2017年06月15日号
次回7月3日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

遠藤一郎 展 ART for LIVE 生命の道

twitterでつぶやく

会期:2013/03/03~2013/04/14

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

遠藤一郎の最高傑作は、やはり《愛と平和と未来のために》だと思う。この映像作品で遠藤は「行くぞー!」と雄叫びを上げながら、ただひとり、六本木ヒルズに全身で激突する行為を繰り返しているが、これはナンセンスを突き詰めることによって辛うじてわずかな意味を生み出そうとする、すぐれてコンセプチュアルなパフォーマンスだった。しかも、コンセプチュアル・アートにありがちな肉体性の欠如という弱点を、文字どおり肉体を酷使することによって見事に克服している点が、何よりすばらしい。
言うまでもなく、遠藤がそのようにして生み出したわずかな意味とは、彼が執拗に訴え続けている「未来」や「生命」、「愛」、「平和」というメッセージである。むろん、それらは字義どおりに受け取ることが難しいほどベタな言葉ではある。けれども、そのような使い古された言葉の根底にあの激烈な激突パフォーマンスを見通すとすれば、それらはたんなる愚直でストレートなメッセージではなくなるはずだ。
本展は、丸木美術館で催された遠藤一郎の回顧展。自転車で原爆ドームに向かった17歳のひとり旅を原点として、その後の表現活動の軌跡を無数の記録写真によってたどる構成である。回顧展としては堅実であるし、あの広大な空間に掲げられた「生命」という文字を描いた巨大な平面作品も見応えはある。けれども、どこかで一抹の違和感が残るのは、遠藤一郎にとっての原点のありかが、「広島」というよりやはり「六本木」なのではないかと思えてならないからだ。
あの肉体の突撃には、ナンセンスなユーモアだけでなく、切実な危機意識とやるせない悲壮感があった。それらは現在の遠藤一郎の明るく、朗らかで、ポジティヴな表現活動からは見えにくいものだが、しかし、その背面に確かに内在しているものだ。
遠藤一郎の活動範囲が被災地を含む全国へ拡大すればするほど、そのダイレクトなメッセージが人びとに伝播すればするほど、まるで反射作用のように、その原点のありかが逆に問い直されるに違いない。もしかしたら、新たな原点をつくりだすことが必要なのではないか。

2013/04/10(水)(福住廉)

アニメーション美術監督 小林七郎 展 空気を描く美術

twitterでつぶやく

会期:2012/12/19~2013/04/14

杉並アニメーションミュージアム[東京都]

アニメーション美術監督の小林七郎の展覧会。『ガンバの冒険』や『ルパン三世カリオストロの城』、『あしたのジョー2』などで知られる日本随一の美術監督で、鬼才・出﨑統と組みながら数々の名作を制作するとともに、男鹿和雄や小倉宏昌、大野広司といった後進の美術監督を育成した。現在は、自身が代表を務めた小林プロダクションを解散し、画家として制作活動に勤しんでいる。
本展は、アニメーション美術監督としての小林の仕事の全貌に迫る好企画。『ガンバの冒険』や『あしたのジョー2』、『少女革命ウテナ』などの背景画をはじめ、数々のスケッチ、そして実際のアニメーション映像が展示された。幻想的な城塞がひときわ印象的な『カリオストロの城』が展示に含まれていなかったのが残念だったが、それでも小林の筆力を存分に堪能できる展示になっていた。
なかでも本展の白眉と言えるのが、映像絵本として見せられた《赤いろうそくと人魚》である。童話作家の小川未明が1921年に発表した童話をもとに小林が新たに描き下ろしたアニメーションで、老夫婦のもとで育てられた人魚の娘の成長を描く悲劇だ。人間社会に希望を見出した母によって老夫婦に預けられたにもかかわらず、当の老夫婦によって裏切られる娘の心情が痛いほど伝わってくる。それは、ひとえにそのような悲劇を物語るに足る一貫して重厚な作画と、悲劇をよりいっそう効果的に物語る演出に由来するのだろう。
通常、アニメーションにおいてはキャラクターの絵柄と背景のそれは異なっていることが多い。前者が明るく平坦に描かれる反面、後者は筆跡を残した絵としてそれぞれ分離されて描写されるのだ。だが、小林による《赤いろうそくと人魚》では、そうした主従関係が相対化され、背景を描くタッチで登場人物も描写しているのである。従属的な立場に甘んじていた背景画が、前面にせり出し、ついに登場人物のシルエットを呑み込んでしまった。思わずそのように形容したくなるほど、物語は統一的に描写されているのだ。これは美術監督の逆襲なのだろうか。いや、むしろ「絵が動く」というアニメーションの原点に立ち返ったということなのかもしれない。
演出に関しては、象徴的なシーンがある。ある晩、老夫婦の家を訪ねてきた人物が戸を叩き、老夫婦はそれを戸内から見やるというシーンで、小林は暗闇の中で縦方向に走る光の筋を、戸を叩く効果音とともに二度描くだけで、それを表現した。一抹の不安に怯える老夫婦の心情に思わず共感を寄せてしまう。戸外の人物が描かれているわけではないが、それが老夫婦によって香具師に売り飛ばされた娘であることは想像に難くない。けれども、あえて光と闇に極端に抽象化して描写することによって、娘と老夫婦とのあいだの、もはや埋め合わせようのない決定的な隔たりを表現したのである。
小林の作画と演出には、アニメーションの本質というより、むしろ絵を描き、それを他者に伝えるという芸の真髄が隠されているのではないだろうか。

2013/04/09(火)(福住廉)

つくることが生きること東京展

twitterでつぶやく

会期:2013/03/09~2013/03/31

3331 Arts Chiyodaメインギャラリー[東京都]

大規模な自然災害からの復興支援活動をサポートしている「わわプロジェクト」による展覧会。東日本大震災からの現在進行形の復興に焦点を当てている点は、昨年に同会場で催された展覧会と変わらない。異なっていたのは、それらを3.11以前の復興の歴史に位置づけようとしていた点だ。
本展の最大の見どころは、阪神・淡路大震災と新潟中越地震、そして東日本大震災からの復興活動を時系列でまとめた年表にある。つまり、1995年から2004年を経て2011年にいたるまでの16年間、全国各地で展開してきた復興支援活動を一挙に視覚化したのである。むろん、それらの詳細な内実を年表から伺い知ることは叶わない。けれども、年表に記された文字の羅列と集合からは、復興に注がれた人々の熱意がまざまざと感じられた。
とはいえその一方で、時間の経過とともに復興支援活動が減少していく様子が一目瞭然だったことも事実だ。何も記述されない空白が復興の実現を意味していることは間違いない。ただ、その空白の先に新たな自然災害が必ず発生していることを考えれば、そもそも何をもって「復興」とするのか、その定義について再考せざるをえない。
年表から理解できるのは、1995年以来、この国は自然災害が周期的に発生しているという厳然たる事実である。だとすれば、近い将来、新たな自然災害が発生することは避け難いと考えるのが論理的な必然だろう。このような「震災間の時代」において、「復興」とはある特定の自然災害によって破壊された文化的な生活の回復や精神的な辛苦の治癒を明示しているだけでなく、それと同時に、私たちが無根拠に内面化してしまっている自然災害とは無縁の都市生活というイデオロギーの見直しを暗示しているのではないか。アートの創造性や想像力を前者の「復興」に活用するアートプロジェクトは数多い。けれども、それ以上に重要なのは、創造性や想像力によって後者の「復興」を再検証しながら震災と震災のあいだを生き抜く持続的な身ぶりと知恵を練り上げるアートではないだろうか。

2013/03/31(日)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00020889.json s 10087565

黒田辰秋・田中信行│漆という力

twitterでつぶやく

会期:2013/01/12~2013/04/07

豊田市美術館[愛知県]

とてつもなくすばらしい展覧会を見ると、しばらく言葉を失って茫然自失とすることが、ままある。黒田辰秋と田中信行による二人展は、ほとんどマスメディアの注目を集めることはなかったが、両者によって表現された漆という力とそれらを巧みに構成する展覧会の力が絶妙に調和した、近年稀に見る優れた企画展だった。
黒田辰秋(1904-1982)は木工芸で初めて重要無形文化財に認定された漆芸家。木工の指物をはじめ、乾漆や螺鈿による漆芸を数多く手がけた。本展の前半は、同館が所蔵する黒田の作品をはじめ、黒田が直接的に影響を受けたという柳宗悦が私蔵していた朝鮮木工や、親交のあった河井寛次郎による焼物や木彫も併せて、展示された。
一見して心に刻み込まれるのは、黒田の作品から立ち上がるアクの強さ。木工芸にしろ漆芸にしろ、大胆な文様と造形を特徴とする黒田の作品には、一度見たら決して忘れられないほどの強烈な存在感がある。それは、表面上の装飾や技巧に終始しがちな伝統工芸とは対照的な、まさしく「肉厚の造形感覚」(天野一夫)に由来しているのだろう。《赤漆捻紋蓋物》や《赤漆彫花文文庫》などを見ると、まるで内側の肉が反転して露出してしまったような、えぐ味すら感じられる。それを「縄文的」と言ったら言い過ぎなのかもしれないが、岡本太郎が好んだ「いやったらしい」という言葉は必ずしも的外れではあるまい。
そして、会場の後半に進むと、一転して田中信行による抽象的な漆芸世界が広がる。鋭角的な造形の黒田に対し、田中の漆芸を構成しているのは、柔らかな曲線。しかも従来の漆芸のように支持体としての木工に依存せず、表皮としての漆だけを造形化しているところに、田中の真骨頂がある。だから広い会場に点在する漆黒の造形物は、造形としては薄く、儚い。にもかかわらず、その黒光りする表面を覗きこむと、どこまでも深く、吸い込まれるように錯覚するのだ。とりわけ《Inner side-Outer side》は、それが湾曲しながら自立しているからだろうか、自分の正面に屹立する漆黒の表面の奥深くに全身で飛び込みたくなるほど、魅惑的である。
黒田辰秋の作品が外向的・遠心的だとすれば、田中信行のそれは内向的・求心的だと言える。双方が立ち並んだ会場には強力な磁場が発生していた。いや、むしろこう言ってよければ、芸術の魔術性が立ち現われていたと言うべきだろう。それは、近代芸術が押し殺してきた、しかし、かねてから私たち自身が心の奥底で芸術に求めてやまない、物質的なエロスである。本展は、物質より概念を重視するポスト・プロダクトへと流れつつある現代アートに対する批判的かつ根源的な一撃として評価できる。

2013/03/30(土)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00020033.json s 10087564

ウラサキミキオ展

twitterでつぶやく

会期:2013/03/25~2013/03/30

Gallery K[東京都]

銀座の画廊をていねいに見て歩くと、美術館やコマーシャル・ギャラリーでは決して出会えない作品を目にすることができる。これらを端から度外視するから、総じて言えば、今日の美術評論はかつてとは比べ物にならないほど浅薄で脆弱なものになり下がったのである。美術評論の基礎体力を蓄えるには、美術館や画廊の外部、すなわちストリートにおける表現活動を視野に収める必要があるし、同時に、それらの内部におけるさまざまなアートをいかなる偏りもなく均等に鑑賞しなければならない。これは最低条件である。
ウラサキミキオは、ここ数年、同ギャラリーで定期的に新作の絵画を発表しているが、今回の個展はこれまでの作風を持続させながらも、それらがある一定の高みに到達したことを証明した。日常的な風景を主題とした具象性の高い画面に、しかしその主題とはまったく無関係な紙片を貼りつける。その紙片にはデカルコマニーで色彩が施される場合もあるし、白い無色のまま貼付される場合もある。そうして構成された絵画は、これまでは具象性に重心が置かれることが多く、紙片はあくまでも従属的な立場にあった。ところが、今回の個展で発表された新作では、その紙片が具象性の画面を縦横無尽に暴れまわったり、あるいは紙片の上にさらなる色彩と形態が塗り重ねられたり、主題と紙片の関係性がよりいっそう複雑に錯綜していたのである。しかも一点一点の作品が、相互の類似性を見出すことが難しいほど、それぞれ自立している点もすばらしい。ウラサキは、絵画の成熟を手に入れたのではないか。
「VOCA」にしろ「シェル美術賞」にしろ、現行の美術制度は実年齢の若さと新人を同一視しているが、ウラサキのような中堅層にも有望で実力のあるアーティストは確かに存在している。ウラサキ以外で類例を挙げるとすれば、コバヤシ画廊で発表している永原トミヒロの仕事も、いま以上に注目されるべきである。それらをみすみす見逃すのは、大いなる損失というほかない。

2013/03/29(金)(福住廉)

▲ページの先頭へ

福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

文字の大きさ