2017年09月15日号
次回10月2日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

ジミー・ツトム・ミリキタニ回顧展

twitterでつぶやく

会期:2013/05/14~2013/07/20

立命館大学国際平和ミュージアム 中野記念ホール[京都府]

ジミー・ツトム・ミリキタニ(1920~2012)は、日系アメリカ人アーティスト。サクラメントに生まれ、広島で育ち、日本画家を目指してアメリカに帰ったが、80年代からニューヨークの街角で路上生活を送りながら絵を描いていたところ、リンダ・ハッテンドーフ監督と出会い、彼女の映画『ミリキタニの猫』で広く知られるようになった。本展は、日米の歴史に翻弄されたジミーの激動の人生を、絵画をはじめ数々の資料によって回顧したもの。比較的小規模であるとはいえ、見応えのある展示だった。
ジミーの絵に一貫しているのは、過去の記憶の召喚である。たびたび描いているツール・レイク収容所の絵は、ジミーが戦時中に「敵性外国人」として強制的に収監された苦い経験に由来しているし、幼少期を過ごした広島の心象風景もいくども描いている。軍人や軍艦の図版を貼りつけたコラージュによって太平洋戦争を描写した作品もある。炎に包まれるワールド・トレード・センターなど同時代的な主題を描くこともないわけではないが、それにしても原爆ドームの描き方との連続性が強いことから、ジミーがそれらを人間の過ちという歴史に位置づけていることが伺える。やや大袈裟に言えば、ジミーの絵には日米の歴史のひろがりが体現されているのだ。
もうひとつの大きな特徴は、ジミーが画面に書き込んでいる文字。おそらくボールペンなのだろう、画面の余白に「雪山」という雅号や「広島縣人」といった自らのアイデンティティーを告げている。収容所の絵には「無名死者三百人」という文字もあるから、絵の中の文字は記録や伝達の意味合いもあったようだ。
面白いのは、それらのなかに「東京上野藝大卒」「元日本美術院會員」「日本画一位画家」といった文字も含まれていることである。むろん、これらは事実ではない。けれども、ジミーがこれらの絵を路上で描いていたという条件を省みれば、このような文字をたんなる「嘘」として退けることは難しくなる。なぜなら、路上で絵を描くということは路上で絵を見せるということであり、であればこれらの文字は虚栄心の現われである「嘘」というより、より多くの人びとに自らの絵を届けるための戦術的な「箔」として考えられるからだ。
実際、ジミーは「販売」より「伝達」を重視していたのではないだろうか。映画『ミリキタニの猫』には、ジミーが絵の前で激昂しながら演説をしていたという逸話が紹介されているが、おそらくジミーにとっての絵とは、アメリカ国籍をもっている日系人たちの財産を奪い、強制収容所に幽閉したアメリカ政府の黒い歴史を物語る媒体だった。絵は、文字や言葉と不可分だったのだ。
ジミーの絵を、ひとまずアウトサイダーアートとして分類することはできるだろう。けれども同時に、それは近代絵画以前の「絵」の伝統に位置づけることもできなくはないはずだ。展覧会の前身である油絵茶屋では油絵が口上とともに見せられていたと考えられているように、ジミーの絵も基本的には彼の肉声や言霊と切り離せないからだ。「近代」の定着にしくじったことが明らかになりつつあるいま、ジミーの絵から学ぶことは多い。

2013/06/23(日)(福住廉)

天才ハイスクール!!!!

twitterでつぶやく

会期:2013/06/01~2013/06/29

山本現代[東京都]

「天才ハイスクール!!!!」とは、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務める美学校の講座名で、本展は同講座の修了生を中心にしたグループ展。2011年以来、東京は高円寺の素人の乱12号店を会場にそれぞれ個展を開催してきたが、ついに昨年は旧東京電機大学の校舎で催された大規模なグループ展「TRANS ARTS TOKYO」で大いに注目を集めた。
その最も大きな特徴は、荒削りで奔放、野性的で直情的な美術表現。それは、ほとんどが美術の高等教育を受けておらず、その経験がある場合でも、おおむねドロップアウトしているという出自に由来している。アカデミックな知識や高度な技術は欠落しているが、その反面、美術教育の現場では敬遠されがちな、きわめてストレートなエネルギーの放出が、彼らの強みである。自分たちの日常と分かち難く結びついているネットカルチャーやアイドル、ゲーム、グラフィティといった若者文化を背景にしながら、家族愛や生きにくさ、3.11、生と死の問題といった、同時代の主題を表現する方法が、じつに清々しい。
事実、本展では旧作もかなり展示されていとはいえ、展示会場はおろか階段や洗面所、物入れなどのバックヤードにも作品を設置することで、それらの作品によって既存の空間を押し広げるほどの強力な表現意欲が伝わってくる。なかでも自分の母親への愛をテーマにした映像を見せた大島嘉人と、階段を無限に駆け上がるパフォーマンスを映像で見せたケムシのごとしが今回は際立っていた。前者は、ちょうど森美術館のLOVE展における出光真子の映像作品とは対照的に、息子の視点から母親との関係性を実直に描いたとすれば、後者は駆け上がっても駆け上がってもどこにも到達しえない今日的な無常感を簡潔に表現したのである。
とはいえ、一抹の危惧を覚えないわけではない。彼らは着々と経験値を上げており、作品そのものの質は別として、少なくとも空間の使い方に関しては抜群のセンスを発揮している。こうした点は、むしろ多くの美大生は見習うべきだろう。ところが、会場に立ち込めていた野性的で破天荒な空気感は、一方で容易にパッケージ化されやすい。仮に同展を地方都市の会場に巡回させたとしても、それぞれの会場で異なる空間的な特性を読み取りながら、ほぼ同水準の展示を構成することができるに違いない。だが、それ自体がひとつの芸風として定着すると、当初はその斬新さに目を奪われていた鑑賞者は必然的に作品の質を問うことに焦点を合わせるようになる。いくら集団性に基づくとはいえ、いくら美術教育の外側にいるとはいえ、最終的に問われるのはやはり個別の作品なのだ。
Chim↑Pomのように強固な集団的主体性を構築しているわけではなく、あくまでも個々のアーティストの集団としてあるならば、彼らにとって必要なのは「天才ハイスクール」という枠組みの外側に踏み出すことではないか。それは、天才ハイスクールという看板のもとで個展を催すことではない。もっと徹底的に外部へ踏み外し、さまざまな世界を渡り歩き、あるいは徹底的にひきこもり、場合によってはアートからも距離を取るような方向性に身を投げ出すこと。逆説的かもしれないが、野性が飼い慣らされることを拒否しながら表現をさらに展開するには、そのような方策が最も適切だと思う。

2013/06/13(木)(福住廉)

桂ゆき ある寓話

twitterでつぶやく

会期:2013/04/06~2013/06/09

東京都現代美術館[東京都]

桂ゆきの生誕百年を記念した回顧展。美術館の回顧展としては、これまで山口県立美術館(1980)や下関市立美術館(1991)があったが、東京では初めてである。油彩画をはじめ、コルクによるコラージュ、書籍の装丁や挿画、スケッチや写真などにより、およそ60年にわたる長く幅広い画業を振り返った。
本展は、桂ゆきの創作活動を「コラージュ・細密描写・戯画的表現」の3点で要約していたが、それらを鑑賞した実感を整理すると、「ユーモア・抵抗・柔和性」の3点になると思う。
事実、桂ゆきの絵には軽やかな哄笑を誘うものが多い。樹木に生えたキクラゲだけを描いた絵を見ると、そのユニークな着眼点に思わず笑みがこぼれるし、《人が多すぎる》(1954)や《おいも》(1987)にいたっては、タイトルだけですでに可笑しい。画面にたびたび登場する上向きの目玉も、特定の物語を説明する戯画的なキャラクターというより、あらゆる役割や意味から解き放たれたナンセンスな存在なのだろう。
ただ同時に、そうしたユーモアが抵抗の精神の現われであることもまた事実である。桂ゆきの絵画的な特徴は、シュルレアリスムやアブストラクト、ルポルタージュ絵画、ソフト・スカルプチュアなどと共鳴しながらも、それらから逸脱している点にある。シュルレアリスムの代名詞とも言える「地平線のある絵」を嫌悪していたという逸話が残されているように、桂ゆきは特定の表現形式に回収されることを明らかに拒んでいた。様式をみずから更新していく運動性によって、社会や政治というより、むしろ美術そのものに抵抗していたのだ。だからこそ、西欧的な絵画の模倣でもなく、日本的な土着性への回帰でもない、独特の絵画表現が可能になったのだろう。
とはいえ桂ゆきの作品は、どちらかといえば、日本的な土着性に傾いている。画面にはアジの開きや山菜など私たちの食生活を彩る主題が頻出しているし、晩年に取り組んだ紅絹を用いた立体表現のそれも、釜や下駄、団扇、しゃもじといった庶民の暮らしを支える道具が多い。企画者の関直子が指摘しているように、ここに家事労働によって酷使され打ち捨てられた道具が妖怪と化すとする「九十九神」との類縁性を見出すこともできるかもしれない。
けれども、それらの作品があまりにも土俗的にすぎないのは、そこにある種の柔和性が一貫しているからではないだろうか。一般論で言えば、細密描写には偏執的な求心力が作用していることが多いが、桂ゆきの場合、そうした執着心はほとんど見受けられない。むしろ、切り取られた樹木を描いた《伐採》(1942)に表わされているように、対象を柔らかく包み込むような優美な印象が強い。前述した《人が多すぎる》は、丸い円で抽象化した複数の人間の顔を漁網で絡めとり、引き上げる絵だが、それぞれの円がほどよく離れているせいか、あるいは緑と青を基調としたバルールによるのか、凝集した圧迫感はまったく感じられない。むしろ際立っているのは、網を表わす大きな円の中に人を表わす小さな円をていねいに収めた優しさである。そこかしこに「温和なにおい」(久保貞次郎)が漂っているのだ。
コラージュや細密描写を手がけるアーティストは数多いし、戯画的表現にいたっては昨今の現代アートの王道とすら言える。けれども、ユーモアと柔和性によって美術そのものに抵抗している美術家は明らかに希少である。桂ゆきの今日的なアクチュアリティーはここにある。

2013/06/08(土)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00020863.json s 10089545

LOVE展 アートにみる愛のかたち

twitterでつぶやく

会期:2013/04/26~2013/09/01

森美術館[東京都]

「愛」についての展覧会。草間彌生、オノ・ヨーコ、ジェフ・クーンズ、デミアン・ハーストから、ロダン、マグリット、ブランクーシ、キリコまで、文字どおり古今東西のアーティストによる200点あまりの作品が一挙に展示された。
あまりにも中庸なテーマだからだろうか、総花的な展観であることは間違いない。とはいえそうだとしても、その群生のなかからひときわ美しい花を自分の眼で選び出すことが、こうした展覧会の楽しみ方である。
注目したのは、3点。アデル・アビディーンの《愛を確実にする52の方法》は、作家本人がタイトルが示すテーマについてカメラに向かって語りかける映像作品。恋愛マニュアルの形式をシミュレートしながらも、内容に皮肉や冗談を交えることで、逆説的に真実味を増大させた。映像としては簡素であるが、その内容は思わず膝を打ったり、首肯したりするものばかりでおもしろい。視点が男性側に置かれているので、ややもすると女性側からの反発もなくはないのかもしれないが、機知に富んだ翻訳も手伝ってか、来場者の多くは性差にかかわらず共感を寄せていたようだ。
ローリー・シモンズの《LOVE DOLL》は、日本で購入したラブドールをニューヨークに持ち帰り、衣服を着用させてさまざまなシーンで写真を撮影した連作。デートを楽しんだり、家事に勤しんだり、終始一貫して人間として扱いながら愛情を注いでいる。ところが、その写真そのものが人工的に撮影されたことを自己言及的に表わしているので、結果として変態性や人工性が倍増した奇妙な写真になっているところがおもしろい。
変態的といえば、むしろ出光真子の《英雄チャン ママよ》の方が強烈である。溺愛してやまない息子が遠方で暮らすようになってから、自宅で撮影したビデオ映像を食卓で上映しながら日常生活を送る母親の生態を描いた映像作品だ。映像のなかの息子を愛おしく見つめ、甘い声で語りかける母親の姿は、フィクションとはいえ、なんともおぞましい。とても80年代のビデオ・アートとは思えないほどの強い映像だったが、裏を返せば、つまりそれだけこの問題が依然として現在も継続しているということなのだろう。
3点に共通しているのは、いずれも愛の裏側を的確に表現しているところ。ダークサイドをえぐり出すことのできるアートの力を存分に楽しめる展観である。

2013/06/08(土)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00021202.json s 10088835

立原真理子 展 戸とそと

twitterでつぶやく

会期:2013/06/03~2013/06/08

藍画廊[東京都]

会場の天井からいくつものアルミサッシがぶら下がっている。近づいてよく見ると、それらはいずれも網戸だった。さらに目を凝らすと、大小さまざまな網戸の網に色のついた糸を縫いこむことで、風景画を描いていることがわかった。とはいえ支持体である網戸の網自体が背景と融け合うほど見えにくく、しかもそこに縫いこまれた糸の線や色面でさえ明瞭ではないため、結果として非常に茫漠とした絵画になっている。あるいは、網戸というフィルターを通過して初めて立ち現われる風景という点に、室内に視点を定めがちな現代人の視線のありようが暗示されているのかもしれない。
いずれにせよ、大きく言えば、ゼロ年代の絵画に顕著な、はかなく、浮遊感のある性質を共有しているのだろう。けれども、立原による絵画がおもしろいのは、それらを既成の絵画という形式にのっとって表現するのではなく、その形式を含めて表現したからだ。絵画を描くには、内容より前に、形式からつくり変える必要があったのだ。
絵画を見ること、あるいは対象を見ること。この時代にふさわしい絵画は、おそらくこの基本的な身ぶりを根本的に再考することから生まれるに違いない。

2013/06/06(木)(福住廉)

▲ページの先頭へ

福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

文字の大きさ