2017年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

銀座地下街ラジオくん 声のアーカイブ展

twitterでつぶやく

会期:2014/03/19~2014/03/26

KANDADA 3331[東京都]

「銀座地下街ラジオくん」とは、取り壊しが決定している銀座4丁目の三原橋地下街を取材したラジオ番組。本展は、学生放送局「ざぎんWAVE」が同地下街の店主や常連客、周辺の画廊主らにインタビューして採集したさまざまな「声」を紹介したもの。
展示は、しかし、実際に音声が再生されていたわけではない。その点は惜しまれるが、それでも文字や写真、記事、図面などによって語られた地下街への思いを読むと、そこが多くの人びとにとっての憩いの場であったことがよくわかる。三原橋地下街は、次々と資本が投入される銀座の街中にあって、例外的にかつての時代の空気を吸える安息の場所だったのだ。
こうした問題はいまに始まったことではない。銀座のみならず、全国の都市は、かつてもいまも、スクラップ・アンド・ビルドの論理によって急速に塗り替えられている。むろん、その速度に相乗りする類のアートがあってもいい。だがその一方で、その奔流に打ち込まれる楔こそアートとして評価しなければならない。なぜならアートとは支配的な見方とは異なる別の視点を提供するものであり、その視角から見たもうひとつの世界のありようを私たちに垣間見せることができるからだ。きらびやかな銀座だけではない、庶民的な銀座の街並みが実在しており、しかも多くの人びとに求められているという声を紹介した本展は、そうしたアートの働きを存分に示した。

2014/03/26(水)(福住廉)

光山明 写真展 消えたこと/現れること

twitterでつぶやく

会期:2014/03/18~2014/03/29

gallery 福果[東京都]

「ニッポン顔出し看板紀行」シリーズを手がけている光山明の個展。これは観光地によくある顔出し看板を歴史的な事件の現場に設置して撮影した写真のシリーズで、今回は光山がもっとも関心を注いでいる足尾鉱毒事件を主題にした作品を発表した。
撮影地は事件の源となった足尾銅山をはじめ、そこから排出された鉱毒を沈殿させるために廃村にさせられた谷中村の跡地につくられた渡良瀬遊水地と谷中湖、そして請願のために上京しようとした農民を警察が弾圧した川俣事件の出発地である雲龍寺など。看板には、「強制破壊」や「谷中村廃村100年」、「鉱毒除外」という言葉とともに当時の事件が描かれており、いずれにも部分的に顔出しのための穴が開けられている。事件の痕跡を見出すことが難しい現在の風景に、光山は「顔出し看板」というキッチュな文化装置によって歴史を召喚しているのである。
なかでも今回とりわけ注目したのが、《川俣事件逮捕の図》である。副題に「小口一郎へのオマージュ」とあるように、この作品は同事件を主題にした小口一郎の版画を引用したもの。ただ、これまでの作品と異なっているのは、顔出しのための穴を開けるのではなく、画中で逮捕され連行される農民が被っている深編笠を半分に割り画面上に貼りつけている点だ。つまり画面の中の顔を見ることも、自分の顔を画面にはめ込むこともできないのである。
顔のはめ込みが現在に召喚した歴史を我有化することを意味しているとすれば、この《川俣事件逮捕の図》は、そうした歴史と現在の接点が失われているように見えなくもない。しかし別の見方をすれば、顔の入る余地がないがゆえに、逆説的に私たちの想像力が喚起されるとも言える。逮捕された農民たちは深編笠の下でどんな表情だったのだろうか。私たちはどうすれば苦難の歴史を分かち合うことができるのだろうか。むろん完全に同一化することはできないにせよ、光山が示しているのは、想像力によって歴史と向き合う姿勢や構えにほかならない。私たちにとって必要なのは、その身ぶりである。

2014/03/26(水)(福住廉)

大きいゴジラ 小さいゴジラ

twitterでつぶやく

会期:2014/02/25~2014/03/30

川越市立美術館[埼玉県]

映画『ゴジラ』が公開された1954年は、アメリカによる水爆実験「キャッスル作戦」がマーシャル諸島のビキニ環礁で行なわれ、第五福竜丸を巻き込んで被爆させた年である。その一方、同年は当時中曽根康弘らによって原子力研究開発予算が国会に提出され、読売新聞社主催の「誰でもわかる原子力展」が新宿伊勢丹で催されたように、日本の原子力政策の原点が刻まれた年でもある。ゴジラは被爆と原子力の平和利用という矛盾が凝縮した時代に誕生したのである。
それから60年後。ゴジラをめぐる社会状況が激変したことは言うまでもない。美術家の長沢秀之は映画のゴジラを「大きいゴジラ」としたうえで、東日本大震災によって「小さいゴジラ」が生まれたと設定した。本展は、その「小さいゴジラ」という未見のイメージを、美術家や美大生、小学生らが想像的に造形化した作品を一挙に展示したもの。市民参加やワークショップの体裁を採用しながら、そうした限界芸術の地平から現在進行形の同時代性を獲得した、非常に画期的な展覧会である。
窪田夏穂による《デモンストレーション・ゴジラ》は、9枚の短編マンガ。ゴジラの救出を訴える街頭デモをめぐる人間模様を筆ペンで簡潔に描いた。作画には黒田硫黄の影響が少なからず見受けられるものの、熱を帯びたデモ参加者と、彼らに注がれる冷ややかな視線のギャップの描写が生々しい。ここでのゴジラに「脱原発」が重ねられていることは明らかだが、ゴジラの被り物に身を入れることで初めてデモに参加することができた主人公の身ぶりには、正面切って脱原発を訴えることの難しさと、脱原発運動がゴジラのような求心力のある明確な象徴を依然として持ちえていない難しさという、二重の困難が投影されているように思われた。
《日常のゴジラ(2012年の夏)》で野間祥子と藤田遼子が描いたのは、都市の日常的な光景。一見するとなんの変哲もない街並みだが、よく見ると画面の奥のビル群はいずれも奇妙に歪み、傾いている。大きいゴジラは街を滅茶苦茶に破壊したが、まさしく東日本大震災に端を発する放射能汚染がそうであるように、小さいゴジラの脅威は見えにくいということなのだろう。逃げ出してくる人びとを尻目にスマホをいじる人物像は、知覚しえない脅威に想像力を働かすことのない現代人の肖像なのだ。
小さいゴジラを創出する道筋をつけた本展の意義は大きい。時代を正視することを避けるアーティストが多いなか、この経験はひとつの光明である。

2014/03/18(火)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00025369.json s 10097752

イメージの力──国立民族学博物館コレクションにさぐる

twitterでつぶやく

会期:2014/02/19~2014/06/09

国立新美術館[東京都]

国立民族学博物館が所蔵する34万点の資料から選び出した約600点を見せる展覧会。博物館における「器物」や美術館における「作品」という制度的な分類を突き抜けた、人類による造形の力をまざまざと感じることができる。
会場に一歩踏み入れた瞬間、そこはまったくの異世界。壁一面に並べられた世界各国の仮面はすさまじい妖力を放っているし、垂直に高くそびえ立つ葬送のための柱「ビス」を見上げていると魂が吸い上げられるかのように錯覚する。いかにも漫画的なトコベイ人形やフーダ人形に笑い、観音開きの箱の内側に人形を凝縮させたリマの箱型祭壇におののく。文字どおり一つひとつの造形に「釘づけ」になるほど、それぞれの求心力が並外れているのだ。
けれども、その求心力とは、おそらく現代人の視線から見た異形に由来するだけではない。それらの造形の大半が宗教的な儀礼や物語、すなわち神や精霊、死と分かちがたく結びつけられていることを思えば、それらの底には見えないものをなんとかして見ようとする並々ならぬ意欲と粘着性の視線が隠されていることに気づかされる。そのような「イメージの力」にこそ、私たちは圧倒されるのだ。
興味深いのは、人類史にもとづいた造形の豊かさをこれだけ目の当たりにすると、美術史を背景にしたアートがいかに貧しいかを実感できる点である。アーティストたちの着想の源を見通せるだけではない。通常美術館で鑑賞する作品を脳裏に思い浮かべたとしても、目前の造形にとても太刀打ちできないことは想像に難くない。事実、後半に展示されていた、銃器を分解して彫像に再構成したアート作品や、あたかも美術展におけるインスタレーションのように展示された器物などは、器物の豊かさを逆説的に強調する材料にはなりうるにしても、基本的には美術の貧弱さを再確認するものでしかない。
思えば、現代アートの現場にもっとも欠落しているのは、こうした人類史の水準ではなかったか。人類が創り出してきたイメージの歴史と比べれば、モダニズム絵画論やアートマーケット、美術館、芸術祭などをめぐる昨今の議論のなんとせせこましいことだろう。「美術」ですら明治に輸入された概念にすぎないことを私たちはすでに知っているのだから、もうそろそろ、ものをつくる身ぶりと思考を人類史の地平に投げ出すべきではないか。

2014/03/12(水)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00024753.json s 10097751

誰もみたことのない内海信彦 展

twitterでつぶやく

会期:2014/03/03~2014/03/08

Gallery K[東京都]

1953年生まれの美術家・内海信彦が20代に描いた絵画作品を見せた個展。いずれも1970年代前半、美学校の中村宏油彩画工房でフランドル技法を学んでいた頃の作品だという。
絵画のモチーフは天変地異。大空を縦横無尽に走る雷やこちらに押し寄せる大津波、山頂から溢れ出る灼熱の溶岩。大地の裂け目は地震だろうか。赤いマントを羽織って佇む人物の顔が隠されているところも、よりいっそう不安を煽る。
しかし、そうした予言的な主題より何より注目したのは、画面の保存状態がきわめて良好だった点である。ひび割れはほとんど見当たらず、発色も当時と変わらないという。中村宏による堅実な指導のおかげで、これらの絵は40年という時の流れに逆らい続けているのだ。
はたして昨今の絵画は、同じように時間に抵抗する堅牢さを持ちえているのだろうか。

2014/03/07(金)(福住廉)

▲ページの先頭へ

福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

文字の大きさ