2017年06月15日号
次回7月3日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

どうぶつえん vol. 6

twitterでつぶやく

会期:2017/05/21~2017/05/21

代々木公園[東京都]

ダンスを「舞台芸術」のひとつのジャンルとみなし、確固とした芸術的価値をそのなかに見たいというのならば話は別なのだが、ダンスは「舞台芸術」として劇場の枠に囲い込んでおかなければならないものではない。例えば、駅のコンコースやビルの空き地に場所を見つけて踊るストリートのダンサーたちは、ダンスの舞台はストリートにもあると思っているわけだ。ストリートを舞台と見立てた途端、ダンスは街中に侵入し、街のアレヤコレヤの物事と対立したり、融合したりして、劇場のスポットライトの前ですましているのとは別の相貌をあらわにすることだろう。しばしばストリートを稽古場にしてきたAokidが休日の代々木公園を上演の舞台にしたことは、そう捉えてみれば、自然なチョイスなのかもしれない。ここでは、カップルが、家族が、友人たちがシートの上で寝そべり、あちこちで沖縄の三線やら、ウクレレやら、サルサや合気道やヨガのレッスンが行なわれている。新緑のめざましい、乾いた風の吹く午後、すべての人がリラックスしている。Aokidと仲間たちは、原宿寄りの入場門から出発し、移動を繰り返しながら、ダンスやインスタレーションやパフォーマンスなどの出し物を披露していった。彼らの上演は一括りにしてしまえば、どれもゆるい。このゆるさは、しかし、目に飛び込んでくる、見せようとしていない出し物以外の人々の営みと、柔らかく重なることを可能にしている。キメキメに踊れば、周囲から際立つだろうが、それはこの場に劇場を拵えあげるだけだ。そう考えると、この試みは、人が自由に活動している公園とアーティストの上演活動とをつなぐチャレンジのように映る。とはいえ、このゆるさは、換言すれば、周囲の人々の営みへと観客の視線が遊んでしまうのを許す。自然の美しさも相まって、上演以外の見所となるコンテンツが、公園には無数にあり、どれを見たら良いのかわからなくなる。このことは、芸術を見ているはずが、気づくと自然の景観に魅了されているという、大地の芸術祭など北川フラム系の地域アートを鑑賞する際にしばしば起こる現象に似ている。では、代々木公園の勝ちかといえば、単純にそうではないはずで、上演を見るという目的もなく、ただ移動しているだけでは、代々木公園を鑑賞するという隙も生まれてこなかったろう。とはいえ、観客のなかで地と図の反転が頻繁に生じている環境であるということは、自覚しておいた方が良い。その意味では、代々木公園という空間そのものを鑑賞の対象として積極的に取り上げる出し物があったら面白かったのでは、と思った(しかし、三時間とされていた上演の最後の30分ほどを筆者は未見)。Aokidのほか、三木仙太郎(アート)、関川航平(アート)、鈴木健太(アクト、メディア) 、清水恵美(行為)、飯岡陸(キュレーター)、福留麻里(ダンス)、猫道(詩人、spoken words)が出演・演出した。

2017/05/21(日)(木村覚)

富田大介(編)『身体感覚の旅 舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』

twitterでつぶやく

発行所:大阪大学出版会

発行日:2017/01/31

ダンスは消えてしまう。絵画や小説、写真ならば、一度創作が完了すれば、作品は永続する。しかし、ダンスはそうはいかない。ダンスの記譜法は考案されてきたものの、十分に活用されてはいないし、そもそも舞踊譜と上演はイコールではない。「消える」という上演芸術の潔さは、ダンスの魅力のひとつではあろう。とはいえ「消える」性格に抗う、記録へ向けた試行錯誤は、ダンスの継承や伝播、批評などに意識を傾けるとき、切実なものとなる。本書が記録するのは、フランスの舞踊家 レジーヌ・ショピノと彼女の友人である研究者 富田大介が進めたプロジェクトのひとまずの成果である(このプロジェクトは今後も継続されるという)。そこでは、ニュージーランド、ニューカレドニア、日本という「島」に生きる人々が集められ、各人のルーツとなる伝統や身体文化が取り上げられ、さらにコンテンポラリー・ダンスの知恵が注ぎ込まれ、最終的に舞台公演へと結実してゆく、その数年の軌跡が閉じ込められている。本書は、単に「公演録」と呼ぶのでは不十分な、アーカイブする意志に満ちている。vimeoにアップロードされた、一本の公演映像と三本のドキュメンタリーフィルム(合計四時間ほど)のアドレスが記載されている、といった試みはその一例だ。これによって本書は紙媒体の限界を超え、映像アーカイブの機能を内蔵させる。もちろん、ショピノの自伝的内容を含んだ公演創作にまつわるエッセイ、研究者による哲学的・美学的な論考や公演レビューも収められている。興味深いのは、本間直樹の論考(「表現することから解き放たれるとき」)に、リサーチワークの記録映像を取り上げつつ、この記録ではリサーチの際に参加者が経験しただろう「時間の感覚」「時間の持続」が消えてしまっている、と筆者の嘆息する様が残されていることである。アーカイブされることの難しいものとは何か、その点を隠さず指し示そうとする姿勢から分かるのは、単なる記録の集積ではなく、(プロジェクトの参加者や観客が得た)経験の(再)上演を本書は企図している、ということだ。何と言っても本書のタイトルは『身体感覚の旅』である。おそらく最も映像に記録することが困難な「身体」の内的「感覚」こそ、本書の核であり、読書体験を通してこの感覚に読者を導くことこそ、本書の狙いなのだろう。その際、映像の限界をテキストが補完するということが本書のあちこちで起きており、アーカイブにおける言葉の力に気づかされる。

2017/04/26(水)(木村覚)

地点『忘れる日本人』

twitterでつぶやく

会期:2017/04/13~2017/04/23

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

舞台空間を紅白の紐が四角く囲い、その中に一隻の船がある。船底から、登場人物がひとりずつあらわれる。彼らは一様に、カニのような横歩きしか許されず、手もイソギンチャクのように常に揺れている。叫ぶように言葉は発せられる(戯曲は松原俊太郎)。どれも日本への苛立ちや生活への不満、将来への不安や現状への憤りを含んでいるようだ(登場人物たちの胸には日の丸のシールが貼られている)。けれども、意味はいつも途中で千切られ、行き先が曖昧になり、クラゲのように空を漂うばかり。まずは、その独特の(身体的また知的な)運動に圧倒される。強いエモーションを伴いながら、どこにも行き着かない彷徨する運動、リズム。途中から、何か言葉を発すると、「わっしょい」と全員で合いの手を入れるようになり、それが延々と続くようになった。意味は曖昧なまま、しっかりと共有されるリズム。その後、全員で船を担ぐことになり、すると息が合わなかったり、サボっているものがあらわれたり、コントのような笑いの場面になる。船は担ぐ人数に比して随分と重い。客席は彼らの虚しい努力を応援したい気持ちになってくる。登場人物のひとり、漁師風の男が客席に「ともだちはいませんか」と声をかける。観客の10人ほどが舞台に上がり、船を担ぐことに協力する。西へ東へ、船は舞台を移動し、奇妙な一体感が醸成された。「ともだち」が客席に返されると、登場人物たちは船を自力でひっぱりあげて、顔を歪めながら移動させる。観客との共同作業の際もそうだったのだが、この移動にさしたる目的は見いだせない。曖昧に、不安定に、移動の状態が継続されているだけだ。北朝鮮の核実験に翻弄させられ、トランプ政権の強気な外交に振り回されながら、日本としてなすべきことは、この状況に無言でついてゆくことだけという、2017年4月に生きる日本人としては、これ以上はないというくらい、今の自分たちの気分が表現されていると思わずにいられない舞台。『三月の5日間』から13年。その当時、渋谷のラブホや路上でうろうろする若者に戦争は遠く、不安は漠としたものだった。今、船は出航してしまった。ぼくらはあのラブホや路上にいた自分たちとさして変わってはいないのに、覚悟も準備もなく、出航してしまった。三浦基の緻密な演出は、日本人の現在を表象して見せてくれた。

2017/04/21(火)(木村覚)

岡登志子『緑のテーブル』

twitterでつぶやく

会期:2017/03/29~2017/03/29

神戸アートビレッジセンター・KAVCシアター[兵庫県]

若きピナ・バウシュが師事したことでも知られるクルト・ヨースの代表作『緑のテーブル』(1932)を題材に、岡登志子(アンサンブル・ゾネ)が「新たな作品構築」を試みた。このプロジェクトにはさらにひとつ、大野一雄舞踏研究所が主催している側面があり、大野慶人が作品監修しているだけではなく、本研究所がここ数年行なってきたアーカイブの活動にも関連した公演だった。〈ヨースの代表作〉×〈岡登志子の作品〉×〈大野慶人監修と出演〉×〈大野一雄舞踏研究所のアーカイブの活動〉と複雑ともいえるが、観客にとって多くの入口がある企画ともいえるだろう。その中心に置かれているのは、かつて、在命時には、ヨース本人が振り付け指導を行ない、死後も、娘のアンナ・マルカートが父の遺志を継いでいた演出を、アンナも亡くなってしまった後、どのように継承できるのかというのがテーマのようだ。再演作品の上演は、何によってアイデンティファイされるのか(まさにその作品であると保証されるのか)。あるいはこの『緑のテーブル』がまさに『緑のテーブル』であるという事実性はどこで保証されるのか。「アーカイブ」という側面からすれば、この点は間違いなく重要であると思われるが、その一方、『緑のテーブル』は今日的にどう解釈されうるのかという課題も、このプロジェクトは同時に抱えていた。ヨースにゆかりのある大学に通った経歴のある岡が振り付けを担当したのは、そうした背景があったようだ。もちろん、「継承」と「創造」はアーカイブというものの両軸であるべきだ。とはいえ、振り付けのどこがヨースからの「継承」でどこが岡の「創造(創作)」なのかがある程度はっきりしていないと、その判別ができない。岡とヨースの振り付けの双方に精通している者ならば、わけなくそこを理解し楽しめるのかもしれないが、それを観客に期待するのは流石にハイコンテクスト過ぎるだろう。アフタートーク(舞踊研究者の古後奈緒子氏と大野一雄舞踏研究所の溝端俊夫氏による)で判明したことなのだが、クルト・ヨース側に上演許可を求めたらNGの返答が来てしまい、急遽、振り付けを大幅に変更したのだそうだ。例えば、緑色のテーブルは白く塗られた。そういう発言は、とても重要だ。そう思うと、こうしたアフタートーク(調査や考察の言葉)と上演を混在させたような発表のスタイルがあってもいい気がする。アフタートーク(この日の一回目の上演のためのこのアフタートークは、直後の二回目の上演にとっては「ビフォアトーク」でもあり、どちらの観客も聞くことができた)では「ネタバレ」という言葉が二人から頻発していた。鑑賞者にネタバレしないようにとの配慮の意識が話者たちに強くあったわけだけれど、そして確かに従来型の「舞台上演の鑑賞」にこだわるならば、その配慮は正しいかもしれない。しかし、アーカイブの前提があっての上演であるのならば、事実性を高めた方が鑑賞の質は高まるように思うのだが、どうだろう。

2017/03/29(水)(木村覚)

岩渕貞太『DISCO』

twitterでつぶやく

会期:2017/03/17~2017/03/19

あうるすぽっと[東京都]

JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)が主催する「踊りに行くぜ!!」II(セカンド)は、今年度のプログラムで一旦終了するそうだ。全国をコンテンポラリー・ダンスの上演が巡回する「踊りに行くぜ!!」は、これまで振付家を鍛え、地域にダンスを紹介する大きな役割を果たしてきた。今年度は、アオキ裕キ、山下残、黒田育世と並んで岩渕貞太の上演があって、これが凄まじいものだった。タイトルから連想される通り、アップテンポのポップソングが爆音で流されるなか、岩渕がひとりで踊った。これまでの岩渕は、緻密な身体へのアプローチによって生み出される運動に定評があり、その分、方法に忠実でストイックな印象も受けていた。今作では、そうした活動の軌跡を一旦脇に置きそこから距離をとって、まるで皮が破けて剥き出しの岩渕が出現したかのようだった。途中、リミックスの施された『ボレロ』を背景に流しながら、ニジンスキー『牧神の午後』のポーズをゆったりとした動作で決めると(ライブで岩渕を撮影した映像が舞台奥の壁にディスプレイされ、複数の岩渕の姿が群舞を形作っていた)、官能的なエネルギーが岩渕の身体に充填されてゆくようだった。音楽に刺激されて、岩渕の身体が痙攣の波立ちを起こす。すると美しく柔軟な岩渕の身体が異形の怪物に見えてくる。舞台というものが、どんなケッタイなものでも観客の目の前に陳列してしまう貪欲で淫らなものでありうることを、久しぶりに確認できた時間だった。ダンスは「表象」という次元を超えて生々しく、怪物を生み出す。岩渕の「怪物性」はとくに「呼吸」にあった。音楽の合間に低く(録音された)呼吸音が流れた。それと舞台上の岩渕が起こす呼吸の音。呼吸は命の糧を得る行為であるだけではなく、声や叫びのそばで生じているもの。だからか、吐く息吸う息は観客を翻弄し、縛り付け、誘導する。その意味で白眉だったのは、顔を客席に向けた岩渕が何か言いたそうに微妙に口を震わすシーン。声が出ず、しかし、声が出ないことで観客は出ない声の形が知りたくなり、ますます岩渕が放っておけなくなる。魔法のような誘惑性が舞台をかき乱した。さて、岩渕のではない呼吸音は、どこから、誰が発したものなのだろう。結論はないが、二つの呼吸音が響くことで、舞台は重層化し、舞台の読み取りに複数性を与えていた。尻餅をつき、脚が上がると不思議な引力がかかってでんぐり返ししてしまうところや、とくに四つん這いの獣になって徘徊するところは、故室伏鴻の踊りを連想させられた。「踊りに行くぜ!!」のプログラムとしては、ほかに路上生活経験者との踊りを東池袋中央公園で見せたアオキ裕キ、力のこもった美意識をみっちりと詰め込んで「鳥」をモチーフにして踊った黒田育世、「伝承」をテーマに師匠から振り付けを伝授される人間の戸惑いをコミカルに描いた山下残の上演があった。どれも、わがままで強引な振付家の意志が舞台に漲っており、舞台芸術としてのダンスの異質性を再確認されられる力強い作品だった。ダンスってヘンタイ的でキミョーなものなのだ。そうだった。

2017/03/18(土)(木村覚)

▲ページの先頭へ

文字の大きさ