artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

佐藤麻優子「生きる女」

会期:2018/03/24~2018/03/25

VACANT[東京都]

1993年生まれの佐藤麻優子は、最も若い世代の写真家のひとりである。2016年に第14回写真1_WALL展でグランプリに選ばれ、2017年に個展「ようかいよくまみれ」を開催した。その時の作品は、主に同性の友人たちをフィルムカメラで撮影したスナップショットで、どこか閉塞感の漂う時代の空気感が、まさに身も蓋もない画像であっけらかんと定着されていた。

今回のVACANTの展示では、カメラを中判カメラに替えることで画像の精度を高め、アイランプによるライティングも積極的に使うことによって、意欲的に表現世界を拡大しようとしている。チラシに寄せた文章に「性差が曖昧にもなり、しかし相変わらずはっきりともしている現代で、女性性として生きている人がどんなことを考えているのかどんな姿をしているのか、見たくて知りたくて、写真にして話を聞きました」と書いているが、これまでの被写体の範囲を超えた女優や、イラストレーターなどの他者も「生きる女」として取り込むことで、同時代のドキュメンタリーとしての強度がかなり高まってきている。

ただし、写真作品としての完成度が上がることは、彼女にとって諸刃の剣という側面もありそうだ。以前の写真は、技術的に「下手」であることが、逆にプラスに作用していたところがあった。ぎこちなく、不器用なアプローチが、逆に現代社会を覆い尽くす妖怪じみた「よくまみれ」の状況を、ヴィヴィッドに浮かび上がらせていたのだ。だがどんな写真家でも、写真を撮り続けていくうちに、「巧く」なってしまうことは避けられないだろう。今回のシリーズのようなテンションを保ちつつ、あの魅力的な何ものかを呼び込む「隙間」を失くさないようにしていってほしいものだ。

2018/03/25(日)(飯沢耕太郎)

森山大道「Ango」

会期:2018/03/21~2018/04/22

POETIC SCAPE[東京都]

町口覚のブックデザインでBookshop Mから刊行されている「日本の写真×日本の近現代文学」のシリーズも5冊目になる。太宰治、寺山修司、織田作之助のテキストと森山大道の写真という組み合わせが続いて、坂口安吾+野村佐紀子の『Sakiko Nomura: Ango』を間に挟み、今回の『Daido Moriyama: Ango』に至る。坂口安吾といえば、なんといっても「桜の森の満開の下」ということで、1972年に発表した「櫻花」など、桜というテーマとは縁が深い森山とのコラボは、季節的にも時宜を得たものと言える。

町口覚のブックデザインは、テキストと写真との関係のバランスを取るのではなく、むしろ互いに挑発し、触発しあうようなスリリングなものに変えてしまうところに特色がある。今回もその例に漏れないのだが、柿島貴志が担当したPOETIC SCAPEの展示構成も、写真集をそのまま踏襲するのではなく、さらに増幅させているように感じた。22点の展示作品は、デジタル・データからのラムダ・プリントがベースなのだが、その大きさを微妙に変え、黒枠のマットで黒縁のフレームに入れて、壁に撒き散らすように展示している。「漆黒の桜」という今回の写真のコンセプトに即した、黒っぽい焼きのプリントを、深みを保ちながらも重苦しくなく展示するための、細やかな配慮が感じられた。

森山大道にとっての桜の意味は、1970年代と近作では違ってきているはずだ。それでも、あのひたひたと皮膚に纏わりついてくるような感触に変わりはない。展示作品からは外されていたが、写真集には、森山のデビュー作である胎児を撮影した「無言劇(パントマイム)」シリーズのなかから1点だけ収録されていた。桜と胎児のイメージは、森山自身の初源的な記憶の領域で結びつき、溶け合って出現してくるのかもしれない。

2018/03/23(金)(飯沢耕太郎)

写真都市展 ─ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち─

会期:2018/02/23~2018/06/10

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

ウィリアム・クラインが1950~60年代に刊行した『ニューヨーク』、『ローマ』、『モスクワ』、『東京』のいわゆる「都市4部作」は、世界中の写真家たちに大きな衝撃を与えた。影響力という意味において、それらを上回る写真集は、それ以前もそれ以後もなかったのではないだろうか。都市の路上をベースとするスナップショットが、人間と社会との関係をあぶり出し、現代文明に対して批判的な視点を提示できることを教えてくれただけでなく、その斬新な「アレ・ブレ・ボケ」の画面処理においても、まさに現代写真の起点となったのである。

伊藤俊治が企画・構成した本展のクラインのパートを見ると、その衝撃力がいまなお充分に保たれていることがわかる。特に今回は、壁と床をフルに使った18面マルチスクリーンによるスライドショーという展示のアイデアが、効果的に働いていた。クラインの写真が本来備えているグラフィカルな要素は、デジタル的な画像処理ととても相性がいい。彼の作品に対する新たな解釈の試みと言えるだろう。

だが、本展の第二部にあたる「22世紀を生きる写真家たち」のパートは、どうも釈然としない。石川直樹+森永泰弘、勝又公仁彦、沈昭良、須藤絢乃、多和田有希、西野壮平、朴ミナ、藤原聡志、水島貴大、安田佐智種という出品者たちが、どういう基準で選ばれているのか、クラインの仕事とどんなつながりを持っているのかがまったくわからないからだ。クオリティの高い作品が多いが、それらが乱反射しているだけで焦点を結ばない。例えば、安田佐智種の東日本大震災の被災地の地面を撮影した「福島プロジェクト」など、その文脈が抜け落ちてしまうことで視覚効果のみが強調されてしまう。キュレーションの脆弱さが目についたのが残念だった。

2018/03/15(木)(飯沢耕太郎)

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原田裕規「心霊写真/ニュージャージー」

会期:2018/03/09~2018/04/08

Kanzan Gallery[東京都]

原田裕規の「心霊写真/ニュージャージー」展は2つのパートから成る。「心霊写真編」では、テーブルの上に、清掃・リサイクル業者が回収したものだという数千枚に及ぶスナップ写真やネガの束が雑然と積み上がっていた。さらに、そこから「心霊写真」というコンセプトで選ばれて、「ひけらかす」ようにフレーミングされた写真が、壁に掛けられている。ほかに、「スマートフォンのネガポジ反転機能を用いることによって、現実と虚構が反転」するようにセットされた画像、「黄ばみ」を人工的に吹きつけたフェイク写真、「どちら側から見ても『裏側』の写真」なども展示されていた。

一方「ニュージャージー編」は、原田自身がアメリカ・ニュージャージー州で撮影した写真をわざわざ古くさくプリントし、「自ら発見したもの found-photo」と見なして展示している。そこに作者の気持ちを想像して書いた「通信」を添えることで、「架空の作者」を立ち上げるという試みである。

このところ、無名の作者による「ヴァナキュラー写真」や偶然発見した「ファウンド・フォト」をアートの文脈で再構築するという作品をよく目にする。手法のみが上滑りする場合も多いのだが、原田はコンセプトをきちんと吟味し、手を抜かずに作品化しているので、細部までよく練り上げられた展示として成立していた。不可視の対象が写り込む「心霊写真」は写真の鬼子というべき領域であり、やり方次第では従来の写真表現、鑑賞のプロセスを文字通り「裏返す」ことが期待できそうだ。手法をより洗練させて、可視化と不可視化を往復するようなプロセスを、さらに徹底して追求していってほしいものだ。

2018/03/15(木)(飯沢耕太郎)

宇佐美雅浩「Mandala-la in Cyprus」

会期:2018/02/21~2018/03/24

Mizuma Art Gallery[東京都]

2015年にMizuma Art Galleryで開催された個展で、はじめて「Manda-la」シリーズを展示して衝撃を与えた宇佐美雅浩が、さらにヴァージョン・アップした展覧会を開催した。今回、彼が1年余りの時間をかけて撮影したのは、地中海のキプロス島である。ギリシャ正教徒であるギリシャ系キプロス人と、イスラム教徒であるトルコ系キプロス人とが、緩衝地帯(グリーンライン)を挟んで同居するキプロス島は、ある意味、現代社会の縮図ともいえる場所だ。宇佐美は、その複雑で緊張感を孕んだ島の歴史を踏まえて、住人たちをある場所に活人画のように配置し、パフォーマンスを演じさせて撮影するという手法で作品を制作した。

例えば、大作の「マンダラ・イン・キプロス」(2017)では、画面の中央にドラム缶を並べて「グリーンライン」を表現し、黒と白の同じ衣装を身につけ、それぞれの祈りのポーズをとるギリシャ正教徒とイスラム教徒たちに、その両側に並んでもらった。画面の手前には少女たちがいて、彼女たちと花で作られたキプロスの地図に、迷彩服姿の兵士たちが銃を向けている。そんな入り組んだ構図の写真を、デジタル合成ではなく4×5インチサイズの大判カメラで「一発撮り」していくというのだから驚くしかない。一つひとつの作品に傾注されたエネルギーを考えると、気が遠くなるような作業である。それを現在も政治・軍事情勢が不安定なキプロス島で、通訳を介しながらやり遂げたことには大きな意義があると思う。

どちらかといえば、政治的なテーマが敬遠されがちな日本の写真・現代美術の世界で、このような作品をつくり続けることの難しさは、痛いほどよくわかる。しかも、宇佐美の作品は単なる絵解きで終わることなく、視覚的なエンターテインメントとしての強度もしっかりと保ち続けている。そこに彼のアーティストとしての真骨頂があるのではないだろうか。

2018/03/13(火)(飯沢耕太郎)