artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

沖潤子 月と蛹

会期:2017/06/30~2017/07/23

資生堂ギャラリー[東京都]

古布に微細な刺繍を施す作品で知られる沖潤子の個展。ステッチの間隔を見出すことができないほど細かい刺繍は、「接合」や「装飾」という意味を超えて、独特の造形物を生んでいる。本展では、それらの造形物を白いフレームで囲ったうえで天井から吊るして見せた。ほかに、刺繍に用いた針や映像作品なども展示された。
丸みを帯びた形体と床に落ちた影。タイトルに示されているように、そこから月と蛹のイメージを連想することはたやすい。だが、沖の刺繍作品は月や蛹を具象的に再現したわけではあるまい。具象的に見るならば、それらは日の丸のようにも見えるし、機能形態的に見れば、帽子のような作品も含まれているからだ。月と蛹は、再現的なイメージの起源ではなく、おそらく何かの暗喩なのだろう。
空中をたゆたうような刺繍を見ていると、独特の時間感覚を感じずにはいられない。その浮遊感が浮き世離れした時間性を垣間見せるだけではない。刺繍という身ぶりが、それに費やされた果てしない時間の厚みを見る者の脳裏に刻みつけるのだ。狂気と言えば、そうなのかもしれない。だが、会場で実感するのは、むしろ何物にも取り乱されることのない、じつに静謐な時間の流れである。
透明度の高い時間──。それこそが再生ないしは変身の比喩である月と蛹が暗喩するイメージではなかったか。眩しい太陽や華々しい蝶を見せたがるアーティストや、それらを見たがる鑑賞者が多勢を占める姦しい時代にあって、純度の高い時間とともに、その原型を静かに想像させるところに沖潤子の真骨頂がある。

2017/07/06(木)(福住廉)

生の体験から知る 沖縄の戦争展

会期:2017/06/23~2017/06/25

浅草公会堂[東京都]

6月23日は沖縄戦の犠牲者たちを悼む「慰霊の日」。その象徴的な日に始められた本展は、戦争体験者の証言を写真とパネルによって伝えたもの。あわせて砲弾の破片や水筒、軍靴などの実物も展示された。
いま「展示」と書いたが、この言い方はもしかしたら本展にはそぐわないのかもしれない。というのも、本展の醍醐味は戦争の写真を「見る」ことや戦争体験者の証言を「読む」ことだけでなく、彼らの語りを「聴く」ことにもあるからだ。会場には、3つの壁面に写真とパネルが展示されていたが、真ん中の空間には椅子と机が並べられ、戦争体験者の話を直接聴くことができる「茶話会」が催された。したがって来場者は彼らの肉声を耳にしながら写真とパネルに記された沖縄戦の実態を目にすることになる。それは、展示物とのあいだに一定の距離を保ちながら吟味の視線を走らせる、通常の鑑賞法とは著しく異なる経験である。

会場で来場者に向けて証言したのは、おおむね4人。彼らがめいめい同時に発話するため、現場にはそれぞれの言葉が渦を巻きながら大きなうねりを生んでいるように感じられた。来場者は、彼らが編み出す言説空間に有無を言わさず巻き込まれると言ってもよい。そのある種の暴力性は、沖縄戦の実態を、とりわけそれに無知な現在の東京で暮らす人々に伝承するためには必要不可欠な知恵と技術なのだろう。だが、それ以上に痛感したのは、そのように視覚と聴覚を融合させながら来場者を包摂する手法そのものが、きわめて芸術的であるように感じられた点である。
「美術」が視覚を特権化する一方、「見世物」にあった聴覚や味覚などを切り捨ててきた経緯を思えば、本展に見られた芸術性は前近代への回帰志向として位置づけられるのかもしれない。あるいは、沖縄戦という大きな文脈は共有しつつも、複数の語り手がそれぞれの物語を自立的に語るという点では、広い意味で演劇的であるようにも見えた。むろん沖縄戦という厳然たる事実と、それを現在に言い伝える伝承は、本来的には別次元で考えなければならない。だが、歴史が現在によって語られることで浮上する物語だとすれば、そして戦争体験者が語ることができない時代がいずれ到来することが疑いないとすれば、今後重要になるのは歴史を召喚する芸術的な形式なのではないか。本展は、そのためのひとつの手がかりを示したように思う。

2017/06/23(金)(福住廉)

MADSAKI「HERE TODAY, GONE TOMORROW」

会期:2017/05/19~2017/06/15

Kaikai Kiki Gallery[東京都]

東京とニューヨークを拠点に活動しているMADSAKIの個展。グラフィティのスプレーで描いたタブローなど21点が展示された。モチーフは、主に彼の妻で、昭和レトロな空間のなかで鮮やかな浴衣を羽織ったヌード像が多い。奇妙な色気を感じさせる不思議な絵画である。
「奇妙」や「不思議」と言ったのは、描かれた絵肌とそれらを描いた画材とのあいだに大きな乖離があるように感じられるからだ。スプレーによるグラフィティと言えば、タギングのように、スピード感と躍動感にあふれた大胆不埒な線を連想するし、スローアップやマスターピースにしても、悪魔的なイメージが少なくない。だが彼がそのスプレーで描き出すのは、むしろ非常に精緻で繊細な線であり、たおやかな女体なのだ。黒い輪郭線はところどころで液垂れしているので、それらがスプレーで描写されていることは一目瞭然だが、にもかかわらず、畳やカーテン、壁紙などの細部に目を向けると、色と色を非常に丹念に置いていることがわかる。いずれの絵画においても顔がレゴブロックのように抽象化されているため、人体のヌードはむしろ後景に退いて見えるが、それが逆説的に、衣服や背景、空間を異常なまでの執着心で描き込んでいることを、ありありと実感させるのだ。
グラフィティの暴力性とタブローの綿密性。MADSAKIの絵画の真髄は、おそらくそのように相反する両義性を内側に抱えながら、絶妙な平衡感覚でそれらのあいだを自ら切り開いている点にある。会場には輪郭線を排除しながら色面だけで画面を構成した作品も展示されていたが、黒い輪郭線で縁取られた絵画と比べると、やや遜色があった点は否めない。過剰なまでに明るい色彩がファンシーな印象を強く醸し出しすぎていたからではない。それらがグラフィティというよりタブローの方に重心を傾けすぎていたからだ。
だが黒い輪郭線は、グラフィティという出自を指し示しているだけではない。それは私たちにとっての絵画的イメージの特性をも暗示しているのではなかったか。グラフィティが本来的に線描であることは事実だとしても、「絵画」や「美術」という概念を西洋社会から輸入することで日本近代美術が制度化される以前、私たちにとっての絵画的なイメージの大半は、そもそも線描であった。日本近代美術の端緒にドローイングからペインティングへの重心移動があったとすれば、MADSAKIのグラフィティ=タブローには、明らかに日本近代美術以前への志向性が伺える。そのような歴史への遡行性を体現しているのが、あの緻密に描きこまれた昭和レトロの空間である。スプレーで丹念に描きこまれた空間や背景は、現実的な生活空間を描写しているというより、失われてしまった美術以前のイメージを取り戻す意志の現われなのかもしれない。

2017/06/13(火)(福住廉)

テレビの見る夢 大テレビドラマ博覧会

会期:2017/05/13~2017/08/06

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館[東京都]

テレビ創世期から現在にいたるまで、テレビドラマの歴史を振り返った企画展。和田勉、今野勉といった演出家をはじめ、坂元裕二、宮藤官九郎といった脚本家に焦点を当てながら、台本、スチール写真、衣裳、そして映像などの資料を展示した。同時期に同会場で「山田太一展」もあわせて開催されている。
むろん、テレビドラマというジャンルを総覧した本展の意義が大きいことは疑いない。「放送」という言葉に端的に示されているように、テレビというメディアは本来的に記録的価値を重視してこなかった。事実、今日のように録画技術が発達するまでは、テレビドラマの多くは生放送だったから、それは歴史に残されることを企む芸術品というより、時間の流れに遠慮なく投擲される消耗品に近かったのである。それゆえ、通時的な観点と網羅的な観点からテレビドラマを歴史化した本展は、非常に画期的である。
しかしながら、その社会的ないしは学術的な意義を踏まえてなお、じっさいの展示を見て思い至るのは、展示の射程と空間の齟齬である。なるほど、テレビドラマの通史を物語ろうとする志は高い。だが、その野心を実現するには空間の容量があまりにも不足している感は否めない。しかも展示の核心に通時性と網羅性という二極を押し込んでいるため、展示物であれテキストであれ、展示会場は明らかに情報過多である。その過剰な情報量を20世紀後半の情報化社会を体現したテレビというメディアの特性の反映として考えることもできなくはないが、展覧会として成功しているとは言い難いのではないか。
なぜなら演出家であれ脚本家であれ、あるいは個々の作品であれ、テレビドラマの通史を構成するそれぞれの要素には、それ自体でひとつの企画展を立ち上げることができるほど豊かな広がりが含まれているからだ。本展は、通時性と網羅性を重視するあまり、そうしたそれぞれの構成要素の内実に深く立ち入ることはなく、あくまでも表面的で浅薄な水準に終始してしまう。それゆえ、あたかも「テレビドラマ」という名の事典を読んでいるような味気のなさを感じざるをえないのである。
かつて筆者は和田勉の企画展を開催したことがある(「21世紀の限界芸術論vol.7──アヴァンギャルドを求めて」、Gallery MAKI、2011)。それは彼が生涯をとおして書き残していたノートや台本、そして晩年制作していた無数のコラージュを展示するとともに、《日本の日蝕》(1959)をはじめ、《天城越え》(1978)、《阿修羅のごとく》(1979)、《夜明け前》(1987)といった珠玉の名作を会期中に視聴するもので、あわせて衣装デザイナーのワダエミや演出家の今野勉ら、和田勉に縁のあるゲストによるトークを催した。わずか3週間ほどの展覧会だったが、ゲストや来場者に恵まれたこともあり、非常に充実した展覧会だったと自負している。
その際、設定した論点が「茶の間」である。いまや「茶の間」は空間的にも意味的にも私たちの暮らしの現場から見失われつつあるが、少なくとも往年のテレビドラマは「茶の間」で視聴されることを前提として制作されていたことは事実であるし、あるいは逆に、「茶の間」に集う理想的な家族像を描写することで、視聴者にとっての「茶の間」を再生産してきたのだった。だが、それだけではない。筆者が展示の中心に「茶の間」を設定したのは、まさしく和田勉こそ、テレビドラマのなかで「茶の間」を描写し、そのテレビドラマを「茶の間」で視聴させることにきわめて自覚的な演出家だったからだ。クローズアップを多用したり焦点をあえてぼかしたりする和田勉の演出法は、時として「前衛的すぎる」あるいは「独りよがり」であると批判されたが、その批判の前提にはテレビドラマを「茶の間」で庶民の誰もが視聴できる大衆芸術として考えるテレビドラマ観があった。ところが和田勉にとってテレビドラマとは大衆芸術というより、むしろ芸術そのものだった。和田勉は、卑俗な日常性以外の何物でもない「茶の間」において、テレビドラマという大衆芸術をとおして、自らの芸術表現を大衆に届けようとしたアヴァンギャルドだったのである。その二重性ないしは両義性こそ、和田勉の根底にあった批判精神のありようにほかならない。
本展がある種の消化不良に陥っているのは、テレビドラマという総論を記述することにとらわれるあまり、各論が蔑ろにされているからでは、おそらくない。総論を貫く独自の視点を提示することができていないからだ。あるいはテレビドラマ観の不在と言ってもいい。客観的で中立を装った歴史の記述は穏当ではあるが、その実、歴史を物語る主体性の次元が不問にされるため、結局のところ、中庸というか退屈というか、いずれにせよ教科書的な歴史記述の域を出ることはない。だが展覧会が教科書の忠実な反映であってよいはずがない。それを望むのであれば、わざわざ展覧会として具体化するまでもなく、教科書を読めば事足りるからだ。
例えば、テレビドラマが「茶の間」と密接不可分な関係にあったことは歴史的な事実だとしても、その先で「家族」というきわめて近代的な社会制度が再生産されていることを考えれば、テレビドラマという広大なジャンルを「ホームドラマ」という視点から限定することは、ひとつのテレビドラマ観となりうるはずだ。それこそ山田太一的なホームドラマから、向田邦子の原作を和田勉が演出した《阿修羅のごとく》まで、ホームドラマはテレビドラマの歴史を貫く主脈になりうるだろうし、近年、数々の名作を発表している坂元裕二の一連の作品──とりわけ《最高の離婚》(2013)、《いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう》(2016)、《カルテット》(2017)──は、従来の家族が機能不全に陥った時代において、それに代わる新たな紐帯を人為的に再構成しようとする、アップデートされたホームドラマとして位置づけることができよう。「ホームドラマ」の意味の変容と移動する位置関係を浮き彫りにすることが、結果としてテレビドラマの歴史を物語ることになるのではなかったか。
文化表現としてのテレビドラマを博物館の展覧会として取り上げた英断は、いちおう評価されてよい。だが企画展として構成するには、「テレビの見る夢」などという、わかるようでわかりにくい、思わせぶりなテーマなどではなく、より明快なテーマを設定することが必要不可欠である。それがあってはじめて「歴史」は立ち上がるにちがいない。

2017/06/03(土)(福住廉)

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驚きの明治工藝

会期:2017/04/22~2017/06/11

川越市立美術館[埼玉県]

台湾人コレクター、宋培安による明治工芸のコレクションを見せた展覧会。いわゆる超絶技巧を凝らしたそのコレクションの総数は、金工や牙彫から、漆工、陶磁、七宝、染織まで、じつに3,000点あまり。本展はそのなかから厳選した約130点を展示したもの。なかでも見どころは、全長3メートルを超える世界最大の龍の自在置物で、それを空中にぶら下げて展示することで、その迫力を倍増させて見せていた。
ただ、昨今の明治工芸再評価の気運のなかで催された「小林礫斎 手のひらの中の美~技を極めた繊巧美術~」(たばこと塩の博物館、2010)、「超絶技巧! 明治工芸の粋」(三井記念美術館、2014)や「没後100年 宮川香山」(サントリー美術館、2016)などと比べると、本展が若干遜色して見えたのは否定できない事実である。本展には古瓦の上にとまった一羽の小鳩を主題とした置物が展示されていたが、これが正阿弥勝義の名作《古瓦鳩香炉》を念頭に置いた作品であることは明らかだ。そして双方を比べると、形態の美しさ、物語性と叙情性、そして機能性、あらゆる点で前者より後者のほうが優れていることは誰も否定できないはずだ。
超絶技巧の面白さと難しさは、それらが造形の絶頂を極める技術を研ぎ澄ますがゆえに、ただひとつの絶頂以外の作品をおしなべて中庸に見させてしまうという点にある。例えば宮川香山の高浮彫を見れば、その他のあらゆる陶芸は浅薄に見えることを余儀なくされるし、安藤緑山の前では、いかなる牙彫といえども物足りない。明治工芸だけではない。現在においても、雲龍庵北村辰夫による蒔絵や螺鈿、杣田細工など、あらゆる技術を費やした漆工を目の当たりにした後では、どんな輪島塗でも下準備の段階に見えてしまうし、雲龍庵とは対照的に、装飾性を排除しながら漆そのものを自立させる「漆工のモダニズム」を追究している田中信行の鋭利で洗練された作品は他の追随を許さない。
だが、こうした超絶技巧の属性は、じつは芸術の本来的な性質そのものではなかったか。それは、こう言ってよければ、一人勝ちの論理に則っているのであり、その意味で言えば、じつに非民主的かつ反平和的、言い換えれば無慈悲な文化なのだ。

2017/06/02(金)(福住廉)

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