2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

東京芸術劇場『池袋ウエストゲートパーク SONG&DANCE』

会期:2017/12/23~2018/01/14

東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]

脚本・作詞に柴幸男(ままごと)、演出に杉原邦生(KUNIO)、振付に北尾亘(Baobab)と小劇場の気鋭と若手俳優を起用した本作は、20年前の石田衣良の小説を、現在の日本を映し出す舞台へと見事に生まれ変わらせた。

タカシ(染谷俊之)率いるG-Boysと京一(矢部昌暉)率いるレッドエンジェルスの対立が激化する池袋。トラブルシューターのマコト(大野拓朗)は抗争を止めるべく奔走する。柴の脚本は原作から恋愛要素を削ぎ落とし、本筋であるG-Boysとレッドエンジェルスの対立に集中した。原作の印象はそのままに、僅かな変更で作品の今日性を際立たせる手つきが見事だ。原作同様、作品の終盤ではG-Boysとレッドエンジェルスとの対立が仕組まれたものだったことが明らかになる。汚い大人たちに利用され、マスコミに踊らされる子供たち。本来ならば彼らが憎しみ合う理由はなかったはずだ。杉原の演出もまた、柴の力点変更を巧みに可視化する。主要登場人物を演じる俳優以外は、G-Boysとレッドエンジェルスの両方を演じるのだ。青か赤かというチームカラーの選択はささいな偶然に過ぎない。もしかしたら彼らは逆の色をまとい、向こう側にいたかもしれない。そこに本質的な違いはない。「やつらが」「やつらが」と彼らは相手を糾弾するが、「やつら」に果たして実体はあるのか。しかしひとたび血が流されてしまえば対立は激化し、憎しみは増していく。止めるためには誰かが痛みを引き受けるしかない。

チームカラーで統一した衣装はアンサンブルキャストを集団として提示し、立場の交換可能性を暗示する。だが、彼らは体型にせよダンス的バックグラウンドにせよ、一人ひとりが極めて個性的で、それぞれがそれぞれに集団に埋没しない魅力を放っていた。集団に飲み込まれず、個人としてあり続けること。集団としてではなく、独立した個人として対峙すること。彼らが体現していたのは、そんな倫理だったのかもしれない。


[撮影:渡部孝弘]

公式サイト:http://www.geigeki.jp/performance/theater163/

2018/01/05(山﨑健太)

青年団リンク キュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』

会期:2017/12/14~2017/12/24

アトリエ春風舎[東京都]

歴史は繰り返す。それが真実だとして、なぜ歴史は繰り返してしまうのか。

青年団リンク キュイは劇作家、演出家の綾門優季が主宰するユニット。公演ごとに綾門が劇作、あるいは演出のどちらかを担当し、もう一方には公演によって異なる作家を迎えるスタイルがユニークだ。2016年にはチェルフィッチュ/岡田利規『現在地』を綾門演出で上演している。今作では綾門の戯曲を劇団・お布団の得地弘基が演出した。

夜の公園、高速バス、大学構内、喫茶店。四つの場面で繰り返される理不尽な暴力と無差別殺人。いずれにせよ登場人物たちは皆殺しにされ、そして何事もなかったかのように次のターンが始まる。舞台上に投影される1-1、4-2という数字が示すように、ある種のゲームのように場面はループし、彼らはその都度殺される。繰り返しに気づいた男はそこから抜け出そうと試みるが——。


[撮影:大橋絵莉花]

登場人物たちが繰り返しから抜け出すことは原理的に不可能だ。彼らの運命はあらかじめ戯曲に書き込まれている。行為とともに読み上げられるト書きが、それがあらかじめ定められたものでしかないことを強調する。観客は舞台上の理不尽を客席から安全に眺める。あるいは、客席に縛り付けられ、見るに耐えない暴力を見続けることを強制される。

なるほど、演劇やゲームでは理不尽な暴力が繰り返される。理由はいらない。では現実は? やはり暴力は偏在し、延々と繰り返されている。登場人物の一人は金属バットを振るいながらこう言う。「ほら、ちゃんと見てなかったでしょ。ちゃんと見てないから、こうなるのに」。あるいはこう。「自分がふるっている暴力も、まるで他人のものみたいだね。他人の受けた暴力は」。殺され続ける彼らの命は軽く扱われているのだろうか。そうかもしれない。だが私たち観客は軽々と殺され続ける彼らをそれでも見続けなければならない。見るに耐えない現実から目をそらさない、そらさせないこと。そうして倫理はかろうじて始まる。


[撮影:大橋絵莉花]

公式サイト:https://cuicuicuicuicui.jimdo.com/

2017/12/24(山﨑健太)

新国立劇場『かがみのかなたはたなかのなかに』

会期:2017/12/05~2017/12/24

新国立劇場[東京都]

子供向けの演劇と言われてどんな作品を思い浮かべるだろうか。新国立劇場が再演に値すると見なした本作の物語はこうだ。

部屋で孤独に出兵のときを待つ兵士・たなか(首藤康之)。単調に繰り返す日々の中、彼は鏡に映る自分の分身・かなた(近藤良平)を友人として見出す。さらに彼らはピザを届けに来たこいけ(長塚圭史)を家に招き入れ、その分身・けいこ(松たか子)と四人で時間を過ごす。だが、たなかとかなたは二人とも「女性らしい」けいこを気に入ってしまい取り合いに。女性なのに「男みたい」なこいけを、こんな奴はいらぬと崖から海に突き落としてしまう。二人はけいこをめぐって決闘をするが、自分の分身を思い切って殺すことができない。そこで二人は妙案を思いつく。ノコギリを持ち出した彼らはけいこを真っ二つにし、仲良く二人で分け合うのだった。そしてたなかは戦場へと旅立っていく——。


[撮影:宮川舞子]

鏡がモチーフの本作には、鏡映しにシンクロするダンスや回文の歌詞・台詞など、単純に楽しい要素がふんだんに盛り込まれている。登場人物、特に女装の長塚が演じるこいけはとびきりチャーミングだ。楽しげな雰囲気で舞台は進む。だが、登場人物たちのむき出しの欲望は不穏な展開を呼び込み、そのチャーミングなこいけは物語から排除されてしまう。あれ? そんなことになっちゃっていいの?

子供たちが疑問を持たなければこの作品はPC的にアウトな単なる猟奇殺人ものになってしまう。重要なのはこいけのキャラクターだ。こいけが魅力的だからこそ、彼女が「男みたい」だと排除されてしまう展開に対する疑問が、さらには男らしさや女らしさといった常識に対する疑問が生まれてくる。自ら作品の要を引き受け、その役割を十二分に果たしたこいけこと長塚に惜しみない拍手を送りたい。

キレイゴトばかり並べていては、人は問うことをしなくなる。舞台は現実を映し出す鏡だ。人のふり見て我がふり直せ。残酷な出来事が鏡の向こうで留まるように。

[撮影:宮川舞子]
[撮影:宮川舞子]

公式サイト:http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009659.html

2017/12/23(山﨑健太)

風姿花伝プロデュースvol.4『THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE』

会期:2017/12/10~2017/12/24

シアター風姿花伝[東京都]

優れた戯曲の上演は、時と場所を越え、現実の映し鏡として機能する。アイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーが1996年に発表した戯曲の上演は、2017年の日本において、恐ろしいほどの生々しさを獲得していた。

アイルランドの小さな町リナーンで老いた母(鷲尾真知子)を介護する独身の中年女性モーリーン(那須佐代子)。母のわがままに感情を爆発させることもしばしばだ。ある日、モーリーンは再会した幼馴染のパト(吉原光夫)と親密になる。それが気にくわない母は、娘がかつて精神病院にいたことを暴露し、パトからの求婚の手紙も娘が見る前に燃やしてしまう。母の様子がおかしいことに気付いたモーリーンは口論の末、手紙の内容を聞き出しパトのもとへ。やがて戻ってきたモーリーンはパトとともにアメリカに行くことになったと告げる。崩れ落ちる母の体。モーリーンは怒りのあまり、母を火かき棒で殴り殺してしまっていたのだった。葬式の夜。母の死は事故死として片付けられた。そこへパトの弟レイ(内藤栄一)が訪れ、パトが他の女と婚約したと言う。愕然とするモーリーン。しかもレイは、あの夜パトがモーリーンと会ったなんて事実はないとも言うのだ。あの夜、パトに会って結婚を約束したというのはモーリーンの妄想でしかなかった。ガラガラと崩れ去る「現実」。呆然と母の揺り椅子に座るモーリーンの姿は、憎んだ母のそれと瓜二つだった。

老老介護、毒親、連鎖する虐待。あるいは、閉じた関係のなかで狭まっていく視野とそれがもたらす悲劇。モーリーンと母は互いに主張をぶつけ合い、嘘をつき合う。観客がどちらの言い分が正しかったかを知る頃には手遅れだ。モーリーンは妄想の世界に飲み込まれ、悲劇的な結末を迎えることになる。外部の目も証拠もない場所で現実を正しく認識し続けることは難しい。そこにこの国の姿を重ねるのは穿ちすぎだろうか。そんなことを考えてしまうほど、我が身に迫る上演だった。小川絵梨子の巧みな翻訳・演出、俳優陣の好演、そして何より、日本の現在を鋭く抉る企画を立てた劇場に拍手を送りたい。


[撮影:沖美帆]

公式サイト:http://www.fuusikaden.com/leenane/

2017/12/19(山﨑健太)

M&Oplaysプロデュース『流山ブルーバード』

会期:2017/12/08~2017/12/27

本多劇場[東京都]

近年、住宅地として開発の進む千葉県流山市。秋葉原までつくばエクスプレスで30分のこの街は、しかし絶対的に東京ではない。「中心」は近いようで無限に遠い。そんな場所にいるしかない、それゆえにくすぶり続ける人々を赤堀雅秋は描いてきた。それが船橋であれ柏であれ同じことだ。いや、日本中そんな場所だらけだ。そんな場所だらけだから見過ごしてしまう。ゆえに赤堀は繰り返し彼らを描く。ともすればないことにされてしまう爆発寸前の何かを、それをなんとかいなしながら生きている人々の存在を刻みつけるように。

実家の魚屋で兄・国男(皆川猿時)とともに働く満(賀来賢人)は、親友・足立(太賀)の妻・美咲(小野ゆり子)と情事を重ねている。だが自ら駆け落ちを持ちかけた満は約束の時間に現れず、美咲が足立にすべてを話したと聞いて逆ギレする始末。ここではないどこかを求めながら、地元の親友との関係が壊れるのは怖い。怠惰な日常に絶望しつつも安住する人々。ときに互いに苛立ちをぶつけ合う彼らはしかし、狭いコミュニティでともに長い時間を過ごしたがゆえ、哀しいほどに似通っている。ちょっとした身振りや習慣、言葉づかいのシンクロにおかしみと哀愁が漂う。

作中、印象的に語られる宇宙の話がある。閉じた宇宙では、その果てまで行くと元の位置に戻ってくるのだという。ゴール地点すなわちスタート地点。どこにも行けない。どこまで行っても似たようなどん詰まり。無差別殺人の犯人らしい伊藤(柄本時生)は「親は選べなかったなー」「スタートラインが違うんだなー」と言う。世界が閉じた宇宙なら、このタイトルはあまりにアイロニカルだ。幸せはいつだって足元にある? 苛立ちをぶつける満に兄が放つ「明日、お前は何食べたい?」という問いは、たしかに作品のラストにごく微かな光を射してはいる。だが、そこにはそんな青い鳥しかいないのだとしたら。そこからどこにも行けないのだとしたら。


[撮影:柴田和彦]

公式サイト:http://mo-plays.com/bluebird/

2017/12/08(山﨑健太)

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