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パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:「ダンスアーカイヴプロジェクト作品 4都市巡回公演」(神戸公演)

会期:2017/11/18

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

「ダンスアーカイヴプロジェクト」は、日本現代舞踊のアーカイヴ資料の収集整理に加え、次代への継承とさらなる創作の土台の構築も含めたダンスアーカイヴの可能性を探求するプロジェクトである。アーカイヴ資料を駆使してダンス作品の創作や展示を行ない、その今日的価値を提示している。
本公演は、札幌、神戸、埼玉、高知の4都市を巡回するうちの神戸公演。A・Bプログラム計3作品が上演される。Aプログラムの川口隆夫『大野一雄について』は、大野の踊る姿を実際には見たことがないという川口が、大野の代表的な3作品『ラ・アルヘンチーナ頌』『わたしのお母さん』『死海』の映像記録を緻密に分析し、振付を厳密に模倣して再現する作品。2013年の初演後、国内外で再演を繰り返してきた。筆者は2015年の京都公演を実見したが、伝説化したダンスを「いま・ここ」に鮮やかに受肉化しつつ、メタ的な仕掛けを駆使して「大野一雄」の脱神話化を図り、大野一雄という固有の強烈な肉体を離れても、その「振付」の強度の持続は可能かという問いを提示するものだった(詳細は下記の関連レビューをご覧いただきたい)。
Bプログラムでは、岡登志子『手術室より』と大野慶人『花と鳥』が上演される。前者で参照される『手術室』は、日本モダンダンスのパイオニア、江口隆哉と宮操子の初期の代表作。マリー・ヴィグマンに師事していた江口と宮が1933年にドイツで初演し、翌年の帰国公演で当時27歳の大野一雄を感動させた。しかし、この作品について残されているのは、一枚の舞台写真と江口の語った言葉のみ。「再演」がおそらく不可能なこの作品を、江口と宮がヴィグマンから学んだ本質が何だったかを探り、日本人による最初期のモダンダンスを演繹的に再構成する。また、大野慶人『花と鳥』は、コラージュ的な構成の中に、大野慶人の舞踏家としての個人史と大文字の「舞踏」の歴史が交錯するような作品。大野一雄『死海』初演(1985)にあたり土方巽が大野慶人に振り付けた作品、細江英公が監督し、土方と大野慶人が出演した短編映画『へそと原爆』(1960)の上映、大野一雄の『ラ・アルヘンチーナ頌』冒頭のシーンを当時の衣装と音楽を用いた再現、そして大野慶人自身の振付作品で構成される。
プログラム全体を通して、「大野一雄」を一つの軸に、舞台芸術における継承のあり方やアーカイヴの活用の可能性について考える機会となるだろう。

関連レビュー

川口隆夫ソロダンスパフォーマンス『大野一雄について』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/09/30(土)(高嶋慈)

大駱駝艦・天賦典式 創立45周年『擬人』

会期:2017/09/28~2017/10/01

世田谷パブリックシアター[東京都]

大駱駝艦の舞台には、文明論を語るという特徴がある。現代社会のありさまとは何か、そこで人間はどう変容しているのか、そうした問いを大づかみで捉え、客席に投げかける。日本のコンテンポラリーダンスが「日常」に自分の座を据えてきたのと比べると、文明論的な視点はダイナミックに映る。文明を語ることで、まるでハリウッドあるいはネット配信のSF映画のようなエンターテインメントへと接近するのも面白い。舞台の冒頭、2列で横並びになった踊り手たち10人ほどが、顔を観客に向けてしゃがむ。すると、「カクッ、カクッ、カクッ」と小刻みに首を傾ける。時計の秒針のような規則性は、その身体が「作り物(人造人間)」つまり「擬人」であることを示唆する。その規則性が全身におよび、歩く姿もカクカクしている。そこで生じるシンプルな動作の反復は、GIFが作るループのような独特のグルーヴを生み出す。大駱駝艦が得意とする群舞は、こうした「人間に似たロボットの跋扈する世界」を描くのに効果的だ。舞台中央には、KUMA(篠原勝之)制作の樹木が一本立っている。幹はときどき青く光る。生命が機械化した世界の象徴だ。「擬人」たちはガラスケースに陳列されている。両腕に長い金属の義手を着けた女が彼らに合図を送る。すると、彼ら擬人は上半身をむき出しにして回転しながら動き出す。その動作も繰り返されることで、奇妙なグルーヴ感が生まれてくる。麿赤兒は、打ち捨てられたはずのダッチワイフ型の人形に紛れて、樽に入った状態で現れる。怯えたような表情が、麿独特のテンションを引き出す。その後、両手両足を鎖で繋がれたフランケンシュタインみたいな男(村松卓矢)も現れると、ゴジラを彷彿とさせるような大声で吠える。男は、サーカスの支配人?らしき人間(KUMA)に操られている。麿扮する人物もこの人物に囚われるが、最後に、自分の鎖を巻きつけ、形勢が逆転したところで、スクリーンに「つづく」と文字が出て本作は終了。最近映画の世界では二部作形式のものがあるけれど、まさにそうした作りで、翌週上演の後編『超人』に続く。

2017/09/28(木)(木村覚)

ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭

会期:2017/09/09~2017/09/24

旧郷小学校 ほか[京都府]

京都府北部の日本海に面する京丹後市を舞台に、「音」にまつわる表現に焦点を当てた芸術祭。「音」を主軸に、現代美術、音楽、サウンド・アート、ダンスなどの領域を横断して活躍するアーティスト計12名が参加した。2014年に続き2回目となる今回は、ローカル鉄道を舞台としたオープニング・パフォーマンス、廃校舎での展覧会、音を手掛かりに古い町並みを歩くサウンド・ワークショップなど、サイトスペシフィックで多彩なプログラムが展開された。
私が実見したのは、廃校舎を会場とした展覧会「listening, seeing, being there」とクロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」。前者の展覧会では、「音」を聴く体験や周囲の環境を取り込んで成立する作品など、感覚を研ぎ澄ませて味わう繊細な作品が多い。とりわけ、木藤純子の《Sound of Silence “Mの風景”》が秀逸。灯台の内部のようにぐるりと階段が続く部屋に案内され、真っ白い段の途中に一人立つと、部屋の灯りが消される。暗闇に目が慣れてくると、足元の階段が一段、また一段と、闇のなかにぼうっと仄かな光を放ち始める。おそらく蓄光塗料で描かれているのだろう、絡み合う草花のような繊細なイメージが闇に浮かぶ。上昇する階段に促されて視線を上げると、高みの壁にかけられていた白いキャンバスは薄いブルーの光を放ち、屋外からはピチピチという鳥の囀りが聴こえてくる。先ほどまでただの白い壁だった空間が一気に開け、物質性を失い、無限の空あるいは海の透明な青い光へと通じている。肉体が滅び、意識だけになった存在が彼岸へ続く階段を昇ろうとしている……そんな錯覚さえ起こさせるほどの、宗教的で濃密な体験だった。


「古代の丘のあそび 91’ 93’ 96’ 資料展示」会場風景

また、なぜ京丹後の地で「音」の芸術祭なのかという疑問に答えるのが、アーカイブ・プロジェクトの一つ、「古代の丘のあそび 91’ 93’ 96’ 資料展示」。90年代に3回開催された芸術祭「古代の丘のあそび」では、国内外のアーティストが丹後に集い、地域の人々の協力を得て交流した様子が、記録映像や各種資料によって提示された。丹後は、日本のサウンド・アーティストの草分けである鈴木昭男が、日本標準時子午線 東経135度のポイントで耳を澄ますサウンド・プロジェクト「日向ぼっこの空間」を1988年に行なった場所であり、以後、30年に渡る鈴木の活動拠点となってきた。クロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」では、豪商の元邸宅でのダンスパフォーマンスに始まり、海に面したロケーションで、鈴木がガラスチューブで自作した楽器を即興演奏した。刻々と暮れてゆく空の表情と相まって、忘れられない時間となった。


クロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」

公式サイト:http://www.artcamptango.jp/

2017/09/24(日)(高嶋慈)

福留麻里『抽象的に目を閉じる』

会期:2017/10/27~2017/10/28

cumono gallery[京都府]

ダンスを踊る体は、踊りの祝祭性に熱くなって、非日常へと飛んでしまい、我を忘れがちだ。けれども福留麻里の体は、舞台に立っていながら、目を瞑り、耳をすまし、目をすます。彼女の体につられて、観客のぼくも耳をすまし、目をすましてしまう。踊る体は現実を生きている。その体は、踊っている時間以外にも生きている。福留は観客に、録音した言葉で囁きかける。自分はどこに暮らしているのか、住まいから5分ほどで着く川までの道がどんなであるか、そこから3時間かけて首くくり栲象の庭劇場まで自転車で訪ねたこと、首を吊るパフォーマンスの後、首くくり氏から食事を振舞ってもらったことなどを、福留は声にする。声はいまここにないものを舞台に召喚する。その声と踊る身体とが二つ、舞台に並び立っていて、決して重なることはないけれども、反り返ったままでもなく、響き合う。踊りはそうして現実から乖離せずに、でも、ダンスの独特な抽象性を保ったまま、舞台を満たす。福留のダンスは相変わらずとびきりで、素早く時間をちぎってはすぐに貼り付ける。それは、剣術の使いが、刀を抜いたかと思ったら、もう既に仕事は終わっていた、みたいなことだ。カワサギがいると思ったら消え、消えたと思ったら魚を仕留め飛び去ってしまった、みたいなことだ。具体的には、ある運動のベクトルが推し進められている最中で、別の運動が唐突に差し込まれるといったもので、その目くらましが引き起こす眩暈に、ぼくは何よりダンスを感じる。環境に高感度で応答しながら、ダンサーの身体は内的な対話にも忙しい。けれども、それが濁っていなくて、澄んでいて、美しい。そんなダンスなのだった。

2017/09/23(土)(木村覚)

身体0ベース運用法「0 GYM」

会期:2017/09/02~2017/10/15

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

「身体0ベース運用法」とは、染色作家の安藤隆一郎によって考案された、ものづくりの観点から出発した身体運用法の名称。安藤の染色作品は、細い線描で描かれた有機的で流体的な形態が、柔らかい色彩のグラデーションで染められた繊細な印象を与えるもので、身体トレーニングとの関連性は最初は意外だった。だが、例えば染色のハケを往復させる腕の動きを素振りのように繰り返し、滑らかに動かせるように練習するなど、身体と一体化した技術への関心が以前からあったという。また、安藤は、スポーツに加え、ブラジリアン柔術や合気道を習っており、鍛えられたダンサーのような体格だ。
本展で提示された「身体0ベース運用法」の基本トレーニングは、「物編」「場所編」「リズム編」の3つに分かれる。いずれも、歩く、座る、走るといった誰もが日常的に行なっている身体運動に、「物の運搬」「地面の凹凸」「リズムの意識」といった契機や負荷を与えることで、バランスの不安定さや重心の移動、皮膚感覚の活性化が生まれ、機械が何でも代行してくれる日常生活の中で希薄化した身体への意識を回復させることを狙いとしている。例えば「物編」では、背負子をしょって歩く、長い木の棒を片手に持って走る。「場所編」では、地面を裸足で歩き、複雑な凹凸や柔軟の違いといった情報を足裏の皮膚感覚で掴む。「リズム編」では、田植え歌や機械労働以前の労働歌のように、反復的な作業を効率良く行なうための気持ちの良い「リズム」を探し、リズムの違いによる身体運動の変化を観察する。こうした実践は、安藤自身がさまざまな場所で行なった記録映像とともに、背負子や木の棒の実物、模擬的なトレーニングフィールドも仮設され、観客が実際に体験することもできる。また、展示室の一室はスタジオとして使用され、「パーソナルトレーニング」に参加した美術作家たちが、トレーニングを行ないながら作品の公開制作を行なっている。
身体意識の活性化を通した「身体づくり」を基盤とする安藤のこうした実践は、既存の美術教育現場への優れた批評でもある。特に美術大学の教育では、「コンセプト」の洗練や「素材」「技法」の習得が重視される一方で、素材を実際に扱う身体の運用や意識の仕方については等閑視されがちだからだ。さらに、「身体0ベース運用法」の思想と実践は、あらゆる人間の活動のベースとなる「身体」を基盤に置く点で、美術に限らず、医療や介護、ダンス、運動科学などさまざまな分野と通底する可能性を持っている。

身体0ベース運用法「0 GYM」 Shintai 0 Base Uny h : 0 Gym from Gallery @KCUA on Vimeo.

2017/09/23(土)(高嶋慈)

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