2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

地点『汝、気にすることなかれ』

会期:2018/02/01~2018/02/04

アンダースロー[京都府]

オーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクがシューベルトの歌曲をモチーフに書いた本作。地点がイェリネク作品を手がけるのは『光のない。』(2012)、『スポーツ劇』(2016)に続いて3作目、本拠地アトリエ・アンダースローのレパートリー作品としては初めてのことだ(※本作の初演は2017年8月)。

上演はカーテンコールで始まる。終わりの拍手。第一部は大女優の劇場葬、彼女の最後の舞台だ。「私は三位一体の神のような存在」という彼女の言葉はしかし、地点の5人の俳優によって分割され発せられる。もともと分裂気味なイェリネクの言葉が、舞台上で複数の身体を獲得する。「彼女」が「私たちは群衆なの」と言うとき、「私たち」が指すのは俳優か観客か。

ウルトラ怪獣ジャミラのような造形の真っ白な衣装(衣装:コレット・ウシャール)が印象的だ。それは死装束にも花嫁衣装にも見える。あるいは防護服、蛹(さなぎ)、ミイラ。舞台を這いずる俳優の姿は蛆虫のようでもある。死体を喰む蛆はやがて蛹となり、飛翔のときまで静止する。回転するレコードが断続的に奏でるシューベルトの歌曲(音楽:三輪眞弘)。生と死の循環。そして一時の中断。第二部のモチーフは「白雪姫」だ。

[撮影:松見拓也]

鏡張りの床面(舞台美術:杉山至)は俳優たちの分身をその足下にはっきりと映し出す。もう一人の「私」は踏みつけにされている。「権力というのはいつでも自らに権限を与えるもの。でも、私に権限を与えてくださったのは皆さんなのよ。お馬鹿さんね」。第三部のモチーフは国家と個人だ。俳優たちは手を取り合い、群体のようにもつれ合う。そうして演劇が立ち上がる。

[撮影:松見拓也]

アンダースローでは2月26日から新作『正面に気をつけろ』を上演する。同作はブレヒトの未完の作品「ファッツァー」を劇作家・松原俊太郎が翻案した書き下ろしで、空間現代が生演奏で音楽を担当している。イェリネクにも通じる松原の文体はどのように舞台に乗せられるだろうか。

公式サイト:http://www.chiten.org

2018/02/01(山﨑健太)

SCOOL パフォーマンス・シリーズ2017 Vol.6『高架線』

会期:2018/01/26~2018/01/29

SCOOL[東京]

私と関係したりしなかったりしながら、世界は常にそこにそれとしてある。そんな当たり前の、しかし確と実感することは少ない世界のあり方に、たしかな手応えをもって触れさせてくれるような舞台だった。

原作は芥川賞作家・滝口悠生の初の長編小説。脚本・演出は小田尚稔が手がけた。モノローグが連なって16年間の物語を紡ぐ原作は、観客に語りかけるようなモノローグを多用する小田の作風と相性がいい。原作の雰囲気をよく再現した舞台だったと言えるだろう。

西武池袋線東長崎駅徒歩5分、家賃3万のぼろアパート、かたばみ荘。そこに住む者はアパートを出るときには次の居住者を自ら連れてこなければならない。後輩・片川三郎に部屋を譲った新井田は数年後、三郎が失踪したと連絡を受ける。新井田にはじまり三郎の幼馴染の七見歩、その妻・奈緒子、三郎の後に入居した峠茶太郎、茶太郎の行きつけの店のマスター・木下目見、小説家を名乗る男・日暮純一、その妻・皆実と語り手はバトンタッチされ、話は互いに関係あったりなかったりしながら続いていく。

俳優たちは順に舞台に進み出てひとりずつ語っていく。自らの出番を終えた者は舞台奥に並べられた椅子に腰かけ、ときおり語り手に目をやったりはするもののただそこにいる。この仕掛けはシンプルだが効果絶大だ。物語は観客の目の前で紡がれる。俳優が観客と共有するSCOOLという空間に時間が堆積し、そこは「私たちの部屋」になっていく。

やがてかたばみ荘が取り壊されるそのとき、彼らはいよいよ一堂に会す。初めて彼ら全員が、いわば関係を持つ瞬間。つまり、舞台奥の椅子に控える彼らは、潜在する世界の可能性だったのだ。未来のある瞬間に、突如として私と関係を結ぶかもしれない世界の可能性。それが可能性のままだっていい。世界とはそういうものだ。だが、世界はいつも私に開かれている。

3月9日(金)からは同じSCOOLで小田尚稔の演劇『是でいいのだ』が上演される。


[撮影:前澤秀登]

2018/01/26(山﨑健太)

青年団リンク ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』

会期:2018/01/11~2018/01/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

ホエイという名前は「ヨーグルトの上澄みやチーズをつくるときに牛乳から分離される乳清」に由来し、「何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたい」と付けられたという。『珈琲法要』『麦とクシャミ』に続く北海道三部作の第三部となる今作の舞台は夕張市。ダム湖を望む駐車場に集うのは、夕張の炭鉱で働いていた老人たちだ。かつて彼らはダム湖に沈んだ街に住んでいた。恋愛、結婚、年中行事、炭鉱事故、転職、引っ越し。昔話が過去の情景を呼び起こし、決して平坦とはいえない彼らの半生が描き出される。必死で生きてきた彼らの現在は苦い。若者に子供をつくれと言えば産む気にならない社会にしたのはあなたたちだと返される。国のエネルギー政策やダム建設計画に翻弄され、やがては住む場所を追われた彼ら。悪いのは誰か。そして歴史は繰り返す。


[撮影:田中流]

山田百次の演出は観客を共犯者に仕立て上げ、客席の安全圏から引きずり出す。ほとんど素舞台と言っていいほどシンプルな舞台美術も、いつの間にか本編に入っている前説も、あるいはナレーションを交えつつ自在に年齢を行き来する俳優の演技も、すべてが「これは演劇だ」ということを主張し続ける。俳優たちはみな巧みだが、舞台上の「リアル」はときに学芸会のように不完全だ。観客の想像力がそれを補填し完成させる。観客は登場人物の人生を、彼らに起きる不条理を、舞台上に出現させる片棒を担ぐ。炭鉱事故の場面で劇場を覆う暗闇がゾッとするほど恐ろしいのは、私が事故の「共犯者」だからであり、同時に私も「そこ」にいるからだ。

ホエイは史実を取材し、歴史の中で忘れられてきた人々や事実に光をあてる。それは同時に、いまだ光があてられぬままの人々に思いを馳せる作業でもあるだろう。すべてを知ることはできない。すべてを想像することもできない。それでも、なけなしの想像力にできることはあるはずだ。


[撮影:田中流]

公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/

2018/01/14(山﨑健太)

東京芸術劇場『池袋ウエストゲートパーク SONG&DANCE』

会期:2017/12/23~2018/01/14

東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]

脚本・作詞に柴幸男(ままごと)、演出に杉原邦生(KUNIO)、振付に北尾亘(Baobab)と小劇場の気鋭と若手俳優を起用した本作は、20年前の石田衣良の小説を、現在の日本を映し出す舞台へと見事に生まれ変わらせた。

タカシ(染谷俊之)率いるG-Boysと京一(矢部昌暉)率いるレッドエンジェルスの対立が激化する池袋。トラブルシューターのマコト(大野拓朗)は抗争を止めるべく奔走する。柴の脚本は原作から恋愛要素を削ぎ落とし、本筋であるG-Boysとレッドエンジェルスの対立に集中した。原作の印象はそのままに、僅かな変更で作品の今日性を際立たせる手つきが見事だ。原作同様、作品の終盤ではG-Boysとレッドエンジェルスとの対立が仕組まれたものだったことが明らかになる。汚い大人たちに利用され、マスコミに踊らされる子供たち。本来ならば彼らが憎しみ合う理由はなかったはずだ。杉原の演出もまた、柴の力点変更を巧みに可視化する。主要登場人物を演じる俳優以外は、G-Boysとレッドエンジェルスの両方を演じるのだ。青か赤かというチームカラーの選択はささいな偶然に過ぎない。もしかしたら彼らは逆の色をまとい、向こう側にいたかもしれない。そこに本質的な違いはない。「やつらが」「やつらが」と彼らは相手を糾弾するが、「やつら」に果たして実体はあるのか。しかしひとたび血が流されてしまえば対立は激化し、憎しみは増していく。止めるためには誰かが痛みを引き受けるしかない。

チームカラーで統一した衣装はアンサンブルキャストを集団として提示し、立場の交換可能性を暗示する。だが、彼らは体型にせよダンス的バックグラウンドにせよ、一人ひとりが極めて個性的で、それぞれがそれぞれに集団に埋没しない魅力を放っていた。集団に飲み込まれず、個人としてあり続けること。集団としてではなく、独立した個人として対峙すること。彼らが体現していたのは、そんな倫理だったのかもしれない。


[撮影:渡部孝弘]

公式サイト:http://www.geigeki.jp/performance/theater163/

2018/01/05(山﨑健太)

青年団リンク キュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』

会期:2017/12/14~2017/12/24

アトリエ春風舎[東京都]

歴史は繰り返す。それが真実だとして、なぜ歴史は繰り返してしまうのか。

青年団リンク キュイは劇作家、演出家の綾門優季が主宰するユニット。公演ごとに綾門が劇作、あるいは演出のどちらかを担当し、もう一方には公演によって異なる作家を迎えるスタイルがユニークだ。2016年にはチェルフィッチュ/岡田利規『現在地』を綾門演出で上演している。今作では綾門の戯曲を劇団・お布団の得地弘基が演出した。

夜の公園、高速バス、大学構内、喫茶店。四つの場面で繰り返される理不尽な暴力と無差別殺人。いずれにせよ登場人物たちは皆殺しにされ、そして何事もなかったかのように次のターンが始まる。舞台上に投影される1-1、4-2という数字が示すように、ある種のゲームのように場面はループし、彼らはその都度殺される。繰り返しに気づいた男はそこから抜け出そうと試みるが——。


[撮影:大橋絵莉花]

登場人物たちが繰り返しから抜け出すことは原理的に不可能だ。彼らの運命はあらかじめ戯曲に書き込まれている。行為とともに読み上げられるト書きが、それがあらかじめ定められたものでしかないことを強調する。観客は舞台上の理不尽を客席から安全に眺める。あるいは、客席に縛り付けられ、見るに耐えない暴力を見続けることを強制される。

なるほど、演劇やゲームでは理不尽な暴力が繰り返される。理由はいらない。では現実は? やはり暴力は偏在し、延々と繰り返されている。登場人物の一人は金属バットを振るいながらこう言う。「ほら、ちゃんと見てなかったでしょ。ちゃんと見てないから、こうなるのに」。あるいはこう。「自分がふるっている暴力も、まるで他人のものみたいだね。他人の受けた暴力は」。殺され続ける彼らの命は軽く扱われているのだろうか。そうかもしれない。だが私たち観客は軽々と殺され続ける彼らをそれでも見続けなければならない。見るに耐えない現実から目をそらさない、そらさせないこと。そうして倫理はかろうじて始まる。


[撮影:大橋絵莉花]

公式サイト:https://cuicuicuicuicui.jimdo.com/

2017/12/24(山﨑健太)

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