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2018年08月01日号
次回9月3日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

「Sujin Memory Bank Project #02 BANK──映画『東九条』でつなぐこと──」

会期:2018/03/01~2018/04/22

柳原銀行記念資料館[京都府]

柳原銀行は、かつて日本最大規模の同和地区であった京都の崇仁地域に、地元有志によって明治32年に設立された唯一の銀行である。現在は地域の歴史、文化、生活資料を収集・展示する資料館となっている。「Sujin Memory Bank Project」は、この柳原銀行記念資料館を「記憶が貯蓄される場」と捉え、地域の歴史とともにアーカイブ/ドキュメントのあり方についても実践的に考察するプロジェクトである。将来的にこの地域への移転が決まっている京都市立芸術大学の芸術資源研究センターと同資料館が連携し、展示企画を行なっている。

2回目となる「#02 BANK──映画『東九条』でつなぐこと──」では、資料館所蔵の映画『東九条』の上映展示が行なわれた。1969年に公開されたこの映画は、差別や貧困といった当時の東九条の厳しい現実の告発を目的として自主制作された(崇仁地域に近い東九条は、在日コリアンが多く住む地域だが、映画の主な撮影地はその一部、南北が八条通りと十条通りの間、東西が河原町通りと鴨川の間の地域である)。監督と脚本は、現在、同資料館事務局長である山内政夫が務めた。撮影に用いられた手持ちの8mmカメラやフィルムなど関係資料も合わせて展示された。

川沿いに密集した木造家屋や、川べりをぶらつく子供たちがモノクロの粗い画面に映し出される。だがそこに「音」はない。約50年の時の間に、当時あったはずの音声トラックが失われてしまったのだ。ナレーションやBGMによる意味づけや演出を欠いた映画は、「告発のドキュメンタリー」としての役割を失い、断片的なシーンが淡々と連なる映像の波のような運動へと変質していく。リヤカーを引いて廃品回収に従事する人々や、狭く曲がりくねったぬかるみの路地を奥へ奥へと進む男の背中をカメラは追う。バス停に並ぶ通勤途中の人々。内職をする女性。公園や校庭で遊ぶ子供たち。一家の食事風景。診療所の待合室に並ぶ人々。火事の焼け跡や映画館のポスター、学生デモ。当時の何気ない日常生活の記録を私たちはそこに見出すことになる。それは、映画のスチルと、同じ撮影場所の「現在の風景」を撮った写真を並置した展示が示すように、50年前の風景と現在との差異を比較する作業であると同時に、時の経過の中での「意味の変質」をあらゆる「資料」がこうむるものとして再確認することでもある。

2018/03/18(日)(高嶋慈)

ALLNIGHT HAPS 2017後期「接触の運用」#4 柳瀬安里

会期:2018/03/06~2018/03/26

東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)[京都府]

国会議事堂周辺の安保反対デモに集った群衆の中を歩きながら地面に線を引いていく《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》。沖縄、高江のヘリパット建設工事のゲート前を、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩く《光のない。》。柳瀬安里はこれまで、「わたし(たち)/あなた(たち)」の境界確定がなされる現場へ赴き、身体パフォーマンスとして介入することで、境界線を揺るがせ、輻輳させ、境界確定の場にはたらく力学を鋭く浮かび上がらせてきた。

「ALLNIGHT HAPS」は、年間2名の企画者による展覧会シリーズ(本展企画者は髙橋耕平)で、HAPSオフィスの1階スペースにて夜間に展示を行ない、観客は外からガラス戸越しに鑑賞する。目隠しのカーテンを上げて中を覗くと、向かい合った男女が口を激しく押し付け、キスを交わしているように見える。だが、ヘッドホンからは苦しげな喘ぎや荒い息の音が聴こえ、2人は甘い愛撫というより相手を押し倒さんばかりの勢いでもみ合っているようだ。柳瀬が今回発表した《息の交換》は、ウーライ/マリーナ・アブラモヴィッチの《Breathing In/Breathing Out》(1977)を「再演」したパフォーマンスの記録映像である。会場に設置されたテクストによれば、2014年に同作を「再演」したカップルのアーティストユニット、KIKUCHI Kazuaki + NISHI Natsumiの作品を見た際、「愛」という言葉が使われていたことが気になり、本作の制作のきっかけになったという。従って本作は、「再演」の「再演」、二重の引用とも言えるだろう。

ここで注目したいのは、「パフォーマンスの再演」をめぐる作品の帰属や署名をめぐる問題とは別の次元で、柳瀬とその協力者の男性によるこのパフォーマンスが抱え込んでしまった「オリジナル」からの逸脱、再現のレベルにおける「失敗」である。息を吐く/吸うを互いにリズミカルに同調させ、息の交換を持続させ続けるウーライとアブラモヴィッチに対し、柳瀬と協力者の男性は格闘のような行為を数十秒と持ちこたえることができない。見ていて苦しくなるのは、荒く苦しげな息遣いが音響的な圧迫感で迫ってくるからだけではない。荒い息を容赦なく柳瀬の顔に吹きかけ、目をつむったまま柳瀬を全く見ようとしない男性に対し、そんな彼を真正面から執拗に見つめ続ける柳瀬の眼差しの強さと、しかしその無言の求めが「無視」され、信頼が成り立たないまま行為だけがひたすら続行されていくことに、いたたまれなくなるからだ。

柳瀬のテクストによれば、協力者の男性は高校時代の同級生で、互いに距離を感じていた間柄だったという。行為の「失敗」は、2人の間に横たわる距離を露わにした。「カップル」「パートナー」という枠組みや「愛情に基づく信頼関係」をいったん取り払い、「息を交換する」行為だけを裸形で差し出すことで逆に見えてきたのは、「呼吸」という自己の生存のための原初的な行為が、相手の生存を脅かして奪ってしまい、それは自滅に至るということだ。

石原吉郎のエッセイ「ある<共生>の体験から」が想起される。石原は、敗戦後のシベリア抑留で強制収容所に送られた経験において、食事、作業、就寝の際、自己の生命の維持のためには、それを脅かす収容所仲間の生存が必要不可欠であり、互いの命を削り合うようなギリギリの連帯を余儀なくされたことを綴っている。そうした極限下の状況でなくとも、私たちの生は根源的に他者との<共生>を余儀なくされているのであり、柳瀬の作品はウーライとアブラモヴィッチの元々のパフォーマンスを敷衍したかたちで、その事実を突きつけてくる。


[撮影:松見拓也]

関連レビュー

柳瀬安里 個展「光のない。」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/03/11(日)(高嶋慈)

「せんだい・アート・ノード・プロジェクト」第2回アドバイザー会議

会期:2018/02/12

せんだいメディアテーク[宮城県]

せんだいメディアテークにて、アートノードのアドバイザー会議に出席した。この日は2017年度の活動と2018年度の計画が報告され、川俣正の貞山運河にかける「みんなの橋」の進捗状況(ちょうど7階にて展示中だった)、藤浩志による「雑がみプロジェクト」、東北リサーチとアートセンター(TRAC)のイベント、複数の企画者によるTALKシリーズなど、多様なプロジェクトが動いていることがうかがえる。もっとも、メディアとしてのタブロイド紙やホームページなどを閲覧しないと、それぞれの企画の参加者に対し、これらが全体としてアートノードという枠組のアイデンティティをもっていることが理解しにくいのではないかと思った。こうした疑問に対して、せんだいメディアテークはあえてそれでよいと考えている。すなわち、もともと全国で乱立する芸術祭とは一線を画するべく、特定の期間に展示とイベントが集中させて、ピークをつくる方法を避け、リサーチをベースにした複数のプロジェクトがいつも同時進行しているスタイルを選んだからだ。

会議の終了後は、TALKシリーズを運営した7名による総括の公開会議が行なわれた。いわば反省会をかねたメタ・イベントなのだが、予想以上に参加者が多く、市民の関心の高さを感じた。これも改めてギャラリー、古書店+カフェ、舞台制作などを営むメンバーが一堂に会して、全体を俯瞰すると、アート、音楽、文学、映画、民俗学など、多様なジャンルのイベントがあちこちの場所を活用しながら開催されていたことがわかる。おそらく、それぞれの個性的な企画者に参加者もついていると思われるが、アートノードを契機にして、普段は聴講しなかったようなタイプのトークにどれくらい足を向けたのかが興味深い。それこそが結節点としてのアートノードである。もちろん、企画者同士が同じ場を共有し、交流することも、これまであまりなかったから、まずはその第一歩となった。


展示風景

川俣正「みんなの橋プロジェクト」(左)と「みんなの船」(右)の構想模型

2018/02/18(日)(五十嵐太郎)

アーツ・チャレンジ2018

会期:2018/02/14~2018/02/25

愛知芸術文化センター[愛知県]

公募の審査を担当したアーツ・チャレンジのオープニングに出席した。会場となる愛知芸文センターは、現在、改修中だが、もともとこの企画は非展示室を使うことを主旨としていたことから、大きな影響は受けなかった。むろん、いくつかの展示場所は減ったが、作家の数が減ったことで、より精鋭が揃う結果となった。今年は第10回のアーツ・チャレンジになるが、アートの想像力によって、まだこんな空間の使い方もあるのかという発見がもたらされたり、逆にアーティストには普段のホワイト・キューブと違う空間に挑戦してもらうケースもあった。

まず地下の入口では、椋本真理子のポップでミニマルな土木彫刻(ダムやプール)が出迎える(いずれも円形であり、吹き抜けの上部から見ると面白い)。続いて、左のアートプラザ内のビデオルームでは、山本愛子が繭糸を使い、音を可視化する繊細なランドスケープを四畳半サイズの台の上で構築する。そして小宮太郎がさまざまな色のマスキングテープを駆使して、既存のドアを擬態する作品(このエリアは通常、絵画を置く)、通路に並ぶ8つの小さな展示ケースを漫画のコマに見立てた小笠原周によるボクシングの彫刻群、物語化されないドローイング群でスペースXを埋め尽くす小松原智史(期間中も会場にいて、描き続け、作品が増殖した)は、これまでのアーツ・チャレンジにない場所の使い方を提案した。音に誘われ、外部の地下階段を上ると、わらべうたのリサーチをもとにした佐藤美代による完成度が高い映像作品がさまざまなバリエーションを用意し、鑑賞者を飽きさせない。一通り映像を見たあと、階段を下りると、今度は大きな箱からピンポンがゆっくりと落ちていく段差を利用した道楽同盟の作品に気づく。最後は𠮷田絢乃である。渋谷のMONSTER展では小品だったが、今回、彼女はひだと地層の絵が壁を覆う大作に挑戦した。


椋本真理子《Disc-type-Dam 2 / POOL(big pink)》


小宮太郎《doors》

小松原智史《コマノエ》

𠮷田絢乃《レイヤー》

2018/02/14(水)(五十嵐太郎)

第10回恵比寿映像祭 インヴィジブル

会期:2018/02/09~2018/02/25

東京都写真美術館ほか[東京都]

普段、写真(静止画像)を中心に見ていると、動画による映像作品の展示にはうまく馴染めない。上映時間が長くなると、どうしてもまだるっこしく感じてしまうことが理由のひとつだが、それだけでなく視覚、聴覚、触覚などが全面的に巻き込まれ、作品と同化してしまうことがあまり好きではないのだ。それで、今年10回目になる「恵比寿映像祭」も見たり見なかったりということが続いていた。だが、今年はどうしても見たい展示物があった。東京都写真美術館3Fの会場に展示された、「コティングリー妖精写真および関連資料」である。

1917〜20年にかけて、イングランド北部のコティングリー村に住む16歳のエルシーと9歳のフランシスが父親のカメラで撮影したという「妖精写真」が大きな反響を呼ぶ。作家で著名な心霊主義者でもあったアーサー・コナン・ドイルも、それらの写真を本物であると主張する論文を発表した。ところが1983年になって、フランシスが絵本を切り抜いて配置したフェイク写真であったことを告白し、この事件には一応の結論が出たことになっている。今回の展示に出品されていたのは、英文学者の井村君江氏が、オークションで手に入れたという、エドワード・L・ガードナー旧蔵小さな皮鞄の中に収められていた5点の「妖精写真」と関連資料だった。

たしかに写真を見れば、妖精たちは切り抜かれたぺらぺらの紙切れであることはすぐにわかる。だが、この写真群には、単なるフェイク写真では片づけられない奇妙な魅力がある。エルシーやフランシスと、その周辺で踊り戯れる妖精たちの姿は、ファンタジックな想像力の産物として、とてもうまく演出・構成されているのだ。あたかもジュリア・マーガレット・キャメロンのピクトリアルな芸術写真を思わせる見事な構図を、若い女の子たちが創り上げることができたのは驚きだが、なによりも写真としての力があったからこそ、ドイルや神智学協会の書記長を務めていたというガードナーを引き込み、信じさせることができたのではないだろうか。

今回の展示は、鞄の中に入っていた100点余りの手紙、手記、写真などのごく一部にすぎない。ぜひ全貌を公開する展覧会や出版物を実現してほしいものだ。

2018/02/12(月)(飯沢耕太郎)

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