2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

乳歯(神村恵、津田道子)『知らせ♯2』

会期:2017/02/10~2017/02/13

STスポット[神奈川県]

昨年3月に神村恵、津田道子の2人で行われた『知らせ』の第二弾(今作からユニット名が「乳歯」とついた)。今回は山形育弘をまじえて3人での上演となった。7つのインストラクションから構成される。最初のインストラクション「言霊」は、まだ山形が登場していない時点で「一人目の山形さんが来る」と100回くらいか、2人で声を合わせ唱え続ける。これが典型的なように、今作のテーマは「見えないもの」との関わりである。山形が現われると、今度は神村が隠れる。山形が床上にあるプロップ(小道具)を即興で取り扱う(筆者が見た回では、山形は新聞紙をゆらゆらとなびかせた)。その後、神村が出てくると、床を這うような姿勢で、どうも床のあたりの空気を感じているようだ。津田がすかさず「何をしているんですか」と聞く。神村は「空気の揺れを確認しています」と答える。つまり、これは神村の不在中に山形がしていたことを当てるゲーム。新聞紙に手をやると、神村は新聞紙の隙間にテニスボールを差し込んだ。なるほど、神村の答えは正解にかなり近かったわけだが、狙いはもろちん、単にゲームに勝つことではない。舞台上で「見えないもの」にパフォーマーが関わること、それ自体を見せることが目論まれている。彼らはこの舞台を「修行」と呼んだが、ゴールのない場の形容としてとても興味深い。床を這う姿勢に「ダンスに見えますね」と、津田はコメントをマイク越しに挟む。津田だけではなく、神村も山形もインストラクションの合間にあるいは最中に対話をし続けている。この言葉たちは、舞台にメタ次元を与える。パフォーマーの行為に単に陶酔することを許さない仕掛けだ。言葉の介入やそうした読み替えは、その場の「関節」を外す。観客は、「見えないもの」をめぐるやりとりを目撃しながら、見えているもののなかに起こる間隙へ想いを馳せた。

2017/02/10(金)(木村覚)

クレア・カニンガム『Give Me a Reason to Live』

会期:2017/02/04~2017/02/05

KAAT[神奈川県]

2012年のロンドン・オリンピックの関連イベント、「アンリミテッド」で注目を集めたクレア・カニンガムの日本初公演。「松葉杖のダンサー」というだけで、私たちは舞台芸術の本流とは「別枠」とみなしがちだが、カニンガムの舞台はアイディアに富んでいて、こうした「障害者のダンス公演」というものを考えるうえで示唆的な作品だった。本作のベースになっているのは、ヒエロニムス・ボッスの絵画に描かれた障害者の図であるという。音楽にはバッハが用いられるなど、キリスト教的な色彩の濃い作品であることは間違いない。フライヤーに用いられたのも杖を持つ腕が横に伸びて「十字」に見える舞台写真だった。とはいえ、こうしたテーマに基づいて解釈しなくても、惹きつけられるダンス的要素が本作にはあった。それはひとつにカニンガムと松葉杖との「デュオ」の魅力としてあらわれていた。例えば冒頭、舞台の隅に身を傾けると器用に杖を両壁に突き立てて、バランスをとる。松葉杖と身体とのジョイントが緊張を引き出す。他にも、立てた二本の杖に身体を任せて、首を床に近づけたりする。そんなとき、カニンガムの身体の各部の間で微妙な拮抗のせめぎ合いが起きている。ゆっくりとした動作で、派手な見所があるというのではないのだが、そこには見過ごせない微弱な運動が確かに発生している。松葉杖+ダンスという試みと言えば、マリー・シュイナールの作品(『bODY_rEMIX/gOLDBERG_vARIATIONS』)を連想するのだけれど、シュイナールの場合、バリバリに踊れるダンサーが枷を与えられて、しかしそれゆえにさらに一層アクロバティックな運動を見せるのに対して、カニンガムの運動はそんなスペクタクルとは無縁だ。その代わり、松葉杖というパートナーとの長い付き合いを感じさせる道理のある動きがそうである分、未知のダンスに見えてくる。このダンスに近いのは、あえて言えば、舞踏だろう。あるシークェンスでは、衣装の一部を脱ぎ、松葉杖を置いたカニンガムは、下着一枚の状態ですっと立ち、じっと前を向く。ほとんど何もしていないかのような直立はしかし、微妙な動きを含んでいて、緊張を帯びている。ゆっくりとだが彼女は眼差しを右から左へまた左から右へ移動させていた。その間、弱いがはっきりとした呼吸音が舞台を包む。この音にぼくは室伏鴻を想起した。もちろん、カニンガムに室伏のような強烈さはない。とはいえ、室伏のそれに似て、吐く音、吸う音が観客の身体を揺さぶっている。暗黒舞踏の祖・土方巽はエッセイ「犬の静脈に嫉妬することから」(『美術手帖』1969年5月号)で「五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生まれついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります。」と発言している。ただし、「不具者」はいまや、単なる踊りの霊感源ではなく、現実の肉体を自ら示す舞台上のパフォーマーとなっている。その転換こそ、新しいダンスの兆しになるのかもしれない。もちろん、このことはカニンガムの身体が動けばおのずと舞踏が生成されるなどといった単純な話ではない。カニンガムはしっかりとした方法論でダンスに挑んでいる。ぼくが記述したいくつかの例は、まさに彼女の技法といえるものだろう。それは舞踏とは異なり、イメージへのリアクションというより、アクションの微細な確認作業といったものだ。その真価はまだ筆者には未知数だ。と、筆者はあくまでもカニンガムを振付家として見た。もちろん、2020年を見据えた動きのひとつと捉える向きもあるだろう。しかし、そのような「政局」的な解釈から距離を置くことなしに、2020年以降に続く建設的なかたちは見えてこないだろう。

2017/02/04(土)(木村覚)

Q『毛美子不毛話』

会期:2016/12/16~2016/12/19

新宿眼科画廊 スペース地下[東京都]

Qを知る者にとって本作の驚くべき点は、武谷公雄の起用だ。舞台は永山由里恵との二人。おのずと武谷=男VS永山=女という構図が見えてくる。「驚くべき」というのは、これまでQの劇は登場人物のほとんどが女性で、あらわれても男性の影は薄かった。それが本作では、木ノ下歌舞伎などでの器用な演技で定評のある武谷が舞台を闊歩している。このチャレンジは、舞台に風穴を空けることとなる。永山扮する女は合皮のパンプスしか履けず、いつか本革を履く日を夢見ているOL。女は美しい。だから、社内の男に声をかけられてしまう。というわけで、武谷が登場すると、強引で身勝手で、女を人間扱いしない男っぷりによって、とまどう女と不協和な響きを生む。武谷は上手い。求められている男っぷりを難なくこなす。その後武谷は女にも扮し、さらに胸にペニスが生えた奇怪な男にもなってゆく。演技の巧みさが舞台を引き締める。と同時に、なんとなくそれが永山の演技の奇妙さと対照的に見えて、それが気になってくる。Q主宰の市原佐都子は、これまでも役者たちに、奇妙な過剰さを湛えた演技を施してきた。今回もそれは健在で、時折永山は、ホラーともコメディともつかない寄り目で顔を歪ませたりする。市原の芝居が男性観客向けの媚びた演技から距離をとっている証拠なのだが、男性の武谷が同様の過剰で気味の悪い演技をすると、永山のそれよりも違和感が少ない。そのことは何を意味するのか。武谷の技量のせいなのか。それとも男性役者と女性役者の違いと見るべきか(変顔する女性にまだ心の準備が出来ていないのか)。筆者は男だ。だから、男の武谷が舞台にいることで、彼を媒介にしてQの劇空間にいつもより容易に迫ることができていると感じる。その効果は絶大だ。毎度感じきた、ほぼ全員女性たちで構成される舞台から受ける男性観客としての疎外感が、すこぶる軽減されているのだ。だからといって、この劇空間に男という存在が無前提で歓迎されているわけではない。男は不可解で、不気味で、理解不能な獣だ。望むも望まぬもなく、この男と一緒に暮らす女。二人を翻弄する本能の力。最後に、女は男を絞殺する。なぜかわからない。何かに「踊らされている」と叫びながら女は踊る。そもそも生命の営みはわからないことだらけだ。そのわからないものとともに暮らしていくこと。その「不毛」を肯定するように女は踊り、劇は締めくくられた。(動画にて鑑賞)

2017/01/24(火)(木村覚)

砂連尾理『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉 ダンスのような、介護のような』

発行所:晶文社

発行日:2016/10/07

「コンテンポラリーダンスって何?」とは、よく聞かれる質問だ。解釈が多様で、一括りにしようとすれば「ポスト・モダンダンス以降の各自の個人的手法に基づくダンス」としか言いようがない。いや、なんとなくこんな感じというおぼろげなスタイルも現れており、自由に使える便利な言葉である分、それが本質的に何に取り組んでいるのかということは、漠然として像を結ばない。本書は、そんな悩みに応えてくれる一冊だ。本書で「……開かれた身体で生きていく、そのことこそが、僕にとってはダンスなのかもしれない」と砂連尾理は言う。砂連尾にとって、ダンスはテクニックやスタイルの呼び名ではない。あえて言えば、それは生き方に関わるものだ。
10年ほど前、寺田みさことのデュオ「傘どう」を休止し、ベルリン留学を経た後、砂連尾は積極的に障害者や老人(認知症や車椅子生活の方も含む)とパートナーを組んだり、また東日本大震災の被災地と関わりなどしながら、作品を作ってきた。こうした活動の中では、自分のダンスを相手に押しつけることは無意味だろう。むしろ有効なのは、相手の身体性と関わり、他者によって何度も自分を揺さぶられながら、その揺さぶられる自分に正直であることに他あるまい。「開かれた身体」とはそうした身体のことであるだろうし、単に柔軟で機転の利く、エリート的な身体ということではない。その成果が『とつとつダンス』『猿とモルターレ』などとして結実した。これらの傑作を見ると、審美的価値に訴えるどんな個人的手法を作り出すかという以上に、誰とどう正直に繋がるか、そこにダンスの核心があることに気づく。
昨年の10月、大阪に暮らす砂連尾を東京に招き、BONUSが主催してトーク&ワークショップのイベントを行なった。砂連尾はそこで、早朝、ヨガの講師として大学の体育館で準備をしているとき、ふと、体育館の壁が自分を応援してくれている気がした、という不思議なエピソードを披露してくれた。壁だけではなく、ときに山が、シャワーヘッドが自分に話しかけ、励ましてくれるというのだ。「開かれた身体」とは、そうした万物の声に勇気づけられる身体でもあるのか。自分を取り巻くすべてのものが自分を批判しているかのように感じてしまう都会暮らしのメンタリティからは、それが非科学的か否かに頓着するよりも、とてもうらやましい生き方であると思ってしまう。本書には、後半に、砂連尾メソッドが開陳されており、それを読めば、彼のアイディアを手短かに実践することもできる。

2017/01/24(火)(木村覚)

Perception Engineeringキックオフ──つなげる身体

会期:2017/01/21

山口情報芸術センター[山口県]

昨年の1月、筆者のプロジェクトBONUSのイベントで、砂連尾理(振付家・ダンサー)と熊谷晋一郎(当事者研究)が両者の身体の異なりを解剖し、つなぎ合わせるプレゼンテーションを行なった。二人をつなぐ役割を果たしたのはYCAM制作のRAM。それから約1年後のこの日、YCAMで行なわれたイベントは、彼らの発展的なプログラムが半分、もう半分が笠原俊一(ソニーコンピュータサイエンス研究所)のRAMをめぐる研究考察で構成された。7時間に及ぶイベントを手短に総括することは難しいので、素晴らしく探究的であったという点だけをここにレポートしておきたい。
RAM(Reactor for Awareness in Motion)は人の身体各部にセンサーをつけて、画面上の棒人形と人の動作をシンクロさせるシステム。その名に「アウェアネス」の語があるのは、鏡のような棒人形を通して自分の身体動作の隠れた部分を発見するという狙いが盛り込まれているからだ。いや、単に動作を鏡写しするだけではない。棒人形が人間らしい形状から怪物的な形状に変貌するといった応用的要素がRAMにはあり、身体に対する新鮮な感覚を引き出すという側面もある。自分を知り、自分を超えるといった2方向へと人を誘うRAMを、最大限活用するにはどうすればよいのか、そんな問いがベースにあるイベントだ。今回、熊谷はASD(自閉症スペクトラム)の人がパーソナルスペースを自認するツールにRAMを開発できないかと提案した。パーソナルスペースとは、他人に入ってこられたくないと感じる自分を取り巻く空間、他人の侵入を許容するギリギリの距離のこと。ASDの人は、自分のパーソナルスペースがうまく認識できず、それゆえにコミュニケーションの難しさを持っているのではないか。その仮説のもと、ツールの開発がYCAMと砂連尾によって行なわれた。
笠原、熊谷からの研究発表のあと、一般参加者18名とでワークショップが行なわれた。そこでは、床面に各自の足先から広がる扇状の形態が、センサーを媒介に、各自移動しても追随するシステムが用いられた。RAMの発展版と考えられるこのシステムはパーソナルスペースを計測し、それのデータを反映させている。計測は、三人一組になって、二人が会話をしているところに、もう一人が割り込む際に、その人物と二人との距離を測る、という目的で寸劇(二人のうちのどちらかをもう一人が急に呼び出すなど)を何度か行なった。その後、扇型の「パーソナルスペース」で遊びながら、他者との間に距離をとる自己への認知を参加者は高めていった。実に楽しそうに、参加者は実験と遊びが混じり合った時間を過ごしていた。
「キックオフ」とタイトルに入っているように、これは始まりだ。本来はASDの人の課題解決を目指しているのだから、ASDの人の利用を進めたり、ASDの人が含まれているワークショップなどが行なわれて初めて、真に軌道に乗ったといえるのだろう。また扇型にかたどられた仮設の「パーソナルスペース」で遊ぶのは楽しいけれども、あくまでもそれは仮設のものであって、パーソナルスペースを実感する手段・道具であることは忘れてはならないだろう。そう、実感こそが大事だ。もちろん、道具は使う人の意識をダイレクトに変える力がある。とはいえ、ハイスペックの道具が仮になくても、他者との距離を感じる試みは可能だ。ワークショップで行なわれた演劇的対話も一手段だろうが、ダイレクトに他者との距離を感じることを問題にしてきたダンスのことも忘れてはならない。言葉を介することなく、向き合い、並び合う人の存在をじっくりと感じながら、自分を相手に感じさせる、そんな即興的なダンスも「パーソナルスペース」を捉える一助となるだろう。この活動に協力している筆者としては、来年度の計画にそうした要素が盛り込まれることを期待したいし、そういう働きかけをしてみたい。

★──この時の模様はBONUSサイト上にて公開している。http://www.bonus.dance/creation/39/

2017/01/21(土)(木村覚)

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