2017年12月15日号
次回1月15日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ST Spot 30th Anniversary Dance Selection vol.2 ダンスショーケース

会期:2017/11/09~2017/11/12

STスポット[神奈川県]

横浜のSTスポット(認定NPO法人STスポット横浜)が30周年を迎えた。日本の演劇とコンテンポラリーダンスを支えてきた、小さいが重要な劇場である。かつて、ゲスト・キュレーターのサポートを得ながら、若いダンス作家たちが20分ほどの作品を創作し上演する「ラボ20」という企画があった。日本のコンテンポラリーダンスの作家たちにとって「ラボ20」はダンスの孵卵器だった。様式的統一性がない、各自の手法を思考錯誤しながら踊るコンテンポラリーのダンサーたちは、多くが自作自演であり、踊る以外では表現できないものを抱えてしまったという切実さがあの頃のSTスポットを満たしていた。4組の新作が立て続けに上演された本企画は、あのときの切実さを蘇らせていた。Aokidは額田大志(ヌトミック)と踊った。音声の出るキーボードやドラムを額田が演奏しながら、Aokidが踊る、というのが基本的なセット。だが、まるでAokid本人が描くイラストレーションのように、リズムやメロディは軌道を逸脱し、ダンスはAokidが得意とするブレイクダンスを飛び出してしまう。調子っぱずれの浮遊感は、ときどき目を見はるように美しい瞬間を生み出した。モモンガ・コンプレックスは、3人の女性ダンサーたちが白い全身タイツで顔だけ出して、音楽担当の男性に支配されているようで支配しているような不思議な関係性をベースにして踊る作品。調子が外れているところは、Aokidのパフォーマンスにも似ているのだが、モモンガ・コンプレックスには女性特有の自意識が漂っていて、その痛痒さが独特だ。自分の滑稽さを、隠しきれずに晒しきれずに、曖昧なまま時は進む。身体を観客の前に置くことが本来持っている滑稽さへと通じているようで、そうしたダンスの本質的な部分に触れているような気がしてくる。岡田智代はこのSTスポットで「LDK」「Parade」といった主要作品を上演してきた作家だ。モモンガ・コンプレックスの白神ももこの出で立ちとは対照的な「妖艶さ」が不思議に漂う舞台は、岡田でしか達成できない舞台の緊張感を引き出していた。舞台上のダンサーが何かを「見る」仕草によって、観客の意識が誘導されてゆくという岡田らしいデリケートな戦略も印象的だった。最後に岩渕貞太は、急逝した室伏鴻のダンス的極みへ応答しようとする果敢な試みを舞台で見せた。岩渕は室伏と交流のあった最も若いダンサーの一人だろう。手足の長く、若い身体が、室伏独特の呼吸の仕方で身体を捻り、ポーズを取る。室伏にしかできないと思い込まされてきたダンスが、濃密に舞台を満たしていった。
すべての上演を見た後に、コンテンポラリーダンスは、これ以上メジャーにならなくても良いのではないかということを思った。各自のきわめてヘンテコな切実さが、身体の集中と方法的なアプローチとともに、舞台に結晶化しているのであれば、それで良い。非言語的であるがゆえに社会性が貧弱になりそうになる、とてもいびつな表現たちだけれど、だから良いのではないか。こんな場が必要だと切実に思っている人々に、きちんと届いてさえいるならば(そこはしかし、実際、問題があるだろう。ダンスの分野でどんなことが起こっていて、どんな価値を発信しているのかをもっと社会に伝えて行く必要があるはずだ)。

2017/11/11(土)(木村覚)

contact Gonzo『訓練されていない素人のための振り付けコンセプト』

会期:2017/10/28~2017/10/29

BUoY北千住アートセンター[東京都]

トヨタコレオグラフィーアワード2014で披露された作品を含む、今回の上演作品は3部に分かれており、それぞれ「001/重さと動きについての習作」「002/速度と動きについての習作(改定)」「003/角度と動きについての習作(新作)」と名付けられている。トヨタでも見た「001」は、メンバーのひとりが床に仰向けになると、もうひとりはその上に乗る。さらにその状態で、乗っている方がリュックに入れていた本を寝そべるメンバーの腹の上に積み上げたり、自転車の車輪を回したり、照明のスイッチも握っていて、暗転したりする。暗転すると、舞台奥にある小屋から3人目のメンバーが出てきて横笛を吹く。明転した瞬間に小屋に戻り戸をぴしゃりと閉める。もちろん、ポイントは仰向けで踏み潰されているメンバーの苦しみで、悶絶の声はマイクで拾われ、ハアハア言う声が増幅されている。彼にはさらにもうひとつのタスクが課せられている。ネジを少し離れたスネアドラムに向けて投げ、ドラムを鳴らすこと。胸と下腹部のあたりに乗った足の位置がずれるたびに、観客までも悲鳴を上げてしまう。終始、仰向けのメンバーが被っている過酷な試練に目が離せない。彼が喘ぐたび、爆笑が会場を取り巻く。一つひとつはほとんど関連のない、多数の要素が舞台に撒き散らされる。そこがコンタクト・ゴンゾの一種の美学なわけだけれど、観客は暴力的な試練に爆笑し、ぴしゃりと閉められる戸にクスクス笑う。これは何かに似ている。それがより鮮明になったのは「002」のなかでだった。「002」では、20メートルの直線をゆっくりと20分かけてメンバーたちが進んで行く。その彼らに、20メートル先から手動の狙撃機が狙いを定めており、1分毎にみかんの砲弾が飛ぶ。狙撃機は予想を凌駕するスピードと威力でメンバーをかすめ、後ろの壁に激突した。狙撃機とメンバーとは徐々に距離を詰め、最後は距離ゼロの状態でメンバーの腹に直撃して終わる。この残酷な肉体の祝宴には見覚えがある。1980年代のテレビのなかで、たけし軍団がビートたけしから被ってきた、あの試練だ。『風雲!たけし城』も思い出す。あの肉体の残酷ショーは、いまやテレビでは封印されており、見ることはない。禁断の果実を齧るように、観客は「ヤバイもの」を見る快楽で、炸裂するみかんの汁を浴びながら、爆笑を繰り返す。現在の舞台芸術の使命のひとつは、テレビにはない、こうした空気を読まずに平然と行なわれるおかしなことを観客に体験させるところにあるのだろう。「003」は、横笛担当のメンバーの体に角材を押し付けると、ひとりの観客を舞台空間に招き、角材の反対端を観客の体に沿わせ、じっとしてもらうところから始まった。次々と観客は手招きされ、二人一組で角材の両端を挟む。そうした枝があちこちで広がり、角材とひとが交互に挟まったオブジェが組みあがり、増殖してゆく。ほぼ全員がオブジェのパーツになったあたりでカウントダウンが始まった。「ゼロ」を合図に、体を緩め、全員の角材が床に落ち、激しい音を立てた。さっきまで爆笑していた観客=傍観者が、ほぼ全員客体化させられたわけだ。この「003」にはあからさまな暴力は表われない。だが「司令」そのものが、一種の暴力であることを、観客は体験した。

2017/10/28(土)(木村覚)

中島那奈子「イヴォンヌ・レイナー『Trio A』『Chair/Pillow』ショーイング」

会期:2017/10/12~2017/10/14

京都芸術劇場大春秋座(京都造形大学内)[京都府]

ダンス研究者の中島那奈子が代表者を務める研究プロジェクトのイベント「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」(10/11-15)のなかのショーイングのプログラムを見た。レイナーを軸としてポストモダンダンスを回顧するとともに、そこに「老い」というテーマを盛り込んだ意欲的な研究企画であり、とくにこれまでの類似のイベントと異なるのは、レイナーと活動を共にしているEmmanuéle Phuon氏を招聘して、レイナー直伝の振り付けが日本在住のダンサーたちに施されたことだ。『Trio A』は、6人のダンサーが舞台に登場した。5分強の振り付けは、最初はデュオで、次には一人は踊りもう一人はその踊り手の目を見つめる形で、その次は最初に二人が踊ると、残りのメンバーがそこに加わるという構成で、踊られた。5日間という短期間の猛特訓の末、実施されたパフォーマンスは、『Trio A』がきわめて緻密に構成された振り付け作品であることを強烈に印象づけた。ポスト・モダンダンスというと「ノン・ダンス」や「日常性の導入」といった先入観があるけれども、目前で展開された『Trio A』はいかにダンサーの肉体と精神を酷使する「ダンス」であるかを知らしめた。ダンサーの一人、神村恵に聞いたことをベースに筆者なりに説明すると、ひとつのフレーズごとに様式の違う動きを連ねながら(例えば、「モダンダンス」→「バレエ」→「日常の動作(足踏み)」を3秒ごとに切り替えながら)、同時にそれぞれの様式のもつ審美性をしっかりキャンセルしていく。それによって「モノトーン」の「流れ」を生み出す。そうすると「非ダンスのダンス」が立ち上がる、というわけだ。短期間の特訓では、100%それが実現できてはいなかったかもしれないけれども、どんなダンスを実現せんとしているのかは、見ていて掴むことができた。上演された『Chair/Pillow』は、タイトル通り、椅子と枕を使って8人ほどのダンサーがユニゾンで踊る作品。アップテンポの曲をバックに踊るので、ミュージカルのダンスとしてみれば見えなくもない。これも基本的には、いかにグルーヴ(つい踊ってしまう身体)をキャンセルするかが、振り付け指導の要点だったようだけれど、これが随分と難しかったようで、どこまでレイナー固有のダンスが実現されていたのかは、不確かなところがある。駅前留学的な「短期速習」で生まれた「ポスト・モダンダンス」は、それでも、十分に興味深いものだった。50年前のアメリカ合衆国の前衛作家たちの試みから、私たちが何を継承し、何を置いてゆくか、それは50年前のアメリカの状況といまの日本の状況とがどう異なるかを参加したダンサーたちが自分の身体を通して問い、また彼らがその相違や違和感から何を発見するかにかかっていることだろう。「非ダンスのダンス」というひねくれが今日、どんな活用可能性を秘めたものであるのか。このプロジェクトのインパクトが、じわじわと今後の日本のダンス・クリエイションに影響を与えていくことを期待する。

2017/10/14(土)(木村覚)

柴幸男『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』

会期:2017/10/07~2017/10/15

東京芸術劇場シアターウェスト[東京都]

ジャンル:パフォーマンス
池袋の東京芸術劇場は、シアターが複数ある。そして、地下一階のシアターイーストとシアターウェストは同じ規模で隣り合っている。本作はこの二つのシアターを同時に使用し、一つの戯曲を上演する。「一つの戯曲」と書いたが、テーマは重なるものの、二つのシアターでは異なるキャストが異なるセリフで上演が行われているらしい(観劇後、F/Tのサイトにて公開されている戯曲を見ると、シアターイースト側とシアターウェスト側に分かれて会話を交わすところ以外は、同一の戯曲だったようだ。そのことは観客は知らない)。それを観客はどちらかのシアターを選んで鑑賞する。両会場をつなぐ扉は頻繁に開き、顔は見えないけれども、反対側から役者が呼びかけあったりするので、向こうで起こっていることをいつも少しだけ意識するような演出が施されている。テーマは「距離」。ぼくが見たシアターウェストでは西子(端田新菜)が誕生の産声をあげるところから物語は始まった。語られるのは、隣人の死の場面。自分の誕生とともに母が死に、小学生のときにウサギが死ぬ。友人は遠方に引っ越してしまい、そこで起こった地震によって瓦礫の下敷きになる。自分は安全に生きている。その周りで大切な人たちが命を奪われてゆく。隣人の死といえども他人の死だ。一定の距離が残って消えない。ここに距離というテーマの発生源がある。西子が隣人と踊る場面では、二人を挟んでひも式のメジャーが伸びていた。「距離」をめぐり、第一部では誕生から思春期までの出会いと別れが描かれ、第二部では母となって息子と旅をし、第三部では目の見えない車椅子の老女となってもう一人の若い頃の自分と対話する。トータルで75分だから、三部のうちどの逸話もとてもコンパクトに整理されていて、走馬灯のごとくスピーディーに展開する。ある場面で、英語字幕に「in the distance, there is no sorrow」と出てきた。もとのセリフはこうではないけれど、要するに「距離があるので、悲しみが存在しない」という意味だ。「悲しくない(からよかった)」とも読めるが、「悲しむことができない(からつらい)」とも読める。人生の機微がコンパクトに描かれるから、エモーショナルな気持ちになりかける。けれども「距離」がそこへ没入するのを妨げる。なんとも不思議な舞台だった。
公式サイト:https://www.ft-wkat.com/
フェスティバル/トーキョー(F/T)17 公式サイト:http://www.festival-tokyo.jp/

2017/10/12(木)(木村覚)

大駱駝艦・天賦典式 創立45周年『超人』

会期:2017/10/05~2017/10/08

世田谷パブリックシアター[東京都]

本作は一週間前に上演された『擬人』の続編である。『擬人』は殺気立った音響の中で、ときに「コ・ロ・ス(殺す)!」と叫ぶアンドロイドのごとき「擬人」たちのテンションが印象的だった。『超人』も『擬人』を引き継ぎアンドロイドのごとき一段の群舞から始まる。ショーケースに閉じ込められた人形。そのなかに麿赤兒がいる。もうここには人間らしき存在はいない。アンドロイドだけの世界。そこで、アンドロイドは相撲を取る。その様は意外にも滑稽で、前編のシリアスさに比べるとほのぼのとしている。アンドロイドもまた人生を無為に遊ぶものなのか。ラストシーンは麿がアンドロイドたちが引く乗り物の上に立ち、ポーズを決めて舞台を周回する。「超人」をめぐる白熱のストーリーを期待していたのだが、麿の存在感自体がここでのスペクタクルとなった。物語はあるようで存在せず、その分、キャッチーな活人画が提示される。ダンスというのは不思議な表現で、話が転がってゆき、登場人物がそれによって心の変化を経験するといったこととは無縁でよいのだ。そうした話の次元とは別の次元で、肉体は脈動し、死とともにある生を生きており、ダンスはその肉体のドラマこそ舞台に提示するものなのだ。最終的に「麿赤兒ショー」と化すことに違和感がないのは、その肉体のもつ圧倒的な存在感を見せつけられるからであり、私たち観客はまさにこれを見に来たのだと納得させられてしまうからだ。『超人』には、ここ最近の大駱駝艦らしい「父殺し」のモチーフは影を潜め、それとは正反対の超人=麿の力が輝く舞台になっていた。
公式サイト:http://www.dairakudakan.com/rakudakan/2017/anniversary_45th.html

2017/10/05(木)(木村覚)

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