artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

上田義彦「68th Street 光の記憶」

会期:2018/04/21~2018/05/20

916[東京都]

上田義彦が2012年から運営してきた写真ギャラリーの916は、4月15日に6年間にわたる活動を停止する予定だった。ところが、彼が昨年ニューヨークで撮影・制作した新作「68TH STREET」の出版が決まり、916 Pressからハードカバーの写真集が刊行されたので、急遽本展が企画・開催されることになった。結果的には、とてもよい選択だったと思う。というのは、展示された作品が、まさにこのギャラリーの締めくくりにふさわしいものだったからだ。

上田が被写体に選んだのは「白い紙」である。68丁目の「小さなアパートの部屋」には、晴れた日の夕方になると北側の窓から光が差し込んでくる。3時間余り、少しずつ向きを変え、やがて消えていく光が「白い紙」の上につくり上げるパターンを、上田は倦むことなく撮影し、その夜には印画紙にプリントしていった。それはまさに上田にとって、写真家としての原点を確認する行為であるとともに、写真史的にも上田自身が強い影響を受けた写真のモダニズムへの回帰でもあった。ちょうど100年ほど前、同じニューヨークで、アルフレッド・スティーグリッツやポール・ストランドが、写真表現の本質を探求するために、あらゆる装飾的な要素を剥ぎ取ったミニマリズム的な志向性を持つ、モダン・フォトグラフィの作品を制作し始めていたのだ。

とはいえ、今回の展示ではあまりそのような概念的な枠組にとらわれることなく、丸めたり重ね合わせたりした紙によって産み出される64個の光と影のパターン、その千変万化する様相を、眼で追いつつ楽しめばいいのではないだろうか。写真を撮ること、見ることの歓びがたっぷり詰まった本展は、モダニズム美学の純粋性を体現する場所にふさわしい、ホワイト・キューブの916の空間の記憶とともに、長く語り継がれるものになっていくだろう。

2018/05/08(火)(飯沢耕太郎)

岡本太郎の写真──採集と思考のはざまに

会期:2018/04/28~2018/07/01

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

あらためて、岡本太郎はいい写真家だと思う。『芸術新潮』(1996年5月号)の「特集:さよなら、岡本太郎」に掲載された「カメラマン岡本太郎、奮戦す!」の写真群に震撼させられて以来、川崎市岡本太郎美術館での展覧会、次々に刊行される写真集など、写真家・岡本太郎の写真の仕事については、なんとなくわかったつもりになっていた。だが、「日本発見 岡本太郎と戦後写真」展(川崎市岡本太郎美術館、2001)をキュレーションした楠本亜紀のバックアップを得て実現した、今回の「岡本太郎の写真──採集と思考のはざまに」展を見ると、彼の写真の世界がさらにスケールアップして立ち上がってくるように感じる。

その驚きと感動をもたらしたのは、本展の構成によるところが大きい。これまでのような「芸術風土記」「東北」「沖縄」といった発表媒体や地域ごとのくくりではなく、岡本太郎の写真群をもう一度見直すことで「1. 道具/どうぐ(縄文土器、道具、手仕事、生活)、2. 街/まち(道、市場、都市、屋根)、3. 境界/さかい(階段、門、水、木、石、祭り)、4. 人/ひと(人形、動物、こども、人、集い)」という4章、18パートによる写真の「壁」が設置された。この展示構成がとても効果的に働いていて、彼の写真家としての目の付けどころ、視線の動き、予知の方向性がくっきりと浮かび上がってくる。特に注目すべきなのは「3.境界/さかい(階段、門、水、木、石、祭り)」のパートで、そこには優れた人類学者でもあった岡本の精神世界と物質世界とを行き来する「採集と思考」のプロセスが見事に形をとっていた。

残念ながら、岡本の生前のプリントはほとんど残っていないのだが、今回はオリンパス光学工業が主催した「ペンすなっぷ めい作」展の第4回~第10回展(1963~1970)に出品された10点の作品も見ることができた。それらを撮影したハーフサイズ(72枚撮り)のオリンパス・ペンは、彼が愛用するカメラのひとつである。この機動力のあるカメラと彼の写真のダイナミックな画面構成との関係についても、今後のテーマとして考えられそうだ。

2018/05/06(日)(飯沢耕太郎)

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後藤元洋「竹輪之木乃伊御開帳」

会期:2018/05/03~2018/05/06

アートスタジオDungeon[東京都]

伝説の「ちくわ」が帰ってきた。後藤元洋は1989年に東京・目黒のPAX Galleryで「焼きちくわ」と題する個展を開催した。裸になった後藤本人が、「ちくわ」を口にくわえたり、体に挟んだりする姿を撮影したパフォーマンス・フォトである。それ以来、「ちくわ」は彼のセルフポートレート作品のトレードマークとなる。1993年には「御神体」として、「ちくわ」を乾燥させた「竹輪乃木乃伊」を制作し、以後5年ごとに「御開帳」と題する展覧会+パフォーマンスを開催してきた。後藤自身の還暦祝いも兼ねて、東京・板橋のアートスタジオDungeonで開催された今回の「御開帳」で、通算6回目になるという。

地下室の展示スペースには、「ちくわ」シリーズをはじめとする1980年代以来の写真作品が展示されていた。新作のカラー作品でも、裸で行水するなど、相変わらず体を張ったパフォーマンスを展開している。「御神体」の「竹輪乃木乃伊」は別室に鎮座しており、その様子を遠隔操作のカメラで確認することができる。それとは別に神棚のような場所がしつらえてあって、「竹輪大明神」のお札を売っていた。いまさら、後藤に「ちくわ」とはなんなのかと問いかけても無駄なことだろう。だが、このナンセンスの極みというべきオブジェが出現することで、現代美術、パフォーマンス、インスタレーションといった概念的な枠組が脱臼し、がらがらと崩壊するように感じるのがじつに痛快だ。

それにしても、後藤元洋という写真家・パフォーマーに対する評価はもっと上がってもいいのではないだろうか。サイモン・ベーカーのキュレーションで2016年にテート・モダンで開催された「Performing for the Camera」展には、草間彌生、細江英公、深瀬昌久、森村泰昌、TOKYO RUMANDOといった日本人作家のパフォーマンス・フォトが出品されていた。後藤の「ちくわ」シリーズも、そこに加わっていいと思う。

2018/05/05(日)(飯沢耕太郎)

小林マコト「東京鋭角地」

会期:2018/04/25~2018/05/01

銀座ニコンサロン[東京都]

面白い目のつけどころの作品だった。1953年、長野県松本市生まれで、東京在住の小林マコトが撮影し続けているのは、「鋭角地」に建つビルである。「鋭角地」という言葉が小林の造語かどうかは知らないが、じつに的を射たネーミングだと思う。日本の都市の土地事情によって、二股に分かれた道と道の間の細長い空間に建てられた横幅のない建築物は、どこにでも目にすることができる。だが、小林に言わせれば、「東京の場合は地価が高いためか、その角のギリギリまで使って建物を造るケースが他の地域より多い」のだという。展覧会場には、それらを撮影した写真、62点が並んでいた。

小林の撮影・プリントのスタイルは、実直で衒いがないもので、デジタル一眼レフカメラに21ミリのレンズを装着し、あくまでもシャープなピントで、きっちりと建物の細部まで撮影し、真四角にトリミングして展示している。壁ごとにレイアウトを変え、大小の写真を飽きずに見させる工夫も破綻がない。また、会場には全部で600カ所以上におよぶという撮影場所を、赤丸で表示した地図も掲げられていて、それを見ると「鋭角地の建物」が山手通り、環状7号線、中央線沿線などに集中しているのがわかる。つまり、それらの建物の分布が、そのまま東京という空間の特質、構造を指し示しているということだ。

今回の展示はとてもうまくいっていたと思うが、撮り方や被写体の幅が、やや狭すぎるようにも思う。より広がりのある「写真による都市論」に発展していきそうなテーマなので、もっと多様な視点、方法論で撮影していく必要があるのではないだろうか。なお展覧会にあわせてPlace Mから同名の写真集が刊行された。本展は会期終了後、大阪ニコンサロン(5月31日~6月6日)に巡回する。

2018/04/30(月)(飯沢耕太郎)

梁丞佑「人」

会期:2018/04/16~2018/06/10

写大ギャラリー[東京都]

昨年「新宿迷子」で第36回土門拳賞を受賞した梁丞佑(ヤン・スンウー)は、1996年に韓国から来日し、2000~06年に東京工芸大学芸術学部写真学科、および同大学大学院で学んだ。今回、母校の写大ギャラリーで開催された個展には、在学中に同大学の在校生、卒業生(卒業後12年以内)を対象とするフォックス・タルボット賞を受賞した「無国籍地帯」(1998~2000)と、その後撮り続けてきた「人」(2002~2017)のシリーズから、計69点が出品されていた。

新宿・歌舞伎町界隈にカメラを向けた「無国籍地帯」、横浜のドヤ街、寿町の住人たちを粘り強く撮影した「人」の両方とも、いまや古風とすら言える直球勝負の路上スナップ写真である。モノクロームへのこだわりも徹底している。だが、けっして古臭い感じがしないのは、梁の眼差しが人や街の生命力の根源に真っ直ぐに向けられ、その本質をしっかりと掴み取っているからだろう。傷、空洞、ささくれが目につく光景を写し取っていくアプローチにまったく迷いがないことが、写真から気持ちよく伝わってくる。

香港出身のERICもそうなのだが、アジア出身で、日本で活動する写真家たちのほうが、日本社会の光と闇を丸ごと鷲づかみにするような作風を身につけているのは驚くべきことだ。だが逆に日本の写真家たちのなかにも、これくらいの厚みと強度のある路上スナップの撮り手があらわれてきてほしいものだ。

2018/04/30(月)(飯沢耕太郎)

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