artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

倉谷卓・山崎雄策×喜多村みか・渡邊有紀「ふたりとふたり」

会期:2019/04/16~2019/05/19

kanzan gallery[東京都]

「ふたり」と「ふたり」の写真家ユニットによる興味深い展覧会である。ともに1984年生まれの倉谷卓と山崎雄策は、2017年からTHE FAN CLUBとしての活動を開始した。それぞれが「大切な人」をテーマに撮影したネガに直接切手を貼って郵送し、受け取った側がそれをプリントするというコンセプトで制作されたのが、本展に出品された「FAN LETTER」シリーズである。一方、大学の同級生だった喜多村みかと渡邊有紀は、2003年頃から互いのポートレートを撮影するという作業をずっと続け、「TWO SIGHTS PAST」の連作として発表してきた。今回の「ふたりとふたり」展は、倉谷と山崎が「共作を開始するにあたって影響を受けた」喜多村と渡邊に声をかけるというかたちで実現したのだという。

成り立ちも制作期間もまったく違うので、二つの作品を同列に論じることはできない。倉谷と山崎の「FAN LETTER」は、まだ開始されてから間がなく、これから先の展開も予測がつかない。だが、プライヴェートな状況を、写真撮影と作品化のプロセスを通じて共有化し、積み上げていくという意味では両者とも大きな可能性を持つプロジェクトではないかと思う。特に15年という時間を経た喜多村と渡邊の「TWO SIGHTS PAST」は、すでにかなりの厚みを備え、内容的にも深まりを見せている。今回は、一年ごとに写真を展示し、小冊子の写真集としてまとめているのだが、2017年の分だけが空白になっていた。会う機会はあっても写真を撮影しなかったということのようだが、逆にそのブランクに「撮り続ける」ことの重みを感じた。このシリーズは、そろそろ1冊の写真集にまとめてもいいのではないだろうか。

2019/04/17(水)(飯沢耕太郎)

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019

会期:2019/04/13~2019/05/12

京都文化博物館別館ほか[京都府]

京都国際写真祭も7回目を迎えた。企画のクオリティの高さと世界各地からの観客の動員力という意味では、日本で開催される写真フェスティバルのなかでも群を抜いている。京都という場所の知名度はもちろんだが、写真展を中心としたイベントの企画力が観客を惹きつける魅力になっているのではないだろうか。

ただ、ここ数年の上げ潮に乗っていた状況と比較すると、今年は翳りとはいわないまでもいくつかの問題点が生じてきているように感じた。京都国際写真祭の最大の特徴は、京都の町家や寺院などの特徴ある建築物の空間を活かした展示のインスタレーションにある。今回も京都新聞ビル印刷工場跡の金氏徹平「S.F.(Splash Factory)」、誉田屋源兵衛竹院の間の「ピエール・セルネ&春画」、両足院(建仁寺山内)のアルフレート・エールハルト「自然の形態美──バウハウス100周年記念展」など、その特徴がよく出た展覧会を見ることができた。ただ全体的に見ると、企画の内容とインスタレーションとがやや噛み合わない展示が多くなっている。また、テーマとして掲げている「VIBE」がほとんど意味を持っていないのも気になる。抽象的なテーマでお茶を濁すよりは、例えば時代や地域やジャンルのような、より具体的な統一性、共通性を求めたほうがいいのではないだろうか。

今回、展示として一番見応えがあったのは、メインの「パブリックプログラム」ではなく公募型のサテライト展の一環として開催された「KG+12 SELECT」展(元・淳風小学校)だった。応募された展示プログラムから選出されたという12人の写真家たちの作品は、どれも力がこもったもので、むしろ京都国際写真祭の新たな方向性を示唆しているようにすら感じる。中井菜央、藤倉翼、藤元敬二、藤安淳、堀井ヒロツグらの展示を見ることができたのは大きな収穫だった。

2019/04/13(土)(飯沢耕太郎)

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蔵真墨「パンモゴッソヨ? Summertime in Busan」

会期:2019/04/09~2019/04/27

ふげん社[東京都]

蔵真墨は2015年、個展開催のために、はじめて韓国・釜山を訪れた。街がすっかり気に入って、「同じ時間を共有した人々が親戚のように感じられた」という。それからずっと再訪することを考えていたが、2017年の夏にBankARTのレジデンスプログラムで3カ月ほど滞在する機会を得た。今回のふげん社での個展は、その時に撮影した写真をまとめたものである。

タイトルの「パンモゴッソヨ?」というのは、「お元気?」というくらいの軽い挨拶だが、本来は「ごはん(パン)食べ(モグ)た?」という意味だという。たしか東松照明の『太陽の鉛筆』(1975)で、沖縄・八重山の離島あたりでも、「ひもじくないか?」と声をかけられるという話を読んだ記憶がある。まず食べ物の話題を出すというところに、人と人との親密さの度合いが強いということとともに、その地域のかつての貧しさもあらわれているような気もする。蔵はその挨拶をひとつの手がかりとして釜山を歩き回って、目についた光景をカメラにおさめていった。写真の中には、たしかにそこからさまざまな記憶が引き出されてくるような、「ごはん」とその材料が写っているものが多い。ほかの写真も、いかにも居心地のいい空気感を醸し出していた。

蔵は初期を除いては、これまでほとんどカラー写真で作品を発表してきたが、このシリーズは珍しくモノクロームで撮影している。そのことで、写真に写っている事物のディテールを落ち着いて、じっくりと味わうことができた。繊細な光と影の彩りが、釜山の夏の新たな表情を引き出しているように感じる。「今度滞在するなら秋はどうだろうかと考えている」とのことだが、ぜひ実現してほしいものだ。今回とはまた違った感触の写真になるのではないだろうか。

2019/04/11(木)(飯沢耕太郎)

有元伸也「TIBET」

会期:2019/04/05~2019/04/27

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

有元伸也のデビュー作は、1998年に第35回太陽賞を受賞し、翌年に写真集として刊行された『西蔵より肖像』(ビジュアルアーツ)である。今回のZEN FOTO GALLERYでの個展は、長く絶版となっていた写真集『西蔵より肖像』が、新装版の『TIBET』(ZEN FOTO GALLERY)として刊行されたのを受けたもので、同シリーズから19点が展示されていた。

会場でまず目につくのは、105×105センチという巨大なサイズに引き伸ばされた大判プリント3点である。手間がかかる銀塩プリントは、有元が講師を務めている東京ビジュアルアーツの暗室で制作されたという。ややアナクロ的な作業に見えなくもないが、その視覚効果は絶大で、大判プリントならではの、写真に写っている時空に体ごと連れ去られてしまうような感覚を味わうことができた。会場に並ぶプリントのなかには、あらためてネガを見直して選んだ未発表作が3点ほど含まれている。写真集『TIBET』に収録された作品数も、『西蔵より肖像』から20点ほど増えている。有元にとっては、まさに自分の写真家としての原点を確認する出版と展示だったはずだが、新たな要素を付け加えているところに強い意欲を感じた。

有元の話を聞くと、かつては対立的あるいは従属的な側面が強かった中国とチベットとの関係も、最近は少しずつ変わり始めているようだ。東京ビジュアルアーツには中国からの留学生も多く、彼らにとって、宗教や文化の伝統の厚みを持つチベットは、むしろ憧れの対象になっているのだという。だが、有元が1990年代に外国人の立ち入りがほとんどできなかった地域で撮影した写真群は、もはや再撮影は不可能な貴重な記録となっている。今回の展示は、そのことをあらためて確認するよい機会にもなった。

2019/04/10(水)(飯沢耕太郎)

魚返一真「檸檬のしずく」

会期:2019/04/05~2019/04/14

神保町画廊[東京都]

魚返(おがえり)一真は、1955年大分県生まれのベテラン写真家だが、一貫して「一般女性をモデルにして独自の妄想写真」を撮影・発表し続けてきた。「妄想写真」というのは魚返の造語で、エロチックな夢想を具現化した写真というような意味だ。モデルたちは、彼のカメラの前で着衣、あるいはヌードできわどいポーズをとる。むろん、そのような男性の性的な欲望に写真撮影を通じて応えようとする行為は、これまでずっとおこなわれてきたし、いまでも多くの写真家たちによって続けられている。だが、写真集に合わせて私家版で刊行された小ぶりな写真集『檸檬のしずく』に寄せたコメントで、詩人の阿部嘉昭が「魚返一真の写真を『チラリズム』を利用した好色写真とするだけでは足りないと、だれもがかんじているはずだ」書いているのは、その通りだと思う。魚返の作品には、たしかに「好色写真」の形式と作法に寄りかかりながらも、そこから逸脱していくような奇妙な魅力がある。

その理由のひとつは、魚返とモデルたちとの関係のつくり方にありそうだ。彼のモデルは「街でスカウトした女性やネットを通じて応募してくれた女性」だそうだが、魚返は自分の「妄想」を一方的に押し付けるのではなく、むしろ彼女たちのなかに潜んでいた「自分をこのように見せたい、見て欲しい」という密かな欲望を引き出してくる。撮影の仕方は懇切丁寧で、ある状況、ポーズに彼女たちを導いていくプロセスに一切の手抜きはない。「妄想」を追い求めていくのは、傍目で見るよりも根気が必要な作業のはずだが、その無償の情熱を長年にわたって保ち続けているのはそれだけでも凄いことだ。結果的に、彼の写真は生真面目さと品のよさを感じさせるものになった。このような「好色写真」は、ありそうであまりなかったものかもしれない。

2019/04/10(水)(飯沢耕太郎)