2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

第10回恵比寿映像祭 インヴィジブル

会期:2018/02/09~2018/02/25

東京都写真美術館ほか[東京都]

普段、写真(静止画像)を中心に見ていると、動画による映像作品の展示にはうまく馴染めない。上映時間が長くなると、どうしてもまだるっこしく感じてしまうことが理由のひとつだが、それだけでなく視覚、聴覚、触覚などが全面的に巻き込まれ、作品と同化してしまうことがあまり好きではないのだ。それで、今年10回目になる「恵比寿映像祭」も見たり見なかったりということが続いていた。だが、今年はどうしても見たい展示物があった。東京都写真美術館3Fの会場に展示された、「コティングリー妖精写真および関連資料」である。

1917〜20年にかけて、イングランド北部のコティングリー村に住む16歳のエルシーと9歳のフランシスが父親のカメラで撮影したという「妖精写真」が大きな反響を呼ぶ。作家で著名な心霊主義者でもあったアーサー・コナン・ドイルも、それらの写真を本物であると主張する論文を発表した。ところが1983年になって、フランシスが絵本を切り抜いて配置したフェイク写真であったことを告白し、この事件には一応の結論が出たことになっている。今回の展示に出品されていたのは、英文学者の井村君江氏が、オークションで手に入れたという、エドワード・L・ガードナー旧蔵小さな皮鞄の中に収められていた5点の「妖精写真」と関連資料だった。

たしかに写真を見れば、妖精たちは切り抜かれたぺらぺらの紙切れであることはすぐにわかる。だが、この写真群には、単なるフェイク写真では片づけられない奇妙な魅力がある。エルシーやフランシスと、その周辺で踊り戯れる妖精たちの姿は、ファンタジックな想像力の産物として、とてもうまく演出・構成されているのだ。あたかもジュリア・マーガレット・キャメロンのピクトリアルな芸術写真を思わせる見事な構図を、若い女の子たちが創り上げることができたのは驚きだが、なによりも写真としての力があったからこそ、ドイルや神智学協会の書記長を務めていたというガードナーを引き込み、信じさせることができたのではないだろうか。

今回の展示は、鞄の中に入っていた100点余りの手紙、手記、写真などのごく一部にすぎない。ぜひ全貌を公開する展覧会や出版物を実現してほしいものだ。

2018/02/12(月)(飯沢耕太郎)

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未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展

会期:2018/1/13~2018/3/4

国立新美術館[東京都]

文化庁が続けている新進芸術家海外研修制度(かつて在外研修制度と称していたため「在研」と呼ばれる)の成果を発表する展覧会。在研はすでに半世紀の歴史があるが、展覧会は今年で20年。今回は1975-88年生まれで、ここ5年以内に研修経験を持った11人のアーティストが出品。中谷ミチコは粘土で人物や動物の彫刻をつくり、それを石膏で型取って雌型にし、そこに着色した樹脂を流し込んで固めた一見凹型レリーフながら表面は平らという、ユニークな彫刻を制作している。ドレスデン滞在を経て作品はより大きく、より複雑になった。今回は壁に掛けるのではなく材木を組んだ上に展示したため、裏側がどうなっているのかという好奇心にも答えてくれている。研修先にケニヤを選んだ西尾美也は、街ですれ違った通行人と衣服を交換して写真に撮るというプロジェクトを続けているが、今回はケニヤ人に東京に来てもらいその役を託した。その結果、パツパツの女性服を着た大きなケニヤ人と、ダブダブの革ジャンを羽織った小柄な日本人という対照的な構図ができあがった。そのほか、日本各地で発掘された陶片と、明治期に来日したエドワード・モースを結びつけるインスタレーションを発表した中村裕太や、戦前は体操選手としてベルリン五輪に出場し、戦後は尺八奏者として活躍した人物の生涯をフォトグラムによって表わした三宅砂織など、日本を相対化してみせた作品に興味深いものがあった。

いずれも仮設壁で仕切られた空間内で行儀正しく作品を見せているが、そうした展覧会の枠組みそのものを問おうとした作家もいる。雨宮庸介は、過去につくられた作品を見せる場なのに、なぜ「明日展」なのか、しかもイタリア語なのかと疑問を投げかけた。これは実際だれもが思うところで、文化庁の林洋子氏もカタログ内で、「なぜ『明日』なのか、なぜイタリア語なのかというツッコミを受けつつも(それは20年前のムードとしかいまでは答えようがない)」と告白している。そこで雨宮は完成作品を展示するのではなく、「人生で一番最後に作る作品の一部を決めるための練習や遂行をしている」状態を現出させるため、その場で制作することにしたという。会場で作業している人を見かけたら、たぶん雨宮本人だ。体よく収まった展示より説得力がある。

2018/01/29(村田真)

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否定と肯定

[全国]

ホロコーストをめぐる歴史修正主義の裁判を描いた映画『否定と肯定』を鑑賞した。アメリカ在住の歴史学者、デボラ・リップシュタット(ユダヤ人の女性)と彼女の本を出版したペンギン・ブックスに対し、ホロコースト否定論者であるイギリスのナチス研究者、デイヴィッド・アーヴィングが名誉毀損で訴えた事件を扱うものだ。映画を通じて、実証的な手続きを重んじることなく、都合のよい不正確な情報をつぎはぎしながら、〜はなかったとする語りの手口をよく伝えている。もうひとつ興味深いのは、歴史学会での討論ではなく、裁判という形式によって2人が争ったことだ。ゆえに、歴史の事実と解釈に対し、裁判ならではの手続きにおいて勝利すべく、デボラのチームがどのような戦略をたてたのかも注目すべきポイントである。驚くべきことに、優秀な弁護団はあえてデボラ本人に発言させない、強制収容所の被害者に証言させないという策をとるのだが、その理由は是非映画を見ていただきたい。なお、デイヴィッドは自らが弁護も行なった。

裁判に備え、弁護団がホロコーストについて深く学ぶために、デボラの案内によって、アウシュヴィッツとビルケナウを調査するシーンがある。昨年、筆者もここを訪れたばかりなので記憶に新しいところだったが、なんと冬の風景の寂しいこと! 秋はさわやかな天気だったが、雪景色だと、さらに悲惨な雰囲気が増幅する。むろん、ただのイメージではなく、まともな暖房がなかった収容所の環境は、さらに劣悪になったことが容易に想像できる。なお、アウシュヴィッツに向かう拠点となる美しい古都クラクフも登場していた。映画『否定と肯定』が題材とした裁判は、21世紀初頭に起きたものだが、日本にとっても、いまや全然よそ事とは思えない。ネットの海でさまざまな事実と情報が相対化され、フェイクニュースが垂れ流され、歴史修正主義が跋扈しているからだ。

2018/01/14(日)(五十嵐太郎)

朴烈

ソウルからデリーに向かう大韓航空の機内で韓国の映画『朴烈』を見る。関東大震災が引きおこした朝鮮人虐殺を放置しておきながら、あまりに収拾がつかなくなり、その治安維持を目的として、象徴的に逮捕された運動家と日本人の金子文子を取り上げたものだが、恥ずかしながら、全然知らない史実だった。したがって、台湾の部族による抗日蜂起・霧社事件を壮絶な長編映画『セデック・バレ』が教えてくれたように、この映画も戦前の日本に対していかなる抵抗があったかを被支配者側の国から、忘れてはならない記憶としてつきつける。アナーキストの同志となった朴と貧しく恵まれない境遇の金子(いまの大学生か院生くらいの年齢!)は、天皇襲撃の容疑で大逆事件の裁判にかけられる。その過程で精神鑑定が行なわれるあたりは、大本教が弾圧された後、論理的な手続きで裁判するよりも、教主の出口王仁三郎の頭がおかしいことにしようとしたことを想起させる。

映画の後半は、独房に閉じ込められた2人の裁判闘争である。興味深いのは、シリアスな内容だが、ユーモアも感じさせることだ。その理由は強烈な2人のキャラ設定もあるが、例えば、最初の公判では、2人が民族衣装をまとい、メディアに対する演説の場に変えてしまった(その後、裁判は非公開に)。実際、この裁判は簡単に決着がつかず、問題が大きくなるほど、かえって政府側は窮地に立たされていく。一方で死刑判決を覚悟した2人は、獄中で結婚し、どちらかが亡くなったら、家族の権利として骨をひきとると誓う。朴の生涯を調べると、これ以外にも波瀾万丈のエピソードがあり、驚くべき人物である。ちなみに、映画は多くの日本人役も韓国人が演じ、日本語をしゃべっている。2017年に公開され、韓国でヒットしたらしい。劇中の彼らの主張は天皇批判を含むが、はたして本作品はネトウヨが騒ぐ日本でも公開されるのだろうか。

2017/12/30(土)(五十嵐太郎)

ディアスポラ・ナウ!~故郷(ワタン)をめぐる現代美術

会期:2017/11/10~2018/01/08

岐阜県美術館[岐阜県]

展覧会タイトルの「ディアスポラ」(政治情勢、紛争、天災などにより故郷を追われて離散し、新たな土地に居住する民族的共同体)に「ナウ!」が付加され、「故郷」という語をアラビア語の「ワタン」と読ませていることが意味するように、本展の企図は「中東の紛争地域出身の中堅~若手作家の紹介」及び「政治的課題のアートを介した提示」にある。「アートによる商品化や搾取」を批判することは容易いが、脱政治化という政治が常態化した日本にあって、一地方美術館でこうした先鋭的な企画が開催されたことは評価したい。 出品作家は、日本のアートユニットであるキュンチョメ以外の5名は全て、シリア、パレスチナ、モロッコなど中東出身。アクラム・アル=ハラビは、シリアの現状を報道する凄惨な写真を元に、写されたものを「目」「頬」「手」「心臓」「血」など英語とアラビア語の単語に置き換え、コンクリート・ポエトリーのように美しい星座的配置に移し換えるとともに、イメージの消費に対する批判を提示する。東エルサレム出身でパレスチナ人の父を持つラリッサ・サンスールは、歴史修正主義による「証拠発見」を逆手に取り、「民族の歴史」を主張するため、炭素年代測定を操作した「皿=証拠品」を地中に埋める物語を、個人史を織り交ぜて映像化。神話的な光景に聖書やSF映画から借用したイメージを散りばめることで、フィクションとしての歴史=物語を露呈させる。また、2017年のヴェネチア・ビエンナーレにて「亡命館」を企画したムニール・ファトゥミは、波間を漂う船や港湾の映像の前に、ゴムタイヤ、衣服、救命胴着が散乱したようなインスタレーションを展示した。


左奥:ムニール・ファトゥミ《風はどこから吹いてくる?》(2002-) 右手前:ムニール・ファトゥミ《失われた春》(2011)


一方で、本展には問題がない訳ではない。「ディアスポラ」という主題を日本で扱うとき、「ニュースの中の出来事」として安全圏に身を置いたまま享受できる危機や悲惨さは俎上に載せられても、東アジア地域における植民地支配の歴史や「在日」の問題は、盲目的に看過されているのではないか。本展では、「中東の紛争や難民問題」という事象の「遠さ」(物理的/心理的な距離という二重の「遠さ」)を克服するために、キュンチョメが展示の最後に召喚されている。《ウソをつくった話》は、福島の帰宅困難者である高齢者たちとともに、Photoshopの画面上で、画像の中の通行止めのバリケードを「消去」していく過程を映した映像作品。《ここで作る新しい顔》は、日本在住の難民に個展会場に常駐してもらい、来場者とペアで「福笑い」をする様子を記録した映像作品である。いずれも、国内に現実に存在する「(帰宅)難民」とともに、「当事者との共同作業」を行なう点で共通する。


キュンチョメ《ここで作る新しい顔》(2016)


《ここで作る新しい顔》において、「福笑い」をするための「黒い目隠し」は、多義的な意味を担う装置となる。それは個人情報の「保護」であるとともに、「不審者」の暗示であり、「存在の抹消」である。難民たちは、固有性の発露としての「顔貌」を半ば奪われつつも、モニター越しに鑑賞者に対峙する。だが、難民たち一人ひとりを目隠しの正面像として収めたモニターが、ガラスケースの向こう側に設置されていることに注意しよう。「『彼ら』との間を確実に隔て、安全に隔離する透明な壁」の出現。それは、表象のコントロールと管理を行なう展示という近代的制度、美術館という場の政治性をはからずも露呈させてしまっており、この透明な「壁」の見えにくさこそが真に問われるべきではないか。

2017/12/17(日)(高嶋慈)

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