artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

初沢亜利『東京二〇二〇、二〇二一。』

発行所:徳間書店

発行日:2021年12月31日

2022年に入って、オミクロン変異株による新型コロナウィルス感染者の増加は止まらないものの、2020年から続くパンデミックにも、おぼろげに「終わり」が見えてきたようだ。それに伴い、コロナ禍の状況を写真家がどのように捉えてきたのかを、あらためて検証する動きも出てきた。だが、たとえば東日本大震災などと比較しても、「コロナ時代」を写真で提示することのむずかしさを感じる。ウィルスの脅威を可視化しにくいということだけでなく、マスク姿の群衆や人気のない街といったステロタイプに陥りがちになるからだ。また、2年以上もパンデミックが続いていることで、非日常が日常化し、逆にくっきりとした像を結びにくくなってきているということもある。

初沢亜利も、その困難な課題を引き受けようとしている写真家のひとりだ。既に2020年8月に、1回目の緊急事態宣言下の東京を撮影した写真集『東京、コロナ禍』(柏書房)を上梓しているが、今回、その後の状況の変化をフォローし、衆議院選挙やオリンピック開催の周辺にまでカメラを向けた『東京二〇二〇、二〇二一。』をまとめた。前作もそうだったのだが、本書の掲載写真のベースになっているのは、日々、SNSにアップしていた写真群だという。つまり「写真日記」という体裁なのだが、内向きにステイホームの様子を撮った写真を並べるのではなく(そういう写真はほぼない)、視線が常に外に向いていることに注目したい。

驚くべき行動力で東京中を駆け巡り、横浜に戻ってきたダイヤモンド・プリンセス号、人影のまばらな全国戦没者追悼式、マスク姿で埋め尽くされた初詣の明治神宮、オリンピック反対のデモ、選挙応援演説を終えて虚ろな眼差しを向ける安倍前首相の姿などを丹念に記録していく。とはいえ、全体としてみれば、ジャーナリスティックな題材の写真を点在させつつ、コロナ禍の東京の日常の空気感を炙り出すようなスナップショットを中心に構成しており、その絶妙なバランス感覚が、初沢のドキュメントの真骨頂といえるだろう。

あとがきにあたる「東京の自画像」と題する文章で「撮影者も読者も共に過ごしたコロナ禍だ。前提の共有という点は、これまでにはない本作の特徴だ」と書いているが、たしかに東北地方の被災地、北朝鮮、沖縄など、これまで彼が撮影してきたテーマとはやや異なるアプローチが見られる。日本だけでなく、世界中を巻き込んだパンデミックという共通体験を、どのように受けとめ、投げ返していくのかを手探りで模索する仕事の、最初の成果ともいえるだろう。

2022/01/16(日)(飯沢耕太郎)

横田大輔「Room/Untitled」

会期:2022/01/11~2022/02/06

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

『アサヒカメラ』、『日本カメラ』の休刊以後、日本の写真表現の現在形をフォローする定期刊行物は、ほぼなくなってしまった。その意味で、ふげん社から2022年1月に創刊された『写真(Sha Shin)』への期待は大きい。年2冊のペースで刊行される予定の同誌の創刊号では「東京 TOKYO」と題する特集が組まれている。その巻頭に30ページにわたり新作「Room/Untitled」を掲載した横田大輔の同名の個展が、「創刊記念展」としてふげん社のギャラリースペースで開催された。

今回の展示は、これまでの横田の写真展をずっと見てきた観客にとっては、やや意外な印象を与えるだろう。いつものノイジーな、プリントの物質性を強調したインスタレーションは影を潜め、白枠のフレームにきっちりとおさめられた作品が並んでいる。静謐かつ、端正な写真のたたずまいは、それらが渋谷や立川のラブホテルで撮影されたとはとても思えないほどだ。

だが今回の展示作品は、見かけ以上に横田大輔という写真家のあり方を、自ら問い直し、次の課題を提示するプロブレマティックな仕事になっているのではないだろうか。批評性、構築性は、以前よりむしろ高まっており、見る者の深層意識を掻き乱す毒をたっぷりと含み込んでいる。いわば、横田大輔の「第二期」が、ここから始まるのではないかという印象を受けた。なお、同ギャラリーの2階スペースでは、『写真』創刊号の「東京 TOKYO」特集の掲載作家である北島敬三、金村修、山谷祐介、小松浩子、細倉真弓、森山大道のプリントが展示された。今後、新しい号が出るたびに、掲載作家の展覧会を開催していく予定という。次号(2022年7月発売予定)以降の展示も楽しみだ。

2022/01/16(日)(飯沢耕太郎)

須藤絢乃「VITA MACHINICALIS」

会期:2022/01/07~2022/01/30

MEM[東京都]

須藤絢乃は行方不明になった少女たちに扮した「幻影 Gespenster」(2013)の頃から、実在する人物というよりは、まさに幻影じみた存在に化身したセルフポートレートを発表するようになった。今回、MEMで展示された「VITA MACHINICALIS」は、2018年にキヤノンギャラリーSで開催された澤田知子との二人展「SELF/OTHERS」の延長上にある作品で、「生身の人間をアンドロイドのように」撮影している。発想の元になったのは、2018年頃に人の気配が消えた深夜の都心で感じた「不気味さ」だったようだが、現代と近未来、現実と仮想現実のあわいに立ちつくす「アンドロイド」の姿には、彼女なりの人間観が込められており、動かしがたいリアリティがあった。そっくりだが、微妙に異なる二人の人物のイメージが頻出するのだが、そこには幼い頃に見たダイアン・アーバスの写真集の表紙の双子の記憶が投影されているようだ。以前よりも、画面構成の強度が増してきており、写真作家としてのキャリアを順調に伸ばしてきていることがうかがえた。

なお、MEMの階下のNADiff Galleryでは、「Anima/Animus」展が同時期に開催されていた(同名の私家版写真集も刊行)。こちらは、2015年に亡くなった画家、金子國義の私邸が、2019年に取り壊されるまで、何度か通い詰め、金子の絵の中に登場するモデルたちに扮して撮影したシリーズである。このシリーズからも、作風の幅の広がりと、表現者としての自信の深まりが感じられた。

2022/01/13(木)(飯沢耕太郎)

片山真理「leave-taking」

会期:2021/12/04~2022/02/19

Akio Nagasawa Gallery Ginza[東京都]

片山真理は2015年から2017年にかけて、「shadow puppet」「bystander」「on the way home」の「三部作」を制作した。この時期は、東京から群馬県太田へと制作の拠点を移し、アトリエを持ち、第一子を出産するという大きな転換期と重なり、内外での展覧会や出版も含めて、心身ともにフルに回転していた。それから5年余りが過ぎた今回のAkio Nagasawa Gallery での展示では、新たな第一歩を踏み出す意欲にあふれる新作「leave-taking」を見ることができた。

新作の舞台になっているのは、まさに彼女の創作活動の源泉となっているアトリエの空間である。そこには自作の手縫いのオブジェ、ペインティング、コラージュ作品などが雑然と置かれており、片山はその部屋に「マネキンのように自分を配置」してシャッターを切る。本シリーズでは、あえて長時間露光を用いることで、片山の身体はブレて消えかかり、むしろその周囲のオブジェ群が、ほのかな微光を発して存在感を増してきているように見える。何物かを生み育てる子宮のようなその空間に包み込まれていることの安らぎが、作品を見るわれわれにもしっかりと伝わってきた。



片山真理「leave-taking」展出品作品より[提供:AKIO NAGASAWA Gallery]


だが、この居心地のいい場所から、外に出ていかなければならない時期も来るだろう。片山の作品世界は、いまや日本だけでなく、欧米やアジア諸国でも注目を集めつつある。今回の展示は、いわば次作への助走に当たるもののように見える。次の作品は、ひとまわりスケール感を増したものになるのではないかという期待が膨らんだ。なお、展覧会に合わせて、「三部作」をまとめなおした写真集『Mother River Homing』が、Akio Nagasawa Publishingから刊行されている。

2022/01/12(水)(飯沢耕太郎)

植田正治を変奏する RESEARCH/TRIBUTE

会期:2021/11/29~2022/01/29

写大ギャラリー[東京都]

植田正治の写真の仕事は、ほかにあまり類を見ないユニークなものだと思う。山陰の鳥取県に在って、ローカリティに根ざした風物を撮影し続けながら、その写真の世界はむしろグローバルに開かれていて、海外の評価も高い。題材、手法とも驚くほど多種多様で、写真の旨みをこれほど深く味わわせてくれる作家はあまりいないだろう。とはいえ、決して「上手い写真家」という範疇におさまることなく、写真作品を本格的に撮影し始めた1920年代から晩年に至るまで、常に新たな領域にチャレンジし続けていった。

今回の展覧会は、三男の植田亨氏所蔵のヴィンテージ・プリントと、東京工芸大学写真学科教授の田中仁のコレクションを中心に構成されている。「中学5年(昭和5年)カメラ雑誌の表紙で囲ってフォト・モンタージュ風に撮った。手にはピコレットを」と記された初期の実験作から、1983-1993年の「砂丘モード」の連作まで、会場に並ぶ65点の作品を見ると、ひとりの写真家の模索と探究の道筋が浮かび上がってくるように感じる。田中仁が展覧会に寄せた文章で植田のことを「研究熱心な写真家」と書いているが、単純な「研究」というよりは何かに取り憑かれているという印象が強い。今回の展示には、ヴィンテージとモダン・プリントが混在しているのだが、熟考を積み重ね、トリミングや焼きをかなり変更している様子が見てとれる。写真は彼にとって、汲み尽くしきれない表現意欲の源だったのではないだろうか。

今回の展覧会の白眉は、もしかするとギャラリーの外のスペースを使った「植田正治が遺したもの」のパートかもしれない。2021年に、田中仁が植田正治の生家を訪ねて撮影した遺品の写真が、壁にびっしりと並んでいた。手紙、色紙、原稿、アルバム写真、コンタクトシートなどに加えて、カメラ、暗室用品、蔵書などを撮影した写真もある。圧巻は、植田が生前に描いたドローイングやスケッチ類の複写で、画家としての才能も並々ならないことがうかがえた。不世出の写真家の作品世界を、さらに深く読み解いていくためのヒントがたくさん隠れているようで、とても心躍る眺めだった。

2022/01/08(土)(飯沢耕太郎)

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