artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:岡崎藝術座『+51 アビアシオン,サンボルハ』

会期:2015/02/13~2015/02/20

STスポットほか(国内5都市ツアー)[神奈川県]

今月の上旬は横浜でダンス・演劇の公演ラッシュになりますが、ぼくが個人的にもっとも楽しみにしているのは岡崎藝術座の新作公演です。『+51 アビアシオン,サンボルハ』と題された作品は、フライヤーの「演出ノート」を読む限りではアメリカに住む神里雄大自身の叔父家族を取材して生まれたものらしい。そのノートには「今回の作品では、日本人バンザイとか日本文化すごいなどとやるつもりはなく、わたしの出自をみんなに共有してほしいというつもりもなく、けれども去ってしまった人たちが故郷を想像するとき、残った人たちはどんなふうにその故郷を更新していけるのかということは大事にしたいと思う」とあります。直接、アメリカの叔父家族が直接言及されることはないようなのだけれど、複雑なルートを辿っていま日本で演劇を創作している神里の境遇は、それを意識的に創作に活かしていることとも相まって、この国の演劇界では珍しいものだ。そこに注目する気持ちもあるが、ともかくなにより岡崎藝術座の演劇は面白いのです。役者が舞台に立っているときの、その存在感が特別に強いのがこの劇団の特徴だとぼくは思っているのですが、それは社会の流れに翻弄されながら、自分の力で社会に向き合おうとしている者に独特のアウラなのではないでしょうか。今回も、その希有なアウラを見つめたいと思います。

2015/01/31(土)(木村覚)

新聞家『スカイプで別館と繋がって』

会期:2015/01/24~2015/01/26

SNAC[東京都]

強烈にストイックでモダニスティックな形式主義。「ポスト・チェルフィッチュ」なんてありふれた形容では片がつかない新鮮さがあった。これはなんなのだろう。プレイヤーがプレイし始めるのをゲームのキャラが待っているかのように、開演前、役者が一人舞台で開始の合図を待っている。白い背景。だからそう思わせるのかもしれないが、役者がしゃべり始めて最初に抱いた印象は、美術作品みたいだということだった。長身の役者(比嘉賢多)は椋本真理子制作のオブジェを抱えると、微動だにせずしゃべり出した。そのまなざしは床に置かれた三脚立てのiPhoneに向けられている。タイトルを思い返せばなるほどと思うのだが、役者の言葉は観客に向けられたようで、どうもiPhoneのスカイプ機能を利用して、iPhoneを経由した誰かに向けられている。少なくともそういう設定のようだ。iPhoneの先にいる誰かの「目」をもって構成されるパースペクティヴが役者を強制し、独特の屈んだ姿勢をとらせる。そのこわばったポーズによって、役者の身体はなにやら肖像画のように見えてくる。もちろん、役者が意識しているiPhone(越しの誰か)の「目」の角度と観客がそれぞれ役者に向ける「目」の角度にズレがあるから、そのズレゆえに役者の人物画的な魅力は増加している。つまり、役者は二つ方向からまなざしを受けているわけで、観客のまなざしをもうひとつのまなざしがあることで役者は軽く無視する寸法になっている。そのズレが、不特定多数の人が読むTwitterを使って個人的なメッセージを書く時のように、なんともいえない緊張感が生まれているのだ。仕掛けはそれだけではない。問題は台詞回しだ。声が極端にうわずったり、つっかえたり、いい間違えたり、言いよどんだり、言葉の中身も脈略のとりにくいものなのだが、それ以上に、この発話の段階での強烈なエフェクトにこの劇の大きな特徴があった。この身体はどんな因果でこんなしゃべり方になってしまっているのか? 身体に障害を持つ人物の役というのでもなさそうだし、役者自身が障害を持っているというのでもないようだし、そもそも観客に「障害」を想起させる意図はないみたいだし。ゆえにこの言いまわしは、一種の音楽的取り組みなのか? しかし、それにしても、例えば吉田アミのヴォイスがある基準のもとである声の質を選択しているとすれば、新聞家の声の質は、その選択の幅が広く、単に声ではなく発話であることも手伝って、なにかを言わんとする思いとそれがコントロールできずに声として漏れる音とが揺れたまま舞台に落ちる。身体というメディアで描く音楽であり美術というのが、新聞家を初めて見たぼくの強い印象だ。演劇というジャンルをここまでドライにモダニズム芸術へと仕立てたその試みには、目を見張るものがある。さて、これが今後どう展開していくのか。形式面のより一層の純化なのか、内容面の深化なのか、あるいは観客へのアプローチなのか、気になる。

2015/01/26(月)(木村覚)

神村恵、高嶋晋一、兼盛雅幸、高橋永二郎(構成・出演)『わける手順 わすれる技術 ver.2.0』

会期:2015/01/18

SNAC[東京都]

なぜダンスなのか? なぜ踊るのか? 踊りたくなるから? でも、作品の公演のように何度も上演が行なわれる場合、踊りたくなる衝動は一種の仮構なしには説明がつかない。いまここで踊る理由とは? この問いを「私は踊り子なのだ!」(=踊る病の病人なのだ)などと断言してしまう以外に、うまくやり抜くのに「ここに踊れ(動け)と書いてあったから」という言い逃れがありうる。本作は、後者の立場にある。観客にインストラクションを配布し、何をいまここで行なうのかをあらかじめオープンににする。冒頭、4人は舞台に現われるとまず今回の上演の趣旨説明を行ない、その後さらに、6個のインストラクションの内で見るまでもないものはないかと観客に問いかけるということまでした(ぼくが見た回は見るまでもないという意見は出なかった)。この冒頭のやりとりは場を和ませた。これがダンス公演だとしたら、冒頭で観客と対話するダンス公演なんてほとんど存在しない。希有な「言葉の介入」は場の緊張を緩和させた。インストラクションは「隠れようがないところで隠れる」「足音の再生」「変質ジャンケン」「行為の最小化」「行為の圧縮」「口腔から世界を取り出す」(これらのタイトルは上演後に配られたテキストに基づく)。個々がどんなインストラクションであったのかは、紙幅の関係で詳述はできない。興味深かったのは、誰かがインストラクションを行なった後に、別の誰かがそれを即座に講評するところだ。「足音の再生」は「先生」役の演者が立てた足音を他の演者は目を瞑って聞き、そこでどんなことが起きていたのかを実演するというもの。そんなゲームの成果について、ああでもない、こうでもないと演者同士で会話が起こる。もっとしっかりリハーサルしておけばもめないのではと思わなくもないが、完成した状態ではなくむしろ「生煮え」を舞台に持ち込もうとしているに違いない。ならば、どの生煮えと完成のあいだのどの段階を見せようとするか、そのコントロールが求められることになるだろうし、その点の考察は課題というべきかもしれない。ただし、アクティング・エリアでリラックスした会話が起きているその状態に、新鮮な驚きがあったし、そこから次のどんな展開があるのか期待したい。

2015/01/18(日)(木村覚)

マームとジプシー『カタチノチガウ』

会期:2015/01/15~2015/01/18

VACANT[東京都]

三人の役者(青柳いづみ、吉田聡子、川崎ゆり子)は三姉妹。長女は母親を猛烈に憎んでいる。というのも、三人は父親が全員違う。その違いがタイトルの「カタチノチガウ」(併記された英語はMalformed)の意味を一部担う。三人は高台のお屋敷に暮らす。屋敷はとてもリッチで、ファンタジックな雰囲気。しかし、長女はある日家を出て行く。その理由は、ことの断片をパッチワークのようにして進む藤田貴大らしい語りから憶測するに、三女の父が長女と近親相姦していた事実にある。次女は長女を思い出したくて三女の父と性交する。三女はそれを許せず、父を殺し、父殺しの罪を償いに行く。取り残された次女が1人暮らす、次第に世界は戦争状態になる。その最中、長女は子どもの手を引いて帰ってくる。その子どもは「カタチノチガウ」子どもだという。次女に子どもを託すと長女は飛び降り自殺を計る。ざっと要約するとこのような物語。出口のない家族の悲劇。藤田はファンタジックな空間に絶望的な人間関係を据え置いたわけだけれど、そしてその出口のなさが藤田らしい情感を引き出しもしたのだけれど、しかし、出口のなさが情感の喚起のために活用されている気がして、やりきれなさというかあるいは演劇表現の限界を感じた。彼女たちには友人や幼稚園・小学校の先生はいなかったのだろうか。隣人たちは彼女たちをどう見ていたのだろう。ここには社会がない。「ない」かのように描かれている。しかし、どうなのだろう。事実ないのならばそのなさ加減に視線が向かってもいいはずだ。外(社会)へとまなざしが向かわないことで、内側(家族)の気圧が高まる。けれども、そこで情感に浸っている場合なのだろうか。心に残る情感を観客に与えることが演劇表現なのだとしたら、情感に浸るのと引き換えに、観客は社会への視線を失うことにならないか。藤田の台詞は、個人の心の苦しみを吐露する言葉が多い。人前では「言えないでいた言葉」が吐き出されると、観客は「言えないでいた自分」に気づいて感動するのかもしれない。青春の演劇だ。けれども、あえていえば、ぼくたちは人前ではそんなふうにしゃべらない。そのことにこの作品は目を瞑っている。「カタチノチガウ」こともそうだ。これが親の違うことあるいは身体的障害をさすのだとして、そのことにナルシスティックに絶望していたい気分に当事者は陥ることもあろう。けれども、生活はもっと過酷だ。社会へとまた他者へと開かれずに生きてはいけない。ラストの長女の飛び降りシーンが、外へと開かれない気持ちの終わり(青春の終わり)であるのならば、少し救われるのだが。物語にフォーカスすれば以上なのだが、音楽と演劇が絡まりあう、ラップとロックの中間のような台詞のしゃべり方というか唄い方は絶妙で、とくにそれが目立つ前半の緻密な演出には演劇の新しい次元を見た気がした。ここは脱帽。センチメンタルなポップ音楽のような演劇。そう考えると、上記したことはさらっと流せてしまいそうでもある。

2015/01/17(土)(木村覚)

プレビュー:神村恵『わける手順 わすれる技術 ver. 2.0』

会期:2015/01/18

SNAC[東京都]

神村恵は間違いなく尊重されるべき日本の振付家の1人だ。それは、彼女の考えていることには、ともかく耳を傾けるべきだということを意味する。彼女の10年を超えるキャリアは、必ずしも新しい観客にはフォローが容易ではないかもしれない。そうかと思って私は昨年「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSにて、動画コンテンツ「神村恵入門」を制作した。ぜひこれを一度見て、彼女のこれまでの軌跡をフォローしておいて欲しい。あらかじめ公開されているこの公演に向けてのテキストに「私たちが観客と共有したいもの」は「隠蔽の反対。幻惑の反対。ウェルメイドの反対。完了形の反対。全体の反対」と記されている。あるいはそのテキストでは「プロセス」という言葉も目立つ。これはきっと観客にとって「挑戦的」な上演になるだろう。そして、簡単に観客が感動することを許さない作品だろう。そこに神村が賭けるのならば、それに応じてみるべきだろう。それはきっとダンスではない。だからこそ、未来にダンスと呼ばれるなにかでありえるのだし、本作はきっとそのなにかの発端とのちに語られる試みとなるだろう。

2015/01/14(水)(木村覚)