2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

試写「太陽の塔」

[東京都]

太郎にゆかりの研究者、学芸員、万博関係者、芸術家らへのインタビューに昔の映像を織り交ぜ、多角的な視点から「太陽の塔」に迫る。どっちかというと造形面より思想的な背景が語られる。太陽の塔から縄文へ、アイヌ、沖縄、民族学、バタイユ、マンダラ、チベット仏教、南方熊楠、粘菌へとテーマは連想ゲームのように広がっていく。おもしろいけど、風呂敷広げすぎ。インタビューされたのは平野暁臣、赤坂憲雄、中沢新一、椹木野衣、関野吉晴、糸井重里、Chim↑Pomまで25人におよぶ。これも多すぎ。あれこれ詰め込みすぎ。映画長すぎ(112分)。90分でよかった。

興味深いのは、だいたいみんな太郎に関しては同じような意見を持っていること。だれかの意見を、最後のほうだけ別の人の結論につなぎ合わせても違和感がない。みんな似たようなことを考え、みんな太郎を神格化している。でもこれって、太郎がいちばん嫌ったことじゃなかったっけ? 「太陽の塔」に対して「みんな深読みしすぎ。あれはできそこないの裸の王様」とかいうやつはいないのか。もっと異論を差し挟んだり、ケンカになったり、映画自体が空中分解したほうが太郎にふさわしかったのではないか。

2018/08/03(村田真)

『未来のミライ』

[全国]

細田守監督の『未来のミライ』は、ネット上の評判をチェックすると、家族のホームビデオを見せられているようだなど、あまり芳しくないが、本来、アニメで表現しづらい、派手さに欠けた家族の日常を細やかに描いた点で、実験的な作品だ。例えば、彼の過去作『サマーウォーズ』(2009)における親戚の集まりのシーンもそうだったが、実写ならば簡単に撮影できることも、逆にアニメは難しいのである。ただ、アニメならではの派手なアクションを期待するファンにとっては、退屈になるかもしれない。テーマとしては、『おおかみこどもの雨と雪』(2012)や『バケモノの子』(2015)でも子供の学びと成長を描いていたが、本作はこれを受け継ぎながら、さらに主人公の年齢を4歳にまで下げたこと、また日常的な住空間を舞台として、ファミリーヒストリーの系譜と現在の偶然性も加味したことが特筆されるだろう。

さて、建築の視点からは、主人公の両親が独立したばかりの建築家と編集者の夫婦であること、また遠くにみなとみらいのランドマークタワーが見える冒頭の俯瞰シーンが提示するように、父の設計により家を建て替えたことが興味深い。したがって、おそらくひな壇造成をよしとせず、傾斜地に対し、何段階にも各部屋のレベル差を設け、あいだに中庭を挟む、独特な構成をもつ。また父の作業机の後にある本棚には、ザハ・ハディド、清家清、バウハウスの作品集のほか、『人工楽園』などの書籍の背表紙が見える。実際は谷尻誠に住宅の設計を依頼したものだが、行動範囲が狭い子供にとっては、幼稚園以外で過ごす大きな世界である。と同時に、のび太の家の2階の窓や机の引き出しのように、住宅の中庭と樹が、時空ファンタジーへの入り口として機能していた。未来の妹ミライと出会うのも、まさにここである。そうした印象的な舞台が、建築家によってデザインされていた。

2018/07/25(水)(五十嵐太郎)

im/pulse: 脈動する映像

会期:2018/06/02~2018/07/08

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

文化人類学を従来の「書かれた」民族誌に限定せず、映像、写真、サウンド、アートなどの表現領域と交差する複合的実践として行なう「映像人類学」に焦点を当てたグループ展。映画監督のヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモン、野外での遊戯的かつ即興的なパフォーマンスの記録映像や装置を展示したcontact Gonzo、映像人類学者の川瀬慈が率いる研究会「Anthro-film Laboratory」が参加し、同研究会のメンバーである若手映像人類学者らの作品上映やセミナーなどが行なわれた。

とりわけ本展で圧倒的なのは、ヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモンによる映像インスタレーション《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》である。4年間にわたってブラジル各地のさまざまな儀礼やスピリチュアルな儀式を記録した映像が、3面のマルチスクリーンに投影される。どの地方のどの部族でどういった意味合いを持つか、といった説明的な要素は一切なく、臨場感あふれる映像と音響のめくるめく渦のなかに巻き込まれるような体験だ。半裸の体躯に装飾品をまとい、大地を踏みしめ、リズミカルな掛け声を続ける男たち。薄暗い小屋の中で目を閉じ、呪文のような短いフレーズを唱えるシャーマンらしき人物。そうした先住民族の儀礼の映像の隣に、現代的な服装の人々による宗教的な集いやセレモニーが並置される。ハグし合い、痙攣的な身振りで集団的なトランス状態に至る人々。飾り立てられた女神像をみこしのように担ぎ、海へ入っていく男たち。花火が彩るカーニバルの都市的祝祭。黒人も白人も先住民族もいて、ブラジルという国家を構成する多様な民族、人種、宗教、文化を映し出す。

それらの記録映像を複数並置+ループという構造で見せる本作において、特に重要なのは音響的操作である。マルチスクリーンは、ある時はくっきりと浮上したひとつの音響によって主旋律のように貫かれ、ある時はそれぞれの音響の輪郭が溶け合い、遠くから響くざわめきのように感じられる。男たちが刻むリズミカルな掛け声は、ある瞬間、隣のスクリーンでたゆたうように踊る女性の身体と同調する。かと思うと、潮が引くようにすべての音響はカオティックに混じり合う。速度や抑揚こそ違えど、それぞれが刻むリズムは、神、自然、祖先の霊、世界とつながり交感するための媒介である。共鳴と混淆を通して、儀礼や宗教儀式に宿る根源的なものを探ろうとしていることが、体感的に理解された経験だった。



ヴィンセント・ムーン&プリシラ・テルモン《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》2014–17
「im/pulse: 脈動する映像」(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018)での展示風景
[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学]

2018/07/01(日)(高嶋慈)

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片山達貴「voice training」

会期:2018/06/19~2018/06/30

The Third Gallery Aya[大阪府]

「アァー…」「エー…」「ウァー…」という引き伸ばされた母音が、二重に重なり合いながら響く。2面プロジェクションの映像ではそれぞれ、互いの口や鼻、喉を指で触り、相手の発声を操作しようとする2人の男性の姿が映される。唇を横や上下に引っ張る、丸くすぼめさせる、鼻をつまむ、喉に接触する。相手からの干渉を受けるたびに、母音の音が変化し、あるいはくぐもった声となる。片山達貴の映像作品《ボイストレーニング_1》では、互いの発生器官に介入し、こねくり回し、身体に外側から力を加えて声を変化させることで、「声」が可塑的なものであることが音響的に示される。


片山達貴《ボイストレーニング_1》 2018


片山によれば、本作の制作に至る経緯として、結婚相手の母親が中国残留孤児2世(ネイティブの中国語話者/日本語は第二言語として成人後に習得)であり、意思疎通をはかるために、彼女と行なった中国語の発音練習を記録した映像作品《口づくり》があるという。差し向かいで発音練習をひたすら繰り返す行為は、自身の母語と向き合うきっかけになり、「自分の口は母語によって形づくられ、母語に制限されている」感覚が芽生えた。そこから、「自分の声はどこまで自分だけのものと言えるのか」という疑問が派生し、外部からの影響/自らの意志がせめぎ合うあわいを探ろうと、本作を制作したという。

「新しく家族になる人とのコミュニケーションをはかる」というポジティブな目的で始められた《口づくり》とは異なり、《ボイストレーニング_1》では、性差、年齢差、異言語の話者であること、「教える-模倣する」といった2者間のさまざまな差異はフラットに均され、声に介入し変化させる加圧的な「外側からの力」が何であるのかは、曖昧にぼかされている。ゆえに、見る者はそこにさまざまな「力」の発露を想像することが可能だろう。それは、ジェンダーや社会的立場など、日常的に私たちの身体的ふるまいを規定する社会的な関係性であり、「訛りの矯正」「正しい発音」「標準語」といった、教育やマスメディアを通して「国民の身体」として統制・均質化しようとする力である。あるいは、もしこの2人が異言語話者であった場合(例えば、日本語話者と韓国・朝鮮語話者であった場合)、「支配的言語の強制」「母語の剥奪」といった植民地的暴力を想像することも可能だろう。本作は、「_1」と銘打たれているように、パフォーマーを変えてシリーズ化が構想されているという。シリーズ化を通して、テーマの発展とより深い掘り下げに期待したい。

2018/06/23(土)(高嶋慈)

都美セレクション グループ展 2018
Quiet Dialogue: インビジブルな存在と私たち

会期:2018/06/09~2018/07/01

東京都美術館 ギャラリーA[東京都]

さまざまな地域、時代状況における「女性」のあり方に焦点を当て、ジェンダーを多角的に検証するグループ展。ソビエト時代から多くの女性で構成されてきたモスクワ地下鉄の監視員のポートレイト、戦前・戦中の婦人参政権運動を牽引した市川房枝、中世ヨーロッパの魔女のイメージと実際に魔女狩りの対象にされた現実の女性など、対象は多岐に渡る。とりわけ、「声の複数性」/「単線的な声への集約」という構造や、「性産業従事者」/「再生産労働従事者」という女性の労働状況をめぐる対比の点で興味深く、秀逸だったのが、本間メイと川村麻純の作品である。 本間メイの映像作品《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、性産業に従事するため、東アジアや東南アジアに人身売買された日本人女性について、フィクション/ドキュメンタリーを織り交ぜて考察する。複数の斡旋業者に売買され、各地を転々とし、梅毒にかかった女性の自伝風の語り。「異邦の地で日本語を忘れた老婦人」について報じる新聞記事。「売春と梅毒の輸出は、ヨーロッパの倫理と健康を脅かす」と懸念を語る男性の声。第二次大戦末期のインドネシアで、学校で習った日本語の歌を覚えていると語る現地の老人。複数の視点と声を織り交ぜながら、小説やオペラに描かれたセックスワーカーを含む多様な女性像を通して、「日本人女性」のイメージ形成についての検証がなされる。


本間メイ《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》2018

一方、川村麻純の映像作品《home/making》では、戦前から2018年現在に至るまでのさまざまな「家庭科」教科書の文章を、若い女性が淡々と朗読する。川村が注目するのは、「家庭科は、教科書のなかで唯一、女性が一人称で登場する科目」である点だ。「私」「私たち」は、料理、一家団欒の準備、洗濯、掃除といった家事や育児、再生産労働への従事を「女性にとって自然で、理想的な、家族に奉仕する喜ばしいもの」として語り続ける。驚くべきは、時代差をつらぬく一貫した連続性だ。ここで女性たちは、「私(たち)」という主語として語ることを与えられつつも、再生産労働に従事する者として、その仮構された主語の下に再び統合されるのだ。複数の異なる時代にまたがる教科書の文章のコラージュであるにもかかわらず、シームレスに続く朗読やループする映像は、その統合の回路の果てしなさを暗示する。だが、時折挿入される、ごく平凡な台所や洗濯場を映す映像が、「無人」であることに注意しよう。そこに存在するにもかかわらず、「インビジブル」なものとして不可視化され、空気のように透明化しているのは、いったい何か。川村の作品は、性別役割分担を内面化し、自明なものとする態度そのものについて、静かに問いかけている。


川村麻純《home/making》2018

2018/06/16(土)(高嶋慈)

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