毎月1日、15日号発行の美術館・アート情報をお伝えするWebマガジン(次回4月3日更新予定)

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

二年後。自然と芸術、そしてレクイエム

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会期:2013/02/05~2013/03/20

茨城県近代美術館[茨城県]


展覧会名にある「二年後」とは、言うまでもなく東日本大震災からまもなく2年が経とうとしている現状を指している。本展は、あの震災によって大幅に再考を迫られた人間と自然の関係について近現代美術の作品から振り返るもの。小川芋銭や横山大観、中村彝、橋本平八から中西夏之、河口龍夫、間島秀徳、米田知子まで、美術家16人による作品が展示された。
震災によって流出した六角堂をモチーフとした中西夏之の新作や、いわきの上空を観音様が飛来する光景を描いた牧島如鳩など、見るべき作品は多い。だが、今回誰よりも瞠目させられたのは、萬鉄五郎である。1923年の関東大震災の翌年に描いたという《地震の印象》は、建物や山が揺れ動く様子をいくぶんユーモラスに描いているが、これとあわせて代表作のひとつである《もたれて立つ人》を改めて見てみると、いわゆる典型的なフォーヴィズムの画面すら、なにやら地震の不気味な振動を体現しているように見えてならない。あの奇妙な浮遊体を頭上にしつらえた《雲のある自画像》にしても、魂の虚脱というより、むしろ滑りこむ地盤の力が凝縮した震源地の象徴のように見えなくもない。
むろん、こうした見方はあまりにも表層的であり、美術史的に正統な理解とは無関係である。けれども、展覧会というフレームが作品の新たな理解を育むものだすれば、時勢に応じた解釈はいま以上になされてよい。企画者が指摘するように、あの震災と次の震災の「あいだ」を生きている私たちに最低限できることは、そのようにして意味を生産することだからだ。

2013/02/13(水)(福住廉)

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飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡

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会期:2013/01/12~2013/04/07

東京国立博物館[東京都]

飛騨・千光寺が所蔵するものを中心に約100体の円空仏を見せた展覧会。《両面宿儺坐像》をはじめ、《賓頭盧尊者坐像》《三十三観音立像》など、円空仏の代表的な作品が一堂に会した。
作品の点数に対して会場の空間がやや狭かった気がしないでもなかったが、それでも林立させた円空仏によって飛騨の森林を再現するという展示のコンセプトはうまく実現されていたように思う。円空仏がまさしく森でつくられたものであることが如実に伝わってきたからだ。
よく知られているように、円空仏の大きな特徴は木材を有効活用してつくられている点であり、なおかつ、顔料や漆で表面を処理しないことによってそのことを詳らかにしている点である。つまり、誰が見ても、第一印象ですでに森林との連続性が伝わってくるのである。
だが、今回改めて円空仏をまとめて見てみると、円空が森林をはじめとした自然のモチーフを取り込みながら造形化していたことが、よくわかった。《龍頭観音菩薩立像》と《聖観音菩薩立像》がまとう衣の表現は、針葉樹を簡略化した記号表現と大きく重なり合っているし、《不動明王立像》の下半身は明らかに魚の鱗であろう。《柿本人磨坐像》の鋭角的な描線にしても、飛騨の山々に今も残る荒々しい岩肌から着想を得たにちがいない。円空仏が自然から彫り出されたというより、むしろ円空仏そのもののなかに自然が凝縮されていると言っても過言ではないだろう。
自然から導き出すのではなく、自然を引き込むような造形のありよう。このような円空仏は、いかなる点においても、近代彫刻とは相容れない。その最も典型的な例証が、円空仏の正面性である。見た目のボリュームとは裏腹に、円空仏のなかにはきわめて薄いものが多い。正面から見ると気がつかないが、少し視点をずらすと、その薄さに驚愕するというわけだ。近代彫刻が周囲360度からの視点に耐えうる造形を目指していたのとは対照的に、円空仏はむしろ正面性を求めている。この点にかぎって言えば、円空仏はむしろ絵画的と言えるのかもしれない。
いや、自然との関係性の観点から言えば、円空はそのようにして正面性に依拠しながらも、同時に、その極薄の造形すらも露呈することで、自然に対する融通無碍な身ぶりを体現していたと言うべきなのかもしれない。円空仏を楽しむ視線は、近代彫刻の不自然さを浮き彫りにするのである。

2013/02/08(金)(福住廉)

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3331アンデパンダンスカラシップ展vol.3

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会期:2013/01/26~2013/02/17

3331 Arts Chiyoda[東京都]


全国随一のアンデパンダン展として知られつつある「3331アンデパンダン」の出品作家のなかから選抜されたアーティストによるグループ展。2012年の「3331アンデパンダン」展でゲストと一般来場者によって選ばれた9名のアーティストが新作を発表した。無鑑査無賞与を原則とするアンデパンダン展本来の思想からすれば、こうした展開はいくぶん過保護のような気もするが、有象無象のなかから有望な新人を発掘することで停滞した状況を塗り替えていこうとする企画者のねらいは、理解できなくもない。
事実、今回の展覧会では、見るべき作品が比較的多かった。オーディエンス賞を受賞した駒場拓也は自然光を分解して再構成する健やかな抽象画を発表し、本展のもはや常連とも言える島本了多は肉体の形態を器の機能に転化した不気味な陶器を展示した。
なかでももっとも際立っていたのが、渡部剛である。雑誌や広告など印刷物を切り貼りしたコラージュは決して珍しくないが、渡部によるそれは量的にも質的にも徹底的に追究する執着力において他の追随を許さない。紙ものを用いる作品はえてして不必要に貧乏臭くなりがちだが、丁寧な仕事によってそれを巧みに回避しているところも好感が持てる。民芸品としてつくられている木彫りの熊の表面にカラフルな彩りを施した作品にしても、地の部分と彫りの部分を律儀に色別することで、既成の民芸品をポップにバージョンアップしてみせた。

2013/02/08(金)(福住廉)

福岡現代美術クロニクル 1970-2000

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会期:2013/01/05~2013/02/11

福岡県立美術館、福岡市美術館[福岡県]


福岡の現代美術を歴史化した展覧会。九州派以後の1970年からの30年間を対象に、85人の美術家による約130点の作品を通時的に展示した。
2つの美術館にまたがるボリュームのある展示を見て気がついたのは、2つ。ひとつは、松本俊夫と川俣正の存在の大きさ。本展でも明らかにされていたように、ミニマリズムや新表現主義といった流行の表現様式が福岡のアーティストに多大な影響を及ぼしたことは事実である。ただ、それにもまして、たったひとりのアーティストがひとつの表現様式に匹敵しうるほど大きな影響力を及ぼすことがありうる。それは、福岡のような適度な地方都市だからこそ可能な条件なのかもしれないが、こうした内部と外部をつなぐ人的な交流は、地方都市の今後のアートシーンを考えるうえで、重要な示唆を与えるのではないか。
もうひとつの発見は、川原田徹の存在。トーナス・カボチャラダムスの名でも知られる画家で、ブリューゲルのような細密な油彩画やエッチングを制作している。本展では、九州派以後の70年代に位置づけられていたが、これはあくまでも通時的な展示構成の必要を満たすためであって、川原田が70年代に限って制作しているわけでは、もちろんないし、時流や美術運動とはまったく無関係に制作している。つまり、展覧会の通時性はえてして直線的な歴史観を誤認させてしまいがちだが、実際の歴史は複線的であり、無数の単独者が錯綜としているものである。通時性による歴史化は表現様式や表現集団の変遷によって遂行されやすいが、しかし川原田のように、特定の表現様式や表現集団の交代劇から離れたところで活動を持続させているアーティストの存在を抜きにして歴史を物語ることはできない。「歴史」や「批評」、ないしは「研究」といった物語からこぼれ落ちてしまいがちな歴史的真実に目を配ることこそ、歴史の記述に必要とされる態度ではないだろうか。

2013/02/06(水)(福住廉)

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東北を開く神話 第2章『第二の道具~指人形』

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会期:2013/01/19~2013/02/03

秋田県立美術館 美術ホール[秋田県]


美術家の鴻池朋子が企画した展覧会。昨年の同時期に、同じ美術館で催した「東北を開く神話」の第2回展である。サブタイトルにあるように、今回は「指人形」をテーマとして、32組の秋田の美術家たちが参加した。
土地に残されている古い言葉を無作為に組み合わせた「呪文」をもとに作品を制作し、それらの作者名を伏せたまま巨大な縄で描いた秋田の地図上に沿って展示した点は前回と変わらない。異なっていたのは、いずれの作品にも観客の指一本を入れるための穴が設えられていたこと、会場の随所に土偶や石器、漆器などが作品に混在するかたちで展示されていたこと、そして展示の終盤に大量の指人形が用意され、ひとつずつ観客に持ち帰らせていたことである。
そのおびただしい指人形の迫力はたしかに凄まじい。全体的に見てみると端布やフェルトを縫合したものが多いが、個別的に見てみると色やかたち、素材などさまざまで、なかには指人形の一般的なイメージからかけ離れたものまであって、おもしろい。それらがとぐろを巻いた縄の上に山盛りにされていたのである。
ただその一方で、「呪文」から制作された作品は、おおむね低調だった。それは、おそらく「呪文」が喚起する詩的な想像力に作品の造形力が追いついていなかったことに由来するように思われる。たとえば「粕毛に伝わる 泣きながら尻をまくって 口をすべらせて秘密をばらすもの」や「藤琴に伝わる 尾てい骨と肛門のくぼみに隠れて 赤ん坊に乳を飲ませているもの」など、今回の「呪文」はエロティシズムをくすぐるような言葉が多い。しかも、それぞれの作品には指を入れる穴があるから、指先に伝わる質感や圧力が、そのエロチックな想像力を否が応にも増幅させるのだ。にもかかわらず、物としての作品が押しなべて弱々しく、そうした想像力を飛躍させる物質的な基盤にはなりえていない。「呪文」から広がる想像の世界から、いつまでも物としての作品が取り残されているのだ。
むろん、「呪文」を図解する作品は凡庸以外の何物でもない。しかし、だからといって「呪文」を無視して自己表現に居直るだけでは、わざわざこのようなグループ展に参加する意味はないこともまた事実である。「呪文」が呼び起こす詩的な想像力を引き受け、そのかたちのない想像力に造形によってかたちを与えること。それは、自己を「呪文」という他者に向かって開く、いわば徹底した自己解体の経験を要請するが、しかし、新たな神話に値する物語は、それを糸口として紡ぎ出されるほかないのではないだろうか。次回があれば、奮起を期待したい。

2013/01/30(木)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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2017年03月15日号