこと。子どもが生まれてからは、「何でもできる」という前向きな気持ちになったこと。フードコートで食事中、子ども連れの他人に「クズ」と罵声を浴びせられたこと。バトンリレーのようにマイクを渡しながら、生い立ちや家族事情、日々の出来事、悔恨、苦悩、家族への感謝、希望が語られる。それは、ダルクで1日3回行なわれるグループセラピーを再構成したものだ。その背後では、他の出演者たちがテーブルを囲み、食事の用意を進めていく。ダルクの「日常」が淡々と再現される一方、倉田はその傍らで、独り言のように手足を動かし、空気を撹拌するように軽く走り回るが、両者は交差せず、倉田の反復的な所作は輪に入れない疎外感をぶつけるかのようだ。



[撮影:前谷開]


やがて後半、倉田は出演者のひとりと正面から対峙する。その手に包丁が握られていることに気づいた時、弛緩した空気は張り詰めた緊張感に変貌する。しかし握った包丁は、食材を切りに行くためのものだった。張り詰めた沈黙と緊張は、冷たい憎しみを燃やすためではなく、「仲間に受け入れてもらえるのか」という不安と逡巡のために費やされた時間だったのだ。そして一同は共に食卓を囲み、共有と承認の和やかな時間が流れる。終盤、出演者のひとりが「妻と社交ダンスを踊りたい」という叶わぬ願望を語り、倉田は彼の望みを代行するように、「不在の誰か」を相手に慈しむようなダンスを踊る。それは倉田ひとりで踊られるが、もはや独り言ではない。「輪の外にいる」疎外感から、「共に食卓を囲む」時間の共有を経て、他者の願望を内在的に生きること。そこには、倉田が出演者たちとの出会いから徐々に関係性を築いてきた、約1年半の時間が「圧縮」されている。



[撮影:前谷開]


このように本作は、表面的には「薬物依存」という社会問題を扱い、「薬物依存症者」として一括りにされがちな彼ら一人ひとりの固有性や人間性に丁寧にスポットを当てつつ、根底では、2種類の異なる「時間」と倉田自身の物語を語っている。「今ここで語り、踊っている瞬間」と圧縮された時間の厚み。両者が交差する地点には、「たとえ忘れられてしまっても、叶わぬ願いでも、今目の前にいるあなたと共にある稀有な瞬間のためにダンスがある、だから私はダンスを手放さない」という倉田の強い信念がある。

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2019/08/17(土)(高嶋慈)

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