2017年06月15日号
次回7月3日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

第6回恵比寿映像祭 トゥルーカラーズ

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会期:2014/02/07~2014/02/23

東京都写真美術館[東京都]

注目したのは、カミーユ・アンロによる《偉大なる疲労》(2013)。インターネット上から博物学的ないしは宇宙論的なイメージを渉猟し、それらを再構成することで創世記の神話を物語った。
複数のウィンドウが重なるディスプレイを画面に導入したり、ヒップホップのラッパーに神話を唄わせたり、いかにも今日的な映像の質が興味深い。いかなる物語であれメディアが時代にそぐわなくなれば伝達力を急速に失ってしまうことを思うと、おそらく神話の最適化を図ったのだろう。
ただ、問題なのはその内容の大半をすでに覚えていないことだ。確かに映像というメディアにリアリティはある。けれども、その一方で氾濫する映像はたちまち忘却の彼方に消え去ってしまう。イメージは辛うじて残るかもしれないが、言葉や意味はほとんど残らない。
おそらく作者はそのことを重々承知しているのだろう。皮肉に富んだ作品のタイトルは、編集作業に費やした膨大な時間と労力に加えて、報われにくい映像の特性をも暗示しているように思われた。

2014/02/21(金)(福住廉)

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会田誠 展「もう俺には何も期待するな」

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会期:2014/01/29~2014/03/08

MIZUMA ART GALLERY[東京都]

「土人」とは、その土地に生まれ住む人。辺境や未開の地に住む土着民を、軽侮の意味を含めて指すことが多い。そのため公共の現場においては差別用語として使用が自粛されている。
本展で発表された会田誠の初監督作品《土人@男木島》は、そのものずばり、土人を主題とした48分の映像作品。瀬戸内海の男木島で暮らす4人の土人を、女性リポーターが取材し、それをテレビのクイズ番組で紹介していくという設定だ。会場の広い壁面にプロジェクターで投影していたが、手ブレが激しく、とても大画面での鑑賞には耐えられないという難点はあるものの、内容としてはきわめて現代性の高い傑作である。
その現代性には、いくつかの補助線がある。例えば、「土人」という差別用語をあえて前面化している点で言えば、異民族を公然と侮蔑するヘイト・スピーチのような今日的な現象を暗示しているのかもしれないし、「土人」があくまでも見られる存在であるという点で言えば、瀬戸内国際芸術祭のようなアート・ツーリズムにおいて現地の住民をそのような一方的な視線で見がちな私たち自身への痛烈な批評性が込められているのかもしれない。だが、もっとも大きな現代性は、土人の文化や文明と現代社会のそれらとを対置したうえで、前者によって後者を相対化している点である。
映像の最後で、女性リポーターは土人とともに筏に乗り込み、海へと旅立ってゆく。いわば、ミイラ取りがミイラになったわけだが、これが「茶番劇」を終わらせるための痛快なユーモアであることは間違いないにしても、同時に、現代の文明社会を打ち棄て、ある種の理想郷を求める欲望の体現であることも事実である。
以前であれば、そうしたユートピアは非現実的な夢物語として一蹴されるか、現実逃避のロマンティシズムとして嘲笑されたにちがいない。けれども、現在、土人とともに原始生活へ回帰するという物語を笑うことができる者は、はたしてどれだけいるだろうか。むろんアートであるから極端な表現ではあるが、理想郷へ脱出する欲望に共鳴した者は少なくないはずだ。会田誠は、現代社会のありようを忌避する一方、それに代わる理想郷を求める願望が以前にも増して高まっている現在の趨勢を、じつに正確に読み取っているのである。アート・ツーリズムに依拠した地域型の芸術祭の隆盛も、こうした文脈で理解することができるだろう。
むろん理想郷の実現可能性は問題ではない。重要なのは、こうした欲望の顕在化が「近代」や「現代」といった価値概念を根本的に再考させる点である。3.11で顕わになったように、現代社会が「近代」の矛盾に直面しているとすれば、それを解決する糸口は「近代」の延長線上で「現代」を先延ばしすることにではなく、むしろ「前近代」にあるのではないか。平たく言えば、私たちは「土人」から「近代人」に成り上がろうと苦心してきたが、どうやら無理があることが昨今明らかになってきた。であれば必要なのは、近代化の徹底を虚空に向かって叫ぶことではなく、近代的な価値基準から排除されてきた「土着性」「封建制」「村社会」などを改めて見直す作業だろう。西洋追従の奴隷根性に貫かれた現代アートも、いま一度そうした視点で組み立て直す理論的な手続きが求められているのではないか。

2014/02/13(木)(福住廉)

新宿・昭和40年代 熱き時代の新宿風景

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会期:2014/02/08~2014/04/13

新宿歴史博物館[東京都]

新宿副都心の歴史を写真によって振り返る展覧会。同館が所蔵する資料から、主に昭和40年代の新宿を撮影した写真およそ130点を展示した。
よく知られているように、東京オリンピックの前後から東京は大規模な都市改造を行なった。景観論争の的となっている首都高速が整備されたのも、新宿西口の淀橋浄水場の跡地に高層ビル群が建設されたのも、この頃である。昭和40年代に現在の「東京」の輪郭が定まったと言ってよいだろう。
車道を走る都電や東口の植え込み「グリーンハウス」にたむろするフーテン、歩行者天国を歩く家族連れ、ジャズ喫茶や新宿風月堂に集まる若者たちなどの写真を見ると、都市と人間の生態が手に取るようにわかる。そこには都市に生きる人びとの暮らしや身ぶり、思想が表現されていたのだ。言い換えれば、そのような生態があらわになる都市構造だったのかもしれない。
だが現在、そうした都市の表現主義は急速に後景化しつつある。ストリートは監視カメラによって隈なく管理されているため、わずかでも逸脱した表現はたちまち排除されてしまうし、都市を構成する建造物も、ショッピングモールのような内向性やネットカフェのような個室化に依拠しているため、そもそも表現としての強度が著しく弱い。端的に言えば、街としての面白さが一気に損なわれつつあるのだ。これは新宿に限らず、例えば駅前の猥雑なエリアを再開発によって一掃しつつある府中のように、国内の都市圏に通底する今日的な傾向だと言ってよい。
そのような都市構造の変容を如実に物語っているのが、本展に展示されている「新宿西口広場」が「西口地下通路」に変更された瞬間をとらえた写真である。当時、新宿駅西口はヴェトナム戦争に反対するフォークゲリラの現場で、多くの人びとが集まって賑わっていたが、その管理に手を焼いた行政当局は、この「広場」を「通路」として呼称を変更することによって彼らの排除を法的に正当化した。いわく、ここは人が集まる「広場」ではなく、人が通過する「通路」である。よって、人が滞留してはならず、すみやかに解散せよ。本展では、行政が公共空間の質を強制的に歪める決定的瞬間を目撃することができるのだ。
2020年の東京オリンピックに向けて、都市の再編成が進行することは間違いない。しかし、そのときいままで以上に表現を抑圧するとすれば、都市はますます求心力を失ってしまうのではないだろうか。

2014/02/11(火)(福住廉)

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ダレン・アーモンド 追考

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会期:2013/11/16~2014/02/02

水戸芸術館現代美術センター[茨城県]


「時の旅人、ダレン・アーモンドが光と音で紡ぎ出す人類の叙事詩」。いかにも大仰な、本展の宣伝文句である。しかし、実際に展覧会を見ると、ダレン・アーモンドの真骨頂は「叙事詩」というより、むしろ「叙情詩」なのではないかと思わずにはいられない。
展示されたのは、写真や映像、インスタレーションなどさまざまであり、その内容も一貫性があるとは思えないほど多様である。けれども、少なくとも通底しているのは、それぞれのメディウムにおける形式的な美しさを最大限に洗練させながら、それぞれ鑑賞者の情動に強く働きかけている点である。
例えば、京都の比叡山で行なわれている千日回峰行を主題とした《Sometimes Still》(2010)は、複数のスクリーンを設置した映像インスタレーション。暗闇の中、斜面を駆け上がる修行僧を追尾したカメラの映像は、音響効果も手伝って、得も言われぬ緊張感が漂っている。シベリアで撮影したという《Less Than Zero》(2013)も、粗いモノクロ映像によって荒々しい風土や溶鉱炉の灼熱を映し出し、来場者の皮膚感覚を強く刺激していた。
一方、自分の父親に身体の負傷についてインタビューした《Traction》(1999)は、生々しい体験談に身体の内奥に眠っている痛覚が呼び覚まされる。肉体労働者の父はチェーンソーで指先を切り落とし、工事現場の高所から落下して骨を折り、フットボールの試合で歯がごっそり抜けた。文字どおり頭のてっぺんから足先まで全身傷だらけなのだ。その痛々しい歴史を淡々と口にする父親の語り口には思わず笑ってしまうほどだが、傍らで黙って話に耳を傾ける母親の眼を見ると、そこに家族の歴史が凝縮していることに気づかされる。痛みは記憶の糸口であり、それゆえ歴史を紡ぎ出す結節点となる。
肉体的な感覚と社会的な文脈の縫合。前者に傾きすぎると情緒的なだけになるが、後者に偏りすぎるとたちまち芸術性が失われてしまう。ダレン・アーモンドの妙技は、さまざまなメディウムを駆使しながら、双方のあいだで調和をはかる絶妙なバランス感覚なのだろう。

2014/02/01(土)(福住廉)

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ガタロ絵画展 ヒロシマ 美しき清掃の具

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会期:2014/01/14~2014/01/27

ギャラリー古藤[東京都]

ガタロは広島生まれの今年65歳。ショッピングセンターを掃除する仕事をしながら雑巾やモップといった清掃用具などの絵を30年にわたって描き続けてきた。これまであまり知られることはなかったが、2013年に放送されたNHKによる番組「ETV特集ガタロさんが描く町」で大きな注目を集め、この度都内と横浜市の2カ所で相次いで個展が催された。本展では絵画やオブジェなど60点あまりが展示された。
ガタロの絵の特徴は、力強く太い描線とていねいで繊細な画面構成。双方は相矛盾するように思われがちだが、ガタロの絵にはそれらがみごとに統合されている。同じ画材で原爆ドームの剥き出しの鉄骨と水に濡れたモップの繊維を描き分けるほど描写力も高い。そのため汚れを落とす道具や廃れたもの、周縁化された人を神々しく描くというコンセプトがありありと伝わってくる。村山槐多やケート・コルヴィッツを連想させる画風だ。
本展の白眉は《豚児の村》(1985)。ベニヤ板を3枚並べた大きな画面に、原爆ドームと平和大橋、福島第一原発から流れ出る汚染水、そして豚が描かれている。豚が人間の強欲を表わしていることは理解できるにしても、80年代からすでに原爆と原発をめぐる核の問題を絵画の主題としていたことには新鮮な驚きを感じた。この絵には、私たちの過去と現在が凝縮しているのである。
かつて美学者の中井正一は、「利潤を求めて技術が、その盲目の発展をするとき、それは鼻の先に肉を下げられた豚が真直ぐに突っ込むように、それは盲目である」と指摘したうえで、「芸術家とは20年も先んじて人びとの憂いに先んじて憂い、人びとの喜びに先んじて微笑むのである」と書いた(「文化のたたかい」)。おのれが豚であることを心の奥底で感じている者は、おそらく少なくない。ガタロの絵には、現代の人間像がはっきりと描き出されているのである。

2014/01/27(木)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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