artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

四方田犬彦『詩の約束』

発行所:作品社

発行日:2018/10/30

映画、文学、漫画をはじめ、およそあらゆる文化現象に通じた書き手として知られる四方田犬彦に「詩人」としての顔があることは、おそらくさほど知られてはいまい。昨年の暮れ、たまたま書店で見かけた本書に手が伸びたのは、詩集『人生の乞食』(2007)や『わが煉獄』(2014)の著者にして、詩誌『三蔵』の同人でもあるこの著者のまとまった詩論を読みたい、という潜在的な意識が働いていたからかもしれない(なお、本書は『すばる』における同名の連載を書籍化したものである)。

果たして、ペルシアの詩人ハーフィズをめぐるエピソードに始まる本書は、そうした期待にたがわぬ珠玉の読み物であった。この著者の本を読むときにつねづね感じることだが、ある些細なエピソードがいつしか作品論へと転じ、さらにそれが抽象的な思弁へと離陸していくその流れが、いつも本当に見事である。本書でもまた、西脇順三郎やエズラ・パウンドといったおなじみの詩人から、吉田健一やパゾリーニといった少々意外な人物まで、この著者ならではの大胆な飛躍と連想から、具体的な詩作品が次々と呼び出される。

本書に収められた18のエセーは、古今東西の具体的な詩をめぐって書かれていながら、いずれも個別の「詩論」に終始するものではない。むしろそこでは、朗誦、翻訳、呼びかけといった言語をめぐるあらゆる営みが、単なる抽象としてではなく、確固たる実体をともなった具体的な営為として浮かび上がってくる。「詩を生きるという体験」について書こうとした、というその言葉に偽りなく、著者の詩的遍歴がそのまま類稀な詩学として結実した一冊である。

2019/02/08(金)(星野太)

千葉雅也『意味がない無意味』

発行所:河出書房新社

発行日:2018/10/30

哲学者・千葉雅也による初の評論集。デビュー作である『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)にまとめられたドゥルーズ研究を除く、大小さまざまな論考が本書には収められている。その対象は美術、文学、建築から食やプロレスにいたるまで、じつに多様である。

著者は本書の序において、2016年までをみずからの仕事の「第一期」と総括する。博士論文を元にした『動きすぎてはいけない』をはじめ、著者はこの間『別のしかたで』(2014)、『勉強の哲学』(2017)、『メイキング・オブ・勉強の哲学』(2018)といった一般書、さらにはドゥルーズ以外を対象とする哲学論文や、広義の表象文化論に属する多彩なテクストを切れ目なく発表しつづけてきた。そのうち対話として残されたものは、同じく昨年刊行された『思弁的実在論と現代について──千葉雅也対談集』(青土社)にまとめられている。対する本書は、これまで書籍や雑誌に掲載された硬軟さまざまな論考から、選り抜きの23篇を集成したものだ。

本書の目次を一瞥してまず驚かされるのは、その多彩なトポスである。視覚芸術に限ってみても、フランシス・ベーコン、田幡浩一、森村泰昌、金子國義、クリスチャン・ラッセン……という並びは、「美術批評」に対してなんらかの予断をもつ者であれば、少なからず意表を突かれるものだろう。また、構成も特筆すべきである。凡庸な書き手ならば往々にしてジャンルで章を区切りがちなところを、本書は「身体」「儀礼」「他者」「言語」「分身」「性」という6つのテーマを設定し、それに即して先の23篇を按配する。これにより、ギャル男と金子國義(Ⅱ「儀礼」)、ラッセンと思弁的実在論(Ⅲ「他者」)、ラーメンと村上春樹(V「分身」)といった、通常であれば縁遠い(?)はずの対象が、奇妙な仕方で隣り合う。むろん、この構成が単に奇を衒ったものでなく、著者自身の一貫した関心を──あくまで事後的に──浮かび上がらせるものであることは、一読して理解されよう。

評者自身は、本書に収められたテクストのほぼすべてを初出で読んでいる。それゆえ、まずはこれらがあらためて一冊の単行本にまとめられたことを喜びたい(それは、これら珠玉のテクストが新たな読者を獲得するとともに、広く引用可能性に開かれていくことを意味する)。個人的な回想を挟ませてもらえば、本書に収められたもっとも古いテクストである「動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと節約」(2005)を、『Résonances』という学生論文集のなかに見つけたときの鮮烈な印象を、評者は今でもありありと思い出すことができる。のちの同名の著書を知る現在の読者は、その10年前に著されたこの短いテクストの存在により、著者の問いの驚くべき一貫性を目の当たりにすることになるだろう。そして、この10年余りの「第一期」の仕事を特徴づけるべく選ばれたキーワードこそが、表題の「意味がない無意味」なのである(本書序論「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」)。〈意味がある無意味〉から〈意味がない無意味〉へ、思考から身体へ、そして〈穴−秘密〉から〈石−秘密〉へ──それが、本書に与えられた輪郭ないしプログラムである。

以上の話に付け加えるなら、時期や媒体に応じて少なからぬ偏差を見せる、各テクストの「造形性」に目を向けてみるのもまた一興だろう。千葉雅也の読者は、その明晰かつ強靭な内容もさることながら、ルビや傍点をふんだんに駆使した独特な文体にいつであれ目を引かれるはずである。つねに明快な論理構造に独特のニュアンスを付与するその半−視覚的な言語実験は、「修辞性」というより、やはり「造形性」と呼ぶにふさわしい。その複雑な滋味を味わううえでも、アンソロジーの体裁を取った本書は好適である。

2019/02/01(金)(星野太)

スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論──〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』

訳者:小田透

発行所:白水社

発行日:2018/11/10

こんにち「Critical Theory」という言葉から、人はいかなる内容を連想するだろうか。それは「批判」理論として、あるいは「批評」理論として受け止められるべきものだろうか。この場合、「critical」という形容詞を「批判的/批評的」と訳し分けてきた近代日本語の伝統が、事態の正確な把握を困難にしている。本当のところを言えば、そもそも「批判/批評」とは互いに異なる二つのものではない。なぜなら「critical」とは、既存のいかなる価値も尺度も前提とせず、その物事をあらしめている土台や根拠を疑ってかかることの謂いだからである。

オックスフォード大学出版会の名シリーズ「Very Short Introductions」の一冊として刊行された本書は、政治学者スティーヴン・エリック・ブロナー(1949-)による批判理論(Critical Theory)の入門書である。ここでいう「批判理論」とは、邦題に明示されているように、第一にはアドルノやホルクハイマーに代表されるフランクフルト学派の理論を指している。現に、狭義の「批判理論」の入門書は、しばしばフランクフルトの社会研究所に集ったドイツの思想家たちの紹介に終始する。反対に、広義における「批判理論」を相手取ろうとする場合、そこでは必然的にフランクフルト学派という限定的なサークルにとどまらず、マルクス、ニーチェ、フロイトらを淵源とするより広範な思想を扱う必要に迫られるだろう。本書はその両者を絶妙なバランスで按配しつつ、フランクフルト学派の名とともに歴史に登記された「批判理論」のポテンシャルを現代に甦らせようとする一書である。

そして以上の特徴はそのまま、本書の内容にも反映されている。本書で著者ブロナーは、フランクフルト学派やその周辺の思想家(ホルクハイマー、フロム、マルクーゼ、ベンヤミン、アドルノ、ハーバーマス……)、および「疎外」や「物象化」といった彼らの諸概念について過不足ない説明を加えるいっぽう、「文化産業」批判をはじめとする彼らの理論に対しては仮借のない批判を加える。たんなる礼賛ではないその批判的再読を通じて、著者は批判理論を──彼らがもっとも痛烈に批判した──啓蒙の問題へと(再)接続する。フランクフルト学派の功罪を明らかにするとともに、そこから現代における新たな展望を示す、見事な手続きである。

なお、本訳書は初版(2011)ではなく、昨年刊行されたばかりの第二版(2017)を底本としている。この第二版で追加された章(第3章「批判理論とモダニズム」)は、文学や芸術におけるモダニズムと批判理論の関係について、簡にして要を得た見取図を提供してくれる。「批判理論をモダニズムのまた別の表出と理解することさえできる」(51頁)という著者の見解に何か感じるところのある読者には、まずこの章の一読を勧めたい。

2018/12/11(火)(星野太)

『プロヴォーク 復刻版 全三巻』

発行所:二手舎

発行日:2018/11/11

さる6月、世田谷区の古書店・二手舎から受け取った一通のメールに目が止まった。よくある営業メールならばざっと読み流すところだが、そこにはなんと、かの写真雑誌『プロヴォーク』を復刻・販売するという驚くべき内容が含まれていたのだ。いくぶん訝しく思いつつ読み進めてみると、このたび復刻されるのは二手舎にたまたま流れ着いた『プロヴォーク』全3巻(古書)であり、同舎はこの稀覯本をただ市場に流すのでなく、なるべくオリジナルに忠実に再現することを選択したのだという。意気に感じてすぐさまプレオーダーに応じ、つい先頃手元に届いたのがこの3冊揃(+英語訳・中国語訳付)の書物である。

累々説明するまでもなく、『プロヴォーク』とは岡田隆彦、高梨豊、多木浩二、中平卓馬の4名によって1968年に創刊された同人誌である。前述の4名のほか、2、3号には森山大道や吉増剛造も作品を寄せたことで知られている。詩・評論・写真からなるその前衛的な内容もさることながら、同人であった上記メンバー、とりわけ「アレ、ブレ、ボケ」の定型句で知られる中平・森山の写真が世界的な名声を獲得したことにともない、『プロヴォーク』の存在も次第に伝説的なものとなっていった。結果、長らく稀覯本と化していた同誌が、こうして気軽に手に取れるようになったのは慶賀すべきことである。原著に見られた特殊な判型や帯をはじめ、その再現度についても申し分ない(本書の特設サイトには、2001年に国外で刊行されたファクシミリ版との異同についての言及もある)。また本体とは別に、全テクストの英語訳・中国語訳を収めた別冊が添えられているという事実は、同誌を未来の読者に開いていこうとする発行者の熱意を何よりも雄弁に物語っていよう。

本書は2018年11月、すなわち『プロヴォーク』の創刊(1968年11月)からちょうど半世紀後に復刻された。その創刊号を締めくくる多木浩二の文章(「覚え書・1──知の頽廃」)は、当時絶頂の最中にあった全共闘運動をめぐる所感に加え、来たる1970年の大阪万博への批判に多くの紙幅を割いている。その「頽廃」を伝える多木の苦々しい思いは、たとえば次のようなエピソードに端的に表われている──「『要するにお祭ですよ』というのを、私はEXPO’70に参加しているデザイナーたちから何度もきいた。それは、大したことではないのだから、そう角をたてるなという意味でもあり、そこで大へんな金が使えるから、『やりたいこと』を部分的にやればいいのだという意味でもある」(68頁)。

いかにもありそうな話だ。むろん多木が「頽廃」と呼んで批判しているのは、「要するにお祭ですよ」というこの種の「思想の欠落」にほかならない。具体的に多木は、当時の第一線の建築家(丹下健三、大谷幸夫、磯崎新)、デザイナー(杉浦康平、粟津潔、福田繁雄)、さらには映像作家(松本俊夫、勅使河原宏)にいたるまでの「一切が万博へと組織されてしまった」ことを批判している。そのことがもたらす帰結に対して、多木の筆致は次のごとく辛辣だ。「私は建築家やデザイナーはいま、ほとんど永久に復権する機会を喪ったと考える。それはかれらの内部において喪われたのであり、それだけに回復は不能である」(同前)。

奇しくも筆者は、2025年の万博の開催地が大阪に決まったことを告げるニュースを聞きながら、この小文を書いている。多木が目撃した一度目のそれが悲劇なら、私たちはそれを喜劇として目撃することになるのだろうか。いずれにせよ、多木が指弾した「頽廃」はその後ましになるどころか、当時から半世紀を経ていっそう深刻さを増している。そのことを確認できるだけでも、この『プロヴォーク』復刻版が私たちの眼前に現われた意味がある。刊行に尽力された関係諸氏の努力を讃えたい。

参考

アートワード『プロヴォーク』(土屋誠一)

2018/12/11(火)(星野太)

ジョージ・クブラー『時のかたち──事物の歴史をめぐって』

訳者:中谷礼仁、田中伸幸

翻訳協力:加藤哲弘

発行所:鹿島出版会

発行日:2018/08/20

待望の翻訳である。アメリカの美術史家ジョージ・クブラー(1912-1996)が1962年に刊行した本書は、小著ながら、20世紀に書かれた美術をめぐるもっとも重要な著作のひとつに数えられるだろう。本書の帯文における「革命的書物」(岡﨑乾二郎)という言葉はけっして誇張ではなく、刊行から半世紀を経た今日においても、本書のもつ輝きはまったく失われていない。

本書のテーマは、副題にもある「事物の歴史」である。もう少し限定するなら、「人間の手によって作られた事物の歴史」こそが本書の主題である、と言ってもよい。本書において、クブラーは「芸術」概念を「人間の手によってつくり出されたすべての事物」に広げてみることを提案する。すなわち「美しいものや詩的なものに加えて、すべての道具や文章までも」芸術に含めてみることを提案するのだ(14頁)。そのような前提から出発し、最終的にはあらゆる事物(人工物)の歴史を把握するための適切な方法を探し出すことが、本書では試みられる。

クブラーが仮想敵とするのは、芸術を「象徴的言語」(カッシーラー)とみなし、そこに含まれる意味を見いだすことに躍起になるイコノロジーや、各時代の「様式」を所与のものとみなす旧態依然とした美術史研究である。これに対し、彼が提案するのは、「意味」ではなくあくまでも「かたち」の観点から事物の歴史を精査していくというスタンスだ。ここには、『かたちの生命』(1934)の著者にして、ヨーロッパからの亡命中にイェール大学でクブラーを指導したアンリ・フォシヨン(1881-1943)の影響を見ることもできるし、彼自身が先コロンブス期のアメリカ美術を専門とする美術史家であったがゆえの洞察と見ることもできる。

シリーズとシークエンス、自己シグナルと付随シグナル、素形物と模倣物といった独自の概念によって、事物から事物への「かたち」の伝播を把握するための方法論を描き出していく本書の知見は、美術史研究にとどまらず、広く人工物を対象とする私たちの思考を今なお刺激してやまない(余談ながら、ジョン・バルデッサリやロバート・スミッソンなど、本書に影響を受けたアーティストもそれなりの数におよぶ)。しかし本書の何よりの魅力は、前述の概念群をもとに展開された思索を支える、簡潔かつ詩情に富んだ文体にある。「現在性とは、灯台からの閃光と閃光の合間にできる暗闇」である(44頁)といった記述などが、おそらくそのひとつの例になりうるだろう。適切な訳註を備えた本訳書にもまた、そのようなクブラーの筆遣いは十全に反映されている。

最後に、いささか長くなるが、ここまで述べてきた本書の問題意識の核心を伝えていると思われる一節を引用して締めくくりたい。ここでクブラーが「海」に喩えている事物の総体は、今では当時とはまた異なった姿をまとっているはずである。しかしその事実が、この警句の意義を減じることはいささかもない。問題は、私たちがそれを、どれほど真剣に受け止めることができるかという点にこそかかっている──「これまで生み出された時のかたちは、限られた数の類型から派生した無数の形態で占められた、海のようなものである。それらをつかまえるには、今使われているものとは違う編み目を持った網が必要なのである。様式概念はそのような網にはなりえない。[……]建築、彫刻、絵画や工芸についてのこれまでの歴史学では芸術的行為の些細な細部も、主要な細部も、いずれをも取り逃してしまう。単体の芸術作品を取り上げた研究論文は、積み上げられた壁の所定の位置に嵌め込むために整形された嵌め石のようだ。しかし、その壁自体は、目的も計画もなしに建造されているのである」(72-73頁)。

参考

アートワード「『時のかたち ものの歴史についての覚え書き』ジョージ・キューブラー」(沢山遼)

2018/10/08(月)(星野太)