2017年11月15日号
次回12月1日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

「ウルの牡山羊」シガリット・ランダウ展

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会期:2013/05/17~2013/08/18

メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

イスラエルのアーティスト、シガリット・ランダウの個展。「ヨコハマ・トリエンナーレ2011」で発表した、死海に浮かぶ螺旋状の西瓜を主題とした詩情性の高い映像作品が記憶に新しい。けれども、今回展示された《Out in the Thicket 茂みの中へ》を見て、彼女の作品が詩情性だけにとどまらない拡がりを持ちえていることを知った。
4つのプロジェクターに映し出されていたのは、それぞれ異なるオリーブの木。青々と葉が生い茂った一本の樹に、1台の収穫機がゆっくりと接近する。巨大なアームで樹木を挟み込むと、強烈なバイブレーションを始動、するとオリーブの実が次から次へと雨のように落ちてくるという仕掛けだ。なんのことはない、じっさいのオリーブの実の収穫を映した映像なのだが、バイブレーションの音を劇的に増幅しているせいか、それとも震動に揺れる木々があの震災を連想させるからなのか、記録映像以上の何かを感じさせているのだ。
静かに忍び寄り、不意に強力な震動を加えるという点では、パレスティナの土地を奪い取ったイスラエルの暗い歴史を読み取ることもできるだろう。だが、映像を見ていて心に焼きつけられるのは、衝撃的な震動の大きさというより、むしろその耐え難いほどの長さである。地震であれば、ある程度の時間が経てば、おのずと収まる。土地をめぐる戦争であれば、連続的というより断続的だろう。ランダウの映像は、しかし、暴力的な震動が、ただただ、果てしなく続く。終着点をまったく見通すことができないほど、あるいは実を落とすという目的を突き抜けて樹木自体を破壊してしまいかねないほど、激しい震動が一定の水準を保ちながら延々と続くのだ。
しかし不思議なのは、その非日常的な時間にしばらく身を委ねていると、恐怖や不安の向こう側で、ある種の哄笑を経験できることだ。尋常ではないほどの震動と音を体感しているうちに、どういうわけか腹の底から笑えてくるのだ。むろん、それは笑いを求めてくるお笑い芸人の芸に否応なく応じる類の笑いではない。なんというか、身体が震動のリズムに呼応し、共鳴し、共振した結果、自己の意志とはまったく無関係に、底知れぬ哄笑を生み出したと言えばよいのだろうか。ほんとうに恐ろしいのは、この笑いである。

2013/07/31(水)(福住廉)

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吉永マサユキ「I’m sorry」

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会期:2013/07/16~2013/07/28

Roonee 247 photography[東京都]

写真家の吉永マサユキによる「夫婦喧嘩」を主題にした写真展。実在する夫婦を被写体にして、家庭を顧みないダメな旦那を屈強な嫁が懲らしめるという設定で演出したようだ。タイトルの「I’m sorry」とは、だから旦那による心の叫びだろう。
モノクロ写真で展示された26点の作品は、いずれも面白い。ジャージ姿の嫁がパンチパーマの旦那に馬乗りになって首を絞めたり、掃除機で頭を叩いたり、文字にするとひどく暴力的だが、じっさいの写真は、思わず松本人志のコント「ミックス」を連想してしまったほど、可笑しみがあるのだ。
このユーモアが、畳とタンス、磨硝子などで構成される庶民の生活空間に由来するのか、あるいは彼らのそれぞれが際立ったキャラに起因しているのか、わからない。けれども、それが彼らの諍いの根底にあるはずの愛情がなせる業なのだろうと想像させることは間違いない。
これらの写真は、およそ20年前に撮影されており、吉永にとってのルーツとされているらしい。暴走族であろうとゴスロリであろうと何であろうと、吉永の写真には被写体と正面から向き合う誠実さが感じられるが、そこでは写真を撮る当人にとっても撮られる被写体にとっても見る私たちにとっても「肯定」になりうる写真が目指されているように思えてならない。これは単純なようでいて、じつはもっとも難しい、写真の大きな力ではないか。

2013/07/26(金)(福住廉)

薄井一議 写真展「Showa88/昭和88年」

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会期:2013/06/15~2013/08/08

写大ギャラリー[東京都]

「マカロニキリシタン」で知られる薄井一議の写真展。タイトルは、元号としての昭和が継続していたら今年が「昭和88年」になるということ。その架空の時間軸を設定したうえで、大阪の飛田新地や京都の五条楽園、千葉の栄町などで撮影した写真作品18点を展示した。
「昭和」という語感にすでに哀愁が漂っているように、その写真といえば陰りや汚れ、そして湿度が付き物だった。私たちが想像する「昭和」のイメージも、おおむねそのようなものになりつつある。ところが薄井の写真には、そうした暗鬱とした空気感は一切見られない。むしろ明るく、色彩豊かで、きれいに乾いている。大半の写真に出現している鮮やかな桜色は、薄井にとっての「昭和」が決してノスタルジーの対象ではないことを如実に物語っている。
もちろん、「昭和」を象徴する記号がないわけではない。キャバレー、時代劇のポスター、大衆演劇の役者、そして雪駄を履いたスキンヘッドのチンピラたち。とはいえ、刀を握りしめた彼らが身にまとうシャツは、いずれもピンクや赤でけばけばしい。「昭和」が続いていたら、つまり「平成」が訪れていなかったら、造形は変わらずとも、このように色彩が激変していたに違いないということなのだろう。
とはいえ、それだけではなかった。最後に展示されていた一枚は、被災地の写真。画面の中央には、破壊された街並みを貫く一本の車道が写されている。周囲の痛ましい傷跡とは対照的に、きれいに片付けられたその車道がやけに眩しい。チリひとつ落ちていない清潔な路面は、復興の必要であると同時に、おそらく現代都市生活の象徴でもあるのだろう。そう考えると、薄井の写真に表われている明るい色彩も、現在の都市社会に欠かすことのできない構成要素であることに気づく。
そう、「昭和88年」というプロジェクトは、たんなるフィクションではなく、かといってノスタルジーでもなく、あくまでも現在を逆照するために仮設された装置なのだ。だからこそ薄井は、このようにいかにも今日的な明るい写真で撮ったのだ。だとすれば、その装置からは明度の高い色彩や除菌的潔癖性のほかにも、さまざまな要素が導き出されるのではないだろうか。「昭和」をとおした現在の表現には、あらゆる可能性が潜在しているに違いない。

2013/07/19(金)(福住廉)

大竹夏紀 個展6

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会期:2013/07/15~2013/07/27

GALLERY b. TOKYO[東京都]

ろうけつ染めを駆使した染織絵画で知られる大竹夏紀の個展。
きらびやかな少女をモチーフとしながら、それらの図像を支持体から切り出して壁面に直接貼りつける方法はこれまでと変わらないが、アイドルたちを彩る造形や色彩はこれまで以上に過剰になっていたように見受けられた。全身を収めた構図ではなく、頭部を中心に構成された作品が多かったせいか、顔の周りに装飾された花や星、宝石などの描写も、色彩のグラデーションも、目眩を催すほど、非常に細かい。
華美な装飾性はアイドルに必要不可欠である。ところが、大竹の作品が面白いのは、デコラティヴな方向性を極限化することによって、装飾されえない少女の本質的なところを浮き彫りにする逆説を生んでいるからだ。装飾が過剰になればなるほど、少女たちの白い地が際立つと言ってもいい。実際、見る者がその色彩と造形に目を奪われることは事実だが、絶え間ない視線運動がどこに行き着くかというと、それは顔面の中央、すなわち何物にも染まっていない絹の下地なのだ。
そこに何が隠されているのか、ほんとうのところはわからない。けれども、その空白に視線が誘われることの意味は大きい。装飾や化粧の本質を突いているからではない。描くことの意義が描かないことに置かれているからだ。

2013/07/19(金)(福住廉)

横谷研二 展

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会期:2013/07/01~2013/07/06

Gallery K[東京都]

会場の天井から長い立方体が何本もぶら下がっている。表面には細かい網の目模様が全体に広がっており、よく見ると素材はダンボールだった。それらのあいだを縫いながら見て歩くと、来場者の動きに感応してわずかに回転するほど、軽いようだ。離れてみると、回転する立方体の表面に時折モアレが生じて見える。遠景を見透かすほどの浮遊感を覚えた次の瞬間、たちまち網の目がつぶれてソリッドな量塊性が飛び出してくるのだ。無機質な立方体でありながら、回転に応じてその表情を次々と変転させるところが、じつに面白い。求心性にもとづく彫刻の伝統を、これほどまでに軽やかに脱臼させる遠心性は、なかなかない。

2013/07/04(木)(福住廉)

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福住廉

1975年生まれ。美術評論家。著書=『今日の限界芸術』共著=『フィールド・キャラバン計画へ』『ビエンナーレの現在』『道の手帖 鶴見俊輔』。

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