artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

梶井照陰「DIVE TO BANGLADESH」

会期:2019/06/14~2019/08/04

Kanzan Gallery[東京都]

「DIVE TO BANGLADESH」というタイトルは、とても的確に写真展の内容を伝えている。梶井照陰は、2013年にダッカ郊外シャバール地区の縫製工場(ラナプラザ)で起きた大規模崩落事故の取材をきっかけにして、バングラデシュの現実に「飛び込んで」いった。

そこは、想像を超えた混沌と矛盾に満ちた場所だった。ラナプラザは世界中の有名アパレル・ブランドの下請工場だったのだが、そこで働く若者たちは、スラム街で、経済的にはぎりぎりの暮らしを強いられている。梶井は駅の構内や路上で暮らす人々、ヒジュラ(トランスジェンダー)のコミュニティ、炭坑夫などにもカメラを向け、彼らが生きる場所へと降りていこうとした。まずは先入観抜きで撮影し、写真を通じて認識を深め、誠実に彼らと関係を作り上げていこうとする梶井の姿勢は一貫しており、現代の日本人にとっては遠い世界であるはずのバングラデシュの現実が、強い手触り感を保って伝わってきた。

梶井は真言宗の僧侶として佐渡島に暮らしながら、2007年から全国各地の限界集落を撮影して写真集『限界集落──Marginal Village』(フォイル、2008)を刊行し、中国のハルビンも長期取材して『HARBIN 2009-2012』(フォイル、2012)にまとめている。そのような点と点をつないでいくような写真家としての活動が、今や面としての広がりと厚みを持ち始めている。異色のドキュメンタリー写真家として、ユニークな視点を確立しつつある彼の、今後の仕事にも注目していきたい。なお、展覧会にあわせてリトルモアから同名の写真集が刊行されている。

2019/06/27(木)(飯沢耕太郎)

矢作隆一展 Boundary──目には見えない境界線──

会期:2019/06/17~2019/06/29

巷房[東京都]

メキシコ・ベラクルス大学で教鞭を執りながら、石彫を中心に作家活動を展開している矢作隆一は、東日本大震災以降に福島県浪江町、富岡町を訪れて作品を制作するようになった。今回、東京・銀座の巷房の、3階および地下の3つのスペースで展示された作品も、震災と、それにともなって発生した福島第一原子力発電所の大事故が中心的なテーマになっている。

3階の巷房・1には、2018年3月11日に発行された『福島民報』と『福島民友新聞』の新聞紙を折って作った、5000個の小さな舟がインスタレーションとして展示されていた。壁には富岡町で撮影した復興後の新造住宅と、浪江町の人影のない商店街の写真が掲げられている。地下の階段下のスペースには、やはり3月11日の『福島民報』で作った折り鶴を鳥籠に入れたインスタレーションが、巷房・2には「浪江町中浜から双葉海水浴場を臨む」とキャプションに記された写真(遠くに小さく福島第一原子力発電所が写っている)と、彼のトレードマークともいえる「模石」のシリーズが並ぶ。「模石」というのは、拾ってきた石とそっくりに模倣した石を彫り上げるもので、今回は、日本全国17カ所の原子力発電所の周辺の石を、メキシコで唯一の原子力発電所であるラグナベルデ原子力発電所近くで拾った石で「模石」していた。

矢作の制作意図は、どの作品でも的確かつ明確であり、技術的な完成度も高い。特に注目したのは写真の活かし方で、特定の時間、場所を定着した画像が、インスタレーションと組み合わされることで、より普遍的な意味を持つものとなっていた。東日本大震災をテーマにした作品制作は今後も続いていくが、「模石」のシリーズには、さらに広がりのある歴史的、地理的な要素を加えていく予定だという。今後の展開が楽しみだ。

2019/06/23(日)(飯沢耕太郎)

FUJIFILM SQUARE 企画写真展 11人の写真家の物語。新たな時代、令和へ 「平成・東京・スナップLOVE」 Heisei - Tokyo - Snap Shot Love

会期:2019/06/21~2019/07/10

FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)[東京都]

ややベタなタイトルだが、とても活気のある面白い内容の展覧会だった。出品作家は有元伸也、ERIC、大西正、大西みつぐ、オカダキサラ、尾仲浩二、中野正貴、中藤毅彦、ハービー・山口、原美樹子、元田敬三の11名。彼らが平成時代に撮影したそれぞれの代表作が、壁にぎっしりと並んでいる。

平成時代の30年間は、彼らのような「ストリート・スナップ」の撮り手にとっては苦難の時代だった。「肖像権」、「個人情報」といった言葉が一人歩きして、路上で自由に撮影することがむずかしくなってきたからだ。だが展示された作品を見ると、あらかじめ先入見なしに街を徘徊し、目に飛び込んでくるモノ、人、出来事に向けてシャッターを切っていく行為が、今なお充分に魅力的なことがよくわかる。一見フラットに均質化しつつあるように見える都市の路上にも、次に起こるかわからない未知の可能性が秘められている。それを定着していくのに、スナップショットという方法論以外は思いつかない。

出品作家の年齢を見ると、1950年生まれのハービー・山口が最年長で、有元伸也以下1950〜70年代前半生まれの写真家たちが並ぶ。70年代後半以降に生まれたのはERIC(1976年生まれ)、オカダキサラ(1988年生まれ)の2名のみである。こうしてみると、若い世代がやや手薄なのが気になる。そのことにも、スナップショットを撮りにくくなったというSNS時代の空気感が反映しているのではないだろうか。あと何年か後に「令和・東京・スナップLOVE」展が開催可能になるくらいの、撮り手の厚みを保ち続けていってほしいものだ。

2019/06/23(日)(飯沢耕太郎)

生誕120年 山沢栄子 私の現代

会期:2019/05/25~2019/07/28

西宮市大谷記念美術館[兵庫県]

1931年に大阪で写真スタジオを開業した山沢栄子(1899〜1995)は、日本の女性写真家の草分けのひとりである。戦後も、関西を拠点にユニークな作家活動を展開した。だが、日本の写真表現の歴史において極めて重要な作家であるにもかかわらず、作品(プリント)があまり残っていないこともあって、これまで大規模な展覧会は開催されてこなかった。今回の西宮市大谷記念美術館での展示は、赤々舎から刊行されたカタログを兼ねた同名の作品集も含めて、その空白を埋める好企画である。

展示は4部構成で、1階の第1部には、1970〜80年代に制作されたカラーおよびモノクロームの抽象作品「私の現代/What I am doing」の28点が並ぶ。さまざまな材料の物質性を活かしつつ、力強く画面を構成していく同シリーズには、最後の大作にチャレンジしようとする意欲がみなぎっている。2階の第2部には、1962年に未來社から刊行された写真集『遠近』におさめられた作品が展示されていた。ネガやプリントがほとんど残っていないため、写真集のページをそのまま額装しているが、精度の高いグラビア印刷なので、充分鑑賞に堪える。山沢は1926年に渡米し、美術学校で油絵を学びながら女性写真家のコンスエロ・カナガの助手となって写真技術を身につけ、1929年に帰国。1955年にカナガの招きで再渡米し、半年ほどニューヨークに滞在した。『遠近』には、このときに撮影した「ニューヨーク6ヵ月の目」をはじめとして、ポートレート、風景、静物などの代表作、さらに後年の抽象表現につながる実験作などが収録されている。山沢の表現力がピークに達した時期の、多彩で充実した内容の作品群である。第3部は、山沢がカナガを通じて間接的に影響を受けたアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・ウェストン、彼女が師事した商業写真家ニコラス・マーレイら、アメリカの近代写真家たちの作品による「山沢栄子とアメリカ」のパートである。展覧会は、さらに戦前・戦後の彼女の歩みを写真と資料で再構成した第4部「『写真家』山沢栄子」で締めくくられていた。

約140点の作品展示は、山沢の写真家としての活動を過不足なく浮かび上がらせており、とてもよく練り上げられている。東京の写真家たちと比較すると、関西在住の写真家たちへのアプローチはやや手薄になりがちだ。今後もより細やかな調査・発掘が必要になるだろう。なお、本展は2019年11月12日〜20年1月26日に東京都写真美術館に巡回する。東京での反響も楽しみだ。

2019/06/20(木)(飯沢耕太郎)

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小野山琴実「叫ぶように、祈るような」

会期:2019/06/15~2019/06/22

VACUUM GALLERY[大阪府]

小野山琴実は1993年、滋賀県生まれ。2015年にビジュアルアーツ専門学校大阪の写真学科を卒業し、同校の助手を務めていたが、今年からフリーの写真家として活動し始めた。『Better Half』(2016)、『光彩を放つ黒』(同年)、『光の痕』(2018)と、ZINE(小冊子の写真集)を3冊ほど出したことはあるが、本格的な個展としては、今回のVACUUM GALLERYでの展示が初めてになる。

壁に撒き散らすように直貼りされた、大小65点の写真群の中心となっているのは、同年代の女性たちのヌードである。単純な構成の写真はほとんどなく、体にペインティングしたり、画像を投影したり、さまざまな色味の光を当てたりして、彼女たちに内在するエロス(生命力)を引き出そうとしている。それらが日常の光景や、ヌード以外の演劇的なシチュエーションの場面と混じり合い、絡み合って、何とも混沌とした眺めを出現させる。写真の相互の組み合わせが、必ずしもうまくいっているとは思えないし、作者の意図も明確には伝わってこない。にもかかわらず、そこにはまさに「叫ぶように、祈るような」思いで撮影しているという、切実な感情があふれ出ている。若い世代の、どちらかといえば小綺麗にまとまった写真を見慣れた目には、それがとても新鮮に映った。

とはいえ、このまま続けていっても、混沌とした状態を保ったまま、テンションが下がっていくだけだろう。次に必要なのは、もう少し冷静に、自分にとって何が最も大切なテーマなのかを見極めていくことではないだろうか。小野山の写真の中には、バタイユの『眼球譚』を思わせる「眼」のイメージがよく出てくる。そのあたりを、キー・イメージとして育て上げていってもいいかもしれない。

2019/06/19(水)(飯沢耕太郎)