artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
杉本博司 本歌取り─日本文化の伝承と飛翔
会期:2022/09/17~2022/11/06
姫路市立美術館[兵庫県]
人間の創造したものに100パーセントのオリジナルはありえない。いかなる芸術家といえども多かれ少なかれ過去の創作物から影響、参照、引用、パクリ、レディメイドを行なってきた。これを杉本博司は和歌の伝統技法に倣って「本歌取り」と呼ぶ。同展は、杉本が自作のなかから「本歌取り」を選び、可能な限り本歌の古美術とともに展示するもの。杉本に倣えば「現代古美術」展というわけだ。
長大な展示室でまず目に飛び込んできたのは、杉本の《狩野永徳筆 安土城図屏風 想像屏風風姫路城図》(2022)。夜明け前の薄明の姫路城を撮った幅9メートル近いパノラマ写真で、八曲一隻に仕立てられている。これの本歌はタイトルにもあるように狩野永徳の《安土城図屏風》なのだが、オリジナルは天正少年使節によってイタリアに運ばれ、ローマ教皇に献上された後に行方不明となっているそうだ。その先の《松林図屏風》もデカイ。松林を無限遠の2倍で撮ったモノクローム写真を、6メートル強に拡大プリントして六曲一双に仕立てたもの(展示は左隻のみ)。この松林、松島や三保の松原、天橋立など各地を検分した末、皇居前の松にたどり着いたという。本歌の長谷川等伯のオリジナルは東博の「創立150年記念 国宝 東京国立博物館のすべて」にて公開中。
《廃仏希釈》と題された3体の奇妙な仏像は、蔵出しの彫刻の断片を杉本が譲り受けてつなぎ合わせ、足りない部分を月の石や恐竜の糞の化石や電球などで補修したもの。もともとは明治時代に廃棄された四天王像であり、復元する際に足りない部分をガラクタで補ったため《廃仏希釈》となった。その横には本歌として、文化庁から借りてきた四天王像が飾られている。
杉本の代表的な写真作品も出ている。たとえば「海景」シリーズの1点《英仏海峡、エトルタ》。その本歌として選ばれたのは、同じ海岸を描いた姫路市立美術館所蔵のクールベの《海》だ。フィルム上に人工的に雷を落として制作した杉本の「放電場」シリーズもある。これを六曲一双の屏風に仕立てた《放電場図屏風》(2022)。このシリーズを大胆にも襖絵に採用した建仁寺には、俵屋宗達の《風神雷神図屏風》が伝えられたという縁がある。この「放電場」の本歌として杉本が選んだのが、自身のコレクションの1点、鎌倉時代の《雷神像》だ。
同展にはマルセル・デュシャンがあちこちに影を落としているが、その核心ともいうべき《泉》に触れた作品もある。ヴェネツィア・ムラーノ島のガラス工房につくらせた《硝子茶碗 銘「泉」》(2014)だ。横倒しの便器を模した茶碗で、これで「茶のめ」てか。その作者名は村野藤六といい、杉本の敬愛する建築家からの本歌取りだ。その本歌である《泉》のオリジナルはとっくに失われているので、杉本がMoMAにあるレプリカを無限大の倍の焦点距離で撮ったピンボケ写真《Past Presence 068 泉、マルセル・デュシャン》(2014)を並置している。
笑えるのは書。杉本が揮毫し、掛け軸に仕立てた《無答故無問》と《常有他人死》の書の前には、「塩小賣所」と書かれたレディメイドの鉄板が置かれている。デュシャンピアンならわかるはず。《着服》(2022)と書かれた書には、愛用したピンクの上着を表装裂として使用。ポケットがたくさんついているのは、「着服にはポケットは多いほど良い」(杉本)からだ。《御陀仏》と《御釈迦》はいかにもな書だが、声に出して読んでみると笑ってしまう。その前には、古戦場から発掘されたとおぼしき兜が置かれている。なかから生えている夏草は須田悦弘の作品。極めつけは、「タンタン麺 九百円」「野菜炒め ハ百円」など、行きつけの町中華のためにしたためた《天山飯店 品書》。中国の守護神たちをあしらった明の時代の刺繍を表装裂に用いたという。そこまでするか。
同展は姫路だけの開催なので行くかどうか迷ったが、京都、大阪、神戸との合わせ技でなんとか訪れた。いやー、予想を超えておもしろかった。ただ時間が足りず、「圓教寺×杉本博司」をやっている書冩山圓教寺まで足を伸ばせなかったのが残念。
2022/11/02(水)(村田真)
アンディ・ウォーホル・キョウト
会期:2022/09/17~2023/02/12
京都市京セラ美術館[京都府]
出品作品200余点うち100点以上が日本初公開、半年に及ぶ超ロングラン、そして京都だけの単独開催という異例の展覧会。とりわけタイトルに表われているように、ウォーホルと京都とのつながりを強調しているのが最大の売りだ。
会場に入ると、初期の商業デザイナー時代のイラストに続き、1956年に世界一周旅行で訪れた日本でのスケッチや写真、絵葉書、パンフレットなどが公開されている。まだポップアーティストとして名をなす前に、ボーイフレンドとともに行った私的旅行で、約2カ月に及ぶ日程のうち2週間を日本に費やし、東京、日光、京都、奈良、熱海、鎌倉などに遊んだ。なかでも京都観光に刺激を受けた、というのは展覧会主催者の我田引水ではなく、当時の西洋人としてはごく普通の反応かもしれない。ウォーホルは訪問先でスケッチしまくっていたらしく、特に京都で描いた舞妓や僧侶、清水寺など余白の大きな線描は魅力的だ。
このときの日本旅行、京都体験がその後のウォーホル作品にどのような影響を与えたのだろう。たとえば、デザイナー時代に見られる金箔の使用や、ポップアート時代に顕著な同じモチーフの繰り返しは、京都で見た三十三間堂にある千体の観音像に感化されたものではないかとの指摘がある。また、1960年代のウォーホルの代表作のひとつ「花」シリーズは、日本の押し花や生花にヒントを得たものだといわれている。いささか割り引いて聞かなければならないが、限定的ながらも影響を受けたことは事実だろう。ウォーホルは1974年の2度目の来日時に、「日本風になろうと努力している」「日本的なものはなんでも好きだ」などと語っているが、これは彼特有のリップサービス。本当のところはわからない(ただ日本料理が好きだったことは間違いないらしい)。
展示は《マリリン》《キャンベル・スープ》《毛沢東》などおなじみのシリーズもあるが、ときおり顔を出す坂本龍一のポートレートや岸田今日子と仲谷昇を映した映像により、日本とのつながりに引き戻される。そして《電気椅子》《頭蓋骨》《最後の晩餐》など死を予感させる作品が続き、さてこの次はどんな展開になるのかと期待したら、もう出口だった。あれ? もう終わり? なんか尻切れとんぼだな。考えてみれば「死」のテーマで終わるのはごく真っ当な構成のはずだが、なんか物足りない気がする。マリリンやエルヴィスの顔が繰り返される華やかな巨大作品が少なく、見慣れない作品や資料が多かったせいだろうか。でもこのあっけない幕切れがウォーホルらしくもあるけれど。
公式サイト: https://www.andywarholkyoto.jp/
2022/11/01(火)(村田真)
日本の中のマネ ─出会い、120年のイメージ─
会期:2022/09/04~2022/11/03
練馬区立美術館[東京都]
「マネ展」ではなく、「日本の中のマネ」展。サブタイトルの「出会い、120年のイメージ」が語るように、いかに日本人がマネと出会い、血肉化し、変容させ、再解釈していったかが問われている。だからマネ自身の作品は少なく、油彩画は6点のみ。しかも国内から集めたものばかりなので小品が多く(そもそも日本にあるマネは版画を除けば20点足らず)、《草上の昼食》も《オランピア》も《笛を吹く少年》も《フォリー・ベルジェールのバー》も来ていない。ま、だれも期待してないけど。
展示はまずクールベの風景画に始まり、モネ、ドガ、セザンヌら印象派が紹介され、マネの油彩画や版画が続く。そもそもマネは日本では「印象派の親分」みたいに思われているが、印象派に多大な影響を与えたのは間違いないけれど、本人は印象派に括られることを拒んでいたし、クールベの敷いたレアリスムの延長線上に位置していた。この導入部はそのことを示している。そして、この美術史上の位置づけの曖昧さがマネの理解を難しくし、日本での受容を遅らせたようだ。しかし、マネは単にレアリスムから印象派への橋渡し役を果たしたというだけの画家ではなく、むしろそれ以上に、19世紀後半という美術史上もっとも重要な端境期に絵画の自律性を模索し、モダンアートの道を開いた画家だった。「近代絵画の父」といわれるゆえんである。
日本での受容は、1892年に森鴎外がエミール・ゾラについて述べるなかでマネの名を出したのが初出とされるが、影響を受けた作品では、石井柏亭による《草上の小憩》(1904)が最初らしい。これはタイトルからもわかるように、《草上の昼食》にヒントを得たもので、男女が草上でくつろぐ構成はマネ風だが、色彩やタッチは明らかに印象派の影響が色濃い。それ以前から日本では印象派に感化された作品が出回っていたことを考えれば、この印象派風のマネは遅きに失した感がないでもない。
その後に続く安井曾太郎の《水浴裸婦》(1914)《樹蔭》(1919)、斎藤与里の《朝》(1915)《春》(1918)などは、いずれも渡仏経験がある画家だけに《草上の昼食》からの影響が指摘できるし、熊岡美彦の《裸体》(1928)や片岡銀蔵の《融和》(1934)などの「横たわる裸婦像」は、《オランピア》との類似が明らかだ。しかし影響といっても、これらはモチーフや構図など表面的に似通っているにすぎない。ただ片岡の《融和》は、白人の女主人が東洋系の白い肌の裸婦に、黒人のメイドが南洋系の褐色の女性に置き換えられており、当時の大日本帝国の植民地主義的な優越意識が透けて見えることを記憶しておきたい。
戦前の最後の作品は小磯良平の《斉唱》(1941)。この作品とマネとの共通性は一見わかりにくいが、人物の織りなす垂直・水平方向の画面構成、および黒を中心とする色彩は、ワシントンの《オペラ座の仮面舞踏会》を想起させずにおかない。実際に小磯がこの作品に感化されたかどうかは別にして、ここにきて初めてモチーフや構図などの外見的な模倣ではなく、マネの目指した自律的な絵画空間に学ぶ画家が現われたといえるのではないか。いわばようやくマネの真似から脱したと(笑)。
戦後半世紀近い時間を飛ばして、最後は森村泰昌と福田美蘭の展示となる。森村は日本人が西洋名画を模倣するというコンプレックス丸出しの自虐的セルフポートレートで知られるが、それゆえに目を背けてはならない作家だ。出品は1988-1989年の旧作が大半を占めるが、《笛を吹く少年》《オランピア》《フォリー・ベルジェールのバー》をモチーフにした作品は、人種やジェンダーや階級の差が時と場所を超えて存在することを、グロテスクに暴いてみせる。戦前の片岡の楽天的な「融和」とは真逆といっていい。
福田はもっと過激かもしれない。《草上の昼食》の右側の人物から見た風景を描いた《帽子を被った男性から見た草上の二人》(1992)や、その図版が掲載された新聞の切り抜きを版画に見立てた《日経新聞1998年5月3日》、《テュイルリー公園の音楽会》(1862)の雑踏を渋谷スクランブル交差点の風景に置き換えた同題の作品は、例によって福田特有の遊び心が満載だ。でも、マネのレアリスム精神を現代に持ち込んだゼレンスキー大統領の肖像画は、こじつけにもほどがあるといいたい。
それより狂喜したのは《LEGO Flower Bouquet》(2022)という作品。絵の内容に惹かれたのではない。第一ぼくは見ていないのだから。この作品、展覧会が始まって1カ月余りは展示されていたが、10月半ばに「日展」に応募したため、ぼくが訪れたときには絵のコピーと解説が貼ってあるだけ。その後めでたく落選したため、10月31日から再展示されたという。なぜこれに喜んだのかといえば、マネの絵の真似をしたのではなく、サロンに挑戦し続けた(そして何度も落選した)マネの行動に倣ったからだ。また、入選すれば名誉(か?)なだけでなく、「日本の中のマネ」展を「日展」のなかに寄生させることができるし、選ばれなくてもすごすご再展示し「ひとり落選展」として笑いを取ることもできる。どちらに転んでもおいしいのだ。後日「日展」を訪れた。福田が落選なら、洋画部門の9割方は落選するだろう。
公式サイト:https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202204141649901997
2022/10/27(木)(村田真)
母袋俊也 魂—身体 そして光 《ta・KK・ei》《TA・GEMBAKZU》
会期:2022/10/22(土)~2023/01/22(日)
原爆の図 丸木美術館[埼玉県]
バリバリのフォーマリスト母袋俊也が、ゴリゴリの社会派である原爆の図丸木美術館で個展を開く。ジャーナリスティックに書けばそういうことだが、水と油のような両者も案外相性は悪くなさそうだ。いくら母袋が「フォーマート(絵画形式)」を重視するといっても、それだけで絵が描けるはずもなく、「精神性」をもう一つの柱としてきたからだ。これまでグリューネヴァルトの祭壇画、アンドレイ・ルブリョフのイコンなどに触発されてきた彼が、近年関心を深めていたのがまさに丸木夫妻による「原爆の図」だった。
大きな展示室3に入ると、丸木夫妻による「原爆の図」第3部《水》の実物大コピーと、それに基づいて制作された母袋の《TA・GEMBAKZU》が目に入る。タイトルの「TA」とは母袋の符牒で、日本の屏風や障壁画などに見られる偶数パネルの連結を意味する(対して、西洋の祭壇画のような奇数パネルを彼は「Qf」と呼ぶ)。母袋はモノクロームの《水》をTA系として画面構造を分析し、同作品と同じサイズの画面に水平、垂直、斜めの補助線を入れて分割、彩色し、まったく別の「母袋絵画」に変容させている。赤ん坊を抱く母を中心に左右に群像が広がる構図は、西洋の「聖母子像」や「最後の晩餐」といった宗教画を想起させ、これまでの母袋のモチーフとの共通性を示唆しているかのようだ。
それだけではない。《水》および《TA・GEMBAKZU》の地平線を壁面に延長させ、その水平線に合わせてグリューネヴァルトの《磔刑図》にヒントを得た新旧の《ta・KK・ei》シリーズを配置。さらに壁の上方に空を描いた旧作《Himmel Bild》7点を掲げ、手前の床には梯子状の《ヤコブの梯子・枠窓》を設置することで、この展示室全体をひとつのインスタレーションに仕立て上げてみせた。
ちなみに母袋の参照したグリューネヴァルトの《磔刑図》は当時、流行病の治療を行なう修道院に飾られ、病人たちの痛みをキリストの痛みに重ねて昇華する役割を担っていたという。この《磔刑図》に想を得た《ta・KK・ei》は以前から制作していたが、今回はこれに現在のコロナ禍を重ねて再びシリーズとして取り組んでいる。展示室1と2ではこの《ta・KK・ei》の新シリーズと、《TA・GEMBAKZU》のプランドローイングが中心となり、全体でフォーマートより精神性を前面に押し出した展示となっている。
公式サイト:https://marukigallery.jp/5784/
2022/10/22(土)(村田真)
展覧会 岡本太郎
会期:2022/10/18~2022/12/28
東京都美術館[東京都]
「岡本太郎展」ではなく、「展覧会 岡本太郎」である。この倒置法、どこかで見かけたことがあるなと思ったら、「博物館 網走監獄」だった。そんじょそこらの「岡本太郎展」とは違って、箔が感じられる。実際、これほど大規模な展覧会は見たことなかったし、存在は知っていたけど初めて見る作品や、存在すら知らなかった作品も出ていてとてもおもしろかった。
特によかったのが最初のフロア。絵画を中心に、戦後から晩年まで約半世紀に及ぶ主要作品がランダムに並べられているのだ。これらを見れば、あらためて岡本太郎の強烈な個性が痛感できると同時に、その個性がほとんどパターン化していることにも気づくだろう。とりわけ1960年以降はまるで金太郎飴のように、どこを切っても似たり寄ったりのワンパターン。確かに彼は「だれが見ても岡本太郎」というオリジナリティを確立したけれど、そのオリジナリティに縛られた彼自身はマンネリズムに陥っていたのではないか。
1階からは、第1章「岡本太郎誕生—パリ時代」から第6章「黒い眼の深淵—つき抜けた孤独」まで、いわば各論となる。このなかで、ある程度岡本太郎を知っている者にとって興味深いのは、近年発見されたパリ時代初期の3点の絵画、軍役時代の上官の肖像画や兵士のスケッチ、怪獣映画のキャラクターデザイン、《明日の神話》(1968)および《太陽の塔》(1970)の構想が固まるまでのスケッチ、初期絵画に加筆した作品、そして最後の作品といわれる《雷人》(1995、未完)といった、あまり目にする機会のない作品だ。
とりわけ驚いたのは、1980年代に大幅に加筆された作品群の存在。これは、展覧会の出品記録がありながら所在が確認できない初期作品が何点もあったため、岡本太郎記念館が調査した結果、晩年になって戦後まもない時期の絵画に大幅に加筆していたことが判明したものだ。元の作品写真と比べると、構図や色彩はほぼオリジナルのまま残したものから、見る影もないほど描き変えられたものまでさまざまある。別に自作に加筆したらいけないという決まりはないし、これまでにも多くの画家が加筆してきたが、大幅に手を加えたらその年号を入れなければ制作年の詐称になりかねない。
「挑む」を信条とし、過去の作品に頓着しなかったはずの太郎が、晩年になって初期作品に手を入れたのはどういう心境だろう。誤って旧作に挑んでしまったのか、それともやっぱりヘタであってはいけないと宗旨替えしたのか。作品を売らず手元に残しておいたことも、加筆を促す一因になったはず。いずれにせよ太郎らしからぬ行為だけに、太郎ならやりかねないとも思えるのだ。
公式サイト:https://taro2022.jp
2022/10/17(月)(内覧会)(村田真)