2017年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

新聞錦絵─潁原退蔵・尾形仂コレクション─

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会期:2013/02/09~2013/04/14

福生市郷土資料室[東京都]

新聞錦絵とは、明治7(1874)年から数年間発行された木版多色刷りの一枚物。新聞に掲載された事件や逸話を錦絵と文章でわかりやすく伝えたマスメディアである。本展は、国文学者の潁原退蔵から尾形仂へ受け継がれてきた新聞錦絵のコレクションが同室に寄贈されたことを記念した展覧会。新聞錦絵を中心に約100点の資料が展示された。
新聞錦絵といえば月岡芳年が知られているが、今回展示された新聞錦絵の大半は、「大阪錦絵新聞」のような上方の新聞錦絵。東京の新聞錦絵より判型が一回り小さいが、扇情的な画題を色鮮やかな錦絵と平明な文章で伝える形式は、ほとんど変わらない。取り上げられている出来事は、「夫が浮気した女房を殺害した話」「養女を折檻した鬼婆の話」「外国人が猟に行き誤って子どもを撃ってしまった話」など、センセーショナルな事件が多い。開港によって輸入された西洋由来の鮮やかなインク(とりわけ赤と紫)が、暴力描写を劇的に高めているのも頷ける。
ただ、細かくみてみると、「男性として7年間暮らした女性の話」や「料理屋の娘が華族のお誘いを粋に断った話」、「古狐が娘に化けていた話」など、画題は必ずしも刃傷沙汰に限られているわけではないことがわかる。平たく言い換えれば、「ひどい話」ばかりだけでなく、「おもしろい話」や「良い話」もあったのだ。だとすれば、新聞錦絵とは明治時代に固有のニュース・メディアであったのと同時に、落語や講談のような大衆芸能にも重なりあう、ハイブリッドなメディアだったのではないだろうか。
事実、本展でていねいに解説されていたように、従来の新聞が想定する読者層が知識人だったのとは対照的に、新聞錦絵のそれは一般大衆の婦女子であり、彼らが読みやすいように、新聞錦絵の文章は平仮名を中心に記述され、漢字を用いる場合であっても、すべて振仮名が振られていた。文体も、新聞記事の文章をそのまま転載したわけではなく、同じ内容を五七調に改めることで、言葉が跳ねるようなリズム感をもたらしている。つまり、新聞錦絵の錦絵が劇的に脚色されていたのと同じように、その文章もまた劇的に演出されていたのだ。
「ひどい話」をよりひどく、「おもしろい話」をよりおもしろく、「良い話」をより良く語ること。落語や講談が開発してきた独自の文法と、浮世絵から展開してきた錦絵との合流地点に新聞錦絵を位置づけることができるのではないか。

2013/03/13(水)(福住廉)

吉原芸術大サービス

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会期:2013/03/03~2013/03/10

吉原会館ほか[東京都]

かつては遊郭、現在はソープランドの街として知られている吉原で開催された展覧会。公民館や喫茶店、神社、公園などを会場に、20組あまりのアーティストが作品を展示し、パフォーマンスを披露した。
地図を片手に作品を探し歩くなかで、ソープランド街に迷い込んで呼び込みに眼をつけられたり、関東大震災で亡くなった遊女たちを供養するために建立された吉原観音像のキッチュな迫力に圧倒されたり、街歩きと美術鑑賞を一体化させた手法は、今日では決して珍しくはないとはいえ、おもしろいことにちがいはない。ただ、展示された作品の多くは、この街独特の雰囲気や建物に埋没しがちだった印象は否めない。
そうしたなか、ひとり気を吐いていたのが、高田冬彦である。吉原神社の倉庫の一室を暗室にして映像インスタレーション《偉い石プロジェクト》を発表した。何の変哲もない石がガラスケースのなかに展示され、その前の壁面には、その石をモチーフにした映像が投影された。映像には、チンドン屋とともに石が商店街を練り歩いたり、生肉を巻いて山中に放置された石に蛆虫がわく様子を執拗にとらえたり、目隠しのうえ両手を後ろで縛られた高田自身が衆人環視のなか路上で石とともに悶絶したりする様子が映っている。
映像の中心には、必ず石があった。つまりあらゆる表現は石を伴っていたが、見方によっては石が表現の主体であるかのようにも見えた。高田がさまざまなアプローチから迫ったのは、自己表現の内核にはそうした主客の転倒がありうるということではなかったか。

2013/03/08(金)(福住廉)

今津景 個展 ‘PUZZLE’

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会期:2013/03/02~2013/03/30

山本現代[東京都]

今津景の新作展。既存のイメージをゆらめく色彩によって再構成することで夢幻的な光景を描く美術家として知られているが、今回の新作展では、これまでの作風を持続させながらも、新たな展開を遂げていた。
全体的にはドラクロワやマネ、広重など過去の美術史からの引用にもとづいていたが、個別的には画面に複数の焦点が顕在化していたように見えた。通常、絵画の画面は描写の対象となる主題に焦点が当てられ、それらをフレームによって確定することで、絵画としての均衡状態をもたらすが、今津の新作のうちの何点かは、主題を任意に消去しているからなのだろうか、画面のなかで焦点を安定化させることが著しく難しい。フレームのなかのどこに焦点を当てようとも、何とも収まりが悪く、どこか落ち着きの悪さが残るのである。
こうした焦点の複数性は、昨今の現代絵画に散見される、画面のレイヤー構造を正当化する視点の複数性とは明らかに異なっている。視点の複数性が現代社会における複雑なメディア環境を反映させることで現代絵画を一気に蘇生させようとする一方、焦点の複数性は逆に絵画としての成立条件を根本から再考させるからだ。
安定的な均衡状態を欠いた絵画は、はたして絵画たりうるのか。危険極まりないが、しかし、最も考察に値する問いを、今津は絵画において検討しているのではないか。

2013/03/07(木)(福住廉)

岡村桂三郎 展

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会期:2013/03/04~2013/03/16

コバヤシ画廊[東京都]

多くの場合、美術家が追究する主題は生涯変わることがない。だが、その表現は幾度かの変転を遂げることは少なくない。これが近代以前の絵師たちにも通底する法則であることを考えると、その変転はたえず新しさを求める近代社会の論理の現われというより、むしろ絵を描いたりものを造形化したりする、芸術の歴史全般に通底するものつくりの原型と言えるかもしれない。その瞬間を目撃することは、美術家の仕事を持続的に見守る鑑賞者にとって、滅多にあることではないが、だからこそ鑑賞者ならではの醍醐味と言えるだろう。
岡村桂三郎といえば、龍や象、蛸、魚など、人智を超えた神獣をモチーフにした作風で知られているが、今回の新作展で発表された作品には、画面にいくつもの人の顔が出現していたので驚いた。技法が変わったわけではない。しかし、画面のなかで正面を向いてこちらを見据える人の顔は、これまでの神獣以上に、得体の知れない迫力を放っていた。眼球が透明だからだろうか、仮面をかぶっているようにも見えるから、表情から心情をうかがい知ることすらできない。亡くなった者たちへの鎮魂だろうか。あるいは身の程を忘れた現代人の非人間性の象徴なのだろうか。すぐれた現代アートの多くがそうであるように、岡村の新作は同時代を生きる私たちに大いなる謎を残した。
2000年代に登場した岡村以後の日本画の描き手たちの多くが、様式の自己模倣に陥り、そのスパイラルから抜け出す糸口を探しあぐねているなか、岡村のたゆまぬ自己探究は乗り越えるべき山脈として、彼らの眼前に悠然と立ちはだかっている。

2013/03/06(水)(福住廉)

黒駒勝蔵対清水次郎長 時代を動かしたアウトローたち

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会期:2013/02/09~2013/03/18

山梨県立博物館[山梨県]

博徒、すなわち賭博を生業とする無法者ないしは無宿者についての展覧会。かつての甲斐国、現在の山梨県一帯を縄張りにしていた黒駒勝蔵を中心とした甲州博徒の歴史を文献から明らかにした。
展示から理解できたのは、江戸末期から明治初期にかけては、行政とは異なる博徒を中心とした権力構造が存在しており、それが現在ではタブー視されているのとは対照的に、庶民の暮らしに密着して機能していたこと。そして、黒駒勝蔵は富士山を挟んで清水の次郎長と対立していたが、その抗争の舞台となったのが、物流の経路だった富士川流域だったことである。博徒というアウトローを糸口として、現在とは異なる社会のありかたを想像させた意義は大きい。
しかしながら、展示物の大半が古文書だったため、展覧会としてのエンターテイメント性については、いささか物足りない印象は否めなかった。大半の現代人にとって古文は解読不可能であるから、解説文で説明を補っていたが、その要約のピントが少々甘い。映像や立体で展示にアクセントをつけようとしていたが、いずれも完成度が著しく低いため、完全に裏目に出ていた。
博徒の展覧会なのだから、少なくとも賭場を再現したり、博徒を主人公にした映画を上映したり、古文書から離れて視覚文化を活用するよう発想を転換する必要があったのではないか。常設展では、展示の構成や方法にかなりの工夫が見られただけに、惜しまれる。博物館の展示にアーティストが関わることも考えてよいだろう。

2013/03/04(月)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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