2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

カミナリとアート 光/電気/神さま

会期:2017/07/15~2017/09/03

群馬県立館林美術館[群馬県]

文字どおり雷をテーマとした企画展。自然現象としての稲妻を主題とした絵画や写真、雷神像など信仰心から生まれた民俗学的な資料、さらには雷を構成する光、音、そして電気などで表現された現代美術の作品など、69点が展示された。
同館がある関東平野の北部は、もともと雷が多発する地域として知られているが、昨今の異常気象は雷の脅威が特定の地域に限定されないことを如実に物語っている。ただ、その閃光と雷鳴が人々の恐怖を駆り立てることは事実だとしても、大地に轟くような音とともに空を走る稲妻の光線にある種の美しさや高揚感を感じることもまた否定できない。人間にとって雷とは両義的な自然現象であり、それゆえ崇高の対象であると言えるかもしれない。
バークやカントが練り上げた崇高論の要諦は、それを美と切り離しつつも、その根底にある種の逆転構造を見出した点にある。すなわち不快の経験がいつのまにか快楽のそれに転じること。アルプスの険しい山岳にせよドーバー海峡の荒々しい大海原にせよ、人間の生存を脅かしかねないほど強大な自然の猛威を目の当たりにした人々は、それに慄きながらも、同時に、それに惹きつけられる矛盾した心情を抱いた。自然への畏怖が時として畏敬の念に転じるような逆転する美学的概念こそが崇高にほかならない。
そのような観点から本展を鑑賞してみると、いわゆる「美術」の作品と「民俗」学的な資料とのあいだに歴然とした差を痛感せざるをえない。後者が崇高的な両義性を内包しているように感じられる反面、前者はおよそ一面的であるように感じられるからだ。富士山の前に立ち込めた暗雲の中に走る稲妻を描いた《怒る富士》(1944)であれ、白髪一雄の《普門品雷鼓制電》(1980)であれ、確かに雷の恐ろしさや激烈なエネルギーを体感することはできるが、崇高的な逆転構造を見出すことは難しい。それに対して、前近代の絵師たちが描いた風神雷神図はおおむねユーモラスに描写することによって、そのような逆転構造をよりいっそう強調しているように見える。一見すると雷の壮大な脅威にはそぐわないようだが、風神雷神をチャーミングなキャラクターとして描写することが、じつのところ雷の暴力性を逆照しているからだ。雷が恐ろしい現象であることが前提となっているからこそ、それをあえて脱力したキャラクターとして形象化していると言ってもいい。
現代社会から遠のいてゆく崇高──。むろんバークやカントが想定していた自然の崇高は、今日の都市社会においては、さほど大きなリアリティをもっているとは言い難い。その対象を人工的な都市社会に差し替えた「テクノロジー的崇高」なる概念が捻出されたこともあったが、前近代の人々と比べれば、現代人が雷の脅威に直面する機会は乏しいことに変わりはない。
ところが唯一の例外として考えられるが、ストーム・チェイサーこと青木豊である。嵐を追跡して観測・撮影するプロフェッショナルで、特に現代美術のアーティストというわけではないし、現代写真のフォトグラファーというわけでもないのだろうが、青木こそ、今日の崇高を体現する希少なクリエイターではなかったか。なぜなら彼が撮影した写真には、稲妻の美しさと恐ろしさが渾然一体となって写し出されていることが一目瞭然であるからだ。しかし、それだけではない。その写真には、本来であれば一目散に逃げ出さなければならないはずの雷を、逆に率先して発見して追い求める、異常なまでの執着心がにじみ出ている。あるいは、恐ろしさの痕跡が抹消されているように感じられるほど美しさが際立っている。こう言ってよければ、その狂気をはらんだ熱意に恐ろしさを感じるのだ。
不快の経験から快感のそれを導くのでなく、逆に、快感の経験を突き詰めることによって不快のそれを引き出す。やや大げさに言い換えれば、青木豊の仕事はバークやカントの逆転構造をさらに逆転させているのではないか。そこにこそ今日の崇高が立ち現われている。

2017/07/20(木)(福住廉)

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プレビュー:東アジア文化都市2017京都 アジア回廊 現代美術展

会期:2017/08/19~2017/10/15

二条城、京都芸術センター[京都府]

日中韓の3カ国から選ばれた3都市が交流し、1年間を通じてさまざまな文化芸術プログラムを行なう「東アジア文化都市」。今年は日本の京都市、中国の長沙市、韓国の大邱広域市が選ばれた。「現代美術展」は、京都市のコア期間事業「アジア回廊」のメインプログラムである。会場は世界遺産・元離宮二条城と京都芸術センターの2カ所、建畠晢がアーティスティック・ディレクターを務め、参加アーティストは、西京人、草間彌生、中原浩大、やなぎみわ、キムスージャ、ヒョンギョン、蔡國強、ヤン・フードンなど25組である。昨年の日本会場だった奈良市では、東大寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺などの有名社寺を舞台に、大規模な現代美術展が繰り広げられた。今回は2会場と小ぶりな規模に落ち着いたが、その分濃密な展示が行なわれることを期待しよう。両会場は地下鉄で行き来でき、市内中心部のギャラリーや観光名所(平安神宮、南禅寺、知恩院など)にも地下鉄1本でアクセスできる。遠方の方は、京都観光も兼ねて出かけるのが良いと思う。

2017/07/20(木)(小吹隆文)

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千光士誠 母展

会期:2017/07/04~2017/07/09

ワイアートギャラリー[大阪府]

老齢の着物姿の母を、ハイライトを強調して描いた具象の肖像画。そのストレートさ、光と闇が交錯する劇的な構成が印象的だった。千光士の作品は2006年から2012年頃にかけて個展やグループ展で見ていたが、当時は墨を用いたダイナミックなドローイングで、本展の作品とは全然違っていた。また近年の彼は、一対一で対象と向き合う肖像画のプロジェクトを行なっており、ギャラリーで見る機会がなかったため、動向を掴めていなかった。久しぶりに再会した千光士は相変わらず精力的で、確信をもって自分が成すべきことに邁進していた。画風が変化したと言っても、彼のテーマは最初から「人間」であり、その意味では一貫した活動を続けているのだ。今後の活動予定については聞かなかったが、一対一のプロジェクトをまとめて発表する機会があれば面白いのではないか。もちろんほかの作品でも良いので、今後も展覧会活動を続けてほしい。

2017/07/06(木)(小吹隆文)

澤崎賢一『動いている庭』

会期:2017/06/24~2017/07/07

第七藝術劇場[大阪府]

フランスの庭師、ジル・クレマンの「動いている庭」という思想を、彼の原点となった自宅の庭とともに紹介するドキュメンタリー映画。クレマンの庭師としての基本的姿勢は、植物や動物との共生、自然の変化、生物多様性を尊重することにある。例えば、生育の早い植物が道を塞ぎそうになったら、植物を引き抜く代わりに自分の歩く道を変える。大木が倒れた後の地面に一斉に種子が芽吹いたら、雑草として抜くのではなく、自然に生えた草をそのままにしておく。生物多様性を守るため、昆虫を殺虫剤で殺さない。自身の仕事は「引き算の手入れ」であり、「できるだけ合わせて、なるべく逆らわない」と語るクレマン。その結果、「庭」は毎年、姿もかたちも変え、年によって違う色の花が咲くと言う。「谷の庭」や「野原」と名付けられた広大な庭は、管理された「庭」というより、雑木林や草原のようだ。映画は主に、自宅の庭を案内しながら語る姿、日本での講演の様子、そして日本での滞在時のシーンが交互に展開して構成されている。
ただし、監督自身が記しているように、クレマンの「庭」を訪れて撮影したのは、8月中旬のわずか1日半ほどの滞在だった。映画タイトルからは、「季節ごと、数年のスパンで『動いていく』庭の動態的な姿」を定点観測的に記録したのかと期待したが、そうではなかったのが惜しまれる。むしろカメラが捉えるのは、自身の庭で、日本での講演で、「動いている庭」という哲学を言葉で語るクレマンの姿だ。また、日本での滞在では、庭園史研究者や京都の寺院の庭師らとも交流するが、どちらかと言えばオフショット的な扱いに寄りがちで、互いの自然観や「庭」の文化史の相違や共通点について、もっと突っ込んだ議論があれば、とも思う。
それでも、冒頭と終盤近くに長回しで撮影された、庭で淡々と手入れを行なうクレマンの、身体に染み込んだ一連の所作は流れるようで美しい。小雨が降る中、空気に漂う湿り気やみずみずしい植物の匂いも感じられるようだ。なお、クレマンの思想をより知るためには、映画にも登場した庭師・庭園史研究者である山内朋樹の訳による『動いている庭』がみすず書房から出版されている。
公式サイト:http://garden-in-movement.com

2017/07/06(木)(高嶋慈)

國府理「水中エンジン」REDUX

会期:前期2017/07/04~2017/07/16、後期2017/07/18~2017/07/30

アートスペース虹[京都府]

國府理(1970~2014)が2012年に発表した問題作《水中エンジン》。同作は彼が愛用していた軽トラックのエンジンを水槽に沈めて稼働させるもの。エンジンを水に沈めること自体に無理があり、2012年の個展(初お披露目)では彼がつきっきりでメンテナンスを続けていた。同作は発表時期からも分かる通り、東日本大震災の原発事故から着想したものだ。その後、2013年に西宮市大谷記念美術館(兵庫県)での個展に出品され、今年4月から6月にかけて小山市立車屋美術館(栃木県)で行なわれた「裏声で歌へ」展にも再制作版が展示されている。さて肝心の本展だが、会期を2週間ずつ前期と後期に分け、前期は記録映像とエンジンのみを吊り下げた状態で展示し、後期は再制作版と2012年の個展で撮られた写真2点で構成された。同作は震災後につくられた美術作品のなかでも特に重要なものであり、その姿が記録だけでなく(再制作版とはいえ)実物で示されたのは特筆すべき成果だと思う。別の観点でいえば、われわれはひとつの美術作品が伝説化されていく過程をつぶさに見たことになる。例えば関根伸夫の《位相─大地》のように、何十年経っても消えない美術アイコンがここに生まれたということか。こういう卑俗な発言をすると美術ファンや関係者から軽蔑されるかも知れないが、それもまた一面の事実だと思う。

2017/07/04(火)、2017/07/18(火)(小吹隆文)

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