artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
福留麻里×村社祐太朗『塒出』

会期:2018/09/28~2018/09/30
STスポット[神奈川県]
新聞家を主宰する演劇作家の村社祐太朗とダンサーの福留麻里との共同作業の2作目。
開場すると村社が観客から参加希望者を募ってオリジナル盆踊りのレクチャーを始める。開演して初めてわかることだが、その振付は本編で福留が踊るのと同じものだ。村社いわく、本作では盆踊りのような人と場のあり方を目指したのだという。
村社は発話のたびにテキストの一つひとつのフレーズの意味とつながりを厳密に(そして改めて)取ることを俳優に要求する。結果として俳優の発話はゆっくりとした、ときにたどたどしいものになりがちで、対峙する観客もまた、辛抱強く言葉と向き合うような態度を要請されることになる。極度の集中はおのずと体のあり方にも影響を与え、新聞家の近作では俳優はごくわずかな身動きしかしないようになっていた。
ところが、本作では福留が踊りながら発話する。「俳優」たる福留にもそうだろうが、動きの有無は観客のあり方に大きな差をもたらす。もともと、村社のテキストは相当に集中しないと耳だけで内容を理解することが難しい複雑さを持っていて、その複雑さこそが魅力でもある。いつもと同じように言葉に集中しようとするのだが、当然、福留の動きも目に入る。語られるのは踊りの稽古の風景のようで、ならば福留の動きも「意味」を持つのだろうかなどと考えてしまった時点で私はテキストの行方を見失っている。そうでなくとも私の体は繰り返される「盆踊り」の振付とリズムに自然と反応してしまう(開演前のレクチャーの影響もあるだろう)。注意は分散し、ふとした瞬間に言葉は単なる音として通り過ぎていく。あるいはその瞬間にこそ、言葉は踊りと同等のものとして受け取られている、のだろうか。動きは意味を越えて共有されうる。だがこれらは演劇の側からの思考でしかない。ダンスにとって言葉は、意味はどのような存在としてありえるのか。切り詰められた要素が原理的な問いを改めて突きつける。


[撮影:金子愛帆]
福留麻里:https://marifukutome.tumblr.com/
新聞家:http://sinbunka.com/
2018/09/28(山﨑健太)
ロレーヌ国立バレエ団『トリプルビル』

会期:2018/09/21~2018/09/22
ロームシアター京都[京都府]
ロレーヌ国立バレエ団による『トリプルビル』をロームシアター京都で鑑賞した。横浜におけるKAATの公演は満員だったらしいが、席に空きが目立ったのに驚かされた。もっとも、コンテンポラリーダンスというよりも、バレエ好きの親子が結構いたのは興味深い。音楽はフィリップ・グラス、バッハ、デイヴィッド・チューダー。振付は実験的な新作のほか、フォーサイスの脱構築やポストモダンのカニングハムによるものという歴史的な演目を含む、3作品が並ぶというのに、あまりにもったいない。今年のサマーソニックのトリをつとめたBECKが、がらがらだったことも信じがたい風景だったが。ちなみに、フォーサイスの『STEPTEXT』は、同じ京都のホールで27年ぶりに上演される機会だった。
特に印象に残ったのは、冒頭のベンゴレア&シェニョー振付による新作『DEVOTED』である。ミニマル音楽を背景に、バレエのポワント(爪先立ち)を徹底的に反復することによって、そのジャンルを代表する身体の技術を異化させる。音楽とダンスがいずれも繰り返しを継続し、異様な迫力を帯びるのだが、(おそらく凡ミスもあったが)たぶん意図的に未完成のものを混入させることで、さらに緊張感を強めていた。あまりに全員がポワントを完璧に行なうよりも、ポーズが崩れるかもしれないぎりぎりの状態を一部組み込むことで、まさに目が離せなくなる。そうしたなかで日本人の大石紗基子が、キレキレの高速回転と安定感のある静止を見せることで、びしっと全体を引き締めていた。『STEPTEXT』は、断片的にバッハの音楽を切り刻みながら挿入するために、無音の状態が長く続き、これも緊張感をもたらす。音楽と運動が完全に一致しながら、ずっと流れるのは当たり前のダンスだが、両者をズラしたところにいまなお新鮮な感動を与えてくれる。
2018/09/22(土)(五十嵐太郎)
TalkingKidsHi5『BABY BABY, THIS UNBELIEVABLE LOVE!』

会期:2018/09/14~2018/09/16
The CAVE[神奈川県]
TalkingKidsHi5はダンサー・aokidと彼の呼びかけで集まった俳優・福原冠、ミュージシャン・よだまりえ、タップダンサー・米澤一平、演出家・額田大志のチーム。ひとまずそれぞれにひとつずつ肩書きを付してみたものの、aokidはグラフィック「1_wall」でグランプリを受賞、福原はBlondeLongHair名義でDJとしての活動もしていて、額田はそもそも演出家となる以前からミュージシャンとして人力ミニマルミュージック楽団・東京塩麹を主宰し注目されてきた。よだと米澤もそれぞれ他ジャンルのアーティストとの交流に積極的な活動を展開している。今回のイベントもそんな彼らのオープンさを反映し、複数のジャンルがゆるやかに交流するようなものとなった。
同じくaokidが開催するクロスジャンルなイベントに「どうぶつえん」がある。TalkingKidsHi5がどうぶつえんと大きく異なるのは、パフォーマンスのなかでチーム全員が自らの専門はもちろん、専門外のこともやる点だ。ギターを弾いたりタップを踊ったりするにはそれなりの技術が必要だが、技術はなくとも人は言葉を発し、歌い、手を打ち鳴らし、踊ることができ、その根っこには共通する悦びがある。
ときに失笑を招きつつも全体が(楽しもうと思えば?)楽しめるものになっているのはもちろんチームに各ジャンルのプロフェッショナルがいるおかげだが、専門外のパフォーマンスが含まれているがゆえに必ずしも全体の完成度は高いとは言えない。内輪向けのイベントと受け取られかねない危うさもある。だが、音楽もダンスも同じように楽しむ彼らの姿は、ときにはにかみつつも軽やかで力みがない。ジャンルの間の、演者と観客との間の(あるいはもっとさまざまな?)壁がない世界がありえることのリアライズ。自然であることこそが自然となることを誘いやがて未来を変える。先日発売された東京塩麹の2ndアルバムのタイトルは『You Can Dance』というのだった。


[撮影:ShinichiroIshihara]
TalkingKidsHi5:https://talkingkidshifive.tumblr.com/
どうぶつえん:https://doubutsuenzoo.tumblr.com/
2018/09/16(山﨑健太)
青年団リンク やしゃご『上空に光る』

会期:2018/09/13~2018/09/24
アトリエ春風舎[東京都]
青年団リンク やしゃごは青年団の俳優・伊藤毅が作・演出を務めるユニット。やしゃごとしては今回が初の公演だが、これまでにも伊藤は『きゃんと、すたんどみー、なう。』(2017)などの作品を伊藤企画の名義で発表している。
舞台は東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた岩手県大槌町の民宿。震災後、観光客は減ったが、復興工事業者の利用があるため、経営はなんとか成り立っている。震災で夫が行方不明になり民宿を継いだ女性とその弟妹、彼女たちの義兄、老母の介護をしつつ民宿で働く女性、長期滞在の業者と夫を亡くした海を描き続ける画家、死者と話せるという「風の電話」の話を聞いて東京からやってきた女性二人組、町役場で働く男性、そして被災地を取材する劇作家。立場の異なる人々が交わるうち、それぞれの事情が浮かび上がる。
ナチュラルな口語と多くの人が行き交うセミパブリックな空間での会話を通して登場人物の背景を明らかにしていく劇作は青年団を主宰する平田オリザの手法を正当に受け継いで巧みだ。終盤、彼女たちが抱える「問題」が次から次へドミノ倒しのようにと明らかになっていく。新たなパートナーとの時間を始めようとする長女の葛藤とそれに対する義兄の憤り、飼っていたフェレットを亡くした女性の悲しみ、介護する老母を虐待してしまう女性の苦しみ。わかりあえなさゆえに彼女たちはときに衝突するが、もともとそれらは比較できるものでも、正解があるようなものでもない。
作中に登場する劇作家はときに無神経とも思える態度で彼女たちを取材する一方、彼の抱える事情や思いだけは一切描かれることがない。つくり手の思いがどこにあったとしても他者を代弁することはできないし、観客(そこには取材先の人々も含まれるかもしれない)が何を思うかは観客次第だ。劇作家の描き方は、そのことを受け入れるという作者のささやかな、しかし確固たる決意表明のように思えた。


[撮影:bozzo]
青年団リンク やしゃご:https://itokikaku.jimdo.com/
2018/09/13(山﨑健太)
前田英一『Every day is a new beginning』

会期:2018/09/05~2018/09/07
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
ダンサーと現代音楽家のセッションに加え、本物の物理学者が「出演」し、素粒子物理学の研究が舞台上で同時進行するという、異色の舞台公演。ダムタイプの舞台作品に出演し、パフォーマーとして活動する前田英一が初めて演出を務めた。
舞台奥には、人の背丈を超える高さの巨大な黒板が壁のように設置されている。ふらりと登場した男性(理論物理学者の橋本幸士)が、ブツブツと呟きながら、黒板にチョークで物理の数式やグラフを一心に書きつけていく。「ニュートリノ、重力波、電磁波」といった単語が辛うじて聞き取れ、「宇宙空間で起こった物理現象が地球に到達してどう影響を与えるか」についての壮大な思考実験が繰り広げられているようだ。黒板の両脇には2人の音楽家が配され、ピアノとパーカッション(ヤニック・パジェ)、アコーディオン・シンセ(ryotaro)のライブ演奏とともに、前田を含む4名のダンサーがシンクロした反復的な動作に従事し始める。思考に没頭する物理学者、厳密に振付けられた反復運動を同調させるダンサーたち、電子的に増幅された音を紡ぎ出す音楽家。舞台上には3つのレイヤーが同時進行的に共存する。

[Photo: SAJIK KIM]
とりわけ、同じ舞台空間上に、手前のパフォーミングエリア/奥の思考空間というレイヤーの共存ないし対比をもたらすのは、ダンサーと物理学者、それぞれが従事する行為の質的差異である。直線的な手足の動き、機械的な反復性、そのユニゾンは、これらが「厳密に振付けられた動き」であること、その再現可能性を強調する。一方、巨大な黒板=普段の研究環境に向かう物理学者は、台本として決められた数式をただ反復的に再現するのではなく、今まさにライブで思考中なのであり、再現不可能な、一種の即興的なパフォーマンスに従事しているとも言える。その、目に見えない物理法則や作用についての抽象的思考の痕跡は、情報量が圧縮された数式として可視化され、上書きされては消えていく。一方、ダンサーの身体は、目に見える運動の軌跡を刻一刻と空間のなかに刻んでいく。
「重力」や「引力/斥力」といった力の作用を印象づける小道具も登場する。例えば、暗闇を照らすランプを挟んで相対する2人のダンサーのシンクロした動きは、輝く恒星の周囲を旋回する2つの惑星を思わせる。脚立の上から落とされるボールは、無数の放物線を描いて飛び回る。終盤、湧き上がる雲や波のようにゆっくりと動かされる黒い風船の束は、空気の抵抗や微風のそよぎを伝えるとともに、破局的な終末が訪れた後の静寂のなか、新しい胎動の始まりを告げるようでもある。ライブ演奏の熱気とともに、詩的な連想を誘うイメージが次々と繰り出される舞台だった。

[Photo: SAJIK KIM]
ダンスと物理学という一見異色に思える取り合わせは、小道具を効かせた演出もあり、ダンスが地上の物理法則に抗えないこと、制約のなかにあるからこその自由を浮かび上がらせる。また、単に演出上の目新しさを狙うだけにとどまらず、「振付と即興」をめぐるより根源的な問いへと向かう可能性を秘めているのではないか。本作品は、ダンスにおけるこの問いの追求という点では物足りなさを感じたが、「研究が創造的行為であること」をまさに俎上に上げたという点では成功していた。
2018/09/07(金)(高嶋慈)


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