artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Penelope Skinner『Angry Alan』

会期:2019/03/05~2019/03/30

SOHO THEATRE[ロンドン]

Angry white male(怒れる白人男性)という言葉がある。差別され抑圧されてきた女性や非白人による権利回復のための運動に対して異議を唱える男性を指す言葉で、逆ギレする男たち、というニュアンスで使われる。whiteという単語が含まれてはいるものの、このような現象はもちろん欧米に限られたものではない。

Angry Alanはこのangry white maleを主題としたひとり芝居。作・演出のPenelope Skinnerは1978年生まれのイギリスの劇作家で、本作は2018年にエディンバラ・フェスティバルのフリンジに参加しFringe First Awardを獲得した後、現在も各地で上演が行なわれている。

Donald Sage Mackay演じるロジャーは人生のあらゆることが「うまくいっていない」。妻とは別れ息子とも疎遠。仕事も好きではなく、いまのガールフレンドはあろうことかフェミニズムに目覚めつつある。そんな折、ロジャーはAngry Alanなるサイトとその運営者と出会い、「男性の権利」を主張する思想に傾倒していく。

作中に登場する「男性の権利」運動をめぐる言説(使われているYouTubeなどの素材は実在のものらしい)はまさに「逆ギレ」としか言いようのない代物だが、ロジャー自身はどこか憎めない人物としても描かれている。Angry white maleは単に糾弾の、あるいはブラックな笑いの対象としてあるのではない。思想の偏向は彼を取り巻く寄る辺なさが招いたものだ。巧みに演じられる中年男性の悲哀、笑えない滑稽さに付き合ううち、やがて悲劇的な結末が訪れる。

息子・ジョーから久々に「会って話したい」と言われたロジャーは、あらためて理想の「父と息子」となるべく、ふたりでハイキングに出かける。だがそこでジョーが打ち明けたのは彼が自身を男と自認しておらず、ジェンダーに縛られない生活をしたいと思っているということだった。ロジャーはそれを受け入れられず、ジョーを拒絶し置き去りにしてしまう。そして響き渡る一発の銃声──。

後味の悪い結末だ。自業自得、なのだろうか。あるいは因果応報か。戯曲はここで終わっているのだが、私が見た上演ではこのあとにロジャーが前妻とともにジョーの手術の結果を待つ場面が追加されていた。いずれにせよ、ロジャーは「反省」することになるのだろう。しかしその「反省」をもたらすのが親子の絆というきわめて保守的な価値観である/でしかなかったことに釈然としないものを感じもしたのであった。物語の構造上、ジョーの死はロジャーの「反省」の契機として「利用」されていると言ってよい。ならばジョーは、そのような価値観に二度殺されたことになりはしないだろうか?

公式サイト:https://sohotheatre.com/shows/angry-alan/

2019/03/05(山﨑健太)

中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』

会期:2019/03/02~2019/03/10

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチ・ルーム[東京都]

シアターコモンズ'19では三つの「リーディング・パフォーマンス」が上演された。個々の演出家による演出=セッティングのもと、その回ごとに集った参加者=観客たちで戯曲を読み合わせるという試みだ。私は映画監督・エッセイストの中村佑子演出による『アリス・イン・ベッド』のリーディング・パフォーマンスに参加した。

『アリス・イン・ベッド』は批評家スーザン・ソンタグの戯曲で実在の女性、アリス・ジェイムズをモデルにしている。哲学者ウィリアム・ジェイムズ、小説家ヘンリー・ジェイムズのふたりの兄と同様、アリスもまた才能溢れる人物だったが、若くして精神を病み、その後は長らく病床にあった。戯曲はアリスの日記をもとにした彼女の人生の断片らしき場面と、さまざまな女性、アリスの母、詩人エミリー・ディキンソン、女性活動家マーガレット・フラー、オペラ『パルジファル』の魔女クンドリ、バレエ『ジゼル』の精霊の女王ミルタらが登場する空想的な「ティーパーティー」の場面によって構成されている。

リーディング・パフォーマンスの参加者は座った順に役と場面を指定され、ほぼ全員が何らかの台詞を読み上げることになる。指定は機械的に行なわれるため、「役」と「役者」の性別・年齢は一致せず、また、場面ごとに「役者」が交代するので「役」の一貫性も薄い。

抑圧された女性の声をときに男性が読み上げることになるのも狙いのひとつではあるのだろう。だが、それ以上に興味深かったのは、複数の人間がひとつの戯曲を同時に読むことによって私のなかに複数の異なる声が立ち上がることだった。誰かが読み上げる言葉を自らも同時に「読む」ことによって、そこには戯曲の=「役」の声とそれを読み上げる「役者」の声、そして黙読する「私」の声が同時に存在する。それは例えば「私だったらそのようには読まない」という差異として浮かび上がるだろう。「役者」の交代もまたそこに別の声を加えることになる。

©佐藤駿/シアターコモンズ実行委員会

登場人物の多くは抑圧された女性という点で共通しているが、しかし互いに意見が一致しているわけではない。ときに共感を示しつつ、彼女たちの言葉はほとんど独り言のようにすれ違い続ける。それは「抑圧された女性」としてカテゴライズされ、個人が再び抑圧されることへの抵抗のようでもある。

戯曲という共有地=コモンズの上に差異を浮かび上がらせること。手法が主題を鮮やかに切り出す中村演出の『アリス・イン・ベッド』は、シアターコモンズの名を冠するにふさわしい新たな取り組みとなっていた。

©佐藤駿/シアターコモンズ実行委員会

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/

2019/03/02(山﨑健太)

DANCE PJ REVO『STUMP PUMP』

会期:2019/02/23~2019/02/24

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

NPO法人DANCE BOXが今年度より新たに開始した「アソシエイト・アーティスト/カンパニー制度」。ダンサーやカンパニーと3年間にわたって協働し、作品づくりを継続的にサポートする事業である。アソシエイト・カンパニー枠では公募を行ない、田村興一郎が主宰するDANCE PJ REVOが選出された。

客入れの段階で既に、男女7名のダンサーが行き交いながら個々の身振りを立ち上げようとしている。動きの萌芽を探ろうとするような、身体をほぐそうとするような、何かを地面から持ち上げるような身振りが、雑踏のざわめきのように現われては消えていく。ノコギリで木を切るようなノイズと、黒ずくめの服装に黒手袋といういで立ちが、肉体労働の現場のような印象を与える。



[撮影:岩本順平]

前半は、ノコギリの音とトラックの走行音が響き続けるなか、彼らは淡々と、「何かを持ち上げる」「運ぶ」「上へ上へと積み上げる」という動作に従事し続ける。だが彼らのいる世界は秩序の建設と同時に崩壊の力に支配されており、作業を遂行中の彼らは突然空気を抜かれた風船のように、力なく床に倒れこむ。横たわった身体に、別の仲間が手を差し伸べると、見えない磁力に引っ張られるように、手が直接触れることなく、倒れた身体が起き上がる。あるいは、倒れた身体は、丸太を転がすように、足の裏でゴロゴロと転がして運ばれていく。モノに働きかける身体と、モノのように扱われる身体。機械的な作業にただ従事し続ける自動化された身体と、物体に還元された身体。その両極を行き来し続けるダンサーたちは、全員がユニフォーム的に統一された衣装を着用していることも相まって、男女の性差を消去され、個性を剥奪された匿名的な身体の様相を帯びてくる。

作業に従事するロボット化した身体と、モノ化した身体との両極が際立つのが、中盤だ。バックヤードの扉が開けられ、段ボール箱が続々と舞台上に運び込まれていく。林立するビル群のように、あるいは視界を塞ぐ壁のように、積み上げては次々と組み換えられていく段ボール箱。電池の切れた機械のようにフリーズしたダンサーの頭上にも、段ボール箱は容赦なく積み上げられていく。危ういバランスで積まれた段ボールのタワーが崩れると、呼応するかのようにダンサーの身体も倒れ込む。あるいは、自ら段ボール箱を頭にかぶり、倒れ込んで機能を停止させる者も現われる。スピードの加速がリズムを生み、交通と運動のベクトルが錯綜するほどに、無機的な「作業」が「ダンス」へと接近していく。その様相を眺める楽しさとともに、ここには、巨大な機構の一部と化した身体/建設と(自己)崩壊を繰り返すタワーや壁/耐えきれず自ら機能停止する身体、といった現代社会批判のメタファーも読み込める。



[撮影:岩本順平]

ただ、後半はやや失速した感があった。通常は照明や音響など裏方の作業ブースを「舞台の一部」として用い、螺旋階段の柱を数人で儀式のように叩く、赤い天狗のお面をかぶった者が現われるといったシーンが展開されたが、アイデアの提示段階に留まり、作品全体との有機的な結びつきや説得力が弱いように感じられた。当日パンフレットによれば、新作のリサーチのため、昨年夏の台風災害の被害を受けた京都北部の鞍馬に行き、倒木が線路や民家に倒れた被害状況や撤収・伐木作業を目の当たりにしたという。天狗のお面は「鞍馬」からの発想だろう。

また田村は、「当事者ではないという倫理的な葛藤を抱えつつ、社会問題と結びついたダンス作品を作りたい」「倒れても何度でも立ち上がる、前向きな思い」について当日パンフに書いている。「倒れても何度でも立ち上がる」、それを肉体への負荷として提示した作品として、例えば、昨年11月に上演されたMuDA『立ち上がり続けること』が想起される。私見では、MuDAの場合、「身体的な負荷によって逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がり続ける生命の力強さ」といった物語をあえて排除することで、「身体」が、スポーツ観戦や災害復興に顕著な(資本や国家、共同体の)物語へと回収され、搾取されることに対して「抵抗」を示していた。物語性を排除するか、社会的意味を積極的に付与しようとするか、どちらの態度が良い/悪いというのではない。ただ田村作品の場合、「コンセプト」として書かれた文章(の「正しさ」)と実際の作品から受ける印象との齟齬や、説明がなくても感取される段階にまで身体が追いついているか? という疑問が残った。「アソシエイト・カンパニー制度」はあと2年続く。次回、同じ劇場でより進化した姿を見たい。

関連レビュー

MuDA『立ち上がり続けること』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/02/23(土)(高嶋慈)

ファーミ・ファジール+山下残『GE14』

会期:2019/02/16~2019/02/17(Kosha33)

Kosha33/こまばアゴラ劇場[神奈川県/東京都]

2018年5月9日、マレーシアでは1957年にイギリスから独立して以来初めての政権交代が起きた。そしてアーティストであるファーミ・ファジールは国会議員となった。タイトルはこの第14回総選挙(general election)を指すものだ。本作は振付家・演出家の山下残が友人であるファジールの選挙活動に「オブザーバー」として付き添った日々の記録映像の上映と、ファジール自身による生の政治演説の二つのパートで構成されている。

記録映像は山下の弁士めいた(しかしゆるい)語りとともに上映されるのだが、マレーシアの選挙に関しては部外者の山下の「無責任さ」も手伝って(なにせ盛り上がらない選挙戦に退屈した山下は敵陣に遊びに行きさえするのだ)、観客に野次馬的スタンスで楽しむことを許していたように思う。一方、アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」(日本でも『Baling』『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』などが上演されている)のメンバーでもあるファジールは芸術を通して政治に関わり続け、ついには国会議員となった。この対比はファジールの演説によってより鮮明となる。

©Miki Kanai

横浜公演では映像上映のあと、路上に設置されたテントを囲む「集会」のかたちでファジール(とゲストの灰野敬二)の演説が行なわれた。ファジールの演説の熱とは裏腹に、私がそこで感じたのはある種のうつろさだった。そこにいるのは私の国の政治家ではない。いまここでマレーシアの政治家の演説を聞いている私はなぜ、たとえ選挙期間中であっても日本の政治家の路上演説を聞くことを(おそらく決して)しないのだろうか。

本作に限らずレクチャー・パフォーマンスと呼ばれる作品は史実をはじめ政治的題材を扱っていることが多く、それゆえか(というのもおかしな話だが)つくり手の立ち位置が見えないことがままある。政治的態度を明確にせよということではない。だが内容と同等かそれ以上に、どんな人物がどのようにそれを語っているのかは作品/観客にとって重要なはずだ。そこにこそ「政治」がある。そうでなければ文字情報として「勉強」すればよい(もちろんいずれにせよ発信源は重要なのだが)。山下はマレーシアにおける自らの傍観者的な立ち位置をはっきりと示したうえで、自身の体験した状況そのものを日本に移植してみせる。日本でマレーシアの政治家の演説に耳を傾ける観客ははたして何者か。

(こまばアゴラ劇場での東京公演では演説→映像上映と順序が変更されていた。劇場内での演説では後半は担えないという判断だったのではないかと推測するが、背景が十分にわからない状態であの演説を聞く観客はなかなかしんどかったのではないだろうか。作品全体の導入として初当選を果たしたマック赤坂をめぐるやりとりなどがあり(統一地方選直後の上演だったのだ)、それはそれで彼我の差を意識させるには効果的だったが、それでも残念ながら私には横浜での上演ほどクリティカルなものとしては響かなかった。)

©前澤秀登

横浜公演(TPAM2019):https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=ge14
東京公演(こまばアゴラ劇場):http://www.komaba-agora.com/play/7967

2019/02/17[横浜]/2019/04/28[東京](山﨑健太)

TPAM2019 ファーミ・ファジール+山下残『GE14』、ファイブ・アーツ・センター『仮構の歴史』、イルワン・アーメット『暴力の星座』

会期:2019/02/16~2019/02/17

Kosha33ほか[神奈川県]

横浜のTPAMは、大学の業務が忙しい2月中旬に開催されるため、毎年なかなか鑑賞できないのだが、今年は最終日のみ、なんとか時間をとることができた。プログラムは、東南アジアのレクチャー・パフォーマンス的な演目を3つだったが、いずれも現代の政治、社会、歴史を扱うかなりヘヴィなテーマである。

ファーミ・ファジール+山下残の『GE14』は、マレーシアで60年変わらなかった与党が変わる歴史的な瞬間に立候補し、勝利したパフォーマーのドキュメント映像にあわせて、弁士が語る後、今度は舞台を路上に移し、本人が演説する。マハティールの野党としての現役復帰にも驚いたが、選挙がもつべき民衆の熱量を羨ましく思う。

同じくマレーシアのファイブ・アーツ・センターによる『仮構の歴史(仮題、ワーク・イン・プログレス)』は、政権交代に伴い、新しい歴史教科書が2020年に発行することを踏まえ、歴史から消されていたマラヤ共産党の非合法活動を掘り起こす試みだった。その過程で激しい批判にさらされたファーミ・レザらが、白か黒かに陥る政権の歴史のあり方を問う。

そしてイルワン・アーメットの『暴力の星座』は、『アクト・オブ・キリング』や『ルック・オブ・サイレンス』のドキュメント映画で知られるようになった9月30日事件後のインドネシアにおける大量虐殺(=共産主義者の排除)が題材である。倉沢愛子がこの事件を経た日本とインドネシアの関係について問題提起した後、アーメットが登場して、いまも続く暴力について考察し、スペクタクル的なエンディングを迎える。

どれをとっても、いまの日本の状況を考えれば、じつはまったくよそ事ではないと思わせるラインナップだ。ただ残念ながら、アートが政治性をもつことは当然という雰囲気が日本にない。それどころか美術でも音楽でも、そうした表現をにじませるだけで「〜に政治を持ち込むな」というふうに炎上が起きている。

2019/02/17(日)(五十嵐太郎)