2017年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

Aokid『I ALL YOU WORLD PLAY』

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会期:2017/08/31~2017/09/03

STスポット[神奈川県]

Aokidは空間のダンス作家だ。それは端的に作品タイトルにあらわれている。2014年に初めて見た公演のタイトル『Aokid city』には驚いた。ダンスの作家で「街」をテーマに作品を作る作家が現れた、と。今作のタイトルは『I ALL YOU WORLD PLAY』。これ、英文法では理解できない。でも、空間の表現と解するならば、五つの単語を並置して本作の空間性が示されていると読み取ることができる。では街に、世界に、必要なものとは何か? インフラ? 法律? 警察力? Aokidが「これだよ!」と全身で示しているのは、内発的なエネルギーだ。それは一言で言うと「青春」というやつだ。「青春」(笑)ではない。そんなメタな高みの見物から異なる運動へと促すある意味でさらにメタな、いやしっかりとベタな「青春」なのだ。ぼくはChim↑Pomの幾つかの作品に、また遠藤一郎の表現のうちに、古くはブルーハーツの中に、Aokidの「青春」に似た「愚直さ」を見ている。筆者も登壇したアフタートーク(9/1の回)でAokidは「青春」は「革命」と同義だ、なぜならば「青春」とは今ある状況を変えたいと思う気持ちだからだ、と口にした。それが、本作では「コンテンポラリーダンスを真摯に更新する」という強い意思として結実した。Aokidが得意としているヒップホップダンスを積極的に導入しながら、常識的なヒップホップダンスでは決してあらわれないボキャブラリーが頻出した。踊っているひとを見て元気になる、勇気を受け取るといった、原初的な感動がそこにはあった。そしてそれは、これまでのコンテンポラリーダンスが見過ごしてきたポイントに相違ない。Aokidが開けたこの鍵は、コンテンポラリーダンスの次の展開の扉を開くものなのではないか、そんな期待を心に抱かずにはいられない。

関連レビュー

Aokid『"Blue city"-aokid city vol.3』|木村覚:artscapeレビュー
Aokid city vol.4: cosmic scale|木村覚:artscapeレビュー
Aokid《KREUZBERG》(第12回グラフィック「1_WALL」展)|木村覚:artscapeレビュー

2017/9/1(金)(木村覚)

シンポジウム「ダンス動画、SNSでどうバズってるの?」

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会期:2017/09/18~2017/09/18

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

筆者が司会進行を務めたイベントなので、手前味噌ではあるのだが、今後の舞台芸術を考える上で重要な議論があったことは事実であり、ここに筆者の見解を述べておきたい。ゲストは二人、ダンス動画を含む動画制作を請け負うCrevo株式会社の工藤駿氏、ストリートダンスを用いたCMやPVの制作や大学のダンスサークルのイベントなどを手がけている株式会社Vintom代表取締役の愛甲準氏。芸術とは異なる分野、とくにマーケティングや広告という分野で活躍している二人を招いた本イベントは、KAATが主催ということを鑑みれば「異例」とも言える場となった。二人に共通している見解はこうだ。ダンス動画には「参加(真似る)型」と「見て楽しむ型」があり、後者よりも前者の方が注目され(バズられ)やすく、流通しやすいということ。なるほど「ダンス動画」の世界を思い返せば当然の傾向とも言えるのだが、しかし、ダンスをこの二つに分ける思考は、舞台芸術の分野からすれば、とても新鮮に映る。舞台芸術が推し進めているのは、ほとんどが「見て楽しむ」ダンスである。作家性が高く、エリートダンサーでなければ踊れない「見て楽しむ」型のダンスは、技巧や芸術性は高いかもしれないが、ダンスを「参加(真似る)」対象と捉え愛好する多くの人々にとっては、魅力に乏しいというわけだ。舞台芸術の世界は、こうした人々を無視し、芸術性こそ正義とでも言いそうなスタンスを崩さずに来た。結果として、ダンスの分野は、創作者も観客も増えず、痩せ細るばかりとなっている。しかし、これと同じような悩みは、ストリート系のダンスの世界も抱えているのだと愛甲氏は述べる。確かに踊りたい人口は増え、ストリートダンスへ向けた世間の注目は増している、とはいえ、その動向を牽引するはずのプロ的なダンサーへの注目やリスペクトは十分に高まっていないというのだ。「プロ的」と書いたが、実際はダンスを職業とするのは難しく、ほとんどはダンス講師など副業を持ち、専業とは言い難い。いかにすれば「参加型」のダンス愛好者が「見て楽しむ型」にも興味を持ってくれるのか、その結果としてダンサーという職業が社会に定着するのか。愛甲氏は、どんなやり方でも構わないので、まずダンサーが絶対的な人気を獲得すること、その人気を通して、高度なダンスについての関心を高めていく、といった戦略を話してくれた。工藤氏からは、すでに「人気の何か」との類比や、言葉を用いたわかりやすい解説など、ダンスの見方を与える努力がもっと必要なのではないかとの意見が出た。どちらもとても基本的だが、怠りがちな視点である。いずれにしても、観客の創造という視点からダンスを創作したり制作したりするという努力が求められる、ということなのだろう。耳の痛い話だし、人気のためにダンスの質を変えたくないなど、創作や制作の側から反発も起きるだろう。とはいえ、助成金や税金を当てにしない彼らのシビアな視点から、舞台芸術の盲点を検証してもらうこのような企画は、継続的に行なわれるべきである。「参加(真似る)型」のダンス愛好者を巻き込む方法を発明したとき、「みそっかす」状態の(コンテンポラリー)ダンスは社会の一部になれるのかもしれないのだから。

2017/9/18(月)(木村覚)

田中みゆき「音で観るダンスのワークインプログレス」上演&トーク

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会期:2017/09/16~2017/09/16

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

キュレーターの田中みゆきは今年2月にもKAATで、康本雅子とともに、見えない人たちがコンタクトインプロヴィゼーション(体を接触させた状態で二人ひと組になって行なう即興のダンス)を踊る公演「視覚障害×ダンス×テクノロジー”dialogue without vision”」を行なって注目を集めたばかりだ。今回、田中は見えない人と見える人とがともにダンスを鑑賞するために「音声ガイド」付きの上演を試みるというプロジェクトを企画した。イベント当日は、三回のワークショップと数回の研究会での顛末を紹介するトークがあり、その後、観客全員が音声ガイドを耳に当てながら、捩子ぴじんのダンスを鑑賞した。上演は二回。一回目は照明の下で、二回目は完全暗転の中。音声ガイドは三種類。ひとつは捩子ぴじんが台本を書きARICAの安藤朋子が朗読したもの。ひとつは研究会メンバーによる「観客の視点(を起点にしたダンサーの動きについてのできるだけ客観的な説明)」をベースにしたもの。もうひとつは能楽師の安田登が独自の解釈と抑揚で作成したもの。田中によれば、音声ガイドの決定版が作りたいというよりも、音声ガイドを作ることで「ダンス」を考えるための隠れている視点を発見することに主眼があるとのこと。一回目の上演では、見える人である筆者は音声ガイドが余計なもの(冗語的)に思えた。それが二回目では、視覚の要素がない分、音声ガイドが心地よく、楽しく聞こえてきた。視覚の要素がなくても、床の軋みや衣擦れの音は聞こる。その音とガイドの音とが重なる。上演後、観客から、見えないと架空の捩子ぴじんを踊らせることができて面白かったという趣旨の感想があがった。なるほど、ダンサーの姿は見えなくてもダンスは成立するのだ。もう一つ興味深かったのは、三つの音声チャンネルをちょこちょこ変えて、ザッピングしながら鑑賞した人が多かったことだ。ぼくたちは与えられたメディアを自主的に、自分が一番楽しい形で使うことに慣れている。舞台上演の鑑賞形式というものは、ほとんどオプションがない。音声ガイド機器が与えられることで、あえてそれを使わないことも含め、鑑賞の自由が広がるわけだ。そもそも、音声ガイドをダンス上演に導入するということは、ダンスと言葉との関係を研究することとなる。「ダンスは映像に残らない」と同じくらい「ダンスは言葉にできない」とはよく言われることだ。しかし、言葉でダンスにどこまで迫れるのか、どんな言葉ならば、ダンスを忠実に言葉にできたと言えるのか。ぼくたちは「できない」という言葉に甘えずに、そうした探究を日々続けるべきだろう。見えない人とダンスを観るという奇想天外な提案は、ダンス創作の盲点を告げ知らせてくれるものだった。

関連レビュー

康本雅子『視覚障害XダンスXテクノロジー“dialogue without vision”』|木村覚:artscapeレビュー

2017/9/16(土)(木村覚)

Q『妖精の問題』

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会期:2017/09/08~2017/09/12

こまばアゴラ劇場[東京都]

舞台には、大人用紙おむつをつないで作った巨大な白い布が壁にかかり床まで広がっている。登場した竹中香子もオムツ姿。本作の見所は、この竹中のほぼ一人芝居で舞台が回っていくところだ。当日パンフにも第一部は「ブス」、第二部は「ゴキブリ」、第三部は「マングルト」とあったように、本作は三部構成。それぞれ上演様式が異なり、第一部は落語、第二部はミュージカル、第三部は健康食品の実演販売の様式があてがわれていた。第一部は、ブスな女二人がブスは生きていても意味がないと会話し続ける落語。「ブスは生きていちゃいけない」「ブスは子孫を残しちゃいけない」みたいな発言が飛び交う。それが、ぼくたちの内心にはびこるコンプレックスを刺激して、ぼくたちをギュッとさせる。先日の『地底妖精』もそうだったが、劇作家 市原佐都子は「見えないもの」を観客に見せようとする。サイトにはこんな言葉もある。「私は見えないものです。見えないことにされてしまうということは、見えないことと同じなのです。」つまり「見えないもの」とは、社会の価値基準によって「見えないことにされてしま」っているもののことだ。演劇もまた自分たちの(支配的立場の)価値基準で多くのものを「見えないことに」し、「見えないもの」にしてきた。「ブス」とは、だから社会また演劇における排除の問題でもある。続く第二部は、ラーメン屋の隣に住むカップルがゴキブリに怯え、ホウ酸団子やバルサンで撃退するさまをミュージカル風の演出で見せてゆく。今ここで観客は、排除する側の視点から世界を見つめることになる。第三部は、女性器で培養した菌でヨーグルトならぬ「マングルト」を作り、食べる健康法を、実演販売の様式で見せてゆく。地産地消に似た「自産自消」と語る「マングルト」は、他者に依存したり、他者と愛し合ったりせずとも、一人で暮らしていける「自立」の象徴だ。それでも、死んだら死体が残る。最後は、「マングルト」の創始者を名のる白髪の女の独り言で終わる。死体はきっと自然に還る。死体になることで、私たちは自然の運動に連なってゆける、そんな呟きだ。観劇後、この劇に物語がないことに気がついた。物語には(ひととひととの)関係があり、関係の展開があるものだ。ここには、それが見えない。この欠落こそが問題である。この問題をあぶり出すQの強い批評性が際立った舞台だった。

関連レビュー

こq『地底妖精』|木村覚:artscapeレビュー

2017/9/12(火)(木村覚)

鎌鼬美術館 常設展示

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鎌鼬美術館[秋田県]

都心から8時間、秋田の中でも辺境に位置する田園地域の田代に、鎌鼬美術館が2016年の秋に開館した。写真集『鎌鼬』は、写真家の細江英公が舞踏家の土方巽と連れ立って、1965年9月の2日間、田代に滞在して生まれた。美術館の名は、この写真集に由来している。古民家を改装した美術館では、各国で販売された写真集や細江と土方の活動を紹介する資料が展示されている。美術館の周囲で、写真集に残された数々のハプニングが実際に行なわれた。展示以上に、この美術館の醍醐味は、館外に広がる田園への聖地巡礼にあるのだった。とても親切な館員に、幸いにも、車で聖地を案内してもらった。土方の躍動する身体が、村民を驚かせ、そそのかし、笑わせ、パフォーマーに仕立てた。その奇跡のような出来事の残り香を、車に乗りながら、嗅いでみる。田園地域の貧しい農民の暮らしをベースに、土方は暗黒舞踏と呼ぶ新しいダンスを生み出した。しかし、当の土方は秋田市に生まれ育った、比較的都会っ子だった。若くして当地のモダンダンス系の教室に足を運んでいたところを見ても、土方は知的でモダンな人間だった。いわば100年前のパリの画家たちが、アフリカ文化に新しい芸術の霊感源を求めたように、土方は田代のような村落の暮らしに新しいダンスの根拠を求めたわけだ。田代の今日的活用ということを、土方もまたこの美術館の運営者も考えている。そういう意味では、両者は同じ地平に立っているのかもしれない。しかし、その目的は異なる。土方は芸術のために、美術館は田代の活性化のために、田代の資源に可能性を見た。両者は互いの価値に寄生しているわけだが、芸術の活性化と地域の活性化が相乗効果を生み出せるか、どちらかだけではともに形骸化してしまう。そもそも舞踏の形成になぜ田代が、秋田の田舎の暮らしが必要だったのか、その本質に迫って初めて、活路が見えてくるのだろう。

2017/8/13(日)(木村覚)

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木村覚

1971年生まれ。日本女子大学専任講師。美学、パフォーマンス批評。

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