artscapeレビュー
うさぎスマッシュ展──世界に触れる方法(デザイン)
2013年12月01日号
会期:2013/10/03~2014/01/19
東京都現代美術館[東京都]
「うさぎスマッシュ展」。サブタイトルには「世界に触れる方法」とあり「方法」には「デザイン」とフリガナが振られている。ということは、これはデザインの展覧会なのか。しかし、ここには自動車や家電のような工業製品があるわけではない。企業や商品のポスターがあるわけでもない。ということは、今日の職業デザイナーの大多数が日常的に関わっている「デザイン」ではない。21組の出品作家には、デザイナーばかりではなく、アーティストと呼ばれている人も多い。それでは、この展覧会でいうところのデザインとはどのような行為なのか。それはアートとは違うものなのか。
もとより、デザインはかつて「応用芸術(applied art)」と呼ばれたように、造形的な手法を商業的な広告やプロダクトに応用する活動を指し、アートから分化した存在である。しかし、その後デザインはアートから距離を置き、アートとの違いを強調するようになっていった。すなわち、デザインは美という抽象的な存在、感性に訴えるものではなく、合理的な思考プロセスのもとにクライアントの抱える問題を見出し、それを造形的に解決する手段であるとする。デザインはプロダクトの機能性を改善し、消費者を魅了する外観を与え、クライアントの利益向上に資する存在であるとして、自らを商業的なシステムに組み込んでいったのである。
しかし近年、再びデザインとアートとの接近が言われてきている。ただし、そのときの「デザイン」は、量産可能なカタチを考えるとか、付加価値のある商品を設計するというものではない。デザインという行為の根本にある、他者の抱える課題を探り、それを解決するための方法を見出す、あるいは問題を提起する行為を指している。大多数のデザイナーにとって「他者」とはクライアント企業でありプロダクトの使用者・消費者であるがゆえにデザインは商業と不可分の関係にあると思われがちであるが、その手法は社会、あるいは世界が抱えている問題にも適用できる。アートとデザインの接近はこのフィールドで生じているのである。とはいえ、このような手法はけっして新しいものではない。イラストレーションによるカリカチュア、ポスターによるプロパガンダはこの分野の先駆者であり、本展に出品されている木村恒久の予言的なモンタージュ・フォトもそのような文脈に位置づけられよう。かつてこの分野が主としてグラフィックの世界に留まっていたのは、それが比較的コストのかからないメディアであったからであり、情報技術の発達がもたらしたメディアの拡張や、生産技術の革新は、このようなデザインのフロンティアをさらに開拓しつつある。
本展では、英国王立芸術学院(RCA)のアンソニー・ダンが主唱するクリティカル・デザイン という概念を中心に、世界に対する人々の認識の転換をうながす種々の「デザイン」が紹介されているが、それらの作品の種類は大きく三つに分けられる。ひとつは「データの視覚化」。社会や経済のデータをさまざまな手法でマッピングし、複雑な構造を解き明かそうとするものである。ライゾマティクスの《traders》は金融取引におけるデータを可視化する試み。ビュロ・デテュード《世界政府》は、国家という枠組みではなく国際的な企業(群)のネットワークによって世界が動いている様を示している。OMA*AMO《EUバーコード》は、EU加盟国の国旗を縦に引き延ばしてひとつのシンボルとしたもので、加盟国が増えるとアップデートが可能な構造は、合衆国の星条旗にも類似する優れたCIである。ブラク・アリカン《モノバケーション》は観光や休暇をテーマとした各国のコマーシャルを集め、そのイメージの類似性を見せつける。いずれもデータの丹念な収集と緻密な分析に基づき、グローバライゼーション(あるいはそれは単なるアメリカナイゼーションにすぎないのかもしれないが)が進行する世界の見方を私たちに提示している。
もうひとつは「科学との新しい関係」。おもにフィクションの方法を用いて、私たちに科学の未来を考えさせる。アレキサンドラ・デイジー・キンズバーグ&サシャ・ポーフレップの作品は、遺伝子操作された植物によって作られる「除草剤散布機」(《栽培─組立》)や、顔料を生成するバクテリアを摂取することによって排泄物で病気の診断を行なうシステム(《イークロマイ:スカタログ》)。リヴィタル・コーエン&テューア・ヴァン・バーレン《ライフ・サポート》は他の動物の身体機能を、腎臓病患者や呼吸器障害を持つ人の生命維持装置として使用する姿を描く。いわばSFの世界なのだが、その結末が明るい未来なのか、それともカタストロフをもたらすものなのか。作品の本質は見る者の想像力を刺激することにあり、その結末は鑑賞者に委ねられている。
三つめは「認識の転換を触発する方法」。イギリスでは街頭に膨大な数の監視カメラが設置され、日常的に監視され記録されていることが知られている。
キャンプの《CCTVソーシャル》は通常は監視されている側の人々をCCTVカメラの制御室に招き、オペレーターたちと語り合う姿を記録したドキュメンタリー映像。見られる側が見る側になったとき生じる認識の転換が淡々と綴られる。ジュディ・ウェルゼイン《ブリンコ》は、メキシコからアメリカへの不法移民にサバイバルツールを仕込んだスニーカーを無償で提供し、他方で同じものをアメリカの高級ショップで売るというプロジェクトによってもたらされる人々の評価の差異を、このプロジェクトを取り上げたさまざまなニュース、コメンタリーの映像によって炙り出す。
世界に対する認識はその人が依って立つ文脈によっても、国家や地域の歴史的背景に依っても多様であるが、その多様な認識はまたささやかな刺激によって転換しうる。現実の世界は固定的なものではなく容易に変わりうるものであり、そのような変化は私たちの未来像をも描き換える。デザインにはそうした転換をうながすメディアとしての力があることを示す展覧会である。[新川徳彦]
2013/11/19(火)(SYNK)