2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

日本・オランダ国際共同製作『雅歌(GAKA)』

会期:2018/07/13~2018/07/14

高知県立美術館・中庭[高知県]

オランダ在住のピアニスト・美術家・演出家の向井山朋子がコンセプトと演出、振付家・ダンサーの山田うんが振付を担当した本作。「現代の儀式」は、遠い未来から過去たる現在を召喚するようで、私は自身のいる「今ここ」が確かに変質していくのを感じた。

土佐漆喰の土蔵がモチーフだという美術館の建物だが、その中庭は柱廊に囲まれ、どこか西洋の雰囲気も感じさせる。「儀式」はその4分の1ほどを占める石造りの舞台を含めた中庭の全体を使って執り行なわれた。客席は柱廊に設えられ、中庭を三面から臨む。夏の空は暮れつつもまだ青い。太鼓を打つ音がひとつ。と思ううちにそれは数を増し、中庭に音が渦巻く。柱廊の2階部分に現われた女たちは中庭へと移動し、手にする楽器は瓢箪型の笛(フルスという中国の楽器らしい)へと変わる。振りを共有しつつも集合離散を繰り返す鳥の群れのような舞は奏でられる音楽とどこか似ている。

舞台奥から真っ白な何かに覆われた人型のモノが現われる。死の先触れだろうか。女たちが次々と倒れていく。動きを止めた白い何かから、ずるりと脱皮するようにして現われる女の裸。死と再生。その姿は力強くもどこか禍々しい。空の色はこの世のものとも思えないピンク。やがて立ち上がった女たちは銀色の薄布で中庭を覆っていく。舞台奥から観客のいる縁まで届く長さの薄布が、一枚また一枚と緩やかに厳かに中庭を覆い尽くすころ、すべては宵闇にその輪郭を溶かし始めている。女たちは去る。儀式の進行を司るかのごとき和太鼓の鼓手(それは唯一の男でもある)が中央に進み出ると、神楽を舞い、祝詞を唱える。彼も去る。じりじりと夜が深さを増し──再び灯された館内の明かりが私を現実に引き戻す。

薄布と宵闇に覆われ、色も輪郭も失った中庭と柱廊の姿は、火山灰に埋もれた異国の遺跡を私に思わせた。それはこの中庭が、現在の痕跡となり果てる遠い未来の幻視だ。そこに私はもういない。

[撮影:丹澤由棋]

公式ページ:https://moak.jp/event/performing_arts/mukaiyamatomoko_gaka.html

2018/07/13(山﨑健太)

円盤に乗る派『正気を保つために』

会期:2018/07/05~2018/07/10

BUoY[東京都]

sons wo:として演劇作品を上演してきたカゲヤマ気象台が、「円盤に乗る派」の名で新たなスタートを切った。「複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるような場所を作るプロジェクト」として、カゲヤマによる上演作品を軸としつつ「様々なプログラムや冊子の発行」を行なうのだという。今回は上演と合わせてポスト・パフォーマンス・パフォーマンス、ポスト・パフォーマンス・パーティ、シンポジウム「肉が柔らかくなるまで未来について話す」、生活状態(ライフスタイル)誌『STONE/ストーン』の発行が行なわれた。

『正気を保つために』はハードボイルド調の三人芝居。探偵事務所を構えたばかりの田七(峰松智弘)のところに小林弐千年(小山薫子)が訪ねてくるところから物語は始まる。だが、もうひとりの登場人物・未知(立蔵葉子)も含めた彼らの関係は不明瞭で、ときに家族や同級生であるかのようにも見える。彼らは互いに対して、記憶が混線しているかのように存在している。

[撮影:濱田晋]

ところで、彼らの台詞にはきわめて多くの固有名詞が登場する。ポランスキー、神田川、デニーズ、つかこうへい、ラジオ・ヘッドetc.。これらの単語は登場人物にとって、あるいは物語にとって必ずしも重要なわけではない。しかし彼らがそれを口にするということは、それが何らかのかたちで彼らの人生に関わっていることを意味している。つまり、それは彼らの人生の一部だ。

「円盤に乗る派宣言」には次のような一節がある。「人間のかたちをして生きていくとき大事なのは、いつでも円盤に乗れるようにしておくことだ。そこでは見たことのない、知らないものがなぜか親しい」。より多くの人間の営みが集うようなかたちでカゲヤマが活動を再始動したのは、だからそういうことなのだろう。正気を保つために必要なのは、独りきりの強い意志でも自我でもない。私は大きな意味を持たない無数の断片でできている。

[撮影:濱田晋]

公式ページ:http://noruha.net/

2018/07/09(山﨑健太)

三野新《Prepared for FILM》

会期:2018/06/01~2018/07/16

京都芸術センター[京都府]

京都芸術センター「Tips」展に出品された本作は劇作家サミュエル・ベケットの映画『フィルム』(1965)を元にしたインスタレーション。同時に、同タイトルのパフォーマンス(2014)を再構成したものでもある(ちなみに筆者はパフォーマンス版にドラマトゥルクとして参加していた)。

『フィルム』は逃げるように街路をゆく男の後ろ姿から始まる。男はある部屋に逃げ込むとカーテンを閉め、犬や猫を追い出し、鳥かごや金魚鉢に覆いをかけていく。他者の視線を排除し、安心した男がまどろみ始めると、カメラがゆっくりと男の正面へと回り込む。ハッと目覚めた男が目にするのは自らと瓜二つの男の姿だ。他者の視線をいかに排除しようと、自身の知覚から逃れることはできない──。

パフォーマンス版は犬や鳥かごなど映画に登場する要素を撮影した写真を展示したギャラリーで、それらの写真を使って『フィルム』を撮影する様子を観客に見せるというもの。インスタレーション版はパフォーマンスで使用した写真や上演台本、記録映像に加え、上演空間のジオラマと、そのジオラマを使った指人形によるパフォーマンスの「再演」映像によって構成されている。

インスタレーション版では、来場者の鑑賞行為そのものが元となったパフォーマンスの一部、視線の運動を再現することになる。そもそものパフォーマンス版自体が展示空間で写真を見ていく様子を要素として組み込んでいたからこその手法だが、指人形を使った「再演」映像とジオラマによるサイズ感の操作も効いている。鑑賞行為自体をキーにするという手法は、そのままの形で保存・再生することができないパフォーマンスをいかにアーカイヴするかという問いに対するひとつの応答であり、『フィルム』の脚本冒頭に掲げられた哲学者バークリーの言葉「存在することは知覚されることである」を体現するものでもあるだろう。作品に内在する運動は文字通り、鑑賞されることによって立ち上がる。

[撮影:Arata Mino]

公式ページ:https://www.aratamino.com/
三野新「Prepared for FILM」初演劇評:http://www.wonderlands.jp/archives/26131/

2018/07/08(山﨑健太)

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ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』

会期:2018/07/06~2018/07/09

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

ミュンヘンの劇場・カンマーシュピーレからレパートリー作品の委嘱を受けた岡田利規が同劇場の俳優とともにつくり上げた本作は、能の形式に乗っ取り、「六本木」「都庁前」と題された二番の能と、その間に上演される狂言「ガートルード」によって構成されている。「六本木」には飛び込み自殺をした金融マンの亡霊が、「都庁前」には都議会で「お前は子ども産めないのか」と野次を浴びた女性議員の生霊(彼女は「フェミニズムの幽霊」と呼ばれる)が登場し、現代日本に対し警鐘を鳴らすような内容となっている。

いずれも現在の日本の現実を元に書かれた作品であることは明らかだが、忘れてはならないのは、この作品がドイツの劇場のレパートリーとしてつくられたものだという点だ。『新潮』7月号に掲載された戯曲はもちろん日本語で執筆されているが、それは客席の多くをドイツ人が占めるであろう劇場での、ドイツ語を話す俳優による上演を想定したものなのだ。日本でのギリシャ悲劇の上演のようなものだろうか、と考えてゾッとした。

ギリシャ悲劇が描くのははるか昔、いまはもうない「国」での出来事だ。レパートリーとして今後も上演されていくはずの『NŌ THEATER』が、そのようなものとして受け取られる日が来ないとは言い切れない。それどころか、すでにして多分にフィクショナルなものとして受け取られている可能性もある。

ドイツから来た俳優たちが演じる「日本」は、確かに日本で起きた出来事を元にしてつくられたもので、それは日本に生きる私には現在形のストレートな糾弾として響いた。しかし同時に、ドイツ語で演じられる「日本人」はあからさまにフィクショナルでもあり、発せられるドイツ語が日本語話者に向けられたものではないことも確かだ。『NŌ THEATER』という作品それ自体が、あらかじめ過去からの亡霊として書かれているのではないか。そんな予感に、作品に漂う滅びの気配がよりいっそう身に迫るものとして感じられた。

[撮影:井上嘉和]

公式ページ:https://rohmtheatrekyoto.jp/program/7856/

2018/07/08(山﨑健太)

akakilike『家族写真』

会期:2018/06/22~2018/06/24

d-倉庫[東京都]

akakilikeはダンサー・演出家の倉田翠とテクニカルスタッフのユニット。本作は倉田と写真家・前谷開との共同制作企画として2016年に初演され、今回は初演の出演者にダンサー・佐藤健大朗を加えての「再演」となった。

舞台装置は会議室で使うような折りたたみ式の長机のみ。出演者のうち年長の(ように見える)男女(筒井潤と寺田みさこ)と年少の(ように見える)男女(前谷開と迫沼莉子)が机を囲む。筒井の「もしな もし もしやで お父さんが 死んだらやけどな」という言葉が4人が家族であることを示唆するが、それでは左右の壁際で彼らを見つめる若い男女(竹内英明と倉田)は誰だろうか。筒井がしきりに自らの死を語ることもあり、竹内と倉田は父亡きあとの、成長した子供たちのようにも見える。食卓を囲む家族は在りし日の回想だろうか。本作において言葉を発するのは筒井だけで、しかもそれはほとんどが保険金の話だ。彼らの動きや立ち位置は交錯していき、ひとつの解が与えられることはない。

[撮影:平澤直幸]

彼らは一人ひとりばらばらに踊り続けるが、「家族写真」を撮る瞬間だけは揃ってポーズを取る。家族であることを保証する唯一の瞬間。家族として共有できる記憶は個人の記憶の一部にすぎない。自分以外の家族がどのような思いを抱いているかを知る術などない。前谷は上演中、家族写真以外にも無数の写真を撮る。終演後のロビーや写真集で見ることのできるそれらの写真では、自らシャッターを切った前谷だけがこちらを見据えている。前谷の「家族」の記憶は他の出演者には共有されない。

ひとつの家族の記憶として見るならば互いに矛盾するかのような場面によって『家族写真』は構成されている。近親相姦的な欲望の発露にも見える暴力的な、あるいは苦しみもがくような動きも多い。前谷に首を絞められた倉田が吐血する場面さえある。それらは「家族」が本来的に孕む不穏さなのかもしれない。寄り添う共同体で個人はぶつかり合い軋みをあげている。

[撮影:平澤直幸]

[撮影:前谷開]

公式ページ:https://akakilike.jimdo.com/works/家族写真/

2018/06/22(山﨑健太)

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