2018年12月15日号
次回1月15日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

インダハウス・プロジェクツno.1『三月の5日間』

会期:2018/03/15~2018/03/24

ベルリン・セミナーハウス[神奈川県]

岡田利規の戯曲『三月の5日間』のラスト近く、女が道端で野糞をしているホームレスを犬と見間違え、そのことに衝撃を受けて嘔吐するという場面がある。山縣太一演出の『三月の5日間』を観ながら、この場面のことを思い出していた。あるいはこの場面を演じる「男優」が、直後に「女性用のリップクリームを出して、唇に塗」るというト書きのことを。身体と意味との間に生じる裂け目が強烈に気持ち悪い。

山縣が演出する作品では、俳優の発話と身体の動きとの間に大きなギャップがあるように見える。より正確に言えば、それぞれが別のラインによって、しかし強烈にコントロールされているように。しかしそもそも、発話と動作が一対一で対応している人間などいない。すべてを意識的に制御することなどできないほど無数のラインによって身体は動かされている。太一メソッドと呼ばれる技法が試みるのは、可能な限り細分化された多くのライン(そこには目や耳といった受容器官も含まれる)を俳優の意識の支配下におき、それぞれに別系統の命令を走らせることだ。

そのように私には見える。と言わなければならないのは、観客たる私は俳優の内部で起きていることを知る術を持たないからだ。言葉の向こうに立ち上がる異形の身体。言ってしまえばそれは単なる体の動きにすぎない。だが、得体が知れないがゆえに、言語化され得ない何かがそこに漏れ出ているようにも見える。イラク戦争の開戦を尻目にラブホに連泊する男女の言葉は軽薄だ。だがその身体が湛える何かは軽薄なだけでなく凶暴で張り詰めている。あるいはそれは、2018年から彼らをまなざす俳優/観客の、2003年という劇中の現在には存在しない感情にさえ見える。見えないはずのものが見えてしまう。

私は山縣の演出する作品がいつも薄っすら怖い。舞台上の俳優たちを見るうちに、私もベロリと剥かれているような気がしてくるからだ。恐怖に魅入られた私は俳優たちから目を逸らせない。

[撮影:三野新]


公式サイト:https://bellringsseminarhouse.tumblr.com/

2018/03/16(山﨑健太)

名取事務所『渇愛』

会期:2018/03/09~2018/03/18

下北沢B1[東京都]

美術教師のジェソプ(渡辺聡)は妻・ソヨン(森尾舞)と息子・ヒョンス(窪田良)と暮らしている。ある日、家を訪れた息子の友人・ジンギ(西山聖了)を見たソヨンは、「彼はかつて堕した子供の生まれ変わりだ」と言い出し、両親のいない彼を養子に迎える。ジンギに異常な愛情を注ぐソヨン。その愛情は一線を越える。母と交わるジンギの姿を目撃したヒョンスは彼を刺してしまう。母とジンギは出ていき、絶望したヒョンスは自ら命を絶つ。ところがその後、ソヨンは詐欺罪で投獄されてしまう。彼女もまた、ジンギに騙されていたのだった──。

韓国の劇作家・金旼貞(キム・ミンジョン)が実際の事件をもとに書いたという本作。一連の事件は、ジンギを殺そうと彼の部屋で待ち受けるジェソプによる断片的な回想のかたちで語られる。ジンギという「怪物」を中心に置いたサイコスリラーと思われた物語はしかし、徐々に現代版ギリシャ悲劇とでもいうべき様相を露わにしていく。短い場面を巧みにつなぐ寺十吾の演出が見事だ。

この物語がより悲劇的なのは、それがすでに起きてしまった出来事だからだ。シャーマンの一種「ムーダン」の家系に生まれたソヨンはかつて、ムーダンになるのが自分の運命であり、逆らえば家族に不幸が訪れるとジェソプに訴えていた。だが彼は世間から忌み嫌われるムーダンになる必要はないと彼女を説き伏せてしまう。結果から見れば、彼女の予言は正しかったと言うほかない。彼は起きることがわかっている悲劇を反芻する。そこに彼の意志が介入する余地はない。

それでもなお、悲劇は彼の選択を映したもので、だからこそこれは悲劇なのだ。ジェソプはさまざまな面でソヨンを抑圧していた。子供を堕したのも、ジェソプに十分な稼ぎがなかったからだ。ジンギは家族を狂わせたが、状況を準備したのはジェソプ自身だ。ジェソプは最終的に、ジンギを殺人犯に仕立てあげようと自ら喉を搔き切る。彼の命を奪うのは砕け散った鏡だ。

[撮影:坂内太]

公式サイト:http://www.nato.jp/index.html

2018/03/15(山﨑健太)

かもめマシーン『しあわせな日々』

会期:2018/03/01~2018/03/04

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチルーム[東京都]

腰まで砂に埋まった女・ウィニーがひたすらしゃべる。二幕になると女は首まで埋まっていて、やはりひたすらにしゃべる。時おり砂山の向こうから夫・ウィリーが姿を見せる。サミュエル・ベケットの戯曲『しあわせな日々』はそんな作品だ。タイトルは「されどしあわせな日々」の意だろうか。我が身の状況を知りながらも意に介さない女への皮肉だろうか。

今回の萩原雄太の演出では女(清水穂奈美)の埋まる砂山は鉄の殻を貼り合わせたような造形で(美術:横居克則)、そのビジュアルは高橋しん『最終兵器彼女』や大友克洋『AKIRA』、あるいは映画『マトリックス』を思い起こさせる。ここにある「しあわせ」は幻想に過ぎないと示唆するように。

[撮影:荻原楽太郎]

会場となった旧ノグチルームからは東京のビル群が見渡せる。私が観た回はちょうど夕刻で、ビルの向こうに日が沈むなか、開演を告げるベルが鳴った。それは一日の始まりの合図でもある。女が目を覚まし、一幕が始まる。夕日はまるで朝日のように女を照らすが、それはもちろん錯覚でしかない。時々刻々と日は翳りゆき、夜の訪れとともに一幕が、彼女の一日が終わる。だが、二幕になれば再びベルが鳴り、新しい一日が始まる。外には夜が広がっているにもかかわらず。すると夜を拒絶するかのように部屋の周囲に白い薄幕が降り、窓の外、現実の風景を覆い隠してしまう。

ウィニーの生きる世界に飲まれた観客の姿はウィリーに似ている。砂山=鉄の殻に潜り込み、ウィニーが宿す胎児のように眠るウィリーと、白い薄幕に包まれ現実から隔てられた観客。彼らを包む幻想は果たして安全を保障するだろうか。

あるいは、ウィリーこそがウィニーの孕む幻想そのものなのかもしれない。ならば、結末において外部から現れ手を差し伸べるウィリーの姿もまた都合のよい幻にすぎない。自らのつくり出した幻想に埋もれ、朽ちてゆく自身に見て見ぬふりをする女。窓の外にはDHCの広告が煌々と輝いていた。

[撮影:荻原楽太郎]

公式サイト:http://www.kamomemachine.com/

2018/03/04(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『転職生』

会期:2018/02/28~2018/03/04

王子スタジオ1[東京都]

ウンゲツィーファという言葉はカフカ『変身』に由来する。「毒虫」と訳されることが多いが、本来は「害をなす小さな生き物」という程度の意味らしい。

本作はある会社が舞台の群像劇。人間関係の面倒臭さ、登場人物たちの漠然とした不安や苛立ちが台風の訪れとともにゆっくりと重みを増していく。中途採用で今日が初出社のシナトは空気を読まず、社内の空気をますますおかしくする。台風で帰れなくなった彼らは社内で飲み会を開くが、社員のタカニシがバイトのヨアラシのパソコンを勝手にいじり、彼が書いていた脚本のデータを消してしまったことで二人は衝突。その場の何人かも自らの鬱憤を噴出させる。すると突然シナトが歌い出し、なんだかよくわからないままにその場は終わっていく。

空間の使い方が効いている。通常は稽古に使われるスタジオをそのまま会社の空間に転じ、外を走る車の音がゴウゴウという風の音に聞こえる。休憩所、喫煙所、事務所と並ぶ横長の舞台はリアリズムに基づいているように見えるが、三つの空間は実際には隣り合ってはいないようだ。観客からは同じ空間にいるように見える俳優たちは、しばしば互いが見えていないかのように振る舞う。彼らはひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている。

作品は翌朝、社内ですれ違うヨアラシとタカニシがぶっきらぼうに挨拶を交わす瞬間で終わる。許容。羞恥。謝罪。諦念。無関心。おそらくどれでもあってどれでもない。わかりあわないままでともにある二人にグッと来る一方で、そうするしかないことに苛立ちを感じて引き裂かれる。何事からも自由であるように見えるシナトですら、「あの! 月曜日も来ますよね」という問いかけに一度は黙ってから「あ、はい、よろしくお願いします」と答える。それは共生への微かな希望なのだろう。だがその背後に、そうあるしかないことへの虚無にも似た絶望が透けて見えるのは気のせいだろうか。

公式サイト:https://ameblo.jp/kuritoz/

2018/03/03(山﨑健太)

鳥公園「鳥公園のアタマの中」展

会期:2018/02/27~2018/03/04

東京芸術劇場 アトリエイースト[東京都]

鳥公園・西尾佳織の6本の戯曲を西尾を含めた5人の演出家がそれぞれ演出し、リーディング公演として(台本を手に持ち、それを読み上げるかたちで)上演するという今回の企画。ただし、演出家と俳優はその日の朝からリハーサルを始め、稽古のほとんどの時間は一般に開かれた状態で行なわれる。公演後には西尾と俳優や演出家とのトークもある。創作のプロセスをそのまま見せるという意味で、会場の名前でもある「アトリエ」での作業を見せる試みと言えば近いだろうか。

しかし、創作のプロセスを開示することに、あるいはたった1日しか稽古していないリーディング公演を上演することにどのような意味があるのだろうか。私のように演劇そのものに興味がある人間、あるいは自らも創作に携わる人間にとっては有意義かもしれないが、そうでない人々はこの取り組みに何を見ればよいのだろうか。

27日に上演された『カンロ』(演出は西尾)の初演は2013年。複数の視点から見た現実や夢、妄想が溶け合うような上演のあり方はそれ自体が作品の魅力をなしている一方、舞台上で何が起きているかを完全に把握することを難しくしている印象もあった。ところが今回のリーディング公演では戯曲の構造がはっきりと見えた。戯曲の複数のレイヤーが、俳優の立ち位置や移動によってはっきりと可視化されていたからだ。トークで聞いたところによれば、それは演出の西尾の指示によるものでなく、俳優が自発的に動いた結果なのだという。

ここに示されているのは、戯曲を上演するという行為には、俳優が(あるいは演出家が)戯曲と向き合い思考するプロセスが含みこまれているという当たり前の、しかし忘れがちな事実だ。稽古がそうだというだけでない。繰り返される上演もまた、本来的には思考のプロセスとしてあるはずだ。観客もまた、舞台上の俳優たちと場を共有し、ともに思考する時間を過ごす。であるならば、よい上演の条件とは何だろうか。

公式サイト:https://www.bird-park.com/

2018/02/27(山﨑健太)

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