2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション─NELKEN』

会期:2017/03/16~2017/03/19

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉県]

わずかな違和感がずっと消えなかった。かつて本作は1989年に日本で上演された(初演は1982年)ことがある。筆者は今回が本作初見、でも、90年代以降のバウシュの上演はほとんど見てきた。違和感の正体は、そこにバウシュ(2009年逝去)がいないという感覚である。だからと言って、あそこがなっていないとか、はっきりと不十分と思われる箇所があるというのではない。けれども、どこかヴァーチャルな上演とでも言いたくなるような感触が、見ている間ずっと消えなかった。もちろん、作家の死後に上演(演奏)される作品などいくらでもある。慣れの問題かもしれないが、バウシュの舞台を見るとき、筆者はバウシュの目を常に意識していた、ということなのだろう。あとひとつ思うのは、バウシュの戦略が今日どう映るかということだ。バウシュの「タンツテアター」は意味の宙づりにその戦略がある。バウシュの舞台はほとんどどの作品も、小さなシーンが複層的に重なり進んでゆく。例えば、本作には、男二人が代わりばんこに頬を殴り、殴った頬にキスをするといったシーンがあった。これは暴力なのか愛なのか。単純に二者択一ではない「宙づり」が舞台を知的に躍動的にする。この「宙づり」をかつての筆者だったら「戯れ」の肯定として受け取っていたことだろう。とはいえ、いまそれは「大人の子供化」に映ってしまう。大人の子供化が凄まじく世界を席巻しているのが、いまだ。その時代の中では、かつての「知的な遊び」は「非知的な後退」あるいは「本質的な問いの回避」に見えてしまう。そう見るのを避けたければ、バウシュの試みを歴史的な遺産として受容するのが賢明な態度といえるのかもしれない。バウシュはいまや懐メロなのである。そして、バウシュが(ある種の)コンテンポラリー・ダンスの創始者であったとすれば、明らかに、コンテンポラリー・ダンスは過去のもの、歴史的なものとなったのだ。

2017/03/17(金)(木村覚)

砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター・クリエイトセンター[大阪府]

6年前のこの日、この時(開演は14:30。地震発生は14:46)、東日本大震災があった。舞台はゆるやかな女たちの会話で始まる。公民館で駄弁っているかのように、静かにあの日のことを振り返る。そして、客席に向けて黙とうが促される。女たちと観客は一斉に目を瞑る。温かさと悲しさが一挙に去来する。目を開けると女たちの何人かは涙を流していた。砂連尾理が被災地を訪ね、そこで感じたことをダンスに変換したのがこの作品。北九州、仙台と公演は続き、今回は砂連尾の暮らす大阪茨木市での上演となった。テーマにまっすぐ向き合ったダンスは、仙台では客席に緊張を生み出すところもあった。茨木では緊張はまた別のニュアンスを帯びていたというべきかもしれない。頻繁に出てくるモチーフは「別れのダンス」と呼ばれ、二人が手をつなぎ、そのつないだ手だけでバランスをとり背中を重力に任せる。重さに手が離れ、二人は背中を床に倒れる。シンプルな動きだが、それが「東日本大震災」のコンテクストに絡むと、猛烈な絶望感や悲しみが喚起される。とはいえ、砂連尾と垣尾優の男二人がまじめにやればやるほど、滑稽にも見えてくる。実際いくつかの場面では、正直な笑いが会場を包むこともあり、この作品が「被災地」へのステレオタイプなイメージをただなぞるといった類の舞台でないことは、客席がちゃんと受け止めているようだった。とはいえ、被災地から遠いゆえの難しさもあったかもしれない。何度かのワークショップを経て、地元の高校の演劇部がこの舞台には参加していた。取材で知ったことだが、本作を受け止め難く感じた学生の親族もいたようだった。本作の重要なテーマに「継承」がある。直接出来事を経験しなかった者が、その出来事をどう継承し得るか。ほかならぬ砂連尾は非被災者だ。その彼が、出来事のなかの何かを「継承」しようとして、そして高校生たちがそれを「継承」する。この尊くも難しい試みに本作の賭けはある。もうひとつ茨木公演独自の要素にnookの参加があった。nookは仙台に移住して創作活動を行なう団体であり、彼らも砂連尾と同様、非被災者という立場から震災という問題の継承に挑んでいる。本公演の記録を行なう酒井耕はあえて舞台上に入り込んで撮影を実施し、瀬尾夏美は舞台に小説『二重のまち』を持ち込んだ。小説は2031年から震災を見つめる。その言葉を高校生たちが大きな声で読んでいく。高校生はもはや生き物として美しい。この美しさと絶望と悲しみとユーモアとが混ざり溶け合うというよりは同居している。伴戸千雅子と磯島未来が、それらをつないでゆくように踊った。踊りというものは、つながらないものをゆるやかにつないでゆく。ものすごい力技だが、踊りにはそれができる。その力を久しぶりに見たという気がした。

2017/03/11(土)(木村覚)

西尾佳織ソロ企画『2020』

会期:2017/03/09~2017/03/12

「劇」小劇場[東京都]

初演では、作・演出・主演を西尾佳織がすべて行なったという本作、今回は3公演を3人の役者がひとりずつ演じた。幼少期の自分を西尾が振り返っているという戯曲の形式からすると、西尾ではない役者の身体が西尾の内面を語るかのような設えになっていた。いくつかのエピソードは「生きづらさ」に関連していた。例えば、小学生の頃、パン工場見学でもらった食べ物をバスの中で投げ合っている男子に乗せられて、ついお手玉をしたという逸話。その「罪」に後で苦しめられた、と振り返る。あるいは、マレーシアで過ごした子供時代によごれや雑さに耐性がついた分、本来の自分の清潔への意識に気付けなくなっていたなんて話。主体性が揺さぶられるような不安定さを丁寧に個人史のなかから掘り返す、そんな言葉で場が満たされた。ところで、ぼくが惹きつけられたのは、当日パンフのテキストだった。「稽古をしながら、人はそれぞれなんと違っているんだろう!」と3人の役者に演出する際の気づきを西尾は紹介してくれていた。そこで「どうにも動かしがたい「その人のその人性」を見」た、と。西尾が「西尾」性を発揮した戯曲にチャレンジすることで、役者がその人性を発出する、ということが面白い。このことを観客の側でちゃんと実感するには、役者3人のバージョンすべてを見なければならないだろうけど、ぼくはこの体験こそしてみたいと思った。もちろん、時間があればできることだが、ぼくにはその時間がなかった。もし、このことに焦点が絞られたら、三者が順々にひとつのセリフを演じていくような、そんな舞台もあり得たことだろう。あるいは、こういう発見がある稽古場というのは、じつにすぐれた劇場だと思わされる。いわゆる劇場は稽古場でのような発見をどちらかというと、二の次にするものだ。とすれば、稽古場から排除されている観客というのは、豊かな発見の上澄みを舐める役を与えられた人間ということになるのかもしれない。

2017/03/10(金)(木村覚)

鈴木ユキオ『イン・ビジブル in・v sible』

会期:2017/03/09~2017/03/10

世田谷美術館エントランス・ホール[東京都]

「影」をめぐる上演だった。世田谷美術館のエントランス・ホール。大理石でできた天井高の世界。巨大な果物や植物をかたどったような黒いオブジェ(いしわためぐみ)が置かれたステージ空間に、黒い服を着た鈴木ユキオが登場すると、オブジェを一つひとつ確認するように置き直した。次には、映像(みかなぎともこ)が映写され、ゴルフのピンみたいなものを吊ったモビールが壁を彩るなか、鈴木は踊った。黒いオブジェも、映像も、影だ。そのなかで鈴木の身体は紛れもなく重さを持つ実体なのだ、と思いたいのだが、彼もまた、動いているようで動かされているような、曖昧な存在に見える。鈴木のダンスは完成度が高まっているように見えた。形を作るベクトルと形を壊すベクトルが拮抗し合いつつズレる。そのズレがおのずと運動になっているような、その出来事以外の何も挟まないというような、動きの純度が非常に高い。切断はない。ただ、つねに運動に小さな切り込みが施され、連続が分断される(身体運動におけるキュビスム?)。そうはいっても、派手な切断があってもいいものだ。と思いだした途端、びっくりするようなことが起きた。ぬすーっと、鈴木の背後の暗がりから、黒いオブジェに似て黒いタイツに身をまとった「ひと」(赤木はるか)が現れたのだ。まさに「影」そのものとなった人間。鈴木がそれでもなお人間の「表」らしさを失わずに踊っていたのに対して、黒タイツは人間の「裏」が表出した不気味な「不在」に見えた。そのあたりでだったろうか、さりげなく、ホールの端にある彫刻たちに照明が当てられた。そうだ、これら美術館の展示物もまた「影」であり「不在」の在だ。そうやって、ぐるぐると不安定な「影」の運動に観客は翻弄された。

2017/03/09(木)(木村覚)

児玉北斗『Trace(s)』

会期:2017/03/02~2017/03/05

トーキョーワンダーサイト本郷[東京都]

現在、ヨーロッパで起きていることと日本で起きていることは、かなり違いがあるようだ。かつて(20年以上前)は、ヨーロッパで起きていることは大抵の日本人にとって摂取すべき価値あるものに映っていたが、いまはそう無条件に思うことは難しくなった。フォーサイスやバウシュのような巨大な存在が新たに台頭することはなくなり、小粒の作家が多数出現している状況は、よく言えば多様なのだが、それぞれは「追従すべき存在」というよりはあれもあればこれもあるのひとつでしかない。強い求心力を形成するカリスマが不在だからといって、自分流に固執するだけでは振付家は自家中毒になりかねない。指針が見出しにくいというのがいまの日本のダンスの現状だ。さて、スウェーデン在住の児玉北斗のソロ新作を見た。輝かしい経歴、バレエの分野で研鑽を積みつつ、コンテンポラリー・ダンスの作家たちとの交流も重ねてきたダンサーだ。きっと自分のダンススキルを存分に発揮する上演になるのだろうと想像していたら、そうではなかった。「レクチャー・パフォーマンス」の体裁がベースとなっており、蒸気機関の先駆者のひとりワットや、世界の水事情、あるいは火星に水が存在していたかもしれないといった話題が取り上げられた。レクチャーはすなわち「水」というテーマをめぐっており、パワーポイントなどのプレゼン装置を用いてテーマは多角的に掘り下げられた。日本ではレクチャー・パフォーマンスの形態はまだ十分に活用されているとは言えず、その意味で、児玉が創作の現場としているヨーロッパの環境を想像させるところがあった。じつに精緻に、ニーチェやデリダなどの思想家の考察も交えて「水」への考察は深められてゆく。児玉はプレゼンテーションの装置を操作しながら、踊る。と言っても、踊りの部分はほとんど禁欲的に制限されていて、身体はときにオブジェ的に、ときに被検体として扱われた。得意技を封印してもコンセプチュアルな舞台を作り上げたいという意気込みを感じる。欲を言えば、「水」と児玉の「身体」とがもっと密接に絡まり合うところがあれば、「レクチャー」と「パフォーマンス」の響きあいがもっと生まれただろうと思わされた。アイテムにペットボトルが頻繁に用いられていたが、人間の身体はまさにペットボトルみたいなものだ。「空っぽの器としての身体が踊る」なんてイメージがシンプルに明確に打ち出されたら、ダンス公演として際立ったものになったかもしれないと想像した。

2017/03/02(木)(木村覚)

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