artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

CET23 OPEN START

会期:2023/10/23~2023/11/05

東日本橋・馬喰町エリア各所[東京都]

そういえば東京ビエンナーレは今日までだったな。会場があっちこっちに散らばっているから、どこか無料でたくさん見られるところはないかと調べたら、東日本橋・馬喰町エリアに集中していた。エトワール海渡リビング館という会場は有料だったのでパスし、それ以外の10カ所ほどを回ったのだが、後でよく見直したらエトワール海渡だけが東京ビエンナーレの企画で、それ以外はCET(セントラルイースト・トーキョー)によるイベントだった。CETは空洞化していたこのエリアを活性化するために20年ほど前から始めた「アート・デザイン・建築の複合イベント」で、2010年にいったん終了したが、東京ビエンナーレの開催を機に再起動させたという。つまりCETが東京ビエンナーレの企画に乗ったかたちらしい。まあ見る側にとってはどっちでもいいんだけど。

期待に違わぬ力作を見せてくれたのが宇治野宗輝だ。廃屋となった3階建ての一軒家を丸ごと使い、「建築物一棟をグルーヴボックスにするプロジェクト」を展開している。各階ごとに廃車や机や照明などを用いて、動いたり光ったり音が出たりするインスタレーションを構築し、それぞれを垂直に連動させているのだ。これは見ていて飽きない。その近くの古いビルの側壁にドローイングしたのは小川敦生。渦巻きや曲線に雪の結晶のような枝葉がついたパターンで、昔流行ったフラクタル図形を思わせる。工事用蓄光チョークを使っでいるので、夜見たほうがきれいかも。こういうグラフィティやストリートアートはもっとあってもいい。



宇治野宗輝《dormbeat》[筆者撮影]


その向かいのビルでは委細昌嗣と渦波大祐の《Silent City》(2020)を上映。人ひとりいない東京の繁華街を写した映像作品で、おそらくコロナ禍の早朝にでも撮影したのだろう、見事に人も車も写っていない。思い出したのは、台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)による《日常演習》(2017)という映像。だれもいない静まり返った台北の街をドローンで撮影したもので、CGかと思ったら、年にいちど行なわれる防空演習日の外出禁止時間に撮影したのだという。戦争やパンデミックにはこうした非現実的な無人の都市が出現するのだ。でも最近ではCGやAIでいくらでも人を消せるから、だれも驚かなくなるかもしれない。いま「人を消せる」と書いたけど、映像とはいえ簡単に人を消せるというのもどうなんだろ。ともあれ映像に限らず、これからの芸術表現にはAIに負けないリアリティが必要となるだろう。



小川敦生《測量標》[筆者撮影]


CET23 OPEN START:https://centraleasttokyo.com

2023/11/05(日)(村田真)

横山大介「言葉に触れる身体のためのエチュード」

会期:2023/09/24~2023/10/28

VISUAL ARTS GALLERY[大阪府]

マイノリティの当事者が、マイノリティとしての自らの身体的な経験を、それをもたないマジョリティと共有することは可能なのか。それがコミュニケーションを介した共同作業として行なわれるとき、「マイノリティ/マジョリティ」「教える/教えられる」といった関係性の反転や流動化こそが賭けられているのではないか。そのときアートは、社会的なエチュード(練習)として存在し始めるだろう。

吃音をもつ写真家の横山大介は、他者とのコミュニケーションの方法として、深い断絶を感じる会話よりも、カメラを通して視線を交換する行為の方がしっくりくるという感覚から、被写体と真正面から向き合って撮影したポートレートのシリーズ「ひとりでできない」を中心に発表してきた。本展では、音楽家らと協働し、自身の吃音を、「他者の身体への移植を経由して自らへ再移植する」行為を通して見つめ直した映像作品《言葉に触れる身体のためのエチュード》が発表された。



「言葉に触れる身体のためのエチュード」展示風景(2023)、VISUAL ARTS GALLERY


横山は、妻や友人との日常的な会話、ホテルのチェックイン時の会話などを録音し、そのなかから自身の吃音の特徴が出ているフレーズを抽出した。その音声データを、菊池有里子(音楽周辺者)に依頼し、「吃音スコア」として譜面化した。さらに、その譜面を中川裕貴(音楽家、チェロ奏者)に渡し、譜面を見ながら音声データを繰り返し聞いてもらい、スネアドラムでリズムを刻む「演奏」に置き換えてもらった。映像作品は、横山が「吃音スコアの演奏」を中川から教えてもらいながら「練習」する行為を記録したものだ。身体性が如実に現われる打楽器として、スネアドラムが選ばれた。また、菊池が手書きで書いた譜面を、さらに横山がトレースした「吃音スコア」も展示された。



「言葉に触れる身体のためのエチュード」展示風景(2023)、VISUAL ARTS GALLERY



シリーズ「言葉に触れる身体のためのエチュード」より(2023)HD Video[© Daisuke Yokoyama]


吃音とは、発話しようとしたときに思うように言葉が出ない障害であり、3つの症状がある。「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは」のように最初の音を繰り返す「連発」、「ぼーーくは」のように最初の音が引き伸ばされる「伸発」、「……ぼくは」のように最初の音が出てこない「難発」の3つである。横山が抽出したのはごく短いフレーズだが、「連発」と「伸発」の両方が混在するような場合もある。例えば、《言葉に触れる身体のためのエチュード #001「かかからだやろ」》では、「か、か、かーらだやろ」という発音が、「タン、タン、スー、タタタタッ」という音の連なりとして聴こえる。「か、か、」の連発は強く短く叩き、「かー」と伸びる音はスネアドラムをブラシでこする奏法で表現され、最後の「らだやろ」は短く小刻みに叩かれる。短いフレーズだが、音の緩急や強弱をつけながら「演奏」するのは難しく、「ここは間髪入れずに」「もう一度」といったアドバイスやダメ出しを中川から受けながら、横山は何度も反復練習する。最初に中川が「お手本」の演奏を示すのだが、練習のなかで横山自身が「ここはちょっと違う」「この音の部分をもっと強く」といった修正を加える場合もある。「どちらが教えているのか」は曖昧に揺れ動き、横山と中川は互いに教え合ってズレを修正しながら「吃音のリズムの再現」に近づけていく。それは正解のない、近似値を手探りで探っていく共同作業だ。



シリーズ「言葉に触れる身体のためのエチュード」より(2023)HD Video[© Daisuke Yokoyama]


ここに本作の肝がある。例えば、映画『英国王のスピーチ』(2010)のように、「吃音を直す」矯正訓練として、「正しい発声」をもつ人が、もたない人に一方的に教える関係ではなく、「吃音のリズムを身体のなかにもっていない人」と、そのリズムを共有するためのレッスンなのだ。2ビートや4ビートのような型のあるわかりやすいリズムではなく、極めて複雑で変則的なリズムであるがゆえに、その「再現」は難しい。吃音の矯正訓練が、「他者の身体感覚に介入してエラーを書き換えようとする行為」であるとすれば、本作で起きているのは、むしろ、非当事者の中川の側において、「他者の身体のリズムが自身の身体に侵入し、書き換えられる」という事態だ。譜面化というかたちで「身体から切り離された声」は、演奏によって再現する行為を通して、その身体的なリズムをもたない人と共有するための手段となる。

そして、ワンフレーズを何度も反復する練習のプロセスを見ているうちに、観客である私もまた、傍らの譜面と見比べ・聴き比べながら、脳内でそのリズムをトレースし、イメトレ的に反復再生していることに気づく。本作に冠せられた「エチュード(練習)」は、何重もの意味をはらんでいる。それはまず、横山自身が、譜面化とドラム演奏への置換という二重の外部化の手続きを経て、自身の吃音を身体的に再インストールするための「練習」である。そこでの他者の介在は、「吃音のリズム」をもっていないマジョリティがどう身体化して共有できるか、という社会的なレッスンでもある。「ネガティブ」とされる特性について、腫れ物に触るようにではなく、当事者と非当事者がともにリラックスした状態で、どう身体的な経験として共有できるかというレッスン。

エチュードには「習作」の意味もあるが、本作での試みは、例えば観客も実際にドラムを叩く練習に参加するワークショップを開くなど、さらなる発展の可能性があるだろう。それは、アートの社会的な意義の拡張でもある。


関連レビュー

Kanzan Curatorial Exchange「写真の無限 」vol.1 横山大介「I hear you」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年06月15日号)

2023/10/28(土)(高嶋慈)

開館10周年記念展ニューホライズン 歴史から未来へ

会期:2023/10/14~2024/02/12

アーツ前橋+前橋市中心市街地[群馬県]

アーツ前橋の開館10周年記念展。振り返れば、作品紛失とか契約不履行とかいろいろ「歴史」があったけど、とりあえず置いといて「未来」の「新たな地平」へ踏み出そうってか(笑)。「ニューホライズン」の芸術監督はアーツ前橋の特別館長に就任した南條史生氏。特別館長ってなんだ? 南條氏は、共同ディレクターを務めた第1回横浜トリエンナーレでは「メガ・ウェイブ──新たな統合に向けて」を、森美術館の副館長時代には開館記念展に「ハピネス──アートにみる幸福の鍵」を、館長時代の10周年記念展では「LOVE展 アートにみる愛のかたち」を、それぞれ手がけてきた。カタカナ・横文字のタイトルに、明るく前向きなサブタイトルをつける傾向は変わっていない。

会場はアーツ前橋のほか、近所の白井屋ホテル、百貨店、空きビル、路上にも広がり、出品作家は計26組。展示作品は未来志向の割に映像やメディアアートは意外と少なく、絵画が多い。特に目立つのはブラッシュストロークを強調した作品で、井田幸昌、武田鉄平、山口歴がそれに当たり、ペインタリーな五木田智央と川内理香子も加えれば5人に上る。だがよく見ると、武田は筆触を精密に写したフォトリアリズム絵画、山口はボードを筆跡のかたちに切り抜いた一種のレリーフで、どちらもブラッシュストロークをモチーフにした「だまし絵」にすぎない。こうしたトリッキーなだまし絵は最初は目を引くものの、仕掛けがわかればすぐ飽きてしまう。

メディアアート系ではビル・ヴィオラとレフィーク・アナドールによる映像、ジェームズ・タレルとオラファー・エリアソンによる光を使ったインスタレーションなどがあるが、アナドール以外はこぢんまりしている。ちなみに、アナドールの映像は鮮やかな色彩の液体が色を変えながら流動していくもので、これを絵具の奔流と捉えればブラッシュストロークにも通じる。だまし絵も含めて視覚的にインパクトのある作品が多く、見て楽しめる展覧会になっている。

異彩を放つのが村田峰紀だ。交差点に面した1階のガラス張りのロビーに白い箱を置き、村田自身がすっぽり入って首だけ出しているのだ。ポータブルサウナにも見えるが、どっちかといえば晒し首。時折ヴィーンと機械音を発しながら振動する。自慰でもしてるのかと想像してしまうが、たぶん箱のなかで本を引っ掻いているんだろう。「ニューホライズン」というさわやかなタイトルに抗うような不穏なパフォーマンスだ。彼が前橋出身という来歴を抜きに選ばれたとしたら、出色の人選といわねばならない。



村田峰紀によるパフォーマンス風景[筆者撮影]


アーツ前橋以外の会場を回ろうと街を歩いてみて驚いた。中心街というのに更地は多いわ、シャッターは閉まっているわ、歩行者は少ないわ、まるでゴーストタウンのようにさびれまくっているではないか。そんな街だからこそアートで活気づけようと、白井屋ホテルやまえばしガレリアみたいなアートゾーンができたり、今回のように街なかにアートを置いたり、いろいろ試みているのだろう。アートの住処は整備された美術館や金持ちの豪邸だけでなく、さびれた廃墟にもフィットするからな。

白井屋ホテルは裏口が半ば土に覆われているのでびっくり。入っていくと柱と梁がむき出しの空間に出る。表玄関に回ると、ローレンス・ウィナーによる「FROM THE HEAVENS」などと書かれたコンセプチュアル・アートが壁面に掲げられていたりして、ウワサには聞いていたけどここまでやるかってくらい思い切ったリノベーションが施されていた。設計は藤本壮介。ここではロビーに蜷川実花の色鮮やかな花のインスタレーションが見られるが、蜷川作品については後述したい。

路上にもいくつか作品が置かれる予定だが、ぼくが見ることができたのは中央通りの商店の前に置かれた関口光太郎の《ジャイアント辻モン》。骨組みに新聞紙で肉づけしてガムテープで巻いた高さ5メートルはありそうな巨人像で、上半身にはオウムが止まっている。前橋出身の関口にとってこのエリアは思い出の場所であり、その思い出が辻神になった姿だという。その先の小さな百貨店といった風情のスズラン前橋店では、別棟の空きフロアでマームとジプシーによるインスタレーション《瞬く瞼のあいだに漂う》が見られる。マームとジプシーはやはり前橋出身の藤田貴大が脚本・演出を務める演劇集団で、近年は演劇と美術を架橋する活動も行なっている。ここでは空き店舗の空間を利用して、市内をフィールドワークして得られた映像や写真、テキスト、声などで前橋の記憶をインスタレーションしてみせた。

その先のHOWZEというバブリーなビルでは、WOW、川内理香子、蜷川実花ら5組が各フロアに作品を展示。水商売の店が入っていたせいかビル全体が妖しげだし、作家数も多いし、見応えがあった。WOWの《Viewpoints - Light Bulb》は、ランダムに明滅する裸電球と数十枚の鏡を巧みに配置し、ある1点に立つと光が1本の水平線に見えるというインスタレーションを実現。視覚的にインパクトがあるし、水平線(ホライズン)だし、この展覧会にピッタリかもしれない。川内理香子はアーツ前橋にも絵画を出しているが、ここではネオン作品を発表。コンクリートむき出しの壁や床に捻じ曲げたネオン管が赤く輝き、廃墟のような場所性と相まって妖しい雰囲気を増長している。



WOW《Viewpoints - Light Bulb》より[筆者撮影]


1フロアだけキャバレーの内装が残されているが、これを有効活用したのが蜷川実花だ。赤、青、紫の艶かしい照明の下を抜けると、広々としたフロアに水を貯めた水槽やモニターが置かれ、色とりどりの金魚を映し出している。酔客の代わりに金魚が踊っているのだ。奥には赤いカーテンのかかった小舞台があり、バブルの栄華が偲ばれる。これはいい。アーツ前橋の作品がどっちかといえば優等生的な表の顔だとしたら、ここにある作品はちょっと不良っぽい裏街の顔で、うまくバランスが取れているように思えた。



蜷川実花《Breathing of Lives》より[筆者撮影]


開館10周年記念展ニューホライズン 歴史から未来へ:https://www.artsmaebashi.jp/?p=18770


関連レビュー

群馬の美術館と建築をまわる|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年12月15日号)

2023/10/13(金)(内覧会)(村田真)

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高田冬彦「Cut Pieces」

会期:2023/09/09~2023/10/08

WAITINGROOM[東京都]

ホモエロティックな夢想とステレオタイプな男性性の解体。この二つは果たして両立し得るだろうか。これは欲望と倫理が両立し得るのかという問いでもある。三つの映像作品のインスタレーション的展示を中心に構成された高田冬彦の2年ぶりの新作個展「Cut Pieces」を見ながら、私はそんなことを考えていた。

会場に入ってまず目に入るのは《The Butterfly Dream》(2022)。タイトルが示唆するように「胡蝶の夢」をモチーフとする映像作品だ。木陰で昼寝をしている青年の夢に現われるのはしかし、ただの蝶ではなくハサミと一体化した蝶である。羽ばたきに合わせてチョキチョキと鳴るハサミが微睡む青年の周囲を舞い、衣服を切り刻んでいく。暴力的であるはずのその出来事は蝶のイメージによってか優雅にさえ見え、裂け目から覗く素肌と青年の寝息はエロティックだ。これが「胡蝶の夢」であるならば蝶は青年自身であり、そこではサディズムとマゾヒズムが自足し完璧な調和を描いていることになる。


《The Butterfly Dream》(2022)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


だが、本当にそうだろうか。画面には時折、ハサミを持つ第三者の手が映り込み、ハサミの先端はたった一度だけだが青年の肌に触れて微かな跡を残す。その瞬間の不穏は、この映像を安全な夢想として眺めることを躊躇わせるに十分なものだ。画面から視線を外してふと横を見れば、そこには夢から抜け出てきたかのような蝶=ハサミの姿がある。《Butterfly Dream》で使われていた小道具が《Butterfly Scissors》(2022)というタイトルを付され展示されているのだ。しかし、夢の中では蝶として見られたその姿も、現実においてはハサミとしての存在感の方が優っている。不穏は夢から現実へと滲む。現実へと持ち出してはいけない妄想もあるのだ。その蝶=ハサミがアクリルケースで保護されていることに少しだけホッとする。


《Butterfly Scissors》(2022)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


《Dangling Training》(2021)は白いウェアを着てテニスをしている男性の股間(しかし顔は映らない)にピンク色の照明が当たり、そこに男性器らしきシルエットが浮かび上がっているという映像作品。danglingは「ぶらぶらさせる」という意味の英単語で、その「ぶらぶら」と股間に広がるピンクの光とが合わさると、まるでピンクの蝶が羽ばたいているように見えなくもない。鑑賞者からするとどうしても股間に目が行ってしまうつくりになっているわけで、真面目に見ようとすればするほど馬鹿馬鹿しさが際立つ作品だ。美術作品としての映像に向けられる「真面目な」視線は、テニスプレイヤーの清潔かつストイックなイメージと股間の蝶の馬鹿馬鹿しさ、そして隠された男性器に向けられる(作家によって強制された)「性的な」視線の間で撹乱されることになる。


《Dangling Training》(2021)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


ところで、今回の展示では《Dangling Training》を映し出す3台のモニターの周囲に、いくつかのテニスボールが転がされていた。すでに《Butterfly Dream》と《Butterfly Scissors》によって蝶=ハサミのイメージを植え付けられていた私は、床に転がる玉を見て、股間に羽ばたく蝶=ハサミによる去勢のイメージを思い浮かべずにはいられなかった。


[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


そんな妄想を裏づけるかのように、続く部屋に展示された《Cut Suits》(2023)のなかでは、ハサミを手にした6人の男たちが互いに互いのスーツを切り裂き合っている。しかもにこやかに。男たち自身による有害な、画一化された男らしさからの脱却。漂う親密さからは解放への悦びさえ感じられるようだ。股間の蝶から引き継がれたピンクを背景に戯れる男たち。その色彩はステレオタイプな男性性からの逸脱を表わしているようでも、性的欲望の発露を表わしているようでもある。


《Cut Suits》(2023)より


だが、男たちの営みが性的欲望に基づくものならば、画一化された男らしさからの脱却はおそらく成就することはない。脱却が完遂されてしまえば、お互いが性的欲望の対象となることはなくなってしまうからだ。あるいは、女を立ち入らせず、男たちが決して傷つくことのないその営みを、依然ホモソーシャルな戯れに過ぎないと批判することもできるだろう。欲望の対象として映像に映る男たちを見直してみれば、6人が6人とも細身で似たような体型をしていることにも気づかされる。その画一性からは、スーツを着た細身な男性へのフェティッシュな欲望の匂いを嗅ぎ取ることができるはずだ。実際、映像の最後に至ってもスーツは完全には剥ぎ取られないままである。しかも、展示空間において映像は延々と繰り返され、戯れが終わりを迎えることはない。映像が映し出されている支持体の周囲には、6人分にしてはあまりに多いスーツの残骸が山をつくっていた。スーツの残骸に囲まれた支持体は、終わりなきホモソーシャルを丸ごと葬る墓石であると同時に、フェティッシュな欲望を閉じ込めた永遠のユートピアでもあるのだ。


《Cut Suits》(2023)より


《Cut Suits》(2023)展示風景[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]



高田冬彦:https://fuyuhikotakata.com/
WAITINGROOM:https://waitingroom.jp/exhibitions/cut-pieces/


関連レビュー

高田冬彦「STORYTELLING」|木村覚:artscapeレビュー(2016年05月15日号)

2023/10/05(木)(山﨑健太)

アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~

会期:2023/07/08~2023/09/10

浜松市美術館[静岡県]

浜松市美術館を訪れ、今年の8月に亡くなったアニメ背景美術の巨匠の展覧会、「新・山本二三」展の最終日に駆け込みで入った。1969年以降、彼は『サザエさん』(1969-)、『一休さん』(1975-82)、『未来少年コナン』(1978)から、『天空の城ラピュタ』(1986)、『火垂るの墓』(1988)、『天気の子』(2019)まで、数多くの作品を手がけ、ゲームの美術や絵本の挿絵も描いている。ジブリの宮崎駿のような有名性はないが、おそらく、ほとんどの日本人は知らない間に山本の絵に慣れ親しんでいるはずだ。また実際、会場では親子連れが目立ったが、親も子も楽しめる内容だろう。今回のタイトルに「新」と付いているのは、2011年に神戸市立博物館で始まった「日本のアニメーション美術の創造者 山本二三」展がその後も全国で巡回していたからだ。2014年に筆者は静岡市美術館で鑑賞し、映画館で大きく伸ばしても耐えられるよう、小さな絵に細部を緻密に描く手技に感心させられた。新旧両方の展示のカタログを比較すると、131ページから231ページに増えており、単純にボリュームからも内容が充実したことが確認できる。なお、前回の展示では、最初の会場であった神戸を舞台とすることから『火垂るの墓』を詳しく取り上げており、担当学芸員の岡泰正の論考は今回のカタログに再録された。



山本はもともとカメラマンに憧れ、絵を描くことが好きだったが、それでは食っていけないということで、夜学の大垣工業高校定時制建築科を卒業後、働きながら、アニメーションの専門学校に入ったという。彼が図面やパースの技術を学んだ経験は、キャラではなく空間を表現する背景美術の仕事に生かされており、今回の展示では高校時代の設計課題も紹介されていた。なるほど、しっかりと建築の室内外を描いている理由として納得が行く。展示全体を通していくつかのテーマが設定されており、第1章「冒険の舞台」(『ルパン三世 PART2』[1977-80]など)、第2章「そこにある暮らし」(『じゃりん子チエ』[1981-83]など)と続く。第3章「雲の記憶」(『時をかける少女』[2006]など)と第4章「森の生命」(『もののけ姫』[1997]など)では、「二三雲」と呼ばれる独特な雲の表情や、作品の世界観を決定する森や自然に注目する。そして第5章「忘れがたき故郷」では、2010年から2021年にかけて全100点を完成させたライフワークである、生まれ育った五島列島の風景画シリーズを取り上げる。なお、浜松市美術館では、特別に浜松城を描いたドローイングも出品されていた。





アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/artmuse/tenrankai/nizou.html



関連レビュー

「架空の都市の創りかた」(「アニメ背景美術に描かれた都市」展オープニングフォーラム)|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年07月01日号)
山本二三展|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2014年09月15日号)

2023/09/08(金)(五十嵐太郎)

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