2023年09月15日号
次回10月2日更新予定

artscapeレビュー

伊村靖子のレビュー/プレビュー

糸井貫二木版画展

会期:2023/03/06~2023/03/11

ギャラリーヤマト[東京都]

1960年代に開始したパフォーマンスとメール・アート、「ダダカン」の通称で知られる糸井貫二の初期作品が展示されると聞き、駆けつけた。1954年4月から60年11月にかけて『遊 連句と俳石』の表紙やカットとして制作された版画を中心に、糸井の元に残されていた作品で構成されている。ダダカン連のメンバーが調査し、2022年に仙台で初の展覧会を開催、その東京版として今回の展示が企画されたという。

糸井の活動は通称の「ダダ」が示すように、歴史のなかに位置づけようとすると、さまざまな困難を伴う。というのも、黒ダライ児の調査によれば、糸井のパフォーマンスは「日時・場所を事前に告知して行われたものすらほとんどなく、予定も設定もなく行われるか他の作家たちが設定したイベントに便乗して行われた」ほか、「糸井の手元にあった貴重な資料もメール・アートによる送付や様々な原因で散逸・紛失してしまったものが多い」という背景がある。そのため、作家自身やその場に同席していた人々、当時の文献などから得られる証言、記録写真などからでなければ、活動を捉えること自体が難しい。また、危険物、猥褻物としての規制や、黒ダがアマチュア的「限界芸術」の実践者と呼ぶような側面も、糸井の評価が遅れた理由と言えるだろう。椹木野衣が『戦争と万博』(美術出版社、2005)で紹介した、大阪万博のお祭り広場を全裸で走るハプニングがおそらく最もよく知られているが、いわばセンセーショナルな側面に隠れてしまいがちな糸井の活動を、異なる視点から考えることができたのは、今回の大きな収穫であった。

《詩画(ごあいさつ)》(1957頃)には、長男との生活のひとコマが垣間見える。その柔らかな眼差しは、《菩薩像》(1960)、《仏頭》(1963)のような宗教的かつ身近なモチーフから読み取れる祈りの姿勢とも通じるものである。その間に配置された、《いけにえ(宇宙犬ライカ)》《原子炉(1)》からは、時事問題への意識が窺える。両作品の年代は記されていないが、1957年にソビエト連邦が宇宙開発の実験のためスプートニク2号に乗せた宇宙犬ライカ、亀倉雄策が国際原子力平和利用会議のために制作し、1956年に日本宣伝美術会会員賞を受賞したポスター《原子エネルギーを平和産業に!》などを想起させる。(ダダカン連メンバーの細谷修平によれば、宇宙犬ライカは同時期の記念切手のモチーフになっており、そのイメージを参考にした可能性が高いという)



詩画(ごあいさつ)(1957頃)、木版/墨書/紙、38.9×26.7(台紙45.0×32.7)㎝、[版画右下に]白文方印「か」
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



左:菩薩像(2)(1960)、木版/紙(『週刊サンケイ』)、25.8×18.0㎝、[右下に]赤色スタンプ「KAN ITOI」
右:菩薩像(6)、木版/紙、23.0×12.4(28.3×22.0)㎝、[左下に]ITOI(1960)、朱文方印「糸井貫二」
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



仏頭(1963、第4回勤労者美術展出品)、木版/紙(台紙貼込)、28.6×37.9㎝
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



いけにえ(宇宙犬ライカ)、木版/紙、13.9×13.4(40.0×26.9)㎝、[右上に]いけにえ、[左下に]白文方印「か」
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



原子炉(1)、木版/紙、18.0×17.2(41.0×31.4)㎝
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]


糸井が日常のなかに留めた言葉や視点は、決して声高ではないが、生活に根ざした「反芸術」の批評意識が息づいていることを感じさせる。糸井にとって「反芸術」は一過性の様式などではなく、生涯を通じた実践であったことを、身をもって知ることができた。かく言う私自身、10年ほど前に糸井からの封書でポルノ雑誌から切り抜かれた女性の写真や男性器をかたどった複数の紙片を受け取ったことがある。メール・アートという宛先のある表現ならではの直接性を体験しつつも、男女の間に生じるパワーバランスの感覚とは無縁の清々しさすら感じられたことがずっと印象に残っていた。今回鑑賞した作品を通じて10年越しで糸井の取り組みへの新たな回路が開かれたことを、心して受け止めたいと思ったのである。

★1──黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(グラムブックス、2010年、p.410)糸井の作品は同書の表紙としても用いられている。

2023/03/11(土)(伊村靖子)

山下麻衣+小林直人 ─もし太陽に名前がなかったら─

会期:2023/01/25~2023/03/21

千葉県立美術館[千葉]

子どもたちはいつの間に、画用紙の上部片側にオレンジ色の太陽を描くことを覚えるのだろうか。私自身、かつて同様の疑問を持ったことがある。パリのニュース番組で天気予報の太陽が黄色で表示されたのを見たとき、この国の子どもたちは何色で太陽を描くのか興味をもったのだ。と同時に、一体人はいつからこのような営為を身につけるのだろうという素朴な疑問が湧いた。太陽が名前をもつということは、それが「太陽」であれ「Soleil」や「Sun」であれ、記号として接地し、反復できるイメージとして定着することを意味しているのだろう。《The Sun In The Corner》(2023)は、それを端的に示した作品だ。



《The Sun In The Corner》(2023)展示風景 千葉県立美術館[撮影:木暮伸也]


山下麻衣+小林直人は、人がこの世に生まれ落ち、一つひとつの出来事に出会いながら、それらの複雑さを捨象するための記号を獲得し、制度のなかで生きるまでのプロセスを丁寧に解きほぐす。この観察に根ざしたささやかな行為(=作品)が、いかにラディカルであり、現実を裏返し、変革をもたらす可能性に満ちているかを想像せずにはいられない。山下と小林は、鑑賞者が世界ともう一度出会い直すことを肯定しているのだ。

例えば、映像作品《積み石》(2018)の冒頭では、部屋の一角に高さ30cm、直径15cmほどの丸太が配置されている。そこに小林が現われ、丸太の間に背を向けて横になりうずくまる。次に山下が歩いて行き、安定する場所を探しながら、小林の上に積み重なる。そこにやって来るのが、愛犬のアンである。アンは、いつもとは違う二人の様子に戸惑いながら、石のように静止した二人とやり取りをしようと試みる。最後に、アンは山下の上に飛び乗り、居場所を探して留まるのである。4分38秒の間に、丸太、小林、山下、アンの関係が構築されていくのだ。興味深かったのは、初めは小林、山下、アンの三者を見ていたのだが、映像を繰り返し観察するうちに、無関係に見えていた丸太との関わりを考え始めたことだ。つまり、見る側もまた関係を見出しているのだ。《積み石》は、家族のような原初的な関わりを想起させるだけでなく、社会の原型を示していると言っても過言ではないだろう。



《積み石》(2018)展示風景 千葉県立美術館[撮影:木暮伸也]


一方、《KEEP CALM, ENJOY ART》(2019)、《世界はどうしてこんなに美しいんだ》(2019)、《人( )自然》(2021)は、山下が自転車に乗り、ペダルを漕ぐと、車輪に取り付けられたLEDホイールライトが残像効果によって短い言葉を照らしだす、映像作品のシリーズだ。そのうちの一作、《KEEP CALM, ENJOY ART》は、イギリス政府が第二次世界大戦の直前に、開戦時の混乱に備え、国民の士気を維持するために作成したプロパガンダポスター「KEEP CALM and CARRY ON(落ち着いて、日常を続けよ)」をもとに制作された作品である。このポスターは制作された当初広く知られることはなかったが、2000年に再発見されたのを機に、「CARRY ON」を別の言葉に読み替えるパロディが世界的に流行したという。言葉は記号を生み出し、集団の記憶を形成するが、その呪縛から人間を解放し、さまざまな解釈や行為を可能にすることもある。作品に引用された言葉は、向かい風を受け、自転車を漕ぎ続ける山下の身体的な負荷や風景とあいまって、生を取り戻すのだ。



《KEEP CALM, ENJOY ART》(2019)



左から《Artist’s Notebook》(2014-)、《積み石》(2018)、《NC_045512》(2023)、《KEEP CALM, ENJOY ART》(2019)、《世界はどうしてこんなに美しいんだ》(2019)、《人( )自然》(2021) 展示風景 千葉県立美術館[撮影:木暮伸也]


ここで紹介したのは展覧会の一部に過ぎない。そして、彼らの作品は、組み合わせによって何通りもの読みを誘発する。「出会い」や「関係」などから想起されるように、「もの派」の実践の拡張として捉えたり、環境芸術の観点から解釈するなど、過去の作品との接点により、新たな文脈を見出すこともできそうだ。

公式サイト:http://www2.chiba-muse.or.jp/www/ART/contents/1668403751371/index.html

2023/03/05(日)(伊村靖子)

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2023年コレクション展I「特集1 虚実のあわい」(前期)

会期:2023/01/21~2023/04/09

兵庫県立美術館[兵庫県]

兵庫県立美術館の2023年最初のコレクション展として、「中国明清の書画篆刻―梅舒適コレクションの精華―」との2本立てで開催されている本展。タイトルから連想されるのは、近松門左衛門の「虚実皮膜」だ。近松の論を花田清輝が『俳優修業』(1964)で引用し、花田を慕う東野芳明ら批評家たちが同時代の虚像論を展開したことが想起された。花田は本書で、「芸というものは、実(じつ)と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也」に続く一節を引き、東洲斎写楽の役者絵を、虚と実との対立の白熱化している決定的瞬間をとらえようとしたと評する。本展の冒頭で示されていたピュグマリオン伝説は、虚が実へと変貌する物語であるが、展示を見ながら、現代美術が実に屈服しない虚の力とどのように向き合ってきたのかを考えさせられた。

最後の瞽女と言われた小林ハルを描いた木下晋の《ゴゼ小林ハル像》(1983)は、細部を緻密に描きこんだ鉛筆画であるが、写実的なリアリズムにとどまらない。木下佳通代の《UNTITLED》(1976)は、ビデオ・フィードバックを思わせるイメージのなかに複数の鑑賞者が入れ子状に配されている。ビデオ・フィードバックはナムジュン・パイクをはじめ初期のビデオ・アートの手法として知られているが、この作品はそのイメージを写真によって構成するという、見る側の想像力を刺激する仕掛けとなっている。60年代後半以降に虚像論が活発化した背景には、テレビに代表されるマスメディアによるイメージが普及したことが挙げられるだろう。木下晋と木下佳通代のアプローチはそれぞれ異なるが、作られたイメージを乗り越えていく手がかりとなる。展示の後半で紹介されていた菅木志雄《中律―連界体》(1978)、李禹煥《関係項》(1983)のように「もの派」と呼ばれた動向を虚像論のなかに置き直してみると、あるがままの世界と出会うことの回帰的ではなくラディカルな行為としての側面が見えてくる。同時開催されていた李禹煥展の補助線にもなっていた。



木下佳通代《UNTITLED》(1976)平成21年度駒田哲男・楊子氏寄贈



2023年コレクション展I「特集1 虚実のあわい」(前期)会場風景



今回の見どころと思われたのは、西山美なコ《ハ~イ わたしエリカ♡》(1992)の展示であった。少女漫画の要素から引用されたかのようなキャラクターとピンク色を前面に押し出したインスタレーション、ポスター等の印刷物は、もはや西山作品を代表するイメージとして定着している。加えて、本展では、彼女の作品のパフォーマンス性やコミュニケーションとしての側面に着目できる。『月刊漫画ガロ』に広告として掲載され、大阪市内で案内ポストカードやチラシを入れたポケットティッシュとして配布された後、テレホンクラブというデートシステムの模倣としていかに機能したかを、メモや音声テープなどから再考することができた。



西山美なコ《ハ~イ わたしエリカ♡》(1992)令和3年度 大和卓司氏遺贈記念収蔵[© Minako Nishiyama]



2023年コレクション展Ⅰ「特集1 虚実のあわい」展(前期)会場風景


公式サイト:https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/j_2301/tokushu1.html

2023/02/11(土)(伊村靖子)

六本木クロッシング2022展:往来オーライ!

会期:2022/12/01~2023/03/26

森美術館[東京都]

六本木クロッシングは、森美術館が3年に一度、日本の現代アートシーンを総覧する企画として2004年に始めた展覧会である。7回目の本展は、4名のキュレーターにより、「日本の現代アート」という枠組を越えた22組の作家によって構成されている。多文化性や脱植民地的思考、メディアテクノロジーによって再編される時空間の認識、個人の属性に対する眼差しなど、私たちの認識に働きかける試みは、現在ならではの問いを内包している。と同時に、展覧会という制度のなかでこの問いをいかに切実なものにできるのかは、一考の余地がある。主催者・企画者の意図と作品がもつメッセージとの関係、作品のなかで取り扱われている主題と作家との関係、これらの関係性を表象することによって鑑賞者との間に生じるパワーバランスの問題を避けて通ることができないからだ。

こうした問いへの応答として際立っていたのは、石内都の「Moving Away」(2015-2018)シリーズである。展覧会の中盤に位置づけられた石内の作品は、極めて私的な色合いが強い。金沢八景(神奈川)のスタジオ周辺を被写体とし、彼女の生地でもある群馬県桐生市へ移転するまでのスナップショットが大きくプリントされ、配置されている。その一点ずつを見ていくと、カーテンに触れるような仕草が収められたショットは、彼女が同年代の女性たちの手や足を撮影した「1・9・4・7」を彷彿とさせ、芽の伸びた玉ねぎは、「Mother’s」で母の遺品が撮影された台所を思い起こさせる。そして、カーブミラーに小さく写る控えめなセルフポートレートとは対照的に、43年にわたりプリントを行なったという暗室からは、米海軍基地の街、赤線跡を撮影した「絶唱、横須賀ストーリー」「連夜の街」など、粒子の粒が際立つような初期の白黒写真が連想されるのだ。「引っ越し」という過去からの切断を主題としながらも、石内が取り組んできた数々の主題を想像させることにより、鑑賞者が自らに向き合うマインドセットが立ち上がる。



石内都《Moving Away》(2015-2018)、Cプリント
「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館(東京)展示風景、2022-2023年[撮影:木奥惠三 Courtesy:サードギャラリーAya(大阪)]


一方、やんツーの新作《永続的な一過性》(2022)は、自律搬送ロボットが多様なオブジェのなかから一つを選択して運び、展示・撤去を繰り返すというインスタレーションで、物流倉庫が着想の源にあるという。あらゆるものを「輸送する」という地平において等価に扱う物流のシステムをシミュレーションすると同時に、展示行為になぞらえた作品である(名和晃平の《Untitled》(プロトタイプ)を含め、借用された3点が「多様なオブジェ」の一部として扱われている点も、見どころのひとつであろう)。やんツーの作品ではオブジェが台座に設置された際にのみ、鑑賞者がキャプションを読むことができる。ロボットにより作品が搬入されるのを待ち、作品と解説を対照しながら鑑賞する行為もまた、システムに組み込まれているというアイロニーとも読み取れる。興味深かったのは、前述のキャプションや解説はすべてQRコードで読み込む仕組みとなっており、展覧会会場の外部から書き換え可能であることを示唆している点だ。やんツーによるシステムの模倣は、展覧会という制度を相対化し、パロディとして扱うことにとどまらない。私たちの生活に浸透するメディア技術を想起させ、グローバル資本主義下の監視や検閲、規格化・均質化といった問題への問いとしても機能している。





やんツー《永続的な一過性》 (2022)、ミクストメディア、サイズ可変
制作協力:浅井飛人、稲福孝信(HAUS Inc.) 作品提供:個人蔵(トム・サックス《グレーのケリー・バッグ》)、EVERYDAY HOLIDAY SQUAD(《tappi君》)、名和晃平(プロトタイプ〈Untitled〉)
「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館(東京)、展示風景、2022-2023年[撮影:木奥惠三 画像提供:森美術館]


今回の展示で気になったのは、共同企画者一同によるステートメント以外に明確な章立てを示していない点であろう。その狙いはどこにあるのか。タイトルの「往来オーライ!」は誰に向けられた言葉なのか。本稿では2人の作品を対比的に解釈することを試みたが、会期中複数の解釈が生まれるところに往来の可能性が託されているに違いない。


公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/roppongicrossing2022/index.html

2023/02/04(土)(伊村靖子)

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クリストとジャンヌ=クロード “包まれた凱旋門”

会期:2022/06/13~2023/02/12

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

2021年9月18日から10月3日にかけて、パリのエトワール凱旋門がシルバーブルーの布地に包まれた。1961年に構想されたクリストとジャンヌ=クロードによるプロジェクト《包まれた凱旋門》が、60年越しで実現した瞬間である。本展では、彼らのこれまでの活動を踏まえ、プロジェクトの計画から実現までを追うことができるように構成されていた。アーティストによるドローイング(複製)、マケット、記録写真のスライドショー、布とロープによる部分的再現のほか、プロジェクトに関わったさまざまな立場の人々のインタビュー映像などが展示されていた。



[写真:吉村昌也]


《包まれた凱旋門》は本来、2020年4月に予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期され、その間にクリストが他界した。したがって、作家二人が不在のもと、プロジェクトが実現したという経緯がある。興味深いのは、作家不在の状況において、残された作品や資料から考える行為のなかに、彼らが実現しようとした一過性の表現の真価を問う要素が含まれていた点だ。つまり、《包まれた凱旋門》は作家によって構想された後、その意志を引き継いだ他者によって読み解かれ、実現される一連のプロセスを通じて、第二の生を受けたように思われたのである。

《包まれた凱旋門》の構想が私たちを魅了する理由のひとつに、「モニュメントの不在」が挙げられるだろう。とりわけ、エトワール凱旋門は、パリの度重なる都市計画を象徴するモチーフである。戦勝記念碑としてナポレオン・ボナパルトの命により1806年に建設を開始されて以降、1921年には第一次世界大戦中の無名戦士が眠る墓として知られ、聖火が灯される場所でもある。世界有数の観光地として知られるエトワール凱旋門が布によって覆い隠され、一時的に不在となる現象は、会期中に訪れた何百万人もの観客によって目撃されただけでなく、メディア・イベントとしても機能している。筆者自身、2021年の《包まれた凱旋門》を直接観ることは叶わなかったが、高さ50m、幅45m、奥行き22mの巨大な新古典主義様式の建築がすっぽりと覆われた様相を写真で見て、凱旋門のモニュメントとしての政治性を改めて強く認識すると同時に、書き換え可能な未来を想像させる爽やかなヴィジョンとして記憶していた。加えて、本展を通して、作家のドローイング(複製)からそのヴィジョンを読み解き、実現可能なプランに落とし込むまでのさまざまな工程に関わった人々の証言を知ることで、そこにメタ・モニュメントとも言うべき共通の関心で結ばれた共同体が生まれたことに気付かされたのだ。



[Photo: Wolfgang Volz ©2021 Christo and Jeanne-Claude Foundation]


このプロジェクトが実現するまでには、プロジェクトを推進するディレクターはもとより、凱旋門の保護管理を担うフランス政府機関、フランス文化財センター(CMN)の協力が欠かせなかった。そして、凱旋門を傷つけずに布を取り付け、墓所で日々行なわれる儀式や聖火を妨げることなく進行するために、布やロープの選定、制作、支持構造の設計や施工を計画する構造家や風洞試験やロープワーク工事の専門家が関わっている。布の設置には70人のクライマーが参加し、展示の運営にはボランティアスタッフが携わった。設置のプロセスから完成までのすべての工程を演出し、展示期間中の週末はエトワール広場周辺の車両交通を完全に止めて歩行者天国とすることまでを含めて、細部に至るまでこのプロジェクトを完成させようという強い意志が漲っていた。



[Photo: Benjamin Loyseau ©2021 Christo and Jeanne-Claude Foundation]



公式サイト:https://www.2121designsight.jp/program/C_JC/

2023/02/01(水)(伊村靖子)

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