2018年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

風姿花伝プロデュースvol.4『THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE』

会期:2017/12/10~2017/12/24

シアター風姿花伝[東京都]

優れた戯曲の上演は、時と場所を越え、現実の映し鏡として機能する。アイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーが1996年に発表した戯曲の上演は、2017年の日本において、恐ろしいほどの生々しさを獲得していた。

アイルランドの小さな町リナーンで老いた母(鷲尾真知子)を介護する独身の中年女性モーリーン(那須佐代子)。母のわがままに感情を爆発させることもしばしばだ。ある日、モーリーンは再会した幼馴染のパト(吉原光夫)と親密になる。それが気にくわない母は、娘がかつて精神病院にいたことを暴露し、パトからの求婚の手紙も娘が見る前に燃やしてしまう。母の様子がおかしいことに気付いたモーリーンは口論の末、手紙の内容を聞き出しパトのもとへ。やがて戻ってきたモーリーンはパトとともにアメリカに行くことになったと告げる。崩れ落ちる母の体。モーリーンは怒りのあまり、母を火かき棒で殴り殺してしまっていたのだった。葬式の夜。母の死は事故死として片付けられた。そこへパトの弟レイ(内藤栄一)が訪れ、パトが他の女と婚約したと言う。愕然とするモーリーン。しかもレイは、あの夜パトがモーリーンと会ったなんて事実はないとも言うのだ。あの夜、パトに会って結婚を約束したというのはモーリーンの妄想でしかなかった。ガラガラと崩れ去る「現実」。呆然と母の揺り椅子に座るモーリーンの姿は、憎んだ母のそれと瓜二つだった。

老老介護、毒親、連鎖する虐待。あるいは、閉じた関係のなかで狭まっていく視野とそれがもたらす悲劇。モーリーンと母は互いに主張をぶつけ合い、嘘をつき合う。観客がどちらの言い分が正しかったかを知る頃には手遅れだ。モーリーンは妄想の世界に飲み込まれ、悲劇的な結末を迎えることになる。外部の目も証拠もない場所で現実を正しく認識し続けることは難しい。そこにこの国の姿を重ねるのは穿ちすぎだろうか。そんなことを考えてしまうほど、我が身に迫る上演だった。小川絵梨子の巧みな翻訳・演出、俳優陣の好演、そして何より、日本の現在を鋭く抉る企画を立てた劇場に拍手を送りたい。


[撮影:沖美帆]

公式サイト:http://www.fuusikaden.com/leenane/

2017/12/19(山﨑健太)

M&Oplaysプロデュース『流山ブルーバード』

会期:2017/12/08~2017/12/27

本多劇場[東京都]

近年、住宅地として開発の進む千葉県流山市。秋葉原までつくばエクスプレスで30分のこの街は、しかし絶対的に東京ではない。「中心」は近いようで無限に遠い。そんな場所にいるしかない、それゆえにくすぶり続ける人々を赤堀雅秋は描いてきた。それが船橋であれ柏であれ同じことだ。いや、日本中そんな場所だらけだ。そんな場所だらけだから見過ごしてしまう。ゆえに赤堀は繰り返し彼らを描く。ともすればないことにされてしまう爆発寸前の何かを、それをなんとかいなしながら生きている人々の存在を刻みつけるように。

実家の魚屋で兄・国男(皆川猿時)とともに働く満(賀来賢人)は、親友・足立(太賀)の妻・美咲(小野ゆり子)と情事を重ねている。だが自ら駆け落ちを持ちかけた満は約束の時間に現れず、美咲が足立にすべてを話したと聞いて逆ギレする始末。ここではないどこかを求めながら、地元の親友との関係が壊れるのは怖い。怠惰な日常に絶望しつつも安住する人々。ときに互いに苛立ちをぶつけ合う彼らはしかし、狭いコミュニティでともに長い時間を過ごしたがゆえ、哀しいほどに似通っている。ちょっとした身振りや習慣、言葉づかいのシンクロにおかしみと哀愁が漂う。

作中、印象的に語られる宇宙の話がある。閉じた宇宙では、その果てまで行くと元の位置に戻ってくるのだという。ゴール地点すなわちスタート地点。どこにも行けない。どこまで行っても似たようなどん詰まり。無差別殺人の犯人らしい伊藤(柄本時生)は「親は選べなかったなー」「スタートラインが違うんだなー」と言う。世界が閉じた宇宙なら、このタイトルはあまりにアイロニカルだ。幸せはいつだって足元にある? 苛立ちをぶつける満に兄が放つ「明日、お前は何食べたい?」という問いは、たしかに作品のラストにごく微かな光を射してはいる。だが、そこにはそんな青い鳥しかいないのだとしたら。そこからどこにも行けないのだとしたら。


[撮影:柴田和彦]

公式サイト:http://mo-plays.com/bluebird/

2017/12/08(山﨑健太)

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション

会期:2017/12/01~2017/12/20

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

2004年に初演され、身ぶり・発話・話法とさまざまな方向からその後の現代日本演劇に大きなインパクトを与えたチェルフィッチュ『三月の5日間』。その「リクリエーション」がKAAT 神奈川芸術劇場で12月20日まで上演中だ。オーディションによって選ばれた若い俳優たちと書き換えられた戯曲による新たな『三月の5日間』はなぜ必要とされたのか。

『三月の5日間』は2003年のイラク戦争開戦前後の5日間をラブホテルで過ごした男女とその周辺の人々を描く。オリジナル版が最後に上演されたのは2011年の12月、今回と同じKAATでのことだ。奇しくも公演初日の2日前、当時のアメリカ大統領バラク・オバマがイラク戦争の終結を正式に宣言している。つまり、オリジナルの『三月の5日間』のほとんどはイラク戦争の只中に上演されたのだということになる。だが、イラク戦争が終結した2011年12月14日以降、イラク戦争への想像力はかつて存在したものへの想像力としてしかあり得ない。向けられる想像力の変質ゆえに、『三月の5日間』は新たな形を必要としたのではないか。

リクリエーション版の演出では、俳優、俳優が想像するもの、観客が想像させられるもの、そしてそこにないものについて、場面ごとにさまざまな関係が試されているように見えた。観客は俳優とともに舞台上にないものを想像し、ある俳優の語りの登場人物を舞台上のまた別の俳優に重ね、あるいはシンプルに俳優=登場人物として(つまりはもっとも一般的な演劇のあり方で)見る。オリジナル版ではその境界があいまいであることがひとつのポイントだったが、リクリエーションでは一つひとつの機能をたしかめるように場面が配置されている。いわば演劇の「文体練習」、想像力のトレーニングだ。目の前の人が何を考えているのかと考え、話題に出た共通の友人に思いを馳せ、見知らぬ誰かを想像し、そしてフィクションの世界を、未来を思い描く。想像力はさまざまな機能を持つことができる。だがそれらは所与のものではなく、獲得あるいは発明されなければならないのだ。




チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション
撮影:前澤秀登
公式サイト:https://chelfitsch.net/

2017/12/02(土)(山﨑健太)

ナイロン100℃『ちょっと、まってください』

会期:2017/11/10~2017/12/03

本多劇場[東京都]

(作品の結末に触れています)

ナイロン100℃『ちょっと、まってください』は作・演出のケラリーノ・サンドロヴィッチが別役実にオマージュを捧げた「不条理喜劇」。ある金持ち家族の家に見ず知らずの乞食家族がヌルリと入り込んでいく。言葉を交わすうちに横滑りしていく論理が思わぬ展開を呼び込み、過去さえも書き換えられていく様がおかしくも恐ろしい。自らペテン師を名乗る男(マギー)の語りに誘われて、観客は不条理の世界へと迷い込む。

だが、ペテン師の男は最終的に世界から排除されてしまう。嘘や詭弁を弄するペテンは実のところ論理に拠っているからだ。ゆえに不条理な世界にペテン師のやり方は通用しない。金持ち家族を騙していたはずのペテン師は、いつしかおかしな論理に巻き込まれ、罠とも呼べない罠に自ら落ち込んでいく。二つの家族のおかしさに気づいていながら我関せずと見て見ぬ振りをしてきた彼は、世界から手痛いしっぺ返しを喰らうのだ。おかしなことには突っ込まなければ、世界はボケに覆われる。語り手を失った観客はそんな世界に取り残される。


ナイロン100℃『ちょっと、まってください』
撮影:桜井隆幸

その先にはさらに恐ろしい結末が待っている。遠い背景として描かれていた社会運動が唐突に前景化するラスト。賛成派と反対派、そして中立派の対立の末、街には雪のような消毒薬が降り注ぐ。観客が不条理に笑う間に、外の世界では取り返しのつかないことが起きたらしい。金持ちの家の立つ土地はいつの間にか地盤沈下で沈んでいて、通りすがる人がペテン師の「ちょっと、まってください」の声に耳を傾けることはない。気づけば彼らは世界から切り離されている。

さて、ドメスティックな不条理は、果たして舞台上だけのことだろうか。「ちょっと、まってください」と声をあげるならば今のうちかもしれない。


ナイロン100℃『ちょっと、まってください』
撮影:桜井隆幸
公式サイト:http://www.sillywalk.com/nylon/

2017/12/01(金)(山﨑健太)

イキウメ『散歩する侵略者』

会期:2017/10/27~2017/ 11/19

シアタートラム[東京都]

『散歩する侵略者』は2005年初演のイキウメの代表作。この秋には黒沢清監督により長澤まさみと松田龍平の主演で映画化もされ、今回はイキウメとしては3度めの再演となる。すでに十分な人気と実力を兼ね備えるイキウメだが、近作ではますます充実した活動を展開している。この5-6月に上演された『天の敵』では舞台上に複数の時空間を配置する作・演出の前川知大の手つきが冴えわたり、俳優たちもそれに十二分に応える好演を見せた。このタイミングでの代表作『散歩する侵略者』の再演は、劇団としての継続的な活動の成果を反映し、傑作の再演に向けられた期待を大きく上回る舞台となった。

物語は数日間行方不明だったある男(浜田信也)が戻ってくるところからはじまる。まるで別人のようになってしまった夫に戸惑う妻(内田慈)。やがて夫は告げる。実は自分は地球を侵略しに来た宇宙人なのだと。折しも街では特定の概念が理解できなくなる奇病が流行。それは彼ら宇宙人が「概念」を収奪した結果だった──。

今回の再演では、夫婦の再生、国と個人との対立などさまざまな要素が詰め込まれた作品の、また新たな側面が浮かび上がって見えた。再演の度に発見があるのが傑作の傑作たるゆえんだろう。

舞台となる「日本海に面した小さな港町」は「同盟国の大規模な基地がある戦略的に重要な土地」であるとされ、物語の背景には隣国との軍事的な緊張の高まりがある。図らずも2017年の現在を反映したかのような再演となったわけだが、真にアクチュアルな意味を獲得してしまったのはむしろ、「概念」の収奪という設定の方だ。

言葉の意味が骨抜きにされるとき、社会はその成立基盤から揺らいでいく。地面に大きく亀裂が入った舞台美術(土岐研一)は東日本大震災後の日本を思わせると同時に、今まさに足元に広がりつつある裂け目をも可視化していた。見える世界、拠って立つ場所の違いが生む断絶は深刻だ。ラストシーンの二人の「すれ違い」はまったくもって他人事ではない。


イキウメ『散歩する侵略者』
左から浜田信也、安井順平
撮影:田中亜紀
公式サイト:http://www.ikiume.jp/

2017/11/08(水)(山﨑健太)

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