artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

瀧口修造研究会『橄欖』第4号

発行所:瀧口修造研究会

発行日:2018/07/01

2009年より不定期で刊行されている瀧口修造研究会の会報『橄欖』の第4号。奥付の発行部数には「限定400部」とあり、必ずしも広い読者の手に届きうる媒体とは言えないが、瀧口修造に関心を寄せる識者・研究者によって地道に発行が続けられている本誌が、瀧口や日本のシュルレアリスムに関連する資料・論考を収めたものとして貴重な媒体であることは間違いない。

本号にも──内容の濃淡こそあるものの──瀧口修造や日本のシュルレアリスムをめぐる興味ぶかいエセーが並ぶ。個人的に目を引かれたのが、詩人・小説家の堀辰雄との交流に焦点を合わせた「抒情と超現実──堀辰雄と瀧口修造の場合」(岩崎美弥子)や、瀧口およびモダニズム詩人における俳句の問題を仔細に論じた「瀧口修造と俳句という詩型──未完の可能性をめぐって」(高橋修宏)といった、瀧口と同時代の詩・文学との接点を探る論考である。また、このほど日本のシュルレアリスムを特集したフランスの研究誌『メリュジーヌ(Mélusine)』の内容紹介「シュルレアリスム研究誌『メリュジーヌ』の日本特集について」(永井敦子)や、同特集に寄せられた「瀧口修造──生涯と作品」(土渕信彦)の元原稿などは、日本のシュルレアリスム研究史から見ても重要なものであろう。

2018/10/08(月)(星野太)

高橋睦郎『つい昨日のこと』

発行所:思潮社

発行日:2018/06/25

この詩人のよき読者にとっては周知の事柄に属するが、高橋睦郎にとって「ギリシア」というトポスはこのうえなく重要なものだ。その片鱗をうかがい知るためには、さしあたり『聖という場』(小沢書店、1978)や『詩人が読む古典ギリシア』(みすず書房、2017)といった散文・評論を紐解いてみるとよい。しかし、いささか意外なことにも、その一冊がまるごとギリシアに捧げられた詩集は、じつのところ本書がはじめてである。

本書には、「つい昨日のこと」と題された151の書き下ろしの詩篇に加えて、過去に詩誌に発表された「殺したのは」「異神来たる」「家族ゲーム」の3篇が収録されている(それぞれ哲学者ソクラテス、オリュンポスの神族、そして暴君ネロが主題)。詩人本人とおぼしき人物の回想はもとより、古代ギリシアの神々や、かつてギリシア・ローマに実在したさまざまな人物の口を借りて、2500年以上もの歴史をもつ「ギリシア」のさまざまな顔が、150あまりの詩を通じてにわかに浮かび上がる。しかし急ぎ付け加えておかねばならないが、本書は必ずしも実在の「ギリシア」を舞台とした作品なのではない。強いて言えばそれは、時代も、場処も、性や人称さえも渾然一体となった、「ギリシア」なるトポスをめぐる一大叙事詩とでも言えようか。

本書は、現在80歳になるこの詩人の膨大な詩業の「総決算」(180頁)でもある。表題は、呉茂一訳『ギリシア抒情詩選』を通じて古代ギリシアと出会った13歳の頃、あるいはその後はじめて同地を訪れた31歳の頃の記憶が、「つい昨日のこと」としか思えないという実感に由来するものであるという。ただし、本書のあとがき(「私とギリシア あとがきに代えて」)で明かされているように、この書名にはまた、「ソクラテスがこの辺りを歩いていたのはつい昨日のことだ」というケネス・ドーバーの含蓄ある言葉が反響している(『わたしたちのギリシア人』久保正彰訳、青土社、1982)。果たして、本書ではまさに、古代ギリシアの神話・哲学・文学のさまざまなエピソードが、まるで「つい昨日のこと」であるかのような生々しい光景として出来しているではないか。それを可能にしているのは、東西のあらゆる文学に通じた、この詩人の類稀な「語り/騙り」の力だ。冒頭、「一九六九年初夏」から「前三九九年四月二十七日」へ、すなわち20世紀から前4世紀への2500年の距離を悠々と飛び越える、このようなスケールの詩を現代日本語で読みうるという事実には、ただただ驚嘆するほかない。

そんな圧巻の詩集からひとつ。異神イエス・キリストに取って代わられんとするオリュンポスの神々の口を借りた「異神来たる オリュンポス神族が言う」より、次の5行を引いておきたい──「や これは何だ この両の蹠(あしのうら)の踏み応えのなさは?/脛にも 腿にも 両の腕(かいな)にも まるで力が入(はい)らない/それに 鼻から 口から 吸い込む息の この稀薄さは?/目を凝らせば 周りの男神(おがみ)が 女神(めがみ)が ぼやけていく/ということは 見ているこの身も 薄れていくのだな」(164頁)。

2018/10/08(月)(星野太)

ダニエル・ヘラー゠ローゼン『エコラリアス──言語の忘却について』

訳者:関口涼子

発行所:みすず書房

発行日:2018/06/08

プリンストン大学で教鞭を執る若き比較文学者、ダニエル・ヘラー゠ローゼン(1974-)の初の邦訳書。この著者の仕事を10年以上にわたり追いかけてきた者として、本書の出現はまさに待望といってよい出来事だった。従来、ヘラー゠ローゼンの名は「ジョルジョ・アガンベンの英訳者」という枕詞とともに伝えられることが多かったが、本書『エコラリアス』の訳出によって、恐るべき学識と語学力を備えたこの碩学の名は、今後本邦でも広く知られていくにちがいない。

弱冠20代半ばにしてアガンベンの複数の訳書をものした著者は、これまで本書を含む7冊の──まったく主題の異なる──単著を発表しているだけでなく、ノートン版『アラビアン・ナイト』の編集を手がけるなど、文献学の領域でもすぐれた業績を残している。『薔薇物語』の研究で博士号を取得した彼の専門はさしあたり中世文学といってよいだろうが、古代ローマ法以来の「海賊」をめぐるさまざまなトポスを渉猟した『万人の敵』(2009)や、ピタゴラスに端を発する「世界の不調和」の系譜をたどった『第五の槌』(2011)などが示すように(いずれも未邦訳)、その関心は哲学、法学、言語学などにまたがり、ほとんど際限がない。

なおかつこの著者の美点は、10におよぶ言語を操り、古代・中世・近代の文献を縦横無尽に呼び出すその学知に加えて、それを伝える文章がきわめて平明かつ魅力的であることだ。先に列挙したような壮大なテーマを扱った著作が、専門的な知識を欠いた幅広い読者に開かれているという事実は、率直に言って驚くべきことである。私たちはその筆に身を任せるだけで、本来ならば容易には接近しがたい広大な「知」の一端を瞥見することができる。本書『エコラリアス』もまた、古典文学からカフカ、ハイネ、カネッティら近代の作家を経由して、副題にもある「言語の忘却」という主題にさまざまな角度から迫った、すぐれたエッセイ集として読むことが可能である。

2018/07/25(水)(星野太)

カンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ──思弁的唯物論の展開』

訳者:岡嶋隆佑、熊谷謙介、黒木萬代、神保夏子

発行所:青土社

発行日:2018/07/04

過去、雑誌『現代思想』などに掲載されたカンタン・メイヤスー(1967-)の論文を収めた日本オリジナル著作集。メイヤスーの邦訳は主著『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳、人文書院、2016)に続き、本書が2作目となる。

周知のように、メイヤスーは2000年代における「思弁的実在論」の流行の口火を切った哲学者である。本書の副題にもあるように、メイヤスーが自著で用いた言葉はあくまでも思弁的「唯物論」であり、前述のムーヴメントにしても彼自身が積極的に喧伝しているわけではない。しかしいずれにせよ、メイヤスーの『有限性の後で』が、21世紀の哲学に新たな方向性を示した画期的な著作であることに疑いの余地はないだろう。他方、2018年現在、けっして多作とは言えない彼のその後の思想の展開は、英語や仏語で発表された論文を通じてわずかに示されるにとどまっている。その意味で、表題作「亡霊のジレンマ」をはじめとする6本の主要論文を収めた本書は、メイヤスーのその後の思想を知るうえで必携と呼べる一冊である。

また、本邦でも紹介されつつあるように、メイヤスーの「偶然性」や「祖先以前性」をめぐる議論は、近年の美術や文学の世界にも少なからぬ影響を及ぼしてきた(まったく薦められないが、その比較的早い例としてロビン・マッカイ編『ザ・メディウム・オブ・コンティンジェンシー』[カイカイキキ、2014]が挙げられる)。そうした文化現象としての思弁的実在論/唯物論に関心のある読者にとって、本書に収められた「思弁的唯物論のラフスケッチ」や「形而上学と科学外世界のフィクション」をはじめとする(相対的に)カジュアルな論考は、その理解の助けとなってくれるにちがいない。むろん、本邦初訳のマラルメ論、あるいはベルクソンやドゥルーズをめぐるハードな論文も収めた本書は、『有限性の後で』を通じてメイヤスーの哲学に関心を抱いた読者の期待にも、大いに応えてくれるものであるはずだ。

2018/07/25(水)(星野太)

小田原のどか編著『彫刻 SCULPTURE 1』

発行所:トポフィル

発行日:2018/06/30

彫刻家・小田原のどかによる叢書『彫刻 SCULPTURE』の刊行が始まった。その創刊号である本書には、「空白の時代、戦時の彫刻」と「この国の彫刻のはじまりへ」という2つの特集に加え、編者の恩師でもある彫刻家・小谷元彦と青木野枝へのインタビュー、山田亮太の詩篇「報国」、そして編者と白川昌生、金井直による鼎談「『彫刻の問題』、その射程」が収録されている。以上のラインナップを見てもわかるように、本書は、昨年同じくトポフィルから刊行された『彫刻の問題』の議論を継承・発展させたものであると言ってよい。

驚くべきは、その密度と熱量である。約500頁にわたる本文に加え、それに関連する「彫刻・碑マップ」や関連年譜・索引、そして約40頁におよぶ英文要旨にいたるまで、この編集・造本・発行をひとりの個人が手がけたという事実には、ただひたすら驚嘆するほかない(版元のトポフィルとは、小田原がメンバーとして関わる出版プロジェクトの名称である)。本書が「1」と銘打たれているように、すでに続刊も告知されており、2019年夏にはアルトゥーロ・マルティーニの「彫刻、死語」と、クレメント・グリーンバーグの「新しい彫刻」の邦訳を収めた『彫刻2』が刊行される予定であるという。

先に見た2つの特集名が示すように、本書がおもに焦点を合わせるのは、近代の黎明期、そして戦時下における日本の彫刻の姿である。とはいえそれは、いわゆる「日本の近代彫刻」の「お勉強」にとどまるものでは毛頭ない。本書の巻頭言として書かれた「近代を彫刻/超克する」が明言するように、その根底にあるのは、彫刻を語ることが「この国の近現代史に光を当てることに他ならない」(17頁)という切なる問題意識だ。その成否については、ぜひとも本書に当たっていただければよいと思う。最後にあらためて特筆しておきたいのは、このような遠大な射程をもった叢書をひとりの個人が手がけたという、その事実がもつ意味である。本書を読んでいて何よりも感動をおぼえるのは、その文章のすみずみから、編者の抑えがたい強烈な怒りが感じ取られるところである。それは狭義の「彫刻の問題」にとどまらず、いまなお遍在する社会的な不正義(おもに女性に対する)への怒りだと私は理解した。かつて、ユダヤ人追悼碑のコンペティションで審査員を務めたジェームズ・ヤングの言葉を引きつつ、「ここから千年先まで議論が続くことを私は夢見ている」(16頁)と彼女はいう。いささか大げさな気がしないでもない。しかしその熱の籠もった文章を読むと、その直後に書き添えられた「さしあたって五〇年・・・・・・・・・、数年に一度のペースで、彫刻をめぐる論集を定期的に刊行する」(強調引用者)という言葉も含め、俄然真実味を帯びるところが不思議だ。

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