artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
今森光彦展「写真と切り絵の里山物語」
会期:2019/08/28~2019/09/04
松屋銀座 8階イベントスクエア[東京都]
今森光彦は1990年代初頭から、生まれ故郷の滋賀県大津市仰木にアトリエを構え、琵琶湖周辺の里山の自然環境を、四季を通して撮影しはじめた。それらの写真は、1995年に第20回木村伊兵衛写真賞を受賞した写真集『里山物語』(新潮社、1995)にまとまり、人と自然とが共生する身近な環境に着目した新たな自然写真のアプローチとして高い評価を受けた。
今森はまた、同時期にアトリエの周囲を「オーレリアンの庭」(オーレリアンは蝶の愛好家という意味)として整えて、生活と創作とを融け合わせようと試みるようになる。写真だけでなく、小学生の頃から続けてきたという切り絵作品を本格的に制作しはじめたのもその頃からだ。さらに、2014年からは新たな活動を開始した。里山の一角の荒れ果てた土地を購入し、「環境農家」として再生することに取り組みはじめたのだ。竹藪と格闘し、土中の石を取り除き、樹木を植え、溜池を掘り、少しずつ農業の環境を整えていく。5年をかけて、ようやくその作業にも目処がついてきた。
今回開催された「写真と切り絵の里山物語」展は、その今森の1990年代からの歩みをあらためて辿り直す回顧展である。『里山物語』などの写真集に掲載された代表作、「オーレリアンの庭」とアトリエでの暮らしの展示に続いて、展覧会の最後のパートでは、このところ集中して取り組んでいる「環境農家」への取り組みを、写真と文章で浮かび上がらせている。カラフルな切り絵の大作も多数出品されていて、今森の活動範囲が写真だけでなく、絵本制作など大きく広がりはじめていることがわかる。むろん、写真の仕事はこれから先も彼のメインの活動になっていくだろうが、そこに留まることなく、環境全体を視野に入れ、人間社会と自然との関わりを実践的に考察し、行動に移していくことの比重が上がってくることは間違いないだろう。
なお、展覧会にあわせて新著『光の田園物語 環境農家への道』(クレヴィス)が出版された、まだ、中間報告の段階だが、今後の展開が期待できる内容の写真文集である。
2019/08/28(水)(飯沢耕太郎)
話しているのは誰? 現代美術に潜む文学
会期:2019/08/28~2019/11/11
国立新美術館 企画展示室1E[東京都]
タイトルを聞いたときは、文学と現代美術との関係を問い直す展覧会ではないかと思った。つまり、プルーストの『失われた時を求めて』やカフカの『変身』のような、具体的な文学作品が下敷きにある現代美術作品を集めた企画だと思ったのだ。ところが展示を見て、それがまったくの誤解であることがわかった。「ここでの文学は、一般に芸術ジャンル上で分類される文学、つまり書物の形態をとる文学作品だけを示すわけではありません」ということだったのだ。
今回展示されたのは、現代美術作家たちが何らかのかたちで「文学的要素」を取り入れて制作した作品である。つまり、その解釈の幅はかなり広い。さらに、北島敬三、小林エリカ、ミヤギフトシ、田村友一郎、豊嶋康子、山城知佳子という出品作家の顔ぶれを見ると、1950年代生まれから80年代生まれまでが含まれており、写真、映像、オブジェ、パフォーマンス、インスタレーションなど、ジャンルも多岐にわたる。かなりバラついた展示になる恐れもあったが、実際には互いの作品がうまく絡み合って、すっきりとした、緊張感のある展示空間が構築されていた。
全体的に写真・映像作品の比率が高い展示になったのも興味深い。「EASTERN EUROPE 1983-1984」、「USSR 1991」、「UNTITLED RECORDS」という3つの写真シリーズを出品している北島敬三はもちろんだが、ほかの出品作家も豊嶋康子を除いては、写真か映像、あるいはその両方を使っている。おそらく写真という具体性と象徴性をあわせ持つ媒体の喚起力が、「文学的要素」を取り込むのに向いているのだろう。個人的には、山城知佳子の映像作品《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)が面白かった。沖縄の現実をオペラや琉歌やロックに乗せて歌い上げる、活気あふれるショート・ムービーである。
2019/08/28(水)(飯沢耕太郎)
川島小鳥写真展「まだなまえがないものがすき」
会期:2019/07/20~2019/09/09
キヤノンギャラリーS[東京都]
写真展を観た誰もが「Instagramみたい」と思ったのではないだろうか。例えば、壁一面に撒き散らすように展示した中に、アイスクリームパフェやケーキの商品見本のケースを、大きく引き伸ばした写真がある。そのいかにもおいしそうな写真には、「いいね!」がたくさんつきそうだ。猫や女の子や花火の写真も、Instagramにアップされていてもおかしくない。僕はInstagramの写真の特徴は、既視感と肯定感だと思うのだが、それはまさに川島小鳥の写真からあふれ出る感情とも合致している。
とはいえ、Instagramと写真展では写真の見せ方が違ってくる。一点一点が切り離されて、バラバラに目に飛び込んでくるInstagramと違って、写真展では大きさの違う複数の写真が絡み合い、より複雑で広がりのある視覚的経験を伝達することができる。しかも今回の展示では、写真だけでなく谷川俊太郎の詩の言葉がそれに加わる。写真と写真の合間に、谷川の詩の一節が埋め込まれているのだ。以前『おやすみ神たち』(ナナロク社、2014)を共著で出していることからもわかるように、川島の写真と谷川の詩は相性がいい。今回もそのコンビネーションがとてもうまくいっていた。
ただ、谷川がこれまで書いてきた詩のなかには、既視感や肯定感だけにおさまらないものもたくさんある。「本当の事を言おうか/詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」(「鳥羽1」1965)、「私はいつも満腹して生きてきて/今もげっぷしている/私はせめて憎しみに価いしたい」(「鳥羽3」同年)。川島には、こんな背筋が寒くなるような詩に対応する感情も、掬い上げることができるようになってほしいものだ。
2019/08/24(土)(飯沢耕太郎)
山内道雄「LONDON」
会期:2019/08/09~2019/08/31
Zen Foto Gallery[東京都]
Zen Foto Galleryでの個展にあわせて刊行された同名の写真集の「後記」に、山内道雄がギャラリーのオーナーのマーク・ピアソンから「ロンドンの写真がない」と言われたと書いている。たしかに、ロンドンを撮影した現代写真はあまり見たことがない気がする。ロンドンはあまりにも「人工的で成熟した都市」であり過ぎて、写真家たちの写欲をそそらないのではないだろうか。
そう考えると、わずか3カ月あまりの滞在で、これだけ多様な、しかもクオリティの高い写真を撮影できた、山内のスナップシューターとしての底力に驚かされる。午前中は宿に近いキングス・クロス駅近くを、午後からは中心部のピカデリー・サーカスやテムズ川周辺を、そして夕方にはオックスフォード・ストリートというコースを、ほぼ毎日行き来して撮影した写真をまとめたシリーズだが、そこには確実に2010年代後半のロンドンの空気感が写り込んでいる。
機材をデジタルカメラに変えてから、山内の撮影のスタイルはより軽やかなものになった。それでも、いきなり目に飛び込んでくるような「ヤバい」写真がたくさんある。滞在途中で盗難にあったこともあって、本人は質、量ともにやや物足りないと思っているようだ。だが、展示にも写真集にも、路上スナップの王道とでもいうべき活気と熱量を感じる。山内は1950年生まれだから、もう70歳近いのだが、健脚はまだまだ衰えていないようだ。
2019/08/23(金)(飯沢耕太郎)
長島有里枝×竹村京 まえ と いま
会期:2019/07/13~2019/09/01
群馬県立近代美術館[群馬県]
長島有里枝の祖父母は群馬県高崎市の出身で、彼女も幼い頃から市内の親戚の家などをよく訪ねていたという。東京出身の長島にとって、高崎は第二の故郷だったということだ。そんな縁もあって、高崎の群馬県立現代美術館で、刺繍を作品に使う当地在住のアーティスト、竹村京との二人展が実現した。
長島は、祖母が撮影した庭の花の写真をモチーフに、滞在していたスイスで撮影した「SWISS」、祖母が買い揃えた衣服が、姪に「おさがり」として受け継がれる状況に目を向けた「Hand Me DOWN」、18歳から現在まで群馬県で撮った写真を集成した「Home Sweet Home」、祖母が遺した押し花用のドライフラワーをフォトグラムの技法で再生した「past,perfect,progressive/ 過去完了進行形」などのシリーズを、細やかな手つきでインスタレーションし、祖父母と高崎の記憶を再構築している。それらは竹村が制作し続けている、日常のモノや写真と刺繍された布とのコンビネーションの試みと、とてもうまく対応しており、二人のアーティストの作品世界が滑らかに接続していた。このところの長島の写真を使うアーティストとしての表現力は格段に上がってきており、どんな枠組にも対応できるようになってきている。今回は日本人のアーティストとの二人展だったが、もし機会があれば海外作家とのコラボレーションも考えられそうだ。
ちょうど夏休み中の企画だったということもあって、アーティストトークや小学生を対象とするワークショップも開催された。さまざまな観客に向けて広く開かれた、風通しのいい展覧会だ。
2019/08/20(火)(飯沢耕太郎)