artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
須田一政『日常の断片』
発行所:青幻舎
発行日:2018/04/13
「日常の断片」は須田一政が1983年から84年にかけて『日本カメラ』に5回にわたって不定期連載したシリーズである。それまで、35ミリフィルムによるカラー作品は発表したことがあったが、中判カメラを使って本格的にカラー写真に取り組んだのはこのシリーズが初めてだった。須田といえば、1976年に日本写真協会新人賞を受賞した代表作の「風姿花伝」のように、ぬめりを帯びたモノクローム作品を思い浮かべることが多いので、当時かなりの衝撃を受けたことを思い出す。
あらためて写真集として刊行された「日常の断片」を見ると、街中の“色”に反応する彼のアンテナが、モノクロームとはやや異なった指向性を持っているのではないかと感じる。被写体そのものはモノクロームとほとんど変わりないのだが、「日常」という得体の知れない怪物の生々しい存在感が、よりヴィヴィッドに、あたかも色つきの悪夢のように見る者に迫ってくるのだ。そこに写っているヒトやモノや出来事は、普段のタナトス的なあり方ではなく、むしろエロスを強烈に発散しているように思える。それを象徴するのが、彼が執拗にカメラを向けている赤い色の被写体ではないだろうか。
今回の写真集には、「日常の断片」だけでなく、1993~95年に制作・発表されたポラロイド作品(カラー)もおさめられている。「光の挑発」、「Elegy」、「NORMAL LIFE」、「SPOT」の4作品だが、そのうち「SPOT」だけが、ほかの作品とは「少々趣を異にしている」のだという。須田は、1980年代の半ばに「三面記事にひっそりと載せられるような事件」に興味を抱き、それらの記事をスクラップしていた。「SPOT」は、その「事件現場」に出かけて、「ポラロイドのピンホール」で撮影した写真群だ。それらを見ていると、次第に背筋が寒くなってくる。「事件現場」に残滓のように漂う禍々しい気配が、ぼんやりとした画像からじわじわと滲み出てくるように感じるのだ。
2018/04/29(日)(飯沢耕太郎)
清里フォトアートミュージアム収蔵作品展 原点を、永遠に。─2018─
会期:2018/03/24~2018/05/13
東京都写真美術館[東京都]
1995年に山梨県清里に開館した清里フォトアートミュージアム(K★MoPA )は、これまでさまざまな活動を展開してきたが、特に35歳以下の若手写真家たちを対象に、公募で写真作品を収集する「ヤング・ポートフォリオ」は注目すべき企画である。今回の「収蔵作品展」では、海外および日本の著名な写真家たち66人が、35歳以前に撮影した作品に加えて、「ヤング・ポートフォリオ」のなかから29人の作品が選ばれて展示されていた。
全部で95人、409点という大規模展は、前期と後期に分けられている。前期の「歴史篇」は「1886~2016年の作品を撮影年代順に展示」したものだが、後期の「作家篇」は「作家名をほぼアルファベット順に展示」するという、よりラジカルな構成になっていた。つまり、展示の最初のパートで言えば、ベレニス・アボット、アンセル・アダムス、マヌエル・アルバレス・ブラボ、G.M.B.アカシュ、荒木経惟、有元伸也という具合に作品が並ぶ。このような、時代も、出身国も、作風もまったくバラバラな作品を、ごった煮状態で見せることは、一見混乱を招くように思える。だが、実際に展示を見ると、逆に隣り合った写真が乱反射して目に飛び込んでくることが、スリリングで刺激的な視覚的経験を呼び起こすことにつながっていた。
こうしてみると「ヤング・ポートフォリオ」にはじつに多彩な作品が選ばれていて、それ自体が現代写真のショーウィンドーとしての役割を果たしていることがわかる。ポーランド、ギリシャ、ロシア、中国、韓国、バングラデシュなど、写真家たちの国籍を見ているだけでも、多様な表現が花開いている。日本の写真家に限っても、本城直季、北野謙、亀山亮、林典子、東京るまん℃、下薗詠子など、次世代の写真家たちを育てるのに、大きな役目を果たしてきた。「35歳以下」という応募条件が、これから先も有効性を持つかどうかはやや疑問だが、続けていってほしい企画である。
2018/04/22(日)(飯沢耕太郎)
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2018
会期:2018/04/14~2018/05/13
京都新聞ビル印刷工場跡ほか[京都府]
「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」が6回目を迎え、今年も、京都市内で多彩な展覧会、イベントなどが展開された。
この写真フェスティバルの特徴のひとつは、寺院、町家、倉など、京都特有の環境を活かしたインスタレーション的な展示に力を入れていることだが、今年は新たに2つの会場が加わった。グローバリズムや富裕層の物質主義を批判的にドキュメントしたアメリカの女性写真家、ローレン・グリーンフィールドの「GENERATION WEALTH」展は、京都新聞ビルの地下1階の印刷工場跡で開催された。かつて輪転機などが置かれていた、インクの匂いが微かに漂うかなり広いスペースを使った大規模展だが、廃屋化した部屋と派手なカラープリントの取り合わせが見事にはまって、強烈なインパクトを与える展示になっていた。また、丹波口の京都中央市場内の旧貯氷庫の建物(三三九)でも、ギデオン・メンデルの「Drowning World」展が開催された。洪水に襲われた人々の行動を追った映像を、マルチスクリーンで見せる展示だが、やはりやや特異な空間によって、視覚的な効果が増幅されていた。
だが、今回の企画展示の目玉といえるのは、帯製造・販売の老舗である誉田屋(こんだや)源兵衛 竹院の間で開催された深瀬昌久「遊戯」展だろう。2012年に亡くなった深瀬の回顧展は、諸事情により国内ではなかなか開催できなかった。今回、深瀬昌久アーカイブスのトモ・コスガと、テート・モダン写真部門のキュレーター、サイモン・ベーカーがキュレーションした250点に及ぶという展示は、その意味で画期的なものといえる。しかもそのなかには、深瀬が再起不能の重傷を負った事故の直前に開催された「私景’92」(銀座ニコンサロン)に展示された「ブクブク」、「ベロベロ」、「ヒビ」といったシリーズや、「烏」シリーズの最終ヴァージョンとなる、手札判の印画紙にプリントした写真にサインペンでドローイングした連作など、ほとんど未発表だった作品が多数含まれている。深瀬の自己探求の凄みをあらためて感じるとともに、もっと規模の大きい、本格的な回顧展を見てみたいと強く思った。
「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」のもうひとつの呼び物というべき、サテライト展示の「KG+」も、今年は70以上に増えている。とても全部回るわけにはいかなかったが、見ることができたなかでは、山谷佑介の「The doors」(ギャラリー山谷)のパフォーマンスが出色の出来映えだった。山谷が叩くドラムの振動に合わせて、彼の周囲に設置した数台のカメラのストロボが発光し、シャッターが切られる。さらにカメラはプリンターに接続していて、その場で写真がプリントされて床に散らばっていく。スリリングなセルフポートレートの出現の現場を、目の当たりにすることができた。
会場があまりにも広範囲で、とても一日では回りきれないこと。チラシの情報や地図の表記がわかりにくいこと。「UP」という今回のテーマが、ほとんど浸透していないので、展示やイベントの設定に統一感がないことなど、いくつか気になる点はあった。だが、これだけの規模と内容の企画を、毎年質を落とさず継続できていることだけでも、賞賛に値するのではないだろうか。
2018/04/15(日)(飯沢耕太郎)
ライアン・マッギンレー「MY NY」
会期:2018/04/06~2018/05/19
小山登美夫ギャラリー[東京都]
ライアン・マッギンレーは2003年に、25歳でニューヨークのホイットニー美術館で個展「The Kids Are All Right」を開催した。その伝説的な展覧会が、2017年にデンバー現代美術館で再現され、同名の写真集がSkira Rizzoli Publicationsから刊行された。今回の小山登美夫ギャラリーでの展示は、そのなかから約10点を選んで再構成したものである。あわせて、彼が当時使っていたポラロイドカメラや、ヤシカのコンパクトカメラも展示してあった。
ニュージャージーからニューヨークに出てきた1996年以来、マッギンレーは「身近なボヘミアン的な環境」で出会った人物たち`を、取り憑かれたように撮影し続けていた。一晩でフィルム20~40ロールを撮ることもあったという。そんな撮ることの歓びと恍惚、逆にそのことがオブセッションとなっていくことへの不安や苦痛とが、この時期の彼の写真には両方とも刻みつけられている。
マッギンレーは、ホイットニー美術館の個展の大成功で一躍アート界の寵児となり、その後コンスタントに力作、意欲作を発表していった。だが、「The Kids Are All Right」に脈打っている切迫した感情は、それ以後の作品では次第に失われていったように見える。今回展示された、血と精液の匂いがするスナップ写真やポートレート(セルフポートレートを含む)を、脱色して小綺麗にすることで、写真の世界を生き延びていったわけだ。それを頭ごなしに否定する必要はないだろう。だが、今回展示された作品を見ると、別な選択肢もあったのではないかとも思ってしまう。
2018/04/11(水)(飯沢耕太郎)
ミリアム・カーン「photographs」
会期:2018/03/10~2018/05/12
ワコウ・ワークス・オブ・アート[東京都]
ミリアム・カーンは1949年、スイス・バーゼル出身の女性アーティスト。ユダヤ系の出自や、フェミニズムをバックグラウンドにしながら、外界と内面世界の狭間で形をとる幻想的なドローイングで知られている。WAKO WORKS OF ARTでの展示は3回目で、2012年の個展のタイトルは「私のユダヤ人、原子爆弾、そしてさまざまな作品」で、前回2016年のタイトルは「rennen müssen 走らなければ」だった。
カーンは1979~80年頃から「自分のアーカイブ」として自作を写真で撮影するようになった。その後、1990年代にスイスの山中のブレガリアで暮らすようになると、身近な環境や、ハイキングの途中で出会った景色を「ローライの小さなカメラ」で撮影し始めた。近年はデジタルカメラを使って、「チープなプリンター」で出力したりすることもある。今回の展示には、そうやって撮影・プリントされた写真が単独で、あるいはドローイングと組み合わされて並んでいた。また、画像を連続的にモニターで上映するインスタレーションもあった。
ドローイングと比較すると、カーンの「photographs」は、軽やかな「思いつき」の産物に見える。プリントのクオリティにはあまりこだわらず、写真を自由に並べることで、イメージ相互の響きあいを楽しんでいる。写真にさらに色鉛筆で加筆した作品もある。まだドローイングと写真との関係性が突き詰められているわけではないが、ユニークな作品世界に成長していきそうな予感を覚えた。この方向を極めていけば、ゲルハルト・リヒターやサイ・トゥンブリーのように、「写真家」としても高い評価を得るようになるのではないだろうか。
2018/04/11(水)(飯沢耕太郎)